- 英語タイトル『Matt Segall on Process Philosophy (Whitehead)』
- 日本語タイトル『マット・シーガルが語るプロセス哲学:ホワイトヘッドの世界観』
対談の基本内容
短い解説
本対談は、哲学者マット・シーガルが、プラトンからホワイトヘッドに至る西洋哲学史を辿りながら、世界を静的実体ではなく動的プロセスとして捉える「プロセス哲学」の核心を、現代物理学や意識問題と関連付けて解説する。
著者について
マット・シーガル(Matt Segall)は、カリフォルニア統合学大学院(California Institute of Integral Studies)の教授。哲学、特にホワイトヘッドのプロセス哲学とシェリングの自然哲学を専門とし、意識、宇宙論、そして東洋思想との統合を試みる研究で知られる。YouTubeチャンネル「Footnotes2Plato」で精力的に哲学を発信している。
重要キーワード解説
- [実体](substance):自己のみで存在しうると定義されるもの。アリストテレスは動的で目的を持つ実体を考えたが、デカルトは精神と物質の二元論的実体に分け、近代科学の基盤を作った。
- [普遍](universals):個別の事物(特定のもの)に共通する性質やカテゴリー(例:赤さ、2-ness)。プラトンは実在するイデアと考えたが、名目論は単なる人間の概念(名前)とみなした。
- [直観](intuition)と[範疇](categories):カント哲学において、直観(時間・空間)は外界を受動的に受け取る形式、範疇(因果性・実体性など12の概念)は能動的に思考を構成する形式。この二つによって現象(経験世界)が成り立つ。
- [現実的実体](actual entity/occasion):ホワイトヘッド哲学における世界の究極的な構成要素。瞬間ごとに生成消滅する「経験の一滴」。従来の「実体」に代わる概念であり、関係性とプロセスを本質とする。
- [把捉](prehension):現実的実体が、過去の他の実体や可能性(永遠的対象)を感じ取り、自らの中に取り入れる作用。物理的な因果性を、感情に類似した経験的プロセスとして捉え直した概念。
本書の要約
本対談は、ホワイトヘッドのプロセス哲学を理解するための壮大な哲学史の旅である。司会のカート・ジェイモンガル(Curt Jaimungal)の進行のもと、マット・シーガル教授は、プラトンから現代に至るまでの西洋哲学の展開を、特に「実体」と「普遍」という概念を軸に解説する。
出発点はプラトンとアリストテレス。アリストテレスは、対象を主語と述語(実体と性質)で捉える論理を確立し、これは約2000年にわたり西洋思想の基盤となった。しかし、中世の名目論が普遍の実在性を否定し、神の全能性を優先したことで、この流れに変化が生まれる。そしてデカルトは、世界を考える精神(延長を持たない実体)と機械的な物質(延長を持つ実体)に完全に二分する二元論を打ち立て、自然から目的を剥奪した。
この二元論は、カントによって根本的な問い直しを受ける。カントは、世界がどうあるか(存在論)を問う前に、私たちがどのように世界を知るか(認識論)を問うた。彼は、時空という直観形式と12の範疇が、私たちの経験(現象)を能動的に構成していると主張し、物自体(ヌース)は知りえないとした。しかし、『判断力批判』では、有機体の自己組織性に着目し、機械論的世界観だけでは説明できない目的性の存在を認める。
このカントの有機体論を宇宙全体に拡張したのがシェリングである。彼は、宇宙自体を一つの自己組織化的な有機体とみなし、無意識的な精神としての自然から、人間の意識が進化の過程で「覚醒」してきたとする、一種の汎心論的な進化宇宙論を展開した。一方、同時代のヘーゲルは、弁証法によって精神の自己展開を理性で捉え尽くそうとし、哲学の終焉を宣言した。
そして、現代物理学の知見(相対性理論、量子論)を踏まえ、新たな宇宙論を構築したのがホワイトヘッドである。彼は、アインシュタインの一般相対性理論が時空の計測に循環論を含むと批判し、自らテンソル方程式を導出した。さらに重要なのは、科学が対象とする「一次性質」と、私たちが実際に経験する「二次性質」を分断する「自然の二分法」を批判した点にある。彼は、世界は静的な「実体」ではなく、瞬間瞬間に生成消滅する「現実的実体」(actual occasions)からなる動的な「プロセス」であると主張する。これらの実体は、過去の実体を「把捉」(prehension)を通じて感じ取り、未来の可能性(永遠的対象)を統合することで新たな実体を生成する。因果関係とは、このような経験的な感情の伝達プロセスに他ならない。
