
英語タイトル:『The Book of Laughter and Forgetting』Milan Kundera 1979
日本語タイトル:『笑いと忘却の書』ミラン・クンデラ 1979
目次
- 第一部 失われた手紙 / Lost Letters
- 第二部 母 / Mother
- 第三部 天使たち / The Angels
- 第四部 失われた手紙 / Lost Letters
- 第五部 リトスト / Litost
- 第六部 天使たち / The Angels
- 第七部 境界 / The Border
本書の概要
短い解説
本書は、1970年代のチェコスロバキアを背景に、政治的抑圧下で個人の記憶とアイデンティティが如何に抹消・改竄されるかを、7つの物語を通して描く哲学的ポリフォニー小説である。
著者について
著者ミラン・クンデラ(1929-2023)はチェコ出身の小説家。プラハの春後に作品を禁じられ、1975年にフランスへ亡命。人間存在への深い洞察と遊戯的な形式 experimentation で知られる。
テーマ解説
- 主要テーマ:忘却と記憶の闘争。権力は国民の記憶を抹消することで支配を強化し、個人は愛する人の記憶にしがみつくことで自己を保持しようとする。
- 新規性:笑いの二面性。悪魔の笑い(事物の無意味性を暴く)と天使の笑い(世界の意味を無条件に歓喜する)という対照的な概念を提示する。
- 興味深い知見:リトスト(litost)。チェコ語特有の感情で、「自分の惨めさへの突然の洞察によって引き起こされる苦悩の状態」と定義される。
キーワード解説
- エデンの園の寓話:全体主義の本質は地獄であると同時に、誰もが調和して生きる「楽園」の夢でもある。しかし楽園の実現は必然的に小規模な収容所を併設する。
- 空気水準器(リベラル層):クリヴィス家は時代精神の「気泡」の役割を果たす。どんな思想でも、それが「最も進歩的な思想」であるかを正確に示す指標となる。
- グラフォマニア(書くことへの強迫観念):社会が豊かになり個人が孤立した現代において蔓延する、本を書くことへの強迫観念。誰もが自分を「言葉の宇宙」に変えようとする。
- ダフニスとクロエ:古代ギリシアの物語。性交の方法を知らずに抱き合うだけの若者たち。クンデラはこれを「絶頂を伴わない興奮」の象徴として用いる。
- 境界線:人間の生活は常に、事物が意味を失う「境界線」のすぐそばで営まれている。この線を越えると、愛も信念も歴史も全てが不条理な空虚と化す。
3分要約
本書は7つのパートから構成されるが、それらは独立した短編集ではなく、同一のテーマ(笑いと忘却)を多角的に照らし出す「変奏曲」として機能する。第一部では、ミレクという人物が過去を抹消しようとする試みが描かれる。彼はかつての醜い恋人ズデナから昔の恋文を奪還しようとするが、その行為自体が過去を改竄しようとする権力(党のプロパガンダがクレメンティスを写真から消去した行為)と構造的に同一であることが暴かれる。
第二部では、舞台は個人の性愛に移る。カレルとマルケタの夫婦は、友人エヴァを交えた3Pの夜を計画する。しかし、その夜に限ってカレルの老いた母親が滞在しており、彼女の存在が予期せぬ形で夫婦の関係性に光を当てる。老母の「小さな洋ナシ」に焦点を当てた世界観(大きな歴史的事件よりも日常が重要)が、若い世代の性愛の遊戯と対比される。
第三部と第六部では、「天使たち」の笑いが主題となる。天使の笑いは世界の意味を無条件に肯定する歓喜の笑いであり、その究極の形は集団的な輪舞(ダンス)である。クンデラは、共産党の権力掌握を歓喜して踊った学生時代の自身の体験、そして1950年に友人の詩人が処刑される中、プラハ上空を舞い踊るポール・エリュアールの幻視を重ねる。天使の笑いは、全体主義的楽園における「無垢」の凶暴性を象徴する。
