科学技術と実存リスクについて
On Science and Technology and Existential Risk

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人類の実存リスクについて

複雑性の時限爆弾

科学との付き合い方と関連して、不思議とあまり語られることがありませんが、現代社会の高度な技術化、巨大化、複雑化が原理的に抱える脆弱性とその崩壊シナリオは現実のものであり、警鐘を鳴らしている著名な研究者も少なくありません。(経済不況や巨大地震については語られることがありますが、)この話題は、科学の意義や価値を語る上で避けて通ることはできないと強く感じています。なぜなら、科学が人類の存亡にも関わる悲惨な大惨事を招く可能性がない、または、あるとしてもその可能性が高くないと考える説得力のある理由や根拠を見つけることができないからです。

最も大きな不満は、科学がもたらす危険性が、ほとんどの場合、還元主義的、工学的な方向から定量化の容易な部分にしか着目されていないことです。福島原発のメルトダウンが100万分の1のリスクであると工学的に試算されていたことは、常に思い出す価値のある教訓です。

参考記事複雑性の時限爆弾 システムが制御不能になるとき

~さらに不安定な複雑なシステムは、たとえ誰もが十分な情報を得て、十分な訓練を受け、高度な技術を使い、最善の意図を持っていたとしても、遅かれ早かれ制御不能に陥るということもわかった。そして最後に、強い内部相互作用や高度な連結性を持つ複雑な動的システムは不安定になる傾向があることを学んだ。相互依存が高まる世界は、無数のグローバルなつながりによって特徴づけられており、その潜在的な影響を議論する必要がある。つまり、人類は誤って「複雑性の時限爆弾」を生み出してしまったのではないか、つまり、制御不能に陥ることが避けられないグローバルシステムを生み出してしまったのではないか,ということだ。

今日の複雑な社会が直面する可能性のあるグローバルな大災害にはどのようなものがあるだろうか。世界的な情報通信システムや世界経済の崩壊?世界的なパンデミック?持続不可能な成長、人口動態や環境の変化?世界的な食糧危機やエネルギー危機?文化の衝突?新たな世界大戦?技術革新をきっかけとした社会的変化?最も可能性の高いシナリオでは、これらの伝染性現象のいくつかが組み合わさって起こるだろう。

今の社会はCOVIDにかぎらず、あまりにも脆弱で、掛け金の高さを考えれば、社会全体が様々なリスクに対応できるレジリエンスのある社会を作っていかなければならないことは、疑問に思うまでもないはずです。

科学によって滅びた文明はけして、科学を称賛することはありません。ここには、文明の生存バイアスがあり、フェルミのパラドックスがその可能性を示唆しています。

参考記事

人類が科学との付き合い方を間違えたことで、今回の大災害が起こったのだとすれば、今回の技術的な解決、個別の議論が必要ではあることは言うまでもないものの、Paul Kingsnorth が述べるように、神話のようなレベルで、またはMattias Desmetが語っているようにイデオロギーや思想・哲学のレベルでも、話し合っていく時期に近づいているのではないでしょうか。

100年という時間軸では、私たち一人一人は死んでしまう。100年という時間軸で生き残るということは、家族として、国家として、科学や芸術の学校として、産業界として、宗教界として、生き残るということである。

私たちの種は何百年という時間スケールで生き残るために進化してきたので、私たちは個人の人生を超えて、これらの大きな単位に忠誠心を持つようになった。家族、部族、組織に対する忠誠心は、私たちの本性に深く刻み込まれている。このような自分より大きなものへの熱い忠誠心がなければ、私たちは人間ではないだろう。

100年という時間軸で将来を見据えたとき、私たちが問わなければならないのは、私たちの忠誠心はどのような大義に向けられるのか、ということである。

-フリーマン・ダイソン

自分たちが無自覚に正しいと信じている社会規範、倫理、価値が何なのか、そして、10年後、100年後、自分たちの生活、地域社会、そして世界をどのような未来にしたいのか、会話を始めることはいつでもできます。

ポール・キングスノース(Paul Kingsnorth )

ワクチンを打つか打たないかの決定は、誰もが取ることのできる個人的な医療上の決定であるべきですが、もっと大きなものの代理になっています、つまり、私たちがどのような社会に住みたいかという会話です。

デジタルパスポートがないと多くのサービスや地位にアクセスできない社会を作るという会話はルビコンです。人々はワクチンについて議論していますが、実際には水面下で、これらの薬を飲んだ人が良い人間なのか悪い人間なのか、清潔な人間なのか不潔な人間なのかを議論しているのです。

興味深いのは、どちらの立場の人も、自分の世界が崩壊しつつあるということです。つまり、これは一言で言えば文化戦争なのです。誰もが自分の世界が崩壊すると思っています。そして、自分に向かってくる人たちから自分を守らなければならないのです。

ソーシャルメディア、スマートフォンのアプリ、アルゴリズム、人工知能など、あらゆるものを利用することで、制御され、モニタリングされ、誰もがコンプライアンスを守る社会、私が機械社会と呼んでいるものへと私たちを向かわせています。

私たちは、スマートな世界を効果的に作らなければなりません。私たちの体や家を含め、すべてがオンラインになっています。これはずっと前から計画されていたことで、秘密ではありません。いずれにしても起こっていたことであり、私たちが進んできた方向でもあります。

今、いわゆるアンチテーゼ側が恐れているのは、ワクチンやマスクが良いかどうかという話は置いておいて、このウイルスが利用されているということです。そして、私たちをその方向に向かわせるためだと思います。

パブに行くのにスキャンしなければならないQRコードなど、そういったものすべてが、私たちをある種の許容可能なデジタル社会の一員として正常化させ、これが大きな恐怖であるという方向に向かわせていることを理解するのに、陰謀を持ち出す必要はありません。

テクノロジー社会がどこに向かっているのかという論理に目を向ければいいのです。それが恐怖なのです。2年前には、これがワクチンパスポートにつながるだろうと予測している人たちの話を聞きました。さて、次はどこへ行くのでしょうか?

最初のロックダウンも、欧米の人々がこのようなことを受け入れるとは誰も想像していなかったでしょう。中国での最初のロックダウンの事例を見て、「ああ、ここにはそんなものがなくてよかった」と言ったことを覚えているかどうかはわかりませんが。イギリスでは考えられないことです。

シリコンバレーが誤報とは何か、何を言ってもいいのかを決めているという事実を、私たちは常態化させてしまっているように思います。緊急事態であればいつでもそれを正当化できるということです。しかし、あの911事件は、その後も様々な施策を正当化するために利用されてきました。

では、どの時点で、政治的な議論が必要だと判断するのでしょうか?誰がこれらの決定をするのか、同意が必要だと判断するのでしょうか?私たちは、実際に会話をすることなく、それらの中に滑り込んでいます。なぜなら、今、会話をすることはほとんど不可能だからです。

ロックダウンは強制的な手段であり、みんなを分断します。ワクチンの義務化は、人々を分断する強圧的な手段です。単にこのワクチンや感染症の数を減らすだけではなく、文化として成り立つかどうかという長期的な影響など、より広い範囲を考慮しなければなりません。

COVIDの周りに現れている権威主義的なシステム、技術的なシステム、ある種の科学的な進歩と支配のシステムに挑戦するのであれば、そしてCOVIDが作られる口実として使われているのであれば、そのような観点から議論しなければならないということです。

「ウイルスを倒そうとする試みが、ますますひどい社会を作り出していることに気づかないのか」と言いたいのです。

【中略】

私は精神的な価値について話したいと思っています。社会の実際の高い意味とは何か、文化とは何か、何を神とみなしているかについて話したいのです。何のためにここにいるのでしょうか?私たちは何のために人間としてここにいるのでしょうか?私たちはどんな文化の中で生きていきたいのでしょうか?

テクノロジーを駆使して、生物学的な存在の事実をできるだけ長く維持しようとしているだけなのでしょうか?それとも、人生にはもっと大きな意味があるのでしょうか?もしそうでないとしたら、それは何なのでしょうか?これらは誰もが同意する議論ではありません。しかし、議論する必要があります。

そして現在、私たちはある社会にたどり着き、また別のCOVIDが明らかになりました。だから、私たちはそのことについてお互いに叫び合うのです。そして、あなたが言うように自由について話したり、ワクチンについて議論したりします。しかし、そこには空虚さがあります。

これこそが、文化戦争が私たちに示した空虚さです。それは、「私たちは何者なのか」という問いを中心に循環しています。人間が生きる意味とは何か?そして、その意味を繁栄させるために社会で生きる意味は何か?私は人の命の価値が買い物であるとか、できるだけ長く生きることであるとは思っていません

これは大きな、本当に大きな議論であり、いつまでたっても解決しないでしょう。しかし、私たちは、先ほど言ったように、そのようなほとんど神話のような精神的なレベルで、もう一度話すことを学ばなければなりません。今の時代、それは簡単なことではありません。

医療情報

論理と調和がずたずたに崩れ去った時
白の騎士が後ろから話しかけ
赤の女王が「首をはねてしまえ!」と叫んでいる
眠りネズミが言ったことを思い出せ
頭を使え、頭を使うんだ

Jefferson Airplane「White Rabbit」

一次情報を見よ?

医学情報の階層[R]

  1. 1次情報:原著論文・臨床試験データ・疫学データ
  2. 2次情報:専門家集団による上記の要約と推奨(WHO,CDC,学会)
  3. 3次情報:専門家個人の意見や解釈(レビュー論文・書籍・寄稿)
  4. 4次情報:他の誰かの意見や解釈(ニュース記事・SNS)
  5. そのまた伝聞

さて、医療情報を見ていく上で「一次情報を見て判断せよ」と言われたりすることがあります。私たちが最初に認識しなければならないことは、査読者はおろかBMJの編集長といったプロ中のプロでさえ一次情報を読んで欺かれるているという事実があることです。

しかし、(製薬会社の)資金提供効果を説明しうる方法論的な欠陥が特定できなかったことは、一般に科学的なバックグラウンドが高く、質の低い研究を特定する能力を誇る雑誌編集者を当惑させた。BMJの元編集長リチャード・スミス博士は、「BMJが起きていることに目を覚ますのに編集者として四半世紀近くかかった」と記述している。

「なぜ、製薬会社は自分たちの望む結果を得られるのだろうか?製薬会社は、結果をいじくり回すことによってではなく、むしろ「適切な」質問をすることによって、欲しい結果を得ているようだ。. . . そして、新しい方法を考え出し、査読者の一歩先を行く雇われ人がたくさんいるのである。

– David Michaels「AGNOTOLOGY」

専門家でもない人間に同じ情報を見せて、その正しい判断が可能だと考えられるのか?私には非常に懐疑的ですが、これは一次情報を見た医師や専門家の判断でさえも、一体どこまで信頼できるのかという問題も提起してはいないでしょうか。

査読者と編集者のネットワークが査読プロセスを操作していることを明らかにした数カ月の調査の後、ヒンダウィ出版社は16誌の511本の論文を撤回する予定であることが、Retraction Watchによって明らかにされた。

他の出版社も最近、大量の撤回を発表している。IOPパブリッシングは今月初め、ペーパーミルによると思われる500本近くの論文を撤回する予定であると発表し、PLOSは8月、操作された査読の件で、主要な雑誌から100本以上の論文を撤回すると発表した。

ワイリーの研究出版担当上級副社長であるリズ・ファーガソン氏は、用意された声明の中で、ペーパーミル、操作された査読、画像の複製やドクターリングなど、研究の完全性に対する攻撃は 「巧妙で、連携しているように見える 」と述べている。

「独占:HindawiとWiley、査読リングに関連する500以上の論文を撤回へ」

これは一次情報を見なくても良いということではなく、単に一次情報を見るだけでは、正しい判断を導き出すための十分なリサーチ方法では言えないということを明らかに示しています。専門家の立場からは、より確かな情報を得るためには、一次情報よりももっと手前の解析前の生データ(仮に0次情報と呼んでおきます)を知ることなのかもしれません。

問題は、査読者でさえ臨床試験の生データにアクセスすることができず、仮に知ることができたとしても、もはやそれは一般人の手に追える領域を超えています…さて、ここをどのように克服すればいいのか?

