
英語タイトル:『Freedom from the Known』J. Krishnamurti, 1969
日本語タイトル:『既知からの自由』J・クリシュナムルティ、1969年
目次
- 第1章 権威と伝統からの解放 / Freedom from Authority and Tradition
- 第2章 自己理解の始まり / Beginning of Self-Understanding
- 第3章 意識の全体性 / The Totality of Consciousness
- 第4章 快楽と喜び / Pleasure and Joy
- 第5章 恐怖の構造 / The Structure of Fear
- 第6章 暴力を超えて / Beyond Violence
- 第7章 関係性における秩序 / Order in Relationship
- 第8章 真の自由と孤独 / True Freedom and Aloneness
- 第9章 時間と死 / Time and Death
- 第10章 愛の本質 / The Nature of Love
- 第11章 美と愛の空間 / Space of Beauty and Love
- 第12章 観察者と観察されるもの / The Observer and the Observed
- 第13章 思考の起源 / The Origin of Thought
- 第14章 沈黙への道 / The Way to Silence
- 第15章 瞑想の真実 / The Truth of Meditation
- 第16章 宗教的心と全体的革命 / The Religious Mind and Total Revolution
本書の概要
短い解説
本書は、人間の心理的な苦しみと対立の根源を探り、既知の枠組みから完全に自由になることで真の変容が可能であることを示す。著者は読者に対し、いかなる権威や体系にも頼らず、自分自身を直接観察することを促す。
著者について
クリシュナムルティ(1895-1986)は、インド生まれの哲学者・精神教師である。若くして世界教師として祭り上げられたが、1929年にその地位を放棄し、以後60年近くにわたり、いかなる組織にも属さず世界中で講話を続けた。本書は1969年に出版され、彼の核心的な洞察を体系的に示している。
テーマ解説
- 主要テーマ:自己認識による心理的革命 – 外的な変革ではなく、自己の全体的理解を通じた内面の根本的変容を探求する
- 新規性:観察者と観察されるものの同一性 – 二元性を超えた認識のあり方を提示し、主客分離が対立の源泉であることを明らかにする
- 興味深い知見:思考が恐怖と快楽を生む構造 – 思考が過去と未来を創造し、それが心理的時間として恐怖と快楽の連鎖を生み出すメカニズムを解明する
キーワード解説
- 既知からの自由:過去の記憶、経験、知識、条件付けから完全に解放された心の状態。この自由においてのみ、真に新しいものが生まれる
- 観察者は観察されるものである:自己を観察する主体と観察される客体が分離していないという洞察。この理解において対立は終わる
- 瞑想:いかなる体系や方法にも依らない、心の全体的な気づきの状態。思考がその構造を理解し、自然に静まるとき、真の瞑想が起こる
3分要約
人類は数千年にわたり真理や神を探求してきたが、権威や信仰に頼ることで暴力と対立を生み出してきた。伝統的アプローチは周縁から中心へ、時間をかけて段階的に進むものだが、これでは心を鈍く不感にするだけである。真の変容は中心から爆発的に起こらねばならない。そのためには、あらゆる精神的権威、儀式、ドグマを完全に拒否し、自分自身を直接見る必要がある。
自己を理解することが知恵の始まりである。しかし、自己を理解するには、他者や本が語ることに従うのではなく、関係性の中で実際にあるがままの自分を観察せねばならない。学ぶことと知識を蓄積することは異なる。知識は常に過去のものであり、過去に囚われた心は悲しみの心である。学ぶことは現在の動きであり、過去を持たない。私たちは比較することで自分を知ろうとするが、比較そのものが幻想を生む。「私は浅い」と知るのは、他者との比較を通じてであるが、比較なしに自分の浅さを知ることはできるだろうか。
