
『Where Are We Now? The Epidemic as Politics』Giorgio Agamben 2021
『われわれはいまどこにいるのか──感染症としての政治』ジョルジョ・アガンベン 2021年
目次
- 序文 / Foreword
- 第1章 流行病の発明 / The Invention of an Epidemic
- 第2章 感染 / Contagion
- 第3章 明確化 / Clarifications
- 第4章 われわれはいまどこにいるのか / Where Are We Now?
- 第5章 ペストに関する考察 / Reflections on the Plague
- 第6章 例外状態が常態化した / The State of Exception Has Become the Rule
- 第7章 社会的距離 / Social Distancing
- 第8章 一つの問い / A Question
- 第9章 剥き出しの生 / Bare Life
- 第10章 新たな考察 / New Reflections
- 第11章 真実と虚偽について / On Truth and Falsity
- 第12章 宗教としての医学 / Medicine as Religion
- 第13章 生-安全保障と政治 / Biosecurity and Politics
- 第14章 ポレモス・エピデミオス / Polemos Epidemios
- 第15章 学生たちへのレクイエム / Requiem for the Students
- 第16章 二つの悪名高い言葉 / Two Notorious Terms
- 第17章 法と生 / Law and Life
- 第18章 非常事態と例外状態 / State of Emergency and State of Exception
- 第19章 顔とマスク / The Face and the Mask
- 第20章 恐怖とは何か / What Is Fear?
- 第21章 来るべき時について / On the Time to Come
本書の概要
短い解説:
本書は、COVID-19パンデミックを契機として各国で導入された非常措置の本質を哲学的・政治学的に分析し、現代社会が「生政治」の新たな段階に入ったことを警告する。アガンベンは、感染症対策という名目で進行する自由の制限と社会関係の変容が、民主主義の将来にとって持つ重大な意味を考察する。
著者について:
ジョルジオ・アガンベンは現代イタリアを代表する哲学者で、『ホモ・サケル』シリーズで知られる政治哲学の第一人者である。フーコーの生政治概念を発展させ、主権と生命の関係を追究してきた。本書では、パンデミックをめぐる各国の対応を「例外状態」の理論的枠組みから批判的に分析する。
テーマ解説
- 主要テーマ:パンデミックを利用した新たな統治パラダイムの出現
- 新規性:医学を新たな宗教とする「生-安全保障」体制の分析
- 興味深い知見:社会的距離が政治的身体の解体につながる過程
キーワード解説
- 例外状態:憲法の一時停止を正当化する緊急体制
- 剥き出しの生:社会的・政治的次元から切り離された生物学的生命
- 生-安全保障:健康の維持を法の義務とする新たな統治理念
3分要約
本書は、COVID-19パンデミックを契機として顕在化した政治的・社会的変容を、哲学者ジョルジョ・アガンベンが分析した緊急の論考である。アガンベンは、パンデミック対策という名目で導入された非常措置が、単なる一時的な対応ではなく、西洋政治史における根本的な転換点を示していると主張する。
パンデミック初期からアガンベンは、イタリアをはじめとする各国政府の対応が科学的根拠に乏しい過剰反応であり、むしろ「流行病の発明」を通じて市民の自由を制限する新たな統治技術を試験していると批判する。移動制限、社会的距離の強制、顔の隠蔽といった措置は、人間関係の本質的変容をもたらすものであり、これは単なる衛生対策ではなく、政治的身体の解体を目指すものだと指摘する。
