コンテンツ
- 本書の要約
- 各章の要約
- 第1章 ポストモダニズム:知識と権力の革命の要約
- 第2章 ポストモダニズムの応用的転回:抑圧を実在化するの要約
- 第3章 ポストコロニアル理論:「他者」を救うために西洋を脱構築するの要約
- 第4章 クィア理論:常態からの解放の要約
- 第5章 批判的人種理論とインターセクショナリティ:あらゆる場所で人種差別を見ることで人種差別を終わらせるの要約
- 第6章 フェミニズムとジェンダー研究:洗練さとしての単純化の要約
- 第7章 障害およびファットスタディーズ:サポートグループ・アイデンティティ理論の要約
- 第8章 ソーシャル・ジャスティス学術研究と思想:ソーシャル・ジャスティスによる真実の要約
- 第9章 ソーシャル・ジャスティスの実践:理論は紙の上では常に良く見えるの要約
- 第10章 ソーシャル・ジャスティスのイデオロギーに対する代替案:アイデンティティ・ポリティクスのないリベラリズムの要約
- 著者について
- メンバー特別記事
- AI:「ポストモダニズムと社会正義」についての考察

Cynical Theories: How Activist Scholarship Made Everything About Race, Gender, and Identity: And Why This Harms Everybody
本書の要約
本書は、ポストモダニズムの起源と進化を概観し、それがいかに「ソーシャル・ジャスティス」という形で社会に浸透し、リベラル民主主義や科学的思考に脅威をもたらしているかを分析している。著者たちは、ポストモダニズムが1960年代に始まり、知識と権力に関する懐疑的な理論として出発し、1980年代から「応用ポストモダニズム」へと進化、そして2010年代以降は「実体化されたポストモダニズム」として教条的なイデオロギーに変容した過程を詳述する。
本書の核心は、現代の「ソーシャル・ジャスティス」運動が次の二つの原理に基づいていると指摘している:1)客観的知識は不可能であり、知識は文化的構築物である(知識原理)、2)社会は権力とヒエラルキーの体系で構成され、それが何を知りうるかを決定する(政治原理)。これらの原理が、境界線の曖昧化、言語の力への偏執、文化相対主義、個人と普遍の喪失という四つのテーマを通じて表現される。
著者たちは、ポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論、インターセクショナル・フェミニズム、障害学、ファットスタディーズといった各領域を検証し、それらがいかに学術機関から一般社会へと波及し、言論の自由や科学的探究を脅かしているかを論じる。
結論として、著者たちは普遍的リベラリズムと科学的思考法への回帰を提唱し、社会正義を追求するためのより効果的かつ倫理的な枠組みを示している。
各章の要約
第1章 ポストモダニズム:知識と権力の革命の要約
目次
- ポストモダニズムの起源と特徴
- ポストモダニズムの根源、原理、テーマ
- ポストモダン知識原理
- ポストモダン政治原理
- ポストモダニズムの4つのテーマ
ポストモダニズムは1960年代に生まれた思想的潮流で、モダニズムと近代性への根本的な反発として特徴づけられる。ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジャン=フランソワ・リオタールなどの思想家が中心となり、客観的知識や普遍的真理の可能性に対する根本的な懐疑を示した。
ポストモダニズムは二つの中核的原理に基づいている。第一の知識原理は、客観的知識や真理は得られず、知識は社会的構築物であるという観点。第二の政治原理は、社会が権力とヒエラルキーのシステムから成り、それが何を知りうるかを決定するという見解である。
これらの原理から四つの主要テーマが派生する:1)境界の曖昧化、2)言語の力、3)文化相対主義、4)個人と普遍の喪失。ポストモダニズムは、西洋の啓蒙主義的思考の「メタナラティブ」(大きな物語)への根本的懐疑を特徴とし、科学的知識や普遍的価値の優位性を否定する。
ポストモダニズムは死滅したわけではなく、進化して今日の「ソーシャル・ジャスティス」学術研究と活動主義の基盤となっている。
第2章 ポストモダニズムの応用的転回:抑圧を実在化するの要約
目次
- 理論の変異
- 新たなデフォルト観
- 適用不可能なものを適用する
- ポストモダンの原理とテーマの応用
- ソーシャル・ジャスティス学術研究の出現