人間の意識は、日常の思考・感情・活動という表層と、いわゆる潜在意識という深層に分割されているとされる。しかし、この分割自体が対立を生む。意識の全体を一度に見ることができるとき、そこには摩擦がない。私たちは断片的に生きている。職場と家庭で別人であり、民主主義を語りながら心は独裁的である。この断片化が葛藤を生む。観察者と観察されるものの間に時間的空間があるとき、そこに恐怖が生じる。
快楽は社会の構造そのものである。私たちは幼少期から死まで、密かに、ずる賢く、あるいは露骨に快楽を追求している。しかし快楽を追求する者は必然的に苦痛、欲求不満、悲しみ、恐怖を招き、恐怖から暴力が生まれる。快楽そのものを否定するのではなく、その全構造を理解する必要がある。美しいものを見たとき、知覚、感覚、接触、欲望の四段階がある。この瞬間、観察者は不在であり、ただ純粋な美と愛がある。しかし思考が介入し、「もう一度それを経験したい」と言う。思考はその喜びを反芻し、快楽に変え、継続性を与える。思考が快楽を生み出し維持するのである。
恐怖も同様に思考の産物である。今この瞬間、私は恐れていない。しかし心の深層は、過去に起きたことが再び起こるかもしれない、あるいは未来に何か危険なことが起こるかもしれないと考える。思考が時間を過去と未来に分割し、確実なものから不確実なものへの動きを恐怖と呼ぶ。恐怖を観察するとき、言葉を介さず、結論なしに、ただ完全に静かに見ることができるだろうか。その完全な注意において、観察者と観察されるものの区別が消え、恐怖は終わる。
暴力は単に殺すことではない。鋭い言葉を使うとき、人を払いのけるとき、恐怖から従うとき、それは暴力である。インド人、ムスリム、キリスト教徒、ヨーロッパ人と自分を呼ぶとき、それは暴力である。なぜなら、人類の残りから自分を分離しているからである。暴力を終わらせようとする者は、いかなる国、宗教、政党にも属さない。彼は人類全体の理解に関心を持つ。暴力から自由になりたいなら、理想を持ってはならない。理想は抽象であり、実際のものではない。実際のものは「あるがまま」であり、それに全注意を向けることが必要である。
私たちの関係はすべてイメージに基づいている。妻は夫についてイメージを持ち、夫も妻についてイメージを持つ。これらのイメージが関係を持つのであり、人間そのものではない。イメージは防衛機構であり、空間を創り出す。この空間が対立である。イメージなしに見ることができるだろうか。イメージなしに見るとき、そこには愛がある。愛があるとき、あなたは美そのものである。
真の自由は何かから自由になることではない。嫉妬から自由になることは反応であり、それ自体が別のパターンに囚われる。自由それ自体がまったく異なるものである。自由は見ることの中にある。見ることは行為であり、自由は行為の始まりにあるのであって、終わりにあるのではない。完全に独りであること、心理的にいかなるものにも依存しないこと、それが自由である。独りであることは孤立ではない。心が過去のすべてに死ぬとき、独りである。そのとき心は無垢であり、若く、生き生きとしている。
時間は欺瞞である。変化は時間によってもたらされると考えるが、時間は心理的な問題を何も解決しない。時間は観念と行為の間の間隔である。観念は自己防衛のためのものであり、行為は常に現在である。しかし行為は危険で不確実なので、私たちは安全を与えてくれると望む観念に従う。この間隔が時間であり、この時間が悲しみである。死を恐れるのは、死という言葉、イメージが恐怖を生むからである。実際に終わることを恐れているのか、それとも死というイメージを恐れているのか。毎瞬間に過去に死ぬとき、そこには新しさがある。
愛とは何か。私たちが愛と呼ぶものは、所有、嫉妬、依存である。妻が自分を満足させてくれる限り愛し、そうでなくなれば憎む。これは愛ではない。愛は思考の産物ではない。思考は古いものであり、愛は常に現在である。愛は比較を知らない。誰かを全身全霊で愛するとき、そこに他者は存在しない。愛には責任も義務もない。義務から何かをするとき、そこに愛はない。愛は恐怖なしに、したがって依存なしに存在する。愛は自己の完全な放棄であり、そのような心のみが無垢である。