アガンベンの分析の核心は、従来の「生政治」が「生-安全保障」という新たな段階に入ったという認識にある。この新パラダイムでは、健康はもはや権利ではなく法的義務へと転化し、市民は自らの生物学的生命の維持のために、あらゆる社会的・政治的活動を放棄することを強いられる。このプロセスにおいて、医学は新たな宗教として機能し、科学的不確実性にもかかわらず絶対的権威を振るう。
著者は、パンデミック対応が露わにしたのは、現代社会が「剥き出しの生」以外の価値を見失っている現実であると論じる。人々は感染リスクという不確実な危険のために、友情、愛情、政治的信念、さらには死者への敬意までも放棄することを厭わなかった。この倫理的・政治的退廃は、恐怖が人間の根本的な現存在の様式として機能していることを示している。
デジタル技術の普及は、この変容を加速させる。遠隔授業、在勤勤務、仮想的な交流は、物理的接触の排除を永続化する装置として機能する。アガンベンは特に大学のオンライン化が学生の生活形式そのものを破壊するものだと警告する。
最終的にアガンベンは、パンデミック後の世界が、より公正で人間的な社会へと向かうことは期待できないと悲観する。しかし同時に、この危機が既存の社会の非人間性を暴露した点では、新たな出発の契機となりうるとも示唆する。来るべき時代において問われるのは、技術的管理と生物的生存を超えた、より控えめで単純な生の形式をいかに再発見するかという課題なのである。
各章の要約
序文
パンデミックを契機とした非常措置は、ブルジョワ民主主義のパラダイム放棄と新たな統治装置の導入を示している。この大転換を可能にするメカニズムは新法体系ではなく例外状態、つまり憲法保障の停止である。ナチスドイツでは明示的な全体主義的イデオロギー装置が必要だったが、今日の変容は衛生テロと健康の宗教を通じて進行する。「生-安全保障」は、健康をあらゆるコストをかけて履行すべき法的宗教的義務へと転化させた。この変容の強さは同時に弱さでもあり、新たな抵抗形態が必要とされている。
第1章 流行病の発明
イタリア国立研究機関のデータが通常のインフルエンザと大差ないとしているにもかかわらず、メディアと当局がパニックを醸成し、例外状態を宣言しているのは不自然である。この不均衡な対応には二つの理由が考えられる。第一に、例外状態を標準的統治パラダイムとして発動する傾向の強化である。第二に、人々の心に体系的に培養されてきた不安定さと恐怖の状態である。自由の制限は、同じ政府によって生成された安全への欲求の名の下に喜んで受け入れられている。
第2章 感染
パンデミック中に広められた最も残酷な観念の一つが「感染」という考え方である。この観念はヒポクラテス医学には未知のもので、16~17世紀のペスト流行時に初めて現れた「香油塗り」の人物にその先駆けを見出すことができる。最近の命令は事実上すべての個人を潜在的なペスト蔓延者へと変え、人間関係の劣化を促進している。隣人は接近してはならない存在となり、人間同士のあらゆる接触が機械による代替可能なものとされる社会が到来しようとしている。
第3章 明確化
恐怖がもたらした倫理的混乱は、私たちが何事よりも「剥き出しの生」を信じる社会に住んでいることを明らかにした。イタリア人たちは病気になるリスクの前に、生活条件、社会関係、仕事、友情、宗教的・政治的信念のほとんどすべてを喜んで犠牲にしている。剥き出しの生とそれを失う恐怖は人々を団結させるものではなく、盲目にし分断する。隣人はもはや存在せず、死者は葬儀を行う権利さえも否定されている。例外状態はついに常態となったのである。
第4章 われわれはいまどこにいるのか
緊急事態の中で家庭に留まることは、当局やメディアが広めるパニックに屈しないこと、そして隣人が単なる感染源ではなく何よりも私たちの同胞であることを思い出すことを意味する。また、医療システムを解体した政府の責任を市民に負わせる方法ではないかと問うことも意味する。最も深刻な問いは「われわれはいまどこにいるのか」というものであり、私たちは言葉だけでなく生活を通じてこの問いに答えなければならない。
第5章 ペストに関する考察
