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Consciousness and Fundamental Reality
心の哲学 シリーズ編集者 デビッド・J・チャルマーズ(ニューヨーク大学
エマのために
目次
- 謝辞
- 1. 意識の現実
- 1.1 大局観
- 1.1.1 意識のデータ
- 1.1.2 科学と形而上学
- 1.1.3 物理学の哲学的基礎
- 1.2 物理主義とラッセル的単一論
- 1.2.1 物理主義
- 1.2.2 ラッセル的単一論
- 第1部 物理主義に反対して
- 2. 物理主義とは何か?
- 2.1 物理性の本質
- 2.1.1 物理的性質のアプリオリな定義とアポステリオリな定義
- 2.1.2 ヘンペルのジレンマとそれに対する物理学に基づく反論
- 2.1.3 純粋な物理主義
- 2.1.4 自然主義と価値を伴う因果説明
- 2.1.5 事後的な物理性の定義に反対して
- 2.1.6 物理性と物質性の定義
- 2.2 根本性の本質
- 2.2.1 構成的な根拠付けとフリーランチの制約
- 2.2.2 分析による根拠付け
- 2.2.3 物理実在論の根拠
- 2.2.4 根本性に関する根拠の代替案
- 2.2.4.1 心の哲学における根本性に関する根拠
- 2.2.4.2 形而上学における根本性に関する根拠
- 3. 知識論的証明
- 3.1 白黒メアリー
- 3.2 知識論的証明への応答
- 3.2.1 妥協のない応答
- 3.2.2命題ではない知識への応答
- 3.2.3 新しい真理/古い性質への応答
- 3.3 透明性と不透明性:物語の教訓
- 4. 想像可能性の証明
- 4.1 想像可能性の論拠
- 4.1.1 幽霊とゾンビ
- 4.1.2 想像可能性の明確化
- 4.2 タイプAとタイプBの物理実在論
- 4.3 想像可能性から可能性への移行
- 4.3.1 二次元の想像可能性の原則
- 4.3.2 二次元の想像可能性原理に反対して
- 4.3.3 透明性の想像可能性原理
- 5. 啓示と透明性の論拠
- 5.1 啓示と透明性
- 5.2 啓示の事例
- 5.3 物理主義は超正当化を説明できるか?
- 5.4 完全な啓示と部分的な啓示
- 5.5 想像可能性の議論と透明性の議論
- 5.6 二元的な彫刻の反論
- パート II ラッセル的単一論:代替案
- 6. エレガントな解決策
- 6.1 不純な物理主義とラッセル的単一論
- 6.1.1 厳格性の問題
- 6.1.2 因果構造主義に対する反対意見
- 6.1.3 不純物理主義の紹介
- 6.1.4 ラッセル的一元論の紹介
- 6.1.5 ラッセル的一元論と物理主義の区別
- 6.1.6 物理主義に対する透明性論証
- 6.2 さまざまなラッセル的一元論
- 6.2.1 ラッセル的一元論の構成論的および創発論的形態
- 6.2.2 因果的排除問題
- 6.2.3 汎質論
- 6.2.4 有望な見解
- 7. 汎心論対汎原心理論と主観総和問題
- 7.1 現象学主義の脅威
- 7.2 汎心論の単純性に関する議論
- 7.3 主観の総和問題
- 7.3.1 ジェームズの反主観総和論
- 7.3.2 主観総和の想定可能性に関する反論
- 7.3.2.1 反主観的総和説の論拠
- 7.3.2.2 融合説と反主観的総和説の論拠
- 7.3.2.3 無知の反論
- 7.3.2.4 意識+の反論
- 7.3.2.5 空間的関係の反論
- 7.3.2.6 ギャップは永遠に存在する
- 7.3.3 コールマンの反主題総和論
- 8. トップダウン的組み合わせの問題
- 8.1 パレットの問題
- 8.1.1 強いパレットの問題
- 8.1.2 穏やかなパレットの問題
- 8.2 構造的不一致の問題
- 8.3 主題の還元不可能性の問題
- 9. 意識のある宇宙
- 9.1 包摂による接地
- 9.1.1 経験の包摂による接地
- 9.1.2 色相、彩度、明度の包摂による接地
- 9.1.3 状態の性質の包摂による接地
- 9.1.4 空間の領域を空間の全体に包摂することによる接地
- 9.1.5 「側面」とは何か?
- 9.1.6 分析なしのフリーランチ
- 9.2 主題の包摂と分解問題
- 9.3 構成的なコスモサイキズム
- 9.3.1 コスモサイキズムは粗野な法を必要とするか?
- 9.3.2 啓示の論拠
- 9.3.3 宇宙との思考の共有
- 9.4 創発か構成か?
- 9.5 疑わしげな視線
- 10. 分析的現象学:形而上学的宣言
- 10.1 現代形而上学の現状
- 10.2 形而上学の進むべき道
- 10.3 現在主義の現象学的論拠
- 10.4 分析現象学
- 参考文献 — 索引
各章の短い要約
第1章:意識の実在性(The Reality of Consciousness)
本書は意識の問題、特に物理的世界と意識的マインドがいかに統合されるかを探求する。著者は、現象的意識の存在は、あらゆる理論が適切に説明すべき確固たる事実であると主張する。科学革命以降、物理学は世界の因果構造を数学的に記述することに成功したが、それは現実の完全な記述ではない。物理主義とラッセル的一元論という二つの見解を提示し、前半で物理主義を批判し、後半でラッセル的一元論を探求する。意識の非還元性を認めながらも世界の統一的な見方を構築することが目標である。
第2章:物理主義とは何か(What Is Physicalism?)
