
『THE ROUTLEDGE INTERNATIONAL HANDBOOK OF C. WRIGHT MILLS STUDIES』Jon Frauley 2021
『C・ライト・ミルズ研究の国際ハンドブック』ジョン・フローレイ 2021年
目次
- 第1章 C・ライト・ミルズ、権威主義的民主主義と急進的批判:序論的所見 / C. Wright Mills, Authoritarian Democracy and Radical Critique: Introductory Remarks
- 第2章 古典社会理論とC・ライト・ミルズの社会学 / Classical Social Theory and the Sociology of C. Wright Mills
- 第3章 グローバル時代における歴史と伝記 / History and Biography in a Global Age
- 第4章 ストレッチングエクササイズ:社会学的想像力の刺激 / Stretching Exercises: Stimulating the Sociological Imagination
- 第5章 動くプリズム:C・ライト・ミルズと社会学的想像力の「詩学」について / The Moving Prism: On C. Wright Mills and the ‘Poetics’ of the Sociological Imagination
- 第6章 公共社会学とC・ライト・ミルズの失われた遺産 / Public Sociology and the Lost Legacy of C. Wright Mills
- 第7章 C・ライト・ミルズと平和の公共社会学 / C. Wright Mills and the Public Sociology of Peace
- 第8章 ソビエト知識人層の性格と役割に関するC・ライト・ミルズの考察 / C. Wright Mills on the Character and Role of the Soviet Intelligentsia
- 第9章 知的技巧に関するミルズの考察:批判的観察 / Mills on Intellectual Craftsmanship: Critical Observations
- 第10章 アメリカ政治における権力分析とC・ライト・ミルズ / C. Wright Mills and the Analysis of Power in American Politics
- 第11章 C・ライト・ミルズが今日意味するもの / What C. Wright Mills Means Today
- 第12章 軍事化された国際システム グローバリゼーションの社会学的文脈と人権 / The Militarized International System Globalization’s Sociological Context and Human Rights
- 第13章 公共行政におけるC・ライト・ミルズ:想像力の政治的・経済的文脈 / C. Wright Mills in Public Administration: The Political and Economic Context of Imagination
- 第14章 ミルズと政治的犯罪学:刑務所産業複合体をより深く理解するために / Mills and Political Criminology: Making More Out of the Prison-Industrial Complex
- 第15章 C・ライト・ミルズのもう一つの側面:大衆社会論 / Another Side of C. Wright Mills: The Theory of Mass Society
- 第16章 C・ライト・ミルズの著作における集団的夢遊病、社会的示唆、そして魅了された受容性 / Collective Somnambulism, Social Suggestion, and Fascinated Receptivity in the Writings of C. Wright Mills
- 第17章 C・ライト・ミルズ:正確な想像力、後期仕事 / C. Wright Mills: Exact Imagination, Late Work
- 第18章 行動のビジョンによる死の前の人生の創造 / Creating Life Before Death With a Vision for Action
本書の概要:
短い解説:
本書は急進的社会学者C・ライト・ミルズの業績に焦点を当てた国際的な研究ハンドブックである。ミルズの思想的影響力が社会科学全体にどのような影響を与えているかを示し、彼の概念や方法論が現代の資本主義民主主義の複雑な問題にどのように応用できるかを探求する。対象読者は社会学、人類学、組織研究、平和・紛争研究、犯罪学、政治学、公共行政などの分野の研究者や学生であり、ミルズの思想的遺産を現代的な文脈で再評価することを目的としている。
各章の要約
第1章 C・ライト・ミルズ、権威主義的民主主義と急進的批判:序論的考察
本章はミルズの著作における中心的なテーマである権力と政治の分析を紹介する。ミルズが「権力エリート」と「社会学的想像力」の概念を通じて、アメリカ社会の民主主義の危機をいかに批判したかを論じる。特に、企業・政府・軍産複合体の結託による権力の集中と、大衆社会における市民の無力化というミルズの分析が、現代の政治状況においても依然として有効であることを示唆する。編者はミルズ研究の現代的意義を強調する。
第2章 古典的社会理論とC・ライト・ミルズの社会学
ミルズが社会理論家として正当に評価されていないと主張し、彼の仕事が古典的社会理論に深く根ざしていることを明らかにする。マルクス、ウェーバー、デュルケームなどの影響を探り、ミルズの社会心理学、疎外論、権力と権威の分析、官僚制理論などが古典的伝統からどのように発展したかを考察する。ミルズの理論的統合の能力が、彼の鋭い社会批評を可能にしたと論じる。