悪夢は細部に宿る

ある専門性のレベルでは正しくても、さらに掘り下げた、つまりレベル3の専門性ではその知見がひっくり返ることがあります。この問題は見かけよりも深い問題を提起しており、少なくともパンデミックの初期に、多くのエリートが騙されたように見えるのには、根深い構造的な理由があったと感じています。

「悪魔は細部に宿る」「真実は細部に宿る」という言葉があるように、COVIDパンデミックにも1000の矛盾や異常性があり、その多くは個々だけを見ると細部の問題であることが多いように思うことがあります。細部というのは、出版社が意図にそぐわない論文の査読をわざと遅らせるような地味な戦術がある一方で、必ずしも些細であるとは言えないような細部性もあります。

例えば、ファイザーが安全データを報告せず歴史上最大の刑事罰金を払ったということは、それ自体は些細なこととは言えませんが、それだけではワクチン被害の問題で起きていることの全体の説明がつかない、というような意味においてです。

罰金のような事例は、誰にでも理解できますが、一方で臨床試験で複数のエンドポイントを使用し、好ましい結果を得たものを選択し公表するといったような、医師や査読者でさえ見抜くことも難しい技術的な細部性も数多くあります。医療だけの話をしているわけではありませんが、一例をあげると、

  • 劣るとわかっている治療法に対抗して、自社の医薬品の試験を行う。
  • 競合薬の低用量に対抗して自社薬の試験を行う。
  • 高すぎる量の競合薬に対抗して自社薬の試験を行うこと(あなたの薬の毒性が低く見えるようにする)。
  • 競合薬との違いを示すのに、小さすぎる試験を実施する。
  • 試験で複数のエンドポイントを使用し、好ましい結果を得たものを公表するために選択する。
  • 多施設共同試験を行い、好ましい結果が得られた施設を公表の対象にする。
  • サブグループ解析を行い、好ましい結果を選択し公表する。
  • 例えば、絶対リスクよりも相対リスクの低減など、最も印象に残りやすい結果を発表する。

これは臨床研究に限った話ですが、医薬品の開発研究が行われてから承認されるまでの多くのステップで、様々なハッキング方法(下記図)が報告されています。このような細部性は医学の教科書には書かれておらず、多くの医師も少なくとも彼らの議論を見ている限り、諸問題を認識しているようには見えません。もちろん、このようなことがメディアで(おそらく公的機関においても)検証されることもなければ語られることもありません。

「さらに深刻なのは、製薬会社が臨床試験のデータを所有していることです。これはとても深刻な問題です。製薬会社が臨床試験のスポンサーとなり、分析を行い、何が起こったのかを原稿にまとめ、医学雑誌に投稿し、査読を受けます。

そして、医師は、しっかりと研究された査読付き論文を読み、信頼するように教育されます。査読者や医学雑誌の編集者はデータを見ることができず、製薬会社が正確かつ合理的に完全なデータを提示したという言葉を信じるしかありません。

医者は、良い医者は証拠に基づいた医療を実践するという、証拠に基づいた医療のパラダイムを教えられています。そしてそれは、医学雑誌に掲載された査読付きの論文や、臨床実践ガイドラインに基づいています。 しかし、査読者はデータにアクセスすることができず、独自の分析を行うことができないことを医師は知りません。

また、臨床試験も、臨床実践ガイドラインを書いている専門家はデータにアクセスできません。 これは非常識です。正気の沙汰とは思えません。医師たちは、自分たちが操られていること、知識のコントロールが製薬会社に委ねられていることを理解していません。

そして製薬会社は、臨床試験の86%を負担し、試験をデザインします。 それは金儲けのためのものであり、人々の健康のためのものではありません。そのような優先順位はありません。」

ジョン・エイブラムソン ハーバード大学医学部講師、全米薬物訴訟の専門家

木を見て森を見ず

…一方で、「木を見て森を見ず」という言葉にあるように、細部に潜む問題を見ていればいいかというとそういうことでもありません。細部の一つや2つを見ていても全体像は見えてきません。単なるノイズの可能性もあります。

しかし、一つ一つは試験の結果を大きく変える力はなくても、すべての小さな毒が、ある特定の目標に向けてバイアスを生じするように操作されたとき、一体何が起こるのでしょうか?

医薬品チェーンにおける非倫理的行為:図は、医薬品提供の背景には非常に複雑なプロセスがあり、腐敗はチェーン全体に沿って現れていることを示している。「製薬企業-医療関係における制度的腐敗の理論」

数十ある中の一つの問題だけを取り上げて、試験結果を大きく損ねる影響がないとか、確かな証拠ではないという主張を見かけることがありますが、有効な批判となっているようには見えません。

このようにして引き出される結論が正しいのか間違っているのかをある程度の精度でもって判断するためには、結局のところ複数にまたがある専門性の高い情報を掘り下げ、さらに幅広く読み進めていくという方法以外にないのではないかと思います。

限定合理性

では、細部を知りさえすれば良いのか?、森を見る事が大事なのか?しかし、ここには複雑化した社会の難しい問題が横たわっています。理想的には、細部と全体像の両方の理解に通じている人が必要とされるのでしょう。しかし両者を実現することは容易ではなく、木を中心に観察する人たちは過剰一般化バイアスにさらされる可能性が高い一方で、森を見る傾向にある人々も確証バイアスに欺かれているように見えるからです。

一般的に賢い人たちは異なる分野(自らの分野であっても)の知識を得るのに、大量の一次情報を何日もかけて自分で読むことはなく、(または読んでいたとしても)、また上記のような細部の専門知を網羅的に理解しているわけでもなく、医学雑誌の結論や、その他の識者の結論など、思考のアウトソーシングを行い、様々な信頼性ヒューリスティックを使って把握しています。

これは実際、その技術分野、大学、会議、研究所、学術誌といったアカデミア全体が信頼できるものであるという前提に立つ限り、効率的にそこそこの精度を持った正しい情報を手に入れることができるでしょう。平時の教養・知識・知恵と言えるのかもしれません。

結局のところ、陰謀論はしばしば複雑な理論であり、証拠に、つまり何が重要な証拠とみなされるかの専門知識に依存しており、それはしばしば学問の境界を越えている。

引用された証拠のいくつかについては専門家に照会することができるが、理論全体を評価する際に訴えることができるグループはない。そのため、これらの理論に関する専門知識は、玉石混交、あるいは即興的なものとなる。

専門知識と陰謀論

参考記事なぜ専門家の意見が分かれるのか?分類法の開発

問題は、今回のような科学を構成する部品の様々な箇所に偽装的問題がユビキタスに蓄積しているようなケースです。実際、トップエリートの議論を見ていても、一見知的な議論を組み立てているように見えるものの、狭い専門領域の高度な技術的論争から一歩(内部的にも外部的にも)出ると、明らかに何十、何百もの細部の問題が、ごっそりと抜け落ちていることに気が付き、底が抜けたような感覚に襲われることがあります。

繰り返しになりますが、数えられる程度のものであれば、エラーやノイズの可能性もありますが、そうではないのです。また、私自身が、限定的な合理性から逃れられていると主張しているわけでもありません。

そうではなく、誰もが自分たちの得意分野で理解可能な現象を元に、全体像がどのようなものであるかを構築しており、どこかでジャンプせざるを得ない(一般的な用語では人かモノかシステムかにかかわらず、何かを信頼しなければならない)ということであり、その例外のなさと無知領域(無知の無知)の巨大さを強調しようとしています。

医療との出会いは、限られた時間の中で、また、情報の爆発的な増加の中で行われることが多くなっている。典型的な診療時間は約11分で、信頼できる情報を探すのに使える時間は2分未満であり、平均して15分ごとに中断が発生する。同時に、毎年2万以上の生物医学雑誌に600万以上の論文が掲載され、MEDLINEだけでも5,600以上の雑誌から2,200万以上の索引付き引用がある。さらに、毎日75の無作為化臨床試験と11のシステマティックレビューが発表されている。このような情報の爆発的な増加は、人間の脳の情報処理能力の低さ、記憶力の限界、記憶容量の少なさと対比させる必要がある。[Rational decision making in medicine]

そして、認知資源を節約する判断のパターン化と常態化も、利害関係者によって狙われる可能性を高めます。これはけして特殊なことではなく、今に始まったことでもありません。タバコ産業が過去に喫煙のリスクを欺くためにとった戦略をは、高度な戦術を複数用いており、政府関係者、裁判官、知的エリートらが何十年にもわたって騙され続けてきたことは歴史的に明らかとなっています。

それは「昔のことで今は違う」と考えることのできる根拠は何でしょうか?むしろ、情報の総体が肥大化し、専門知識はより細分化、分断化され、科学の産業化(つまり利益相反)が広がったことを考えれば、不正や腐敗を隠す土壌がより豊かになり、巧妙に隠すことが可能になっているのではないでしょうか。

世間で懸念が高まり、BPAを含む製品から消費者パターンがシフトするにつれて、「BPAフリー」製品の販売が増加している。これらの製品の多くにはビスフェノール類似物質が含まれている。

これらの化学物質の一部も、BPAと同様の低用量で有害であることを示す十分な証拠がある。

「Update on the Health Effects of Bisphenol A」

おそらく、研究者にとっては、腐敗した科学雑誌界が非科学的な理由で出版を拒否するのを待つよりも、研究成果を一般に公表することの方が重要だからであろう。そのコミュニティはどの程度腐敗しているのだろうか?その編集者でさえ、

「学術雑誌は製薬業界の情報ロンダリング業務に堕してしまった」(Horton,2004)

「医学雑誌は製薬会社のマーケティング部門の延長」(Smith,2005)

「掲載される臨床研究の多くを信じることはもはや不可能であり、信頼できる医師の判断や権威ある医学ガイドラインに依存する」(Anger,2009)

「科学文献の多く、おそらく半分は、単に真実でない可能性がある」(Horton,2015)。

と長年認めている。実際、史上最も広く読まれている科学論文の一つに、「Why Most Published Research Findings Are False」(発表された研究結果のほとんどが誤りである理由)(Ioannidis,2005)、というタイトルが付けられている。

特に、疑われている事象がコロナパンデミックのように特定の専門領域を超えて多方面に拡散している場合、それらすべてにおいて利用可能な証拠と推論を分離し仮説をたて、かつ実践においてもミスなく行動できる人物は、世の中に存在しないでしょう。

タバコ戦略はタバコ会社が中心となるものでしたが、今回は製薬会社にビッグテックロビー、公衆衛生機関、金融企業などが加わり、はるかに複雑化していることは間違いありません。しかし、それでも今回の問題を理解する上で、「ビッグタバコ」の戦略を思い出すことは有用なものです。

