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『What Is It Like to Be a Bat?』Thomas Nagel 1974 / 2024
『コウモリであるとはどのようなことか』トーマス・ネーゲル 1974 / 2024
目次
- 前書き / Preface
- 第1章 コウモリであるとはどのようなことか? / What Is It Like to Be a Bat?
- 第2章 さらなる考察:心身の接点 / Further Thoughts: The Psychophysical Nexus
- 注 / Notes
本書の概要
短い解説:
本書は、意識の主観的性質が心身問題の解決にとって根本的な困難を提起していることを論じた哲学論文である。特に、コウモリの例を用いて、還元主義的な唯物論では説明できない意識の本質的特性を明らかにすることを目的としている。
著者について:
著者トーマス・ネーゲルは現代を代表する哲学者の一人であり、心の哲学、政治哲学、倫理学など広範な領域で重要な貢献をしてきた。本書では、意識の主観的側面を重視する立場から、唯物論的還元主義に対する強力な批判を展開している。
主要キーワードと解説
- 主要テーマ:意識の主観的性質 – 意識の本質は「~であるとはどのようなことか」という主観的視点にある。
- 新規性:客観的現象学 – 主観的経験を客観的に記述する新しい方法論の可能性。
- 興味深い知見:心身一元論 – 心的性質と物理的性質が一つの実体の異なる側面であるという可能性。
3分要約
本書は、意識の主観的性質が心身問題の核心にある難問であることを論じる。ネーゲルは、意識を持つ存在であることの本質は、その存在にとって「何かであるような感じ」が存在すること、すなわち経験の主観的性質にあると主張する。
この主観的性質は、物理的過程の客観的記述では捉えきれない。なぜなら、すべての主観的現象は本質的に単一の視点と結びついており、客観的物理理論は必然的にその視点を捨て去ってしまうからである。
ネーゲルはこの問題を鮮明にするために、コウモリの例を検討する。コウモリは反響定位(エコーロケーション)を用いて世界を知覚するが、その経験が主観的にどのようなものであるかは、私たち人間には原理的に理解できない。私たちはコウモリの行動や神経生理学を客観的に研究できるが、コウモリであることがどのようなことかを理解することはできない。これは単に知識の不足ではなく、概念的限界によるものである。
この考察から、人間の概念体系ではアクセスできない事実が存在するという結論が導かれる。意識の主観的性質は、特定の視点からしかアクセスできない種類の事実なのである。
ネーゲルは唯物論が誤りであると結論するわけではない。むしろ、意識の主観的性質を適切に扱えない現在の唯物論的アプローチでは、問題を正しく提起することさえできないと論じる。必要なのは、共感や想像力に依存しない客観的現象学の開発である。これは、その経験を持つことができない存在にも理解可能な形で、経験の主観的性質を記述する新しい方法論である。
第2章「さらなる考察」では、ネーゲルはこの問題へのより建設的なアプローチを探求する。私たちの自然的言語の概念的枠組みは二元論的であるが、真実は何らかの一元論的形式にあるかもしれないと示唆する。彼は「中立一元論」または「二面理論」の可能性を探る。これは、意識的心的性質とその神経生理学的条件が、私たちが現在概念を持たないある一つのものの不可分な側面であるという見方である。
この見方によれば、例えば「喉の渇き」の感覚と特定の脳状態は、単に相関しているのではなく、一つのより基本的な状態の内的側面と外的側面なのである。このような状態は、その本質的性質として、特定の物理的 気質と主観的経験の両方を持つ。
ネーゲルは、このような一元論的理論が、意識と行動の間の観察可能な関係を、その根源において非偶然的で非媒介的な関係として説明できる可能性を示唆する。しかし、そのような理論が可能であるためには、意識が行動の説明に本質的であることが示されなければならないと認める。
各章の要約
前書き
このエッセーが発表されてから50年が経過し、意識は哲学、心理学、神経科学における中心的な話題となった。コウモリの例は、意識の還元不能な主観性を特に鮮明に示すものとして広く参照されるようになった。ネーゲルは、意識の現実が物理的科学の不完全性を示唆していると信じているが、このエッセーが示しているのは、意識が物理的客観性の概念に適合しないという理由で科学的理解の範囲を超えているわけではないことである。むしろ、科学的理解の概念そのものを拡張する必要があるのである。
第1章 コウモリであるとはどのようなことか?