この宇宙観では、神もまた特別な現実的実体として位置づけられる。神は無限の可能性(永遠的対象)を秩序づけ、各瞬間の実体に「関連性のある可能性」を提供する「触発」の役割を担う。創造性こそが究極の原理であり、神はその最初の被造物とされる。
対談の終盤では、このプロセス哲学がもたらす世界観の転換が語られる。人間は広大な宇宙の中の取るに足らない存在ではなく、宇宙を認識し意味を与える意識そのものが、宇宙の深遠なプロセスの一端を担う。唯物論的な世界観は、プトレマイオス的宇宙観と同じくらい時代遅れであり、私たちは意識の内面性という無限のフロンティアに向かうべきだとシーガルは示唆する。死という有限性を受け入れることこそが、人生に真の意味と切迫感をもたらすのだ。
特に印象的な発言や重要な引用
- 「現在の物理世界に対する理解(広大でほとんど空っぽの空間)は、500年前のプトレマイオス的宇宙観と同じくらい近視眼的だという強い直感がある。」
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「死の視点から人生を逆算して生きることは、意味のある人生を送るための最大の可能性を与えてくれる。」
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「(ソクラテスの絵を見て)ソクラテスは弟子たちに『何も教えてこなかったのか?魂は不滅なのだ』と言っているのです。」
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「7歳の時に母親の死を意識して泣きじゃくった経験が、哲学への興味の始まりだった。」
サブトピック
00:00 プトレマイオス的宇宙観の終焉
対談は、現代物理学が描く「広大で空虚な宇宙」というイメージは、500年前の天動説と同じくらい時代遅れかもしれない、というマット・シーガルの刺激的な問題提起から始まる。これは、唯物論的な世界観への根本的な疑義であり、死を前提に生きることの重要性へと議論は接続される。カート・ジェイモンガルは、この問題提起を、哲学史を辿る長い旅の出発点と位置づけ、プラトンから説き起こすようシーガルに促す。議論の目的は、単なる歴史的解説ではなく、これらの抽象的な思想が、現代を生きる私たちの人生にどのような示唆を与えるかを探ることだと明確にされる。
07:20 実体と普遍:哲学の基本骨格
プラトンとアリストテレスの違いが、実体と普遍という概念を軸に解説される。アリストテレスは、日常的な対象を主語と述語で捉える実体-性質の存在論を確立した。一方、プラトンが重視したのは数学的なイデアの世界であり、その後の西洋哲学はこの二つの軸の間で展開する。特に重要なのが、中世の名目論の登場だ。名目論者は、プラトン的な「普遍」の独立した実在性を否定し、それは単に個物から抽象された名前(nomina)に過ぎないとした。これは、神の全能性を論理的・数学的法則からも解放しようとする神学的動機に基づいており、思想史の大きな転換点となった。
16:30 デカルトの二元論と機械論的自然観
デカルトは、アリストテレス的な動的で目的を持つ実体概念を、思考する実体(精神)と延長する実体(物質)に完全に分割した。これにより、自然は目的を剥奪され、純粋に機械的な運動として捉えられるようになる。デカルトの意図は宗教戦争で疲弊したヨーロッパに、誰もが同意できる普遍的言語としての科学を提供することだったが、その結果、動物から内面的経験を否定するなど、深刻な帰結も生んだ。この二元論は、精神と物質という二つの隔絶された領域を前提とし、後の哲学が乗り越えるべき基本問題を設定した。
28:30 カントのコペルニクス的転回:認識論への転換
カントは、デカルト的な実体形而上学を「独断的」として退け、認識論を第一哲学とするコペルニクス的転回を遂行する。ヒュームの懐疑論に触発され、ニュートン物理学の普遍的・必然的性質を認識論的に基礎づけようとしたのだ。彼は、時空を私たちの主観に備わる「直観形式」、因果性などを「範疇」として位置づけ、経験の対象(現象)は、これらの主観形式によって構成されると主張する。つまり、私たちが知るのは「物自体」ではなく、私たちの認識構造によって形作られた現象世界に過ぎない。さらに『判断力批判』では、有機体に見られる自己組織性(部分が全体のために互いを産み出す)に注目し、機械論だけでは捉えきれない自然の目的性を認める。この洞察が後のシェリングらにつながる。
49:40 シェリング:宇宙を自己組織化する有機体と捉える
