
『IMPRO:インプロ―即興演技と演劇』キース・ジョンストン 1979
目次
- 序文 / Introduction
- 自分自身についての覚書:/ Notes on Myself
- 第一部 地位 / Part One:Status
- 第二部 自発性 / Part Two:Spontaneity
- 第三部 物語の技術 / Part Three:Narrative Skills
- 第四部 仮面とトランス / Part Four:Masks and Trance
- 付録:/ Appendix
本書の概要
短い解説:
本書は、演劇における即興の技術を体系的に解説し、創造性の本質とその解放方法を探求する実践的ガイドである。
著者について:
著者キース・ジョンストンは、ロイヤル・コート劇場のアソシエイト・ディレクターを務め、ライターズ・グループやアクターズ・スタジオで即興技法を開発。後に即興劇団シアター・マシーンを設立し、自発性と物語能力を育成する独自のアプローチを確立した。
テーマ解説
本書は、教育によって損なわれた自発性と創造性を回復するための実践的技術と理論を提示する。
キーワード解説
- ステイタス:すべての行動や発言に内在する優位性や従属性のダイナミクス
- ブロックと受容:即興において相手の提案を拒否するか受け入れるかの選択が物語の展開を決定する
- リインコーポレーション:物語の中で過去の要素を再び取り込み、構造的に完結させる技術
- トランス:仮面を用いて日常的自我を解放し、別の人格に「憑依」される状態
- イエスセイング:相手の提案を受け入れ、物語を発展させる基本的な姿勢
3分要約
キース・ジョンストンは自身の教育経験を通じて、学校教育が子どもの自発性と創造性をいかに破壊するかを痛感する。優秀な生徒から突然落ちこぼれになった経験や、アンソニー・スターリングの画期的な教育法との出会いが、後に彼が開発する即興技法の基盤となる。彼は教師の役割を「正解を教えること」ではなく「生徒が成功を経験できる環境を整えること」だと捉え、失敗への恐怖を取り除くことの重要性を強調する。
第一部「ステイタス」では、人間のすべての行動や発話に優位性や従属性が内包されているという洞察を提示する。ジョンストンはステイタスを「何かをするもの」として理解し、社会的地位とは別に、人が意図的に上下のステイタスを演じ分けていることを明らかにする。アイコンタクトの長さ、話し始めの「えー」の長さ、頭部の動きの有無といった微細な行動がステイタスを決定し、俳優はこれらを意識的にコントロールすることで説得力のある関係性を構築できる。主従関係の場面は特に観客の関心を引き、両者が「すべての空間は主人のもの」として行動することで劇的な緊張が生まれる。
第二部「自発性」では、なぜ多くの人が創造性を失うのかを分析する。ジョンストンは教育が「最初のアイデアは精神病院的か、猥褻か、独創性に欠ける」という信念を植え付け、人々が自発的な思考を抑圧すると指摘する。真の独創性は「ありきたり」であることから生まれ、自分の最初の思考を受け入れることによってのみ発揮される。実践的なエクササイズとして、相手の提案を拒否する「ブロック」ではなく、受け入れて発展させる「イエス・アンド…」の姿勢を教える。想像力の内容に対して責任を感じず、検閲を緩めることが自発性回復の鍵である。
第三部「物語の技術」では、ストーリーの本質を「日常の中断」として捉える理論を展開する。ジョンストンによれば、物語は単なる出来事の連続ではなく、一度提示された要素を後で再び取り込む「リインコーポレーション」によって構造化される。彼は「自由連想」と「接続」という二つの段階に分けて物語構築を教え、作家が行き詰まったときに未来を探すのではなく、過去に棚上げした要素を振り返って再利用する方法を示す。内容の解釈を無視し、構造に集中することで、即興者はどんな場面でも自然に物語を生成できるようになる。
