書籍要約『プロパガンダ』エドワード・バーネイズ

全体主義・監視資本主義民主主義・自由物理・数学・哲学

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英語タイトル:PropagandaEdward L. Bernays 1928

日本語タイトル:『プロパガンダ』エドワード・バーネイズ 1928年

目次

  • 第1章 混乱を組織する / Organizing Chaos
  • 第2章 新しいプロパガンダ / The New Propaganda
  • 第3章 新しい宣伝者たち / The New Propagandists
  • 第4章 PR(パブリックリレーションズ)の心理学 / The Psychology of Public Relations
  • 第5章 ビジネスと大衆 / Business and the Public
  • 第6章 プロパガンダと政治的指導者 / Propaganda and Political Leadership
  • 第7章 女性の活動とプロパガンダ / Women’s Activities and Propaganda
  • 第8章 教育のためのプロパガンダ / Propaganda for Education
  • 第9章 社会事業におけるプロパガンダ / Propaganda in Social Service
  • 第10章 芸術と科学 / Art and Science
  • 第11章 プロパガンダの力学 / The Mechanics of Propaganda

本書の概要

短い解説:

本書は、民主主義社会において「大衆の心」を意識的・知的に操作することが不可欠であると主張し、その技術としての「プロパガンダ(PR)」の理論と実践を体系化することを目的とする。第一次世界大戦後の複雑化した大衆社会を生き抜く政治家、実業家、社会運動家など、あらゆる「知的少数派」が世論を形成・導くための手引書である。

著者について:

著者エドワード・バーネイズは、オーストリア系アメリカ人で、ジークムント・フロイトの甥である。「広報の父」として知られ、大衆心理学(フロイト、ル・ボン、トロッターの理論)と社会集団の分析を基盤に、現代的なパブリック・リレーションズ(PR)産業の基礎を築いた。第一次大戦中の対世論工作(クリール委員会)の経験を経て、プロパガンダを平和時の民主主義社会における不可欠な「見えない政府」の執行機関と位置づけた実践家でもある。

テーマ解説

  • 主要テーマ:民主主義社会におけるプロパガンダの必要性:複雑化した現代社会の秩序維持と進歩のためには、大衆の習慣や意見を「目に見えない政府」(知的少数派)が組織化・操作することが不可避である。
  • 新規性:「新しいプロパガンダ」の提唱:単なる情報の一方的流布ではなく、社会の集団構造(「大衆形成」)と集団心理の「急所」を科学的に分析・操作し、状況を創造して大衆の欲望を誘導する技術。
  • 興味深い知見:プロパガンダの倫理的中立性:プロパガンダそのものは善悪ではなく、それが奉仕する「大義」の価値と、流布する「情報」の真実性によってその倫理性が決まる道具である。

キーワード解説

  • 見えない政府 (The Invisible Government):大衆の習慣や意見を意識的に操作し、社会を円滑に運営する「知的少数派」(政治家、広報専門家、産業指導者など)の総体。民主主義社会の必然的産物である。
  • 大衆形成 (Group Formations):社会を構成する無数の公式・非公式の集団(経済的、宗教的、職業的、趣味的など)。新しいプロパガンダは、個人ではなく、これらの集団とそのリーダーに働きかける。
  • 公共関係顧問 (Public Relations Counsel):クライアント(企業、思想、個人)と大衆の関係を分析・調整し、大衆の支持を獲得するための方針を立案・実行する専門職。弁護士のように客観的で倫理的な助言者として機能する。

3分要約

本書『プロパガンダ』は、エドワード・バーネイズが、第一次世界大戦における世論操作の成功体験を基に、平和時の民主主義社会における「大衆の心の管理」の体系的な理論と実践方法を提示した古典である。バーネイズの核心的主張は、複雑化した現代社会が秩序ある機能を維持するためには、大衆の習慣や意見を「意識的かつ知的に操作」することが不可避であり、その操作を行う「目に見えない政府」(知的少数派)の存在が民主主義の現実である、という点にある。

彼はこの操作技術を「プロパガンダ」と称する。この言葉は当時、否定的意味を持たない中立的な用語であった。バーネイズが提唱する「新しいプロパガンダ」は、旧来の単純な反復広告とは異なり、社会を解剖学的に分析する。社会は無数の「大衆形成」(職業団体、宗教団体、友愛団体など)が交錯して構成されており、各集団にはキーパーソン(リーダー)が存在する。プロパガンダの巧みな実践者は、個々の大衆に直接訴えるのではなく、これらの集団リーダーに働きかけ、彼らを通じて集団全体の意見を動かす。さらに、人々の無意識の欲望や「決まり文句」(ステレオタイプ)を利用し、人々が自発的に望むと信じるような「状況」を創造することで、購買行動や政治的選択を誘導する。

この技術を担う新しい専門家が「公共関係顧問(PRカウンセル)」である。彼はクライアント(企業や思想)と大衆の双方を分析し、両者の利益が一致する点を見出し、その合意を促進するための戦略を立案する。その仕事は広告を補完し、時に企業の政策そのものの変更を促すこともある。バーネイズは、プロパガンダが単なる情報操作ではなく、社会の摩擦を減らし、進歩を促す建設的な技術となりうると主張する。彼は、ビジネス、政治、社会事業、教育、芸術など、あらゆる分野でプロパガンダがどのように機能し、また機能すべきかを具体例を挙げて論じる。

例えばビジネスでは、大量生産を維持するためには安定的な需要創造が不可欠であり、そのためには大衆の趣味や習慣をプロパガンダによって形作らなければならない。政治では、有権者の無関心を打破し、複雑な政策を理解させるためには、演説や綱領以上の、集団心理に訴える劇的な「状況」の創造が必要である。社会事業においても、リンチ撲滅や公衆衛生の改善のような目標は、綿密な世論工作なくしては達成できない。

バーネイズは、プロパガンダという強大な力を認め、その倫理的で効果的な使用を「知的少数派」の義務であると説く。本書は、現代の広告、政治広報、ブランド・マネジメントの原型をなすと同時に、大衆社会における「同意の製造」のメカニズムを鋭くえぐり出した、今日まで続く議論の源泉となった著作である。

各章の要約

第1章 混乱を組織する

現代民主主義社会は、無数の集団と情報が錯綜する「混乱」の状態にある。理論上は各人が自由に判断するはずだが、現実にはあらゆる問題に関するデータを個人が検討することは不可能である。そこで社会は、情報を選別し、選択肢を現実的な数に絞り込み、世論を組織化・集中化するメカニズムを自発的に受け入れてきた。これが「目に見えない政府」、すなわち地位やアイデアやリーダーシップによって大衆の思考を導く比較的少数の者たちである。印刷機、電話、ラジオなどの通信技術の発達は、この「見えない政府」が思想を瞬時に広める力を飛躍的に高めた。民主主義が機能するためには、この大衆の心を支配するメカニズムの構造と、それがプロパガンダによって如何に操作されているかを理解することが必要である。