社会全体がペスト状態の感情に屈し、自己隔離と正常な生活条件の停止を受け入れた容易さについて考察する。ペストは無意識のうちにすでに存在しており、人々の生活条件は突然の合図によって本来の耐え難い姿を現したのではないか。もう一つの要素は、教会がもはや満たせない宗教的必要が科学という新たな生息域を求めていることである。科学はこの時代の宗教となった。
第6章 例外状態が常態化した
パンデミックは、政府が長い間私たちを慣らしてきた例外状態が正常条件となったことを明らかにした。人々は永続的危機状態にあまりにも慣れきっており、自分の生活が純粋に生物学的状態に還元され、政治的次元だけでなく人間的次元さえも失っていることに気づいていない。社会関係の物理的次元が感染の嫌疑を受ける中、人間関係をデバイスに置き換える実験が今後も継続されるだろう。
第7章 社会的距離
政治的語彙に登場した「社会的距離」という新概念について考察する。カネッティの『群衆と権力』を参照し、群衆が接触への恐怖の逆転を通じて権力の基盤となることを想起する。社会的距離に基づくコミュニティは人間的にも政治的にも生きられないものであり、密度の低い希薄な大衆を生み出す。これは禁止を通じて形成された群衆に似て、特に受動的でコンパクトである。
第8章 一つの問い
一つの国全体が、何が起こっているのかも気づかずに、病気の前に倫理的・政治的にもろくも崩壊したのはなぜかという問いを提示する。死者の身体への敬意の欠如、自由の移動の制限、生命経験の統一性の分裂という三点において、人間性と野蛮の境界線が越えられた。教会と法律家は人間の尊厳を保護すべき責務を果たしていない。
第9章 剥き出しの生
生命経験の統一性が、純粋に生物学的実体と社会的・文化的生命へと分裂したことが、現在の状況を可能にした。現代科学は、純粋な植物状態で身体を維持できる蘇生装置によってこの抽象化を達成した。しかし、この状態が時空間的境界を越えて拡大され、一種の社会的行動原理となると、逃れがたい矛盾に陥る。人間が純粋な植物状態に保たれていた唯一の他の場所はナチス収容所であった。
第10章 新たな考察
流行病の死亡率と感染率の伝えられ方に疑問を呈する。イタリアの統計データと比較すると、COVID-19による死亡者数は過去2年間の呼吸器疾患による死亡者数を下回っている。医師とウイルス学者の統治機能についても疑問を投げかける。科学は私たちの時代の宗教となり、神学者が神を明確に定義できなかったように、ウイルス学者はウイルスが何であるかを正確に知らないにもかかわらず、その名において人間の生き方を決定しようとする。
第11章 真実と虚偽について
パンデミック対応は、自由への前例のない侵害であるだけでなく、真実に対する大規模な偽造キャンペーンでもある。人々は、メディアによって伝えられる確証のないデータと意見を受け入れることで個人の自由制限に同意している。流行病に関するデータは科学的検証なしに曖昧に提供されている。人類は、真実が虚偽の行進の中の一瞬に還元される段階に入っている。言語そのものが私たちから没収されつつある。
第12章 宗教としての医学
科学、特に医学が私たちの時代の宗教となったことを論じる。医学は生物学から基本的アイデアを借用し、それをグノーシス的/マニ教的意味で展開する。悪の神(病気)と善の神(治療)の二元論的対立である。この礼拝実践は永久的かつ遍在的となり、法的に強制可能となった。医学的宗教は、資本主義から永続的危機を、キリスト教から終末論的訴えを採用している。流行病は伝統的世界大戦に取って代わる地球規模の内戦の現実化である可能性がある。
第13章 生-安全保障と政治
パトリック・ツィールベルマンの研究を参照し、健康安全保障が国家戦略の本質的構成要素となる過程を描く。最悪のシナリオを統治するツールとしての「健康テロ」の創造である。このパラダイムは、潜在的リスクに基づく虚構のシナリオ作成、最悪の論理の政治的合理性としての採用、市民の身体的完全な組織化の三点を軸とする。生物学的安全は、すべての政治的活動と社会関係の絶対的停止を市民参加の最高形態として提示することができる。
第14章 ポレモス・エピデミオス