第四部「仮面とトランス」は最も深遠な章である。ジョンストンはジョージ・ディヴァインから学んだ仮面技法を発展させ、仮面が単なる扮装ではなく、着用者を「憑依」状態に導く装置であることを示す。真の仮面演技では、俳優は「仮面を操作する」のではなく「仮面に操られる」体験をする。チャップリンの放浪者が衣装とメイクによって「生まれた」エピソードや、スタニスラフスキーの俳優がメイク中に突然キャラクターを「発見」する記述は、仮面の力を裏付ける。半面(喜劇的仮面)と全面(悲劇的仮面)では異なる技法が必要であり、特に全面仮面では完全な静止と簡潔な動きによって観客に強烈な感情を伝えることができる。仮面ワークは危険視されることもあるが、適切な指導のもとでは自己探求と創造性解放の貴重な手段となる。
本書全体を通じてジョンストンが主張するのは、創造性とは特別な才能ではなく、教育によって抑圧された自然な能力であり、適切な技術と環境によって誰もが回復できるという希望に満ちたメッセージである。
各章の要約
序文
アーヴィング・ワードルは、キース・ジョンストンがロイヤル・コート劇場でライターズ・グループやアクターズ・スタジオを運営し、即興技法を開発した経緯を紹介する。ジョンストンの手法は、おとぎ話や単語連想、自由連想、直感的反応に基づいており、大人の中に子どもの創造力を再発見させることを目的としている。ワードルは本書を「想像力による生存のための賢明で実用的で陽気なガイド」と評し、ジョンストンの分析が結果ではなく方法に焦点を当てている点を評価する。
自分自身についての覚書
ジョンストンは自身の教育体験を通じて、学校教育がどのように自発性と創造性を破壊するかを語る。優秀だった子ども時代から突然落ちこぼれになった経験、スピーチ障害、想像力の減退など、彼は自らを「教育の犠牲者」と見なす。アンソニー・スターリングという卓越した美術教師との出会いが転機となる。スターリングは「教師は子どもより優れていない」「決してデモンストレーションをしてはいけない」「生徒が失敗を経験してはいけない」という老子の思想に基づく教育法を実践していた。ジョンストンはこの教えを演劇教育に応用し、教師が失敗の責任を負い、生徒が安全に実験できる環境を作ることの重要性を学ぶ。
第一部 地位
第1章 シーソー
ジョンストンは俳優たちが日常会話を再現できないことに気づき、ステイタスの概念を導入する。すべての抑揚や動きはステイタスを暗示しており、偶然や真の「動機なし」の行動は存在しない。相手より少し上か下のステイタスを取るよう指示すると、俳優たちの演技は瞬時に「本物」に変わる。ステイタスは社会的地位と演じられるステイタスが異なることが重要で、トランプが高ステイタスを演じたり、公爵が低ステイタスを演じたりすることで面白さが生まれる。友人関係はお互いにステイタス・ゲームを楽しむことに合意した関係である。ジョンストンは「私が上がればあなたが下がる」というシーソーの原理を説明し、多くのコメディがこの原理で機能していることを指摘する。
第2章 コメディと悲劇
ベルクソンの笑いの理論(自動性が笑いを生む)を批判し、バナナの皮で滑る男が笑われるのはステイタスを失い、かつ観客が同情しない場合のみだと主張する。悲劇もシーソー原理で機能し、非常に高いステイタスの人物が抹殺される過程を見ることで、観客は一段上がった感覚を得る。悲劇の主人公は最後まで高ステイタスを保たねばならず、オイディプスが目をえぐり出しても低ステイタスの姿勢に崩れてはいけない。生け贄の儀式でも、犠牲者は殺される前に高められるという共通点がある。
第3章 ステイタスの教授法
アイコンタクトの保持時間、語頭の「えー」の長さ、話すときの頭部の静止など、微細な行動がステイタスに影響することを学生に体験させる。足の向きが文構造やアイコンタクトに影響するという「不合理な」関連性も発見する。俳優は自分が演じるステイタスを達成できなくても観客の興味を引くことができる。ステイタスを少し上か下に設定することで、俳優は相手を正確に「見る」ようになり、自動的なステイタス技能が相手に「ロックオン」する。非言語の即興( gibberish )でもステイタスの反転だけで観客を魅了できる。