第2章 新しいプロパガンダ

産業革命と普通選挙により王から大衆へと移った権力は、現在、反動を迎えている。少数派が大衆の心を形成し、大衆の新たに得た力を望む方向へ向かわせる手段を発見したからだ。バーネイズは「プロパガンダ」を、特定の企業、思想、集団に対する大衆の関係に影響を与えるために、出来事を創造・形成する一貫した努力と定義する。戦時プロパガンダの成功は、この技術の可能性を明らかにした。新しいプロパガンダは、個人や大衆心理だけでなく、社会の「大衆形成」の解剖学を考慮する。集団のリーダーに働きかけ、その集団全体の反応を引き出すのである。それは軍隊が兵士の身体を統制するように、大衆の心を統制する。社会の進歩は、自らの利益と公共の利益が一致する「知的少数派」が、積極的にプロパガンダを用いることによってのみ可能となる。

第3章 新しい宣伝者たち

私たちの意見や習慣は、直接目には見えない「宣伝者」たちによって形作られている。政治の世界の「ボス」から、パリのクチュリエ、ロンドンの仕立屋まで、様々な分野の匿名の権威が私たちの選択を支配する。大衆の意見を制御する社会的メカニズムを操作するには莫大な費用がかかるため、その機能は専門家の手に集中する傾向にある。そこで登場するのが「公共関係顧問(PRカウンセル)」である。彼は、クライアントのビジネスにおける公衆接触の全ての側面に焦点を当てるアドバイザーである。仕事は、(1)クライアントの問題分析、(2)関連する大衆集団とそのリーダーの分析、(3)基本方針の策定、(4)方針の実行、という段階を踏む。彼の役割は宣伝だけでなく、誤った噂への対処や新市場の発見にも及ぶ。健全なPR活動は、クライアントと大衆の双方の利益を一致させ、真実を率直に伝えることを倫理規範とする。

第4章 PR(パブリックリレーションズ)の心理学

効果的なプロパガンダは、集団心理学の科学的理解に基づいている。集団は個人とは異なる精神的特性を持ち、衝動、習慣、感情によって動かされ、信頼できるリーダーの模範に従う傾向が強い。また、人々は自分自身の行動の真の動機を意識していないことが多い。古い宣伝が刺激と反応の機械的な繰り返しに頼ったのに対し、新しい宣伝は、大衆の感情的な流れを作り出し、抵抗そのものを取り除こうとする。そのために、集団のリーダーシップと権威の機構を利用する。リーダーたちは、宣伝されるアイデアが自分たちの利害と一致する場合にのみ協力するため、PR担当者はクライアントの利益と他の集団の利益が一致する点を見つけ出さなければならない。この「利害の一致」の原則が、成功するプロパガンダの基盤である。

第5章 ビジネスと大衆

現代のビジネスと大衆の関係は、かつてないほど密接なパートナーシップとなった。大量生産は安定的な需要の創造を必要とし、大企業は世論の支持なしには存続できなくなった。企業は、製品の品質だけでなく、労働政策、財務の健全性、役員の人格に至るまで、大衆の評価にさらされている。ここでPR顧問の役割が重要となる。彼は大衆の構造と偏見を分析し、企業の行動や方針を大衆が理解し受け入れるように調整することを助言する。その提案は、製品ラインの変更から店員の服装まで多岐にわたる。PR活動は、継続的な企業イメージの醸成と、注目を集める劇的なイベント(ハイライト)の両方を用いる。プロパガンダは、非倫理的広告に対抗し、業界全体の信用を守るためにも有用である。企業の成長と株式発行の成功は、世論の支持に大きく依存しており、PRはその支持を築き維持するための重要な手段である。

第6章 プロパガンダと政治的指導者

現代の民主主義政治は、指導者が大衆に隷属するのではなく、プロパガンダを用いて大衆を指導する方法を見つけなければならない。現在の政治運動の方法は非効率的で古く、有権者の無関心を生んでいる。ビジネスが採用している科学的な市場分析と計画的な宣伝戦略を、政治は学ぶべきである。政治運動は、有権者の欲望を調査することから始め、綱領を策定し、予算を立て、感情に訴えるアピールを体系化し、多様なメディアを同期させて利用しなければならない。人格(候補者)は重要な要素だが、党の綱領と政策の方が本質的である。政治家は、大衆を喜ばせる方法ではなく、大衆を動かし教育する方法を知らなければならない。それは、集団指導者に働きかけ、状況をドラマチックに創造することによって可能となる。バーネイズは、政府内に専門的なPR長官を置き、政府と国民の双方向の解釈を担当させるべきだと提案する。

第7章 女性の活動とプロパガンダ

参政権獲得後のアメリカ女性は、組織化とプロパガンダを通じて政治と社会に大きな影響力を及ぼしている。女性有権者連盟や女性クラブ連合など、組織化された女性団体は、立法プログラムを策定し、プロパガンダ技術を用いて福祉法案(児童労働法、母性保護法など)の成立を推進してきた。彼女たちは、展示会の開催や消費者委員会の組織化など、状況を創造して世論を喚起する新しい方法も活用している。政治以外の分野でも、女性クラブは健康教育、芸術振興、地域改善など、多様な社会的事業に取り組んでいる。組織化された女性は、男性が見過ごしがちな分野に努力を集中させることで公的生活を補完し、新しく獲得した自由を社会形成に活用する大きな可能性を持っている。

第8章 教育のためのプロパガンダ

教育は公共の利益において正当な配分を受けておらず、一般大衆の積極的関心を引きにくい。一因は、教育者が大衆の教育者としての訓練を受けていないことにある。教職は、生徒に対する個人的関係だけでなく、社会全体に対する責任も自覚し、プロパガンダを通じて自らの価値と必要性を社会に訴えなければならない。州立大学も寄付制大学も、資金調達と独立性の維持のために世論の支持が必要である。大学は、学内のニュースビューローを通じて研究成果を一般に知らしめ、公開講座や特別展覧会などを通じて社会との結びつきを強めている。ハーバード大学のようにPR専門家を置く大学も現れた。教育の進歩のためには、教職の地位向上や学問の自由の確保といった課題について、世論を啓蒙する継続的なプロパガンダが不可欠である。

第9章 社会事業におけるプロパガンダ

社会事業は、その性質上、富裕層の自発的支援に依存するため、継続的なプロパガンダを必要とする。社会事業の指導者たちは、プロパガンダを意識的に利用した先駆者である。惰性と伝統に抗して社会を変えようとするならば、大衆心理についての知識が必須である。バーネイズは、全米有色人地位向上協会(NAACP)がアトランタで行った大会を例に挙げる。南部の地で黒人と白人の指導者が共に壇上に立ち、全国及び南部の様々な団体のリーダーの支持を取り付けることにより、問題を感情的ではなく議論可能なものとして提示し、世論に大きな影響を与えた。教会や慈善団体の活動から、公衆衛生キャンペーン、刑務所改革に至るまで、社会の進歩は大衆の心を漸進的に教育・啓発するプロパガンダの努力によって成し遂げられる。

第10章 芸術と科学

プロパガンダは、大衆の芸術鑑賞眼を深める教育において重要な役割を果たす。商業美術の分野では、美的価値に基づく競争が生まれ、芸術家は産業界と協力して大衆の趣味を向上させる機会を得ている。芸術的アイデアは、権威ある集団指導者や劇的なイベントと結びつけることで大衆に受け入れられる。例えば、アメリカのシルクメーカーは、フランスの著名芸術家のデザインをルーヴル美術館で展示することで権威づけに成功した。美術館は、所蔵品を保存するだけでなく、プロパガンダを通じて地域社会の美的基準の指導者として積極的に振る舞うべきである。科学の分野でも、産業界が支援する純粋科学研究が進み、その成果を大衆に解釈する責任が生じている。プロパガンダは新しい科学的発明を市場に送り出し、大衆を変化と進歩に慣れさせていく。