意識は心身問題を本当に手に負えないものにしている。意識の最も重要で特徴的な側面は、生物にとって「何かであるような感じ」が存在するという、経験の主観的性質である。この主観的性質は、機能的状態や志向的状態の分析では捉えられず、物理主義的理論が説明しなければならない核心である。
コウモリの例は、この問題を特に鮮明にする。コウモリは反響定位によって世界を知覚するが、その経験が主観的にどのようなものであるかは、私たちの想像力の資源では原理的に理解できない。私たちはコウモリのように行動することがどのようなことかを想像できるが、コウモリであることがどのようなことかを知ることはできない。
このことから、すべての主観的現象は本質的に単一の視点と結びついており、客観的物理理論はその視点を捨て去らざるを得ないという結論が導かれる。外部世界の現象とは異なり、経験そのものについては、「見かけから実在へ」と移行するという考えは意味をなさない。経験の「真の性質」に近づくために視点から遠ざかることは、むしろその現象そのものから遠ざかることなのである。
ネーゲルは唯物論が偽であると主張するわけではない。むしろ、私たちは現在、それがどのように真でありうるかを理解するための概念をまったく持っていないのである。心的現象と物理的現象の同一性を理解するためには、単に「である」という言葉を理解するだけでは不十分であり、両者がどのように同一のものを指しうるのかという考えが必要である。
最後にネーゲルは、共感や想像力に依存しない「客観的現象学」の開発という建設的な提案を行う。これは、その経験を持つことができない存在にも理解可能な形で、経験の主観的性質を客観的に記述する方法論である。
第2章 さらなる考察:心身の接点
私たちの自然的言語の概念的枠組みは二元論的であるが、ネーゲルは何らかの一元論的形式が真実である可能性を示唆する。彼は「中立一元論」または「二面理論」の可能性を探る。これは、意識的心的性質とその神経生理学的条件が、私たちが現在概念を持たないある一つのものの不可分な側面であるという見方である。
この見方によれば、例えば「喉の渇き」の感覚と特定の脳状態は、単に相関しているのではなく、一つのより基本的な状態の内的側面と外的側面なのである。このような状態は、その本質的性質として、特定の物理的気質 と主観的経験の両方を持つ。痛みは、それを回避する行動の非媒介的な原因としての物理的気質の内的側面として理解される。
この見方は、機能的役割を重視する点で機能主義と構造的類似性を持つが、概念的還元を主張する機能主義とは異なり、意識の主観的性質の還元不能性を認める。機能的役割は、心的状態の公的概念の条件として説明されるべきものであり、その本質的性質の分析としてではない。
ネーゲルは、このような一元論的理論が、意識と行動の間の観察可能な関係を、その根源において非偶然的で非媒介的な関係として説明できる可能性を示唆する。脳内には、その外面的性質が物理的気質 であり、内面性質が主観的経験であるような、より基本的な過程のシステムが存在するかもしれない。
しかし、そのような理論が可能であるためには、意識が行動の説明に本質的であることが示されなければならない。ネーゲルは、このような一元論的アプローチの最も有望な出発点は、行動との結びつきが最も直接的な感情的側面(アフェクト)であると示唆する。
中立一元論と二面理論:概念と相違点
心身問題への一元論的アプローチ
心身問題に対する伝統的な解答は、二元論(心と身体は別個の実体)か唯物論的還元主義(心は物理的なものに還元される)のいずれかであった。しかし、中立一元論と二面理論は、これらとは異なる第三の道を提示する。両理論とも、心的なものと物理的なものが別々の実体ではなく、より根源的な単一の実体に関係しているという点で一元論的である。しかし、その関係の捉え方において、両者は重要な違いを持つ。
中立一元論の構造
中立一元論は、究極的な実在は「心的」でも「物理的」でもない「中立的」な性質を持つという立場である。この理論の核心は、私たちが日常的に「心的」「物理的」と呼んでいるものが、実はより基礎的な中立的要素から構成される、または派生するという主張にある。