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、ポストモダニズムは高度に破壊的な理論から実用的なものへと変化した。この「応用ポストモダニズム」と呼べる段階では、ポストモダニズムの根本的懐疑主義は影を潜め、代わりに特定の社会的不正義に対する積極的な批判と行動を促す理論へと発展した。
この変化によってポストコロニアル理論、クィア理論、批判的人種理論、インターセクショナル・フェミニズムなどの新しい学問分野が誕生した。これらの理論は、もはや単に既存の知識構造を解体するだけでなく、新たな「正義」の観点から社会を再構築することを目指した。
応用ポストモダニズムは、抑圧が客観的に実在するという主張を認める一方で、ポストモダンの知識原理と政治原理を保持した。「私は抑圧を経験する、ゆえに私は存在する…そして支配と抑圧も存在する」という新たな公理が確立された。
特にキンバリー・クレンショーの「インターセクショナリティ」概念は、様々なアイデンティティ(人種、性別、性的指向など)の交差点での独自の抑圧経験を強調し、リベラルな普遍主義に代わるアイデンティティ・ポリティクスの理論的基盤を提供した。
この発展は、科学的方法や客観的証拠よりも「生きられた経験」や「他の知のあり方」を優先する「研究的正義」といった概念も生み出し、学術研究と活動主義の境界を曖昧にした。
第3章 ポストコロニアル理論:「他者」を救うために西洋を脱構築するの要約
目次
- 応用ポストモダニズム的プロジェクトとしてのポストコロニアリズム
- ポストコロニアル理論の重要人物
- 精神構造の比較
- あらゆるものを脱植民地化する
- 研究的正義の達成
- 問題を維持する、逆行する
- 危険で恩着せがましい理論
ポストコロニアル理論は応用ポストモダニズムの最初の現れであり、植民地主義の解体を目的としている。この理論は、西洋が「東洋」を構築する言説を脱構築し、植民地化された人々の声を増幅させることを目指す。
エドワード・サイードが1978年の著書『オリエンタリズム』で理論の基礎を築き、西洋が東洋を「他者化」する過程を分析した。サイードはミシェル・フーコーの「権力-知」概念を用いて、西洋の言説が東洋をいかに劣った存在として構築したかを描いた。ガヤトリ・スピヴァクとホミ・K・バーバもこの分野の重要な理論家である。
西洋(植民地)の精神構造:「西洋人は合理的で科学的、アジア人は非合理的で迷信的。だから欧州人はアジアを統治すべき」 リベラルな精神構造:「すべての人間は合理的で科学的である能力を持つが、個人差は大きい。だからすべての人間はすべての機会と自由を持つべき」 ポストモダンな精神構造:「西洋は合理性と科学が良いという考えを、自らの権力を永続させ、他の場所からの非合理的・非科学的な知識生産形態を周縁化するために構築した」
「脱植民地化」運動は、カリキュラムからヘアスタイルまであらゆるものに拡大し、西洋の知識、特に科学と理性を「西洋的思考法」として拒絶する。しかしこれは危険であり、科学技術によって恩恵を受けられるはずの発展途上国の進歩を妨げる可能性がある。
「研究的正義」の概念は、科学的・経験的方法よりも感情、経験、伝統的物語、精神的信念を優先する研究アプローチを提唱する。しかしこれは厳密な学問的追求を放棄するものだ。
第4章 クィア理論:常態からの解放の要約
目次
- クィア理論の簡単な歴史
- 動詞としての「クィア化する」、名詞としての「クィア」
- 「セクシュアリティの歴史」というクィアな遺産
- クィア理論の童話の生みの親たち
- クィア理論におけるポストモダンの原理とテーマ
クィア理論は「常態」(ノーマル)からの解放を目指し、性別やセクシュアリティに関するカテゴリーを社会的構築物とみなす。フーコーの「権力-知」概念に大きく依拠し、「ノーマティビティ」(規範性)に挑戦することを中心的目標とする。
クィア理論では、「クィア」は単なるアイデンティティではなく、境界を越え、二項対立(男性/女性、異性愛/同性愛など)に挑戦するものを指す。「クィア化する」は動詞として使われ、安定したカテゴリーに疑念を投げかけ、境界を破壊する行為を意味する。
ジュディス・バトラーの「ジェンダー・パフォーマティビティ」概念は、ジェンダーが社会的に構築され、繰り返される行為によって「実在」するようになると主張。バトラーは、ジェンダーのパロディやパフォーマンスにより、二元的ジェンダー・カテゴリーを撹乱することを提唱した。
イヴ・コソフスキー・セジウィックは、セクシュアリティのバイナリがすべての社会的バイナリの基盤であると主張。彼女は矛盾を解決せずに維持することの価値を提唱し、多様な視点を同時に受け入れることを奨励した。