「キャメルを吸う医師は他のどのタバコよりも多い!」

今私たちが目にしているものが、けしてゼロから作り出された陰謀論のようなものではありません。少なくとも部分的には過去に行われてきた組織犯罪が非常に高度化したビッグタバコ2.0であり、潜んでいた社会の毒物が可視化された、顕在化した、という表現がより適切です。

COVID-19の時代は、何十年も前から進行している大きな問題、産業界による科学の支配を浮き彫りにしている。1950年代、タバコ産業がその手本を示し、製薬産業はそれに倣った。

「製薬業界は健康にとって危険である COVID-19でさらに証明」

COVID-19 情報操作の手法 [R]

  • 捏造された臨床試験とアクセスできないデータ
  • 捏造または利益相反のある研究
  • ワクチンの短期副作用の隠蔽、COVID-19ワクチン接種の長期的影響の完全な情報欠如
  • 疑わしいワクチンの組成
  • 不適切な試験方法
  • 政府および国際組織の利益相反
  • 買収された医師
  • 著名な科学者の誹謗中傷
  • 効果的な代替療法の禁止
  • 非科学的で自由主義的な社会的手法(政府が行動修正と社会工学技術を使用して監禁、マスク、ワクチン受け入れを強制すること)
  • メディアによる科学への検閲

ハンロンのカミソリを普遍的に適用するなら,個々の問題は、政府関係者がそれを見た際に、ひょっとすると集団思考のようなものも手伝って、母集団を想定したノイズや偶発的なエラーの範囲内、またはバイオセキュリティー上の小さな必要悪と判断した可能性があったのかもしれません。ただし、これはとても優しい見方で、少なくともいくつかの領域においては、ある種の悪意や利害などを想定しなければ説明がつかないものです。

過去を思い出せない者は、それを繰り返す運命にある

-ジョージ・サンタヤーナ

いずれにしても、歴史が教えてくれるのは、利害関係が強く働く分野で適切な知識や判断を得ようとするなら、おそらくここに決定的なショートカット方法はないのではないかということです。そのような方法は常に、より賢く社会的影響力、資金をもつ利害関係者によって狙われており、それだけではなく時間とともにその支配方法が多元化、隠匿化していくことで難読化していくことが予想できるからです。私たちの社会は、この点についてあまりにもナイーブであったと強く思います。

…ただし、現在は違います。今起っていることは、そのような数多く細部の異常が束となり、例えば、超過死亡数という隠すことの難しい事実などによって明確に現れています。プロパガンダを信じていたり集団思考に陥っているのでない限り、一般の人でも常識的な理解力を使って判断できるレベルに達しています。健康だった子供が接種直後に様態がおかしくなり亡くなったことを理解するのに統計学も専門家の知識も必要ありません。今私たちが目にしているものは結果であって細部に潜む事象ではありません。

論文は究極の要約本

さて、鍵はレベル3の専門性が提供する議論の細部です。正確には、その細部に対する複数の専門家の見解を論理的に理解した上で全体構造を把握することです。

目にする様々な公共的議論に関して、レベル3の議論が提供されているのかどうかを常に問うことは、間違いなく重要なことです。どうすればレベル3の専門性にたどり着けるのか?これが答えのすべてだと言うつもりはありませんが、簡潔に答えるなら論文を読もうです。

すべてのモデルは間違っているが、いくつかは有用である。

-ジョージ・E・P・ボックス

昨今、生物医学の分野で査読論文であっても、その結論のほとんどが間違っているということが明らかになっています。ここでの提案は論文の結論を鵜呑みにする(真実のための追求型)ではなく、論文から得られる構造的情報を利用しよう理解のための探索型という提唱です。

難しいと思われがちな論文は、論文にもよりますが個人的には学ぶには本よりも最適な教材だと感じています。一般書のような冗長性がなく、査読といった形である程度の信頼性が担保されており、フォーマットが決まっているため、どこに読みたい情報があるかすぐに見つけることができます。

具体的には、序論(Introduction)や考察(Discussion)のパートにはエッセンスが凝縮されており、自分も含め専門外の人が当該分野を理解するのに、これほど時間対効果の面からも有用なものはありません。論文の論理構成に慣れると、むしろ冗長性のある本を読んで情報を得ることに、時間がかかりすぎて、少々苦痛を感じこともあります。

また、論文で引用されている、他の文献も貴重な情報源です。人気の実用書、専門書も、その元となる論文があることが多く、言ってみれば究極の要約本のようなものです。今は翻訳ツールも発達しているため、過去と比べて敷居がはるかに低くなっています。

加えて、昨今、ビッグテックが提供する検索結果やタイムラインの表示には、不当な情報操作が加わえられていると疑われていることは、多くの方がご存知ではないかと思いますが、論文サイトでは原理的に不可能ではないにしても、アカデミアが機械的な検索アルゴリズムを大きく操作している可能性は、今のところ低いとみていいと思います。

偏りの少ない情報を得られることの価値は、特に今の時代により高く評価されてもいいのではないでしょうか。市民に積極的に学習素材・重要な知的リソースとして利用されていないことは、単に論文は専門家が読むものだという慣習に基いているに過ぎないように思われます。

また、関連性のありそうな異なる分野を同じようなアプローチで理解し、分野同士をつなげた理解を図ることも、通常、専門家らは特定の分野のみに精通しているため、専門家の弱点と、そのことが引き起こしていると思われる問題を発見する手法のひとつになるはずです。

アメリカでは現在、ほとんどの科学会議に「アマチュア」が散見されるが、専門家にとって彼らの専門知識レベルは驚異的で、通常、幅と深さでプロの(つまりお金を払っている)科学者を上回る。なぜか?アマチュアは論文も助成金も気にせず、知りたいことを知りたいだけなのだ。

真の個別化医療:医学的発見における自己実験

車輪の再発明

ただ、個人的な経験では、そういった分野の統合的な理解や、専門性をさらに掘り下げた領域、研究分野が確立されていないと思われるような領域でも、公的な専門家とは限りませんが、その道のエキスパートはほとんどの場合見つかります。その領域を長年にわたって探究してきた彼らが、自分たちよりも優れた見識をもっていることに疑問はないでしょう。

古くからある技術や技法を自分で一から生み出そうとして、時間やエネルギーを無駄にすることを揶揄する慣用句として「車輪の再発明」という言葉があります。IT業界でよく使われる言葉ですが、科学研究も、通常、無駄な再発明を行わないために過去に行われた膨大な研究の実績を調査するところから始まります。

そして、ウィキペディアに載っているレベルの情報であれば、さほど難しくないかもしれませんが、本当に深い議論を行っている人物や情報は、大量に情報を読み込み、積極的に探そうとしなければ見つからないことが多いということです。深いレベルで車輪の再発明を防ぐことは、思われているほど簡単なことではありません。そのため、車輪の再発明への警告を発する人々が、再発明をしていることに気が付かないという矛盾もよく目にします(自分も経験しています^^;)。

言い換えれば、その道のプロフェッショナル、研究者、思想家を探すというプリンシプル(原理原則)を単に実行するだけではなく、その探索能力を磨くこと、そしてそのための知識を身につける必要があります。

振り返って見れば、Peter McCullough、Robert Malone、Pierre Kory 、Paul Marik、Steve Kirsch、Mattias Desmet、Tess Lawrie、Bruce K. Pattersonといった、いずれ歴史に名を残すであろう(と私は信じて疑いませんが)、パンデミックで活躍している人々を、当サイトが奇しくも日本で最初に紹介してきたことは、(ツイッターで確認できます)その原則の有効性を示唆しているのかもしれません。

一方で、本来であれば彼らを真っ先に取材し報道すべきメディア(独立系メディアも含め)が、まったくその役目を果たしておらず、このことは、国内で入手可能な情報がいかにコントロールされているか、または単に彼らの無能ぶり、腐敗ぶりを示しているに過ぎないのかもしれません…

情報収集のパターン化リスク

ネット上で出回る意見や仮説も同様です。検索した情報を元に考える人もいますが、情報を参照する範囲が狭かったり、SNSによるネットワークを調整する検閲に気づいていなかったり、メディア上、SNS上で目立つ人物からの情報に集中していたりと、それ自体が情報を探す人のある特定のパターン的な陥っているように見えます。このことは、パターンを見抜く機械学習のアルゴリズムなどによって、よりコントロールされやすい環境を作り出しているとみて間違いありません。

1959年には、政治キャンペーンのメッセージが様々な有権者グループにどのような影響を与えるかをシミュレーションし、予測するためにサイマル・マティクス社が設立された。この取り組みは、1960年のアメリカ大統領選挙に大きな影響を与えたと言われている。しかし、それ以来、社会的・政治的シミュレーションは主流になった。広告会社、政治コンサルタント、ソーシャルメディア企業、社会科学者が、当たり前のようにモデルを構築し、人間集団のシミュレーションを実行している。「Reality+」

つまり一般の人は、誰かから何かを学ぶ必要があることには間違いないのですが、プロパガンダが想定可能であったり、利害関係の影響を受けやすいトピックである場合、特に大多数において情報収集方法がある特定のパターンに収束してしまうリスクをどのように避けるかという進化的適応と、それを克服する戦略的視点が不可欠です。

仮に今は良くても必ず狙われます。最近のわかりやすい例ではグーグル検索の検閲から逃れるために用いられていたダックダックGOがグーグルの検閲スキームを受け入れた例があります。

私たちのデータは、産業界がスポンサーとなった研究でより良好な結果が得られたのは、コクランレビューの「バイアスリスク」評価ツールに記録されている要因以外のものが介在していることを示唆している。

「産業界のスポンサーと研究成果」

科学への信頼を回復するには?

