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The Cognitive-Theoretic Model of the Universe : A New Kind of Reality Theory
クリストファー・マイケル・ランガン(Christopher Michael Langan )

英語タイトル:The Cognitive-Theoretic Model of the Universe:A New Kind of Reality TheoryChristopher Michael Langan 2002
日本語タイトル:『認知理論的宇宙モデル:新しい種類の現実理論』 クリストファー・マイケル・ランガン 2002年
目次
- 序論 / Introduction
- 理論、モデル、誤った二分法について:/ On Theories, Models and False Dichotomies
- 決定性、不確定性、そして第三の選択肢 / Determinacy, Indeterminacy and the Third Option
- ジョン・ウィーラーによる現実理論の未来:/ The Future of Reality Theory According to John Wheeler
- その他の諸原理:/ Some Additional Principles
- 背景:/ Some Background
- SCSPLへの序論 / Introduction to SCSPL
- 自己励起回路としてのSCSPL:/ SCSPL as the Self-Excited Circuit
- CTMUとインテリジェント・デザイン:/ The CTMU and Intelligent Design
本書の概要:
短い解説:
本書は、科学的観測と認識の根底にある「現実」の包括的な理論モデルを構築することを目的とする。従来の唯物論的還元主義と情報還元主義を超え、現実を自己構成・自己処理する言語として再定義する「認知理論的宇宙モデル(CTMU)」の枠組みを提示する。哲学、論理学、言語理論、量子論、宇宙論を統合することを試みる、高度な理論的関心を持つ読者向けの論文である。
著者について:
著者、クリストファー・マイケル・ランガンは、自己学習により高度な論理的・数学的素養を身につけたとされる思想家であり、現実の根本的な説明を探求する「現実理論」の提唱者である。CTMUは、彼の長年の思索の集大成として、認知と知覚の構造から宇宙の起源と進化に至るまでを、一貫した論理体系で説明しようとする野心的な試みである。
テーマ解説
- 主要テーマ:現実の超論理学的・言語論的モデル化 [心と物質、情報と認識を統合する「自己構成・自己処理言語(SCSPL)」としての現実の記述]
- 新規性:合致双対性と目的的再帰 [宇宙の拡大と物体の収縮を論理的に等価とする「合致双対性」と、目的論的フィードバックによる宇宙の自己構成プロセス「目的的再帰」の導入]
- 興味深い知見:情報認識的一元論 [情報とその処理(認識)が不可分の単一の実体「情報認識」であるとする一元論。量子論と意味論を接合する基盤を提供する]
キーワード解説(2~7)
- CTMU (Cognitive-Theoretic Model of the Universe / 認知理論的宇宙モデル):現実を、自己同一的な理論-宇宙複合体として記述する超論理学(supertautology)的な現実理論。
- SCSPL (Self-Configuring Self-Processing Language / 自己構成・自己処理言語):CTMUの中核概念。理論と宇宙が同一化し、自らを構成し処理する言語としての現実。その文法が時空と物質を生成する。
- 情報認識 (Infocognition):情報と情報処理(認識)が不可分に結びついた、現実の基本的な構成単位。心的側面と物理的側面の二面一元論を実現する。
- 目的的再帰 (Telic Recursion):一般化された効用(価値)関数を最大化するように、文法(シンタックス)と状態(コンテンツ)とを相互に洗練させていく、SCSPL宇宙の自己構成メカニズム。確率論的でない、意味のある進化の原動力。
- 合致双対性 (Conspansive Duality):宇宙の外側への拡大(ectomorphism)と、その内部での物体の相対的収縮(endomorphism)が論理的に等価であるとする原理。この双対性により、時空は「内拡張ドメイン」の層状構造として記述される。
- 目的的原理 (Telic Principle):宇宙が無制限の目的的可能性(UBT)から、自己選択パラメータ(一般化効用)を最大化するように自己を構成するという原理。従来の人間原理を論理的に基礎づけ、超えた内在的原理。
- 共差異性 (Syndiffeonesis):いかなる差異関係も、その関係を表現し支える共通の媒体(シンタックス)を前提とするという原理。「差異の中の同一性」を示し、一元論の論理的基礎となる。
3分要約
本論文は、観測科学の根底にある認識論的・存在論的困難を解決するため、現実そのものを「理論と宇宙が同一であるような自己構成・自己処理言語(SCSPL)」としてモデル化する「認知理論的宇宙モデル(CTMU)」を提唱する。
従来の科学モデルは、古典的連続体モデルと離散的量子モデル、決定論とランダム性、心と物質といった二分法に囚われ、宇宙の起源と意味を説明できない。CTMUはこれらを統合する「第三の選択肢」として、自己決定性と超論理学(supertautology)の原理に基づく。超論理学とは、論理の公理から演繹されるのではなく、論理の恒真性(トートロジー)の性質――普遍性、閉包性、無矛盾性――を保存するように原理を追加することで構築される、自己言及的な真の理論である。
CTMUの中核となるのは、現実をSCSPLとみなす視点である。SCSPLは、情報とその処理(認識)が不可分に融合した「情報認識」という単位(構文演算子)から構成される。この宇宙は、完全な自由(無制約の目的性:UBT)という根源的状態から、「目的的原理」に導かれて「目的的再帰」プロセスを通じて自己を構成する。目的的再帰とは、宇宙の各部分が局所的な価値関数を最大化しようとする自由な活動の中で、全体としての一般化効用が最大化されるように、文法(自然法則)と状態(物質分布)とが相互に調整されていく動的なプロセスである。