第11章 プロパガンダの力学

プロパガンダのメッセージを伝達する媒体は、人間のコミュニケーション手段の全てを含む。宣伝家は、各媒体の相対的価値が常に変化することを認識しなければならない。新聞は主要な媒体であり、そのニュース価値に基づいて項目を選択する編集者の独立性が重要である。PR担当者の役割は、ニュースとして価値のある「出来事」を創造し、編集者の判断に委ねることだ。雑誌は特定の思想を宣伝する傾向が強く、ラジオは同時に何百万人にも到達し得る有力な新たな媒体となった。映画は無意識のうちにプロパガンダを伝える偉大な配給者である。人格(パーソナリティ)もまた、劇的に演出されるべきプロパガンダの道具である。学校で配布される教材でさえ、教育的価値があればプロパガンダの媒体となりうる。大衆がプロパガンダの手法に気づき洗練されるほど、商業的・思想的訴えはより知的で率直なものへと進化せざるを得ない。プロパガンダは廃れることなく、混沌から秩序をもたらし、生産的な目的に奉仕する現代の道具として活用され続けるだろう。


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第11章 プロパガンダのメカニズム

特別な主張者がプロパガンダを通じて大衆にメッセージを伝える媒体は、今日、人々が互いに考えを伝えるためのすべての手段を含んでいる。人間のコミュニケーション手段で、意図的なプロパガンダの手段でないものはない。なぜなら、プロパガンダとは単に個人と集団の間に相互理解を確立することだからだ。

宣伝家にとって重要な点は、宣伝のさまざまな手段の相対的価値と、それらの大衆との関係は、常に変化しているということである。もし彼が自分のメッセージに完全な到達度を得ようとするならば、価値の変化が起こった瞬間にそれを利用しなければならない。50年前、市民集会は最も優れた宣伝手段であった。今日、特別なアトラクションがプログラムの一部でない限り、ほんの一握りの人しか集まらなくなった。自動車は彼らを家から連れ出し、ラジオは彼らを家に留め、新聞の連続する日刊版はオフィスや地下鉄にいる彼らに情報をもたらし、さらに彼らは集会の大げさな話にうんざりしているのだ。

その代わりに、新しいものもあれば、古いものもあるが、事実上新しいものとなっているものもある。もちろん新聞は、意見や考えを伝えるための、つまりプロパガンダのための主要なメディアであることに変わりはない。

新聞編集者が「ニュース欄がプロパガンダのために使われる」といって憤慨したのは、それほど昔のことではない。ある編集者は、もしその記事の掲載が誰かのためになるかもしれないと思えば、良い記事を消してしまうことさえあった。このような観点は、今ではほとんど放棄されている。今日、主要な編集局では、デスクに持ち込まれた記事の掲載・非掲載を決める真の基準は、そのニュースとしての価値であるという見解がとられている。新聞は、掲載するものが誰かの利益にならないことを保証する責任を負うことはできないし、また負うべき機能でもない。どの日刊紙にも、その発行が誰かの利益にならない、あるいは損害を与える可能性のない項目はほとんどない。それがニュースの本質である。新聞が努力するのは、掲載するニュースが正確であること、そして(入手可能な大量のニュース素材から選択しなければならないので)読者の大きなグループにとって興味深く重要であることである。

新聞は論説欄では個性的であり、物事や出来事について個々の視点から論評している。しかし、典型的なアメリカの近代的な新聞は、ニュース欄では、その日の目立った出来事や意見を、ニュースとしての面白さを考慮しながら、再現しようとするものである。

ある項目がプロパガンダかどうかは問わない。重要なのは、それがニュースであるかどうかである。そして、ニュースの選択において、編集者は通常、完全に独立している。『ニューヨーク・タイムズ』紙の例では、ニュースはそのニュースとしての価値によって掲載され、それ以外の理由では掲載されない。Timesの編集者は、何がニュースであり、何がニュースでないかを完全に独立した立場で判断する。彼らは検閲を許さない。外圧に影響されることも、便宜主義や日和見主義の価値観に振り回されることもない。すべての新聞の良心的な編集者は、大衆に対する自分の義務がニュースであることを認識している。その達成の事実がニュースになるのだ。

PR担当者があるアイデアに生命を吹き込み、それを他のアイデアや出来事の中に位置づけることができれば、そのアイデアにふさわしい世間の注目を浴びることができる。PR担当者が「ニュースの源流を汚す」なんてことはありえない。彼は、その日の出来事を創り出し、編集局で他の出来事と競争させなければならない。しばしば、彼が作り出す出来事は、その新聞社の大衆にとって特別に受け入れられるものであり、彼はその大衆を念頭に置いてそれを作り出すことができる。

今日の生活の重要な事柄が、商業電話会社が手配した大西洋横断無線電話会談であるなら、それを売り込む人間にとって商業的に有利な発明品であるなら、ヘンリー・フォードがブレイクスルー自動車であるなら、これらはすべてニュースである。この国の新聞社に流れ込むいわゆるプロパガンダは、編集者の裁量でゴミ箱行きになることもある。

編集者に提供されるニュースの出所は、常に明確に述べられ、事実が正確に提示されなければならない。

現在、雑誌が置かれている状況は、プロパガンダの観点からは、日刊紙とは異なっている。平均的な雑誌は、新聞のように、現在のニュースを反映させる義務を負っていない。雑誌は、継続的な方針に従って、意図的に素材を選択する。新聞のように世論を伝える機関紙ではなく、むしろ宣伝機関となる傾向があり、良い家計簿であれ、おしゃれな服装であれ、家の装飾の美しさであれ、世論を否定するものであれ、一般啓蒙、リベラリズム、娯楽であれ、特定の考えを宣伝するものである。ある雑誌は健康を、別の雑誌はイングリッシュガーデンを、別の雑誌はファッショナブルな紳士服を、別の雑誌はニーチェ哲学を売ることを目的としているかもしれない。

さまざまな雑誌が専門としているすべての部門において、PR担当者は重要な役割を果たすことができる。というのも、PR担当者は、クライアントの利害関係から、クライアントのプロパガンダを促進するようなイベントを作る手助けをすることがあるからだ。ある銀行が、自社の女性部門の重要性を強調するために、この部門を担当する女性専門家が書いた投資に関する一連の記事とアドバイスを、一流の女性雑誌に提供するよう手配することができる。女性誌はこの新しい特集を、さらなる名声と発行部数を築く手段として活用することになる。

かつて世論を動かす強力な手段であった講演会は、その価値を変えてしまった。講演そのものは象徴や儀式に過ぎないかもしれないが、プロパガンダの目的では、それが行われたという事実にその重要性がある。ソ教授は、ブレイクスルー発明を説明するために、500人の前で話すこともあれば、50人の前で話すこともある。彼の講演は、それが重要であれば、放送され、新聞に報道され、議論が活発になる。講演の本当の価値は、プロパガンダの観点から言えば、一般大衆に反響を呼ぶことにある。