瞑想はいかなる体系にも従うことではない。マントラを繰り返すことで心を静かにしても、それは催眠である。集中は排除であり、注意は排除しない。瞑想は、思考と感情のあらゆる動きに気づくことである。それを正しいとも間違っているとも言わず、ただ観察し、それとともに動く。その観察から沈黙が生まれる。思考によって構成された沈黙は死んでいるが、思考がその始まりと本性を理解したとき生まれる沈黙は、瞑想者が完全に不在である瞑想である。
私たちに必要なのは、社会の構造とは何の関係もない全体的革命である。古い脳は問題を解決できない。脳細胞そのものに突然変異をもたらすことは可能か。摩擦のないエネルギー、限界のないエネルギーが必要である。観察者と観察されるものの間に時間的間隔があるとき、摩擦が生じエネルギーが浪費される。観察者が観察されるものであるとき、時間的間隔はなく、エネルギーは最高点に達する。完全な否定においてのみ、愛という名の何かが存在する。あなたがそれを知っているとき、それは知られていない。それは求めることも、招くこともできない。しかし窓を開けておくことはできる。完全に否定するとき、すなわち情熱の最高の形態において、愛が生まれる。
各章の要約
第1章 権威と伝統からの解放
人間は何千年もの間、真理や神や永遠なるものを探求してきた。しかし伝統的アプローチは周縁から中心へ、時間をかけて徐々に進むものであり、これは心を鈍く不感にする。中心から爆発的に変容することが必要である。そのためには、教会、社会、親や友人が押し付ける精神的権威、儀式、ドグマをすべて拒否せねばならない。自分自身を理解することが知恵の始まりである。「未熟さは自己についての完全な無知の中にのみ存在する。」個人は局所的存在だが、人間存在はどこにでも存在する。私たちは人類全体の歴史であり、全人類の倉庫である。
第2章 自己理解の始まり
自己を理解するには、他者の教えではなく、関係性の中で実際の自分を観察する必要がある。学ぶことと知識の蓄積は異なる。知識は過去であり、学ぶことは現在の動きである。自分を研究するとき、分析は答えではない。段階的に自己を理解しようとすれば、時間を認めることになり、歪みを招く。全体性において、即座に、時間なしに自分を見ねばならない。条件付けに気づくことが重要である。条件付けの原因を発見しても、知的な発見だけでは自由にならない。全体像を見ることが必要であり、見ることが行為である。
第3章 意識の全体性
意識は思考が機能し関係が存在する全領域である。表層の意識と潜在意識に分割されているとされるが、この分割自体が対立を生む。意識全体を断片としてではなく、全体として見ることが可能だろうか。比較によって自己を知ろうとするが、比較は幻想を生む。比較なしに見るとき、あなたは比較を超えている。注意と集中は異なる。集中は排除であり、全体的な気づきである注意は何も排除しない。観察者と観察されるものの間に時間的空間があるとき、恐怖がある。その空間が消えるとき、対立は終わる。
第4章 快楽と喜び
私たちは皆、何らかの形で快楽を追求している。快楽こそが社会の構造である。快楽を追求する心は、必然的に苦痛、欲求不満、悲しみ、恐怖を招く。快楽を否定するのではなく、その構造全体を理解する必要がある。知覚、感覚、接触、欲望という四段階がある。美しいものを見たとき、その瞬間は観察者がおらず純粋な美がある。しかし思考が介入し、「もう一度それを経験したい」と言う。思考はその経験を反芻し、快楽に変える。思考が快楽を生み出し、維持し、継続性を与える。記憶には一定の場所があるが、心理的には快楽と苦痛の記憶を反芻することで恐怖を生む。
第5章 恐怖の構造
生きることの基本的な関心は何か。正直に答えれば、それは「私」である。多くの人は自己に関心を持つことは間違っていると考えるが、それは無関係である。事実は自己が基本的関心事であるということだ。恐怖は人生の最大の問題の一つである。恐怖に囚われた心は混乱し対立の中にあり、したがって暴力的で歪み鈍くなる。恐怖は抽象の中にはなく、常に何かとの関係の中にある。今この瞬間、私は恐れていない。恐怖は、思考が過去の記憶から未来を投影するときに生じる。確実なものから不確実なものへの動きが恐怖である。恐怖を克服しようとすれば摩擦が生じエネルギーを浪費する。恐怖を完全に見るとき、そこには観察者と観察されるものの区別がなく、恐怖は完全に終わる。
