書籍要約『ポルノグラフィー -万人のための哲学:倒錯で考える方法』デイヴ・モンロー 2010年

哲学社会学・社会問題

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『Porn – Philosophy for Everyone:How to Think With Kink』Dave Monroe [2010]

『ポルノグラフィー -万人のための哲学:倒錯で考える方法』デイヴ・モンロー [2010]

https://twitter.com/Alzhacker/status/2027294588726358136

目次

  • 序文:洞窟を埋める / Foreword:Filling in the Cave
  • 謝辞:/ Acknowledgments
  • 序論:ダーティ・マインドネス / Introduction:Dirty Mindedness
  • 第一部 ライト、カメラ、アクション!雑多な性的思考 / Part I Lights, Camera, Action! Sundry Sexy Thoughts
  • 第1章 ジュズ・ビズと生活の質 / Chapter 1 The Jizz Biz and Quality of Life
  • 第2章 奇妙な仲間たち:哲学とポルノグラフィーの相互浸透 / Chapter 2 Strange Bedfellows:The Interpenetration of Philosophy and Pornography
  • 第二部 ポルノグラフィック・マインド:心理学とポルノ / Part II The Pornographic Mind:Psychology and Porn
  • 第3章 イエス、イエス!イエス!!モナの喘ぎ声は彼女の性的快楽について何を明らかにするか / Chapter 3 Yes. Yes! Yes!! What Do Mona’s Moans Reveal About Her Sexual Pleasure?
  • 第4章 シミュレーションとしてのポルノグラフィー / Chapter 4 Pornography as Simulation
  • 第5章 ブラザーズ・ミルク:生ポルノにおけるエロティシズムと致死的要素 / Chapter 5 Brothers’ Milk:The Erotic and the Lethal in Bareback Pornography
  • 第三部 シーツの間で:ポルノ倫理と個人的関係 / Part III Between the Sheets:Porn Ethics and Personal Relationships
  • 第6章 ストレンジ・ラブ:いかにして私は心配するのをやめポルノを愛するようになったか / Chapter 6 Strange Love, or:How I Learned to Stop Worrying and Love Porn
  • 第7章 ジェナとの浮気:一夫一婦制、ポルノグラフィー、エロティカ / Chapter 7 Cheating with Jenna:Monogamy, Pornography, and Erotica
  • 第8章 セレブリティ・セックステープ:現代の戒めの物語 / Chapter 8 Celebrity Sex Tapes:A Contemporary Cautionary Tale
  • 第四部 ダーティ・トーク:法的問題と言論の自由 / Part IV Talking Dirty:Legal Issues and Free Speech
  • 第9章 ある者のゴミは別の者の喜び:わいせつ、ポルノグラフィー、そして法 / Chapter 9 One Man’s Trash is Another Man’s Pleasure:Obscenity, Pornography, and the Law
  • 第10章 ポルノの何が問題か? / Chapter 10 What’s Wrong with Porn?
  • 第11章 バンパーステッカーとおっぱい:なぜポルノ擁護の言論の自由論は失敗するのか / Chapter 11 Bumper Stickers and Boobs:Why the Free Speech Argument for Porn Fails
  • 第五部 ダーティの芸術:ポルノと美的価値 / Part V The Art of Dirty:Porn and Aesthetic Value
  • 第12章 「ファインアート」としてのポルノ?芸術的価値とポルノ的価値の衝突 / Chapter 12 The “Fine Art” of Pornography? The Conflict Between Artistic Value and Pornographic Value
  • 第13章 不聖なる三位一体:美しいもの、ロマンチックなもの、そして低俗なもの / Chapter 13 An Unholy Trinity:The Beautiful, the Romantic, and the Vulgar
  • 第14章 ポルノグラフィー問題の問題点 / Chapter 14 The Problem with the Problem with Pornography
  • 第六部 ポルノとテクノロジー / Part VI Porn and Technology
  • 第15章 みんなのための何か:革とメガネの豊満ラテン系アナルナース / Chapter 15 Something for Everyone:Busty Latin Anal Nurses in Leather and Glasses
  • 第16章 セックス、嘘、そしてバーチャルリアリティ / Chapter 16 Sex, Lies, and Virtual Reality
  • 第七部 キンク:オルタナティブ・ポルノとBDSM / Part VII Kink:Alternative Porn and BDSM
  • 第17章 異性愛男性はガールズ・ポルノを消費することで何を得るのか? / Chapter 17 What Do Heterosexual Men Get Out of Consuming Girl–Girl Pornography?
  • 第18章 ベストショットで殴れ:SMポルノをめぐる「暴力的」論争 / Chapter 18 Hit Me With Your Best Shot:The “Violent” Controversy Surrounding SM Porn
  • 第19章 女王様の瞑想:Mz. ベルリンへのインタビュー / Chapter 19 Ruminations of a Dominatrix:An Interview with Mz. Berlin
  • 執筆者紹介:/ Notes on Contributors