第3章 グローバル時代における歴史と伝記
ミルズの「社会学的想像力」の概念がグローバル化時代においても重要性を持ち続けていることを論じる。歴史的変化と個人の人生経験の関係を理解するミルズのアプローチが、現代の新自由主義的グローバリゼーション、経済的不平等、労働の不安定化などの問題を分析するのに有効であることを示す。特に、現代の「プレカリアート」の状況がミルズの分析を裏付けていると主張する。
第4章 想像力の拡張訓練:社会学的想像力の刺激
ミルズの「知的職人技」の概念を発展させ、社会学的想像力を刺激し育成する実践的方法を探求する。クロス分類法、対比と並置、メタファーと直喩、偶然性の利用など、具体的な技術を検討する。これらの方法が、社会現象に対する新たな理解を開く創造的思考を促進すると論じる。ミルズの方法論が、形式化された研究方法を超えた知的探求を奨励していることを強調する。
第5章 動くプリズム:C・ライト・ミルズと社会学的想像力の「詩学」について
ミルズの「動くプリズム」という概念を探求し、彼の仕事の詩的側面に光を当てる。ミルズの著作における多視点性、メタファー、アイロニー、文学的技法の使用を分析し、これらが説得的な社会分析にどのように貢献しているかを明らかにする。ミルズの「知的職人技」の概念が、詩的想像力に支えられた社会学的実践の戦略であると論じ、彼が社会科学における「詩的転回」の先駆者であったことを示唆する。
第6章 パブリック・ソシオロジーとC・ライト・ミルズの失われた遺産
ミルズは、ブルアウォイが定義する「パブリック・ソシオロジー」の先駆者であった。彼の「社会学的想像力」概念は、個人の私的な問題と社会的な公共問題を結びつける道具としてだけでなく、抑圧的な社会構造を変革するための批判的実践の道具として構想されていた。しかし、現代の社会学教科書ではこの批判的側面が除去され、概念は消毒されてしまった。ミルズの「陽気なロボット」「権力エリート」「高い不道徳」「文化装置」といった概念は、現代社会を分析するための重要な遺産である。著者は、現代のパブリック・ソシオロジーが、ミルズのように大きな公共的問題に取り組み、一般公衆に理解可能な形で構造的不正義を告発することを求めている。
第7章 C・ライト・ミルズと平和のパブリック・ソシオロジー
この章は、ミルズの『第三次世界大戦の原因』など、比較的軽視されてきた戦争と平和に関する著作に焦点を当てる。ミルズの戦争分析は、権力エリート論の延長であり、米国社会の「道徳的退廃」と「軍事的形而上学」にその原因を見出した。彼のアプローチは、社会学と政治の想像力を結びつけ、人間の状態を改善する倫理的責任に基づく、初期のパブリック・ソシオロジーの実践であった。著者は、このミルズの視座を、北アイルランド、南アフリカ、スリランカでの紛争犠牲者に関する自身の研究に応用し、「平和プロセスのパブリック・ソシオロジー」と「妥協の社会学」を構築したことを示す。
第8章 C・ライト・ミルズによるソ連知識人の性格と役割の分析
1960年のソ連訪問に基づき、ミルズはソ連知識人(インテリゲンツィア)の性格と役割を調査した。彼らは党の路線に沿った「社会主義的リアリズム」を受け入れ、根本的な社会批判を控える「願望的」な政治的気分に支配されていた。知識人は、共産主義への移行という社会目標を広く受け入れ、自らを「新しい人間」の形成者と見なしていた。しかし、スターリン批判に関する態度は曖昧で、トロツキーの著作へのアクセスは制限され、西側の質の高い学術情報に触れる機会も乏しかった。ミルズは、ソ連知識人が「ボフィン」(戦時中の研究開発技術者)のように、体制内で実用的な課題に従事する役割を担っていると分析した。
第9章 ミルズの知的職人技に関する批判的考察
ミルズが『社会学的想像力』の付録で提唱した「知的職人技」の概念を批判的に検討する。ミルズの職人像は、単一の動機(技能の完成)に純化され、市場や協働、制度的条件から切り離された非歴史的・超制度的な理想であった。実際の職人(ウィリアム・モリスを例に)は、商業的成功や政治的動機など多元的な動機の中で活動していた。また、ミルズの研究プロトコル(ファイルの活用、視点の柔軟性、反射性)は、ファイルの無限の組み換えという無限退行を招き、研究の完了を不可能にする自己矛盾を抱えていた。さらに、職人的な多元主義的真理探求と、ラディカルな批判としての単一の「政治的真実」追求の間には、根本的な緊張関係が存在する。
第10章 C・ライト・ミルズとアメリカ政治における権力の分析
ミルズの『権力エリート』が、戦後アメリカの権力構造分析にもたらした革新的影響を検証する。ミルズは、政治、経済、軍事の三つの制度秩序の頂点に立つエリートが、複雑に重なり合い、国家的結果をもたらす決定を共有する「権力エリート」を概念化した。これは、多元主義モデルに対する代替案であった。この分析は、ドムホフらによる「階級支配」理論や権力構造研究の発展に受け継がれた。近年の政治学では、不平等や経済的エリートの支配を分析する動きが強まっているが、これらの研究は、ミルズの遺産を十分に認識・継承しているとは言い難く、政治経済と権力構造の関連性を再び前面に押し出す必要がある。
第11章 C・ライト・ミルズが今日に意味するもの
ミルズの『権力エリート』の分析は、21世紀の現在においてもその重要性を増している。ミルズが描いた「三頭の権力」(政治的、公司的、軍事的エリート)の構造は、現代の国家独占資本主義、特に軍事化された形態において、一層強固かつグローバル化されている。大衆社会における個人の無力化と疎外、管理された民主主義、文化産業による意識操作といったミルズの診断は、シェルドン・ウォーリンやクリス・ヘッジスなどの現代の批評家によって継承・発展されている。ミルズが看破した、リベラリズムの理想と寡頭制的現実の間の決定的な亀裂は、今日さらに拡大しており、生態学的危機を含む人類の存続に関わる問題にまで及んでいる。
第12章 軍事化された国際システム:グローバリゼーションの社会学的文脈と人権