クィア理論は四つのポストモダン・テーマを明確に体現している:1)境界の曖昧化、2)言語の力への焦点、3)文化相対主義、4)個人と普遍の喪失。しかし、科学的証拠の拒絶と過度に抽象的な理論化のために、実際のLGBTの人々の経験から乖離している可能性がある。
第5章 批判的人種理論とインターセクショナリティ:あらゆる場所で人種差別を見ることで人種差別を終わらせるの要約
目次
- 批判的アプローチの採用
- 批判的人種理論の普及
- 応用ポストモダニズムとしての批判的人種理論
- インターセクショナリティ
- 応用ポストモダン的転回におけるインターセクショナリティ
- 複雑なのに非常に単純
- ソーシャル・ジャスティスのカースト制度
- 高潔な目的、恐ろしい手段
批判的人種理論は人種が社会的構築物であり、白人特権と白人至上主義を維持するために創造されたと主張する。この理論は1970年代に米国の法学から生まれ、デリック・ベル、アラン・フリーマンらが初期の提唱者であった。
批判的人種理論には二つの潮流がある:唯物論的アプローチ(経済・法的システムを分析)とポストモダン的アプローチ(言語や社会システムを分析)。1990年代以降、ポストモダン的アプローチが支配的になっている。
批判的人種理論の中核的主張:「人種差別は異常ではなく日常的である」「白人優位の体制は支配的集団に重要な目的をもたらす」「人種は社会的思考と関係の産物である」「有色人種には人種と人種差別について語る特別な権限がある」
インターセクショナリティはキンバリー・クレンショーが1989年に導入した概念で、多重の周縁化されたアイデンティティ(例:黒人女性)の交差による独自の差別形態を分析する枠組みである。クレンショーは「私は黒人である」というアイデンティティ中心の考え方を提唱し、「たまたま黒人である一人の人間」というリベラルな普遍主義的アプローチを否定した。
インターセクショナリティは時間とともに拡大し、アイデンティティの様々な次元(人種、ジェンダー、性的指向、障害など)を層状に分析する複雑なシステムへと発展した。しかし、その複雑さにもかかわらず、権力不均衡と偏見のみに焦点を当てるという点で単純でもある。
批判的人種理論の問題点は、人種カテゴリーに社会的重要性を再度付与し人種差別を悪化させること、主に理論的であり経験的証拠に乏しいこと、そしてあらゆる相互作用に人種差別が存在するという前提から出発することである。
第6章 フェミニズムとジェンダー研究:洗練さとしての単純化の要約
目次
- 過去と現在のフェミニズム
- 「ますます洗練された」理論
- ジェンダー研究をすること
- リベラル・フェミニズムの死
- 多様性理論家の試練と苦難
- 階級なき理論
- 男性性と男性について
フェミニズムは常に統一された前線を持たず、多様な潮流(リベラル・フェミニズム、急進的フェミニズム、唯物論的フェミニズム、インターセクショナル・フェミニズムなど)が存在してきた。2000年代初頭までに、インターセクショナルなアプローチがフェミニズム学術研究と活動主義において支配的になった。
ジュディス・ロバーは2006年のエッセイで、フェミニズムにおける「パラダイムシフト」を特定し、以下の4つの傾向を示した:1)生物学的性ではなくジェンダーを中心に据える、2)ジェンダーとセクシュアリティを社会的構築物として扱う、3)それらの構築に権力を読み込む、4)自分の立場(アイデンティティ)に焦点を当てる。
この新しいアプローチは「ますます洗練された」モデルとして宣伝されたが、実際には複雑な問題を単純化し、ジェンダーを生物学から切り離すことで、研究の厳密さを損なった。社会的構築主義の極端な形である「ブランク・スレート主義」(性差は完全に社会的に構築されているとする考え)は、科学的証拠と矛盾している。
男性学(男性性研究)も「フェミニスト的枠組み」内で発展し、「ヘゲモニック・マスキュリニティ」や「有毒な男性性」といった概念に焦点を当てた。しかし、男性が直面する問題を男性であるという理由だけで分析する研究はほとんど存在しない。
インターセクショナル・フェミニズムは、経済的階級の問題を大幅に軽視し、代わりに「特権」という概念を強調する。これは伝統的な左派政治を「ブルジョワ的関心事」へと変質させ、労働者階級の有権者を疎外する危険性がある。
フェミニズムはかつて、女性を知的に厳格で心理的に強い存在として社会に認めさせる努力をしてきたが、現代のインターセクショナル・フェミニズムは女性を脆弱で、困難なアイデアや人々から保護を必要とする存在として描く傾向がある。
第7章 障害およびファットスタディーズ:サポートグループ・アイデンティティ理論の要約
目次
- 障害学
- 能力主義
- 有益な支援の脱線
- ファットスタディーズ
- 理論—妄想的幻想
- サポートグループ学術研究
