書籍要約『儀礼の消失: 現在のトポロジー』 ビョンチョル・ハン 2020年

哲学新自由主義欺瞞・真実非合理性、生態学的合理性、愚行主義、異端

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『The Disappearance of Rituals:A Topology of the Present』 Byung-Chul Han (2020)

『儀礼の消失:現在のトポロジー』 ビョンチョル・ハン (2020年)

目次

  • 第1章 生産の強迫 / The Compulsion of Production
  • 第2章 真正性の強迫 / The Compulsion of Authenticity
  • 第3章 閉鎖の儀礼 / Rituals of Closure
  • 第4章 祝祭と宗教 / Festivals and Religion
  • 第5章 生と死のゲーム / A Game of Life and Death
  • 第6章 歴史の終焉 / The End of History
  • 第7章 記号の帝国 / The Empire of Signs
  • 第8章 決闘からドローン戦争へ / From Duelling to Drone Wars
  • 第9章 神話からデータイズムへ / From Myth to Dataism
  • 第10章 誘惑からポルノへ / From Seduction to Porn

本書の概要

短い解説:

本書は、デジタル化と新自由主義に彩られた現代社会において、儀礼(リチュアル)が消失しつつある現象を、社会病理の核心として分析する。儀礼の消失がコミュニティの崩壊、個人のナルシシズムの蔓延、時間と意味の空洞化をもたらしていると指摘し、儀礼の機能を背景に現代社会の特質を浮き彫りにすることを目的としている。

著者について:

著者ビョンチョル・ハンは、韓国生まれでドイツで活躍する哲学者・文化理論家である。デジタル社会、新自由主義、倦怠社会などを主要テーマとし、鋭い社会批判で知られる。本書では、現代社会が「生産の強迫」に駆り立てられ、儀礼や祝祭といった持続と共同性を生み出す構造を破壊していると論じる。その視点は、ハイデガー、フーコー、ボードリヤールなどからの影響を受けつつも、独自の診断を加えている。

テーマ解説

  • 主要テーマ:儀礼の消失と共同性の危機。儀礼は共同性の象徴的実践であり、その消失は社会のアトム化とナルシシズムを招く。
  • 新規性:儀礼を「世界に住まう技術」として捉え、その喪失が「生産の強迫」と「真正性の強迫」によって加速されることを明らかにする。
  • 興味深い知見:儀礼と「遊び」の概念を結びつけ、新自由主義社会が「強い遊び」を排除し、「生産」に全てを従属させていると指摘する。

キーワード解説

  • 儀礼(リチュアル):象徴的・反復的な行為。共同性の価値と秩序を体現し、伝達し、時間を構造化して「住みやすく」する。
  • 生産の強迫:新自由主義社会の原理。持続や完成を許さず、絶え間ない生産・消費・コミュニケーションを強いる。
  • 真正性の強迫:自己の内面や感情の「本物らしさ」を追求する強迫観念。ナルシシズムを強化し、形式や礼儀を「偽り」として退ける。
  • 記号の帝国:ロラン・バルトが日本に見出した、意味(シニフィエ)よりも記号(シニフィアン)の戯れや形式を重んじる社会。儀礼的社会の一形態。
  • 強い遊び:生や死を賭けた、功利性や目的を超えた主権的な遊戯。生産社会とは相容れない。

3分要約

本書は、現代社会の核心的な病理を、儀礼の消失という視点から描き出す。著者は、儀礼を共同性の基盤であり、時間に構造と持続をもたらし、人々を「世界に住まわせる」象徴的実践として定義する。しかし、新自由主義的な「生産の強迫」は、あらゆるものを速やかに消費・交換可能なものへと変え、持続を破壊する。これにより、儀礼が安定させていた生活は流動化し、コミュニティは崩壊する。

同時に進行するのが「真正性の強迫」である。内面の「本物らしさ」への執着は、形式や礼儀、社会的な役割演技を否定し、人々を心理的な内省へと追いやる。結果として生まれるのは、自己に没入し、他者との深い共鳴(レゾナンス)を失ったナルシスティックな個人である。デジタル・コミュニケーションは、こうした「コミュニケーションなき共同体」の典型であり、断片的な情報と感情の連鎖にすぎない。