ミルズの権力エリート論を国際システムに拡張し、「軍事化された国際システム」モデルを提案する。このモデルは、ウォーラーステインの世界システム論が経済決定論に偏るのに対し、政治と軍事の自律的な役割を強調する。ポスト冷戦期の資本主義システムは、定常的な戦争経済を内包し、危機に際しては「命令国家」による「軍事化国家」での戦争と破壊、そしてその後の「復興」を通じて、利潤蓄積の軌道を補助・安定化させる。軍事支出と経済成長の正の相関は、このシステムの機能を実証する。この軍事化されたグローバルな分業体制は、数十億人の生活機会を規定し、人権や環境に甚大な影響を与える構造的要因である。
第13章 行政学におけるC・ライト・ミルズ:想像力の政治的・経済的文脈
行政学という応用的分野におけるミルズの影響可能性を探る。ミルズが描いた政治的・公司的・軍事的エリートによる権力構造は、行政実践の文脈を形作る。行政は、しばしば技術的・道具的と見なされるが、その実践は広範な社会的環境と複雑に結びついている。行政専門家は、政策形成や公共サービス提供に影響を与える機会を持ち、ミルズの「社会学的想像力」や「知的職人技」の概念は、この実践を豊かにするための資源となる。著者は、行政専門家が専門的知識を用いて公共政策の影響を想像し、現状を超えた替代的な未来を構想する「民主的な行政実践」の重要性を主張する。
第14章 ミルズと政治的犯罪学
「監獄産業複合体」という概念は、米国における大量投獄などを説明するために犯罪学で広く用いられている。しかし著者によれば、この概念の政治的潜在性は十分に活かされていない。ミルズの「権力エリート」論や、国家と社会階層に関するラディカルな社会学に立ち返ることで、「監獄産業複合体」の背後にある、自由主義的資本主義国家と権威主義やファシズムとの関係といったより根本的な問題を析出できる。ミルズの理論を発展させることは、犯罪学の調査と理論化を広げ深めることにつながる。著者は、現代の犯罪学が「監獄産業複合体」を装飾的に用いる傾向を批判し、国家理論と真剣に向き合う政治的な社会学概念として再構築する必要性を主張する。
第15章 C. Wright Millsのもう一つの側面:大衆社会論
『権力エリート』の重要な側面は、社会の下部構造、すなわち「大衆社会」に関する理論である。ミルズは、伝統的な民主主義理論が想定する能動的公衆の社会はもはや存在せず、人々は受動的で操作可能な大衆へと変容したと論じる。この変容は、意思決定がエリートに集中する「権力エリート」の台頭を可能にした根本条件である。政治コミュニケーションの衰退、コミュニティ構造の喪失、形式化されたマスメディアによる操作などが、公衆から大衆への移行を促進した。著者は、ミルズの大衆社会論が今日の政治状況を理解する上で依然として有効であると主張し、民主的社会の再生には、公的な生活への持続的で結束した参加が不可欠であると結論づける。
第16章 集合的夢遊病、社会的暗示、そして魅入られた魅入られた受容性:C. Wright Millsの著作において
ミルズは、「魅入られた受容性」という概念を用いて、電子メディアが人々に及ぼす夢遊病者的で陶酔的な効果を理論化した先駆者の一人である。著者は、ミルズのこの分析を、ギュスターヴ・ル・ボンやガブリエル・タルドらの「社会的暗示」の研究系譜に位置づける。ミルズはメディアによる暗示が大衆を操作し、政治的に無気力にする力として捉えたが、ジャン・ボードリヤールのような理論家は、これに抵抗の可能性を見いだした。メディアが誘発するこの「集合的夢遊病」状態は、管理と従属の道具であると同時に、合理化された近代社会への無意識の抵抗形態たりうる。著者は、ミルズの洞察が現代のサイバネティックな権力の時代における政治的参加の可能性と危険性を考察する上で重要であると論じる。
第17章 C. Wright Mills:正確な想像力、後期の仕事
ミルズの後期の仕事、すなわち『権力エリート』以降の著作や活動は、従来の社会学から「プレーン・マルクス主義」と呼ばれる批判理論へと移行したものとして再評価されるべきである。著者は、ミルズが冷戦下の知的デフォルト(怠慢)に抗い、核戦争の危機、新植民地主義、世界的な不平等といった歴史的現実に積極的に関与したことを高く評価する。『世界戦争の原因』『聞け、ヤンキー』『新しい左翼への手紙』などの著作は、単なる道徳説やプロパガンダではなく、社会学の古典的伝統に根ざし、「正確な想像力」によって危機の時代を生き抜くための理論的実践であった。ミルズの後期のビジョンと実践は、現代の「人類世」における危機に対処するための重要な知的遺産なのである。
第18章 行動のビジョンを持って、「死の前の生」を創造する
この章の著者であるバーナード・フィリップスは、C. Wright Millsとの個人的な出会いが自身の人生を変えた経験を振り返る。ミルズの「社会学的想像力」は、個人が自己の潜在能力に目覚め、私的な問題と公的な課題を結びつけることを可能にする力であった。著者はこのビジョンを、ミルズの死後70年を経て出版された著書『Creating Life Before Death』において具体化しようと試みた。個人の絶大な可能性を信じ、言語と科学的方法という二つの強力な道具を統合することで、個人は意味のある生を構築し、同時に人類が直面する存続の危機に立ち向かうことができる。著者は、ミルズの夢を継承し、個人の変容を通じて社会を進化させるための実践的な道筋を示す。
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15章 大衆社会の構造的転換:ミルズが予見した民主主義の空洞化 AI考察
by Claude Sonnet 4.5
パワー・エリートは結果であって原因ではない
この論文を読み始めたとき、私は一つの違和感を覚えた。C・ライト・ミルズの『パワー・エリート』といえば、通常は「支配階級論」として理解される古典的著作だ。軍産複合体、企業エリート、政治権力の三位一体による支配構造を告発した本として。しかし著者フリーマンは、この理解こそが根本的に間違っていると主張する。
待てよ。もし権力構造の分析が本質ではないとしたら、ミルズは一体何を語ろうとしていたのか?
