アルツハイマー病患者 同じ話の繰り返し
三つの選択肢 その2
今ここにある状況が耐え難く、あなたを不幸にしているなら、選択肢は三つあります。
1 自分をその状況から切り離す
2 その状況を変える
3 あるいは、それを完全に受け入れる
それ以外の選択はみな狂っています。
エックハルト・トール
の続き
2 その状況を変える
変化は総じて甘美なものだ
アリストテレス
前回、自己意識改革のような形でブログ記事を書いてみたが、これは言ってみれば「認知症患者さんが同じ話をずっと語ってもいいじゃないか」という逆転の発想だったりもする。
しかし、一方で、同じ話を延々と繰り返すことが果たして本当に母のためになるのか。ずっとそのことを放置していると、脳の障害を高めるリスクがあるのではないかという危惧も個人的にはある。
そこで、今回は快不快の問題を離れて、どうすれば繰り返しによる脳への障害リスクを減らしていくことができるか、といったもう少し現実的な観点から記事を書いてみたい。
以前セリフの繰り返しは危険ではなかろうかと言ってみたところ、ブログ読者から「いや認知症じゃなくても、人は毎日同じことを過剰に繰り返したりしているよ」という意見をもらったことがある。
たしかにそうだが、しかしそれとは何か違うと思いながらも、その時はうまく答えることができなかった。
先日、偶然、アメリカ人生物学者が書いた「脳は空より広いか」という脳と意識についての本を読んでいたところ、(自分にとっては)見事にその答えが書いてあった。
少し難しい内容なのではあるだが、いくつかその書籍にあった記憶についての記述を抜粋してみる。
記憶はシナプス強度を高めるだけというふうに考えるのではなく、連想を反映したり、コンテクストによって大きく影響を受けたりするシステム特性として捉えるべき
ひとつひとうの記憶は、コンテクストに応じて柔軟に変化する。記憶によって心的あるいは身体的な行為の繰り返しが生じる。
ただし、以前の行為とよく似たり繰り返しではあってもまったく同じではない。最初の経験をそっくりそのまま再現するのではなく、いわば再カテゴリー化される。
「脳は空より広いか」 ジェラルド・M・エーデルマン
表象的記憶とは、石碑に刻まれた文字や記号のようなもの。それを後で取り出してきて、眺めたり解釈したりするわけだ。
一方、非表彰的記憶とは、移り変わる気候の影響を受けて変化する氷河のようなものだ。気候は信号に、氷河が溶けたり凍ったりするのはシナプス反応の変化に、氷山を伝わって流れるたくさんの細粒は神経路に、そしてそれらが細粒に流れ込む池は出力にたとえられる。
気候の変化によって溶解、再凍結を繰り返しながらたくさんの小さな水の流れが縮退的に細流を形成する。そのようにしてできたたくさんの細流は、さまざまな形で合流したり連結したりして多様な水路が作られていく。その過程でときおり新しい池ができたりもする。
このようにダイナミックな経過が、まったく同じパターンで繰り返されることなど考えられない。
しかし、麓の池、出力によって生まれた状態はというと、おそらくそんなに変わらないのである。
この見方でいくと、記憶には必然的に連想という要素が備わっており、けして同一ではありえない。
それでもやはり、いろいろな制約のもと、十分効果的に同じような出力を生み出せるのである。
「脳は空より広いか」 ジェラルド・M・エーデルマン
ここで、本当は、記憶に伴う再入力において「縮退」という重要な概念も理解しておかないといけないのだが、記事の内容と離れて難しくなるので割愛する。
興味のある方は著書を読まれてみることをおすすめする。
クオリアや意識にについての取扱など賛同できない点はいくらでもあるのだが、いわゆる脳局在論とは異なる複雑系の視点から脳の解説がされていて、そういった方面に興味のある人には面白いかもしれない。
…で、とりあえず、自分の論点と関係したことだけを簡単にまとめると、記憶の想起が同じで語る内容も同じであったとしても、脳のネットワーク的な処理は毎回異なっているというものである。(著書にあったが脳磁図による研究でも確かめられている!)