第四部は物語の核心であるタミナの章。チェコから亡命した未亡人タミナは、夫との思い出が詰まったノートを取り戻そうと奔走する。しかし彼女の周囲には、自分のこと(自分のオーガズム、自分の子供時代)を一方的に語りたがる人々(グラフォマニア)しかおらず、誰も彼女の話を聞かない。彼女の過去は、無関心という名の忘却によって侵食されていく。
第五部「リトスト」は、チェコ語特有の感情を主題とする。学生と肉屋の妻クリスティナの一夜の物語。学生は偉大な詩人ゲーテから彼女への献辞を得ることで高揚するが、ベッドで彼女が妊娠を恐れて性交を拒む。学生は自身の未熟さに打ちのめされる。この章では、有名詩人たちの猥雑な対話を通じて、詩と性、愛と嘲笑の関係が探求される。
第六部でタミナは、謎の青年ラファエルに導かれ、「子供たちの島」に連れて行かれる。そこは事物に重さのない、天使の世界である。彼女は当初、大人の性を武器に子供たちと共生しようとするが、次第に「大人であること」自体が異質なものとして排斥され、ついには水中へと追いやられ、子供たちの無垢な視線に見守られながら溺死する。これは、記憶を抹消する全体主義社会における個人の消滅の寓話である。
最終第七部「境界」では、新たな登場人物ヤンが、性と笑いの「境界線」を彷徨う。ヌーディストビーチ、集団セックスパーティ、友人の葬儀といった場面で、ヤンは絶えず笑いの発作に襲われる。そこでは、性も死もその荘厳さを失い、反復による意味の枯渇が露わになる。本書は、人間の生が常に「意味の充満(天使の笑い)」と「意味の崩壊(悪魔の笑い)」という二つの深淵の間で揺れ動いていることを示し、読者に「問い」だけを残して終わる。
各章の要約
第一部 失われた手紙
第1章 失われた手紙
1948年、クレメント・ゴットワルトがプラハのバルコニーで演説する際、同僚のクレメンティスが自らの毛皮の帽子を彼の頭にかぶせた。4年後、クレメンティスは反逆罪で絞首刑となり、プロパガンダ部門は彼の姿をすべての写真から消去した。帽子だけがゴットワルトの頭に残る。1971年、ミレクは「人間による権力との闘いは、記憶と忘却との闘いである」と言う。彼は過去の恋人ズデナから自分の手紙を取り戻そうとしている。彼女は醜く、現在は体制側の官僚だ。ミレクは自分の青年期の弱さ(美しい女性に手が出せず、醜いズデナと付き合ったこと)の痕跡を消したいのだ。だがズデナは手紙を返すことを拒否する。結局、彼が不在の間に警察が彼のアパートを家宅捜索し、彼と彼の息子、友人たちは投獄される。彼はこう語る。「私は自分の運命を愛している。」
第二部 母
第2章 母
カレルとマルケタは、カレルの年老いた母親を週末に招く。彼らはエヴァという女性との3Pの夜を計画しているが、母親が予定より長居することになる。母親は自分たちの「大きな歴史」よりも、近所の洋ナシや飼い犬など「小さな日常」を気にする存在だ。エヴァが到着し、マルケタは彼女を自分の従妹と偽って紹介する。母親はエヴァの中に、若き日の美しい友人ノラを見出す。夜、カレルと二人の女性がついにベッドに入ろうとした瞬間、母親が部屋に現れる。カレルの妻マルケタは全裸に赤いビロードの帯だけという姿で現れ、凍りつく。しかしカレルは母親の詩の朗読を熱心に聞き始め、若い女性たちの欲求不満は高まる。母親が去った後、カレルは子供時代にノラの裸体を見た記憶と現在のエヴァを重ね合わせ、燃え上がるように彼女と性交する。
第三部 天使たち
第3章 天使たち