本書の概要

短い解説

本書は、ポルノグラフィーを哲学的視点から多角的に考察するアンソロジーであり、学術的な議論と業界関係者の生の声を融合させている。

著者について

編者デイヴ・モンローはセントピーターズバーグカレッジ応用倫理研究所の講師であり、食の哲学など幅広いテーマで編著を持つ。シリーズ編集者フリッツ・オールホフは西ミシガン大学助教。序文は著名なポルノジャーナリスト、グラム・ポナンテが寄稿している。

テーマ解説

  • 主要テーマ:ポルノグラフィーと哲学の多角的接点 [ポルノを心理学、倫理学、法学、美学、テクノロジーなど多様な哲学的観点から分析する]
  • 新規性:産学連携の視点 [アカデミックな哲学者だけでなく、ポルノ業界の出演者や批評家が執筆に参加している点]
  • 興味深い知見:シミュレーション理論 [ポルノ鑑賞が、他者の心的状態を模擬体験する「シミュレーション」プロセスであるという認知科学的分析]

キーワード解説

  • シミュレーション理論:ポルノ鑑賞者が画面上の行為を自己投影的に体験する認知プロセス
  • フェミニスト・ポルノ:女性の視点と性的主体性を重視し、従来の男性向けポルノに対抗するジャンル
  • アートとポルノの区分:芸術的関心と性的関心が同一作品に対して両立可能かという美学上の問題
  • バレーバック:HIV感染リスクを伴うコンドームなしアナルセックスを美化するゲイ・ポルノのサブジャンル
  • バーチャルリアリティ:没入型テクノロジーがもたらすハイパーセクシュアリティと人間関係への影響
  • BDSM:合意に基づく支配・服従、緊縛、苦痛のプレイを描くポルノとその法的・倫理的課題

3分要約

本書『ポルノグラフィー -万人のための哲学』は、現代文化に遍在するポルノグラフィーを、単なる道徳的非難や法的規制の議論を超えて、哲学的な考察の対象として捉え直す試みである。編者デイヴ・モンローは序論で、ポルノがかつてのような地下文化ではなく、インターネットの普及により日常に浸透し、ハリウッド映画との相互影響も見られる現代において、その文化的・哲学的考察の必要性を説く。本書の特徴は、アカデミックな哲学者だけでなく、心理学者、法学者、そしてポルノ業界の内部関係者(出演者、批評家)が執筆陣に名を連ねている点にある。

第一部では、ポルノ業界で働くことの意味と、哲学とポルノの歴史的な親和性が探求される。現役ポルノ女優ディラン・ライダーは、共著でポルノ出演者の生活の質(ウェルビーイング)について考察し、一般に信じられているような「欠陥のある人生」が必然的に伴うわけではないと論じる。アンドリュー・アバディーンは、18世紀フランスの「哲学書」が実はポルノを指していた歴史的事実を掘り起こし、哲学とポルノが啓蒙思想の中で密接に結びついていたことを明らかにする。