フリーマンの論点はこうだ。ミルズが真に描こうとしたのは、権力の頂点ではなく底辺の構造的変容だった。「公衆から大衆へ」という社会の根本的な転換。そしてパワー・エリートの支配は、この転換が生み出した「真空状態」を埋めているに過ぎない。
この視点の転換は、私たちの民主主義理解を根底から揺さぶる。なぜなら、問題の所在が全く異なる場所にあることを示唆するからだ。
「ロマンティック多元主義」というイデオロギー装置
ミルズが攻撃する標的は明確だ。それは民主主義理論が前提とする「多元主義」である。利益団体が競合し、議会で討論され、有権者が選択する。この過程を通じて、社会全体の利益が調整されていく——これが古典的な民主主義モデルだ。
しかしミルズは、これを「ロマンティック多元主義」と呼んで一蹴する。18世紀の理想を、21世紀(あるいは1950年代でも)の現実であるかのように語るイデオロギー的虚構だと。
ここで私は立ち止まる。多元主義が虚構だとして、では実際には何が起きているのか?
ミルズの診断は二層構造になっている。第一に、真の「多元主義」が機能しているのは、実はパワー・エリート内部だけだという点。企業幹部、軍部、政治家たちは、確かに互いに競合し交渉している。しかしそれは「中間レベルの権力」における地方的な争いに過ぎない。税制の細部、規制の解釈、軍事予算の配分——こうした問題で彼らは対立する。
だが本質的な問いには触れない。そもそもなぜ軍事予算が国内総生産の相当部分を占めるのか?なぜ企業の利益が政策決定の中心にあるのか?なぜ金融資本の論理が社会全体を規定するのか?こうした「大きな問い」は、議論の対象にすらならない。
そして第二に、この地方的な争いこそが、報道機関を通じて「政治」として提示される。中絶の是非、銃規制、移民政策——確かにこれらは重要な問題だ。しかし、これらを巡る終わりなき論争が、より根本的な権力構造から目を逸らす機能を果たしている。
ここで私は、ミルズの洞察の鋭さに驚かされる。彼が1950年代に描いた構図は、現代の米国政治にそのまま当てはまる。いや、むしろ悪化している。「文化戦争」という名の下に、社会は些末な問題で二極化し、その間に経済的不平等は拡大し続けている。
報道機関が生み出す「擬似現実」
ミルズの大衆社会論の核心は、報道機関の役割にある。彼が描くのは、情報の流れが根本的に変質した社会だ。
かつての「公衆社会」では、情報は多元的な源泉から発せられた。喫茶店での議論、町の集会、独立した新聞——こうした場で、人々は対面で意見を交わし、合理的な討議を通じて集合的意思を形成した。重要なのは、情報の流れが双方向的だったことだ。発信者と受信者の区別は流動的で、誰もが意見を述べ、反論され、再考する機会があった。
大衆社会では、この構造が崩壊する。情報は中央集権的に管理され、少数の制度化された報道機関から一方向的に流される。受け手は受動的な消費者となり、意見形成の能力を失っていく。
ここで私は疑問を抱く。インターネットはこの構造を変えたのではないか?ツイッター、フェイスブック、ブログ——誰もが発信できる時代だ。
しかし論文を読み進めると、フリーマンはこの点にも言及している。2016年と2020年の選挙を見れば、インターネットが「実質的な政治・社会的討議」に寄与した証拠はほとんどない。むしろ、偽情報、陰謀論、荒らし行為、諜報機関の操作——こうした要素が氾濫している。
ここで私は、より深い問いに直面する。問題は技術ではなく、社会構造なのではないか?