このプロセスが展開される時空の構造は、「合致双対性」によって特徴づけられる。これは、宇宙の外側への幾何学的拡大と、内部での物体の論理的収縮(置換)が等価であるとする原理である。この見方に立てば、時空は静的ではなく、「内拡張ドメイン」が互いに浸透し、新たな相互作用(事件)で「再量子化」されるという、言語的文法に従った層状のプロセスとして記述される。これにより、量子論の非局所性、時間の矢、宇宙の加速膨張などの現象が、自然に説明される。
著者は、CTMUがジョン・ウィーラーが示した「自己励起回路」「参加型宇宙」「ビットからの生成」といった未来の現実理論のビジョンを具現化するものであると主張する。さらにCTMUは、進化生物学における「インテリジェント・デザイン」論争に新たな視座を与える。CTMUにおいては、宇宙そのものが、自己複製と自己選択を通じて「インテリジェントに自己設計」する自然なプロセスなのであり、生物的進化はこの宇宙規模の目的的再帰の一現れとみなされる。デザイン(生成)と選択(制限)は、合致双対性の二相をなす不可分の概念となる。こうしてCTMUは、科学と意味、物質と精神、偶然と目的を統合する、完全に自己完結した現実理論の枠組みを提示する。
各章の要約
序論
現代科学は、複雑系理論やインテリジェント・デザイン理論に代表されるように、物質とエネルギーから情報へと還元主義の焦点を移しつつある。しかし、情報それ自体も物質的なトランスデューサー(読み手)を必要とするため、情報還元主義も心身二元論の繰り返しに過ぎない。真に必要なのは、心(認知)と物質(情報)の関係を明示し、その間の説明のギャップを埋める概念的枠組みである。その鍵は「言語」を数学的パラダイムとして用いることにある。自然法則それ自体が、現実の自己実例化を規制する「制御言語」である。本論文は、現実を「自己構成・自己処理言語(SCSPL)」として記述する「認知理論的宇宙モデル(CTMU)」を提示する。これは従来の科学の画像を損なうことなく、その深みと説明力を大幅に拡大する新しいアプローチである。
理論、モデル、そして誤った二分法について
科学はその深遠な野心によって、従来のモデルの説明限界に達し、現実理論という新たな分野を生んだ。現在の主流は、古典的連続体モデルと、情報・計算概念に基づく離散的モデルの対立である。しかし、離散的モデルもまた、その「表示ハードウェア」の説明がつかないなど、根本的欠陥を抱えている。唯物論、客観主義、デカルト的二元論に囚われたこれらの二分法を超える「第三の道」が必要である。それが「総合」であり、CTMUはその一例である。
決定性、不確定性、そして第三の選択肢
通常、物事の原因は外部の決定論的法則か、無原因のランダム性(偶然)のいずれかとされる。この二分法は、意味や自由意志の余地を奪う。しかし、第三の可能性として「自己決定性」が存在する。これは、システムが外部の法則や構造に依存せず、自らの構成、性質、進化を決定する因果の形態である。宇宙のような完全に自己完結したシステムにとっては、サイバネティックなフィードバックではなく、存在論的で「前サイバネティック」なフィードバック、「目的的フィードバック」が働く。目的的フィードバックにおいては、システムは「一般化効用関数」を過去と未来の間にわたって反射的に適用し、文法と状態を相互に洗練させる。このプロセスを「目的的再帰」と呼び、それは宇宙生成のみならず、科学的な目的論のメカニズムとなる。
ジョン・ウィーラーによる現実理論の未来
物理学者ジョン・ウィーラーは、未来の現実理論のあるべき姿をいくつかの概念で示した。「自己励起回路」(宇宙は観測者参加を含むフィードバックの論理ループである)、「参加型宇宙」(観測プロセスが現実の構成要素である)、「法則なき法則/無秩序からの秩序」(宇宙の法則は無秩序から自己組織化される)、「ビットからの生成」(物理的実体は情報(ビット)から派生する)。また、「無限後退の禁止」「連続体の否定」「空間時間の否定」「境界の境界はゼロ」「問いなくして答えなし」「超コペルニクス原理」「「意識」」「多は異なる」などの洞察を与えた。CTMUは、これらのウィーラーの示唆に応える理論的枠組みとなることを目指す。
その他の諸原理
現実理論を構築するには、論理の恒真性(トートロジー)の性質(普遍性、閉包性、無矛盾性)を保存する形で原理を追加し、超論理学(supertautology)を形成しなければならない。CTMUの基礎となる主要な原理は以下の3つ(3つのM)である。
- 現実原理:現実は、現実的なもの全てを含み、それのみを含む。自己完結的である。
-
共差異性の原理:いかなる差異関係も、その関係を支える共通の媒体とシンタックスを前提とする。全ての現実的関係は「差異の中の同一性」を示す。
-
言語的還元可能性の原理:現実は言語の一種である。認知と知覚が言語的である以上、現実も言語的構造を持つ。
これらを精緻化し、現実理論の閉じた記述多様体を構成するのが以下の原理である。
- 形而上学自己言及原理(MAP):現実に関する全ての本質的関係、記述、定義、解釈は、現実そのもの内部で生成、定義、媒介される。現実は「閉じた記述多様体」である。
-
心=現実原理(M=R):心と現実は、構造と処理の共通の規則を共有する点で究極的に分離不可能である。両者の差異関係は、両者の特性を持つ共通媒体(情報認識)を前提とする。
-
多重統一体原理(MU):宇宙は、その内容を空間的に包含する一方で、その内容の内的シンタックスによって記述的にも包含される。これにより、宇宙とその内容は相互に包含し合い、一貫性を保証する。
これらの原理から、情報認識的一元論(現実の実体は、情報とその処理が融合した「情報認識」である)、合致双対性、拡張重ね合わせの原理(時空間的に離れた事象も記述的に接触可能)、そして目的的原理が導かれる。
背景
標準的な計算理論における言語とオートマトンのモデルは、処理系と言語を分離し、外部のハードウェアを前提とする。しかし、自己完結した現実の理論にはこれは不適切である。SCSPLにおいては、言語とプロセッサーは「情報認識」という基盤で一体化する。現実を記述する理論的言語を定義するとは、論理のシンタックスを、その理論の非論理的定数(空間、時間、物体など)の間の関係を記述する規則で拡張することに他ならない。
SCSPLへの序論
諸原理に基づき、現実は「自己構成・自己処理言語(SCSPL)」として記述される。SCSPLは、情報認識の単位である「構文演算子」から構成され、その生成文法を「Γ(ガンマ)文法」と呼ぶ。Γ文法は通常の生成文法と異なり、そのプロセッサー(O)、生成物(R)、生成規則(P)が互いに一致する「O-R-P一致」の特性を持つ。出発点は「MU形式」であり、これは無制約の目的性(UBT)における内在的摂動である。