流行病はまず第一に政治的概念であり、全球的内戦の新たな戦場となっている。ブルジョワ民主主義の時代は終わりつつあり、「生-安全保障」という新たな統治パラダイムが登場している。このパラダイムの下では、健康への権利は健康であるべき法的義務へと転化する。社会的距離は一時的なものではなく、社会組織の新たなパラダイムとして残る。市民は医療処置の受動的対象へと還元され、難民の姿に近づいている。
第15章 学生たちへのレクイエム
大学講義のオンライン化は、学生の生活形式そのものの終焉を意味する。大学は学生協会から生まれ、学生であることは何よりも生活の一形式であった。この社会的次元は、中世の放浪学生から20世紀の学生運動まで様々な形で進化してきた。ほぼ10世紀続いたこれらすべてが今、永遠に終わろうとしている。本当に学問を愛する学生たちは、これらの変質した大学への登録を拒否し、何世紀も前の対応者たちのように新たな大学を設立しなければならない。
第16章 二つの悪名高い言葉
「否定主義者」と「陰謀論者」という二つの悪名高い用語について考察する。最初の用語は現在の流行病をホロコーストと同等視するもので、反ユダヤ主義を示している。二つ目の用語は驚くべき歴史的無知を示す。歴史家が詳細に再構築する物語は、多くの場合、個人、集団、派閥の計画と行動の結果である。パンデミックに関して、WHOが2005年に現在と類似のシナリオを提案し、ビル・ゲイツがパンデミックのリスクについて何度も発言していた事実は無視できない。
第17章 法と生
健康が法と政治の焦点となった現在の状況は、法と生の関係について考察する機会を提供する。ローマ法学では、自然と人間の自然生命はそれ自体として法的言説に入ることはなく、むしろそれから分離され、法的状況のための虚構的前提としてのみ機能する。法が生命を組み込むとき、生命の保護は生命にふさわしくないという観念へと転化する危険性がある。法と医学は分離されるべきであり、医学が立法者として振る舞うとき、個人の自由に対する容認できない制限につながる可能性がある。
第18章 非常事態と例外状態
シュミットの独裁論を参照し、非常事態と例外状態の区別が法律的根拠を持たないことを論じる。この区別は政治的・社会学的なものであり、問題のシステムの状態に関する個人的評価を指す。憲法保障の停止という観点から見れば、非常事態と例外状態の間に違いはない。政府によって宣言された例外状態を正当化しようとする法学者は、自分の専門外の事実的で議論の余地のある議論に頼らざるを得なくなっている。
第19章 顔とマスク
人間だけが顔を持ち、顔は政治の場である。顔が表し明らかにするものは、言葉にできるものではなく、有意な命題として定式化できるものではない。顔は政治の真の条件であり、個人が言い交わすすべてのものの基礎となる場である。自国民の顔をマスクで覆うことを決めた国は、あらゆる政治的次元を浄化した国である。この空虚な空間に住む個人たちは互いに孤立して生き、共同体の直接的で感覚的な基盤を失った。
第20章 恐怖とは何か
ハイデッガーの『存在と時間』における恐怖の分析を参照し、恐怖を現れ存在の根本的な様式として考察する。恐怖は常に「もの」、世界内存在に関わり、世界との関係を失った人間が逃れられないものとして世界内存在に委ねられたときに明らかになる現れ存在である。恐怖の本質的性格は無力への意志、恐怖の対象に対する無力でありたいという意志である。恐怖に対処する唯一の方法は、恐怖に先行する同じ根源的次元、つまり「もの」が現れ脅すことのできる世界への開けへとアクセスすることである。
第21章 来るべき時について
今日地球規模で起きていることは確かに一つの世界の終焉である。しかし、それは新しい人類共同体の必要により適した世界への移行という意味での終焉ではない。ブルジョワ民主主義の時代は色あせつつあるが、この表面的法的変容を超えて、産業革命で始まり世界大戦と全体主義へと積み上がった世界が終わろうとしている。私たちは新たな神も新たな人間も待ってはいない。むしろ、私たちの周りの廃墟の中で、より控えめで、より単純な生の形式をここで今、探し求める。
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