儀礼の消失は、祝祭や宗教的な「休息」の消滅と連動する。祝祭は聖なる時間であり、共同での集いと沈黙をもたらす生の高揚である。しかし、生産社会は時間を均質な労働時間に還元し、休息をも生産のための回復期間としてしまう。これにより、生は「生きる」ことから「生き延びる」ことへと矮小化される。著者は、かつての戦争が決闘のような儀礼的遊戯であったのに対し、現代のドローン戦争は非対称で遊戯性を失った「犯罪者の狩り」であると指摘する。これは、生産の論理が死の生産にまで及んでいることを示す。

知識の領域でも同様の変容が見られる。神話や哲学に内在した「遊び」の要素は、啓蒙主義における「真理」への探求、「仕事」としての思考へと置き換えられ、現代では「データイズム」へと至る。データ駆動型の知識生産は、人間の思考や物語性を排除し、計算可能な透明性を追求する。これは思考のポルノグラフィ化である。

最終的に著者は、儀礼の消失がもたらす世界を、意味や深みを失い、即物的でポルノグラフィックな社会と診断する。誘惑は即時的な欲望充足に取って代わり、あらゆるものは剥き出しにされ、消費される。本書は、儀礼のノスタルジーに陥ることなく、その消失の系譜を描くことで、現代社会の空虚さと、それに代わりうる「別の生の形式」の可能性について考察を促す。

各章の要約

第1章 生産の強迫

儀礼は象徴的・反復的な行為であり、共同体の価値と秩序を体現し、時間に構造と持続(「住まい」)を与える。それに対して現代社会は、「生産の強迫」に支配されている。この強迫は、持続や完成を嫌い、絶え間ない更新、消費、コミュニケーションを駆り立てる。スマートフォンに代表されるような事物は、持続性をもたず、注意を散漫にする非=事物である。

儀礼は共同性を生み出す(コミュニケーションなき共同体)が、デジタル・コミュニケーションはコミュニティを形成しない(共同体なきコミュニケーション)点で対照的である。後者は加算的で加速可能だが、前者は物語的で加速を許さない。また、儀礼は身体性と集団的感情を伴うが、デジタル社会は身体性を剥奪し、感情は個人化された心理状態や瞬間的なアフェクトへと分解される。「共感」の要請は、むしろ社会のアトム化が進んだ証左である。

「生産の強迫」は「自己生産の強迫」へと変容し、すべての人が自己の演出家となる。これはナルシシズムを強化し、他者との深い共鳴を阻害する。儀礼は自己を荷くだくし(脱心理化)、世界との関係を築くが、現代の個人は自己に没入し、うつ病や燃え尽き症候群に陥りやすい。著者はこう述べる。「儀礼は、いわば感情に対するニスであり、皮膚を、喪失の残酷な火傷から守り、隔離するのである。」

第2章 真正性の強迫

現代は「真正性の崇拝」の時代である。内面の「本物らしさ」への執着は、儀礼的な形式や社会的な演技を「偽り」として軽蔑する。18世紀の社会が劇場のように形式や記号を重視したのに対し、現代のファッションは肉体を露出させ、私的なものを曝け出すポルノグラフィックな傾向を持つ。

この真正性の強迫は公共性を蝕む。公共空間は役割を演じる劇場であったが、現代では私的なものを曝け出す市場へと変質した。礼儀や上品さといった「あたかもの演技」は、それ自体が内面に影響を与え、美しい魂を形成する文明の技であった。しかし、真正性の名の下に形式が否定されると、社会は感情の粗暴な表出(アフェクト)に支配され、野蛮化する。

芸術も同様に、魔法や謎めいた外見(シニフィアン)を失い、透明で議論可能な意味内容(シニフィエ)へと重心を移している。これは芸術の脱儀礼化、プロテスタント化である。ナルシスティックな内面化は世界との関係を貧困にし、文化からエロスと魅惑を奪い、社会をアトム化させる。