フィヒテがカントの主観性を極端に推し進め、自然を自我の産物としたのに対し、シェリングは自然そのものに精神の萌芽を見出す。彼は、自然を「無意識的な精神」と捉え、そこから人間の意識が進化の過程で「覚醒」してきたとする進化宇宙論を展開する。これは、物質的な進化の終点からだけでは意識の出現を説明できないという問題意識に基づく、一種の汎心論である。宇宙は、重力と光、電気と磁気といった極性(ポラリティ)のダイナミズムを通じて自己組織化を深めていく。彼の概念的な自然哲学は、後のファラデーやマクスウェルの電磁気学にも影響を与えた。
01:02:10 ヘーゲルとシェリング:体系化と生成の哲学
ヘーゲルとシェリングは友人でありながら、その哲学の方向性を大きく異にする。ヘーゲルは、意識の経験が弁証法的に自己展開する過程を『精神現象学』で描き、最終的に絶対知へと至る体系を構築しようとした。それは歴史の終焉をも宣言する壮大な試みだった。一方シェリングは、一つの最終的な体系を拒否し、創造性と自由を原理とする哲学を探求し続けた。マルクスがヘーゲルの弁証法を唯物論的に「転倒」させて歴史理論を構築したように、ヘーゲルの思考様式は現代思想にも多大な影響を与えている。この対比は、プラトン(不断の探求)とアリストテレス(体系化)の対比にも重なる。
01:21:10 ホワイトヘッド:自然の二分法を超えて
数学者・物理学者として出発したホワイトヘッドは、アインシュタインの一般相対性理論に内在する認識論的困難(計測の循環性)を指摘し、独自のテンソル方程式を導出した。しかし彼の最大の功績は、ガリレオ以来の「自然の二分法」を批判した点にある。これは、計測可能な一次性質(質量、次元など)と、主観的な二次性質(色、匂いなど)を分断する考え方だ。ホワイトヘッドは、科学が研究する自然とは、私たちが知覚する自然そのものであり、そこには夕焼けの赤さも含まれると主張する。彼は、この分断を乗り越えるために、世界を静的な「実体」ではなく、[現実的実体](actual occasions)という瞬間的な「経験の一滴」からなる動的なプロセスとして捉え直す。
01:40:40 プロセスとしての宇宙:把捉と感情
ホワイトヘッドの宇宙では、全ての現実的実体は、過去の実体を「[把捉]」(prehension)を通じて感じ取り、未来の可能性(永遠的対象)を統合することで生成消滅する。因果関係とは、この感情的な影響の伝達プロセスに他ならない。一見不可解なこの考えは、しかし量子論的な非局所性や、出来事から時空が創発するという現代物理学の解釈とも親和性が高い。この宇宙観は、ライプニッツのモナドに類似するが、モナドが「窓なし」に神によって調和させられているのに対し、ホワイトヘッドの実体は因果的に関係し合う点で決定的に異なる。
02:12:00 神と創造性:プロセス哲学における神の役割
このプロセス宇宙において、神は特別な現実的実体として位置づけられる。神は全能の創造主ではなく、無限の可能性(永遠的対象)を価値づけ、秩序づけ、各瞬間の実体に「関連性のある可能性」を提供する役割を担う。無限の可能性に直接晒されれば、いかなる有限な実体も圧倒されてしまうからだ。創造性こそが究極の原理であり、神はその最初の被造物と言える。この考えは、ニーチェが否定したような伝統的な神概念とは全く異なるものであり、プロセス哲学における神は、宇宙の創造的進化に内在し、その生成を「誘発」する存在である。
02:16:30 自由意志と人間の条件
プロセス哲学の観点から自由意志が論じられる。私たちの選択は、身体や心理的発達など様々な制約を受けるが、それでも思考の領域においては高度な自由度を経験する。重要なのは、自由か決定かという二分法ではなく、無意識的な動機を意識化し、自らの意志を「陶冶」していくプロセスである。これはユングの個性化の概念とも通じる。唯物論的に人間を矮小化するのではなく、自己探求を通じて自由の度合いを深めていくことが、人間存在の神秘に向き合う鍵となる。
02:27:50 内なる宇宙への旅:意識のフロンティア
対談の終盤、シーガルは自らの哲学的探求の核心を語る。それは「人間とは何か」という問いであり、文明の方向性を外なる拡大(植民地化、テクノロジー)から内なる深み(意識の探求)へと転換する必要性を訴える。唯物論的な世界観が人間を宇宙の塵に過ぎないと貶めるのに対し、宇宙を認識し意味付ける意識そのものの重要性を指摘する。彼は、死という有限性を受容し、それを人生の意味の源泉とすることの重要性を、ソクラテスの絵画や自らの幼少期の体験を交えて情感豊かに語り、対談を締めくくる。
宇宙は「もの」ではなく「出来事」でできている——プロセス哲学が覆す世界の見方 AI考察
by Claude 4.5