  • 公的な場で誤りを認める。
  • リーダーシップを変える。
  • 利益相反規制を強化し、政府機関の指導的地位に任期制限を設ける。
  • 厳格な期限付きで「公衆衛生上の緊急事態」の定義を明確にし、延長するための立法措置の要件を追加する。
  • 規則を定めるのではなく、助言する保健機関の適切な役割を回復する。
  • メディアをファクトチェックする。
  • 研究資金を分散化する。
  • 新たな透明性と説明責任を導入する。
  • 論文や助成金のレビューの匿名化を解除する。
  • 政府機関や委員会に対する独立した監視を強化する。
  • 倫理、自由な議論に関して大学を評価する。
  • ジャーナリスト、医師、科学者のための論理と倫理を含む新しいトレーニングプログラム。

「Lies My Gov’t Told Me」-Robert Malone, MD

科学の官僚化

これは一般人だけではなく、医療関係者、研究者、専門家にとっても関連してくる話ではないでしょうか。というのも、医学雑誌や査読システム、EBMなど、本来であれば信頼を担保しようという善意から作られたはずの科学のシステムが、全てではないにしても、パターン化(教科書化)してしまい時間の経過とともに利害関係をもつ人物や組織によってコントロールする方法が編み出されているからです。ここでも進化適応的な視点をもつことの重要性は、もっと強調されてしかるべきです。

オーウェルが『1984』で描いたように、心ない法律主義の予測しうる結果は『小さなルールを守る』人々がやりたい放題になることである。ひどい役人や教師、請負業者が仕事を続けられるのは彼らが書類に正しく記入するからだ。

正しさは失敗する運命にある。正しいシステムには、人生はあまりにも複雑であり人々はユニークである。正しい教師、正しい工場というものは存在しない。状況は常に異なる。選択肢はすべてトレードオフを伴う。タイミング、資源、ニーズ、情熱、他の変数は無限に複雑だが、型は決まってしまっている。  -Philip K. Howard「try Common Sense」

COVID-19パンデミックでは、まさにそのことが顕在化してしまったように思います。官僚思考の政府・医師が、突然ルールを破らなければならない状況に置かれて、利害関係者の赴くままに、考えられる限り最悪の手を打っているからです。政府や公衆衛生機関の失敗について様々な切り口はありますがが、平時において医療のルールがあまりにも教条化していたことが、一因にあることは間違いないでしょう。そして、私たちが目にしている対立は、官僚(化された人々・政府・システム)対 離反者(ほぼ個人…)のように見えることがあります。

ルールの軍拡競争

科学や医療のシステム・方法だけは政治的陰謀や利害関係者との軍拡競争から逃れることができると考えられる歴史や根拠を私は知りません。中身を示さずただ「科学的」という言葉で政策や言質を正当化しようとするとき、まさにその官僚思考の傲慢さがにじみでているように感じることがあります。

この20年間の医学の変化は、ある意味、インターネットの変化に似ている。人々は、ネットで読んだことを必ずしも信用してはいなかったが、騙されることを心配する時間はあまりなかったのである。しかし、10年も経たないうちに、すべてが変わった。スパマーや詐欺師、スパイがいないか、常に窓を監視していなければならなかった。

今日、電子メールアドレスを持つ人は誰でも、ID泥棒、バイアグラの行商人、ナイジェリアの金持ちの未亡人に用心しなければならない。同じようなことが、アメリカの医療でも起こっている。

「White Coat, Black Hat: Adventures on the Dark Side of Medicine」

レベル3の専門家

今回のパンデミックでは公衆衛生や医療の専門家の延々とした失敗を観察してきたわけですが、しかし、それは医療関係の専門家全員が抱える問題なのか、それとも私たちや政府が選んだ専門家が特異的に問題があったのかという議論があるかと思います。

現在までに正しいと思われる主張をしてきた人々を観察するに、彼らの半数が何らかの専門的な職業を有していたことは確かであるように見えます。一方で専門家全体の人口を考えると、その中で正しい所見を述べてきた専門家の数が極端に少ないことから、どちらの仮説もある程度に正しいと言う印象を抱いています。端的に言えば、正しい判断と行動をとることのできる専門家はいることはいるが、その数(割合)は驚くほど少ないということであり、それが一体何を示唆しているのかはまた別の興味深い疑問です。

専門知識のマーカー[R]

資格 高等学位の保有、機関への所属、学識経験者協会の会員
実績 イベント予測の成功、査読付きジャーナルでの発表、賞や受賞歴
知的誠実さ コンフリクトや資金源の申告、過去の誤りを認めること
議論力 ライバルからの反論や、明らかな異常性を説明する能力
コンセンサス 複数の専門家からの証言は少数派からの証言を上回る

どうやって(議論の3段階の)レベル3に到達している専門家を見つけ出していくかについては、すでに述べたように、市民自らが専門領域の知識を身に着けていくしか残されていないのではないでしょうか。どのように協力しあっていくかということについても大きく残されている課題ですが、今回まさにその実験が、ぶっつけ本番で行われました。

たしかなことは、専門家集団に知の権利と判断を無批判的に委ねてしまったことが、今回のコロナ騒動やワクチン被害の少なくとも要因の一つになっていることです。そういったリスクを減らしていくためにも、市民が協力して専門性を身につけていくことを活動分野として確立して行く必要があるでしょう。

メリル・ドリーとオーストラリア・ワクチン接種ネットワークに対する攻撃の規模と多様性が示唆するように、市民運動家は特に弾圧が困難である。

研究者は、科学者としての立場から、特に重要な存在である。保健省、著名な科学者、医師がある立場を支持している分野では、たとえ少数の反対意見を持つ科学者であっても、人々の認識に大きな違いをもたらすことがある。このため、このような状況では、反対意見の抑圧が非常に重要になる。反対意見を封じ込めるか、信用を失墜させることができれば、すべての専門家が同意したかのように見える。残るは市民運動家だけである。

「On the Suppression of Vaccination Dissent」

Follow The Money – 金の流れを追え

「科学に従う」ことの問題点は、科学は通常、お金に従うということです。[R]

そして、専門家をどのように見つけ出すかに加えて、今回のパンデミックで私が学んだことですが、利害関係が強く影響を及ぼすトピックかどうかということも、真偽を考えていく上で強い判断材料のひとつであるということです。

参考記事科学における利益相反

利益相反の影響は誰にでも理解できそうな、単純な経験的事実かのように思えますが、その手法はより巧妙化し、影響も大きく、有名な医学雑誌の査読論文であっても結論を歪めてしまい、専門家全体のコンセンサスや医療のガイドライン、政策に影響を及ぼすほどの影響力があることを知る人は少ないかもしれません。

参考記事TheBMJ エビデンス・ベースド・メディスンの幻想

ある研究によると、業界が資金提供した費用対効果研究は、業界が資金提供していない研究に比べて、好ましくない定性的結論に達する確率が8倍低いことがわかった。[R]

さらに、医学雑誌が金銭的な利益相反の方針を公表していることは少なく、金銭的利害関係の開示が論文に含まれることはまれであり、論文で判断できるようなものではなさそうです。該当する分野であるかどうかを推察的に判断していくしか方法はないのかもしれません。

調査した約1,400誌のうち、金銭的な利益相反に関する方針を公表しているのはわずか16%であった。さらに驚くべきことに、1997年中に方針を発表していた327誌の査読付き雑誌のうち、61,000以上の論文を調査したところ、金銭的利害関係の開示が含まれていたのは0.5%であった。[R]

農薬、タバコ、高額、または継続的に使用される医薬品、ワクチンなど、商業的利害関係が強い特定の分野では、スポンサー企業の偏向効果、ゴーストライティング、公衆衛生データの隠蔽、科学者に対する捏造攻撃などの事例が見られることが報告されています。

参考記事「製薬会社の真実」マーシャ・エンジェル

これらのことは、利益相反が強く関わる業界においては、一般的に信頼できると考えられている査読済の論文や、中立を装う研究所、ファクトチェックなども含め、特に疑ってかかる必要性を示しているように思います。また情報源もより多角的に見ていくべきでしょう。

その中で、企業や組織と対立する利害関係のない専門家の意見にもっと真摯に耳を傾けるべきことを教示しているのかもしれません。また長期的に支援することが可能な体制を作っていくことも緊切の課題です。

メディアが事実を歪めるために頻繁に行われている、特定の人物に対する中傷キャンペーンにより注意しなければならないことは言うまでもありません。多くの弾圧の事実が報告されている以上、告発の匿名性を非難することはできないでしょう。反対に、そういった弾圧のない体制側に近い主張を行う側では、匿名性に対する同様の正当化を行うことはできないと主張できるかもしれません。

根拠の底はどこにあるのか

最後に、パンデミックに限らず、個人的に重要だと思っているのは、専門家が使用する概念や用語を深掘りすることです。哲学的な視点から「なぜ」そのような概念や用語を使用するのかと問いかけることもできますが、抽象的な議論に向かうのではなく、専門家が頻繁に使用するキーワードを掘り下げ、より具体的な調査を行い、メタ認知的な視点を持つことが重要だと考えています。

論文だけでなく、専門家の話を聞くと、明らかに重要な用語や概念があり、一応の根拠があるものの、最終的な根拠が怪しいままで、循環論法で議論が組み立てられていることがあります。EBM、RCT、因果関係と相関関係、リスクベネフィット、ピアレビュー、そして最近ではワクチンの安全性に関しても、循環構造があることを知りました。よく調べてみると、一応の根拠は見つかるものの、仮定的根拠を支えるメタ根拠と呼ぶべきものが少なく、驚くことでしょう。

ファウチの有名な言葉「科学に従って」(follow the science)でも、具体的に何を意味するのかを示したことがないと思います。ファウチに限らず、「科学的に」という言葉で正当化しようとする人たちの中には、ウィキペディアに書かれていること以上のことを語る人がいないように思います。アンガス・ディートンの論文を読んだ上でEBMやRCTの優位性を主張する人たちが、一体どれくらいいるのでしょうか。

「相関関係は因果関係ではない」と多くの人が語ります。実際には2つの事象の間に一貫した相関があれば、決して因果関係を示すことができない、というわけではありません。20世紀前半、タバコ産業は喫煙が肺がんの可能性を直接的に高めることを否定し、両者の相関は因果関係を示唆するものではないと主張しました。

しばしば、判断者は効果量にのみ敏感で、因果関係の入力をほとんど無視し、経験した効果を当然視し、メタ認知近視が背後にある因果関係のストーリーについて深く考えることを妨げている。

私たちは、患者のうつ病が軽いか重いかを評価するが、うつ病の程度と、うつ病を引き起こした患者の生活上のストレス要因の強さを関連付けることはほとんどない。また、科学では、効果量が大きい研究を賞賛するが、その効果を生み出すためにどの程度の強い実験操作が必要であったかを考えることはほとんどない。

経験科学では、ある効果(y)が強すぎる治療(x)によって引き起こされたとしても、絶対に評価を下げたりしない。効果が非常に弱い研究を発表することは難しいが、因果関係が強すぎるという理由で論文をリジェクトすることは、査読者や編集者はほとんどないだろう。

車の性能だけを評価し、その性能に到達するために必要な燃料の量を考慮しないのは適応的とは言えない。実際、多くの生態学的、経済学的、政治的効果の原因を無視することは、メタ認知近視の典型的なケースである。

「The Social Psychology of Gullibility」

その主張をひっくり返すのに半世紀を要したことは、多くの人に忘れ去られているようです。厳密には「相関関係は因果関係であるとは限らない」であり、自然現象のほとんどの相関関係は因果関係ではないという一般論を(往々にして極端な事例を例えにして)言い表しているに過ぎません。

あるものが別のものを引き起こしたと言うとき、我々は世界について何を言うのか、注目されているにもかかわらず、因果関係に関する最も中心的な問題である「因果関係とは何か」については、まだほとんど合意が得られていない。

例えば、規則性や法則のインスタンス化の問題なのか、反実仮想的な依存性の問題なのか、操作性の問題なのか、エネルギー伝達の問題なのか。近年行われている因果関係の議論を知る人なら、膨大な数の理論や反例を知っているので、因果関係の概念を一義的に分析することはできないのではないかと思われる

もう一つの理由は、因果関係の形而上学的な位置づけについて、著者によって根本的に見解が異なることだ。 ある意味では、因果関係は現実の特徴ではなく、「原因」という概念は、我々が周囲の世界の出来事に投影したり、押し付けるものだと考える人もいる。

また、因果関係は基本的なものであり、原理的に因果関係の用語を用いずに記述できる現実の基本的な層という概念は支離滅裂であるか、少なくとも明らかに間違っていると考える人もいる。

「オックスフォード・ハンドブック:因果関係(CAUSATION)」

彼らの中で、実世界での因果関係がどのように定義づけられるのか、その定義は明瞭かつ公開されているのか?因果関係が定義づけられるとしてその根拠は何なのか?ある因果関係の確立が新しいケースでも成立することの保証は何によってもたらされるのか?集団の因果関係から個人への翻訳はどのように行われるのか(可能なのか)?