第4章 侮辱
侮辱を遊びとして受け入れることで、硬直的で自己防衛的な学生がほぐれる。侮辱を個人的に受け取らず、リストから選んで使用することで、俳優は自分が「攻撃」されることを許容できるようになる。重要なのは侮辱することではなく、侮辱されることへの反応である。侮辱を驚きと憤慨で繰り返すことで、身体的な緊張が解け、自然な動きが生まれる。
第5章 ステイタスの専門家
俳優には高ステイタス専門家と低ステイタス専門家がいるが、真の訓練はすべてのタイプの取引を教えるべきである。低ステイタスを演じることに抵抗を示す学生には、安全な環境で徐々に接近させる。高ステイタスを演じることを拒否する学生は、社会階級の問題と混同している場合があり、あらゆる状況で高も低も演じ分けられることを理解させる必要がある。
第6章 空間
ステイタスは本質的に territorial な概念である。身体は空間を放射し、その空間の流れが他者との関係を決定する。恐怖の姿勢では身体の平面が閉じ、ケルビムの姿勢では開かれる。高いステイタスの人物は自分の空間を他者に流し込み、低いステイタスの人物は自分の空間を他者に流し込まないようにする。空間に対するステイタスも存在し、空の待合室に入るだけでも家具に対して高くも低くも振る舞える。接近距離もステイタスと空間の関係で決定され、低い方が道を譲る。
第7章 主人と従者
主従関係は観客に特別な喜びをもたらす。ジョンストンの法則によれば、主従関係とは「すべての空間が主人のものである」と両者が行動する関係である。主人がいないとき、従者は空間を完全に占有できるが、主人がいる場合は空間を支配しないよう細心の注意を払う。従者の最適位置は主人の空間の放物線の端であり、いつでも主人が直面して支配できる位置にある。主人が従者を役割から引き出そうとする場面や、従者が自らトラブルに陥るゲームなど、様々なバリエーションを開発できる。
第8章 最大ステイタス格差
生活ではしばしばステイタス格差が誇張されて喜劇的になる。訓練では最小格差から始めるが、最大格差の場面も教える。主人が可能な限り高く、従者が可能な限り低い場面では、主人がわずかな苛立ちを感じた瞬間に指を鳴らし、従者が自殺するというゲームを通じて、従者の適応不能さと主人の支配を学ぶ。逆転したステイタス(死刑執行人が低く、自殺志願者が高く)も面白い場面を生む。
第9章 テクスト
すべての音と姿勢がステイタスを暗示することを理解すると、世界の見方が永久に変わる。優れた俳優、演出家、劇作家は人間関係を支配するステイタス取引を直感的に理解している人々である。『ゴドーを待ちながら』が退屈な評判を得るのは、演出家が「意味深長」にしようとし、ステイタス取引を無視するからだ。ベケットの間はポッツォを下げる機能を持ち、ステイタスと服従のパターンの一部である。
第二部 自発性
第1章
想像力のない人々も、想像力豊かな役割を演じることで創造的になれる。学校は子どもたちに想像力を抑制するよう奨励し、想像力豊かな子どもは教師に嫌われる。研究によれば、想像力を奪われた子どもは「空想を排除する」試みが早すぎた結果、考えることを恐れるようになる。芸術家がこの文化に残るには頑固でなければならず、真の創造は教育に逆らうことを意味する。
第2章
思春期に創造性が停止するのは、性的混乱を隠さねばならず、大人の態度が完全に変わるからである。14歳で同じ物語を書けば精神異常と見なされる。芸術が「自己表現」と見なされるようになると、個人は技術だけでなく「自分自身」で批判されるようになる。シラーは「門の見張り番」がアイデアを吟味しすぎると述べ、真の創造的頭脳では「知性が門から見張り番を引き揚げ、アイデアが乱入し、その後で群れを検討する」と説明した。想像力は知覚と同じくらい努力を要しないものであり、間違っていると信じる時にだけ「努力」が必要になる。
第3章