第二部は心理学とポルノに焦点を当てる。アン・ゴードンとシェイン・クラウスは実証研究を通じて、男性は女性よりもポルノ女優のオーガズムが本物だと信じる傾向があり、これが現実のパートナーシップにおける誤解を生む可能性を指摘する。セオドア・バッハは、ポルノ鑑賞を「シミュレーション」理論で説明し、鑑賞者が無意識に画面上の性的体験を自己投影していると論じ、その社会的影響を考察する。ケイシー・マキトリックは、ゲイ・ポルノの「バレーバック」(生)サブジャンルを分析し、AIDS危機以降のゲイ・コミュニティにおける親密性の喪失と再生の欲求が、このリスクを伴う性的実践の背景にあると Freud 的精神分析を用いて解釈する。

第三部では、ポルノと個人の倫理的関係が検討される。テイト・サボはJ.S.ミルの危害原理に基づき、ポルノが他者に具体的危害を及ぼさない限り、鑑賞の自由は守られるべきだと主張する。フィオナ・ウーラードは、パートナーがポルノを一人で鑑賞することが一夫一婦制の関係における「浮気」に当たるかという問題を扱い、一般的なポルノは不貞とはみなせないが、関係を損なう有害な態度を強化するものは問題だと論じる。ダーシ・ドールはセレブリティのセックステープを事例に、私的な性行為の録画と流出がもたらす倫理的・心理的リスクを警告する。

第四部は法的問題と言論の自由に踏み込む。ジェイコブ・ヘルドは「わいせつ」概念の法的定義の曖昧さを批判し、この不明確さが法の適正手続きを損ない、表現の自由に対する萎縮効果をもたらすと論じる。ミミ・マリヌッチは、検閲が男性中心の支配的文化の利益に奉仕するとして反対し、より社会的に責任ある「フェミニスト・ポルノ」の生産を支持する。J.K.マイルズは、ポルノが政治的・宗教的言論とは異なり、公的空間での表示が観客を非自発的な行為(視聴)に巻き込む点で、言論の自由による擁護は成り立たないと主張する。

第五部では、ポルノの芸術的価値が問われる。クリストファー・バーテルは、ある作品に対して「芸術的関心」と「ポルノ的関心」を同時に持つことは相互排他的であり、ポルノ的関心を通じて芸術的価値を発見することは不可能だと論じる。ローレンス・ハウは、美的態度(無関心な観照)の概念を用いて、ファインアート、エロティカ、ポルノグラフィーの三者を区別し、ポルノは美的距離を許容しない点で芸術から最も遠いと位置づける。デイヴィッド・ローズは、ポルノを他の美的対象と区別する道徳的理由(搾取、危害など)は不十分であり、ポルノも他の芸術同様、社会の自己理解に寄与するものとして批評されるべきだと主張する。

第六部はテクノロジーの進化がポルノに与えた影響を扱う。業界批評家ロジャー・パイプは、1970年代の成人映画館からVHS、DVD、そしてインターネットに至るまで、テクノロジーの発展がポルノをいかにニッチ化・個人化させてきたかを概観する。マシュー・ブロフィーは、近い将来実現するであろう没入型バーチャルリアリティ・ポルノが、ハイパーリアルな性的体験を提供することで、現実の人間関係や親密さを損ない、ユーザーに悪徳を植え付ける危険性を予見する。

最終部は「キンク」と題され、主流派から逸脱したポルノを扱う。チャド・パークヒルは、異性愛男性がガールズ・ポルノに惹かれる理由をラカン的精神分析を用いて分析し、男性的な快楽(plaisir)を超えた自己崩壊的な悦楽(jouissance)を求める可能性を提示する。ウンムニ・カーンは、SMポルノに対する法制度の対応を批判し、同意の重要性が無視されることで、SM実践者が物理的・現象学的・認識論的暴力に晒されていると論じる。最後に、著名なドミナトリックス、Mz.ベルリンへのインタビューでは、インフォームド・コンセントの本質的役割、拷問とSMの決定的な違い、ポルノ産業における女性の主体性などが、業界内部の視点から率直に語られる。

各章の要約

序文:洞窟を埋める

グラム・ポナンテはプラトンの洞窟の比喩を用いて、ポルノの本質を考察する。洞窟の囚人が見る影絵のように、ポルノは鑑賞者の投影によって初めて意味を持つ。ポルノは「現実」ではなく、鑑賞者が自らの欲望や幻想を埋め込むための「洞窟」である。ポルノ俳優は鑑賞者が作り上げた人物であり、現実の彼らとは異なる。ポナンテは、ポルノがその単純さゆえに、鑑賞者の解釈を可能にする開かれたテクストであると指摘する。