物理主義の定義について探求する章。物理主義とは基本的な現実が完全に物理的であるという見解だが、「物理的」とは何か、また「基本的」とは何かを明確にする必要がある。物理的なものの定義には先験的定義と後験的定義があり、著者は先験的定義を支持する。「純粋物理主義」は基本的現実が物理学の数学的・法則的語彙で完全に把握できるという見解。さらに基本性の概念を「根拠づけ」として理解し、「分析による根拠づけ」を詳しく説明する。これにより物理主義を「すべての実質的事実は、狭い意味で物理的な事実か、または自律的な事実によって構成的に根拠づけられている」と定義する。
第3章:知識論証(The Knowledge Argument)
フランク・ジャクソンの「メアリーの部屋」の思考実験を用いた知識論証を検討する。白黒の部屋で育ち、色視覚に関する物理科学をすべて知っているメアリーが、初めて赤を見たとき新しい知識を得るという事例。この論証は物理的事実と経験的事実の間に認識論的ギャップがあることを示すが、このギャップが形而上学的ギャップを意味するかは別問題である。著者は「新しい真理/古い性質」という応答を検討し、この認識論的ギャップは物理主義を直接反駁するのではなく、現象的概念の透明性の問題に依存していると論じる。現象的概念が透明でなければ、知識論証は物理主義に対する脅威とはならない。
第4章:想像可能性論証(The Conceivability Argument)
デイヴィッド・チャーマーズによる想像可能性論証を検討する。「ゾンビ」(物理的には人間と同一だが意識を欠く存在)が想像可能であるなら、物理的事実は意識を必然化しないため物理主義は偽だという論証。著者はチャーマーズの二次元的意味論の枠組みを批判し、代わりに透明性想像可能性原理(TCP)を提案する。透明な概念で考えられる命題が想像可能であるなら、それは可能であるという原理。この原理は物理主義への反論となりうるが、現象的概念が透明であるという前提に依存している。著者は、物理主義者が現象的概念の不透明性を主張することで反論できる可能性を認めつつ、次章で現象的透明性を擁護する。
第5章:啓示と透明性論証(Revelation and the Transparency Argument)
啓示(Revelation)の概念を提示する。意識状態に注意を向けるとき、その状態の完全な本性が現れ、その状態が確実に存在することが分かるという考え。著者はこれが内省的知識の超正当化(非常に高い確実性)を説明する最善の理論であると論じる。啓示の真理から、現象的概念は透明であるという論証を展開し、これが物理主義への強力な反論となる。もし現象的概念が透明で、かつ意識状態が物理状態ならば、現象的概念は対象が物理状態であることを明らかにするはずだが、そうではない。物理主義者が採用しうる「二重彫り」(同じ性質の本質を捉える概念的に異なる二つの方法)という見解の問題点も指摘する。
第6章:エレガントな解決策(The Elegant Solution)
純粋物理主義の問題点として、物理的説明が因果構造のみを記述し、物質の内在的本性を捉えていないことを指摘する。これを「質素さの問題」と呼ぶ。この問題を回避するために不純物理主義(物質に物理学で捉えられない深い本性があるとする見解)とラッセル的一元論を導入する。ラッセル的一元論は物質の深い本性が意識を説明するという見解で、汎心論的と原-現象的なバージョンがある。これらはさらに構成的と創発的なバージョンに分けられる。構成的ラッセル的一元論は「因果排除問題」を解決できる点で優れている。しかし全体として七つの主要な形態があり、どれも意識のための場所を見つける可能性を提供する。
第7章:汎心論 対 原-汎心論と主体-総和問題(Panpsychism versus Panprotopsychism and the Subject-Summing Problem)
汎心論と原-汎心論の比較、および「結合問題」の検討。原-汎心論は「物自体主義」(人間が現実の深い本性を理解できないという見解)に陥る恐れがある一方、汎心論は単純性の観点から優れている。しかし汎心論は「主体-総和問題」に直面する:多くの「小さな」意識主体がどのように「大きな」意識主体を形成するのかという問題。著者はこの問題への様々なアプローチを検討し、空間関係の深い本性に関する我々の無知が問題を説明する可能性を示唆する。意識を持つミクロ主体が物理学が説明しない特別な空間関係で結びついて新しい主体を生み出す可能性があり、これは汎心論にとって解決不可能な問題ではないと論じる。
第8章:トップダウン結合問題(Top–Down Combination Problems)
ラッセル的一元論が直面する「トップダウン結合問題」を検討する章。「パレット問題」:比較的少数の基本的性質から意識の豊かな多様性がいかに生じるか。「構造的不一致問題」:脳と意識の構造が異なるように見える問題。「主体不可還元性問題」:意識主体の存在を、その主体を含まない事実に分析できないという問題。特に最後の問題が構成的ラッセル的一元論にとって致命的だと指摘する。意識主体が還元不可能であるなら、それはミクロレベルの事実によって分析的に根拠づけられないため、構成的ラッセル的一元論は不可能に見える。これは新しい形の構成的根拠づけが必要であることを示唆している。
第9章:意識ある宇宙(A Conscious Universe)
「包摂による根拠づけ」という新しい形の構成的根拠づけを提案する。これはX(全体)がYの側面であるという関係によってYを根拠づける方法。この考えを用いて「構成的宇宙心理主義」を発展させる:宇宙は根本的に統一された意識主体であり、人間や動物の意識主体はその側面である。これにより主体不可還元性問題を解決できる可能性がある。さらに「法則的一般性」(すべての因果的に説明可能な出来事は、生物と無生物の両方を支配する一般法則によって説明できる)と「力実在論」(法則は根本的実体の因果的力に根拠づけられている)から、基本的現実は微視的レベルか宇宙レベルのいずれかにあるという論証を展開する。意識主体の還元不可能性を考慮すると、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる。
第10章:分析的現象学:形而上学的宣言(Analytic Phenomenology: A Metaphysical Manifesto)
現代形而上学の状況を評価し、新しい方法論を提案する章。形而上学が進展していないという懸念に対し、科学と哲学の歴史的関係を検討する。デイヴィッド・ルイスの方法(常識から始め理論的美徳に訴える)では合意に達しないことを指摘し、意識という確固たるデータを活用する「分析的現象学」を提案する。この方法は(1)物質世界の因果構造に関する成熟した物理科学の知見と(2)各人が意識の本性に持つ直接的一人称アクセスという二つの異なるデータ源を真剣に受け止める。この方法論の例として現在主義(現在のみが存在する)への現象学的論証を提示する。著者は「ガリレオ後の形而上学」はまだ始まったばかりであり、この方法による合意の可能性に期待を表明している。
ビギナー向け解説(高校生・大学生レベル)
「意識とは何か」という問いは、人類が長い間考えてきた最も深い謎の一つである。私たちは自分自身の意識を一人称視点から直接体験しているが、他者の意識は間接的にしか知ることができない。さらに、科学が進歩した現代においても、なぜ物質から意識が生じるのか、あるいはそもそも物質と意識がどう関係しているのかという問題は未解決のままである。
フィリップ・ゴフの著書「Consciousness and Fundamental Reality(意識と根本的現実)」は、この難問に正面から取り組んでいる。彼の議論を順を追って見ていこう。
まず、私たちの常識的な世界観から始めてみよう。現代社会では多くの人が「物理主義」と呼ばれる考え方を暗黙のうちに受け入れている。物理主義とは、世界のすべてが究極的には物理学で説明できる物質でできているという見方である。この見方によれば、私たちの意識も脳の物理的活動から生じるものであり、脳科学が進歩すれば、いつか完全に説明できるようになるはずだということになる。
しかし、ゴフは「意識」という現象がこの物理主義的な説明に収まりきらないと考えている。なぜだろうか?