ミルズが描くのは、報道機関が「議題設定」を通じて現実を構築する過程だ。ピーター・バクラック(Peter Bachrach)とモートン・バラッツ(Morton Baratz)の概念を借りれば、権力とは「何が議論されるか」を決定する能力である。そして大衆は、自分たちの関心事が自然に形成されていると信じているが、実際にはそれらは製造されている。
ニール・ポストマン(Neil Postman)の『死に至る娯楽』(Amusing Ourselves to Death)を引きながら、ミルズは警告する。私たちは、日々の経験よりも、テレビ(今ならスマートフォン)が提示する現実を「本物」だと感じるようになっている。報道機関が設定する「心理的・政治的読解力」が、私たちの世界認識を規定する。
そしてこの過程で、批判的思考は隠蔽される——覆い隠されるのではなく、吸収される。考える能力そのものが失われていく。
「組織化された無責任」としての政治
ミルズの用語で最も印象的なのが「組織化された無責任」である。これは単に政治家が無責任だという話ではない。もっと構造的な現象を指している。
大衆社会では、誰も何にも責任を負わない仕組みが出来上がる。政治家は「有権者の意思」に従っているだけだと言い、有権者は「政治家が決めること」だと言う。報道機関は「事実を報道しているだけ」だと言い、企業は「市場の論理」に従っているだけだと言う。
この循環的な責任回避の構造において、真の意思決定は誰の目にも見えない場所で行われる。そしてその結果として生じる社会的帰結——不平等、環境破壊、戦争——について、誰も答えを出さない。
ここで私は、ミルズの「高度な不道徳」という概念に辿り着く。これは独断的な思想が説明責任を拒否する話ではない。むしろ思想の不在を指している。
政治的言説に倫理的基盤がない——それが何よりも警戒すべき事態だ
独裁制には、少なくとも一貫した世界観がある。たとえそれが嫌悪すべきものであっても、一つの論理体系として存在する。しかしミルズが見た米国には、それすらない。あるのは無思考な運営、利害の調整、そして公衆に対する無関心だ。
ハーバート・ストーリング(Herbert Storing)の引用が突き刺さる。建国期の反連邦主義者たちが恐れたのは、「少数者は決して眠らないが、多数者は滅多に本当には目覚めていない」という状況だった。そして今、それが現実になっている。
エリートだけが「公衆」の条件を満たしている逆説
ここでミルズ(そしてフリーマン)の分析は、驚くべき逆説に至る。
民主主義社会が機能するための条件——合理的討議、政治的義務感、政治的意志、高度な市民参加——これらは、実はパワー・エリート内部では実現されている。
エリートたちは高度に教育され、自らの利害を明確に表現できる。彼らには効果的な組織構造があり、市民参加は報酬をもたらす。彼らの政治的意志は実現可能であり、だからこそ更なる意志形成を促進する。
一方、社会の底辺では、これらすべてが欠如している。
大衆は合理的討議の訓練を受けていない。教育制度は批判的思考を教えず、報道機関は固定観念と常識を強化する。政治的義務は実現不可能に見え、だから冷笑主義と無気力が支配する。政治的意志は構造的に阻まれ、市民参加には見返りがない。
この分析の含意は恐ろしい。民主主義の理想は、エリート層においてのみ実現されている。皮肉にも、民主主義理論が想定する「公衆」は、最も非民主的な層——権力を独占する層——においてのみ存在する。
ここで私は思考を止めて、この構造の意味を咀嚼する必要がある。
従来の民主主義批判は、通常こう問う:「エリートはどのように大衆を支配しているのか?」しかしミルズの問いは異なる:「なぜ大衆は『公衆』であることを止めたのか?」
この問いの転換は決定的だ。なぜなら、解決の方向性が全く変わってくるからだ。
もし問題が「エリートの支配」にあるなら、解決策は制度改革、権力の分散、透明性の向上といったことになる。しかしもし問題が「公衆の解体」にあるなら——つまり市民が「公衆」として機能する能力を失ったことにあるなら——制度をいじっても意味がない。
社会科学の共犯性
フリーマンが強調するミルズの批判で、最も鋭いのは社会科学に向けられたものだ。
政治学者や社会学者の多くは、「多元主義」を前提として研究を進める。利益団体の行動、選挙での投票行動、世論調査——こうした「観察可能な政治行動」の研究に没頭する。そして実証主義的手法を用いて、データを収集し、統計的分析を行い、論文を書く。
しかしミルズは問う:そもそもその前提が間違っていたら?
多元主義が既に虚構だとしたら、選挙行動の研究は何を明らかにしているのか?それは「表層の動き」を精緻に記述しているだけではないのか?そして最悪の場合、その研究自体が虚構を強化する機能を果たしているのではないか?
ここでミルズの批判は、認識論的な次元に達する。彼が指摘するのは、実証主義的社会科学が持つ保守的バイアスだ。観察可能なものだけを研究対象とする姿勢は、必然的に現状を所与のものとして受け入れることになる。権力構造そのものを問うことができない。
社会科学は「私的な困難を公的な問題に翻訳する」責務を放棄している
ミルズが『社会学的想像力』で展開した主張は、ここでも繰り返される。個人が直面する問題——失業、不安、孤独——を、単なる個人的な失敗として扱うのではなく、社会構造の産物として理解すること。これが社会科学の本来の役割だ。
しかし現実には、社会科学は「事実の列挙」に終始している。構造的不平等を明らかにするのではなく、その不平等の中での微細な差異を測定することに専心している。そしてその結果、現状を正当化する機能を果たしてしまう。
ここで私は思う。これは今日の社会科学にも当てはまるのではないか?