プラトンからホワイトヘッドへの2500年
マシュー・セガル(Matthew Segall)はカリフォルニア統合学研究所の哲学者で、ホワイトヘッドのプロセス哲学を現代に接続しようとする思想家である。カート・ジャイマンガル(Curt Jaimungal)が運営するポッドキャスト「Theories of Everything」での約3時間にわたる対話は、プラトンからアリストテレス、デカルト、カント、シェリング、ヘーゲル、そしてホワイトヘッドへと至る西洋哲学の通史を駆け抜けながら、最終的に「人間とは何か」「意識とは宇宙においてどんな位置を占めるのか」という問いに到達する。
この対話の核心は、2500年にわたって西洋思想を支配してきた「実体」概念——世界は固定的な「もの」で構成されているという前提——を根本から問い直すことにある。セガルの議論を追いながら、この転換がなぜ今重要なのか、そしてどこに限界があるのかを考えてみたい。
「実体」という牢獄からの脱出
アリストテレスが定式化した「実体」概念は、「それ自身以外の何ものも必要とせずに存在するもの」と定義される。テーブル、椅子、岩、植物——こうした日常的な「もの」を分類するにはうまく機能した。しかしセガルが指摘するように、この枠組みには根本的な問題が潜んでいた。
アリストテレスにおいて実体はまだ動的なものだった。ドングリがオークの木に成長する過程そのものが実体の本質であり、そこには「目的」が内在していた。ところがデカルトがこれを「思惟する実体(精神)」と「延長する実体(物質)」に二分した瞬間、自然界から目的が剥奪される。自然は目的なき機械となり、目的を持つのは人間の魂だけとなった。
ここで見過ごしてはならないのは、デカルトの動機が純粋に知的なものではなかったという点である。セガルが強調するように、デカルトは三十年戦争——ヨーロッパ史上最も血なまぐさい宗教戦争の一つ——に従軍した経験を持つ。プロテスタントとカトリックが殺し合う世界で、宗教的立場に依存しない「万人が合意できる言語」として数学的自然科学を構想した。魂は教会に、物質は科学に——この分業体制が近代科学を可能にした。
しかしその代償は大きかった。デカルトは動物には内的経験がないと主張し、解剖される犬の悲鳴を「機械の歯車がきしむ音にすぎない」と学生に教えたという。セガルはこのエピソードを「哲学者が自分の体系に固執し、それと矛盾する事実をすべて無視する危険」の典型として挙げている。
日本の文脈で考えると、この「自然から目的を剥奪する」という操作は、山川草木悉皆成仏という発想を持つ日本的自然観とは根本的に異なる。西洋近代が「自然の脱魂化」を通じて科学技術文明を築いたのに対し、日本では近代化の過程でこの西洋的自然観を輸入しながらも、感覚的には自然との親和性を保ち続けてきた。この二重性は、プロセス哲学が提起する問題を考える上で独自の視座を提供する。
カントの「逆転」——知ることの条件を問う
カントが行った転換は、セガルの説明では「コペルニクス的転回」と呼ばれる。コペルニクスが天体の見かけの運動を地球の運動によって説明したように、カントは「対象が主観の構造に従う」と考えた。空間と時間は外部にある容器ではなく、人間の認識が世界を受け取る「形式」である。12のカテゴリー(因果性、実体性、可能性、必然性など)は、経験を組織化する主観の枠組みであって、世界そのものの属性ではない。
ここで重要なのは、カントが単なる主観主義に陥っていないという点である。空間は幾何学的に、時間は算術的に理解可能であり、12のカテゴリーはすべての合理的主体に共通する。つまり「主観的だが普遍的」という独特の地位を科学的知識に与えた。
セガルが興味深い指摘をしている。カントなら現代のAIについて「数学を模倣はできるが、真に創造的な数学はできない」と言うだろう、と。なぜなら数学には純粋に論理的な操作に還元できない「直観的」次元があり、それは想像力を通じた一種の図式的活動だからである。これは単なる歴史的注釈ではなく、現在のAI議論——大規模言語モデルは「理解」しているのか、単に統計的パターンを操作しているだけなのか——に直結する論点である。
もう一つ見逃せないのは、カントの第三批判『判断力批判』(1790年)への言及である。ここでカントは生命体における「目的論的因果性」——部分が全体のために互いを産出するという循環的因果——を認めた。セガルはこれを、カントが自ら構築した「現象界/物自体」の二元論を超え始めた瞬間として位置づける。単純な線形因果では説明できない自己組織化の原理を、一枚の草の葉にさえ認めたカントの洞察が、ドイツ観念論とロマン主義、そして最終的にはホワイトヘッドのプロセス哲学へと道を開いた。