想像してみてほしい。あなたが赤いリンゴを見ているとき、脳内では特定のニューロンが特定のパターンで発火している。科学者はこの発火パターンを詳細に調べることができる。しかし、あなたが実際に体験している「赤さの感覚」、つまり「赤を見るとはどのような感じか」という体験自体は、第三者が客観的に観察できるものではない。これが「現象的意識」と呼ばれるものである。
ゴフは「意識制約」という原則を提案している。これは「現象的意識の存在は疑いようのない事実であり、どんな適切な現実理論もこれを認めなければならない」という考えである。私は自分の頭が痛いという感覚を直接知っている。そして、この感覚の存在は外部世界の存在よりも確実だと言えるだろう。外部世界は私の錯覚かもしれないが、痛みの感覚自体は確かに存在している。
では、物理主義はなぜ意識を説明するのが難しいのだろうか?
第一に「知識論証」と呼ばれる問題がある。これはフランク・ジャクソンが考案した「メアリーの部屋」という思考実験に基づいている。メアリーは生まれてから白黒の部屋で育ち、色に関するすべての物理的・神経科学的知識を学んだ科学者である。彼女は赤色がどのような波長の光で、それが網膜にどう影響し、脳内でどのような反応を引き起こすかをすべて知っている。しかし、ある日彼女が部屋を出て初めて赤いリンゴを見たとき、彼女は新しいことを学ぶ。それは「赤を見るとはどのような感じか」という経験的知識である。
この思考実験は、物理的知識がいくら完全でも、意識的経験の「質感」を捉えきれないことを示唆している。物理学や神経科学が教えてくれるのは、世界の因果的な構造や関係性だけであり、「赤を見る感覚」そのものではないのである。
第二に「想像可能性論証」と呼ばれる問題がある。私たちは「哲学的ゾンビ」を想像することができる。これは物理的には私たちと全く同じだが、意識を持たない存在である。このゾンビは外見上は普通の人間と同じように振る舞い、痛みについて話し、「痛い」と言うが、実際には痛みの感覚を持たない。もし物理主義が正しければ、物理的に同一の存在が意識を持つ場合と持たない場合があることは不可能なはずだ。しかし、このようなゾンビが想像可能であるという事実は、意識が単なる物理的事実以上のものであることを示唆している。
これらの論証は、物理主義が意識を説明するのに不十分であることを示している。では、どのような代替案があるだろうか?
ゴフが提案するのは「ラッセル的一元論」である。これは哲学者バートランド・ラッセルにちなんで名付けられた立場で、次の二つの主要な主張からなる:
- 1. 物理科学は物質の「関係的な性質」しか教えてくれない
- 2. 物質の「内的本質」が意識を説明する鍵である
第一の主張を詳しく見てみよう。物理学が教えてくれるのは、物質がどのように振る舞うかという情報だけだ。例えば、電子について物理学が教えてくれるのは「負の電荷を持ち、他の電子を反発し、陽子を引きつける」といった情報だけだ。電子が「内的に」どのようなものかについては何も教えてくれない。
これは17世紀のガリレオ・ガリレイにまで遡る考え方である。ガリレオは科学革命の基礎を築くために、自然界から「感覚的性質」を取り除き、数学で記述できる「一次性質」(形、大きさ、運動など)だけを科学の対象とした。色や音、匂いといった「二次性質」は主観的なものとして科学の領域から除外された。このアプローチは科学の大きな成功をもたらしたが、同時に意識の問題を解決するのが難しくなった。
第二の主張は、物質には物理学が捉えられない「内的な本質」があり、それこそが意識を説明する鍵だというものである。物理学は物質の「外的な関係性」を記述するが、その「内的な本質」については沈黙している。ゴフはこの「内的本質」が意識に関連していると提案する。
ラッセル的一元論にはいくつかのバリエーションがある。その中でゴフが検討する主要な立場は「汎心論」である。汎心論は「すべての物質は何らかの原始的な形の意識を持つ」という考えである。これは一見すると奇妙に聞こえるかもしれない。「電子が意識を持つなんて馬鹿げている」と思うかもしれない。
しかし、ゴフは汎心論が実は最もシンプルで統一的な世界観を提供すると主張する。物理学は物質の関係的構造だけを教えてくれるが、その物質の内的本質については何も言わない。私たちが物質の内的本質について直接知っているのは、自分自身の意識だけだ。もし同様の内的本質がすべての物質に存在するのであれば、最もシンプルな仮説は「すべての物質は何らかの意識を持つ」というものになる。
ここで自然な疑問が生じる。「もし素粒子が意識を持つなら、なぜ私はそれを感じることができないのか?」「もし私の脳内の無数の粒子がそれぞれ意識を持つなら、なぜ私は統一された一つの意識しか感じないのか?」
これが「結合問題」と呼ばれるものである。特に「主体-総和問題」として知られる問題である。多くの小さな意識主体(例えば、脳内の素粒子)がどのようにして一つの大きな意識主体(私の意識)を形成するのか。これは汎心論にとって大きな課題である。
ゴフはこの問題に対して様々なアプローチを検討するが、完全に満足のいく解決策を見つけることはできない。そして、さらに深刻な問題があることに気づく。それが「主体不可還元性問題」である。