ラジオは現在、宣伝家の最も重要な手段の1つである。その将来の発展は不確かなものである。

広告媒体としては、新聞と競合するかもしれない。何百万人もの人々に同時に到達するその能力は、当然、広告主にアピールする。そして、平均的な広告主は広告に充てる予算が限られているので、ラジオに使われた金は新聞から引き揚げられる傾向があるだろう。

出版社はこの新しい現象にどの程度まで生きているのだろうか。それはアメリカのジャーナリズムと出版に接近してくるに違いない。新聞はラジオ機器を製造する会社や大小のラジオ店の広告の可能性を認めてきたし、新聞はニュースや特集のコラムでラジオに、国民がラジオに寄せる関心の高まりに見合うだけの重要性を与えてきた。同時に、ある新聞社はラジオ局を買収し、ニュースやエンターテイメントの配信施設と結びつけ、この2つの特集を放送で大衆に供給している。

新聞チェーンは、放送と紙面の広告スペースのスケジュールを販売する可能性がある。新聞チェーンは、広告主と契約し、紙と放送の両方で流通させる可能性がある。現在、放送とコラムのスペースを売っている出版社があるが、彼らはこの2つを別々の事業とみなしている。

政治的、人種的、宗派的、経済的、職業的な大集団は、自分たちの主張を宣伝するために放送局を支配する傾向がある。あるいは、広告主の代わりにリスナーが金を払うという、イギリスのライセンス・システムをアメリカが採用することも考えられるだろうか。

現在の制度が変更されようと、広告主や宣伝者は、必然的にそれに適応しなければならない。将来、放送空間がそのように公然と売られるようになろうとも、あるいはメッセージが、まっすぐな娯楽やニュースの形で、あるいは特定のグループのための特別番組として大衆に届くようになろうとも、宣伝者はその条件を満たし、それを利用する用意をしておかなければならないのである。

アメリカの映画は、今日、世界で最も無意識のうちにプロパガンダを伝える存在である。それは、アイデアや意見の偉大な配給者である。

映画は、国民の思想と習慣を標準化することができる。映画は市場の需要に応えるために作られるので、新しい考えや意見を刺激するというよりは、幅広い大衆的傾向を反映し、強調し、誇張さえする。映画は、流行している考えや事実だけを利用する。新聞がニュースを提供しようとするように、映画も娯楽を提供しようとする。

プロパガンダのもう一つの道具は、人格である。利用された人格という道具は、あまりに行き過ぎたものだったのだろうか?クーリッジ大統領が休暇中にインディアンの衣装を身にまとい、純血の酋長たちと一緒にいるところを写真に撮られたのは、大きく報道された休暇のクライマックスであった。明らかに、公の人格は、それを生み出すのに役立ったまさにそのメカニズムを悪用することによって、不条理なものになりうるのだ。

しかし、パーソナリティを鮮やかに演出することは、これからもPR担当者の仕事の一つである。世間は本能的に、目立つ会社や企業を代表するようなパーソナリティを求めるものである。

ある大金持ちが、あるパートナーを、彼が妻と離婚したという理由で解雇した、という話がある。

「しかし、私の私生活が銀行業と何の関係があるのだろうか」とそのパートナーは尋ねた。

「もしあなたが自分の妻を管理する能力がないのなら、人々はあなたにお金を管理する能力がないと考えるだろう」という答えが返ってきた。

宣伝担当者は、自分の管轄内にある他の客観的事実を扱うように、人格を扱わなければならない。

リンドバーグがアメリカとメキシコの間に好意を抱かせたように、人格は状況を作り出すかもしれない。キューバ戦争がルーズベルトという政治的人物を作り出したように、出来事が人格を作り出すこともある。どちらがどちらを生み出すかは、しばしば難しい。公人は、自分が達成したい目的を決めたら、自分を客観視し、自分の本当の性格や目的と一致するような外見的な姿を示さなければならない。

古くからあるものもあれば、テレビのように新しいものもあり、大衆の心にアプローチする手段は他にも数多くある。それぞれを個別に論じることはしない。学校は科学的事実に関する情報を広めることができる。営利企業がその活動を広く理解することによって、最終的に利益を得る可能性があるからといって、生徒の側で研究する価値のあるテーマであれば、そのような情報の普及を非難するものではない。製パン会社がパンがどのように作られるかを示すために写真や図表を学校に提供する場合、こうした宣伝活動は、それが正確で率直であれば、学校当局がその教育的利点に基づいて慎重にその申し出を受け入れるか否かを判断すれば、何ら非難されるべきものではない。

ある新製品が、1000マイルも離れたところで行われているパレードの動画によって一般大衆に発表されるかもしれない。あるいは、新しいジットニー飛行機の製造者が自ら登場して、ラジオやテレビを通じて100万世帯の人々に語りかけるかもしれない。自分のメッセージを最も効果的に大衆に伝えようとする人は、プロパガンダのあらゆる手段を利用するよう警戒していなければならない。

間違いなく大衆は、その意見や習慣を形成するために使用されている方法に気づきつつある。もし大衆が自分たちの生活のプロセスについてよりよく知ることができれば、自分たちの利益に対する合理的な訴えをより多く受け入れるようになるだろう。大衆が宣伝方法についてどれほど洗練され、どれほど皮肉になったとしても、基本的な訴えに応じなければならない。なぜなら、大衆は常に食物を必要とし、娯楽を渇望し、美に憧れ、指導者に反応するからだ。

大衆が商業的要求においてより知的になれば、商業企業は新しい基準を満たすようになる。もし大衆が、ある考えや商品を受け入れるように説得するために使われる古い方法に嫌気がさしたなら、その指導者たちはより知的にその訴えを提示するだろう。

プロパガンダは決して廃れることはない。知性ある人々は、プロパガンダが、生産的な目的のために戦い、混沌から秩序をもたらすのを助けることのできる現代的な道具であることを理解しなければならない。

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エドワード・バーネイズ『プロパガンダ』:民主主義という名の見えない政府 AI考察

by Claude 4.5 × Alzhacker

「同意の工学」が作る現代社会

バーネイズの『プロパガンダ』を読むと、現代社会の「何か変だ」という漠然とした違和感の正体が見えてくる。この本は1928年に書かれたものだが、今日のメディア環境、政治キャンペーン、消費社会を驚くほど正確に予言している。いや、予言ではない。バーネイズ自身が「見えない政府」の設計者として、この構造を意図的に作り上げたのだ。

彼の主張は単純で、しかし衝撃的だ。「民主主義社会では、大衆の心を組織的に操作することが不可欠である」。これは陰謀論ではない。彼は堂々と、科学的に、そして誇らしげにこう宣言する。「プロパガンダは目に見えない政府の執行部門である」。

重要なのは、バーネイズがこれを「悪」とは考えていないことだ。彼にとって、大衆の心を形成することは、複雑な現代社会を円滑に機能させるための必要な技術なのだ。彼はフロイトの甥として心理学を学び、第一次世界大戦中のクリール委員会での経験から、大衆心理を操作する技術を完成させた。戦時のプロパガンダが平時にも応用できることを発見したのだ。

チョムスキーが引用するように、バーネイズは「軍隊が身体を鍛錬するのと同じように、大衆の心を鍛錬する」ことが可能だと述べた。この発言は、民主主義に対する根本的な挑戦である。もし少数の「知的な人々」が大衆の意見を形成できるなら、選挙や世論調査は何を意味するのか?