第6章 暴力を超えて
恐怖、快楽、悲しみ、思考、暴力はすべて相互に関連している。暴力とは、単に誰かを殺すことではない。鋭い言葉を使うとき、人を払いのけるとき、恐怖から従うとき、それは暴力である。自分をインド人やムスリムやキリスト教徒と呼ぶとき、それは暴力である。なぜなら人類の残りから自分を分離しているからである。暴力から自由になりたいなら、自分の中の暴力を見なければならない。非暴力という理想を持つことは逃避である。理想は常に古く、実際のものではない。「あるがまま」に全注意を向けることが必要である。問題に完全な注意を向けるとき、その注意がエネルギーであり、そのエネルギーが問題を解決する。家が燃えているとき、誰が水を持ってくるかの髪の色について議論するだろうか。
第7章 関係性における秩序
関係はイメージ形成のメカニズムに基づいている。妻は夫についてイメージを持ち、夫も妻についてイメージを持つ。これらのイメージが関係を持つのであり、人間そのものではない。イメージは抽象であり、抽象の中で生きることはできない。しかし私たちはまさにそれをしている。すべての関係において、財産、観念、人々との関係において、私たちはイメージに基づいて生きており、それが対立を生む。内面に完全な秩序をもたらすことは可能か。いかなる強制も模倣も抑圧も昇華もない秩序を。意識のあらゆる場所に対立がある。人間は対立を生得的なものとして受け入れてきたが、社会の構造を受け入れることは尊敬される生き方のパターンの中に生きることである。
第8章 真の自由と孤独
自由とは何かからの自由ではない。嫉妬から自由になることは反応であり、それ自体が別のパターンを生む。自由それ自体は全く異なるものである。自由は反抗を通じては来ない。危険を見るとき、その危険自体が行為を強いる。見ることが行為であり、したがって自由である。自由は心の状態であり、完全に独りであることを意味する。しかし心は依存、奴隷状態、服従、受容に満ちた文化の中で育てられてきた。この独りであることは孤立とは異なる。独りであるためには過去に死ななければならない。昨日のすべてに死ぬとき、心は完全に空であり、その空虚においてのみ新しいものがある。「自由は完全な無であり、自由はまた炎である。」
第9章 時間と死
人間は何百万年もの間生きてきたが、なぜ愛を知らないのか。愛は時間を超えている。時間は欺瞞である。心理的な時間は思考によって創られる。思考は記憶、経験、知識の反応である。思考が快楽の瞬間を反芻し、未来へ投影する。過去と未来の間の間隔が時間である。死とは終わることである。昨日や千年前の記憶が残り、それがあなたである。その記憶に、「私は死ぬ」と思考が言う。思考が死の恐怖を生む。生きることが毎日の苦痛であるとき、私たちはそれに慣れ、死を避けようとする。しかし生きることと死ぬことを分離したとき、恐怖が生まれる。毎瞬間に過去に死ぬこと、それが真の生である。死は浄化であり若返りである。
第10章 愛の本質
愛という言葉は腐敗し汚染されている。私たちは神を愛し、国を愛し、妻を愛すと言う。しかし愛は観念だろうか。観念なら、それは培養され操作できる。私たちが愛と呼ぶものは実際には相互の満足であり搾取である。性的愛着、所有、支配、責任、義務は愛ではない。妻が自分を満足させてくれる限り愛し、そうでなくなれば嫉妬し憎む。これは愛ではない。愛は思考の産物ではない。思考は常に古く、愛は常に現在である。誰かを全身全霊で愛するとき、そこに比較はない。そこに他者は存在しない。愛には恐怖がない。恐怖がないところに依存はない。「自己の完全な放棄があるときのみ愛がある。」
第11章 美と愛の空間
木や星を見るとき、見ている者と見られているものがある。中心は自分の周りに空間を創り、それが人と人の間の空間になる。しかし直接接触して見るとき、観察者なしに見るとき、そこには美がある。私たちは過去の知識、イメージを通して見る。しかし木を本当に見るには、言葉なしに見なければならない。直接接触があるとき、イメージはない。イメージがあるとき愛はない。心が完全に沈黙しているとき、観察者も観察されるものもなく、ただ美がある。関係において空間があるとき、そこに愛はない。なぜなら愛は美であるからだ。空間があるとき対立があり、対立があるとき愛はない。独りであることの空間において、美も愛も観察者の不在において花開く。