クンデラは、かつて共産党の権力掌握を祝って学生たちと輪になって踊った自身の記憶を語る。その踊りは「無垢」の象徴であり、政治的な行進とは対照的なものだった。しかし1950年、シュルレアリストのザヴィシュ・カランドラが処刑された日、プラハでは若者たちが同じように輪になって踊っていた。そしてフランスの詩人ポール・エリュアールは、友人のカランドラを救うための抗議を拒否し、プラハ上空で天使のように舞い降りて詩を朗読する。「悪魔の笑い」は事物の無意味性を指摘する笑いであり、「天使の笑い」は世界の意味を無条件に肯定する笑いである。クンデラは後に、若い編集者Rを通じて、ある党高官のためにホロスコープを書く。高官はマルクス主義者でありながら占星術を信じていた。この矛盾が悪魔的な笑いを誘発する。一方、天使の笑いは、世界が完全に合理的で美しいと信じる者の笑いであり、それは全体主義的な「楽園」の本質である。
第四部 失われた手紙
第4章 失われた手紙
タミナは西ヨーロッパの小さな町でウェイトレスとして働くチェコ人亡命者である。彼女は誰の話も遮らずに聞く「良い聞き手」であるため、常連客に人気だ。彼女の唯一の望みは、プラハに置いてきた夫との思い出の詰まったノートを取り戻すことである。夫は亡くなり、彼女は彼の顔さえも記憶から薄れつつあることに恐怖している。しかし、誰も彼女の過去に本当の関心を払わない。友人ビビは小説を書きたいと言い出し、作家バナカとの出会いを求める。バナカは、現代人は他者を理解できないのだから、書けるのは自分自身についてだけだと説く。クンデラは「グラフォマニア(書くことへの強迫観念)」を、孤独な個人が自分を「言葉の宇宙」に変えようとする現代の流行病として分析する。タミナの唯一の希望は、プラハに行くはずだったビビの計画が潰えた後、若い男ユーゴに頼ることだけだった。彼と関係を持った後、彼女は彼の体臭に耐えられず嘔吐する。
第五部 リトスト
第5章 リトスト
リトストとは、チェコ語で「自分の惨めさを突然悟ったときに生じる苦悩」を意味する。学生は故郷の町で、肉屋の妻クリスティナと夏の恋を楽しんでいる。彼女は彼に魅了されるが、性交は拒む。プラハに戻った後、彼女が訪ねてくることになるが、その夜は偶然にも詩人たちの集まりの招待と重なる。学生は彼女をアパートに残し、詩人たちの集まるクラブへ行く。そこでは、偉大な詩人ゲーテ(とあだ名される老詩人)やレールモントフらが猥雑で自己中心的な会話を交わしている。学生はクリスティナのためにゲーテから献辞をもらい、高揚して帰宅する。ベッドでクリスティナは、妊娠の恐怖からやはり性交を拒むが、彼のペニスを一晩中握りしめている。翌朝、学生は彼女が本当は「安全な方法」さえあれば性交してもよかったことを知り、リトストに苛まれる。彼はクラブに駆け戻り、詩人たちにクリスティナのラブレターを読まれて喝采を浴びるが、もはやそれも慰めにはならない。
第六部 天使たち
第6章 天使たち
クンデラは、プラハの街の名前が支配者によって何度も変えられてきた歴史を語る。フランツ・カフカは「記憶のない都市」を描いた予言者であり、グスターフ・フサーク(当時のチェコスロバキア大統領)は「忘却の大統領」である。フサークは145人の歴史家を追放し、民族の記憶そのものを抹消しようとしている。一方、タミナの物語に戻る。彼女はカフェに現れた若者ラファエルに誘われ、車で「子供たちの島」へ連れて行かれる。そこは事物に重さのない世界であり、子供たちだけが住んでいる。タミナは子供たちに溶け込もうとするが、彼女の大人の身体は好奇と嘲笑の対象となる。子供たちは彼女に群がり、彼女の身体を弄ぶ。彼女は一時的に「魂のない快楽」を味わうが、次第に子供たちの暴力はエスカレートし、彼女は排斥される。彼女は島から泳いで逃げ出そうとするが、子供たちのボートに取り囲まれ、彼らの無垢な視線に見守られながら溺れ死ぬ。これは、記憶を奪われ、永遠の子供のように扱われる民族の寓話である。