第1章 ジュズ・ビズと生活の質

現役ポルノ女優ディラン・ライダーと編者デイヴ・モンローは、ポルノ出演者の生活の質(ウェルビーイング)に関する通念を批判的に検討する。一般にポルノ俳優は欠陥のある人生を送っていると思われがちだが、著者らは道徳的価値と厚生(個人の人生の質)を区別することで、この見解に反論する。たとえポルノ産業が不道徳であったとしても、それは直ちに出演者の厚生を低下させるわけではない。厚生は主観的要素を含み、本人が最良の判断者である。「幸福な奴隷」の反論に対しても、第三者の判断が常に正確とは限らず、障害者のQOL報告が示すように、主観的厚生は外的条件に必ずしも左右されないと応答する。

第2章 奇妙な仲間たち:哲学とポルノグラフィーの相互浸透

アンドリュー・アバディーンは、18世紀フランスで「哲学書」がポルノを指す隠語であった歴史的事実から、哲学とポルノの深い結びつきを探求する。ディドロ、アルジャン侯爵、サド侯爵らの著作は、哲学的対話と性的描写が不可分に融合していた。さらに古代に遡り、プラトンの『饗宴』やルキアノスの娼婦対話篇など、哲学とポルノが「説得」という共通のテーマを共有していたことを示す。中世のアリストテレスとフィリスの伝説は、理性(哲学)が性欲(自然)に屈服する図像として分析され、この物語が検閲論に対抗する視座を提供する可能性を提示する。

第3章 イエス、イエス!イエス!!モナの喘ぎ声は彼女の性的快楽について何を明らかにするか

アン・ゴードンとシェイン・クラウスは、進化心理学の観点から、ポルノにおける女性のオーガズム表現に対する鑑賞者の認識を実証研究する。彼女らは「ポルノガズム」という造語を用い、男性が女性よりもポルノ女優のオーガズムを本物だと信じる傾向があり、またポルノの視聴時間が長いほどその傾向が強まることを明らかにする。これは対応バイアス(状況的行動を内的特性に帰属する傾向)と進化的錯誤管理理論(男性は女性の性的関心を過大評価するように進化した)で説明される。結論として、ポルノは男性に女性の性的満足に関する誤った認識を植え付け、「ダメな恋人」を生み出す可能性があると警告する。

第4章 シミュレーションとしてのポルノグラフィー

セオドア・バッハは、ポルノ鑑賞を認知科学的な「シミュレーション」理論で説明する。日常的な心の理論(他者の心的状態を推測する能力)において、私たちは「もし自分があの立場なら」と想像する(オフライン・シミュレーション)。ポルノ鑑賞も同様に、視聴者が画面上の性的状況に自己を投影し、実際の性行為に近い認知的・感情的状態を擬似的に体験するプロセスである。このモデルは、「マネーショット」の重要性(リアリティの保証)や、異性愛男性がペニスを多く見ること(自己投影)を説明する。しかし、このシミュレーションが現実の性行動に転移する可能性や、過激なフェティッシュ・ポルノが新たな欲望を創造する危険性も指摘する。

第5章 ブラザーズ・ミルク:生ポルノにおけるエロティシズムと致死的要素

ケイシー・マキトリックは、ゲイ・ポルノのサブジャンルである「バレーバック」(コンドームなしアナルセックス)を分析する。AIDSがゲイ・コミュニティに与えたトラウマと、セーファーセックス規範への疲れ(コンドーム・ファティーグ)が、このリスクを伴う実践の背景にある。バレーバック・ポルノは、精液の交換を「贈り物」や「種」として描き、親密性の回復を象徴的に表現する。Freudの死の欲動(タナトス)とエロスの闘争の視点から、マキトリックはこれらの作品が、喪失した親密性へのノスタルジーと、死と隣り合わせの危険な悦楽を同時に描き出していると解釈する。倫理的判断は留保しつつ、その心理的・文化的意味を探求する。