第3章 閉鎖の儀礼

現代は過剰な開放と境界の溶解の時代であり、「閉鎖」の能力を失っている。閉鎖のなさは、生を単なる加算的な過程に貶める。新自由主義は最適化と柔軟性の名の下に、すべての結びつきと完了の形式を破壊する。

ペーテル・ナーダシュが描く村の野生梨の木は、儀礼的に閉鎖された場所の象徴である。そこでは人々は集い、沈黙し、一つの大きな物語を共有する。コミュニケーションなき共同体が存在する。これに対し、グローバル化とデジタル化は世界を脱場所化し、意味のない非場所の連続へと変える。場所は閉鎖であり、集いをもたらすが、非場所は通過点でしかない。

通過儀礼のような閉鎖の形式は、人生に自律的な時間とリズムを与える。しかし、生産と消費の連続性はこのような閾や移行を消し去り、人生を均質で加速された流れへと変える。文化そのものが閉鎖でありアイデンティティを形成するが、脱場所化されたハイパー文化は異物を排除せず、ただ同種のものを際限なく積み上げるだけの「同じものの地獄」を生み出す。

第4章 祝祭と宗教

安息日に象徴されるように、宗教における休息は聖なるものであり、仕事という俗なる活動とは本質的に異なる。休息は創造を完成させるものであって、単なる労働からの回復ではない。祝祭は集いと沈黙をもたらし、生の高揚を感じさせる聖なる時間である。

しかし、新自由主義的な「生産の強迫」は時間を完全に労働時間に還元し、休息をも生産のための手段としてしまう。これにより、祝祭の時間は消滅し、生は「生きる」ことから「生き延びる」ことへと堕落する。現代の大学も、かつての儀礼の場から、人材生産の工場へと変質した。

イベントは祝祭ではない。イベントは偶然的で非拘束的な時間性を持つが、祝祭は共同体を創出する拘束的な出来事である。資本主義は、貨幣が個別化をもたらし、資本が休息を知らない点で、宗教の対極にある。資本主義は聖と俗の区別を消し、すべてを比較可能な商品へと変える。生産の強迫に抗する政治的課題は、生を遊戯的に用いる方法、すなわち自分自身に関わること(内省的な休息)を取り戻すことである。

第5章 生と死のゲーム

遊びの栄光は、必然性や功利性から自由な「主権」と結びついている。ジョージ・フレイザーが記録したインドの戦士の儀礼は、「強い遊び」の典型である。彼らは報酬のためではなく、栄光と勇気を証明するために、文字通り死を賭けて戦う。これは、生産と効率を原理とする社会から見れば狂気である。

生産社会は「生」を神聖視し、死を絶対的な損失として恐れる。資本は死に対する保証として蓄積される。これに対し、古代社会では生と死は弁証法的に結びついており、犠牲や通過儀礼は死との象徴的交換だった。死は生の強度の表現であり得た。映画監督ヴェルナー・シュレーターは、死を選ぶ自由、つまり主権的な自殺を「強い遊び」のユートピアとして描いた。

生を常に生産へと従属させる社会では、遊びは弱められ、レジャー活動へと格下げされる。生は輝きと強度を失い、単なる生存へと縮減する。著者はユウェナリスの言葉を引用する。「生きるために生きる理由を失うこと。」

第6章 歴史の終焉

ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、遊戯と労働の対立として読める。死を恐れず戦う主人は「強い遊び」の主体であり、死を恐れて労働を選ぶ奴隷は労働の主体である。ヘーゲルは労働に歴史形成の原動力を見出し、奴隷を弁証法的に肯定する。マルクスも労働を本質と見なしたが、その娘婿ラファルグは『怠ける権利』を著し、労働以前の遊戯と閑暇を称えた。

アレクサンドル・コジェーヴは、歴史の終焉を当初は「アメリカ的生活様式」の動物的な生に見出したが、後に日本に別の終焉の姿を見る。そこでは歴史的な生の内容が失われ、完全に形式化・儀礼化された価値に従って生きる「無情な美学化」が行われていた。これはニーチェ的な「真理への意志」ではなく「仮象への意志」に駆られた社会、儀礼的社会の先駆けである。