群集心理学とステレオタイプの武器化

バーネイズの手法の核心は、群集心理学にある。彼はトロッターとル・ボンの研究を引用し、「集団は個人とは異なる精神的特性を持つ」と指摘する。集団は論理的に思考しない。衝動、習慣、感情で動く。そして何より、「信頼できるリーダーの模範に従う」という本能に支配される。

この洞察は、現代の情報環境を理解する上で決定的に重要だ。人々は自分で考えているつもりでも、実際には「ゴム印」のように、外部から刻印された印象の混合物に従っているだけだ、とバーネイズは言う。「広告のスローガン、社説、発表された科学データ、タブロイド紙の些細な記事、歴史の決まり文句などが書き込まれたゴム印であり、独自の思想はまったく含まれていない」。

さらに重要なのは、彼が「ステレオタイプ」の力を理解していたことだ。かつて「利益」という言葉が政治家を葬り去ったように、「ボルシェビキ」という言葉が特定の行動から大衆を遠ざけるように、適切な言葉やイメージは集団の感情を瞬時に操作できる。

この技術は今日、さらに洗練されている。「陰謀論」「反ワク」「デマ」「誤情報」といった言葉は、まさにバーネイズが描いた「決まり文句」として機能している。これらの言葉を貼り付けるだけで、内容の検討なしに議論を封じることができる。バーネイズが指摘したように、「単語が連想させるイメージから切り離し、区別するように説得することは不可能」なのだ。

集団の解剖学と「急所」の発見

バーネイズの革新は、大衆を単なる無定形の集団として扱わなかったことにある。彼は社会を「集団の解剖学」として理解した。宗教団体、友愛団体、商業団体、愛国団体、社会団体、地域団体…これらすべてが相互に絡み合い、それぞれに「キーパーソン」がいる。

「指導者に影響を与えることができれば、彼らの意識的な協力の有無にかかわらず、自動的に彼らが動かしている集団に影響を与えることができる」。この戦略は、直接的な大衆広告よりもはるかに効率的だ。

ベルベット産業の例は示唆的だ。ベルベットが流行遅れになったとき、彼らはアメリカ市場に直接働きかけたのではない。リヨンのメーカー、パリのクチュリエ、著名な伯爵夫人、影響力のある建築家…これらの「急所」に働きかけることで、需要を創造したのだ。

この手法は今日、あらゆる分野で使われている。新薬の承認を得たい製薬会社は、一般大衆ではなく、医学会の権威、主要な学術誌の編集者、規制当局の官僚に焦点を当てる。気候変動に関する「コンセンサス」を作りたい勢力は、主要な科学者、メディアのサイエンスライター、環境団体のリーダーに影響を与える。

重要なのは、これらの「キーパーソン」自身が操作されていることに気づいていない場合が多いということだ。彼らは自分の判断で行動していると信じている。しかし実際には、彼らの意見が形成される環境そのものが、研究資金、出版機会、社会的承認という形で操作されているのだ。

フロイト心理学と欲望の操作

バーネイズがフロイトの甥であることは偶然ではない。彼はフロイト心理学の核心的洞察を商業化した最初の人物だ。「人間は、自分の行動の動機となる本当の理由を意識することはほとんどない」。この洞察が、現代の広告と政治キャンペーンの基礎となった。

自動車の例は典型的だ。人は技術的特徴を慎重に研究して車を買うと思っているが、実際には友人が買ったから、近所の人に見せたいから、大学の友愛会の色だから買っているのだ。「人は自分では隠している動機によって非常に大きく動かされている」。

バーネイズは、製品を直接売るのではなく、欲望そのものを創造する。ベーコンの例は有名だ。古い方法なら「もっとベーコンを食べろ」と繰り返し広告するだろう。しかし新しい方法は違う。医師たちに「ベーコンは健康に良い」と公言させるのだ。「人が医師に依存する心理的関係を理解しているので、大勢の人が医師の助言に従うことを数学的に確実に知っている」。

この手法は今日、あらゆる分野で使われている。製薬会社は医師に働きかけ、医師は患者に薬を勧める。食品業界は栄養学者に働きかけ、栄養学者は消費者に食事指導をする。テック企業は研究者に資金を提供し、研究者は「エビデンス」を生産する。

重要なのは、人々が自分で決めていると信じていることだ。医師の助言に従って薬を飲む患者は、自分が「インフォームド・コンセント」を与えたと思っている。しかし、その医師の意見がどのように形成されたか、どんな研究が資金を得て出版され、どんな研究が抑圧されたかは見えない。

民主主義という名の寡頭制

バーネイズの最も衝撃的な主張は、これらすべてが「民主主義の枠組みの中で」行われるということだ。彼は民主主義を否定しない。むしろ、民主主義こそがプロパガンダを必要とすると主張する。

「文明がより複雑になり、目に見えない政府の必要性がますます明らかになるにつれて、世論を統制するための技術的手段が発明され開発されてきた」。これは進歩の物語として語られる。しかし本質的には、民主主義の形骸化を正当化する議論だ。

バーネイズは「民衆の声は神の声」という教義を否定する。「民衆の声は人民の心を表し、その心は人民が信じる集団指導者や世論操作を理解する人たちによって作り上げられる」。つまり、民主主義は循環論法なのだ。人々は自分たちの意見だと思っているものに従うが、その意見は「知的少数派」によって形成されている。

この構造は、現代の「専門家支配」と完全に一致する。パンデミック時、人々は「科学に従え」と言われた。しかし、どの科学者が発言権を得るか、どの研究が資金を得るか、どの意見がメディアで取り上げられるかを決めているのは誰なのか?バーネイズが言う「見えない政府」である。

彼が政治家に向けて述べた言葉は示唆的だ。「政治家が自分で考えているつもりでも、彼の考えを形成しているのは他の誰かだ」。これは、選挙で選ばれた代表者でさえ、より深い権力構造の中で操作されていることを示唆している。

企業と大衆の「パートナーシップ」

バーネイズは、20世紀初頭に起こった企業と大衆の関係の変化を正確に捉えている。「何がメインストリーム・メディアをメインストリームにしているのか」という問いへの答えは、実は単純だ。企業が大衆の承認を必要とするようになったからだ。

19世紀の「公衆には関係ない」という態度は、もはや通用しない。大量生産は大量消費を必要とし、大量消費は大衆の好意を必要とする。株式発行も、労働問題も、規制対応も、すべて世論に依存する。「ビジネスは、一般大衆との関係が、ある製品の製造と販売にとどまらず、それ自体、そして、一般大衆の心の中に存在するあらゆるものの販売も同時に含んでいることに気づいている」。

しかし、この「パートナーシップ」は対等ではない。メトロポリタン生命保険会社の例は示唆的だ。彼らは無料の健康調査や料理教室を提供し、建物をランドマークにした。これらはすべて「善意」を生み出すためだ。しかし最終的な目的は、より多くの保険を売ることである。

この手法は今日、「企業の社会的責任」や「ESG」という形で洗練されている。企業は環境保護や社会正義を支持し、チャリティー活動を行う。しかしこれらはすべて、長期的な利益のための投資である。バーネイズが言うように、「利己的な利益と公共の利益とが一致する積極的な布教活動を行う少数民族の中に、アメリカの進歩と発展がある」。

問題は、この「一致」が誰によって定義されるかだ。企業が「公共の利益」だと主張することが、本当に公共の利益なのか?製薬会社が「健康のため」と言ってワクチンを推進するとき、食品業界が「栄養改善のため」と言って加工食品を売るとき、テック企業が「つながりのため」と言ってソーシャルメディアを提供するとき、これらは本当に公共の利益なのか?