この立場を最も明確に示したのは、バートランド・ラッセルである。ラッセルの中立一元論では、「感覚与件(sense-data)」が中立的な基礎要素として機能する。同じ感覚与件が、ある関係性において配置されると物理的対象として現れ、別の関係性において配置されると心的経験として現れる。つまり、心と物理の違いは、中立的要素の異なる組織化パターンの違いなのである。
この説明は構成主義的である。より根源的なレベルに中立的要素が存在し、それらが特定の仕方で集まったり配列されたりすることで、心的現象や物理的現象が構成される。痛みという心的現象も、神経活動という物理的現象も、究極的には同じ中立的要素の異なる組織化として理解される。したがって、中立一元論は三層構造を持つ。最も基礎的なレベルに中立的要素があり、その組織化のプロセスがあり、その結果として心的現象と物理的現象が現れる。
この理論の魅力は、心的なものと物理的なものがなぜ相関するのかという問いに明快な答えを与える点にある。両者が相関するのは、同じ中立的要素から構成されているからである。また、この理論は原理的には還元主義的である。十分に発展した理論では、心的現象も物理的現象も、中立的要素の配置として完全に説明できる可能性がある。
二面理論の特徴
これに対して二面理論は、より根本的な主張をする。二面理論も、究極的な実在が心的でも物理的でもないという点では中立一元論と同じである。しかし、二面理論は、その実体が本質的に両面を持つ単一のものであり、心的側面と物理的側面はこの実体の不可分な二つの現れ方であると主張する。
ネーゲルが展開する二面理論では、特定の脳状態は内側から(当事者の視点から)経験されると主観的感覚として現れ、外側から(第三者の視点から)観察されると神経生理学的過程として現れる。重要なのは、これらが別々に構成されるのではなく、同一の実体の二つの側面であるという点である。痛みの感覚と特定の神経状態は、相関しているのでも、一方が他方から構成されるのでもなく、より根源的な単一の状態の内的側面と外的側面なのである。
この理論における「内的」「外的」という区別は、視点の違いを表している。同じ実体が、その実体である者にとっては主観的経験として現れ、その実体を観察する者にとっては物理的過程として現れる。したがって、二面理論の構造は二層的である。根源的実体があり、それが二つの側面を持つ。中立一元論のような中間的な構成プロセスは存在しない。
ネーゲルは、この理論を物理的気質(disposition)の概念と結びつける。物理的側面は単なる物理的状態ではなく、特定の行動パターンを生み出す傾向、すなわち気質として理解される。そして主観的経験は、その気質の内的側面として捉えられる。痛みは、それを回避する行動の非媒介的な原因としての物理的気質の内側からの姿なのである。
両理論の根本的相違
中立一元論と二面理論の最も重要な違いは、心的なものと物理的なものの関係をどう理解するかにある。中立一元論では、この関係は構成的である。中立的要素が集まって心的現象や物理的現象を作る。両者の違いは主に組織化や配列の違いである。これに対して二面理論では、この関係は同一性である。一つの事柄が二つの異なる仕方で現れる。両者の違いは視点や接近方法の違いである。
この違いは、説明の方向性にも現れる。中立一元論はボトムアップ的な説明を提供する。より基礎的な中立的要素から出発して、心的・物理的現象を構成的に説明する。なぜ心的現象と物理的現象が相関するのかという問いに対して、中立一元論は「両者が同じ中立的要素から構成されているから」と答える。これに対して二面理論は水平的な説明を提供する。心的側面と物理的側面は互いに説明し合う関係にはない。同じ問いに対して、二面理論は「両者が同一の実体の異なる現れだから」と答える。
還元可能性についても、両理論は異なる立場をとる。中立一元論は原理的には還元主義的である。心的現象も物理的現象も、究極的には中立的要素の配置に還元可能である。十分に発展した理論では、主観的経験を中立的要素の組織化として説明できる可能性がある。これに対して二面理論は、主観的側面が物理的側面に還元不可能であることを強調する。両者は根源的実体の等しく基本的な側面であり、どちらも他方に還元できない。新しい概念枠組みが必要だが、それは還元ではなく統合的理解を目指すものである。