因果関係という言葉は文脈に強く依存し、客観的に厳密に定義できるような言葉ではないということが一般に認識されていないことも問題だと感じています。そして、今回のコビッドワクチンの問題で露呈したように、専門家によって(場合によってはルールによってブラックボックス化させる(例えばヒル基準のチェックリスト化または反対に恣意的な利用など)ことが可能であることも示唆しています。

例えそれが避けられえないものだとしても、そのようなリスクがあることと対策について、過去に論じられていることは一度でもあったでしょうか?ワクチン接種後の死亡の病理解剖で大きく意見が分かれたり、複数の専門家からその判定に強い疑いがもたれたことは何を示しているのでしょうか?強い相関関係に基づく予防原則的行動という概念はいつ無くなったのでしょうか?因果関係の立証責任は誰にあるのでしょうか。VAERSが信頼できないというのなら、なぜ信頼できるまえ安全調査を行わないのでしょうか?市販後の前向き研究が行われていないのはなぜなのでしょうか?疑問はつきません。

参考記事「Science Is Not What You Think」

他にも、EBM、エビデンスピラミッド、RCT、メタ解析、因果関係、有意差、帰無仮説といった時として正当性の根拠として持ち出される言葉にも、それぞれに固有の専門領域、研究者の様々な意見が提出されており、様々な批判や異なる見解も蓄積されています。正当性の根拠として使うテレビ医師や政府に所属する専門家の言説を聞く限り、ほぼレベル1のグループを対象にした定型的な批判であり、そもそもそういった批判が適用できるコンテキストなのか、その前提とされている認識的な形式について、それが正しいのかどうかについては、ほとんど精査されていませんし、そこに批判が入ることを専門家がメディア上で口にすることを目にすることもほぼありません。

参考記事瀕死のミツバチと「無知」の社会的生産

直近の例では、あえて名前は出しませんが、パンデミックの緊急時に、二桁のRCTで効果が証明された安価で歴史的に安全性の高い医薬品に、平時の医薬品の承認や診療ガイドラインの推奨事項でさえほとんど満たされていないメタ解析や大規模RCTを要求することの文脈的な妥当性は一体どこにあるのか?といったようなことです。

また、時として、専門家が、難解な言葉を振りかざして素人を煙に巻こうとしているのではないかと疑うこともあります。最近のブースターワクチンがマウス実験のみで承認された二重基準を考えると、その疑念はますます高まります。エビデンスがすべてであるかのように発言する医師の「個人的意見」に本人が自己矛盾を感じているのかどうかも定かではありません。

彼らが使う言葉の多くは、それ自体を主張の根拠として無条件に使えるような用語ではなく、根拠として使うにしても、どういう文脈でなら使えるのか、またはどの程度の有用性があるのか、深く調べていくことで、最後には科学では「原理的に」科学では決定できない価値の問題が現れてくることは、多くの研究者によって明らかにされています。

また、価値の問題と切り離したとしても、単純さ複雑さに関わらず、そのシステムの内部において不可解な結果を招く多くの事象が知られています。

  • 計算の非簡約性
  • 不確定性原理
  • カオス理論
  • 停止問題
  • 創発現象
  • 非エルゴード性
  • ナイトの不確実性(Knightian uncertainty)

コビッドパンデミックは写し鏡?

科学主義の限界を理解するにも、簡単な思考実験で理解できるものがから、手続き論、非常に高度な数学的、統計的素養が必要とされるもの、パラダイムの変化、哲学的視点等、様々にあります。

つまり、どこまで懐疑の目を向けるか(どこまで掘り下げるかによって)によって、この問題は様々な顔を見せることから、市民のみならず、専門家や研究者の間でも意見の不一致や混乱が見られているのではないでしょうか。そして、コビッドについてあなたが何を語るか、その内容もさることながら語ることの枠組みは、あなたがどのような思想や考えをもつかを現す写し鏡のようにも感じられます。

このことは、政治家や公衆衛生担当者の発言や政策において見られる一元的な思想、多様性の欠如にも反映されており、コビッド政策における失敗の背景的理由の一部を説明してはいないでしょうか?

政治指導者、政策決定に関わる方に特に重要なのは言うまでもなく、専門家集団に知の権利と判断を完全に委ねてしまう危険性を避けるためにも、こういった哲学的な懐疑を国民の多くが共有することは社会的な重要性を帯びていくでしょう。そして、科学と合理性が決定できない領域にまで踏み込んではじめて価値観の議論を始めることが可能となり、本当の民主主義が始まると信じています。

参考記事COVID-19 科学政策、専門家、そして公衆 生態学的危機において認識論的民主主義が重要な理由

ポリシー

What do you think?

さて、これだけ長く語っておきながらですが(汗)、私は元来、人にどうすべきかということを語ったり、押し付けたりすることが性格的に好きではありません。私の基本的なスタンスは、結論ではなくプロセスや問い、アイディアを提示し共有することであり、「ここにこのような推論、仮説、議論、証拠があります。あなたはこのことについてどう考えますか?」というものです。

ごく限られたページを除き(1%未満)当サイトが個人ブログというよりは、他の記事や論文をただひたすら訳して紹介するブログあったり、ツイートでも個人的なコメントを避けているのは、主として、そのようなスタンスに基いています。

これは私の個人的意見がまったく反映されていないという意味ではありませんし、確証バイアス、選択バイアスの可能性がないと主張するつもりもありません。ポイントは、私が重要だと考えた情報の提供であり共有することを主要目的にしているということです。

認識論的責任

もう一点は、自分の性格や特性を鑑みると、私個人の意見を書き連ねることよりも、人々の知恵を見つけ出し、それを共有していくことが自らの役割にフィットしているように感じられるからです。

また、文字通り何万、何十万という人の死の可能性に直面して、そこにひょっとするとなにかできることがあるかもしれないある種の思い込みの強さ(バイアス)と無知の大きさが後押しししたのかもと思うこともあります。

無知は力である。- ジョージ・オーウェル(1984)

コロンブスは地球が丸いことは知っていたが、その半径を大きく見くびっていた。結局、コロンブスは資金を調達して航海し、アメリカ大陸という別のものを発見した。もし、コロンブスがインドが遠いことを知っていたら、航海に出ることさえしなかったかもしれない。

「Gut Feelings: The Intelligence of the Unconscious」

自分になにかできることがあると信じることのできるバイアスにはポジティブな響きがありますが、両刃の刃的な面もあり、そう信じていながら何もしなかった場合、後に呵責に苛まれる可能性を残します。つまり積極的に善をなしたいというよりは、後で後悔したくないという負の感情で動いているのかもしれません。

いずれにしても、私にとって、(おそらく活力ある社会にとっても)オーウェルよろしく「バイアス(&ノイズ)は力」です^^;(もちろん間違った際の修正は必要ですが)

余談ですが、選挙で一票を投じることの価値について、バイアスのない合理的な人では、なかなか行こうという気になれないのではないでしょうか?このことは個人のバイアスと集団のバイアスの違いや、バイアスの役割を考えていく上で重要なヒントを与えてくれるように思います。

実用主義者

私が常に抱えている疑問の一端には「一市民に何ができて、そこで何を得られるのか」というプラグマティックな問いがあります。個人への問題解決の提供という実用性を重視しているため、事実を推定しようとするかどうかは、それが何かの役に立つのかどうかの強さよっても影響を受けます。

例えば、何らかの巨大な悪の組織が、人々を支配するために行っているというような典型的な陰謀説については(現在、サイトで触れることが多くなっていますが…)、元々関心がないというのもありますが、そう見なすことでの患者さんにとっての具体的なメリットが不明瞭ですし、私やあなた個人に何か具体的になにか大きな影響を与えるための行動をを取ることができるようにも思えません。

これが、例えばワクチンの議論であれば、自分を含め、多くの方が自ら摂取する、またはしないの選択が一人ひとりの意志によって可能です。そして、そのことによって直接的な利益またはリスクとして降り掛かってくる問題でもあるため、事実の確からしさ、リスクはどの程度か、個人の特異的な変数は、確率、期待値など、どのように行動するか、または選択するかといった合理的推論を行う価値があると見なすことができます。

自己批判 街灯効果

街灯効果と放置された科学

科学研究に関して言えば、「街灯効果」はもはやジョークではない。[R]

さて、このような姿勢は、必ずしも事実の確からしさを保証するものではありません。「証拠を元に」と言うと聞こえはいいのですが、入手可能な証拠だけを元に組み立てようとすること自体に組み込まれたバイアスというものがあります。

エビデンスに基づく医療が重要視される中、無作為化試験のエビデンスの大半は、収益性の高い新しい治療法を生み出す能力によってもたらされていることを認識する価値がある。[R] - Mitchell Krucoff

今回のパンデミックで事実が何かを追うことが難しくなっている大きな理由のひとつに、得られる証拠が、その対象によって恣意的な制約があることです。このことの例え話に、街灯効果というものがあります。

夜遅く、警官が街灯の下で手と膝をついて這っている酔っ払いを見つけた。その酔っ払いは、警察官に「財布を探しているんだ」と言った。

警察官が、「財布を落とした場所はここで間違いないのか」と尋ねたところ、男は、「通りの向こう側に落とした可能性が高いと思う」と答えた。

困惑した警官は、「それなら、どうしてこっちを探すんだ」と聞いた。

酔っぱらいは「こっちの方が明るいからだ」と答えた。

特に複雑な事象を対象としたとき、街灯の当たらない分野全体においてな先入観や思い込みが、そうではない分野よりも高まることは驚くようなことではありません。本当の問題はそういった認知バイアスの指摘ではなく、なぜそこに光をあてないのか、つまりなぜ認知バイアス、強く言えば陰謀論者を量産させるような薄暗い状況を作り出しているのか、その構造に焦点を当てるべきでしょう。

私の知る限り、この年齢層でのワクチンの副作用を調べる前向き研究がこれまでなかったというのは、これは本当に奇妙なことです。なぜそうしないのでしょうか?-Dr. John Campbell [R][Twitter]

証拠が公平に得られている限りにおいて、証拠不足や証拠の不確実性を指摘することは理にかなっています。恣意的な放置が疑われている状況で証拠の不確実性や認知バイアスを指摘し、陰謀であるとレッテルを貼る行為はまさに本末転倒です。

研究者が特定の分野の研究に消極的で、政府や企業が研究費を出したがらない場合、結果として知識のギャップが生じることがある。このような既得権益の影響による研究の空白を「放置された科学」と呼ぶ。 (Frickel et al.2010、Hess 2006, 2009)。

そして、まさにそのようなことが、イベルメクチン、コビッドワクチン、そしてリコード法において起こったことです。

反対意見を「誤情報」というレッテルを貼って検閲し、排除しようとする動きは、科学的な「境界作業」( boundary-work)と密接な共通点がある。境界作業とは、科学的調査の特定の分野を境界から排除し、本質的に非科学的であると信用を落とすことによって、科学的な権力と権威を維持するものである。

COVID-19の異端への検閲と弾圧 戦術と反戦術」

官僚主義 vs 異端児

率直に言って、、人々がツイッターについて言っていたほとんどすべての陰謀論が真実であることが判明したよね。 – イーロン・マスク

陰謀論と異端児

世の中には、街灯が当てられていない場所に、多くの人が知るべき有益な事実を見つける能力をもつ天才的な人々が少数ながら存在します。私にとってはマローン博士がまさにそれに該当する人物です。こういった論理性と直感能力の両方の才能をもつ人々は、限られた証拠をもとに客観的な変数と主観的変数を組み合わせ仮説を立てながら、最適解に近づいていくことができます。