「私」という意識主体は、「私」を含まない他の要素に分解・還元できないように思われる。つまり、「私が存在する」ということを「私」を含まない事実の集まりとして説明することはできないと思われる。
これは「構成的汎心論」(小さな意識主体から大きな意識主体が構成されるという立場)にとって致命的な問題である。もし意識主体が還元不可能なら、それはより基本的な要素から「構成」されているという立場と矛盾する。
この難問を解決するために、ゴフは全く新しいアプローチを提案する。「包摂による根拠づけ」という概念である。これは通常の「部分から全体を構成する」という考え方を逆転させる。全体(X)が部分(Y)を「包含」し、部分は全体の一側面にすぎないと考える。
例えば、あなたの全体的な視覚経験は、赤や青の経験といった部分的な経験を「包含」している。赤の経験は全体的な視覚経験の一側面であり、全体的な視覚経験なしには存在できない。
音楽の和音と個々の音の関係では、ピアノでCメジャーの和音(ドミソ)を弾くとき、その和音の経験は個々の音(ド、ミ、ソ)の経験を包含している。ド、ミ、ソという個別の音の経験は、和音全体の経験の側面であり、和音全体なしには存在し得ない。
絵画の全体と細部で考えてみよう。モナリザの絵全体は、微笑み、背景の風景、服の質感などの細部を包含している。微笑みはモナリザ全体の一側面であり、絵画全体なしには存在し得ない。
同様に、ゴフは意識主体の関係もこのように理解できると提案する。
この考え方を使ってゴフは「構成的宇宙心理主義」を提案する。これは「宇宙全体が一つの統一された意識主体であり、人間や動物の意識はその宇宙意識の側面である」という見解である。私たちの意識は宇宙意識から構成されるのではなく、宇宙意識の「側面」として存在する。
これは驚くべき主張だが、ゴフは科学的根拠も提示している。まず「法則的一般性」から考えてみよう。これは科学的観察に基づく主張である。私たちの宇宙では、あらゆる物事が同じ基本的な物理法則に従っていることが観察されている。例えば重力の法則は、りんごが木から落ちるという日常的な現象にも、惑星が太陽の周りを回るという天文現象にも同じように適用される。
さらに重要なのは、生物と無生物の間に基本法則の違いがないという点である。かつて科学者や哲学者の中には、生物には特別な「生命力」があり、無生物とは全く異なる法則に従うと考える人もいた。しかし現代科学は、生物の体内で起こる化学反応も、無生物の世界で起こる化学反応も、基本的には同じ物理法則に従うことを示している。
つまり、脳内で起こる複雑な反応も、最終的には素粒子の相互作用として説明できるということである。生物だけに適用される特別な物理法則は発見されていない。これが「法則的一般性」の意味である。
次に「力実在論」について考えよう。これは物理法則の性質についての哲学的立場である。物理法則とは何だろうか?例えば、「すべての物体は互いに引き合う」という重力の法則はなぜ成り立つのだろうか?
「力実在論」の立場では、この法則は宇宙の中のある根本的な実体(物質や場など)が持つ本質的な「力」や「能力」に根ざしていると考える。言い換えれば、物理法則は単なる規則性や偶然の一致ではなく、実体が持つ本質的な性質から生じるというのである。
この二つを組み合わせると、興味深い結論が導かれる。もし宇宙のすべての出来事が同じ基本法則に従っており(法則的一般性)、その法則が何らかの根本的実体の能力に基づいている(力実在論)なら、宇宙の中にそのような根本的な実体があるはずだ。
では、その根本的実体は何だろうか?ゴフによれば、候補は二つしかない:
- 1. 微視的レベル(素粒子)
- 2. 宇宙全体(宇宙そのもの)
なぜこの二つだけなのだろうか?それは法則的一般性から来ている。もし基本法則がすべての場所、すべての時間に適用されるなら、その法則を支える根本的実体もまた、宇宙のすべての場所に存在しているはずだ。このような普遍的な存在は、微小だが宇宙のあらゆる場所に存在する素粒子か、あるいは宇宙全体そのものしかありえない。
例えば、人間の脳だけに存在する特別な実体が宇宙の基本法則を支えているとは考えられない。なぜなら、人間の脳は宇宙の一部に過ぎず、宇宙のあらゆる場所・時間に適用される法則を説明できないからだ。
ここまでの議論をまとめると:
- 1. 宇宙のすべての出来事は同じ基本法則に従う(法則的一般性)
- 2. 物理法則は根本的実体の本質的能力に基づいている(力実在論)
- 3. したがって、そのような根本的実体は宇宙のあらゆる場所に存在しているはずだ
- 4. 宇宙のあらゆる場所に存在し得るのは素粒子か宇宙全体だけである
- 5. よって、根本的実体は素粒子か宇宙全体のいずれかでなければならない
では最後のパート「意識主体の還元不可能性を認めるなら、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる」についてである。
これまでの章でゴフは「意識主体の還元不可能性」について論じていた。これは「私」という意識主体は、「私」を含まない他の要素に分解・還元できないという考えである。例えば、「私が存在する」という事実は、単に「特定の粒子が特定の配置で存在する」という事実には還元できないという主張である。