精神病的思想、猥褻、独創性のなさが、実は最良のアイデアであることが多い。正気は思考の内容ではなく、安全な自己提示の問題である。私たちは皆「顎の中の魚」に相当するものを抱えて生きている。猥褻の許容度は状況によって変化し、教室が「正式な」場と見なされることは不幸である。独創性を追求すればするほど、真の自己から遠ざかり、作品は凡庸になる。モーツァルトが独創性を目指そうとしたら、北極で北に歩こうとするようなものだっただろう。
第4章
最初の思考を抑圧する習慣を実例で示す。学生が「箱の中には何がある?」と聞かれて「古着」や「空っぽ」と答えるのは、最初に浮かんだ「死んだ叔父テッド」や「トイレットペーパー百個」を拒否したからである。学生に最初のアイデアを受け入れるよう教えると、彼らははるかに創造的に見えるようになる。手を伸ばして何をつかむか「考えない」でミムすることで、より面白いオブジェが生まれる。
第5章
「イエス」と言う人と「ノー」と言う人がいる。怖がる即興者のモットーは「疑わしいときは『ノー』と言え」である。しかし劇場では、人生で抑圧する行動を俳優が展開するのを見たい。優れた即興者は相手のオファーをすべて受け入れるため、テレパシーのように見える。オファー、ブロック、アクセプトのカテゴリーを確立することで、学生は場面を形成する力を理解し、特定の人と仕事をするのが難しい理由を把握できる。
第6章
様々なゲームを紹介する。「二つの場所」(バス停とリビングルームが同じ空間だと主張し合う)、「プレゼント」(贈り物を受け取る側がそれを面白く解釈する)、「ブラインド・オファー」(意図のないジェスチャーをお互いに受け入れ感謝する)、「イッツ・チューズデイ」(些細な発言に最大限の反応を示す)、「イエス・バット…」(受容とブロックを同時に行う)、「詩の即興」(韻を気にせず言葉の赴くままに進む)。これらのゲームは検閲を回避し、自発性を解放する。
第7章
自発性に関する読書は自発性を高めないが、少なくとも反対方向に進むのを止めるかもしれない。学生が経る段階は、想像力と闘っていることへの気づき、想像力の内容に責任がないことの理解、そして想像力こそが真の自己であることの認識である。
第三部 物語の技術
第1章
ジョンストンは当初、即興者が演じる場面の「含意」を意識させることを試みたが、それは学生をより抑制した。彼は「内容は無視すべき」と決定する。物語は夢と同じく解釈が難しく、何を「意味する」か考えるのではなく、経験すべきものである。即興者はルールに従い、現れる素材に対して責任を感じないことで、内なる自己を明らかにする。
第2章
物語の本質は「リインコーポレーション」にある。単なる出来事の連続ではなく、一度提示された要素が後で再び現れることで構造が完結する。ジョンストンは、Aが30秒間自由連想的に物語を語り、Bがそれを30秒間で接続するという練習法を開発する。これにより、物語の生成と接続を分離して学べる。作家が行き詰まった時は未来を探すのではなく、過去に棚上げした要素を振り返って再包含する。
第3章
様々な物語生成技法を紹介する。「リスト」(連想的リストと非連想的リストの違い)、「イメージ連想」(一方のイメージが他方のイメージを自動的に誘発する)、「キャラクター創作」(三人のグループで名前から始めて合意しながら人物像を構築)、「自動筆記」(空白の紙に「見えた」言葉を書き留める)、「夢の誘導」(リラックス状態でイメージを報告させる)、「エキスパート・インタビュー」(不可能な問題を即座に解決する専門家を演じる)、「バーバル・チェイス」(次々と変わる質問に即答する)、「ワード・アット・ア・タイム」(グループで一語ずつ物語を紡ぐ)。
第4章
物語は「日常の中断」として理解できる。ルーチンを記述し、それを中断することで自動的に物語が生成される。『赤ずきん』は「おばあちゃんにお菓子を届ける」というルーチンの中断である。問題はより面白いルーチンを見つけることではなく、ルーチンを中断することである。作家が才能を損なう方法の一つは「キャンセル」であり、導入した問題を後で解消してしまうことである。また、アクションを舞台上に留めず、別の場所や時間に移してしまうことも失敗のもとである。