そのため、健常者が何かを繰り返す時、それは単純なシナプス結合の強化を行っているだけではなく、常に他の異なる脳部位とネットワークループを常に作り出しているため、脳の可塑性は保たれる、ということになるかもしれない。
これは実証された話しではないが、記憶障害を負った認知症患者の場合、海馬の記憶障害を負っているために、その再帰的なネットワークループが動作するにしても、同一のループばかなりになってしまうのではなかろうか。
つまり、認知症患者の繰り返し問題の根幹は、繰り返しによっての同一のシナプス結合を過剰に強化することではなく、記憶内容とそのカテゴリー化の再入力ループの結合が過剰になってしまうことにあるかもしれない。
そして、その繰り返しの結果認知機能の可塑性が衰え、最悪、障害リスクの増大につながりやしないか、と心配しているのだ。
皮肉なことに、介護者は患者に良かれと思って「うんうん、そうだねー」と聴いてあげるのだが、患者はドーパミン報酬回路によって、ますます同一内容の会話をすることが条件付けされていく。
図式的に書くと以下のような感じだ。
情動行動の悪循環
認知症患者 話をする。
↓
介護者 話を熱心に聴く
↓
認知症患者 喜んで同じ話を繰り返す。
↓
介護者 頑張って熱心に話を聴く
↓
認知症患者 強化学習によって同じ話を繰り返すようになる。
↓
介護者 もっと頑張って熱心に話を聴く
↓
認知症患者 記憶の再入力ループが固定化、脳の可塑性が衰える!
↓
介護者 聞く負担が増加、介護者の脳可塑性も衰えるかも、、
この介護者の善意や熱心さが 裏目に出る物悲しい悪循環は、あくまでアルハカの推測であるため、間違っているかもしれない。
しかし、自分としては、その危険性を大きく危惧しているため、数回程度であれば、聞き流したりもするが、やはり同じ話が数週間も続く場合は具体的に阻止するべきだと考えている。
これは母の脳の可塑性を守る目的ではあるが、結果としては介護者の負担を軽くすることにもつながると思う。
最初にも書いたが、問題の根幹は同一の記憶を語ることではなく、語られたことを把握するメタ的な視点、または記憶内容と相互作用をもつ無意識の領域がまったく同じままであることである、と考えている。
無意識の連想ゲームと思ってもらえればいいかもしれない。
そこで、大事になってくることは同一内容を語らせないことよりも、語った内容を違う観点から把握させる、異なる世界に結びつけていくことになるのではないかと思う。
以下、経験談、試案も織り交ぜて書いてみたい。
返事する度に詳しく答える
少しずつでも加えることを繰り返せば、やがて大きなものになるだろう
ヘシオドス(古代ギリシアの叙事詩人)
これは、母が短い質問を繰り返す時に対して、使っている。
相手が同じことを聞くたびに、より詳しく答えていったり、付け加えたりしていくものである。
※以前は、毎回違うことを答えるということをしていたが、回答する側の連想がもたないので、返事を冗長していくやり方に変えていった。
母 「どこへ行くの?」
アルハカ
1回目「図書館へ」
2回目「図書館へ本を借りに行くよ」
3回目「図書館で、本を借りて、ちょっと読んでいこうかなと思ってる。」
4回目「図書館で、本を借りて読んだ後、公園に寄るつもり。」
5回目「図書館で、本を借りて読んだ後、公園に寄って軽くジョギングをしようと思ってるよ。」
・
・
30回目「今から、玄関で靴を履いて、ドアを開けて、階段を降りて…
……さすがに30回はない(汗)、しかし一度記録に挑戦してみたい気もする。笑
「返事が詳しくなっていく方式」のいいところは、返答する側の負荷に適度感があり、同じことを考えるよりは負荷が少なく考えすぎて脳疲労を起こすこともない、ということにある。
そして変化がありながらも同じことを語っているので、認知症患者さんが覚えてくれる可能性もある。
環境に変化を入れる
人生って、繰り返し見る度に変化していく映像のようなものだ。 そうだろう?