もしこれが正しいなら、素粒子が根本的実体であるという選択肢は難しくなる。なぜなら、素粒子から人間の意識主体を構成しようとすると、「主体還元不可能性」の問題にぶつかるからだ。
残るのは宇宙全体が根本的実体であるという選択肢である。この場合、人間の意識主体は宇宙全体の側面や表現として存在することになる。これが「宇宙心理主義」と呼ばれる立場である。
つまり、ゴフの論理は以下のようになる:
- 1. 根本的実体は素粒子か宇宙全体のいずれかである
- 2. 意識主体の還元不可能性により、素粒子から意識主体を構成することはできない
- 3. したがって、宇宙全体が根本的実体であり、意識主体はその側面である(宇宙心理主義)
この考え方は、私たちの直感に反するかもしれない。しかし、もし意識主体が還元不可能であり、かつ物理法則が普遍的で根本的実体に基づいているなら、宇宙心理主義は論理的帰結として導かれるというのがゴフの主張である。
簡単に言えば、「素粒子から意識を作ることはできない」「しかし意識は存在する」「法則は普遍的である」という三つの前提から、「宇宙全体が意識を持ち、私たちの意識はその側面である」という結論が導かれる。
ここで疑問が生じるかもしれない。「宇宙が意識を持つとは、具体的にどういうことなのか?」「宇宙意識はどのような経験をしているのか?」
これらの問いに明確に答えることは難しいが、ゴフの提案は「宇宙全体には統一された意識があり、私たちの個別の意識はその宇宙意識の側面である」というものである。宇宙意識は私たちの意識よりもはるかに豊かで複雑なものかもしれないが、同時に私たちの意識を「包含」している。
この見解は確かに直感に反するかもしれないが、意識と物質の関係という古くて難しい問題に対する新たなアプローチとして検討に値する。意識が物質から還元的に説明できるのではなく、むしろ物質と意識が同じ根本的現実の異なる側面であるという考えは、心身問題に関する私たちの思考を根本から変える可能性を秘めている。
ゴフの提案する宇宙心理主義は、西洋哲学では異端的かもしれないが、東洋の非二元論的伝統(例えばアドヴァイタ・ヴェーダーンタ)と共鳴する部分がある。しかし、ゴフはあくまで分析哲学の方法論を用いてこの見解を擁護している。
最後に、ゴフはこれらの考察を踏まえて形而上学の新しい方法論「分析的現象学」を提案している。これは意識の直接的経験を重要なデータとして扱い、科学的知見とともに形而上学的探究の基礎とするアプローチである。
物理学や神経科学が教えてくれる世界の因果的構造は重要である。しかし、それだけでは意識という現象を完全に説明することはできない。私たちが意識について一人称視点から知っていることも、同様に重要なデータなのである。この二つのデータ源を組み合わせることで、より完全な世界理解に近づけるというのがゴフの主張である。
ゴフの見解は「純粋物理主義」から「汎心論」を経て「宇宙心理主義」へと進化している。これは意識の問題を真剣に考えれば考えるほど、より抜本的な世界観の転換が必要になることを示唆している。
物理主義では意識の存在を説明できず、汎心論では意識主体の統合を説明できない。そこで最終的に宇宙心理主義にたどり着く。この旅は、意識という謎に真摯に向き合うとき、私たちの世界観がいかに変容しうるかを示している。
意識と物質、心と体の関係は依然として深い謎に包まれているが、ゴフの提案する宇宙心理主義は、この謎に取り組むための新しい視点を提供してくれる。私たちは宇宙の一部であり、私たちの意識も宇宙意識の一部である。この視点は私たちと世界の関係についての根本的な再考を促すものであり、今後の哲学的・科学的探究において重要な役割を果たす可能性がある。
物理学から見た「力実在論」の正当性について
「力実在論」(Power Realism)が物理学的に正当化できるかという問いは非常に重要である。この問いを考えるには、まず「力実在論」が具体的に何を主張しているのかを明確にし、それが現代物理学の知見とどう関係するのかを検討する必要がある。
ゴフの言う「力実在論」とは、「自然法則は単なる規則性の記述ではなく、物質が持つ本質的な力や能力に根ざしている」という立場である。例えば、「すべての質量を持つ物体は互いに引き合う」という重力の法則は、単に観察された規則性を記述しているだけではなく、質量を持つ物体が実際に「引き合う力」を持っているからこそ成り立つという考え方である。
これに対立する見解は「ヒューム主義」(Humeanism)と呼ばれる。デイヴィッド・ヒュームの思想に由来するこの立場では、自然法則は単に観察された規則性の記述に過ぎず、物質に内在する「力」や「必然性」は存在しないと考える。「りんごが木から落ちる」という現象は常に観察されるが、それは単なる「常に伴う継起」であり、必然的な因果関係ではないというのである。
では、現代物理学はこの哲学的対立にどのような光を当てるだろうか?
現代物理学、特に量子力学と相対性理論は、自然界の基本法則についての私たちの理解を大きく変えた。しかし、これらの理論は「力実在論」と「ヒューム主義」のどちらを支持するものだろうか?