第5章
最良の即興者は、あるレベルで自分の作品が何についてかを理解している。しかし学生には「内容は重要でなく、自然に現れる」と信じるよう仕向けなければ、彼らは前に進めない。最終的に彼らはコントロールを放棄しながら同時に行使する方法を学び、自分が何であるかについてのより真実の概念を得る。
第四部 仮面とトランス
第1章 ジョージ・ディヴァイン
ジョージ・ディヴァインは1958年に仮面クラスをライターズ・グループに提供する。仮面をつけて鏡を見ると「ヒキガエルの神」が現れ、笑いながら彼らを嘲笑う。ディヴァインは仮面が「憑依」されることを目指していた。ウィリアム・ガスキルとジョンストンはこの技法を発展させ、仮面をつけた時は常に「仮面状態」に入ろうとするよう条件づけた。チャップリンの放浪者は衣装とメイクから「生まれた」典型的な仮面の例である。
第2章 ロシア人
スタニスラフスキーも『俳優修業』で仮面状態を描写している。コスチャがメイクに失敗し、クレームで顔を塗りつぶしたところ、突然キャラクターが「発見」され、身体が意図せずに動き始める。ヴァフタンゴフも仮面を用い、学生に即興で行動するよう強制した。「考えるのではなく、行動しなければならない」という彼の教えは、俳優が自分をコントロールしているかのように感じる軽いトランス状態を生む。
第3章 仮面の破壊
仮面は珍しいものではなく、俳優が役に「憑依」されるのと同じ現象である。仮面は本来、人格を身体から追い出し、霊が憑依するための装置である。元来の文化では仮面は神託、裁判官、調停者として最も強力な力を持っていた。この文化が仮面に疎いのは、教会が異教的として弾圧し、またこの文化がトランス状態に敵対的だからである。
第4章 顔
私たちは顔に対して本能的な反応を持つ。仮面クラス後の学生は通りすがりの人々に「邪悪な」人や「無邪気な」人を見出すようになる。顔は年齢とともに「固定」され、筋肉が短縮するが、若い人でも「強そうに」「馬鹿そうに」「反抗的に」見えるという決定がすでに行われている。メイクだけで顔を変えても驚くべき効果が生まれ、チャップリンやジョン・ハワード・グリフィンの例がそれを示す。
第5章 トランス
多くの俳優が意識の分裂状態や健忘症を報告している。ファニー・ケンブルは泣きながら同時にドレスの汚れを計算していた。シビル・ソーンダイクは「自分の中に他の多くの人がいる」と語る。即興者が「良い場面はすぐに忘れる」と言うのも同じである。正常意識は他者との取引に関連しており、孤立したり拒絶されたりすると「人格崩壊」を経験する。危機的状況では身体が引き継ぎ、人格を脇に押しやる。
第6章 誘導
トランス状態に入る方法は、むしろ「どのようにして留まっているか」である。筋肉を緊張させ、姿勢を変え、ため息をつき、まばたきすることで正常意識を維持する。リラックスして静止すると容易に空想に流れる。瞑想者は静止をトランス誘導に用いる。高いステイタスの人物に支配を受け入れると、異常な状態に導かれやすい。ヴァーバリゼーションを妨害すること(反復的な詠唱、単語への集中)も効果的で、過呼吸を起こす「トランピング」も同様である。
第7章 憑依
憑依カルトでは、より適応した市民が憑依されやすい。狂人が催眠にかかりやすいというのは誤りで、正常な人が最も被暗示性が高いのは、それが最も正常だからである。憑依カルトと仮面ワークには多くの類似点がある。仮面の性格は着用者の性格とは異なり、仮面ワークで現れる「人格タイプ」は世界中で類似している。チャップリンの放浪者、ハーポ、スタン・ローレル、パパ・ゲーデは、人間の脳があるところにはどこにでも存在する。
第8章 仮面ワークの教授法
