
English Title:The Anatomy of “Atmosphere”:A Study of the Tacit Air that Governs Japan Yamamoto Shichihei(1983)
Japanese Title:『「空気」の研究:日本的根本主義について』 山本七平(1983)
目次
- 「空気」の研究:/ The Anatomy of “Atmosphere”
- 「水=通常性」の研究:/ The Study of “Water = Normality”
- 日本的根本主義について:/ On Japanese Fundamentalism
- あとがき:/ Afterword
本書の概要:
短い解説:
本書は、日本の社会において個人の論理や客観的データを無効化し、集団の意思決定を支配する「空気」という現象の正体を、歴史的事例や宗教観を交えながら解明することを目的としている。
著者について:
著者山本七平は、出版社経営を経て執筆活動に入った異色の評論家。自身の戦争体験や膨大な読書に基づき、日本人の精神構造や社会のタブーを鋭く分析する視点で知られる。
テーマ解説
本書は、日本人を無意識に拘束し破滅へと導く「空気」の正体を、聖書学や歴史的事例を縦横に駆使して解き明かす。
キーワード解説(2~7)
- 空気:論理やデータを超えて、その場の決定を強制する不可視の支配力。絶対的な権威として振る舞うが、その責任を問うことはできない。
- 水(通常性):「空気」を一瞬で霧散させる「水を差す」行為の源泉。日々の生活における常識や現実的な障害を指し、人を虚構から現実に引き戻す力を持つ。
- 情況倫理:「当時の情況では仕方がなかった」という論理。個人の責任を情況に転嫁し、「父と子の隠し合い」によって集団内の秩序を保つ日本的倫理観。
- 臨在感的把握:対象(人骨、カドミウム、車など)に感情移入し、その背後に何かが「臨在」すると感じることで、対象に心理的に支配されてしまう状態。物神化や「空気」発生の基盤。
- 根本主義(ファンディ):キリスト教根本主義を引き合いに出しつつ、日本人の精神の根底にある「一君万民」的な神政制的要素を指す。合理性と非合理性が結合した独特の世界観。
3分要約
本書は、日本の社会を支配する「空気」という不可視の権威の正体を探求する試みである。著者はまず、教育雑誌の記者とのやり取りを例に、彼が自らの意志を「空気」によって拘束されている現状を指摘する。戦艦大和の出撃決定も、専門家の論理的データを無視し、「全般の空気」によってなされた。この「空気」は、三菱重工爆破事件で人々が「知人」のみを助けた行動や、イタイイタイ病の原因物質カドミウムに記者が恐怖する現象など、人々の行動を無意識に規定する強力な規範である。これは、対象に感情移入しその背後に何かを感じ取る「臨在感的把握」によって生じ、対象に逆に支配される「物神化」の状態に他ならない。
「空気」に対抗するのが「水を差す」という行為である。これは「先立つものがない」といった現実の障害を指摘し、人をバラ色の幻想から日常性へと引き戻す働きをする。しかし、この「通常性」もまた、問題の根源である。著者は日本の「情況倫理」を分析する。これは「当時の情況では仕方なかった」と個人の責任を情況に転嫁する論理であり、「父は子のために隠し、子は父のために隠す」ことに「直きこと」を見出す日本的儒教の倫理に基づく。この倫理は、絶対的な「一君」と平等な「万民」という「一君万民」の構造を生み出し、個人の自由や責任を希薄化させる。共産党のリンチ事件や企業の不祥事における「隠蔽」体質も、この延長線上にあると論じる。
さらに著者は、アメリカのキリスト教根本主義(ファンディ)や、ミュンツァーに代表される宗教改革期の急進的思想を引き合いに出し、合理性の追求と非合理性が一体となって社会を動かす原動力となることを指摘する。日本には「聖書」に代わる絶対的権威が不在であり、その代わりに「空気」と「水」の循環が社会を支配している。戦後の日本は「進化論」と「現人神」を無理に併存させるなど、異質なものを分離して受け入れてきたが、その結果、非合理性の「力」を制御できず、空気による決定が繰り返されている。著者は、この「空気」の正体を把握し、そこから脱却する第一歩として、本書の試みが位置づけられると結論づける。