量子力学の標準的な解釈では、物理系の状態は波動関数で記述され、その時間発展はシュレーディンガー方程式に従う。この方程式は決定論的であり、系の将来の状態を予測する。しかし、測定の際には波動関数の「崩壊」が生じ、確率的な結果が得られる。
この量子力学の枠組みは、物質に内在する「力」や「能力」の存在を明確に支持するものでも否定するものでもない。むしろ、古典的な「力」の概念そのものを変容させ、場や相互作用という概念に置き換えている。
相対性理論に目を向けると、アインシュタインは重力を「力」としてではなく、時空の歪みとして再解釈した。物体が互いに引き合うのは、物体が時空を歪め、その歪んだ時空に沿って物体が移動するからだと説明する。これは古典的な「力」の概念を変容させるものだが、根本的には「時空の幾何学的性質」という新たな本質的性質を導入したとも言える。
現代物理学は、古典的な意味での「力」の概念を超えて、より抽象的で数学的な「場」「相互作用」「対称性」「時空の幾何学」といった概念を用いて自然界を記述する。これらの概念は「力実在論」と矛盾するわけではなく、むしろ「力」や「能力」がどのような形で存在するかについての理解を深めたと言えるだろう。
しかし、物理学は「法則はなぜそのようなものであるのか」という究極の問いに答えることはできない。例えば、「なぜシュレーディンガー方程式が成り立つのか」「なぜ自然界には特定の対称性が存在するのか」といった問いは、物理学の範囲を超えている。
このため、「力実在論」対「ヒューム主義」という哲学的対立は、最終的には物理学だけでは解決できない形而上学的問題であると言える。物理学は自然界の振る舞いを記述し予測することはできるが、その根底にある「なぜ」という問いには答えられないのである。
ゴフの「力実在論」が持つ強みは、宇宙の規則性に対する説明を提供することである。もし自然法則が単なる偶然の一致であるなら、なぜ宇宙はこれほど規則的なのか?なぜ同じ法則が時間と空間を超えて普遍的に成り立つのか?「力実在論」は、これらの規則性が物質の本質的な性質に根ざしているからだと答える。
一方、ヒューム主義者は、そのような説明を求めること自体が誤りだと反論するかもしれない。最終的には「そういうものだから」という答え以上のものはなく、それ以上の説明を求めることは無限後退に陥るというのである。
物理学者の中にも、この哲学的問題についての見解は分かれている。例えば、リチャード・ファインマンは「なぜ自然はこのような法則を持つのか?それは知らない。知る方法もない」と述べ、一種のヒューム主義的な立場を取っているように見える。一方、アルバート・アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という有名な言葉は、より実在論的な立場を示唆している。
結論として、「力実在論」が物理学的に完全に正当化されるとは言えないものの、それは物理学と矛盾するものでもない。むしろ、物理学が記述する宇宙の規則性に対して、より深い形而上学的説明を提供する試みと言えるだろう。そして、もしこの立場を採用するなら、ゴフが論じるように、その論理的帰結として宇宙心理主義という立場に導かれる可能性がある。
ただし、科学的な立場としては、力実在論もヒューム主義も検証不可能な形而上学的想定であることを認識しておく必要がある。最終的には、どちらの立場を採用するかは、科学的証拠だけでなく、理論的なシンプルさや説明力、そして私たちの直観なども含めた総合的な判断に基づくことになるだろう。
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# AI:「意識と根本的現実」についての考察
フィリップ・ゴフ(Philip Goff)の著書「Consciousness and Fundamental Reality(意識と根本的現実)」を読み解いていくにあたり、まず全体の構造を確認しておこう。この本は大きく前半と後半に分かれており、前半では物理主義への批判を展開し、後半ではラッセル的一元論という代替案を探求している。特に意識の問題、すなわち心身問題が中心テーマとなっている。
最初に著者の立場を確認しておきたい。著者は「意識制約(Consciousness Constraint)」という原則を提唱している。これは「あらゆる適切な現実理論は、少なくともいくつかの現象的概念が満たされていることを含意しなければならない」というものだ。簡単に言えば、「意識の存在は疑いようのない事実であり、どんな世界観もこれを認めなければならない」という立場である。これは著者にとって基本的な公理であり、すべての議論の出発点となっている。
著者はガリレオ以降の科学革命についても独自の見解を持っている。多くの人が考えるように、物理学が世界の本質を完全に明らかにしつつあるという見方ではなく、むしろ物理学は世界の「因果構造」のみを数学的モデルによって記述しており、その基盤となる「具体的な本質」については何も語っていないという見解だ。これは著者の議論の基礎となる重要な歴史観である。
それでは各章の主要な主張を掘り下げていこう。
第2章 では、物理主義の定義について詳細な分析がなされている。物理主義とは「基本的現実が全面的に物理的である」という見解だが、「物理的」とは何か、「基本的」とは何かという問いがある。著者は「物理的」なものの定義として、物理学の現在の対象によって定義する後験的定義ではなく、数学的・法則的語彙で捉えられるという先験的定義を支持している。そして「基本性」の概念を「根拠づけ」(grounding)として理解し、特に「分析による根拠づけ」(grounding by analysis)という概念を導入している。
第3章 と第4章では、物理主義に対する二つの古典的な反論―知識論証と想像可能性論証―を検討している。知識論証はジャクソン(Frank Jackson)の「メアリーの部屋」の思考実験に基づくもので、物理的事実と経験的事実の間に認識論的ギャップがあることを示している。想像可能性論証はチャーマーズ(David Chalmers)の「ゾンビ」の想像可能性に基づくもので、物理的事実が意識的事実を必然化しないことを示唆している。
著者はこれらの論証が最終的には「現象的透明性(Phenomenal Transparency)」、すなわち「現象的概念は指示対象の本質を明らかにする」という主張に依存していると論じている。もし現象的概念が透明でないなら、知識論証も想像可能性論証も物理主義に対する脅威とはならない。
第5章 では著者は「啓示(Revelation)」という考えを提示している。これは「意識状態に直接的に注意を向けるとき、その状態のタイプの完全な本性が明らかになる」という考えだ。著者はこれが「超正当化(super-justification)」、つまり内省的判断の持つ特別な確実性を説明する最善の理論だと論じている。そしてこの啓示の概念から現象的透明性を導き、これが物理主義に対する致命的な問題をもたらすと論じる。