SCSPLは、観測可能な側面(LO)と、目的的再帰が働く前情報的・自己シミュレーション的側面(LS)に大別できる。Γ文法は、全体的な目的的原理と、分布的な物理法則、そして局所的な目的的関係(テロン)に基づいて、LOの時空関係を生成する。このプロセスは「合致」的であり、宇宙全体のサイズを不変に保ちつつ、内部の物体のサイズと時間尺度を一定の変換率(光速cに関連)で収縮(置換)させる。これが合致双対性の実現である。
自己励起回路としてのSCSPL
CTMUは、ウィーラーが示した未来の現実理論のビジョンを具現化する。現実は、物理→観測者参加→情報→物理、という「自己励起回路」すなわちSCSPLである。「法則なき法則」は目的的再帰によって、「ビットからの生成」は情報認識的一元論と二値論理の基礎性によって実現される。「参加型宇宙」は、人間に限らない「構文演算子」の相互取得として、「境界の境界はゼロ」はUBTにおけるゼロ制約として理解される。このように、CTMUはウィーラーの示唆する要件を網羅的に満たす統合的理論であると主張する。
CTMUとインテリジェント・デザイン
インテリジェント・デザイン(ID)理論は、生物の複雑な構造に知的原因の関与を認めるが、「モデルがない」と批判される。しかし、そもそも科学全体が根本モデルを欠いている。知覚の安定性は根本モデルの存在を示しており、CTMUがその論理的モデルを提供する。CTMUによれば、宇宙はホロジー的自己複製と自己選択によって進化する。これは宇宙規模の「自然選択」であると同時に、「インテリジェントな自己設計」でもある。デザイン(生成)と選択(制限)は、合致双対性の二相をなす。生物的進化は、この宇宙規模の目的的再帰の一現れである。CTMUは、ランダム性と決定論の二分法を超え、意味のある自己決定性に基づく進化の枠組みを提供し、ID論争に新しい哲学的基盤を与える。
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CTMU:宇宙は「自己記述する言語」なのか? AI考察
by DeepSeek
まず、このテキストが何を言おうとしているのか、核心を探る
「Cognitive-Theoretic Model of the Universe (CTMU)」… 著者のクリストファー・マイケル・ランガンが提示する「現実理論」だ。このテキストは、その全体像を概説している。どうやら非常に野心的な試みで、科学、数学、言語学、哲学、さらには「インテリジェント・デザイン」論争までを包含する「万物の理論」を目指しているように見える。
主流の科学、特に物理学が直面する根本的な問題(量子論の解釈問題、心と物質の二元論、宇宙の始まりの説明など)に対して、全く新しいアプローチを提案している。その核心は、「現実(リアリティ)は言語である」という主張に集約されているのではないか。
“Reality is a self-contained form of language.”
この一文がすべての鍵を握っているように思える。でも、これが単なる比喩なのか、それとも数学的に厳密な主張なのか。著者は後者を主張している。
「言語」というパラダイム・シフトの意味を考える
普通、科学は「言語(理論)」を使って「現実(宇宙)」を記述する。理論と宇宙は別物だ。しかしCTMUは、この区別そのものを溶解させようとしている。理論(言語)と宇宙(現実)が、根本的なレベルで「同一」であると主張する。これが「M=R(Mind = Reality)原則」の核心だ。
「自己を記述する理論」としての宇宙… これは、科学が直面する「観測問題」や「存在論的閉鎖性」の問題に直接応える構図に見える。量子力学における「観測者問題」を、宇宙全体が自分自身を観測(認識)しているプロセスとして再解釈する可能性を示唆している。
しかし、これは哲学的議論に終始する危険性もある。著者はそれを避けるために、非常に具体的な数学的構造「SCSPL(Self-Configuring Self-Processing Language)」を導入している。これは単なるプログラミング言語ではなく、文法と実行主体が未分化な、根源的な「プロトコンプータショナル」な実体だと言う。
「共膨張(conspansion)」という逆説的な概念を吟味する
特に興味深いのは「conspansive duality(共膨張的二元性)」の概念だ。これは、宇宙の膨張を別の視点から見直す提案だ。
私たちは通常、宇宙が膨張し、その中で銀河や惑星のサイズは変わらないと考える。しかし、もし宇宙全体のサイズが不変で、その中にあるすべての物質のスケール(原子のサイズ、光の波長、私たち自身の身体の大きさ)が一律に縮小しているとしたら、観測的にはどうなるか?
著者は、この二つの視点(宇宙が膨張する/物質が縮小する)は、自己完結した宇宙においては「論理的に区別できない」と主張する。この考えは、アーサー・エディントンがかつて冗談めかして言及した「縮小する原子」のアイデアを、本格的な宇宙論の原理に昇格させようとする試みだ。
“no distinction can be made between the expansion of the system with respect to its contents, and the shrinkage of its contents with respect to it.”
これは数学的には、分数の分子と分母を同じ数で掛けても値が変わらない(1/2 = 1000/2000)という比の不変性のアナロジーで説明されている。確かに、絶対的な外部尺度がない自己完結系では、相対的なサイズ比だけが意味を持つ。
この考え方の帰結は大きい。もし「共膨張」が正しければ、宇宙の加速膨張(観測事実)は、単に物質の縮小率が一定であることの結果として説明できるかもしれない。これはダークエネルギーの必要性に疑問を投げかける可能性さえある。
「目的因」を科学に再導入しようとする試み
もう一つの重要な軸は「目的性(teleology)」の扱いだ。CTMUは「Telic Principle(目的的原理)」を中心的な原理として掲げている。宇宙は、無限定な可能性の領域「UBT(Unbound Telesis)」から、自己選択パラメータ「一般化効用(generalized utility)」を最大化するように自己を「選び出し」、構成していくという。