教育への浸透と「啓蒙」の武器化

バーネイズは教育をプロパガンダの重要な戦場と見なす。彼の批判は今日でも当てはまる。「教育者は、教室にいる個々の生徒の思考を刺激する訓練は受けているが、一般大衆の教育者としての訓練は受けていない」。

彼の提案は表面的には合理的に見える。大学はもっと一般大衆と関わるべきだ、研究成果を分かりやすく伝えるべきだ、PRの専門家を雇うべきだ。しかし、これが何を意味するかを考えると恐ろしい。

ハーバード大学のマヤ暦の例は典型的だ。「この発見が、どうして大衆紙で報道されることになったのか」。それは、PRの専門家が「劇的に演出した」からだ。本来なら学術誌にしか載らなかった発見が、一般紙の見出しになる。これは良いことなのか?

表面的には、科学の民主化に見える。しかし実際には、何が「ニュース」になるかを企業や大学のPR部門が決めているということだ。重要な研究でも「劇的」でなければ無視され、些細な発見でも「演出」次第で大ニュースになる。

さらに深刻なのは、企業が教育内容に直接介入している例だ。アイボリー石鹸の彫刻コンテストは「教育的」に見える。しかし本質的には、子供たちを使ったマーケティングだ。「学校間、学区間、都市間でコンテストが開催された」。全国の子供たちが、特定のブランドの石鹸で作品を作り、母親たちが「削りかすや不完全な作品を洗濯用に保存していた」。

この手法は今日、さらに洗練されている。製薬会社は医学部に資金を提供し、カリキュラムに影響を与える。テック企業は学校にデバイスを寄付し、デジタル教育を推進する。食品業界は栄養学の研究に資金を提供し、「バランスの取れた食事」の定義に影響を与える。

政治キャンペーンと「同意の製造」

バーネイズの政治分析は今日でも驚くほど正確だ。彼は、政治家が古い手法にしがみついていることを批判する。ビジネスがプロパガンダの技術を洗練させている間、政治は「1900年当時のビジネスの広告手法と同じように古臭く、効果的とは言えない」。

彼の提案は体系的だ。まず、「目的を決定する」。つまり綱領を作る。次に、「大衆と大衆のニーズについて、できるだけ科学的な分析を行う」。そして、「資金調達キャンペーン」を透明に行い、「予算」を立てる。最後に、「状況を作り出す」ことで大衆の関心を操作する。

低関税の例は典型的だ。古い方法なら「高関税はあなたの買うものの値段を上げるから、私に投票し、低関税にしなさい」と直接訴える。しかし新しい方法は違う。「20の都市で同時に低関税の展示会を開き」「著名な男女が参加する」「ソーシャルワーカーの意見を聞く」「毛織物の衣服をボイコットさせ」る。つまり、直接説得するのではなく、大衆が「自然に」低関税を望むような環境を作り出すのだ。

これは今日の政治キャンペーンそのものだ。政治家は政策を説明するのではなく、「ストーリー」を作る。イベントを演出し、シンボルを操作し、感情に訴える。チェコスロバキアの独立宣言を月曜日にずらした例は、この操作の露骨さを示している。「ケーブルは歴史を作る、だから日付が変わった」。

重要なのは、これが「教育による政府」として正当化されていることだ。バーネイズは「プロパガンダによる政府なのだろうか?あなたが望むなら、教育による政府とでも呼んでほしい」と言う。しかし、「状況を作り出し、重要な出来事を高く評価し、重要な問題を劇化する」ことを「教育」と呼ぶのは欺瞞ではないか?

社会運動とNGOの両義性

バーネイズは社会奉仕活動もプロパガンダの一形態として扱う。「社会サービスは、実際、多くの場合、プロパガンダと同じである」。この洞察は重要だ。

全米有色人地位向上協会のキャンペーンは成功例として提示される。彼らはアトランタで会議を開き、南部の指導者を巻き込み、メディアの注目を集めた。表面的には、これは正当な社会運動に見える。しかし、バーネイズが関心を持つのは「技術」であって「正義」ではない。

彼にとって、黒人の権利運動も、結核撲滅キャンペーンも、乳幼児死亡率削減も、すべて同じ技術で扱える「プロパガンダ」なのだ。「歯の保存のためのキャンペーンは、人々の習慣を、より頻繁に歯を磨く方向に変えようとするものである」。これは良いことだが、同じ技術が悪いことにも使えることを忘れてはならない。

ここに根本的な問題がある。技術は中立ではない。プロパガンダの技術は、それ自体が特定の権力構造を前提としている。「知的少数派」が「無精者たち」を導くという構造だ。この構造は、たとえ「良い目的」のために使われても、民主主義の基盤を侵食する。

さらに、誰が「良い目的」を定義するのか?バーネイズは「真実でない、あるいは非社会的なプロパガンダ」を批判する。しかし、何が「社会的」なのかは誰が決めるのか?彼が依頼人として選ぶのは、支払い能力のある組織だ。つまり、企業、政府、富裕な財団である。

今日のNGOや社会運動を見ると、この構造がより複雑になっていることが分かる。表面的には草の根運動に見えても、実際には大企業や財団の資金で動いている例が多い。「気候正義」を訴える団体が石油会社の資金を受け取っていたり、「公衆衛生」を推進する団体が製薬会社と密接な関係を持っていたりする。

メディアと「ニュース」の製造

バーネイズのメディア論は今日でも重要だ。彼は、編集者が「ニュースとしての価値」に基づいて記事を選ぶと主張する。「ある項目がプロパガンダかどうかは問わない。重要なのは、それがニュースであるかどうかである」。

これは表面的には中立的に聞こえる。しかし、誰が「ニュース」を作るのか?バーネイズは明確に述べる。「PR担当者があるアイデアに生命を吹き込み、それを他のアイデアや出来事の中に位置づけることができれば、そのアイデアにふさわしい世間の注目を浴びることができる」。

つまり、「ニュース」は自然に発生するのではなく、製造されるのだ。大西洋横断無線電話、ヘンリー・フォードの新車、これらはすべて「ニュース」だが、それは意図的に「イベント化」されたからだ。

この構造は今日、さらに洗練されている。PRエージェンシー、シンクタンク、専門家ネットワーク、これらすべてが「ニュース」を製造し、メディアに提供している。記者は「情報源」に依存し、「情報源」はPR担当者によって管理されている。

重要なのは、記者自身がこの構造に気づいていない場合が多いということだ。彼らは「客観的」に報道していると信じている。しかし、取材対象へのアクセス、提供される資料、締め切りのプレッシャー、これらすべてが彼らの報道内容を形成している。

さらに、「ニュースとしての価値」という概念自体が、特定の権力構造を反映している。権威のある機関からの発表は自動的に「ニュース」になるが、草の根の運動は「劇的」でなければ無視される。企業の新製品発表は「イノベーション」として報道されるが、その製品の問題点を指摘する研究は「議論の余地がある」として軽視される。

科学と「客観性」の幻想

バーネイズは科学を「純粋科学」と「応用科学」に分けて論じる。彼の時代、「産業界の利害関係者は、現代の科学的進歩に関する正確な真実を、学校、大学、大学院のコースに提供することができる。そうすることができるだけでなく、そうする義務を負っているのだ」。

この主張は表面的には合理的に見える。科学研究には資金が必要で、産業界がそれを提供する。しかし、資金提供者が研究の方向性に影響を与えないという前提は成り立つのか?