ここで立ち止まって、この「透明性」と「啓示」の概念について深く考えてみよう。著者が言いたいのは、私たちが自分の痛みや赤の経験などに注意を向けるとき、その経験の本質が直接的に明らかになるということだ。これは水や金などの自然種概念とは異なる。水の本質はH2Oだが、そのことは化学の発見によって後から知られた。つまり「水」という概念は「不透明(opaque)」だ。しかし意識の場合、その本質は直接経験によって直ちに与えられる。だからこそ「痛み」が脳状態と同一であるなら、痛みを感じるだけでその脳状態の本質も知るはずだが、そうではない。これが物理主義に対する強力な反論になる。
物理主義はここで「現象的概念が徹底的に不透明だ」と主張することで応答できるが、著者はそれが意識についての私たちの経験と合致しないと考えている。また「二重彫り(Dual Carving)」、つまり同じ性質の本質を捉える概念的に異なる二つの方法があるという主張も検討しているが、これも不十分だとしている。
第6章 からは本書の後半部分が始まり、ラッセル的一元論が導入される。ラッセル的一元論は次の二つの主張からなる:
1. 物理科学は物質世界の性質について限定的な説明しか提供していない(関係的、傾向的、外在的、または構造的性質のみ)2. 物質の深い本性は透明に意識を説明する(つまり、物質の深い本性に関する事実から意識に関する事実への先験的含意がある)
ラッセル的一元論には様々な形態がある。汎心論的なものと原-現象的なもの、構成的なものと創発的なもの、小物主義的なものと優先的一元論的なものがある。著者は特に構成的な形態の利点を強調している。構成的ラッセル的一元論は「因果排除問題」を解決できる点で優れている。
しかし、ラッセル的一元論、特に汎心論的なものは「結合問題」に直面する。第7章ではこれを「主体-総和問題」として検討している。多くの「小さな」主体がどのように「大きな」主体を形成するのかという問題だ。著者はこの問題への様々なアプローチを検討し、空間関係の深い本性に関する私たちの無知が問題を説明する可能性を示唆している。
第8章 では「トップダウン結合問題」を検討している。「パレット問題」(少数の基本的性質から意識の豊かな多様性がいかに生じるか)、「構造的不一致問題」(脳と意識の構造が異なるように見える問題)、そして最も重要な「主体不可還元性問題」(意識主体の存在を、その主体を含まない事実に分析できないという問題)を扱っている。
この「主体不可還元性問題」は構成的ラッセル的一元論にとって深刻な問題となる。意識主体が還元不可能であるなら、それはミクロレベルの事実によって分析的に根拠づけられないからだ。これは新しい形の構成的根拠づけが必要だという結論に著者を導く。
第9章 では著者は「包摂による根拠づけ(grounding by subsumption)」という新しい概念を提案している。これはX(全体)がY(部分)の側面である場合に、XがYを根拠づけるという関係だ。これを用いて著者は「構成的宇宙心理主義(constitutive cosmopsychism)」を発展させる。これは宇宙が根本的に統一された意識主体であり、人間や動物の意識主体はその側面であるという見解だ。
この見解は一見奇妙に思えるかもしれないが、著者は経験的な論拠も提供している。「法則的一般性(Nomic Generality)」(すべての因果的に説明可能な出来事は、生物と無生物の両方を支配する一般法則によって説明できる)と「力実在論(Power Realism)」(法則は根本的実体の因果的力に根拠づけられている)から、基本的現実は微視的レベルか宇宙レベルのいずれかにあると論じる。そして意識主体の還元不可能性を考慮すると、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる。
最後の第10章では著者は形而上学の方法論について省察し、「分析的現象学(analytic phenomenology)」という新しいアプローチを提案している。これは意識という確固たるデータを活用する方法論で、(1)物質世界の因果構造に関する成熟した物理科学の知見と(2)各人が意識の本性に持つ直接的一人称アクセスという二つの異なるデータ源を真剣に受け止める。
ここで著者の主張を総合的に評価してみよう。著者の最も基本的な主張は、意識の実在は疑いようがなく、どんな形而上学的理論もこれを説明できなければならないということだ。そして物理主義は意識を適切に説明できない。なぜなら、もし現象的概念が透明なら(著者はそう信じている)、意識状態が物理状態であるなら私たちはそのことを知るはずだからだ。
著者はラッセル的一元論、特に構成的宇宙心理主義が最も有望な代替案だと考えている。これは宇宙全体が意識を持ち、私たちの意識はその側面だという見解だ。この見解は直感に反するように思えるかもしれないが、主体不可還元性問題を解決しつつ、科学的知見とも整合性を保つことができる。
この宇宙心理主義の見解は、西洋哲学においては異端的かもしれないが、東洋哲学や宗教的伝統の多くと共鳴する部分がある。すべてのものが根本的な意識の現れであるという考えは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなどの非二元的伝統にも見られる。しかし著者はそうした伝統に訴えることなく、西洋分析哲学の手法を用いてこの見解を擁護している点が注目に値する。
著者の議論で最も説得力があるのは、物理主義に対する批判部分だと思う。特に「啓示」の概念に基づく透明性論証は強力だ。しかし宇宙心理主義という解決策にはさらなる検討が必要だろう。例えば、宇宙が意識を持つとして、それがどのように私たちの個別の意識経験を生み出すのかについての詳細なメカニズムはまだ不明確な部分が多い。
また著者の主張は形而上学の方法論にも重要な示唆を与えている。意識の直接的なデータを真剣に受け止めることで、形而上学的探究がより実りあるものになる可能性がある。これは科学的知見を否定するものではなく、むしろ科学と意識の直接的経験の両方を統合する試みだ。
最後に、著者の見解は「純粋物理主義」から「汎心論」を経て「宇宙心理主義」へと進化しているようにも見える。これは意識の問題を真剣に考えれば考えるほど、より抜本的な形而上学的転換が必要になることを示唆している。
本書は意識と物質的世界の関係についての深遠な問いに取り組んでおり、その議論は非常に明晰で説得力がある。物理主義の限界を認識しつつも、一元論的な世界観を維持しようとする著者の試みは、心身問題に取り組む哲学者にとって重要な貢献となっている。