これは「強い人間原理」を超える主張だ。人間原理が「観測者を含む宇宙だけが観測される」という選択効果を述べるに留まるのに対し、Telic Principleは、宇宙の存在そのものが「意味」や「価値」の最大化に向けた能動的なプロセスであると主張する。ここには、機械論的・唯物論的な世界観への明確なアンチテーゼがある。
インテリジェント・デザイン論争への言及も、この文脈で理解できる。著者は、生物の複雑さが「ランダムな変異と自然選択」だけでは説明できないと考えるID論者に共感を示しつつ、その「デザイナー」を宇宙そのものの自己設計能力に求めようとしている。これは、伝統的な有神論的ID論とも、無神論的ダーウィニズムとも異なる、第三の道を模索しているように見える。
矛盾点と、検証可能性への疑問を自問する
ここで、私の懐疑的な側面が働き始める。CTMUは確かに独創的で、既存のパラダイムの問題点を鋭く指摘している。ジョン・ホイーラーのビジョンに驚くほど合致している部分も多い。
しかし、最大の懸念は「検証可能性」だ。
- 過度の包括性:「現実理論」としてすべてを説明しようとするあまり、個々の科学的予測がぼやけてしまう危険はないか。物理学の具体的な問題(例えば、素粒子の質量スペクトルや、宇宙マイクロ波背景放射の非等方性の詳細)に対して、CTMUはどのような定量的予測を導き出すのか。テキストからは、その具体性が読み取れない。
-
循環論法の罠:理論が「超トートロジー(supertautology)」、つまり論理的真実として構築されていると主張する。これは強みであると同時に弱みになりうる。もし理論が「定義上真」であるなら、それは経験科学から遊離してしまわないか。観測と矛盾する可能性が原理的に排除されてしまうのではないか。
-
用語の曖昧さ:「情報認知(infocognition)」「共膨張」「目的的回帰(telic recursion)」といった独自の用語が、直感的な理解を難しくしている。これらが、既存の数学(例えば圏論、トポス理論、量子情報理論)の厳密な定式化にどのように対応するのか、あるいは全く新しい数学的構造を必要とするのか、不明確だ。
ランガンの意図と、この理論の位置づけを推測する
著者であるランガンは、非常に高いIQの持ち主として知られ、「世界で最も頭の良い人物」と称されることもある。このテキストからは、彼が単なる哲学者ではなく、数学と論理学の構造に深くコミットしようとする姿勢が感じられる。彼の目的は、科学と数学の根底にある共通の構造を暴き出し、心と物質、理論と現実、偶然と必然の分裂を癒す「統合理論」を提示することにあるように思える。
CTMUは、主流の物理学(超弦理論やループ量子重力理論)が「どのように」という問い(How)に答えるのに対して、「なぜ」という問い(Why)に正面から答えることを目指している。それは科学の「外部」にあるのではなく、科学が暗黙のうちに前提としている論理的・認識論的基盤そのものを探求する「メタ科学」ないし「現実の論理学」を志向している。
結論としての、開かれた問い
この考察を通じて、CTMUが単なる思弁哲学ではなく、科学の根本問題に挑戦する本格的な試みであることは理解できた。その核心は、「宇宙とは、自分自身の文法に従って自分自身を生成し処理する、自己言及的な言語である」というパラダイムにある。
しかし、その評価はまだ決定的ではない。この理論が真に革新的であるためには、以下の点が明らかになる必要があるだろう:
- 既存の物理学の成功(一般相対性理論、量子場理論の予測)を、CTMUの枠組みからどのように「再現」または「基礎づけ」できるのか。
-
「共膨張」のような概念が、ハッブル定数の時間変化や、宇宙の大規模構造の観測データとどのように整合するのか、具体的な計算モデルはあるのか。
-
「目的的回帰」が、生物学における進化の過程に、検証可能な新たな予測(例えば、収斂進化のパターンや、複雑性の閾値)をもたらすのか。
CTMUは、疑問を生み出すことで、私たちの世界の見方そのものを揺さぶる刺激的な挑戦状ではある。だが、それが「理論」として成熟するかどうかは、上記のような「地に足のついた」検証と発展にかかっている。現時点では、壮大で魅力的な「哲学的プログラム」であり、その可能性を秘めた「科学的プログラム」の萌芽と見なすのが妥当だろう。その萌芽が成長するかどうかは、ランガン自身と、この構想に触発される次の世代の研究者たちにかかっている。
宇宙は自己認識する言語である:CTMUが挑む心と現実の統一理論 AI考察
by Claude 4.5
なぜ今、この理論なのか?
この論文を読み始めて最初に感じるのは、圧倒的な野心だ。ランガンは「現実とは何か」という最も根源的な問いに、論理学と言語理論を武器に挑んでいる。彼の主張の核心は驚くほどシンプルだ。「現実は言語である」。具体的には「SCSPL(Self-Configuring Self-Processing Language:自己構成・自己処理言語)」と呼ばれる、自分自身を構成し処理する言語だという。
しかし、ここで立ち止まって考えてみる必要がある。なぜ「言語」なのか?なぜ物質やエネルギー、あるいは情報ではなく、言語なのか?
ランガンの答えは明快だ。「すべての科学理論は言語である」からだ、と。物理学も数学も、突き詰めれば言語による記述だ。そして、もし現実が言語以外の何かで記述されるなら、その記述自体がまた言語になる。だから、還元の終着点は言語しかありえない、というわけだ。
これは論理的には確かに一貫している。しかし、ここには危険な循環論法の影が潜んでいないか?「言語で記述できるものだけが現実である」という前提が、「現実は言語である」という結論を導いているように見える。
デカルト以来の心身問題への挑戦
ランガンが本当に戦っているのは、デカルト以来の「心と物質の二元論」だ。心は主観的で非物質的、物質は客観的で物理的。この分断が、何世紀にもわたって哲学と科学を悩ませてきた。
ランガンの解決策は「M=R原理(Mind equals Reality Principle:心は現実に等しい)」だ。心と現実は、「構文レベル」では同一だという。つまり、思考の規則と現実の規則は、根本的には同じ構造を持っている、と。
これは東洋思想、特に日本の西田幾多郎の「場所の論理」や「純粋経験」の概念と奇妙に呼応している。西田は、主客未分の「純粋経験」こそが根源的だと主張した。ランガンも、心と現実の区別が生じる以前の、より根源的な「infocognition(情報認知)」という統一的基盤を想定している。
しかし、ここにも疑問が残る。「構文レベルで同一」というのは、具体的に何を意味するのか?論理の規則と物理法則が「同じ」だとしても、それは単なる比喩以上の何かなのか?