応用ポストモダニズムの発展と共に、障害学とファットスタディーズという二つの関連分野が誕生した。両分野は1960年代に障害者活動主義および肥満活動主義として始まったが、1980年代以降、ポストモダン理論の影響を受けて急進化した。
障害学の転換点は、「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」への移行だった。この変化により、障害は個人の状態ではなく、社会によって課される状態として再定義された。その後、クィア理論の影響を受けた学者たちは、障害の「治療」や「克服」を求めることさえ「内面化された能力主義」として批判するようになった。
障害学の問題点は、障害を政治的アイデンティティとして扱い、障害者に障害を「祝福」し政治化するよう圧力をかけることである。多くの障害者は単に自分の状態を改善したいだけであり、アイデンティティ・ポリティクスに参加するよう強制されるべきではない。
ファットスタディーズもクィア理論と交差し、肥満を社会的構築物として扱い、医学的知識よりも「体現されたコミュニティ知識」を優先する。科学的証拠に反して、肥満が健康リスクをもたらすという医学的合意を「肥満恐怖症」として退ける。
両分野とも、障害や肥満の実際の生物学的・物理的現実をほぼ完全に無視し、サポートグループの取り組みを学術研究と誤った活動主義に変える「カブキ劇場」を演じている。科学的証拠の拒絶と感情への依存は、最も助けを必要とする人々を危険にさらす可能性がある。
第8章 ソーシャル・ジャスティス学術研究と思想:ソーシャル・ジャスティスによる真実の要約
目次
- ポストモダニズムの進化
- 新しい術語の動物園
- あなたが何者かがあなたの知っていることである
- 理論に反対してはならない
- 要約—ポストモダンの原理とテーマを実在化する
2010年頃から、ポストモダニズムは第三の段階、「実体化されたポストモダニズム」へと進化した。この段階では、かつて抽象的で自己懐疑的だったポストモダンの知識原理と政治原理が、「ソーシャル・ジャスティス」に基づく客観的真実の主張へと変容した。
ソーシャル・ジャスティス学術研究は、知識と知識生産者の関係に執着する。「認識的不正義」(知る者としての能力を害される状態)という概念が中心的になり、多数の関連用語が派生した:「認識的抑圧」「認識的暴力」「認識的搾取」など。これらの概念は、周縁化されたグループの「生きられた経験」に基づく知識が、科学や理性に基づく知識よりも優先されるべきだという主張を支える。
スタンドポイント理論では、同じ社会的位置(アイデンティティ)を占める人々は同じ支配と抑圧の経験を持ち、同じ方法でそれを解釈するとされる。さらに、自分の相対的な権力位置が何を知りうるかを決定するという考えも含まれる。周縁化された人々は「二重の視点」を持ち、支配的視点と被抑圧者の経験の両方を理解できるとされる。
ソーシャル・ジャスティス学術研究は異議を認めない。バーバラ・アップルバウム、アリソン・ベイリー、ロビン・ディアンジェロといった学者たちは、理論への反対意見を「白い特権を維持するための抵抗」や「意図的な無知」として退ける。彼らは批判的思考それ自体を問題視し、代わりに「批判的教育学」を提唱する。
実体化されたポストモダニズムは、ポストモダニズムの第一段階の徹底的な懐疑主義と相対主義を、「周縁化されたグループの生きられた経験を聞くことで信頼できる知識が得られる」という確信に変換した。これは新たなメタナラティブ、ほとんど宗教的な信仰体系を作り出している。
第9章 ソーシャル・ジャスティスの実践:理論は紙の上では常に良く見えるの要約
目次
- 大学で何が起きているのか、なぜそれが重要なのか
- これが広い世界にどう影響するか
- 甘やかしと被害者意識の文化
- ソーシャル・ジャスティスが制度化された場合—ケーススタディ
- 理論は紙の上では常に良く見える
ソーシャル・ジャスティス理論は学術世界を超えて社会全体に浸透している。大学では「多様性・公平性・包括性」担当者の増加、バイアス対応チーム、言論制限ポリシーなどの形で制度化されている。これらの観念は卒業生を通じて職業世界に広がり、メディア、企業、芸術などの分野に影響を及ぼしている。
グレッグ・ルキアノフとジョナサン・ハイトは『アメリカ精神の甘やかし』で、若者の回復力と困難なアイデアに対処する能力の劇的な低下を指摘した。彼らは3つの「偉大な不真実」を特定した:1)人々は脆弱である、2)感情的推論を信頼すべきである、3)人生は善人と悪人の戦いである。これらの信念は認知行動療法の逆を行くもので、偏執的で自己破壊的な心理状態を促進する。