第七部 境界
第7章 境界
ヤンは愛人エディットとのセックスに空虚さを感じている。彼女の顔は何も映し出さない「空白のスクリーン」だからだ。ヤンは様々な場面で「境界線」を意識する。ヌーディストビーチでは、裸の老いた身体を見てガス室に向かうユダヤ人を連想し、不快感を覚える。友人のパッセールの葬儀では、風で飛ばされた帽子が棺桶に落ち、参列者全員が笑いをこらえるのに必死になる。バルバラの集団セックスパーティでは、ヤンと別の男が笑いの発作を起こし、追い出される。ヤンはエディットと「ダフニス島」で最後の時を過ごす。彼は、性交の方法を知らずにただ抱き合うだけの古代の恋人たちに憧れる。「興奮を伴わない絶頂」ではなく、「絶頂を伴わない興奮」を求めるのだ。物語は、ヌーディストビーチで肥満体の男が西洋文明の終焉について熱心に講演する中、彼の性器が砂浜を虚ろに見つめている光景で終わる。
で、私たちは何を忘れさせられているのか
by Claude Opus 4.6
写真から人が消える、という日常
クレメンティスが写真から消され、帽子だけが残った。この冒頭のエピソードを読んで、まず思うのは「これは過去の全体主義の話だ」という安心感だろう。1948年のチェコスロバキア、共産主義体制下の検閲。遠い国の、遠い時代の話。
だが、ここで少し立ち止まってみる。
写真から人が消える。SNSからアカウントが消える。検索結果から記事が消える。YouTubeから動画が消える。これらは本質的に同じ操作ではないのか。クンデラが描いた「プロパガンダ部門による写真の改竄」と、現代の「コンテンツモデレーション」や「ファクトチェック」の間に、構造的な差異はどれほどあるのだろう。
むしろ現代のほうが巧妙かもしれない。共産主義体制では、少なくとも「誰かが消された」という事実を人々は薄々知っていた。帽子が残っていたから。しかし今日の「アルゴリズム検閲」では、消されたこと自体が見えない。帽子すら残らない。表示順位が下げられ、リーチが制限され、「関連性が低い」と判定される。消された側も、消した側も、何が起きたのか正確には把握できない。これは、クンデラが描いた全体主義の「忘却」装置よりも、はるかに洗練された忘却のメカニズムではないか。
「記憶と忘却の闘い」は終わっていない
ミレクは言う。「人間による権力との闘いは、記憶と忘却との闘いである」。この一文は、本書の中核をなすテーゼであると同時に、おそらくクンデラの全作品を貫く信念でもある。
ここで興味深いのは、ミレク自身もまた「忘却」の側に立っているという点である。彼は過去の恋人ズデナとの手紙を取り戻そうとする。なぜか。若き日の自分の弱さ、つまり美しい女性に手が出せず醜いズデナと付き合ったという「不都合な過去」を抹消したいからだ。権力がクレメンティスを写真から消すのと、ミレクがズデナとの記録を消そうとするのと、構造は同じである。
クンデラはここで、権力批判を単純な善悪の二項対立にすることを拒否している。記憶の改竄は権力者だけの専売特許ではない。私たちは皆、自分にとって不都合な過去を書き換えたいという衝動を持っている。問題は、国家権力がその衝動を制度化し、強制力を持たせたとき、何が起きるかということだ。
これを現代に当てはめると、さらに不穏な風景が見えてくる。2020年以降、世界中の政府が「公衆衛生」の名のもとに実施した情報管理は、まさにこの制度化された忘却の一形態だった。ラボリーク仮説は「陰謀論」として検閲され、ワクチンの副反応報告は「誤情報」としてプラットフォームから削除された。数年後にそれらの多くが「正当な科学的議論」として復権した。だが、復権したという事実自体が、すでに「消された期間」の存在を証明している。帽子は残っているのに、誰がかぶせたのかを問うことが許されない状況。