シェリングの「逆転の逆転」と進化的宇宙論
シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph Schelling)は、カントの問い「自然がこのように現れるためには心はいかなるものでなければならないか」を裏返し、「心がそこから生じるためには自然はいかなるものでなければならないか」と問うた。この問いの転換は、現代の「意識のハードプロブレム」の先取りにほかならない。
セガルの説明で印象的なのは、シェリングが「唯物論的な宇宙進化では意識は導出できない」と明確に論じていた点である。無機的な物質やプラズマから出発して、その過程のどこにも心的なものが含まれていないなら、過程の終端に意識的な人間が出現する理由がない。したがって、宇宙の始まりから何らかの心的要素——少なくともその萌芽——が存在していなければならない。これは一種の「汎心論」であり、21世紀に入ってフィリップ・ゴフ(Philip Goff)やガレン・ストローソン(Galen Strawson)が再び注目を集めている立場と本質的に同じ構造を持つ。
シェリングはまた、宇宙全体を自己組織化する有機体——「世界霊魂」——として捉え、重力と光、電気と磁気といった「極性」を通じて進化する過程を構想した。セガルによれば、電気と磁気の関連を概念的に先取りしたのはシェリングであり、それがファラデー、さらにマクスウェルの電磁気学へと繋がった。数学的定式化は後の科学者に委ねたが、概念的な種を蒔いたのはシェリングだったという評価である。
ただし、ここには慎重さも必要である。「概念的先取り」と「科学的発見」は異なる。シェリングの自然哲学は体系的な実験や数学的検証を経たものではなく、後知恵で科学史を哲学の功績として読み替える危険がある。とはいえ、パラダイム形成において概念的想像力が果たす役割を軽視すべきでもない。科学における「発見の文脈」と「正当化の文脈」の区別を念頭に置きつつ、哲学的構想が科学的探求の方向性を形成しうるという主張自体は妥当だろう。
ヘーゲルの完結——弁証法の力と陥穽
ヘーゲルに関するセガルの議論には、いくつかの重要な論点が含まれている。
第一に、シェリングとヘーゲルの関係。両者はセミナリーの友人であり、シェリングの方が神童で早くに名声を得た一方、ヘーゲルは30代後半まで家庭教師をしていた「遅咲き」であった。1806年の『精神現象学』出版後、両者は約20年間疎遠になる。セガルは、通説とは異なり、ヘーゲルの有名な「すべての牛が黒い夜」という批判は実はシェリング自身が先に使った比喩の借用であり、両者の対立は後世の哲学史家によって過度に強調されている可能性を示唆する。
第二に、ヘーゲルの弁証法の核心。定立(テーゼ)が反定立(アンチテーゼ)を呼び起こし、両者が止揚(アウフヘーベン)されてより高い総合(ジンテーゼ)に至る。この総合が新たな定立となり、過程が反復される。フーコーの言葉として紹介される挿話が面白い——「ヘーゲルをついに乗り越えたと思って角を曲がると、そこで笑いながら待っているのがヘーゲルだ」。否定の論理を完成させたヘーゲルは、自らの哲学の否定をも体系内に招き入れる構造を持っている。
第三に、ヘーゲルからマルクスへの展開。マルクスはヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を世界史に適用した。奴隷は自然と格闘する労働を通じて自己意識を深め、最終的に主人よりも高い認識に到達する——この構造が階級闘争の哲学的基盤となった。
セガルが強調するのは、シェリングにとって究極の原理は「創造性と自由」であったのに対し、ヘーゲルは「合理的な完結と体系の全体化」を求めたという対比である。シェリングは生涯を通じて少なくとも5つか6つの異なる体系を構想し直し、常に「私の哲学体系」と言った。ヘーゲルは「哲学の体系」——つまり唯一の最終的体系——を目指した。セガル自身はシェリングにより共感していると述べている。
ジジェク(Slavoj Žižek)に代表される現代の哲学者がドイツ観念論に回帰しているのは、今日の政治的・文化的状況が当時と無縁ではないからだとセガルは言う。自由と自然、自由とメカニズムの対立は、まさに現在進行中の問題である。
ホワイトヘッドのプロセス哲学——「感じる宇宙」
ここからが対話の核心部分である。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)は数学者としてキャリアを始め、ラッセルと共に『プリンキピア・マテマティカ』を執筆し、数学の論理的基礎づけを試みた。ラッセルはこの企ての挫折(ゲーデルの不完全性定理によって最終的に不可能と証明される)に打ちのめされたが、ホワイトヘッドはそこから解放された。論理学だけでは数学の基礎を理解できないなら、その前に形而上学的問題を探求する必要がある——そう考えた。