一方で、その2つの変数を特定する能力や、割合が異なる人々も多く存在します。私が見る限り、ここにはグラデーションがあり、明確な線を引くことが難しいと感じています。線を引けると思われている方の多くが、往々にしてある証拠の水準が一意的に決定できるという信念に支えられているからです。

アインシュタインの死の2週間前に面会したハーバード大学の科学史家、I.バーナード・コーエンは、次のように語っている。

「アインシュタインは、かなり最近になって物議をかもした本について触れ、その中の非科学的な部分を……面白いと感じたという。『あのね、悪い本じゃないんだよ。いや、本当に悪い本ではないんだ。ただ一つ困ったことに、この本は狂っている』と言った。私は、歴史家がよく遭遇する問題だと答えた。科学者の異端性が唯一の明らかな事実であるとき、その科学者が変人なのか天才なのか、同時代の人々は見分けられるのだろうか?『客観的なテストはない』とアインシュタインは答えている」

もちろん、20度の水と100度の水の間の温度には無限のグラデーションがあるからといって、常温水と沸騰水が同じであるとはならないように、区別は可能であるだけではなく必要とします。

あるグループには、厳格な証拠だけを重視し、メタ認知や推論、全体像を見る力の弱い官僚的な人々のパターンもいれば、別のグループでは、ある種の勘はするどいが論理性に欠けている人々なども含まれるでしょう。

陰謀論の歴史は、しばしば、ある出来事に対する大衆の認識をコントロールする力をめぐる闘争の物語である。

陰謀論者は、しばしば事実や論理の範囲を超えた分析を行い、そうすることで公の議論に毒素を注入してしまう。

Kathryn S. Olmsted.「Real Enemies」

そして、後者の人々は、ひょっとすると明るい場所での探索ではなく、暗い場所で真実なるものを探そうとする傾向にあるのかもしれません。仮にグループの特性や能力が同一であるとしても、明るい場所での真実を求めようとする集団に対して、暗闇で探す集団において多くのエラーや間違いが含まれることに驚きはないでしょう。

この集団の母数が大きくなれば、そのばらつきも大きくなり、中には極端なありえない陰謀論に走る人も必然的に生じてきます。また疑念をもつ姿勢そのものは正しくても、誇張や湾曲、誤解のある断定的主張が含まれることは想像に難くありません。

私は、全体的な印象から、反体制側が、抵抗運動側が世間から陰謀論的イメージを持ってれてしまうというは、たまたまそうであったというのではなく、このことには政治的な意図も含め、構造的・社会学的な必然性があったのではなかろうかと考えています。

アフリカ系アメリカ人は、エイズはアメリカ政府が自分たちの人口を減らすために計画したものだと信じているが、アメリカ公衆衛生局が1930-1970年代に行った悪名高い「未治療梅毒のタスキーギ研究」でアフリカ系アメリカ人男性を対象に人体実験を行ったことは間違いではない。

アメリカ政府がアフリカ系アメリカ人をクラック・コカイン中毒にさせようと謀ったというのは嘘だろうが、CIAがMK-Ultraプロジェクトでマインド・コントロールを試すためにLSDを使った実験を行ったのは事実である。また、実在する医学的陰謀説のリストはこれだけでは終わらない。

Moreno)は、歴史上、国家が秘密裏に行った人体実験の膨大なリストを提供しており、倫理に反する人体実験や無謀な医療行為の記録もたくさん残っている(McNeill)。

当たらずとも遠からず?

このタスキーギ研究の非倫理的行為は、このケースにおいて示唆的な例えとなっています。人口削減のためのエイズ計画というアフリカ系アメリカ人の考えは、馬鹿げていると断じることはできたかもしれません。疑いの根拠を合理的に批判したり、反証となる様々な証拠を提示することも可能だったかもしれません。そして、それでも納得しない人々を愚かな陰謀論者だと小馬鹿にさえしていたでしょう。

私たちは、話せることよりも多くのことを知っている。

-マイケル・ポランニー

この問題の難しさは、エイズを使った人口削減という陰謀論だけに焦点をあてるなら、少なくとも当時、反論が容易だったかもしれないし、間違っていると片付けることも理屈の上ではできていたであろうということです。

もちろんそうしたところで、彼らが抱いている根本的な不信感には何一つ答えていないことももう一つの真実です。素直に解釈するならエイズとの関連付けは不正確だったかもしれませんが、彼らの直感(不信感)は正しかったと表現することはできないでしょうか。

(ワクチンの)マイクロチップの疑惑は不合理であり、合理性に反していると思います。一方で、「このシステムは腐敗している、だから、全体的なものについて言われていることは真実ではないかもしれない」という理由で接種しないことにした人については、私はそうは感じないのです。つまり、これは一種のメタ合理性なのです。– Bret Weinstein

参考記事

2タイプの陰謀論否定論者

私には2つのタイプの陰謀論否定論者が思い浮かびます。一つは、還元型否定論者です。エイズ人口削減論をその語の響きと、いくつかの憶測だけで、陰謀論であると決めつけ一刀両断に否定します。断片的な証拠を見つけてくることもありますが、その他の陰謀の可能性も、すべて一緒にゴミ箱に捨ててしまいます。心ではなくモノに焦点を当てていることから、他の陰謀論と関連付けない、または関連性を認識しない、ということも考えられます。関連性の高い陰謀論が判明しても、還元主義的な思考によって、それとこれは別々の事案だと主張するでしょう。

もう一つは、統合型否定論者です。エイズ人口削減論について判断する前に彼らの話に耳を傾けます。また、非合理的な発言に焦点を当てるのではなく、その陰謀論の最も強い論拠は何か、それに対する反論にはどのようなものがあるかを探し出します。現実的に利用可能な証拠にはどのようなものがあるか、噂や逸話情報は直接の証拠ではないとしても、複数データポイントとして扱います。理解する資料の中には人口削減の歴史や黒人差別の歴史に関する学術誌や論文も含まれるかもしれません。

それらの両面を理解し、確率や規模、定義の空間の中で陰謀論の可能性を位置づけ、あなたが言いたいことは本当はこういうことではないかと提案していくものです。さらに、彼らの不信の根には何があるのか、その背景要因や、他の陰謀が本当に進行しているのではないかと疑い、文脈や関連性を含めてよりマクロな視点で捉えていくタイプです。

例えば、イラク侵略の大惨事が思い起こされる。NATOや他の多くの政府が、特にアメリカ政府によって意図的に誤解され、操られてこの戦争に突入したことは、世間にも学者の間にもほとんど疑われていない。この真実は、重大な決定の時点で十分に証明されていたが、国家元首、主流メディア、そしてそう、学会の特定のメンバーによって「とんでもない陰謀論」として黙殺された。こうして、最終的に何十万人もの死者を出し、絶望的な世界的難民危機を招いた戦争は、反陰謀論パニックによって強力に後押しされた。

「Taking Conspiracy Theories Seriously」

私は陰謀論を提唱する人々を無制限に擁護しようとは思いません。陰謀論を主張する側にも様々なグループがあり、そこにつけこうもうとする人々がいることも承知しています。

一方で、彼らに対する、あまりにも、エリートたちの問題の根を見ようとしない一元的な陰謀論批判が多いように感じられます。陰謀論否定する側がもつ様々な問題、認知資源の限界(限定合理性)、データの不透明性、研究上のバイアス、街灯効果、政治権力、産業科学の利益相反と腐敗構造、陰謀論のもたらす害と公平に比較したことが一度でもあったでしょうか?

私の目には陰謀論者と陰謀論否定論者の両者が異なる種類の省エネ思考をしているようにしか見えず、個人的により心配しているのは、この対立によってこの両者にだけではなく、その対立を見るものまでをも巻き込んで思考停止をもたらしてしまうことです。

このパターンは特に農薬やワクチン、電磁波など、利害関係の強く関わる産業科学の領域において頻繁に発生しているようであり、遺伝子ワクチンの例で起こったように、実際にはレベル3の議論があるにもかかわらず、偽の対立(レベル1とレベル2)によって、その機会を失わせていることが、社会にとってより大きな損失となっているのではないかと常日頃感じています。さらにはこのような対立を意図的に作ることが可能であること示す研究も存在します。

参考記事接種理論

陰謀論信奉のトレードオフ

陰謀論とそうではないものをの間に簡単に線が引けると信じていることもその一つです。「世界はそれほど単純ではない」というブーメランがささっているかのようです。その見下す姿勢によって、権力に都合の良い嘘の手先になるかもしれない危険性への無自覚さも目につきます。

アインシュタインの死の2週間前に面会したハーバード大学の科学史家、I.バーナード・コーエンは、次のように語っている。

「アインシュタインは、科学的な仕事に関する論争をきっかけに、非正統的な思想の話題を取り上げるようになった。

彼は、かなり最近になって物議をかもした本『衝突する宇宙』について触れ、その中の非科学的な部分を……面白いと感じたという。『あのね、悪い本じゃないんだよ。いや、本当に悪い本ではないんだ。ただ一つ困ったことに、この本は狂っている』と言った。

私は、歴史家がよく遭遇する問題だと答えた。科学者の異端性が唯一の明らかな事実であるとき、その科学者が変人なのか天才なのか、同時代の人々は見分けられるのだろうか?『客観的なテストはない』とアインシュタインは答えている」

陰謀にも偽陰性(誤った陰謀論であるにもかかわらず事実として分類)と偽陽性(事実にもかかわらず誤った陰謀論に分類)の問題があります。当然陰謀論テストの感度を高めれば、多くの偽陽性が生まれます。

一般的に陰謀論という理由で陰謀論を拒否する側は、過剰に信じることと過少に信じることのトレードオフの視点が欠けているだけではなく、その前提となる適切な評価が行われていません。(陰謀論というイメージ、断片的情報だけで棄却して良い。)

本来、トレードオフを理解するためには、当然、過去の偽陽性の事例を知る必要があるのですが、もうひとつのめったに問われることのない重要な疑問は私たちは本当に、過去にあった陰謀の偽陽性と偽陰性の『すべての事例』を知っているのか?」という問いです。医療研究における出版バイアスがあることは知っていても、どれぐらいあるのかを知らないことと同型の問題がここには存在します。

今回のパンデミックの経験を経て多くの陰謀論が事実であったことが判明し、この今の瞬間でさえ、JFK暗殺からツイッターファイルといったように明らかにされ、さらに報道機関が露骨に報道を控えるという事態を目の当たりにしたとき、他にもまだ知られていない偽陰性、偽陽性の事実があるのではないかと考えることは十分に合理的な推論ではないでしょうか?