天使の笑いという名の暴力
クンデラは笑いを二つに分類する。「悪魔の笑い」と「天使の笑い」。悪魔の笑いは事物の無意味さを暴く。天使の笑いは世界の意味を無条件に肯定する。
直感的には、天使の笑いのほうが「良いもの」に思える。しかしクンデラは、天使の笑いのほうがはるかに危険だと示唆する。なぜなら、天使の笑いは全体主義の本質だからだ。
共産党の権力掌握を祝って輪になって踊る学生たち。プラハ上空で詩を朗読するエリュアール。彼らは「世界が美しく、正しく、意味に満ちている」と心から信じている。その無垢な確信のもとで、友人の詩人カランドラは処刑される。天使の笑いは、異議を唱える者の存在を構造的に不可能にする。全員が輪になって踊っているとき、「踊りたくない」と言う者は、楽園を破壊する悪魔として排除される。
この構造は、現代の「ポジティブな同調圧力」にそのまま当てはまる。SNS上の集団的な「正義の熱狂」、キャンセルカルチャー、「科学を信じよう」というスローガン。これらはすべて天使の笑いの変奏である。世界が正しい方向に進んでいるという無条件の確信、そしてその確信に疑問を呈する者への無垢な敵意。パンデミック期間中、「ワクチンを打とう」と踊る人々の輪の中で、副反応を報告する者は「反ワク」というレッテルを貼られ、輪の外に追い出された。天使たちは自分が暴力を振るっているとは思っていない。彼らは踊っているだけなのだから。
ここでクンデラの洞察の深さが際立つ。全体主義の本質は「地獄」ではなく「楽園」なのだ。エデンの園の寓話として本書が示すように、楽園の実現には必然的に小規模な収容所が併設される。「すべての人の幸福」を目指す体制は、幸福を拒否する者を処理する装置を必要とする。
リトスト:翻訳不可能な感情の政治学
第五部で展開される「リトスト」の概念は、一見すると個人的な感情の話に見える。「自分の惨めさへの突然の洞察によって引き起こされる苦悩」。恋愛の場面で、自分の未熟さや無力さに直面したときの、あの耐え難い感覚。
しかし、これを個人の心理に閉じ込めて読むのは浅い。クンデラがわざわざ「翻訳不可能なチェコ語」として提示しているのには理由がある。リトストは、小国の国民が大国の支配下に置かれたとき感じる感情でもある。自分の文化が、自分の言語が、自分の歴史が、大国の論理の前では「取るに足らないもの」として扱われる。その惨めさへの突然の気づき。
これは現代の日本にも通じる感覚ではないか。アメリカの政策決定に従属せざるを得ない安全保障、ワシントンの意向で変動する経済政策、ハリウッドとシリコンバレーが規定する文化的「常識」。自国の言語で自国の問題を自国の論理で語ることが、なぜかいつも「グローバルスタンダード」によって上書きされる。このとき感じる苦さは、リトストと呼ぶのがふさわしい。
学生がクリスティナの手紙を詩人たちに読まれて喝采を浴びる場面も示唆的である。私的な感情が公的な消費物になる瞬間。SNS時代の私たちは、毎日これを自発的にやっている。
タミナ:聞かれることのない声
第四部と第六部のタミナの物語は、本書の感情的な核心である。亡命先で夫の記憶を守ろうとする彼女の奮闘は、単なる個人的な喪失の物語ではない。
タミナの周囲にいる人々の描写に注目してみる。彼らは皆、自分の話をしたがる。自分のオーガズム、自分の子供時代、自分の小説。誰もタミナの話を聞かない。クンデラはこれを「グラフォマニア」、書くことへの強迫観念として分析する。現代社会では誰もが発信者であり、誰もが受信者であることを拒否する。