セガルが詳述するホワイトヘッドの相対性理論批判は技術的だが重要である。ホワイトヘッドは1922年の著書『相対性原理』(The Principle of Relativity)で独自のテンソル方程式を開発し、アインシュタインの一般相対性理論に代わる理論を提示した。その核心的批判は「認識論的パラドックス」にある——もし時空そのものが質量によって歪むなら、正確な測定を行うためにはまず介在する質量の位置を知る必要があるが、質量の位置を知るためには正確な測定が必要である。「何かを知る前にすべてを知っていなければならない」という循環が生じる。
天文学者エディントンはホワイトヘッドの数学を検証して有効だと認めたという。ただし、後の精密測定でアインシュタインの方程式がより正確であることが示唆されているとされる(ただしホワイトヘッドの方程式も自由パラメータの調整で対応可能だとセガルは付言する)。ジャイマンガルは物理学者として、曲率・捩率(トーション)・非計量性(ノンメトリシティ)という一般相対論の3つのパラメータに言及し、ホワイトヘッドの理論が非計量性の枠組みに対応することを指摘している。真空方程式では同じ予測を与えるが、物質(フェルミオン)との結合で問題が生じるという。
ホワイトヘッドの哲学的プロジェクトの中心にあるのは「自然の二分化」(bifurcation of nature)の批判である。ガリレオ以来、科学は「第一性質」(質量、大きさなど測定可能なもの)と「第二性質」(色、匂い、感触など主観的なもの)を分離してきた。ホワイトヘッドはこの方法論的分離が存在論的分離として固定化されることを批判する。夕焼けの赤さは、電磁波の周波数に「還元」されるべきものではなく、自然そのものの一部である。科学は知覚経験に現れる関係のパターンを研究するのであって、知覚の向こう側にある「客観的実在」を記述するのではない。
そしてホワイトヘッドの存在論の核心——世界は「実体」ではなく「出来事」(actual occasions)で構成されている。各出来事は瞬間的な経験のしずくであり、過去の出来事を「把握」(prehension)し、可能性の領域と統合して、何になるかを「決定」し、消滅して次の出来事の素材となる。
「把握」には二種類ある。「物理的把握」は、現在の出来事がすでに消滅した過去の出来事を因果的に取り込む過程である。「概念的把握」は、まだ現実化されていない可能性——ホワイトヘッドが「永遠的客体」(eternal objects)と呼ぶプラトン的形相——を感じ取る過程である。この二つの把握の総合が、各出来事の「合生」(concrescence)を構成する。
ここで神が登場する。ホワイトヘッドの神は全能の創造者ではなく、無限の可能性の領域に秩序を与え、各出来事にとって「何が関連する可能性か」を濾過する機能を果たす。セガルの表現を借りれば「宇宙のDJ」——可能性のキュレーターである。もし各出来事が無限の可能性にそのまま晒されたら圧倒されてしまう。神は可能性に価値の序列を与え、各出来事を意味ある決定へと「誘惑」する(決定するのではなく)。
ジャイマンガルがここで鋭い指摘をする。「すべての可能性」の中には「すべての可能性に圧倒されない可能性」も含まれるのではないか、と。セガルはこの問いに驚き、これがまさにホワイトヘッドが神の存在を論じる理由だと応答する——無限の可能性は、自らに限界を課す可能性をも含んでおり、その限界が現実化したものが最初の現実的存在者(神)であり、そこから有限な現実の宇宙が展開する。創造は徹底して偶然的であり、しかしその偶然が事後的にすべての合理性の基盤となる。
ライプニッツのモナドとの比較——「窓のない」存在から「窓だらけ」の存在へ
ジャイマンガルはホワイトヘッドの「現実的出来事」をライプニッツのモナドおよびドナルド・ホフマン(Donald Hoffman)の「意識的エージェントのネットワーク」と比較するよう求める。
ライプニッツのモナドは「窓がない」(windowless)——つまり他のモナドとの因果的相互作用がない。各モナドは神によって予定調和的に同期されており、あたかも一人一人に映画のリールが事前にインストールされ、完璧に同期再生されているようなものである。論理的に美しいが、存在論としてはかなり不自然である。