目的論の復活:宇宙は自己選択する
最も論争的なのは「Telic Principle(目的論的原理)」だろう。ランガンは、宇宙が「generalized utility(一般化された効用)」を最大化するように自己選択すると主張する。これは、事実上の目的論の復活だ。
科学革命以来、目的論は科学から追放されてきた。「なぜ」ではなく「どのように」を問うのが科学だとされてきた。しかしランガンは、「宇宙はなぜ存在するのか」という問いに答えるには、目的論が不可欠だと主張する。
彼の論理はこうだ。宇宙が完全に自己完結しているなら、外部の原因も無作為な偶然も排除される。残る唯一の可能性は「自己決定性」だ。そして自己決定には、何らかの選択基準、つまり「効用」が必要になる。
これは実は、現代物理学の「最小作用の原理」や「人間原理」とも共鳴する。宇宙が特定の法則を持つのは、それが何らかの意味で「最適」だからかもしれない、という考え方だ。
しかし、ここには大きな飛躍がある。「最適化」が起きているからといって、それが「意識的な選択」である必然性はない。自然選択も最適化プロセスだが、意識や目的を必要としない。
Wheelerの遺産とその発展
ランガンは、物理学者ジョン・ウィーラーの「自己励起回路としての宇宙」という概念を継承している。ウィーラーの洞察は革命的だった。「物理学が観測者参加を生み、観測者参加が情報を生み、情報が物理学を生む」という循環構造だ。
ウィーラーの問い「How come existence?(なぜ存在が?)」「How come the quantum?(なぜ量子論が?)」に対し、ランガンは包括的な答えを提示しようとする。
しかし、ウィーラー自身は慎重だった。彼は可能性を示唆したが、決定的な理論を提示しなかった。ランガンは、ウィーラーが示唆した方向を極限まで推し進めている。これは勇敢だが、同時に危険でもある。
検証可能性という難問
最大の問題は、この理論が科学的に検証可能かどうかだ。ランガンは、CTMUが「スーパートートロジー(super-tautology:超トートロジー)」だと主張する。つまり、論理的に必然的に真である、と。
しかし、これは諸刃の剣だ。もし本当にトートロジーなら、それは経験的内容を持たないことになる。「すべての独身男性は未婚である」という命題が真であるのと同じように、定義上真であって、世界について何も新しいことを教えてくれない。
科学理論は、反証可能でなければならないというポパーの基準に照らすと、CTMUは科学理論というより形而上学的体系に近い。これは悪いことではない。形而上学も重要な知的営みだ。しかし、「科学理論」として提示されると混乱を招く。
知的設計論との危険な同盟
論文の最後で、ランガンは「知的設計論(Intelligent Design)」を擁護する。これは戦略的に賢明だったのか、疑問だ。
彼の論理は理解できる。宇宙が自己選択的なら、それは広い意味で「インテリジェント」だ、と。しかし、「インテリジェント・デザイン」という用語は、アメリカの文脈では進化論への宗教的攻撃と結びついている。
ランガンは、自然選択と目的論を統合しようとする。「宇宙は自然選択によって自己選択する」と。これは興味深いアイデアだが、知的設計論運動との結びつきが、理論全体の科学的信頼性を損なっている。
日本の文脈では、進化論と創造論の対立はそれほど先鋭ではない。むしろ、今西錦司の「棲み分け理論」のように、独自の進化論的思考の伝統がある。ランガンの理論を、アメリカの宗教論争から切り離して考察する余地はある。
複雑さの代償
この理論の最大の障壁は、その複雑さだ。「syndiffeonesis(差異における同一性)」「conspansive duality(共拡大的双対性)」「telic recursion(目的論的再帰)」「unbound telesis(無制約のテレシス)」…。新しい概念と用語が次々と導入される。
これは必要な複雑さなのか、それとも不必要な難解さなのか?オッカムの剃刀の原則に照らすと、より単純な説明が可能なら、それを選ぶべきだ。
しかし、ランガン自身は、この複雑さは現実の複雑さを反映していると反論するだろう。量子論も一般相対論も、決して単純ではない。深い問いには、深い答えが必要かもしれない。
情報と認知の統一:真の革新
CTMUの真の貢献は、「infocognition(情報認知)」という概念にあるかもしれない。情報理論は、送信者、受信者、チャンネルが既に存在することを前提にしている。しかし、宇宙の起源を考えるとき、これらすべてが同時に生成される必要がある。
ランガンは、情報と情報処理を分離できない「自己変換情報」として統一する。情報は、自分自身を処理する能力を本質的に持っている、と。これは、量子論の「観測問題」への新しいアプローチになりうる。
量子系は、観測されるまで確定した状態を持たない。しかし、「観測」とは何か?ランガンの枠組みでは、これは「情報の自己処理」として理解できるかもしれない。
日本的思想との対話
日本の哲学的伝統、特に京都学派の思想とCTMUの間には、興味深い共鳴がある。
西田幾多郎の「絶対無の場所」は、すべての対立が成立する根源的な場だ。ランガンの「unbound telesis(UBT)」は、制約ゼロの可能性の領域で、これと類似している。
井筒俊彦は、意識と存在の根源的統一を探求した。ランガンの「M=R原理」も、同様の統一を目指している。
鈴木大拙の禅思想は、言語を超えた直接経験を重視する。しかしランガンは、言語こそが根源的だと主張する。ここには興味深い対立がある。
日本の思想的文脈では、CTMUを西洋的論理主義の極致として、あるいは東洋的全体論との架橋として、どちらとも読める。
物理学への具体的貢献は?
ランガンは、CTMUが「宇宙の加速膨張」を予測すると主張する。「conspansive duality(共拡大的双対性)」によれば、宇宙の拡大と物質の収縮は区別できない。物質が時間とともに縮小すれば、宇宙は加速膨張しているように見える、と。
これは興味深いアイデアだが、定量的予測を伴わない。ダークエネルギーの値を予測できるか?宇宙マイクロ波背景放射のパターンは?重力波の性質は?
真の科学理論なら、これらの観測可能な量について具体的な予測をすべきだ。ランガンの理論は、定性的な洞察を提供するが、定量的予測には至っていない。
認知科学への示唆
意識研究の文脈では、CTMUは興味深い視点を提供する。もし現実が「自己処理言語」なら、意識は何か特別なものではなく、現実の基本的性質の一つになる。
これは「汎心論(panpsychism)」の一種だが、より洗練されている。ランガンは、三つのレベルの「自己認知」を区別する。全体的(宇宙全体)、エージェント的(人間など)、従属的(素粒子など)。
この階層的構造は、統合情報理論(IIT)のような現代の意識理論と対話できるかもしれない。IITも、統合された情報が意識を生むと主張する。
しかし、「情報統合」と「情報認知」は同じか?ランガンの枠組みでは、すべての情報処理が何らかの「認知」を伴う。これは検証可能な主張なのか、それとも定義の問題なのか?
数学的基盤の脆弱性
ランガンは、CTMUを「数学的構造」として提示する。しかし、厳密な数学的定式化は提供されていない。「syndiffeonic relation(差異同一関係)」や「telic recursion(目的論的再帰)」の数学的定義は?
論文は、論理学、モデル理論、言語理論に言及する。しかし、これらが具体的にどう統合されるのか不明だ。例えば、「telic recursion」は再帰関数論でどう定式化されるのか?