第6章 ストレンジ・ラブ:いかにして私は心配するのをやめポルノを愛するようになったか

テイト・サボは、J.S.ミルの危害原理に基づき、ポルノ検閲に反対するリベラルな立場を擁護する。ポルノが性的に露骨で、時に性差的・暴力的であっても、それが直接的な危害を引き起こさない限り、国家が介入すべきではない。暴力ポルノが性的暴力を直接引き起こすという因果関係は実証されておらず、たとえ特定の暴力ポルノが問題でも、それは全体の一部に過ぎない。また、ポルノが女性の抑圧を永続させるというフェミニスト批判に対しても、それはポルノに固有の問題ではなく、社会全体の性差別的文化の問題であり、検閲は最善の解決策ではないと論じる。結局、個人の自律性を尊重するなら、ポルノの鑑賞は私的な道徳の問題として放置されるべきである。

第7章 ジェナとの浮気:一夫一婦制、ポルノグラフィー、エロティカ

フィオナ・ウーラードは、一夫一婦制の関係において、パートナーが一人でポルノを鑑賞することが「浮気」に当たるかを検討する。第一に、ポルノ使用は不貞とは異なる。不貞が「性交渉」の意味を損なうのに対し、一人でのマスターベーションは相互的な性的親密行為ではなく、空想は実際の行為ではない。第二に、ポルノには自己のセクシュアリティを探求する健全な役割があり、関係にも貢献しうる。しかし第三に、女性を貶めるようなポルノは、パートナーに対する態度と相容れず、関係を損なう。したがって、パートナーの怒りが合理的かは、使用されたポルノの内容に依存する。すべてのポルノが不貞なのではなく、特定のポルノが態度の問題を引き起こすと結論づける。

第8章 セレブリティ・セックステープ:現代の戒めの物語

ダーシ・ドールは、セレブリティのセックステープ現象を倫理的観点から分析する。テープの制作・公開が正当化されるのは、全参加者のインフォームド・コンセントと公開条件の合意がある場合のみである。セレブリティ・テープの魅力は、有名人文化への好奇心と、性的空想の対象となることにある。しかし、制作の動機が信頼関係の延長であれキャリア戦略であれ、盗難、事故、裏切りによる流出のリスクは常に存在する。流出は心理的トラウマやキャリア毀損を招き、一度公開された画像は永久にネット上に残る。一般人であっても、アマチュア・ポルノ市場の存在によりリスクは無視できず、テープ制作には慎重な判断が必要であると警告する。

第9章 ある者のゴミは別の者の喜び:わいせつ、ポルノグラフィー、そして法

ジェイコブ・ヘルドは、米国におけるわいせつ法の歴史とその問題点を検証する。1957年のRoth判決以降、わいせつ表現は憲法修正第一条の保護外とされてきたが、「わいせつ」の定義は極めて曖昧である。1973年のMiller判決で新たな基準(prurient interest, patently offensive, serious value欠如)が示されたが、「価値」の判断は主観的で、法の予測可能性を損なう。さらに、マッキノンとドワーキンによる反ポルノ・フェミニストの ordinance は、ポルノを女性差別と定義したが、その定義(「従属の描写」)もまた解釈に依存し、表現の自由に対する危険な曖昧さを内包する。結局、わいせつ法は本質的に不明確であり、法の支配が要求する「公正な警告」を市民に与えることができないと結論づける。

第10章 ポルノの何が問題か?