バーネイズ自身が例を挙げている。「アメリカン・テレフォン・アンド・テレグラフ・カンパニー、ウェスタン・エレクトリック・カンパニー、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー、ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーなどは、科学研究の重要性を認識した。彼らはまた、自分たちのアイデアを十分に成功させるためには、一般の人々に分かりやすく伝えなければならないことも理解している」。

問題は、「分かりやすく伝える」ことと「操作する」ことの境界線が曖昧なことだ。企業が資金を提供する研究は、企業に有利な結果が出やすい。これは意図的な不正ではなく、研究設計、データ選択、解釈の段階で微妙に働く構造的バイアスだ。

さらに、どの研究が資金を得るか、どの研究が出版されるか、どの研究者がメディアで「専門家」として扱われるか、これらすべてが権力構造によって形成されている。「客観的科学」という理想は、実際には特定の利害関係者の視点を「中立」として提示する装置になっている。

今日、この構造はさらに複雑になっている。製薬会社は医学研究を支配し、テック企業はAI研究を支配し、エネルギー企業は気候研究に影響を与える。「科学的コンセンサス」と呼ばれるものは、しばしば特定の資金提供パターンの結果である。

芸術と「美」の商品化

バーネイズの芸術論は、文化がいかに商業化されるかを示している。彼は、芸術家と産業界の「協力」を推進する。「芸術家は、大衆の味覚を向上させるために産業界と協力し、醜いモチーフの代わりに美しいモチーフを一般消費者に提供し、さらに、自分自身の認識とお金を確保する機会がある」。

チェニー・ブラザーズのシルクの例は典型的だ。彼らはエドガー・ブラントという著名な芸術家の作品をシルクのデザインに応用し、ルーヴル美術館で展示した。「この絹織物は、商業的に大量に生産される製品であったが、有名な芸術家の作品と、偉大な美術館と結びつくことによって、人々の尊敬の念を集めることになった」。

これは芸術の民主化なのか、それとも商品化なのか?バーネイズは前者を主張するが、実際には後者だ。芸術は製品を売るための道具になり、美術館は企業のマーケティング装置になる。

さらに問題なのは、これが「美」の基準そのものを変えてしまうことだ。パリのファッションリーダーやルーヴル美術館が「権威」として機能し、大衆はその基準に従う。しかし、誰がこれらの「権威」を権威たらしめるのか?しばしば、それは資金力のある産業界だ。

美術館の役割についてのバーネイズの批判は鋭い。「美術館は、その所有する美術の宝物を単に保存するだけでなく、一般大衆が理解できる言葉でその意味を早急に説明すべきではないだろうか」。しかし、彼が提案する解決策は、美術館がPRの専門家を雇い、大衆に「訴える」ことだ。

これは教育なのか、操作なのか?美術館がブロンクスのアパートに住む主婦に「届く」ために、商業的な陶磁器メーカーと協力するとき、それは美術の普及なのか、消費主義の拡大なのか?

女性運動と「解放」のパラドックス

バーネイズは女性の政治参加をプロパガンダの成功例として扱う。参政権運動は「ある目的を達成するためのプロパガンダの可能性を示した」。しかし、この「成功」の意味を考えると複雑だ。

彼は女性団体が立法に影響を与える方法を詳しく説明する。「14の女性団体による立法委員会として組織されている。これらの組織は、立法プログラムを立案し、この立法プログラムを実際に国の法律として成立させるために、プロパガンダという近代的な技術を駆使する」。

表面的には、これは民主的参加の拡大に見える。しかし、バーネイズの関心は「技術」にある。女性たちが自分たちの利益を追求することではなく、プロパガンダの技術を使うことに価値がある。

さらに、バーネイズ自身が女性の「解放」を商業的に利用した例がある。彼は女性にタバコを吸わせるキャンペーンを行った。彼はアイリーン・キャッスルなどの有名人を使い、タバコを「自由のたいまつ」として演出した。これは「女性解放」のシンボルとして宣伝されたが、実際には製品を売るための操作だった。

この例は、社会運動がいかに商業化されるかを示している。「解放」「進歩」「権利」といった言葉は、しばしば製品を売るための道具になる。今日も同じことが起こっている。「フェミニズム」は化粧品を売るために使われ、「多様性」はテック企業のブランディングに使われ、「環境保護」は「グリーン」製品のマーケティングに使われる。

商品間競争と「需要の創造」

バーネイズの経済分析は今日でも重要だ。彼は「商品間競争」という新しい現象を指摘する。「石材は木材に、リノリウムはカーペットに、オレンジはリンゴに、トタンは屋根材のアスベストに対抗しているのだ」。

この競争は、単に価格や品質の競争ではない。それぞれの産業が「大衆の習慣」そのものを変えようとする競争だ。チェイニー氏の演説は皮肉に満ちている。「あなたは婦人服商人の代表であるか…毛皮産業に仕えているかもしれない。女性のコートに大きな毛皮の襟をつけるスタイルを推進することで、女性に小さくて安価な帽子をかぶせることを強要し、帽子ビジネスを台無しにしているのである」。

ピアノと自動車、ベルベットと綿、これらすべてが「消費者のドル」を奪い合っている。しかし、消費者は自分で選んでいると思っている。実際には、各産業が膨大な資金を使って大衆の欲望を形成しているのだ。

「音楽室」の例は典型的だ。ピアノメーカーは直接ピアノを売るのではなく、「音楽室」という概念を普及させる。有名なデコレーター、希少なタペストリー、著名なバイオリニスト、社会のリーダー…これらすべてを動員して、音楽室というアイデアを「大衆の意識の中に位置づける」。「そして、音楽室を持っている人、あるいは応接間の一角を音楽コーナーにした人は、自然にピアノを買おうと思うようになる。それは、彼自身のアイデアとして浮かんでくるのだ」。

この手法は今日、さらに洗練されている。企業は単に製品を売るのではなく、「ライフスタイル」を売る。スマートフォンは通信機器ではなく「つながり」を売り、SUVは車ではなく「冒険」を売り、有機食品は食べ物ではなく「健康」を売る。

重要なのは、これらすべてが「自由な選択」として経験されることだ。人々は自分で選んでいると思っている。しかし、選択肢そのもの、選択の基準、選択を取り巻く環境、これらすべてがプロパガンダによって形成されているのだ。