第7章 記号の帝国

ロラン・バルトが日本に夢見たのは、意味内容よりも記号形式そのものの戯れを重んじる「記号の帝国」である。俳句は厳格な形式に従い、ほとんど意味を伝達しない言語の儀礼である。日本の贈答品の包みや着物は、内容(シニフィエ)よりも華やかな包装(シニフィアン)を重視する。

茶道はミニマルな身体の動きの連鎖であり、参与者を完全に脱心理化する。そこにはコミュニケーションはなく、儀礼的沈黙と身振りによる共同体がある。日本の「目」は西洋のように深い魂の宿る窪みではなく、平坦で空っぽである。

この社会は道徳的な内面(良心)ではなく、規則への情熱によって動かされる。礼儀は純粋な形式であり、心や欲望を伴わない。それは道徳ではなく芸術に近い。現代社会は道徳化が進む一方で礼儀が失われ、野蛮化している。道徳なき形式の倫理、美しい形式の倫理を擁護する必要がある。

第8章 決闘からドローン戦争へ

古代の戦争は遊戯的性格を持ち、対称性と厳格な規則に従った儀礼的戦闘であった。決闘も同様に、名誉を賭けた規則に基づく遊戯であり、相手を対等な敵と認めることが前提だった。

しかし、現代戦争は生産の論理に支配される。戦闘機やドローンの使用は非対称性を極限まで高め、相手を対等な敵から「犯罪者」へと貶める。ドローン戦争は、顔を合わせることもない、データに基づく機械的な殺戮であり、もはや戦争というより「犯罪者の狩り」である。パイロットは交代制で勤務し、殺害数を記録する「スコアカード」を受け取る。ここでは死が生産され、戦争の遊戯性は完全に消滅している。これは、あらゆるものが仕事と生産に還元される社会の象徴的な姿である。

第9章 神話からデータイズムへ

古代における知識の伝達も遊戯の形式をとっていた。哲学の起源には、儀礼的な謎解き競争や、論争の遊戯的要素があった。プラトンの対話篇にもその名残が見られる。しかし、プラトンは「真理」の名の下にソフィストの遊戯を退け、思考は次第に「仕事」へと近づいていく。

カントの美学においても、遊びは認識という「仕事」に従属させられる。音楽は「単に感覚で遊ぶ」として軽視される。啓蒙主義は認識の自律的主体としての人間を中心に据えた。

しかし現代では、データイズムへの転回が静かに進行している。人間はもはや知識の主権的生産者ではなく、データに従う変数となる。ビッグデータによる知識生産は人間の理解を超え、思考の物語性はアルゴリズムの加算的計算に取って代わられる。透明性の強迫は、すべてを可視化・データ化する支配の形態である。思考は計算へと変質し、そのエロティックな性格を失う。思考の本質は遊びにあるが、生産の強迫の下でそれは忘却されている。

第10章 誘惑からポルノへ

キルケゴールの『誘惑者の日記』における誘惑は、性差に依存しない儀礼的決闘である。それは権力の遊戯的行使であり、相互性と風景的距離を前提とする。親密さは誘惑の終わりを意味する。

これに対してポルノは誘惑の終焉である。他者は消え去り、楽しみは剥き出しの対象の即時的消費から得られるナルシスティックなものとなる。透明性の時代は曖昧さや秘密を嫌い、すべてを明確化する。政治的正しさもまた、言語の曖昧さを排除することで誘惑を不可能にする。

生産の強迫はセクシュアリティにも及ぶ。ポルノにおいて性器は「生産」され、完全に可視化される。セックスは機械的な性能発揮の場となる。現代社会はポルノグラフィックな原理に浸透されており、言語も身体も音も、その微妙さや風景性を失い、直接的に作用するポルノグラフィックなものへと変わる。過剰な可視化と生産は、性そのものを終わらせる。病理の原因は、禁止や欠如という「少なさ」ではなく、過剰生産という「多さ」にある。


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