具体例による理解
痛みという現象を考えてみよう。中立一元論的説明では、心的でも物理的でもない根源的な出来事が存在する。この出来事が特定の関係性や文脈において組織化されると「痛み」という心的現象として現れ、同じ出来事が別の関係性や文脈において組織化されると物理的過程(たとえば神経活動)として記述される。重要なのは、この根源的出来事自体は、私たちが通常理解している「神経活動」でも「痛みの感覚」でもなく、それらのいずれにも先立つ中立的な何かであるという点である。
二面理論的説明では、特定の根源的状態が存在する。この状態を内側から、つまり当事者として経験すると痛みの感覚であり、同じ状態を外側から、つまり観察者として見ると神経生理学的過程である。両者は同一の状態の二つの現れ方であり、どちらもその状態の本質的側面である。
この違いは微妙に見えるかもしれないが、理論的には重要である。中立一元論では、痛みという主観的経験は中立的要素から構成されるものであり、原理的には分解可能である。二面理論では、痛みという主観的経験は根源的状態の内的側面であり、それ以上分解できない。痛みがなぜそのように感じられるのかという問いに対して、中立一元論は中立的レベルでの説明を目指すが、二面理論はその問い自体が不適切だと考える。その状態が本質的にそのような主観的側面を持つことが、その状態の性質なのである。
ネーゲルが二面理論を選ぶ理由
ネーゲルが中立一元論よりも二面理論を重視するのは、意識の主観的性質の特殊性に関する彼の洞察に基づいている。『コウモリであるとはどのようなことか』で示されたように、意識の主観的性質は本質的に視点に結びついており、客観的・構成的説明に適さない。
「喉の渇き」の感覚を考えてみよう。この感覚は、より基礎的な要素に分解できるようなものではない。それは根源的レベルで既に存在している何かである。この主観的性質の不可分性は、中立一元論の構成主義的アプローチとは相容れない。むしろ、主観的経験は根源的実体の本質的側面として理解されるべきである。
さらに、ネーゲルは痛みの感覚(内的)と回避行動の傾向(外的)が本質的に結びついていることに注目する。これは構成的関係ではなく、同一のものの二つの側面として最もよく理解される。痛みという状態は、その本質として、特定の主観的感覚と特定の行動傾向の両方を持つ。この二つは別々に存在して後から結びつくのではなく、一つの状態の不可分な二面なのである。
理論的意義と課題
中立一元論と二面理論は、いずれも心身問題への革新的なアプローチを提供する。両理論とも二元論を回避しながら、意識の実在性を認める。また、単純な唯物論的還元主義の限界を超えようとする。
しかし、両理論にはそれぞれ課題がある。中立一元論にとっての課題は、中立的要素とは何かを明確にすることである。ラッセルの感覚与件は一つの候補だが、これが本当に心的でも物理的でもない「中立的」なものなのかは議論の余地がある。また、中立的要素から心的現象がどのように構成されるのかという説明は、結局のところ意識の主観的性質を捉えきれない可能性がある。
二面理論にとっての課題は、根源的実体とは何かを明確にすることである。ネーゲル自身が認めているように、私たちは現在、この根源的実体を記述する概念を持っていない。心的でも物理的でもないが、両者を側面として持つような実体とは、いったい何なのか。この問いに答えるには、私たちの概念的枠組みの根本的な拡張が必要である。
それでも、ネーゲルの二面理論は重要な洞察を提供している。意識の主観的性質は、構成的に説明されるべきものではなく、自然の根源的側面として認識されるべきだという主張である。これは、科学的理解の概念そのものを拡張する必要性を示唆している。量子力学が物理学の概念を革命化したように、意識研究は科学の概念枠組みを拡張する可能性を秘めている。二面理論は、その方向への一つの道筋を示しているのである。
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