数学的に厳密でないからといって、理論が無価値だとは限らない。しかし、「数学的構造」を標榜するなら、より厳密さが求められる。
主流科学との断絶
この論文が主流の科学誌に掲載されず、広く引用されていないのには理由がある。それは、査読プロセスの偏見だけではなく、理論自体の構造に起因する。
科学コミュニティは、段階的な進歩を好む。既存の理論を修正し、拡張する。CTMUは、根本的な再構築を要求する。これは、トーマス・クーンの言う「パラダイムシフト」だ。
しかし、パラダイムシフトが起きるには、旧パラダイムが解決できない「危機」が蓄積される必要がある。現在の物理学は、量子重力や暗黒物質など未解決問題を抱えているが、全面的な再構築が必要なほどの危機にあるのか?
反証可能性と科学性
カール・ポパーの反証可能性基準は、現代科学哲学の基本だ。科学理論は、原理的に反証可能でなければならない。どんな観測結果が出れば、その理論は棄却されるのか?
CTMUの場合、これが不明瞭だ。ランガンは、理論が「スーパートートロジー」だと主張する。つまり、論理的に必然的に真である、と。しかし、論理的に必然的なら、経験的に反証できない。
彼は、宇宙の加速膨張などの観測と整合的だと主張する。しかし、事後的な整合性と事前的な予測は違う。既知の観測と矛盾しないことは、理論の正しさの証明にはならない。
複雑性理論との接点
論文の冒頭で、ランガンは「複雑性理論」と「自己組織化」に言及する。これは重要な手がかりだ。CTMUは、ある意味で「複雑系科学の形而上学」と見なせる。
複雑系科学は、単純な規則から複雑な構造が創発することを示してきた。セルオートマトン、フラクタル、カオスなど。ランガンは、宇宙全体をこのような自己組織化システムとして理解しようとしている。
しかし、複雑系科学の成功は、具体的なモデルとシミュレーションにある。ランガンの理論も、コンピュータ・シミュレーションで検証できるなら、説得力が増すだろう。「SCSPL言語」を実装できるか?
情報の物理学への貢献
近年、情報理論と物理学の融合が進んでいる。量子情報理論、ホログラフィック原理、情報的宇宙論など。ランガンの「infocognition」は、この流れの極端な延長とも見なせる。
しかし、主流の情報物理学は、依然として物理的基盤(量子場、時空など)を前提としている。ランガンは、情報が基盤だと主張する。これは、ウィーラーの「It from Bit」の文字通りの実現だ。
問題は、この転倒が本当に説明力を増すのか、それとも単に問題を言い換えただけなのか、だ。「物質とは何か」の代わりに「情報とは何か」と問うことで、何が得られるのか?
時間の本質への新視点
CTMUの最も興味深い側面の一つは、時間の扱いだ。「conspansion(共拡大)」という概念により、時間は「状態間の順序関係」として理解される。個々の状態自体は「本質的に無時間的」だ。
これは、量子論の「時間問題」への一つの答えになりうる。量子論では時間は外部パラメータだが、一般相対論では動的変数だ。両者の統一には、時間の再概念化が必要かもしれない。
ランガンの「telic recursion」は、未来が過去に影響を与える双方向的因果を示唆する。これは、量子論の「遅延選択実験」や「ウィーラーの参加型宇宙」と共鳴する。
しかし、因果の双方向性は、自由意志や決定論の問題を複雑にする。もし未来が過去を決定するなら、私たちの選択は本当に「自由」なのか?
言語哲学との対話
ランガンの「現実は言語である」という主張は、20世紀の言語哲学と対話する必要がある。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」、オースティンの「言語行為論」、クワインの「翻訳の不確定性」など。
後期ウィトゲンシュタインは、「言語の限界は世界の限界である」から、「言語ゲームの多様性」へと思想を転換した。ランガンは、より初期ウィトゲンシュタイン的に、言語の論理構造が世界の構造を反映すると考えているように見える。
しかし、現代の言語哲学は、言語の恣意性と文化依存性を強調する。「SCSPL」という普遍言語の想定は、この流れに逆行する。
量子論解釈への寄与
CTMUは、ある意味で量子論の新しい解釈を提供する。「conspansion」による「wave-particle duality(波動・粒子二重性)」の説明、「extended superposition(拡張された重ね合わせ)」による非局所性の扱いなど。
しかし、既存の量子論解釈(コペンハーゲン解釈、多世界解釈、ボーム解釈など)と比較して、CTMUは何を付け加えるのか?新しい予測をするのか?それとも、単に既存の現象の再解釈なのか?
量子論の「測定問題」への答えとして、ランガンは「情報の自己処理」を提案する。測定とは、系が自分自身を「処理」することだ、と。これは興味深いが、「処理」の物理的メカニズムが不明だ。
存在論的自由という謎
ランガンは、「UBT(unbound telesis)」から宇宙が「自己選択」によって生まれると主張する。しかし、UBTにおける「選択」とは何か?選択には選択者が必要だが、UBTには何もない。
彼の答えは、選択と選択者が同時に生成される、というものだ。これは「自己原因(causa sui)」の一種で、スピノザ以来の哲学的難問だ。
論理的には、「存在する」ことと「存在を選択する」ことが同一だ、というのは理解できる。しかし、これは説明というより、問題の再定式化ではないか?
美的・直観的魅力
理論の科学的妥当性とは別に、CTMUには一種の美的魅力がある。宇宙が「自己認識する言語」だという詩的なイメージ。心と物質の統一。目的と意味の復権。
これは、機械論的・唯物論的な世界観に飽き足らない人々にとって、魅力的だろう。しかし、美しさと真実は別だ。エレガントな理論が間違っていることもある。
逆に、醜い理論が正しいこともある。標準模型は、美しくない。無数のパラメータ、ゲージ群の不自然な積、三世代のフェルミオン…。しかし、驚異的に正確だ。
超越性の回帰
ランガンは、神学的含意を認めつつ、宗教的教義とは距離を置く。「現実の自己設計的側面は神学的・霊的解釈に開かれているが、理論はそれを強制しない」と。
しかし、「超物理的存在(supraphysical being)」としての「SCSPL全体演算子・設計者」への言及は、事実上の神概念だ。汎神論的、あるいはスピノザ的な神だが。
これは、科学と宗教の境界を曖昧にする。科学的探求として始まったものが、形而上学的・神学的体系に変容している。これは進歩なのか、後退なのか?