これは2020年代のSNS空間の正確な予言である。全員が発信し、誰も聞かない。タミナのように「本当に聞いてほしい話」を持つ者は、ノイズの海に溺れる。情報過多の時代において、「忘却」はもはや権力による強制的な抹消ではなく、関心の希少性による自然な帰結として生じる。誰もあなたの記憶に関心を持たない。それは検閲よりも効果的な忘却の装置かもしれない。
タミナが「子供たちの島」で溺死する場面は、本書で最も残酷な寓話である。事物に重さのない世界、記憶を持たない子供たちの世界。タミナは「大人であること」つまり「記憶を持っていること」自体を理由に排除される。子供たちの無邪気な暴力は、記憶を消去する社会の暴力のメタファーである。
ここで不気味なのは、子供たちに悪意がないことだ。天使の笑いと同様、無垢さが暴力の源泉になる。TikTokの15秒動画で歴史を「学ぶ」世代、過去のコンテキストなしに現在だけを消費する文化。それは「子供たちの島」の現代版ではないのか。
境界線:意味が蒸発する場所
最終部「境界」でヤンが経験する「笑いの発作」は、悪魔の笑いの極致である。ヌーディストビーチで裸の老体を見てガス室を連想する。葬儀で帽子が棺桶に落ちる。セックスパーティで笑いが止まらなくなる。
クンデラが描いているのは、あらゆる荘厳な事柄(死、性、裸体)が、ある「境界線」を超えた瞬間に意味を失い、滑稽な反復になるという事態である。
この「境界線」の概念は、現代の情報環境を理解する上で極めて重要である。ニュースサイクルの加速により、かつては数週間にわたって社会を揺るがしたはずの出来事が、数時間で消費され、忘れられる。戦争の映像、自然災害、政治スキャンダル。すべてが同じフィードの中で、猫の動画や料理のレシピと並列に流れる。衝撃は反復によって鈍磨し、やがて何も感じなくなる。私たちは集合的に「境界線」を超えてしまったのかもしれない。
ヤンが最後に憧れるのは、「絶頂を伴わない興奮」、つまりダフニスとクロエのように性交の方法を知らずにただ抱き合うだけの状態である。これは単なる性的嗜好の話ではない。情報の洪水、刺激の過剰、意味の飽和に疲弊した現代人が求める「意味以前の状態」への郷愁である。完成した知識ではなく、まだ何も知らないという状態。結論ではなく、問いの手前にとどまること。
クンデラが残した問い
本書は答えを与えない。天使の笑いと悪魔の笑いのどちらが正しいかも言わない。記憶と忘却の闘いに勝つ方法も示さない。
しかし、一つだけ確かなことがある。権力が私たちに忘れさせようとしているものがある限り、「何を忘れさせられているのか」を問い続けること自体が抵抗の形態になるということだ。クンデラの時代、それは共産党によるチェコの歴史の抹消だった。現代では、それはより複雑な形をとる。アルゴリズムによる情報の選別、「科学的コンセンサス」という名の異論封殺、プラットフォーム企業と政府の協働による「有害コンテンツ」の定義の独占。
帽子だけが残った写真を見て、「ここに誰がいたのか」を問うこと。タミナのように、消えかけた記憶にしがみつくこと。そして悪魔の笑いで、「楽園」の不条理を指摘すること。クンデラが1979年に書いたこの小説が、2020年代の読者にとってこれほど切実に響くのは、「忘却の技術」が進歩した一方で、「記憶の闘い」の本質は何も変わっていないからである。
肥満体の男が西洋文明の終焉について熱弁を振るう横で、彼の性器が砂浜を虚ろに見つめている。このラストシーンの滑稽さと悲しさの中に、クンデラは私たちの現在を予見していたのかもしれない。大きな言葉が空転し、身体だけが取り残される世界。その世界で、私たちは何を覚えていられるだろうか。