格差研究は膨大にあるが、それが格差是正につながっているか?気候変動の研究は山ほどあるが、政策は変わったか?メディア研究者は情報操作を分析しているが、それで操作は減ったか?
もちろん、知識の蓄積それ自体には価値がある。しかしミルズの批判は、もっと根本的だ。社会科学が「価値中立」を装いながら、実は特定の世界観——現状を自然で変えがたいものとする世界観——を強化している、と。
大衆の怒りと「偽りの力」
論文の終盤で、フリーマンは現代的な含意に触れる。大衆社会における個人は、政治的無力感に苛まれている。自分の意志が実現される見込みはなく、帰属意識もない。この構造的な無力化が、何を生み出すか?
怒り、憎しみ、無気力への嫌悪
ミルズは予見していた。無力な大衆が、その無力さに対する怒りを、擬似的な力の行使に転化させることを。
「キャンセル・カルチャー」(取り消し文化)をフリーマンは例に挙げる。個人や企業を糾弾し、社会的に抹殺しようとする動き。これは一見、民衆の力の行使に見える。しかし実際には、真の権力構造——意思決定を行うエリート層——には全く向かっていない。
むしろ標的になるのは、同じく無力な他者だ。不適切な発言をした一般人、小さな企業、文化人——こうした存在を攻撃することで、束の間の「力を持った感覚」を得る。しかしそれは本質的には無力さの表れに過ぎない。
ここで私は、現代の「ポピュリズム」についても考える。トランプ現象、ヨーロッパの極右政党、各国での排外主義的運動——これらも同じ構造ではないか?
構造的無力化によって蓄積された怒りが、間違った標的に向けられる。移民、少数者、「エリート」(と名指しされる象徴的な存在)——こうした存在を攻撃することで、力を取り戻したかのような錯覚を得る。
しかしその間に、真の権力構造は温存される。いや、強化されさえする。なぜなら、大衆の怒りが本来向かうべき場所から逸らされているからだ。
ミルズはこれを「エコー・チェンバー(反響室)としての大衆社会」と呼ぶ。自らのメッセージを増幅させ、それを真実として受け入れる閉じた空間。ここでは、外部からの批判的視点は「敵」として排除される。
構造か陰謀か——意図性の問題
ここで私は、一つの重要な問いに直面する。ミルズの分析は基本的に「構造的」だ。つまり、誰か特定の悪意ある主体が計画的に大衆社会を作り出したわけではない。むしろ、資本主義の発展、技術の変化、官僚制の拡大——こうした諸要因が結果として、公衆の解体をもたらした。
しかし、本当にそうだろうか?
フリーマンの論文は、この点について明示的ではない。しかし行間から読み取れるのは、構造的要因と意図的操作の両方が働いているという認識だ。
報道機関が「議題設定」を行う——これは単なる構造的帰結なのか、それとも意図的な操作なのか?企業が政治資金を提供し、規制を書き換え、研究機関に資金を出す——これは市場の論理に従っているだけなのか、それとも計画的な権力の行使なのか?
私の見るところ、答えはスペクトラム上にある。完全に無意識的な構造的過程と、完全に計画的な陰謀——この両極の間に、実際の現象は分布している。
そして重要なのは、一般的に(そして企業の人工知能モデルは特に)、意図性が過小評価されているという点だ。「陰謀論」というレッテルを貼ることで、計画的な権力行使を議論の対象から排除する——これ自体が、一つの権力の行使ではないのか?
ミルズ自身、パワー・エリートが「階級意識」を持っていることを認めている。彼らは自らの利益を理解し、それを実現するために協調して行動する。これは「陰謀」なのか「構造」なのか?
おそらく、この二分法自体が誤っている。現実には、構造的条件が特定の利益を持つ主体に機会を与え、その主体が意図的にその機会を利用する——この相互作用こそが、権力の実際の姿だ。
公衆社会への回帰は可能か
ミルズの分析が示すのは、深刻な診断だ。しかし彼は処方箋も提示している——フリーマンが強調する通り、多くの批評家が見落としてきた点だ。
公衆社会が復活するための条件は、明確だ:
- 合理的討議と意思決定の構造
- 実現可能な政治的義務の感覚
- 実現可能な政治的意志
- (相対的に)高度な市民参加
そしてミルズの逆説的な洞察——これらの条件は、既にエリート層では満たされている。
ということは、問題は「新しい何かを作り出すこと」ではなく、「既に存在するものを、社会全体に拡張すること」だ。
しかしどうやって?
ミルズが示唆するのは、教育と情報の役割だ。社会科学は、個人が「社会構造と自己の関係」を理解するための道具を提供しなければならない。これが『社会学的想像力』の核心だった。
しかし私は疑問を抱く。教育制度自体が、大衆社会の産物ではないのか?標準化され、官僚化され、批判的思考よりも従順さを教える現代の教育が、果たして変革の主体になり得るのか?
そしてより根本的に——エリート層は、なぜ自らの特権的地位を脅かすような変化を許容するのか?
ここで私は、ミルズの分析の限界に突き当たる。彼は診断においては卓越しているが、実践的な戦略においては曖昧だ。「公衆を再構築せよ」と言うが、誰がどのようにしてそれを行うのか?