ホワイトヘッドの現実的出来事は、これとは対照的に「ほとんど窓だけ」(almost all window)でできている。因果的に開かれ、過去の出来事を直接に把握する。予定調和も不要である。ホワイトヘッドにも神は存在するが、各出来事と同じカテゴリーに服する別の現実的存在者であり、最初の基音を設定する存在として、他の存在者との「呼応と応答」の関係にある。
もう一つの重要な差異——ライプニッツのモナドは永遠であるのに対し、ホワイトヘッドの現実的出来事は瞬間的に生成・消滅する。「主観的直接性」(subjective immediacy)から「客観的不死性」(objective immortality)への移行——生きた経験として存在していたものが消滅し、後続の出来事にとっての客観的素材となる。
時空もまた、現実的出来事間の関係から「創発」するものであり、それらの出来事が存在する事前の容器ではない。これは量子重力のいくつかのアプローチ(ループ量子重力や因果集合理論など)と構造的な類似性を持つ。
自由意志——制約された自由としての
セガルの自由意志論は、プロセス哲学の枠組みから自然に導かれるものである。原子のスケールでは自由はほぼゼロに近く、量子的な不確定性として現れる程度である。人間の思考のスケールでは、想像力において「ほぼ無限の自由」がある。しかし身体的行動のレベルでは、生理学的・環境的制約によってかなり限定される。
核心的な主張は、自由意志は「ある」か「ない」かの二者択一ではなく、「程度」の問題であり、しかも「培養」可能なものだということである。無意識の動機に気づかないままでいれば、それに規定される。ユングの個性化のプロセスのように、無意識の内容を意識化することで、それまで自分を決定していたものが自由に「共に働く」道具となる。
ここにはプロセス哲学の存在論と実存的実践の接合点がある。しかし率直に言えば、この議論は哲学的にはまだ十分に展開されていない。「思考において自由を直接的に経験する」という主張は、自由意志の否定論者(たとえばサム・ハリスやロバート・サポルスキー)からすれば、まさに彼らが「錯覚」と呼ぶものの記述にすぎない。自由の「感覚」があることと自由が「ある」ことは別問題であり、セガルはこの区別に十分に取り組んでいるとは言いがたい。
とはいえ、プロセス哲学の枠組みでは、この問題は通常とは異なる地平に置かれる。通常の自由意志論争は、決定論的な物理法則が支配する宇宙の中で人間の自由がいかにして可能かを問う。しかしプロセス哲学では、最も基本的な物理過程にすでに「決定」の契機——現実化と可能性の統合——が含まれている。自由は人間だけの特権ではなく、宇宙のあらゆるスケールに程度の差はあれ浸透する基本的特性である。問題は自由が「あるかないか」ではなく、いかにしてより高度な形態の自由が進化的に出現するかとなる。
「内なる宇宙」への転回——セガルの世界観
対話の終盤で、セガルは自らの世界観(Weltanschauung)を率直に語る。その中心にあるのは「人間とは何か」という問いであり、科学的知識、精神的希求、芸術的鑑賞、政治的営為を、この問いの周りに再配置する試みである。
現在の我々の物理的世界の理解——この巨大でほとんど空っぽの空間——は、500年前のプトレマイオス的太陽系理解と同じくらい近視眼的であると、私は強く疑っている。
この主張は挑発的であるが、一定の根拠を持つ。量子力学の測定問題、暗黒物質・暗黒エネルギーの謎(観測可能な宇宙のエネルギー収支の約95%が未解明)、意識のハードプロブレム——現代物理学は自らの基盤に複数の深刻な未解決問題を抱えている。宇宙の物質的広大さの前に人間を「取るに足らない存在」と見なす唯物論的世界観は、まさにその広大さを理解する意識そのものを説明できないという根本的な矛盾を孕んでいる。
セガルはまた、現代文明の方向性に対する批判を展開する。技術的応用と経済的利益に駆動される外向的拡張の文明から、内面的探求に根ざした文明への転換を説く。死すべき運命(mortality)の直視がこの転換の鍵となるという。ソクラテスの「哲学とは死の準備である」を引きながら、死の視点から逆算して生きることが最も意味ある生を可能にすると主張する。
7歳のとき、母がいつか死ぬことに気づいて2週間泣き続けた後、自分自身の死が悲しみではなく深い神秘として感じられたという個人的エピソードは、哲学的動機の実存的根源を示している。
批判的検討——何が欠けているか
セガルの議論は知的に刺激的であり、西洋哲学の通史を一貫した筋立てで語る手腕は見事である。しかし、いくつかの重要な問題が未解決のまま残されている。