ブラッドリー・キャンベルとジェイソン・マニングは、異なる文化における社会的衝突解決のモードを分析し、「名誉文化」と「尊厳文化」に続く第三の文化形態として「被害者文化」を特定した。被害者文化では、攻撃に対して弱さの表示で反応し、当局に解決を求め、被害者としての地位から社会的地位を得る。
エバーグリーン州立大学のケーススタディは、理論が制度内で適用された結果を示している。批判的人種理論と「白い脆弱性」の概念を受け入れた大学は、抗議学生の過激な要求に対して無力化され、キャンパスは混乱に陥った。理論が十分な通貨を得ると、不同意は「体系的問題への共謀」とみなされ、理性的な議論が不可能になる。
社会正義のための活動主義は、ある意味で自らの成功の犠牲者となった。実存的な脅威(法的差別など)が減少するにつれ、より微妙で解釈的な「問題」を発見するために、より深い理論的分析が必要になった。これは実際の社会的不正義の劇的な減少を反映している。
第10章 ソーシャル・ジャスティスのイデオロギーに対する代替案:アイデンティティ・ポリティクスのないリベラリズムの要約
目次
- なぜ討論の自由がそれほど重要なのか
- 理論はリベラリズムを理解していない
- リベラル科学
- リベラリズムの観点からの原理とテーマ
- 極右のアイデンティティ・ポリティクスへの燃料
- 解決策の簡単な議論
- 原則的な反対の例
リベラリズムとポストモダン理論は本質的に対立している。リベラリズムは個人と普遍的人間価値を尊重し、客観的知識の可能性を信じ、自己批判的で修正可能である。対照的に、理論は集団アイデンティティを重視し、客観的真理を否定し、批判を受け付けない。
ジョン・スチュアート・ミルが強調したように、言論の自由は聞き手、特に異議を唱える聞き手にとって極めて重要である。検閲は真実の主張を抑圧するだけでなく、多数派の見解が自由で開かれた議論に耐えることで得られる信頼性も奪う。
リベラリズムは固定的な教義ではなく、社会をより公正で自由で残酷さの少ないものにしようとする進化的プロセスである。エドマンド・フォーセットによれば、リベラリズムの四つのテーマは「対立の受容、権力への抵抗、進歩への信頼、人への敬意」である。リベラリズムは歴史的に見て人間の平等と科学的進歩において前例のない成功を収めてきた。
ジャーナリストのジョナサン・ラウシュは「リベラル科学」という概念を提唱し、知識生産のための二つの一貫したルール(「誰も最終的発言権を持たない」「誰も個人的権威を持たない」)に基づくシステムを説明した。この原則は他の原則(原理主義的、単純平等主義的、急進平等主義的、人道主義的)より優れている。
ソーシャル・ジャスティスの最大の問題の一つは、左派のアイデンティティ・ポリティクスが右派のアイデンティティ・ポリティクスを強化し正当化することである。リベラル左派が「人々は人種、性別、セクシュアリティによって評価されるべきではない」と主張する一方で、ソーシャル・ジャスティスは人種や性別に社会的意義を再び付与し、集団的非難を奨励する。こうした分断的アプローチは、過去数十年間の進歩を逆転させ、極右反動を引き起こす危険がある。
ソーシャル・ジャスティスの問題に対する解決策として、著者たちは次の二つのアプローチを提案する:1)その信念体系の制度化に反対すること(公的機関における強制的な多様性声明や訓練を拒否すること)、2)アイデアの市場内で理論と公正に戦うこと。社会的不正義がまだ存在することを認めつつも、ソーシャル・ジャスティス・イデオロギーの解決策を拒否することができる。
著者たちは最後に、人種差別、性差別、LGBTに対する差別などの問題に対して、普遍的リベラリズムに基づく原則的な反対の例を提示している。これらの例は、社会的不正義の問題を認めつつも、理論の単純化された解決策を拒否する方法を示している。リベラリズムは完璧ではないが、社会的変化をもたらすより効果的で倫理的な枠組みを提供する。
著者について
ヘレン・プラクローズはリベラルな政治・文化的著述家および講演者。Areo Magazineの編集者であり、ポストモダニズム、批判理論、リベラリズム、世俗主義、フェミニズムに関する多くの論文を執筆している。グリーバンス・スタディーズ・アフェア(社会正義学術研究の問題点を明らかにした調査)に参加。現在は人文科学から離れ、イングランドに居住。
ジェイムズ・リンジーは物理学の背景を持つ数学者で、New Discourses(newdiscourses.com)の創設者。宗教心理学、権威主義、過激主義に関心を持つ。著書に『Everybody Is Wrong about God』『Life in Light of Death』『How to Have Impossible Conversations』がある。エッセイはウォール・ストリート・ジャーナル、ロサンゼルス・タイムズなどに掲載。2018年に国際的な注目を集めたグリーバンス・スタディーズ・アフェアを主導。テネシー州在住。