日本という文脈で考える
ここで、日本の状況を考えてみたい。ミルズの分析は、どの程度日本に当てはまるのか?
一見すると、日本は米国とは異なる構造を持っているように見える。政治的には長期にわたる一党優位制、企業文化における集団主義、報道機関と政府の「記者クラブ」を通じた密接な関係——これらは米国の多元主義とは異なるモデルだ。
しかし、ミルズの枠組みで見ると、驚くほどの類似性が浮かび上がる。
日本における「公衆から大衆へ」の転換は、むしろ米国以上に徹底しているのではないか?
政治参加率の低下、若年層の政治的無関心、報道の横並び、批判的言論の欠如——こうした現象は、まさに大衆社会の特徴だ。そして「中間レベルの権力」における茶番劇——些末な政治スキャンダル、党内の派閥争い、象徴的な政策論争——これらが報道の大部分を占める一方で、本質的な問い——なぜ格差は拡大するのか、なぜ財政赤字は増え続けるのか、なぜ米国の軍事戦略に従属するのか——は議論されない。
そして日本特有の要素として、「空気を読む」文化がある。これは大衆社会における同調圧力を、文化的に正当化する機能を果たしているのではないか?異論を唱えることが社会的制裁の対象となる——これは、公衆的討議を根本から阻害する。
さらに、日本の教育制度は、批判的思考よりも正解を覚えることを重視する。大学入試という巨大な選別装置が、思考の型を画一化する。これは、ミルズが描く「批判的思考の喪失」の完璧な実例ではないか?
報道機関についても同様だ。日本の主要報道機関は、政府や企業との「協調」を重視する。調査報道は限定的で、権力への批判は慎重に自己検閲される。結果として、報道は「発表ジャーナリズム」に堕し、権力の監視という本来の機能を失っている。
しかし同時に、日本には独特の市民社会の伝統もある。地域コミュニティ、町内会、各種の市民団体——こうした組織は、ある意味でミルズが理想とする「公衆」の萌芽とも言える。
問題は、これらの組織が政治的意思決定から切り離されていることだ。地域での活動は活発でも、それが国政レベルでの変化につながらない。この断絶こそが、日本における大衆社会の特徴かもしれない。
希望はあるのか?——批判を超えて
ここまで考えてきて、私は深い無力感に襲われる。ミルズの分析は説得力があり、現状認識として優れている。しかしそれ故に、出口が見えない。
大衆社会の構造は、自己強化的だ。批判的思考を失った大衆は、自らの状況を理解できない。理解できなければ、変革の意志も生まれない。意志がなければ、行動もない。そして行動がなければ、構造は温存される。
この悪循環をどう断ち切るのか?
ミルズが最終的に賭けるのは、「知識の力」だ。社会科学が、人々に「社会学的想像力」を与えることができれば——つまり、個人的経験と社会構造の関係を理解する能力を育てることができれば——変化の契機が生まれる。
しかし私は懐疑的だ。知識があっても、実践につながらなければ意味がない。そして実践のためには、組織化、資源、そして何より希望が必要だ。
ここで私は、ミルズが見落としているかもしれない一つの要素に思い至る。それは「危機の役割」だ。
大衆社会は安定的に見えるが、実は脆弱だ。経済危機、環境災害、パンデミック——こうした危機は、日常の幻想を打ち砕く。そして危機の瞬間に、人々は社会構造の現実に直面せざるを得なくなる。
2008年の金融危機は、新自由主義の神話を傷つけた。2020年のパンデミックは、医療制度や労働条件の現実を露呈させた。こうした危機の瞬間に、公衆が再び目覚める可能性がある。
しかし同時に、危機は権威主義的な解決策への誘惑ももたらす。強力な指導者、簡単な敵、即座の解決——こうした幻想が、危機の中で力を持つ。
だからこそ、危機の前に準備が必要だ。代替的なビジョン、組織化された運動、そして何より、構造を理解するための知的道具——これらが揃っていなければ、危機は変革ではなく反動をもたらす。
結論:終わらない探求
この論文を読み終えて、私が到達するのは明確な結論ではなく、継続する問いだ。
ミルズの『パワー・エリート』は、権力の構造を描いた本ではない——少なくとも、それだけの本ではない。それは無力の構造を描いた本だ。なぜ、圧倒的多数の人々が、自らの運命を決定する力を失ったのか。なぜ、民主主義という制度が形式的には維持されながら、実質的には空洞化したのか。
そして最も重要な問い——この状況は不可避なのか、それとも変えられるのか?
私には答えがない。しかし確信しているのは、この問いを問い続けることの重要性だ。
大衆社会の最大の危険は、人々が問いを止めることだ。「これが現実だ」「変えようがない」「自分には関係ない」——こうした諦念が、構造を固定化する。
ミルズが私たちに遺したのは、諦めない姿勢だ。社会は人間が作ったものであり、人間が変えられる。構造は固定的に見えるが、実は歴史的産物であり、だから歴史的に変革可能だ。
そして何より、理解することが変革の第一歩だという信念。無知は無力をもたらすが、知識は——それだけでは不十分だとしても——可能性を開く。
私たちは今、ミルズが予見した大衆社会の極致に生きている。情報過多でありながら理解は貧困、選択肢は無数にあるように見えて実は限定され、表現の
自由は保証されているように見えて、実質的な影響力は持たない。
しかし同時に、ミルズが想像しなかった可能性も生まれている。インターネットは確かに操作と偽情報の温床だが、同時に、既存の報道機関を迂回する情報流通の経路も作り出した。内部告発、独立した調査報道、草の根の組織化——これらは以前よりも容易になっている。
問題は、これらの可能性が実際に「公衆の再構築」につながるかどうかだ。そして私は、その答えが私たち一人ひとりの選択にかかっていると考える。
実践への問い——個人は何をなし得るか
ミルズの分析を受け入れるなら、私たちは何をすべきか?