つまり、少しでも自分で物を考える力がある人ならば、検討に値する陰謀論をどこまで含めるのかという利益/コストの分岐点は、大きく変化したと考えるでしょう。

mRNAワクチンは人口削減が目的であるという陰謀論を不確かな証拠を元に信じていた陰謀論者や、従来からの反ワクチン派は、少なくともスパイクプロテインの注入を避けることはできました。過去のワクチンを回避したことの不利益を含めれば、結局のところ損失が大きいと考えるmRNAワクチンだけ反対派の方は、是非「Turtles All The Way Down」を一読してみてください。反科学、非合理性の代表的グループとして常にやり玉に上がっていた反ワクチン派の回避選択(生態学的合理性)は検討に値する戦略だったのかもしれません。

私の家の窓の外にある餌箱の鳥は、数分おきに突然驚いて逃げ出すが、これには理由がない。防御が過剰に反応するように見えるのは、それらが防御する害と比較して「安価」だからであり、また、少なすぎる防御の誤りは、多すぎる防御の誤りよりもしばしばコストが高くつくからだ。

適合性は絶対的なものではなく、限界的なコストと利益によって決定されるため、段階的な防御の発現の程度は過剰に見えるかもしれない。これらの結論は、いくつかの臨床的意味を持つ。第一は、一見過剰に見える防御も、実は正常で有用であるということである。

現実的には、防衛を強化した方が有利な状況、あるいは防衛を減らした方が有利な状況をどのように区別するのか、私たちはまだ分かっていない。

煙探知機の原理 | 自然淘汰と防衛反応の制御

5Gも同様に、5Gによって操られると主張する人々は、仮に、そのことが間違っているとしても、その認識によって5Gの潜在的なリスクを大きく回避することは結果として可能です。より根本的な議論として、5Gが、それなしでは生存が不可能なものでもなければ、それがないからといって生活の利便性を大きく制限するようなものでもないにもかかわらず、インフラ的な導入により個人が回避できる選択肢が限られていることです。

ホメオパシーが正しいかどうか私は知りません(理論については懐疑的です)。しかし、ホメオパシーを何かと疑似医療として批判する医師たちは、一緒に捨てられてしまったプラセボ効果ノセボ効果ホルミシス作用について無知であることが非常に多く、ここでも街灯効果を思い出します。また、自分たちが処方しているいくつかの薬が無益どころか害を与えていることについて公平に批判しているか甚だ疑問に思うこともあります。

もし私たちが、理由のわからないこと、あるいは正当な理由を提示できないことをすべてやめてしまったら…おそらくすぐに死んでしまうだろう。 -フリードリヒ・A・ハイエク

なぜ関連する査読論文を読みもせず、専門家の批判にも耳を傾けず、陰謀論者の極端な主張にだけ目を向け「これだから陰謀論者は…」となるのか?陰謀論者にある陰謀的な思考パターンが見られるというレッテル貼りが許されるのであれば、陰謀論的ストーリーを単純否定する一般論者たちが、共通した還元主義的思考パターンがあるという指摘も許されるのでしょうか。

仮に陰謀論を認めないのだとしても、還元型否定論者と統合型否定論者、この2つのタイプのどちらが合理的な人物と考えられるでしょうか?合理的という言葉が気に入らないのだとすれば、どちらのタイプがより、社会の分断や対立を緩和できると考えられるでしょうか?

アメリカのある調査では人口の75%が一つ以上の典型的な陰謀論を信じているという研究もあります。日本でどれだけ陰謀論を信じる人々がいるのかわかりませんが、遺伝子ワクチンに懐疑的であることを陰謀論だと呼ぶなら、米国の数字と大差はないでしょう。

もちろん社会の対立が深刻化しても、かまわないと無思慮に考えることはあなたの自由です。私は、陰謀論を信じる人と、否定する人、この単純な二項対立を超えた両者の協調的な共同作業が必要だと信じています。

参考記事専門知識と陰謀論

多くの言論には価値がなく、破壊的な言論もあることは誰もが想像できます。そのため、明らかに問題のある言論を排除するだけで、世界を改善できるのではないかと考えるのは当然のことです。問題は、明らかに道を踏み外している言論というのは、簡単に運用できるカテゴリーではないということです。

往々にして存在するのは、一緒に旅をする変人や異端者です。この混ざり合いは不幸なものです。一般的には、本当に面白い異端のアイデア1つに対して、100人のおかしな人が存在し、それらはおそらく説明する価値のない理由で同じように聞こえることが非常に多いのです。

創設者たちは、フリンジにいる悪い考えと良い考えを外科的に分離する良い方法がないことを認識していましたが、「悪い考えが保護されることによるコストを受け入れなければならない」と言いました。それは、その中にある良いアイデアを自由に発言させるためのコストなのです。彼らの処方を超えることは難しい。

私たちはまだ、異端児とおかしな人のアイデアをどうやって分けたらいいのかわかりません。そして、私たちは異端児を必要としています。どんな素晴らしいアイデアも、少数派から始まるという事実があります。もし、次の偉大なアイデアのすべてから得られる優位性を放棄しないのであれば、私たちはフリンジにあるものに対処しなければならなくなります。そのコストがゼロというわけではないのです。

-Bret Weinstein

命題の独立性

この陰謀を信じる人達の平均的な集団において「エコーチェンバー」「確証バイアス」「単純化されたモデル」といった心理学的傾向を想定することも可能でしょう。しかしながら、このようなラベリングが実際に妥当だとしても、そのことによって反体制側が間違っているということも、その反対に正しいという主張もできないことは言うまでもありません。

妻がオセロ症候群(嫉妬妄想が抑えられない不安症状)であるかどうかは、夫が実際に浮気をしているかどうかとは無関係の診断です。ヒドロキシクロロキン(HCQ)がCOVID-19に有効だとトランプ大統領が言うことで、HCQに効果が生じたり減じたりするわけではありません。Qアノンが2+3は5であると言っても数学は破壊されません。この2つの命題は独立しており相関関係の可能性はあったとしても、因果関係を認めることは論理的な誤謬です。

私たちの多くは陰謀に関する主張は証拠に基づいて評価されるべきだと合理的に考えるかもしれないが、多くの理論家は、陰謀論であるという理由だけでその主張を頭から否定してよいと言っている。

1964年のトンキン湾事件、1977年のフォード・ピント・スキャンダル2013年の米国国家安全保障局(NSA)の大規模モニタリングプログラム隠蔽に関するスノーデン暴露 2015年のフォルクスワーゲン排ガススキャンダルなど、多くの事例が挙げられるが、いずれも犯人が悪事を働いているという考えは「陰謀論」というレッテルを貼られることになる。これらの例は氷山の一角に過ぎない。

「Taking Conspiracy Theories Seriously 」

つまり、ある特定のグループのイメージや奇抜な発言から、言説を間違っているとみなすことは、見えにくい危険性のシグナルもフィルタリングしてしまい、結果的に大きなリスクを招いてしまう可能性はないのかということです。

さらには、このことは逆手にとることも可能です。大衆から著しく不評を得ている悪名高い陰謀論者に都合の悪い真実を語らせるなど、政府や組織に都合の良い本当の陰謀を覆い隠してしまうからです。

陰謀論が日常的に否定されない世界は、本物の陰謀が見過ごされにくい世界であり、それゆえ陰謀が成功しにくい世界でもあるからだ。そしてそれは、より良い、より民主的な世界となり、権力者が比喩的であれ、文字通りであれ、殺人罪から逃れる可能性が低くなる世界となる。

「THE PHILOSOPHY OF CONSPIRACY THEORIES」チャールズ・ピグデン

上記のような爬虫類型宇宙人を持ち出すような例は、ある意味わかりやすく、貶めようとしていることが見て取れます。しかし、最近公開された映画「Died Suddenly」や「蛇毒」の事件でもあったように、判断の難しい微妙な映画や記事も多く存在します。また、ここには読者の知的レベル、騙されやすさ、文化による違いといった要素もあるでしょう。

参考記事

詐欺犯罪がけしてなくなることはなく、延々と続いていることを見てもわかるように、多数派がこういった相手の心理学的な意図を見抜くようになれば、プロパガンダもより狡猾でわかりにくいものになる可能性が高いことは簡単に予想がつきます。このことは簡単な解決策を見つけることの難しさも示しています。

権威バイアスと官僚化思考

さて、実際、賢いと考えられているような人々が、こうも欺かれ、重要なシグナルを見逃すのはなぜか? このことを説明する様々な認知バイアスや心理学的説明、イデオロギーがあります。「パンデミックと関連するキーワード」にそのいくつかを記載していますが、もう一点、情報が肥大化する中で、ほとんど無意識の権威的思考と関連する認知効率(Cognitive Efficiency)が働き過ぎた結果であるように感じることもあります。

医学はその権威の多くを科学から借りているが、この2つの分野には文化的な違いがある。医学の科学的根拠は不確かであり、複数の有効な見解が存在するが、反対意見は必ずしも奨励されない。専門家が強い意見を持ち、グループ内の他の人もそれに同意している場合、異端の視点を表明するには勇敢な医学生が必要となる。

「Tarnished Gold」 | エビデンスに基づく医療の病 / 権威

「権威に頼る」というのは集団を維持していくために必要な心理的傾向のひとつであるだけではなく、コンテンツの判断にエネルギーや時間をかけなくて良いという認知的な節約行為でもあり、程度の差はあれ誰もが採用しており、権威が信頼できるものである限り、そこには社会的なメリットがあることも理解しています。

集団思考発生要因の少なくとも一部は、大多数が懐疑の目を向けず、検証もせず権威に過剰に頼りすぎたことであり、反対に他から発せられる危険性のシグナルを、上記で述べたように陰謀論または離反者と決めつけてしまいシャットダウンしてしまったことのようにも感じられます。

離反者は、盗みはいけないことだと宣言している社会では盗みをするが、奴隷制を容認している社会では奴隷を逃がす手助けもする。社会が変われば離反者も変わる。離反は見る人の目の中にある。もっと言えば、みんなの目の中にある。旧東ドイツ政府の下で離反者だった人は、ベルリンの壁が崩壊した後、もうそのグループには入っていない。しかし、シュタージのような東ドイツの社会規範に従った人々は、新しい統一ドイツの中で、突然、離反者とみなされるようになった。 「嘘つきと外れ者

これまでの発見の歴史を振り返るならば、表面的な怪しさ、部分的な非合理性、またはエラーの多さは良い考えを得るために、支払うべきコストと言えないでしょうか?もちろん、過剰に陰謀説を信じることのコストも当然存在します。

陰謀論 進化した機能と心理的メカニズム

定義によれば実際の陰謀は、例えば資源や女性の窃盗、搾取、略奪、殺害、極端な場合は大量虐殺など、人々に危害を加えることを密かに計画する。そのため陰謀を過小評価すると被害者個人や集団に大きな犠牲を強いることになりかねない。

陰謀を過剰に認識するコストは、様々な社会的パラメータに依存するため複雑である。陰謀を過剰または過小に認識することの間のトレードオフを考慮して、特に危険な陰謀が遍在する環境では、エラー管理理論により、誤検出の可能性が高くても陰謀の可能性を疑うという人間の適応的素因が予想される。

つまり、人は、敵対的な陰謀の可能性を素早く計算することによって、連合体の危険性を過剰に認識し、警戒する側に回るのである。 陰謀論は祖先の人類が、頻繁に繰り返される連合体の危険性に特徴づけられる社会世界を航海するために、直接的に適応的であったと仮定する。[R]

陰謀論者を許容することと、否定することのトレードオフの線をどこに引くかという悩ましい問題があることは否定しません。しかし、適切なラインを引くことが可能かどうかの問題を一端脇に置くなら、時代性もこの適切なライン引きに影響を与えるでしょう。そして、この先行きが不透明な時代においては、許容度を少し緩めた多様性のあるグループを受け入れていくことが、より進化的には有利ではないだろうかと推測しており、まさに、それがワクチンにおいて実証されているようにも感じています。