ミミ・マリヌッチは、反ポルノ・フェミニズムと表現の自由擁護論という二項対立を超えて、フェミニストの視点からポルノを再考する。オードリー・ロードの「エロスの力」概念を援用し、ポルノが必ずしも女性を抑圧するだけでなく、女性自身の性的探求の手段となりうる可能性を探る。ロードはポルノとエロスを区別したが、個人の「これでいい」という感覚を尊重するなら、両者は排他的ではない。主流ポルノが女性の性的体験を単純化(例:マネーショットへの集中)しているのに対し、フェミニスト・ポルノ(レズビアン・ポルノやカップル・ポルノ)はより文脈化された性表現を提供し、女性の多元的な快楽に応える可能性を持つと論じる。問題はポルノそのものではなく、その表現形式にある。

第11章 バンパーステッカーとおっぱい:なぜポルノ擁護の言論の自由論は失敗するのか

J.K.マイルズは、ポルノが政治的・宗教的言論と同じ表現の自由で守られるべきだという主張(ウェンディ・マッケロイ)を批判する。宗教的・政治的言論は「説得」を目的とし、観客はそのメッセージを理性的に評価できる。しかし、ポルノの公的表示は、観客を非自発的な性的注視という行為に巻き込む点で、同意なき説得=「強制」の要素を持つ。パブリック・スペースでポルノが表示されれば、見たくない人も見ることを強いられる。これは政治的ビラや説教とは異なる。たとえポルノが表現であっても、その伝達方法が非自発的行為を伴う以上、政治言論と同列に扱うことはできない。ただし、これは直ちに検閲を正当化するものではなく、プライバシーや自律性など別の根拠でポルノの自由は擁護されうるとする。

第12章 「ファインアート」としてのポルノ?芸術的価値とポルノ的価値の衝突

クリストファー・バーテルは、ポルノ作品が芸術的価値を持ちうるかを、鑑賞者の「関心(インタレスト)」の違いから分析する。「ポルノ的関心」とは、作品内容を性的空想の素材として没入的に体験することであり、作品の媒体を「透明」と見なす。「芸術的関心」とは、作品の形式的質(構図、技法など)を「不透明」に鑑賞することである。両者は相容れない。同一作品が異なる時点で異なる関心を満たすことは可能だが、ポルノ的関心を通じて芸術的価値を発見することは不可能である。なぜなら、ポルノ的関心は形式を「見透かし」内容だけに集中するからだ。ただし、形式そのものがフェティッシュとなる特殊なケース(例:ボンデージ写真の静止性)は例外として認める。

第13章 不聖なる三位一体:美しいもの、ロマンチックなもの、そして低俗なもの

ローレンス・ハウは、視覚芸術におけるファインアート、エロティカ、ポルノグラフィーの三者の区別を、美的態度(特に「心理的距離」)の概念を用いて明確化する。エロティカは性的愛を喚起するが、同時に美的性質(調和、バランス)を備え、鑑賞者と対象の間に一定の距離を保つ。ポルノグラフィーは、性的器官や行為を誇張・強調することで鑑賞者の自己没入を促し、距離を許容しない。ファインアートは、最も純粋な形での無関心な観照(disinterested contemplation)を可能にする。エロティカはファインアートとポルノの中間に位置し、状況によってはファインアートに近づきうるが、ポルノは美的性質を欠くため、芸術とは根本的に異なるジャンルであると結論づける。

第14章 ポルノグラフィー問題の問題点

デイヴィッド・ローズは、ポルノを他の美的対象と区別して特別視する道徳的議論そのものに問題があると指摘する。搾取、女性への危害、社会の腐敗といった従来の批判は、いずれもポルノに固有の問題ではなく、一部の作品に当てはまるに過ぎず、普遍的な非難の根拠とはならない。たとえパラダイム的なポルノ作品を考えても、それが必然的に不道徳であるとは言えない。真の問題は、ポルノが資本主義的な大量生産・消費の中で、真正な人間関係や自己理解を歪めるような貧困な表現に陥っていることにある。ポルノも他の芸術と同様、文化的タブーと規範の対話に関与するものであり、単純な道徳的断罪ではなく、美的批評の対象とすべきであると主張する。