各章の要約:
「空気」の研究
本章は、「空気」という言葉が持つ絶対的権威の正体を解明する。教育雑誌の記者が自らの意見を「編集部の空気」で曲げる例や、戦艦大和の出撃が「全般の空気」で決定された事実を引き合いに出し、空気が論理やデータを凌駕する決定原理として機能することを示す。三菱重工爆破事件での「知人」と「非知人」に対する差別的な行動も、この「空気」によって規定されている。さらに、自動車排ガス規制をめぐる「魔女裁判」や、イタイイタイ病のカドミウム金属棒に記者が恐怖する現象を分析し、空気の源泉を「臨在感的把握」に見出す。これは、対象に感情移入し、その背後に何かが臨在するかのように感じることで、逆に対象に支配される状態であり、人骨に反応する日本人の姿にその典型を見る。著者は、この「空気」の正体を突き止めなければ、日本は再び破滅へと突き進むと警鐘を鳴らす。
「水=通常性」の研究
本章では、「空気」を打ち消す「水」、すなわち「通常性」の正体を探る。空気を醸成する会議の場で「先立つものがない」という一言が発せられた瞬間に幻想が崩壊するように、「水」は人を現実の日常へと引き戻す。しかし、この「通常性」こそが「空気」を生む土壌でもある。著者は日本の「情況倫理」を分析する。これは「当時の情況では仕方なかった」と個人の責任を情況に転嫁する論理であり、「父は子のために隠し、子は父のために隠す」ことに「直きこと」を見出す日本的儒教の倫理に基づく。この倫理は、絶対的な「一君」と平等な「万民」という「一君万民」の構造を生み出し、個人の自由や責任を希薄化させる。戦後の共産党の変質や企業の不祥事隠蔽も、この「通常性」の論理から説明できるとし、日本社会の根底に流れる強固な集団主義を浮き彫りにする。
日本的根本主義について
本章では、キリスト教の「根本主義(ファンディ)」を参照しながら、日本における改革の不可能性とその精神的基盤を問う。アメリカで南部バプテストのカーターが大統領候補となる現象や、イスラエルで学者のヤディンが政界に登場する背景には、行き詰まった現状を打破するために自らの「原点」に立ち返ろうとする動きがある。これに対し日本には、そのような改革の原動力となるべき「ファンディ」が不在である。著者は、日本の「根本主義」を、合理性と非合理性が分かち難く結合した「汎神論的神政制」に見出す。「現人神」と「進化論」が無理に併存してきたように、日本は異質なものを分離して受け入れてきたが、その結果、非合理性の「力」を制御できず、「空気」による決定が繰り返されている。新井白石の『西洋紀聞』を引き合いに、日本的秩序の根底にある「一君万民」的な世界観を指摘し、そこからの脱却なくして真の改革はありえないと論じる。
あとがき
あとがきでは、本書全体の論旨を総括し、著者の問題意識を改めて提示する。「空気」の拘束力は昭和期に入って強まり、個人の責任を免除する言い訳として使われるに至った。ロッキード事件の「徹底追究」という空気も、日常性という「水」によって「うやむや」にされる運命にある。真の追究は空気に支配されず、対象を自己の通常性に組み込む自由な発想によってのみ可能である。新井白石がキリシタンの宣教師シドチに「二人の言」を聞いたように、西欧文明には「賢」と「愚」が一人格の中に結合している。日本は「賢」なる部分だけを導入し「愚」なる部分を排除してきたが、それらは不可分であり、今やその「愚」が「空気」となって私たちを拘束している。この「空気」の正体を把握し、その呪縛から脱却することこそが、本書の目的であると結んでいる。
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