第12章 観察者と観察されるもの
イメージを持つとき、そのイメージを観察する者がいる。私は多くのイメージを創り出すが、それらを観察する者もまた一つのイメージである。観察者は過去であり、観察されるものは現在である。したがって観察者と観察されるものの間には時間的間隔があり、これが対立を生む。気づきは、観察者がまた観察されるものであることを明らかにする。より高い自己が気づくのではなく、気づきそのものが明らかにする。観察者が観察されるものであると理解するとき、観察者は何もしない。彼は常に、イメージに対して好き嫌いで反応し行動してきた。しかし観察者が観察されるものであるとき、好き嫌いはなく対立は終わる。そのとき気づきは途方もなく生き生きとし、その強烈さから異なる質の注意が生まれる。
第13章 思考の起源
思考はなぜ私たちの生活においてこれほど重要になったのか。思考は観念であり、脳細胞に蓄積された記憶の反応である。思考は昨日の快楽に継続性を与え、痛みを避けようとする。思考はいつも対立の中にある。快楽と苦痛の両方を望む矛盾した活動である。観念が行為より重要になった。しかし観念は常に過去であり、行為は現在である。思考の始まりを見ることができるか。それは記憶の始まりである。記憶がなければ思考はない。思考は物質である。エネルギーがパターンの中で機能するとき物質になる。思考が創った構造を通じて、思考は決して新しい事実を見ることができない。思考は非常に狡猾であり、あらゆるトリックを演じることができるため、依存できない。しかし思考の全構造を理解するとき、心は欺かれない。
第14章 沈黙への道
私たちは決して独りではない。記憶、条件付け、昨日のつぶやきに満ちている。完全に独りであることは、それらすべてを放棄することである。そのような孤独において、心は無垢であり若い。心理的安全はどこにもないことを発見することが、全く異なる生へのアプローチを与える。規律とは学ぶことである。学ぶこと自体が明晰さをもたらし、それが規律である。権威を否定するには、なぜ自分が従うのかを研究せねばならない。その研究において、権威の全構造を否定する。否定が肯定的な行為である。思考を止めることで静寂は来ない。静寂は、思考がその始まりを理解し自然に終わるときに来る。その静寂は観察者も観察されるものもない静寂であり、それが宗教的心の最高の形態である。その静寂の中で起こることは言葉にできない。
第15章 瞑想の真実
経験への渇望が私たちを浅くする。新しい経験を認識するためには、それを知っていなければならない。したがって認識した瞬間、それは既に古い。意識を拡大しようとすることも、意識の領域内であり限定されている。経験を求める心は浅く鈍い。挑戦なしに目覚めていることは可能か。瞑想は体系に従うことではない。マントラを繰り返せば心は静かになるが、それは催眠である。瞑想は集中ではない。瞑想は思考と感情のあらゆる動きに気づくことである。それを非難も正当化もせず観察する。その観察から静寂が生まれる。思考によって組み立てられた静寂は死んでいるが、思考がその本性を理解したときに来る静寂において、瞑想者は完全に不在である。
第16章 宗教的心と全体的革命
必要なのは、社会の構造とは何の関係もない全体的革命である。この世界に生きながら、思考と感情と行為の全領域に革命をもたらすことは可能か。人間は何百万年もの間暴力的であり、私たちがそれを変えることができると考えることは傲慢である。しかし一人ひとりが非暴力的であるなら、それは世界に影響を与える。小さな火が炎となる。宗教的心は信仰する心とは全く異なる。宗教的心には恐怖がなく、したがっていかなる信念もない。その静寂の中にエネルギーがあり、そこには対立がない。なぜ人間は常にエネルギーに摩擦をもたらすのか。観察者と観察されるものの間に時間的間隔があるとき摩擦が生じる。その間隔がないとき、エネルギーは最高点に達する。真理や実在を招くことはできない。「招くためには、それを知らなければならないが、それを知ることはできない。」しかし窓を開けておくことはできる。完全な否定において、愛が生まれる。
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