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メンバー特別記事
AI:「ポストモダニズムと社会正義」についての考察
「シニカル・セオリーズ」という本を要約したテキストを読んで、著者たちの主張について考えてみよう。この本はヘレン・プラクローズとジェイムズ・リンジーによって書かれ、ポストモダニズムの発展と、それが「ソーシャル・ジャスティス」と呼ばれる現代の社会運動にどのように影響を与えているかを分析している。
まず、著者たちの主要な主張を理解することから始めよう。彼らは、ポストモダニズムが1960年代に始まり、知識と権力に関する懐疑的な理論として出発し、それが時間とともに進化して、現在では「ソーシャル・ジャスティス」と呼ばれる一種の宗教的イデオロギーになったと述べている。著者たちはこの変化を三つの段階に分けている:
- オリジナルのポストモダニズム(1960年代から1980年代)- 懐疑的で脱構築的
- 応用ポストモダニズム(1980年代から2010年頃)- 政治的に実行可能に
- 実体化されたポストモダニズム(2010年以降)- 絶対的な真理として扱われるように
これは興味深い区分だ。確かに、ポストモダニズムの考え方は時間とともに変化してきた。初期のポストモダニストたちは、客観的真理の可能性に対して懐疑的であり、大きな物語(メタナラティブ)を疑っていた。それは一種の懐疑主義であり、ニヒリズムだった。しかし著者たちによれば、この考え方は変化し、特定の政治的目的に適用されるようになり、現在では一種の教条的な信念体系になっている。
ここで立ち止まって考えてみたい。ポストモダニズムの核心は何だったのか?著者たちは二つの基本原理と四つのテーマを特定している:
二つの原理:
- ポストモダン知識原理:客観的知識や真理は得られず、知識は社会的に構築されるという考え
- ポストモダン政治原理:社会は権力とヒエラルキーのシステムから成り、それらが何を知りうるかを決定するという考え
四つのテーマ:
- 境界の曖昧化
- 言語の力への焦点
- 文化相対主義
- 個人と普遍の喪失(集団アイデンティティの優先)
これらの原理とテーマは確かにポストモダン思想の特徴を捉えている。しかし、ここで重要な質問が生じる。これらの考え方はすべて誤っているのだろうか?あるいは部分的に正しいのか?
まず、知識が社会的に構築されるという考えには一定の真実がある。私たちの概念や理解の枠組みは確かに社会や文化に影響されている。例えば、「人種」という概念は生物学的実在というよりも社会的構築物である側面が強い。しかし、すべての知識が単なる社会的構築物であるという極端な主張は問題がある。科学的方法は、私たちの主観的バイアスを超えて、世界についての信頼できる知識を生み出すことができる。
次に、権力が知識に影響を与えるという考えも、ある程度は正しい。支配的なグループは確かに、何が「常識」と見なされるかに影響力を持つ。しかし、すべての知識主張が単に権力関係の反映にすぎないという見方は還元主義的であり、人間の合理性や科学的方法の価値を過小評価している。
著者たちは、ポストモダン思想が応用され、特に「批判的人種理論」「クィア理論」「インターセクショナル・フェミニズム」などの分野で発展したと主張している。これらの理論は、特定の抑圧の形態(人種差別、性差別、同性愛嫌悪など)に焦点を当て、それらを社会に浸透する権力システムとして分析する。
ここで別の視点から考えてみたい。これらの理論は確かに重要な洞察を提供している。例えば、構造的人種差別は実在する問題であり、単に個々の偏見の問題ではない。同様に、性別や性的指向に基づく差別も複雑な社会的現象であり、単純な解決策はない。
しかし、著者たちの批判によれば、これらの理論は極端に走り、リベラリズムの基本的価値(個人の自由、普遍的人権、理性と証拠に基づく議論)を脅かすようになったという。特に、「実体化されたポストモダニズム」の段階では、これらの理論が絶対的な真理とみなされ、異議を許さないドグマとなっている。
ここで問題点が見えてくる。ポストモダニズムは元々、絶対的真理や大きな物語に対して懐疑的だったはずだ。しかし、著者たちが主張するように、現在の「ソーシャル・ジャスティス」運動がポストモダンの原理を絶対的真理として扱うようになったとすれば、それは根本的な矛盾ではないか?オリジナルのポストモダニズムの懐疑主義はどこに行ってしまったのか?