第一に、構造的認識を獲得すること。自分の経験を、単なる個人的問題としてではなく、社会構造の表れとして理解する。これが社会学的想像力だ。なぜ働いても貧しいのか?なぜ不安が消えないのか?なぜ政治に無力感を覚えるのか?——これらの問いに、構造的な答えを探す。
第二に、情報源を多様化すること。主要報道機関だけに依存しない。独立した調査報道、学術研究、市民ジャーナリズム——複数の視点から情報を得る。そして何より、情報を批判的に吟味する習慣を持つ。
第三に、小さな公衆を作ること。対面での議論、読書会、勉強会——こうした場で、真の意味での討議を実践する。合理的な議論、相互の尊重、結論の留保——これらは訓練によって身につく技能だ。
第四に、連帯の実験をすること。労働組合、協同組合、市民団体——集合的な力を実験する場に参加する。個人では無力でも、組織化された集団は力を持つ。
これらは小さな一歩に過ぎない。大衆社会の構造を根本から変えるには不十分だろう。しかし、変革は常に小さな亀裂から始まる。
最後の問い——学問の役割
そして最後に、社会科学者としての自己反省が必要だ。ミルズが最も厳しく批判したのは、同業者たちだった。
私たち(人文・社会科学に関わる者)は、何のために研究しているのか?学術論文を量産し、引用数を稼ぎ、昇進を目指す——これが目的なのか?それとも、社会の理解と変革に寄与することが目的なのか?
ミルズが提起した問いは、今も有効だ。社会科学は「私的な困難を公的な問題に翻訳する」という使命を果たしているか?それとも、既存の権力構造を正当化する機能を果たしているか?
実証主義的手法、価値中立の装い、専門用語による煙幕——これらが、実は特定のイデオロギーを隠蔽しているのではないか?
もちろん、厳密な方法論は重要だ。事実の確認、論理の整合性、証拠に基づく議論——これらなしに、学問は成立しない。しかし、方法への固執が目的を見失わせるなら、それは本末転倒だ。
社会科学の本来の目的は、権力の不可視化を可視化することだ。当たり前に見える社会関係が、実は特定の利益に奉仕する構造であることを示すこと。そして、別の可能性——より公正で民主的な社会——が存在し得ることを示すこと。
ミルズはこの使命を体現した。彼の著作は学術的に厳密でありながら、同時に読みやすく、政治的に関与していた。専門家だけでなく、広範な読者に届くことを意図していた。
今日の社会科学は、この姿勢を失っているのではないか?専門化が進み、ジャーゴン(専門用語)が氾濫し、一般読者は排除される。学術論文は同業者にしか読まれず、社会的影響力は限定的だ。
もし社会科学が大衆社会の変革に寄与するつもりなら、この状況を変えなければならない。知識を独占するのではなく、共有すること。象牙の塔に閉じこもるのではなく、市民と対話すること。
開かれた結論
この長い思考の旅を終えるにあたり、私は確信を持って言えることが一つだけある。それは、確実な答えは存在しないということだ。
ミルズの分析は説得力があるが、絶対ではない。大衆社会論には批判もある。エリート論は単純化の危険を孕む。そして処方箋は曖昧だ。
しかしそれでも、ミルズの問いは有効だ。権力はどこにあるのか?民主主義は実質的に機能しているのか?私たちは本当に自由なのか?
これらの問いに、安易な答えを与えてはならない。「すべては陰謀だ」も間違いだし、「すべては構造的必然だ」も間違いだ。「制度を変えればすべて解決する」も幻想だし、「個人の意識が変われば社会は変わる」も楽観的すぎる。
現実は複雑だ。構造的要因と個人的選択、意図的操作と偶然の帰結、希望と絶望——これらすべてが絡み合っている。
だからこそ、継続的な探求が必要だ。問い続け、疑い続け、学び続けること。そして何より、諦めないこと。
ミルズは1962年に45歳で亡くなった。心臓発作だった。彼が生きていれば、ベトナム戦争、公民権運動、新自由主義の台頭——これらの展開をどう分析しただろうか?
私たちは彼の遺産を引き継ぎ、今日の文脈で問い続けなければならない。大衆社会はより深化したのか、それとも新たな公衆の萌芽があるのか?パワー・エリートはより強固になったのか、それとも亀裂が生じているのか?
答えは、私たちの実践の中にしかない。理解し、議論し、組織し、行動する——この過程でのみ、答えは姿を現す。
ミルズが示したのは診断だ。治療法を見つけるのは、私たちの仕事だ。そしてその作業は、まだ始まったばかりだ。