最終的に、ゴフの主張は「意識は根本的現実の本質的な一部である」ということに集約される。意識は物理的なものに還元されるのではなく、むしろ物理的現実の深層にある本質的な構成要素なのだ。この視点は、科学的世界観を否定するのではなく、その限界を認識した上で拡張するものであり、意識と物質を統合的に理解するための新たな道を開くものだと言えるだろう。
6章以降についてのもう少しわかりやすい考察
フィリップ・ゴフの「Consciousness and Fundamental Reality」の後半部分で展開される理論は確かに難解だが、基礎的な哲学知識を持つ読者向けに整理し直してみよう。まず、著者が取り組んでいる中心的問題から確認していきたい。
心と体、意識と物質はどのような関係にあるのか。これは哲学における古典的問題だが、著者はこれに新しいアプローチを提案している。前半部分で著者は、現在主流の「物理主義」(すべては物理的なものに還元できるという立場)が意識を説明できないと論じた。では、代替案は何か。それが「ラッセル的一元論」である。
ラッセル的一元論とは何か。これは哲学者バートランド・ラッセルにちなんで名付けられた立場で、二つの主要な主張からなる。
第一に、物理科学は物質の「関係的」な側面しか教えてくれないという主張がある。例えば、電子について物理学が教えてくれるのは「他の粒子とどう相互作用するか」という情報だけで、「電子それ自体が内的にどのようなものか」については何も教えてくれない。物理学は世界の「因果的構造」を数式で記述するだけで、その構造の基盤となる「内的本質」については沈黙している。
第二に、物質の「内的本質」こそが意識を説明する鍵だという主張がある。物質の内的本質がどのようなものかを完全に理解できれば、なぜ意識が存在するかも理解できるはずだという考えだ。
ラッセル的一元論にはいくつかのバリエーションがある。大きく分けると:
1. 汎心論的なものvs. 原-現象的なもの
– 汎心論:基本的物質粒子も最も原始的な形の意識を持つという立場
– 原-現象的:基本的物質粒子は意識そのものではないが、意識を生み出す特殊な性質を持つという立場
2. 構成的なものvs. 創発的なもの
– 構成的:人間の意識は微小な意識(または原-意識)の適切な組み合わせから構成されるという立場
– 創発的:人間の意識は微小な意識(または原-意識)から因果的に生じるが、それらに還元されないという立場
ここで重要な問題が生じる。「結合問題」と呼ばれるものだ。特に汎心論では「主体-総和問題」として知られる。これは「多くの小さな意識がどのようにして一つの統一された人間の意識を形成するのか」という難問だ。例えば、脳内の何兆もの粒子がそれぞれ微小な意識を持っているとして、それらがどうやって「私」という一つの統一された意識経験を生み出すのか。これは謎だ。
第8章 では、さらに別の「トップダウン結合問題」が検討される。これは人間の意識の特性から見て、それが微小な意識から構成されると考えるのは難しいという問題群だ。
1. パレット問題:人間の意識経験は非常に豊かで多様だが、基本粒子が持つ意識は非常に限られたものでしかないはず。少数の基本的な意識要素からどうやってこの豊かさが生じるのか。
2. 構造的不一致問題:脳の物理的構造と私たちの意識経験の構造が一致していないように見える問題。
3. 主体不可還元性問題:これが最も重要。意識主体、つまり「私」という存在は、「私」を含まない他の要素に分解・還元できないように思われる。つまり、「私が存在する」ということを「私」を含まない事実の集まりとして説明することはできないように思われる。
この主体不可還元性問題は、構成的ラッセル的一元論にとって致命的だ。なぜなら、もし意識主体が本当に還元不可能なら、それはより基本的な要素から「構成」されているという立場と矛盾するからだ。
この難問を解決するために、著者は第9章で全く新しいアプローチを提案する。「包摂による根拠づけ」という概念だ。これは通常の「部分から全体を構成する」という考え方を逆転させる。つまり、全体(X)が部分(Y)を「包含」し、部分は全体の一側面にすぎないと考えるのだ。
この考え方を使って著者は「構成的宇宙心理主義」を提案する。これは「宇宙全体が一つの統一された意識主体であり、人間や動物の意識はその宇宙意識の側面である」という驚くべき見解だ。私たちの意識は宇宙意識から構成されるのではなく、宇宙意識の「側面」として存在する。
この宇宙心理主義の考えは一見すると奇妙に思えるかもしれないが、著者は科学的根拠も提示している。科学的観察によれば、自然界のあらゆる出来事は同じ基本法則に従っている。生物の行動も無生物の振る舞いも、同じ物理法則で説明できる。この「法則的一般性」と、法則は何らかの根本的実体の能力に基づいているという「力実在論」を組み合わせると、基本的実体は微視的レベル(素粒子)か宇宙レベルのいずれかにあるという結論に至る。
そして、意識主体の還元不可能性を認めるなら、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる。宇宙全体が意識を持ち、私たちの意識はその側面である。この見解は「宇宙の中の小さな意識がどのように統合されるか」という問題を回避し、代わりに「宇宙意識がどのように側面として個別意識を持つか」という問題に置き換える。
最後に著者は、これらの考察を踏まえて形而上学の新しい方法論「分析的現象学」を提案している。これは意識の直接的経験を重要なデータとして扱い、科学的知見とともに形而上学的探究の基礎とするアプローチだ。
この理論の要点をまとめると:
- 1. 物理学は世界の「関係的構造」だけを教えるが、その内的本質については沈黙している
- 2. 意識主体は還元不可能で分析できない
- 3. 伝統的な「部分が全体を構成する」という考えでは意識を説明できない
- 4. 代わりに「全体が部分を包含する」という考えを採用する
- 5. 宇宙全体が一つの意識主体であり、私たちの意識はその側面である
この宇宙心理主義の見解は、西洋哲学では異端的かもしれないが、東洋の非二元論的伝統と共鳴する部分がある。しかし著者はあくまで分析哲学の枠内でこの見解を擁護している。
著者の見解は「純粋物理主義」から「汎心論」を経て「宇宙心理主義」へと発展している。これは意識の問題を真剣に考えるほど、より根本的な世界観の転換が必要になることを示唆している。意識と物質を統合的に理解するためには、物理主義の枠を超え、しかし二元論に陥ることなく、世界の根本的な一元性を保ちながら意識の実在を認める道を模索する必要がある。それが著者の提案する宇宙心理主義なのだ。
この理論は確かに大胆で直感に反するかもしれないが、意識と物質の関係という古くて難しい問題に対する新たなアプローチとして検討に値する。意識が物質から還元的に説明できるのではなく、むしろ物質と意識が同じ根本的現実の異なる側面であるという考えは、心身問題に関する私たちの思考を根本から変える可能性を秘めている。