この矛盾は重要だ。もしポストモダニズムが元々、すべての大きな物語に懐疑的だったなら、社会がすべて権力システムによって構築されているという「大きな物語」自体にも懐疑的であるべきではなかったのか?
しかし、著者たちの分析によれば、応用ポストモダニズムの段階で重要な変化が起きた。キンバリー・クレンショーのような学者は、ポストモダンの懐疑主義を取り入れつつも、抑圧の現実を認めるという立場を取った。「世界が社会的に構築されているという考えを受け入れつつも、その構築の中で実際の抑圧が起きている」という立場だ。これにより、政治的行動が可能になった。
しかし、もう一度立ち止まって考える必要がある。この「応用ポストモダニズム」の立場は、本当にポストモダニズムなのだろうか?それとも、ポストモダニズムの一部の要素(社会構築主義など)を取り入れつつ、別の伝統(マルクス主義や批判理論など)とも結びついた新しいハイブリッド的な理論なのか?
著者たちの歴史的分析には一定の妥当性がある。1990年代以降、アカデミアにおける「批判的」研究の多くは確かにポストモダン的な要素を含んでいる。しかし、これらの研究がオリジナルのポストモダニズムの直接の子孫であるという見方は単純化しすぎかもしれない。むしろ、様々な理論的伝統が複雑に絡み合った結果と見る方が正確かもしれない。
次に、著者たちの最も強い批判の一つに焦点を当てよう。彼らは、現代の「ソーシャル・ジャスティス」運動が、言論の自由や開かれた議論を軽視または敵視していると主張している。アリソン・ベイリーやロビン・ディアンジェロのような学者が、理論への批判を「白い特権を保持するための抵抗」や「意図的な無知」として退けていると指摘している。
これは重大な批判だ。リベラルな社会の基盤の一つは、自由な言論と開かれた議論の価値への信念である。ジョン・スチュアート・ミルが強調したように、ある意見が真実である可能性がある限り、その意見を検閲することは有害である。同様に、ある意見が誤りである場合でも、その意見と真実との「衝突」は、真実の「より明確な知覚」を生み出す。
しかし、ここでも別の視点から考える必要がある。「ソーシャル・ジャスティス」の立場からすれば、言論は単なる抽象的なアイデアの交換ではなく、実際の害を引き起こす可能性のある行為である。例えば、人種差別的な言説は単なる「意見」ではなく、マイノリティグループに対する実際の害を促進する可能性がある。
この視点には一定の妥当性がある。言論は確かに実際の結果をもたらす。しかし、ミルの議論の要点は、真実を発見するための最善の方法は開かれた議論であるということだ。特定の言説を「危険」として事前に検閲することは、重要な真実を抑圧するリスクがある。
著者たちが提案する解決策は、普遍的リベラリズムへの回帰である。彼らは、社会的不正義の問題を認めつつも、それに対処するための最良の方法は、リベラルな原則(個人の自由、普遍的人権、理性と証拠に基づく議論)に基づくアプローチであると主張している。
この提案には強みがある。リベラリズムは、その自己修正的な性質により、長期的に見て社会的進歩を達成してきた実績がある。著者たちが指摘するように、過去数世紀にわたり、奴隷制の廃止、女性参政権、LGBT権利などの社会的進歩はリベラルな原則に基づいて達成された。
しかし、ここでも異なる視点を考慮する必要がある。「ソーシャル・ジャスティス」の立場からすれば、リベラリズムは構造的不平等に対処するには不十分である。表面的な法的平等は、深く根付いた社会的不平等を解決するには十分ではないという主張だ。
この批判にも一定の妥当性がある。法的平等が達成された後でも、構造的な不平等は続く可能性がある。例えば、人種差別が法的に禁止された後でも、住宅分離や経済的不平等などの構造的問題は残っている。
ここで重要な問いが生じる:リベラリズムはこれらの構造的問題に対処できるのか?著者たちは、リベラリズムは自己修正的であり、これらの問題にも対処できると主張している。リベラリズムは固定的な教義ではなく、社会をより公正で自由にするための継続的なプロセスである。
もう一つの重要な点は、「ソーシャル・ジャスティス」アプローチの実用性についてである。著者たちは、このアプローチが集団間の分断を深め、コミュニケーションを困難にし、結果として社会的進歩を妨げると主張している。特に、集団的非難(「白人は人種差別的である」「男性は性差別的である」など)の強調は、集団間の敵意を生み出す可能性がある。
これは重要な批判だ。社会的変化を達成するためには、幅広い支持が必要である。アプローチが極端に分断的である場合、それは実際の進歩を妨げる可能性がある。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの成功の一部は、彼が普遍的な人間の尊厳と共通の人間性に訴えたことにあった。