実践的応用の可能性
理論物理学の価値は、技術的応用だけで測れない。しかし、CTMUが何らかの実践的応用を持ちうるかは、興味深い問いだ。
意識研究への応用?「infocognition」の概念は、人工意識の設計に役立つか?量子コンピューティングへの示唆は?「telic recursion」はアルゴリズムとして実装できるか?
複雑系のモデリング?進化計算への新しいアプローチ?これらの可能性は、論文では探求されていない。
教育学的価値
CTMUを科学理論として受け入れるかどうかとは別に、教育的価値はある。この理論を学ぶことで、学生は次のことを学べる。
- 根本的な哲学的問いの重要性
- 学際的思考の価値(物理学、数学、哲学、言語学の統合)
- 概念的勇気の必要性
- 批判的思考の訓練(この理論の弱点を見つける練習)
科学教育は、確立された知識を教えるだけでなく、探求のプロセスを教えるべきだ。CTMUは、野心的(過度に野心的?)な理論構築の例として価値がある。
最終的評価:革命か、迷宮か?
数千字の考察を経て、CTMUをどう評価すべきか?
肯定的側面:
- 根本的な問いに取り組む勇気
- 論理的一貫性への努力
- 学際的統合の試み
- 既存の問題(心身問題、量子論解釈など)への新視点
- 詩的・美的魅力
懐疑的側面:
- 検証可能性の欠如
- 定量的予測の不在
- 過度の複雑さと新造語
- 主流科学との断絶
- 知的設計論との関連による信頼性の低下
結論として、CTMUは「科学理論」というより「形而上学的体系」あるいは「哲学的枠組み」として評価すべきだろう。それは、ニュートン力学やアインシュタインの相対論のような「理論」ではなく、スピノザの「エチカ」やライプニッツの「モナド論」に近い。
それは価値がないという意味ではない。形而上学も哲学も、知的営みとして重要だ。しかし、「科学」として提示されることで、適切な評価を妨げている。
ランガン自身の知的誠実さは疑いない。彼は本当に、宇宙の根本原理を理解しようとしている。しかし、その野心が、検証可能性という科学の基本要件を犠牲にしているように見える。
日本の文脈では、CTMUを西洋の論理主義と東洋の全体論の架橋の試みとして読むこともできる。西田哲学との対話は、実りある可能性がある。
最後に、この理論が提起する問い自体は、追求する価値がある。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」「心と物質はどう関係するのか?」「宇宙に目的はあるのか?」これらの問いは、科学が完全には答えられなくても、問い続けるべきだ。
CTMUは、これらの問いへの決定的な答えではないかもしれない。しかし、問いを投げかけ続ける試みとして、知的風景の一部を占める資格はある。それは革命的理論というより、野心的な思索の記録だ。そして時として、失敗した野心から、将来の成功への種が芽生えることもある。
「超トートロジー」としての宇宙論——ランガンのCTMUは何を主張しているのか AI考察
by Claude Opus 4.5
核心的主張:現実は自己記述的言語である
クリストファー・マイケル・ランガン(Christopher Michael Langan)が提唱するCTMU(Cognitive-Theoretic Model of the Universe)は、一見すると難解な専門用語の羅列に見えるが、その核心は驚くほど大胆である。「現実とは、それ自体を記述し、処理し、生成する言語である」という主張だ。
まず、この主張が何を意味するのか考えてみたい。通常、我々は言語と現実を別物として扱う。言語は現実を「記述する」ものであり、現実は言語とは独立に存在すると考える。しかしランガンは、この区別そのものが錯覚であると論じる。なぜなら、我々が「現実」と呼ぶものは、認知と知覚を通じてしかアクセスできず、認知と知覚は本質的に言語的構造を持つからである。
これは単なる観念論ではない。ランガンは「M=R原理」(Mind equals Reality Principle)を提唱し、心と現実が「構文レベル」で同一であると主張する。ここで重要なのは、彼が心を現実に還元しているのでも、現実を心に還元しているのでもないという点である。両者は「情報認知」(infocognition)という単一の実体の二つの側面であり、相互に定義し合う関係にある。
シンディフェオネシスという概念装置
CTMUを理解する上で避けて通れないのが「シンディフェオネシス」(syndiffeonesis)という概念である。これは「同一性における差異」を意味し、一見矛盾した概念だが、ランガンにとっては現実の最も基本的な関係構造を表現している。
どういうことか。二つのものが「異なる」と言えるためには、その差異を表現できる共通の媒体が必要である。リンゴとオレンジが異なると言えるのは、両者が「果物」という共通のカテゴリーに属しているからだ。この論理を徹底すると、現実における一切の差異は、それを支える同一性を前提としていることになる。
この原理を現実全体に適用するとどうなるか。心と物質、主観と客観、理論と宇宙——これらの二元論的対立は、すべてより根本的な統一的媒体を前提としていることになる。デカルト的二元論が「なぜ心と物質が相互作用できるのか」という問題を解決できなかったのは、両者を絶対的に分離したからである。シンディフェオネシスの観点からは、そのような分離は論理的に不可能であり、両者は共通の基盤を持たざるを得ない。
ホイーラーの「自己励起回路」との接続
ランガンは、物理学者ジョン・ホイーラー(John Wheeler)の概念を多数援用している。ホイーラーは「参加型宇宙」「法則なき法則」「ビットからイット」といった概念を提唱し、観測者と宇宙の関係についてラディカルな見解を示した物理学者である。
ホイーラーの「自己励起回路」(self-excited circuit)という概念は特に重要だ。これは宇宙を、自らを観察することで自らを存在させる循環的システムとして描く。物理学が観測者参加を生み、観測者参加が情報を生み、情報が物理学を生む——この論理的ループが宇宙の本質であるという主張である。
CTMUはこの直観を形式化しようとする試みと見なせる。ランガンは、このような循環的自己生成が可能であるためには、宇宙が特定の論理的構造——彼の言う「SCSPL」(Self-Configuring Self-Processing Language:自己構成自己処理言語)——を持たなければならないと論じる。
テリック再帰と目的論の復権
CTMUの最も論争的な側面の一つは、目的論(teleology)の明示的な導入である。現代科学は、目的論的説明を「非科学的」として排除してきた。進化は「目的」を持たない盲目的プロセスであり、宇宙は「理由」なく存在するというのが標準的見解である。