第15章 みんなのための何か:革とメガネの豊満ラテン系アナルナース

業界批評家ロジャー・パイプは、テクノロジーの進化がポルノ産業をどのように変容させたかを歴史的に概観する。1970年代の成人映画館は、場所が限られ、上映作品も限定的だったため、製作者は幅広い観客を想定した「バニラ」な作品を作らざるを得なかった。1980年代のVHSの登場は、家庭での視聴を可能にし、作品数の爆発的増加とジャンルの細分化をもたらした。1990年代のDVDは、コンピレーション作品やシーン単位での視聴を可能にし、さらにニッチ化を促進。2000年代のインターネットは、オンデマンド配信と超ニッチなフェティッシュサイトを生み出し、消費者は自分の性的嗜好に完全にカスタマイズされたコンテンツを、匿名で入手できるようになった。テクノロジーはポルノを民主化し個人化したが、同時にアート性を失わせ、子供のアクセス問題も引き起こしたと総括する。

第16章 セックス、嘘、そしてバーチャルリアリティ

マシュー・ブロフィーは、没入型バーチャルリアリティ技術がポルノと融合した未来の「ポルノグラフィック・シンギュラリティ」を警告する。現実と区別がつかないVRポルノは、ハイパーリアルな性的体験(非現実的な美しさ、完全な従順さ)を提供し、現実のパートナーやセックスを「劣ったもの」と感じさせる危険性がある。また、『Second Life』のような既存の仮想世界では、獣姦、近親相姦ロールプレイ、レイプゲームなど、現実では許容されない性的逸脱が既に蔓延している。こうした環境への反復曝露は、ユーザーの性的嗜好を条件付け、逸脱を正常化し、現実の人間関係(結婚、親密さ)を破壊する。徳倫理学の観点から、VRポルノはユーザーに悪徳(過剰な欲望)を植え付け、人間の flourishing を阻害すると論じる。

第17章 異性愛男性はガールズ・ポルノを消費することで何を得るのか?

チャド・パークヒルは、異性愛男性がレズビアン・ポルノ(ガールズ・ポルノ)を好む現象を、第二派フェミニストの解釈(男性支配の強化)に飽き足らず、精神分析を用いて再解釈する。ジェネフスキーとミラーの読解は、男性鑑賞者が常に女性を支配しようとしていると前提するが、パークヒルはラカン派の概念を用いて、男性が女性と同一化する「射影的同一化」や、自己崩壊的な悦楽「ジュイサンス」を求めている可能性を提示する。男性はガールズ・ポルノにおいて、自己の男性性を消失させることに性的興奮を覚えることがあり、それは単なる支配欲求とは異なる。しかし、そのようなジュイサンス追求も、結局は女性の身体を表象としてアクセスする権利を前提としており、倫理的問題は通常の異性愛ポルノと変わらないと指摘する。

第18章 ベストショットで殴れ:SMポルノをめぐる「暴力的」論争

ウンムニ・カーンは、SMポルノが「暴力的」であるとして法的に不利な扱いを受ける現状を批判する。法制度は、SMが参加者の合意に基づく相互快楽のためのロールプレイであることを無視し、「猿真似」仮説(ポルノを見ると真似をする)に基づいて検閲を正当化する。しかし、その結果として、SM実践者は国家による三重の暴力に晒されている。第一に、 disproportionate な懲役刑という「物理的暴力」。第二に、彼らの性的体験の真実(現象学的リアリティ)を「無価値」と断じる「現象学的暴力」。第三に、サブカルチャーに関する専門家証言を無視し、裁判官の主観的嫌悪で判断する「認識論的暴力」。これらの暴力は、実際の被害者なき sexual minority に対する不当な国家権力の行使であると論じる。

第19章 女王様の瞑想:Mz. ベルリンへのインタビュー

著名なドミナトリックス、Mz. ベルリンへのインタビュー。彼女は心理学とコミュニケーション学のバックグラウンドを活かし、BDSM業界での仕事に対する意識的なアプローチを語る。核心は「インフォームド・コンセント」であり、合意がある限り、いかなるプレイも「拷問」ではなくなる。彼女は、ポルノ産業で消耗する若い出演者に「精神的成熟の必要性」を説き、自身はプロデューサーとして業界を「利用する」立場にあると語る。また、ポルノが暴力や人間関係に悪影響を与えるという通説には、データ(ポルノ消費増加とレイプ減少)を挙げて反論。フェムドム(女性上位)ポルノの人気は、男性の伝統的ジェンダー役割からの逃避願望や、流動化するジェンダー観を反映していると分析する。


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