一方で、構造的問題に注目することの重要性も無視できない。歴史的不正義の遺産は実在し、それに対処するには意識的な努力が必要である。しかし、著者たちが主張するように、これは普遍的リベラリズムの枠組み内でも可能であるかもしれない。
著者たちのもう一つの重要な批判は、「ソーシャル・ジャスティス」アプローチが科学と理性を軽視または敵視する傾向があるというものだ。彼らによれば、このアプローチは科学と理性を「白人西洋男性の文化的所有物」と見なし、「他の知のあり方」(経験、感情、伝統など)を優先する。
これは複雑な問題だ。確かに、科学的方法は特定の文化的文脈で発展したが、その方法論自体は普遍的に適用可能である。科学は「白人西洋男性の」ものではなく、すべての人間に開かれている。また、科学的方法は、私たちの主観的バイアスを超えて、世界についての信頼できる知識を生み出すための最良の方法の一つである。
同時に、科学の歴史において、特定のグループ(女性や有色人種など)が排除されてきたという事実も認識する必要がある。また、科学が時に差別的な目的に悪用されてきたことも事実である(例:「科学的人種主義」)。しかし、このような問題は科学的方法そのものの欠陥というよりも、その適用における人間の失敗を反映している。
ここで著者たちの主張を再評価してみよう。彼らのポストモダニズム批判の核心は、それが客観的真理や普遍的価値の可能性を否定し、すべてを権力関係に還元するという点にある。この批判には強い妥当性がある。客観的真理や普遍的価値の可能性を否定することは、社会的進歩の基盤を掘り崩す可能性がある。
しかし、ポストモダン思想のすべての側面が等しく問題があるわけではない。社会的構築物としての知識の側面を認識することや、権力がどのように知識生産に影響するかを分析することは、それ自体では価値がある。問題は、これらの洞察が極端に押し進められ、客観的真理の可能性が完全に否定されることにある。
著者たちの主張で最も説得力があるのは、「ソーシャル・ジャスティス」アプローチが不寛容で権威主義的になる傾向があるという点だ。もし特定の理論的枠組みが批判を許さず、異なる視点を「無知」や「特権の保持」として退けるなら、それは開かれた社会の基盤を脅かす。
しかし、同時に「ソーシャル・ジャスティス」運動のすべての側面が等しく問題があるわけではないことも認識すべきだ。構造的不平等や制度的差別に注目することは重要であり、これらの問題に対処するには意識的な努力が必要である。
著者たちの結論は、普遍的リベラリズムと科学的思考法への回帰を提唱している。この提案には強みがある。リベラリズムは、その自己修正的な性質により、長期的に見て社会的進歩を達成してきた実績がある。同時に、リベラリズムは固定的な教義ではなく、継続的に発展し、新たな課題に対応できる柔軟性を持っている。
最終的に、この議論は知識と社会の性質に関する深い哲学的問題に関わっている。客観的真理は可能か?普遍的価値は存在するか?社会的進歩はどのように達成されるか?これらの問いに対する回答は、私たちがどのような社会を構築したいかという問題と密接に関連している。
著者たちの分析は、現代の「ソーシャル・ジャスティス」運動の一部の懸念すべき側面(不寛容、権威主義的傾向、科学と理性の軽視)を指摘する点で価値がある。同時に、構造的不平等や制度的差別は実在する問題であり、それに対処するには意識的な努力が必要であることも認識すべきだ。
普遍的リベラリズムは、これらの問題に対処するための枠組みを提供できるかもしれない。しかし、それは静的なリベラリズムではなく、新たな課題に対応し、過去の失敗から学ぶ動的なリベラリズムでなければならない。真の社会的進歩は、開かれた議論、相互尊重、そして共通の人間性の認識に基づいてのみ達成可能である。
この本は、現代の文化的・政治的分断の重要な側面を照らし出している。ポストモダン思想の影響と進化を理解することは、これらの分断を橋渡しし、より包括的で公正な社会を構築するための第一歩かもしれない。同時に、著者たちの分析は一つの視点であり、この複雑な問題に対する多様な視点を考慮することが重要である。
結論として、「シニカル・セオリーズ」は現代の「ソーシャル・ジャスティス」運動のポストモダンな根源についての洞察に満ちた分析を提供している。著者たちの批判の多くには妥当性があるが、構造的不平等や制度的差別の現実も認識する必要がある。真の社会的進歩は、開かれた議論、相互尊重、そして共通の人間性の認識に基づいてのみ達成可能である。普遍的リベラリズムの枠組みは、これらの目標を達成するための有望な道筋を提供する可能性がある。