アンディ・ウォーホル
まずは、以前の記事で紹介した論文。
アルツハイマー病患者で常同行動が起こる場合、より単純な常同行動であったり、刺激にむずび付いた反復行動が起こる傾向。
www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/14570833?dopt=Abstract
実際、母を観察していると、短時間に台詞が繰り返される場合はっきりとした1つの特徴がある。それは繰り返される時の環境や周囲の状況に変化がなく、その中で一種の決まり文句のように繰り返されるということだ。
これは、アルツハイマー病、特に母の場合、比較的単純な記憶障害であることが関係していると思う。
よくよく考えてみれば、別に記憶障害でなくとも、われわれも日常生活において、そのほとんどは決まり文句の組み合わせて喋っているとも言える。
ペンを落として、それを前の人が拾ってくれた時、そこで言う自然な台詞は大体決まって「あ、どうも、すみません」である。
それ以外のパッと口に出てくる自然な言葉が何個思いつくか、考えてみて欲しい? 日本語の語彙は3万語以上あるのに、10個見つけるだけでも大変だと思う。
つまり、環境や状況で放たれるフレーズというのは、大体パターンがあって深く結びついている。
そのため、その環境をちょっと変えるだけで、シチュエーションが生み出す決まり文句というのは止まってくれるのである。
ほんと些細な事だ。
例えば、家族が座る席は大体決まっているが、それを変えるだけでも変化が起きるし、花を買ってテーブルに置くだけで、関心が花に移って決まり文句的な台詞は出にくくなったりする。
花についての話は繰り返されるかもしれないが、それは花がある間だけだし、その程度の繰り返しであれば、可塑性を失うリスクを背負うこともないだろう。それに花からまた話を広げていけばいいだろうし。
その他、思い出の写真を詰めたデジタルフォトフレームを置くとか、好きな音楽を流してみる、とかいったことでもいいと思う。
このあたりは、いくらでもあるはずなので、いろいろと試してみるといいと思う。そうしているうちに、何が有効か、有効でないかもわかってくる。
ポイントは、言葉の指摘で止めようとせず、視覚的変化などの五感で変えてみる。ということだ。
Thought Provoking Questions(考えさせられる質問)
thoughtquestions.com/archives/category/uncategorized/page/291
会話を人生や哲学的な話題にふっていくことで、脳に刺激を与えるメソッド。
以下のブログ記事でも触れているが、
人生を振り返ったり、哲学的な問いを考えることで、背内側前頭前皮質、後部帯状回、左中側頭回、角回が活動することがわかっている。
これらは、みな、アルツハイマー病の初期に血流が低下していく部位と、驚くほど重複する。そのため、人生的な問いを、認知機能改善プログラムとして臨床試験したいと思っているぐらいだ。
個人的には、単なる治療だけではない大切さを含んでいると思っている。
よく聞かれるのが、私が病気であることを心配しているため、「最近体調はどう?」という台詞が多い。最初の数回は、正直に、「調子悪いときもあるけど、今はいいよ」とか答えたりする。それが数回続くと TPQに切り替える。
TPQ = Though Provoking Questionsの略 (思考を促すような質問)
TPQの一例
学びにふる
「お母さんが調子が一番悪かったときに、何か学ぶことはあった?」
人生にふる
「人生で一番調子が悪い時期っていつだった?」
究極の選択にふる
「一生調子が悪いのと、一生貧乏ならどっち取る?」
もちろん、こういう小難しい返しや質問は、タイミングや相手のムード(相手との関係性も)があるので、母の様子を見ながら、最適な質問の種類を考えている。
難しい質問をぶつければいいというわけではなく、タイミングや、その人の性格も見極めたりしないといけないため、実は質問者側のほうがかなり頭脳を使う。
質問をそのまま母から返されて、自分が答えに窮したりすることもある(汗)
だが、多くの質問を繰り返していくと、驚くこと、笑えることなど、新しい発見がいくらでも出てくるので楽しい。
母にこんな潔い面があったのかとか、実は本が書けると言われるほどの波乱万丈な人生をおばあちゃんが送っていたとか、おじいちゃんが動物園を始めたけど、犬や猫しかいなくて周囲から呆れられていたとか(笑)
間違いなく認知機能を改善する効果があると信じているが、別になくたって全然構わないのがこのメソッドのいいところである。
最後に
いろいろと書いてはみたが、結局、そういう質問が繰り返させることの理由のひとつは、息子の病気への心配が、その潜在的な意識にあるのだろう。
「調子はどう?」という母の質問に対して
「調子、ああもう絶好調、もう治ったと思う」
と、答えると母は安心して、それ以降、質問が繰り返されなくなったりすることもよくある。
繰り返し症状を、記憶障害だけで片付けてはいけないようだ。
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