仮面ワークでは教師が高いステイタスを演じ、学生が仮面をつけて鏡を見るとき、口を仮面に合わせて「一つの顔」にするよう指示する。重要なのは学生が「仮面を操作する」のではなく「仮面に操られる」体験をすることである。新しい仮面は世界について何も知らない赤ん坊のようであり、座り方や物の持ち方を学ばねばならない。最も優れた仮面は最初に最も知識が少ない。仮面が話せるようになるには「スピーチ・レッスン」が必要で、長い単語は困惑を生む。仮面ワークの学生は色が鮮やかに見え、音が増幅され、子ども時代の発見感覚を体験すると報告する。
第9章 ウエイフ
ジョンストンが塑像用粘土で作った仮面「ウエイフ」は、イングリッドによって「迷子の子ども」キャラクターとして演じられる。彼女は物を「他の誰かのもの」として扱い、ブラシを赤ん坊のように抱き、テディベアに強い愛着を示す。仮面ワークはイングリッドの即興能力を飛躍的に向上させ、普段は避けている感情を経験することを可能にした。仮面を外した後も解放感が残るが、仮面なしでは同じことはできなかったと彼女は語る。
第10章 死刑執行人、「鼻」と「男たち」
死刑執行人の仮面は、両方の歯列を見せるしかめ面を保つことで、身体に残忍な感情を解放する。「鼻」は長い尖った赤い鼻とふわふわしたかつらを着け、高いピッチのギブリッシュを話し、マニアクな幸福を示す。「男たち」は商業用プラスチック仮面で、つなぎと柔らかい帽子を着用し、ギブリッシュから言語へと移行する。
第11章 プレ仮面エクササイズ
「顔の仮面」(表情を固定して演技する)、「心の配置」(意識を身体の別の部分に置くチェーホフの技法)、「衣装」(衣装が実際の身体表面だと想像する)、「動物」(動物を演じてから徐々に人間化する)、「身体を預ける」(リラックスして他者に動かされる)など、仮面ワークへの導入となるエクササイズを紹介する。
第12章 テクスト
仮面は台本のある演劇には適合しにくい。仮面に台本を強制するとスイッチが切れ、俳優が仮面を「演じる」だけになる。ジョンストンの解決法は、鏡を使いながら一行ずつ台詞を仮面に「与える」ことである。「これは初めてのことだ」と自分に言い聞かせるトリックを学べば、仮面は繰り返し演技できるようになる。『The Last Bird』の制作では、仮面をつけた俳優が鎌の先に見入って動けなくなり、死を演じる死神が「殺せない」と後退するという出来事が起きた。
第13章 悲劇的仮面
全面仮面(悲劇的仮面)は、表情が観客に伝わらないため着用者を安全に感じさせ、より深い感情を解放する。ガルボの顔は動かないのに感情が伝わるのは、身体全体が情報を発信しているからである。悲劇的仮面では完全な静止が最も強力であり、些細な動きは力を失わせる。ジョージ・ディヴァインは、半面仮面が最初の瞬間に存在できるのに対し、全面仮面は長い訓練が必要だと述べた。写真仮面(雑誌から切り取った顔写真をプラスチックに貼ったもの)は、照明が組み込まれたように見え、非常に強力な効果を生む。
第14章 危険性
仮面ワークへの恐怖は、トランス一般への敵意の表れである。暴力、発狂、仮面を外さないことへの恐れがあるが、適切な指導のもとでは危険はほとんどない。仮面が暴力を振るうのは、文化がそれを許容する場合のみである。教師が秘密裏に恐れていれば、学生も仮面ワークを避けるようになる。真の危険は、教師がコントロールを失い、学生が保護されないと感じることにある。適切な段階を踏めば、仮面ワークは自己探求と創造性回復の貴重な手段となる。
付録
ウエイフに関するイングリッドの追加ノート。孤児院で育ち、マッチで遊んで全焼させたという過去の空想。青い風船への愛着、テディベアを奪われた時の本当の涙と恐怖。キャンディーを好み、歯がないように振る舞い、「cor」という音を発する。言葉を学ぶ過程と、韻文を自分流にアレンジする様子。三つの夢:ゴムの卵を食べる家族、教師から与えられた偽物の宝物、開けてはならない箱の中の大蛇が実は幻で、本当の宝物が底にあったという夢。
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