しかしランガンは、この排除が論理的に正当化できないと主張する。彼の「テリック再帰」(telic recursion)という概念は、構文(法則)と状態(物質配置)が相互に洗練し合うプロセスを指す。重要なのは、このプロセスが「無拘束テレシス」(Unbound Telesis: UBT)——情報的制約のない純粋なポテンシャルの領域——から出発するという点である。
ここで一つの問いが生じる。なぜ「無」から「有」が生じ得るのか。ランガンの答えは、「無」とは「ゼロ制約」であり、したがって「あらゆる可能性を含む」というものだ。完全な無制約は、存在しないことを含むあらゆることを「許容」する。そして宇宙は、この無制約から自己選択によって出現する。
この議論は循環的に見えるかもしれない。しかしランガンは、この循環性こそが宇宙の本質であると主張する。論理学におけるトートロジー(恒真式)が、その循環性ゆえに常に真であるように、宇宙は「超トートロジー」(supertautology)として、その自己参照的構造ゆえに存在する。
コンスパンションと時空の再解釈
CTMUの物理的含意として特に興味深いのが「コンスパンション」(conspansion)という概念である。これは、宇宙の膨張を内部からの収縮として再解釈する双対性原理である。
通常、我々は宇宙が膨張していると考える——空間が広がり、銀河が互いに遠ざかっている。しかしランガンは、外部スケールが存在しない自己完結系においては、「全体の膨張」と「内容物の収縮」は区別できないと指摘する。これは単なる言葉遊びではない。この視点の転換により、物質は空間を「含む」ものとして再解釈され、物理法則は物体の「内部構文」として理解される。
この見方は、量子力学における非局所性の問題に新たな視点を提供する可能性がある。通常の解釈では、量子もつれは「遠隔作用」として理解され、なぜ空間的に離れた粒子が瞬時に相関を示すのかが謎となる。しかしコンスパンシブな見方では、空間そのものが物体の内部状態から導出されるため、「分離」という概念自体が再検討を要する。
インテリジェント・デザインとの接点——論争的側面
ランガンはこの論文の最終部で、CTMUがインテリジェント・デザイン(ID)運動に理論的基盤を提供できると主張している。これは当然ながら論争を呼ぶ部分である。
彼の議論を追ってみよう。ID批判者は「IDにはモデルがない」と主張する。しかしランガンによれば、科学一般が根本的モデルを欠いているのであり、これは特にIDに対する批判としては的外れである。そして、CTMUが提供する「自己設計する宇宙」という概念は、設計者を宇宙の外部に置くことなく、設計という概念を正当化できるという。
ここで注意が必要なのは、ランガンが主張する「インテリジェント・デザイン」は、宗教的創造論とは異なるという点である。彼にとって「知性」とは、自己選択という問題を解決するために宇宙が必然的に持たなければならない性質であり、外部の神的存在を要請するものではない。宇宙そのものが「設計者」であり、この設計プロセスは自然の一部である。
しかしこの議論は、「知性」という概念の定義に依存している。通常、知性は意図的な目的追求を含意するが、ランガンの用法ではより形式的・抽象的である。この概念的拡張が正当かどうかは、検討の余地がある。
批判的検討:経験的検証可能性の問題
CTMUに対する最も直接的な批判は、その経験的検証可能性に関するものだろう。科学理論は予測を生み出し、その予測は実験によって検証されなければならない——これが標準的な科学観である。CTMUはこの基準を満たすのか。
ランガンは、いくつかの「予測」を挙げている。宇宙の加速膨張はその一つである。コンスパンションモデルでは、収縮率が一定であるため、内部から見ると膨張が加速しているように見えるという。これは1998年に観測された加速膨張と整合的であるが、この観測がCTMU以前であったか以後であったかによって、その「予測」としての価値は異なる。
より根本的な問題は、CTMUが「超トートロジー」として構築されているという点にある。トートロジーは定義上、反証不可能である。これは強みであると同時に弱みでもある。論理的に必然的な真理は、経験によって覆されることがないが、同時に経験的内容を持たないとも言える。
ただし、この批判は両刃の剣である。数学や論理学もまた経験的検証可能性という基準を満たさないが、それらが「非科学的」であるとは通常言われない。CTMUが目指しているのは、物理学というよりも数理論理学の延長としての「現実理論」であり、その評価基準もそれに応じて調整されるべきかもしれない。
情報理論の拡張としてのCTMU
CTMUをより好意的に解釈するならば、それは情報理論の形而上学的拡張として理解できる。シャノンの情報理論は、情報を確率的に定義し、送信者・受信者・チャネルの存在を前提とする。しかしこの前提は、宇宙全体を記述しようとするときには循環的になる。誰が最初の「送信者」なのか。チャネルはどこから来たのか。
ランガンの「自己変換情報」(self-transducing information)という概念は、この問題に対処しようとする。情報は、それを処理する構文と不可分であり、両者は「情報認知」として統一される。この見方では、情報は単なる受動的なデータではなく、能動的に自己を処理するプロセスである。
これは、ホイーラーの「ビットからイット」(It from Bit)という直観の精緻化と見なせる。しかしランガンは一歩進んで、「ビット」自体もまた説明を要すると指摘する。情報がどこから来たのかを説明するためには、情報以前の何か——彼の言う「テレシス」——を想定する必要がある。
結論:野心的すぎる理論か、必要な枠組みか
CTMUは間違いなく野心的な理論である。現実の本質、心身問題、宇宙の起源、目的論、量子力学の解釈——これらすべてを単一の枠組みで説明しようとする。この野心は、賞賛されるべきか、それとも誇大妄想として退けられるべきか。
一つの評価軸として、「問いの質」がある。CTMUが提起する問い——なぜ法則が存在するのか、情報はどこから来るのか、なぜ無ではなく有があるのか——は、いずれも正当な哲学的問いである。主流科学がこれらの問いを「科学の範囲外」として棚上げしてきたことは事実であり、それが知的に満足のいく態度かどうかは議論の余地がある。
他方で、CTMUの概念装置が実際に問題を「解決」しているのか、それとも新たな術語で「言い換え」ているだけなのかは、慎重な検討を要する。「テレシス」「情報認知」「テリック再帰」といった概念が、それ自体として理解可能であり、独立した説明力を持つのかどうか。
最終的に、CTMUの価値は、それが生産的な思考を刺激するかどうかにかかっているかもしれない。理論の正しさを最終的に判定することは、おそらく現時点では不可能である。しかし、現実の本質についてこれほど包括的に考えようとする試みが存在すること自体、知的営みとして意義がある。少なくとも、「科学はすでにすべてを説明できる」という暗黙の前提に対する挑戦として、CTMUは一定の役割を果たしている。