すなわち非合理性は人間にとって根絶しがたいものであると同時に潜在的に有害であり、それを根絶しようとする努力自体がきわめて非合理的であるというテーゼは、決して新しいものではない。私から聞くまでもないことだ。少なくとも数千年前から、もう完璧に明白なことなのだ。

Smith, Justin E. H.「IRRATIONALITY」

街灯効果の背後にあるもの

街灯効果という概念を理解すること自体は、さほど難しいものではありませんが、それがなぜ生じているのかということの原因は複雑で根が深く、それ自体の問題を理解するために必要な専門知識をはるかに超えた能力を要求されます。(上記のパンデミック関連リストで示しているように)

例えば、ワクチンに関して非常に高度な専門知識をもっていたとしても、今回の遺伝子ワクチンの問題の全体像はまったく見えません(まさにそうであるがゆえに、多数の専門家が未だに欺かれ続けているのでしょう)。製薬会社の腐敗、官僚主義、システムの硬直性、いくつかの支配的なアクターによるコントロール、はたまたEBM、RCTの内在的な欠陥、因果関係論、生命倫理、資本主義、サイエンティズム等々、まったく想像していませんでしたが、理解できるどころか、私を含め、全貌に近づいている人物さえ見当たらないように思えます。

パンデミックが始まって2年が過ぎ、ようやく歴史的、時代的な背景を含めた総括を行う識者も現れてきました。ケント大学の心理学教授マティアス・デスメット博士もその一人です。詳しくは、彼の著者「全体主義の心理学」で述べられていますが、彼の基本的な視点は、パンデミック騒動の背景には科学のイデオロギー(科学主義)があるというものです。

実験や統計によって証明することができない現象についての研究は学問ではなく、より強く言えば証明(検証)可能なもののみが社会的価値や有用性をもつ、これは言ってみれば思想的にはすでに衰退しているはずの実証主義の考え方であり、「科学絶対主義」という形で車輪の再発明が行われているようにもみえます。

すなわち非合理性は人間にとって根絶しがたいものであると同時に潜在的に有害であり、それを根絶しようとする努力自体がきわめて非合理的であるというテーゼは、決して新しいものではない。私から聞くまでもないことだ。少なくとも数千年前から、もう完璧に明白なことなのだ。

しかし、過去を神話化することに反対し、未来に合理的な秩序を押し付けることができるという妄想に反対するという二重の主張は、常に新しくなされることで利益を得る。

なぜなら、数千年前から完全に明白だったことが、それでもなお、私たちが知っているが知らないという広大なカテゴリーに再び滑り込み続けているからだ。

「非合理性 | 理性の暗黒面の歴史」

参考記事全体主義の心理学 | 合理主義的な人間観・世界観から大衆形成へ

これは、私が冒頭で「私たちは科学・合理性とどのように付き合っていけばいいのか」というビッグクエスチョンを提示しましたが、その一部には彼の影響もあります。人工知能の進化、シンギュラリティの問題を踏まえるなら、科学・合理性だけではなく人工(超)知能も加えるべきかもしれません。

参考記事AGIリスクとフレンドリーAI政策の解決策

これは、ぜひ一度、多くの市民、医師、科学研究者、政治家らを始め国民全員が、立ち止まって考えてみる価値のあるテーマだと思います。

展望

構想する善があれば、それを迂回させる悪がある。

しかし、善は来て成功せず、悪は成功して頑固である。

Diego Hurtad. Mendoza(1503-1575)

均衡の破綻

往々にして、騙す側と騙される側、正しい情報と偽情報(と彼らが呼ぶもの)、プロパガンダを実行する側とそれを受ける側、この両者の戦いにおいて、どちらかと言えば反体制側に欠けていると思われるフレームワークが私の頭の中に浮かびます。それは、これらの戦いが両者に適応的であり、共進化を示す軍拡競争にあるということです。

もう少し簡単に言うと、私たちが知恵を働かせプロパガンダを見抜こうとすれば、それに応じて相手はプロパガンダの手段を増やしたり巧妙化させたりと、常にお互いが手口や手法を進化させていくことであり、一定の波の中で均衡を保ちながらその争いの場も常に変化しているというものです。

複数人でチェスゲームをしていることに例えるなら、チェスで必ず勝てるというような一般法則、普遍的な戦略をもつことが難しいことを示しています。相手は自分の動きに応じて変化し対応するため、勝つためには常に相手よりも優れた戦略を開発していかなければなりません。

つまり、結局のところ、自由の代償は永遠の警戒心なのです。

– オルダス・ハクスリー

さらに、普通のチェスと異なり、ルールや勝利条件がゲームの最中に変化する特殊なチェスゲームをしていることです。ゲームのルールを変化させることができる側が圧倒的に有利であるということは言うまでもありません。

最も懸念される問題は、体制側にチェスのルールを変更できる能力が強化されようとしていることですが、それだけではなく、そのルールを変更できる範囲が(チェスを超えて)広がろうとしている時期にあることです。最近の将棋の試合であったように、チェスの試合最中にマスクを外せば負けというようなルールは些細な事に思われるかもしれませんが、そういった非合理的なルールが制限なく拡大することです。

参考記事人間がデータポイントに分解される

SNSにおいては、リアルな人の手も介在していますが、実際には、様々な集団の変数に基づいたアルゴリズムによって行動を調整的にコントロールされているのが実体だと思います。

グーグルで使われる青色がRCT(ABテスト)によって決定され、2億ドル(240億円)の収入増がもたらされたことは有名な話です。同様に彼らが行う政治的な検閲に関してもRCTに類するものを行い、その精度や効果を高めていないとしたら驚きです。RCTは集団への影響の平均的効果を知るには強力な測定ツールですが、少数の外れ値が平均化され情報として除外されてしまうという欠点も併せ持っています。つまり、私たちが少数派であるのは、たまたまそうだというよりも、アルゴリズムが多数派に焦点を当てたものとなっているからにすぎないと言えるのかもしれません。

参考記事人間と社会に対するデジタルの脅威

私がより大きく心配しているのは、デジタル化の普及によってモニタリングが生活の隅々にまで行き渡り、そこで得られた莫大な個々人の変数から、機械学習によって全体のネットワークが調整されるだけでなく、個人レベルでも個別化、最適化された検閲や思想誘導が行われ、外れ値(ブラックスワン)までもある程度制御可能な環境に置かれてしまうといったことです。

要するに、ノイズの多いシステムの利点は、新しい価値観に対応できることだと主張する人がいるかもしれない。なぜなら、柔軟性があれば、新しい信念や価値観が生まれたときに、その都度、方針を変更することができるからだ。

Noise: A Flaw in Human Judgment

目につくSNSアカウントの凍結などは本当の脅威ではありません。災害危機のブラックスワン(外れ値)は予測できないやっかいな因子ですが、社会の意思決定においては決定論的な動向を回避し全体主義に対する保護因子となる可能性をもっているからです。

こういった人工知能の急激な成長とそこで得られた検閲や操作のパワーにより、最終的に騙す、騙されるという数千年にわたって繰り広げられた権威vs大衆の均衡ゲームが破綻してしまうことです。そして、一度政府や企業に与えられた特権は強化・拡張されることはあっても、廃止されることはきわめてまれであることがこれまでの歴史からも明らかです。最終的に、失った権利を取り戻すことができなくなる最後のパンドラの箱になってしまうのではないかということを強く心配しています。

アルファ碁

これは正しいことではないと感じた人々が、誰かから指示されたわけでもなく、検閲下の中で驚異的な学習スピードとともに非常に賢く立ち回り、人々に危険があることを知らせようする姿は本当に感動を覚えるものです。ほとんど方はボランティアでありながら長期にわたって抵抗していくことが可能であることも示してくれました。科学の発見が新しいアイディアを持っている人の粘り強さに依存すると言われるように、社会の改革も不正を見つけた人の粘り強さに依存するのかもしれません。私はこのことにいくつかの希望を感じています。

…しかしながら、今私たちが直面している大きな問題のひとつは、、私たちは、体制側の人間と知恵比べをしているというよりも彼らが武器にしている人工知能(機械学習)と競い合っているということです。人間の素晴らしさであると同時に限界でもあるのですが、人工知能の学習曲線が指数関数的な増加を示す一方で、ヒトの学習能力はどこまでも線形的な増加にすぎません。

生物学的知能の範囲

生物学的知能と超知能(ASI)の差

ヒトがAlphaZeroにヒトが碁で勝つ可能性は、文字通り「ゼロ」です。それでも私たちがAlphaZeroを恐れることがないのは、このコンピュータープログラムがチェスという限られたものでしか、私たちを負かすことができないからでしょう。ヒトにはルール以外の手段を取ることが可能です。電源プラグを抜けばどんなコンピュータープログラムもヒトを負かすことはできません。…ここまでは冗談に聞こえるかもしれません。

さて、デジタル社会に電源プラグに相当するようなものはあるのでしょうか?世界中のインターネットをオフにするボタンはどこにあるのでしょうか?

私たちがデジタル社会や人工知能がもたらす全体主義に対抗できるのは、制限されたルールを破ることができる能力や権限があることによってなのだと考えることもできます。そうだとすれば、ルール外の選択肢、権利の豊富さこそが残された人間の砦になるはずであり、監視資本主義でも語られていることですが、いままさにその選択できる領域が小刻みに狭まれていることは、将来、私たちに何をもたらすのでしょうか?

参考記事民主主義はビッグデータ、人工知能に耐えられるか?

ターンキー全体主義

人工知能にとってのデジタルは、サメにとっての海のようなもので、デジタル環境がなければ人工知能はヒトに勝つことはできません。デジタルのない陸地で生活することはデジタル全体主義から抜け出る唯一の方法になっていくのかもしれません。そして、今、あらゆる社会資源がデジタルの海に投げ込まれています。

現金の使用量があるレベルまで減少すると、規模の経済が失われ、一夜にして使用量がゼロになることもある。MP3やストリーミング形式が普及すると、音楽CDが突然姿を消したのを覚えているだろうか。それくらい、現金の消滅は早い。現金戦争は、一度そのような勢いになると、止めることは事実上不可能になる。-ジェームス・リッカーズ

今、これらの当たり前のように思われていた選択肢がデジタル通貨や、デジタルIDといった形で一ミリずつ剥奪されている、外堀を埋められていることに気がついている人はどれだけいるでしょうか?これは本当に深刻な問題なのですが、このことの深刻さに気が付いていない人が多数派であることは、理解の難しさだけに起因するわけではないように思えます。

適切な質問は、監視システムの構築が、そのバランスを政府支配の方向に危うく変えすぎていないか、そのシステムの現在の使用に問題がないかどうかということである。家庭に強制的にカメラを設置し、令状がなければ作動しないシステムが、長年にわたって法律をきめ細かく尊重しながら使用されてきたとしたらどうだろう。

問題は、このような監視の仕組みがいったん確立されると、解体するのが難しく、パニックや悪意、あるいは公共の利益をひそかに判断する自分の能力に対する誤った自信によって、それを私たちに対して利用しようとする人々の手に落ちると、あまりにも強力な支配の道具であることが判明することだ。

-ジュリアン・サンチェス「ターンキー全体主義」

もちろん、私たちはこのことを民主的に選択したことはありません。それどころか議論もなければまともな説明もないのです。ワクチン被害の補償が行われない事実を見てもわかるように、失われた自由への補償は行われないことを確信しています。