第一に、「検証可能性」の問題。プロセス哲学の存在論——宇宙が「経験の出来事」で構成されているという主張——は、原理的にどのようにして検証(または反証)できるのか。原子に「最小限の経験」があるという主張は、その経験を検出する方法がない限り、科学的仮説というより形而上学的信念にとどまる。セガル自身、形而上学の道具は「言語そのもの」であると認めているが、言語実験の成否を判定する基準が不明確である。
第二に、「スケーリング問題」。原子の最小限の経験から人間の複雑な意識へ、いかにして移行が起こるのか。プロセス哲学はこの問いに対して「自己組織化の強度が各段階で増大する」という一般的方向性を示すが、具体的メカニズムの説明は乏しい。統合情報理論(IIT)のような定量的アプローチとの接続が必要だろう。
第三に、「政治的含意」の曖昧さ。セガルは対話の終盤で、UnitedHealthcareのCEO射殺事件に言及し、個人の魂を究極的価値の所在とする立場から暴力を批判する。この議論自体は一貫しているが、構造的不正義にどう対処するかという問題への回答にはなっていない。「まず自分の内面から始めよ」という主張は、ユングの立場と共鳴するものだが、制度的暴力に苦しむ人々にとっては特権的な立場からの助言に聞こえうる。制度的逆生産性の視点から言えば、専門家支配や制度的搾取の構造は、個人の内面的変容だけでは解体できない。個人の覚醒と構造的変革の関係についてのより精緻な議論が必要である。
第四に、東洋哲学との関係。セガルは「自然はかつてプラトン的に目的を内在させていた」という西洋固有の物語を語るが、仏教の縁起説、華厳の法界縁起、道教の自然概念など、プロセス哲学と深い構造的類似性を持つ東洋の伝統についてはほとんど触れない。ホワイトヘッドの「現実的出来事」の相互浸透は華厳の「事事無礙法界」と驚くほど類似しており、「把握」の概念は縁起の一解釈として読むことも可能である。西洋哲学内部の系譜だけでプロセス哲学を位置づけるのは、その射程を不当に狭めている。
意識の位置づけをめぐる問い——それは回答か、問いの置き換えか
プロセス哲学の最大の魅力は、「意識のハードプロブレム」に対する回答を提供するように見えることである。物質から意識がいかにして発生するかという問いは、物質そのものがすでに経験的であるならば解消される——あるいはそう見える。
しかし、これは本当に解答なのか、それとも問いの置き換えなのか。「物質はなぜ意識を生むのか」を「なぜ宇宙の基底にすでに経験があるのか」に変換したにすぎないとも言える。後者の問いは前者より答えやすいわけではない。セガル自身がホワイトヘッドの神を「究極的な非合理性であると同時にすべての理由の根拠」と特徴づけていることは、この問題の深さを正直に認めたものと言える。
それでも、問いの「質」が変わったことには意味がある。「不活性な物質からいかにして経験が飛躍的に出現するか」という問いは、物質と意識の間に説明不可能な断絶を前提する。一方、「なぜ宇宙には最初から経験的次元があるのか」という問いは、断絶を前提しない。どちらが「正しい」問いかは判断できないが、後者の方が形而上学的にはより整合的であり、物理学の知見(量子力学における観測者の役割、非局所性、波動関数の実在性をめぐる議論)との接合可能性も広いように思われる。
結語——プロセスの中で考えるということ
セガルとジャイマンガルの対話は、2500年の哲学史を3時間で駆け抜けるという無謀な試みであり、当然ながら多くの重要な論点が素描にとどまっている。しかし、一つの基本的洞察は明確に伝わる。世界を「もの」の集まりとして見るか、「出来事」のネットワークとして見るかで、科学、倫理、政治、スピリチュアリティのすべてが異なる相貌を帯びる。
プロセス哲学の主張を全面的に受け入れるかどうかは別として、少なくとも次のことは言える——近代科学が前提としてきた「実体」概念は、量子力学、相対性理論、複雑系科学、生態学の知見によってすでに深刻に動揺している。「もの」から「関係」へ、「存在」から「生成」への移行は、個別科学の内部でもすでに進行中である。プロセス哲学は、この移行に哲学的な枠組みと語彙を提供する試みとして、少なくとも真剣な検討に値する。
そして何より、この対話がもっとも説得的であるのは、抽象的な形而上学の議論から個人的な実存の問いへと自然に移行する瞬間——セガルが7歳の自分の経験を語り、死の直視が生に意味を与えると述べる瞬間——においてである。哲学が単なる知的営為ではなく、生き方そのものへの問いであるという古い真実が、ここで新たに確認される。宇宙が「感じる」ものでできているかどうかは分からない。しかし、宇宙を感じ、問い、驚嘆する存在としての人間が、宇宙について何かを語るための不可欠な条件であることは確かである。