大量生産と「標準化」のジレンマ

バーネイズは大量生産の矛盾を鋭く捉えている。「大量生産は、標準化された製品を提供し、そのコストは販売される量に応じて減少する傾向がある。もし、低価格が、同じように生産されたライバル製品との競争の唯一の基礎であるならば、熾烈な競争が起こり、それは、産業からすべての利益とインセンティブを奪うことによってのみ終了することができる」。

解決策は「差別化」だ。「メーカーが単なる安さ以外のセールスポイントを開発し、大衆の心にその製品に他の魅力を与え、製品をわずかに修正するようなアイデア、同じラインの製品から区別するような独創的な要素を持たせる」。

タイプライターを明るい色で塗る、これは機能的改善ではなく「スタイル」の問題だ。しかし、プロパガンダによって「スタイル」が重要視されるようになれば、それは経済的価値を持つ。

この構造は今日、さらに極端になっている。スマートフォンは機能的にはほぼ同じだが、ブランド、デザイン、「エコシステム」によって差別化される。水はすべて同じH2Oだが、ボトルのデザインとマーケティングによって価格が10倍も違う。

問題は、この「差別化」が本当の多様性を生み出すのではなく、むしろ表面的な違いで実質的な同一性を隠すことだ。大量生産の効率性は維持されるが、消費者には「選択」という幻想が与えられる。

さらに、この構造は計画的陳腐化を促進する。製品を本当に改良するのではなく、「新しいモデル」を出すことで消費を刺激する。ファッション業界がこの手法を完成させた。「今シーズンの流行」は来シーズンには時代遅れになる。これは環境的にも倫理的にも問題だが、経済システムの論理では「成長」のために必要とされる。

教育システムの変容と「人的資本」

バーネイズの教育論には二重の意味がある。表面的には、教育者が大衆とコミュニケーションする能力を高めるべきだという主張だ。しかし、より深いレベルでは、教育そのものをプロパガンダの道具にしようとする試みがある。

彼は教育者の「劣等感」を指摘する。「教師は、アメリカ社会で珍重されている客観的目標や客観的達成に重点が置かれている世界に身を置いている。先生自身は、給料はそこそこか低い」。この劣等感が、教育者を社会の周縁に追いやっていると彼は主張する。

解決策として、彼は教育者がプロパガンダの技術を学ぶべきだと提案する。「教職は、一般大衆を啓蒙し、自らが奉仕する社会との密接な関係を主張するために、非常に明確なプロパガンダを行う権利がある」。

しかし、これは本当に解決策なのか?教育者が「PR専門家」になれば、教育の独立性はさらに損なわれるのではないか?バーネイズ自身が例に挙げるように、企業は教育内容に直接介入している。石鹸会社の彫刻コンテスト、食品会社の栄養教材、これらは教育なのか、マーケティングなのか?

今日、この傾向はさらに進んでいる。「STEM教育」はテック企業が推進し、「金融リテラシー」は金融機関が教え、「栄養教育」は食品業界が提供する。これらは表面的には教育だが、実際には特定の産業の利益を反映している。

さらに深刻なのは、教育そのものが「人的資本への投資」として再定義されていることだ。学生は「将来の労働者」として扱われ、教育は「就職準備」として理解される。批判的思考や教養ではなく、「雇用可能性」が重視される。

慈善事業と「善意の産業化」

バーネイズは社会奉仕活動をプロパガンダの一形態として扱うが、これは慈善事業の本質的な変化を示している。19世紀の慈善は個人的で、しばしば宗教的動機に基づいていた。20世紀の慈善は組織化され、プロフェッショナル化され、PR化された。

彼が挙げる例は示唆的だ。結核撲滅、乳幼児死亡率削減、歯の健康増進、これらはすべて正当な目的だが、バーネイズの関心は「技術」にある。どうすれば大衆の行動を変えられるか?どうすれば寄付を集められるか?どうすればメディアの注目を集められるか?

近東救済会の例。「近東救済会、ニューヨーク貧民条件改善協会、その他すべての団体は、歯磨き粉のチューブを売るように世論に働きかけなければならないのである」。この比較は示唆的だ。慈善事業と商業広告が同じ技術を使うなら、両者の境界線はどこにあるのか?

今日、この構造はさらに複雑になっている。大企業の「慈善事業」はPR戦略の一部だ。ビル・ゲイツ財団、ロックフェラー財団、オープン・ソサエティ財団、これらは巨額の資金を持ち、政策に大きな影響力を持つ。しかし、彼らは選挙で選ばれていない。誰が彼らの優先順位を決めるのか?

さらに、「社会的企業」というコンセプトが台頭している。企業が「社会問題の解決」をビジネスモデルに組み込む。これは良いことなのか?それとも、あらゆる人間活動を商品化し、市場化する傾向の表れなのか?

メディア産業の構造変化

バーネイズの時代から今日まで、メディア産業は劇的に変化したが、彼が指摘した基本構造は変わっていない。むしろ強化されている。

彼は新聞が「ニュースとしての価値」に基づいて記事を選ぶと主張した。しかし今日、何が「ニュース」なのかを決める構造そのものが変化している。アルゴリズムが「エンゲージメント」に基づいてコンテンツを選び、「クリックベイト」が最適化され、「バイラリティ」が目標になる。

ラジオについて彼が述べたことは、今日のソーシャルメディアにそのまま当てはまる。「将来、放送空間がそのように公然と売られるようになろうとも、あるいはメッセージが、まっすぐな娯楽やニュースの形で、あるいは特定のグループのための特別番組として大衆に届くようになろうとも、宣伝者はその条件を満たし、それを利用する用意をしておかなければならないのである」。

今日、「インフルエンサー・マーケティング」はまさにこれだ。広告は広告として明示されない。製品推奨は「個人的な意見」として提示される。企業は「オーガニックな」コンテンツを作り、「バイラル」になるよう設計する。

さらに、「ファクトチェック」という新しい形態の検閲が登場している。表面的には、誤情報と戦うための中立的なメカニズムに見える。しかし、誰が「ファクトチェッカー」を資金提供し、誰が「誤情報」を定義するのか?しばしば、それは既存の権力構造だ。

監視資本主義と「予測市場」

バーネイズが夢見た世界は、今日完全に実現している。いや、彼の想像を超えている。彼の時代、プロパガンダ担当者は大衆の反応を推測するしかなかった。今日、デジタル技術は個々人の行動をリアルタイムで追跡し、予測する。

ショシャナ・ズボフが「監視資本主義」と呼ぶシステムは、バーネイズのプロパガンダ理論の極限形態だ。GoogleとFacebookは単に広告を売るのではなく、人々の行動を予測し、修正する能力そのものを売っている。

バーネイズは「大衆の心を形成する」と言った。今日のテック企業は、もっと効率的にそれをやっている。彼らはアルゴリズムを使って、個々人の「エンゲージメント」を最大化する。これは中立的な技術に見えるが、実際には特定の行動パターンを強化し、他の行動を抑制している。

重要なのは、これがもはや「説得」ではないということだ。バーネイズの時代、プロパガンダは人々を説得しようとした。今日、テック企業は説得する必要がない。彼らは環境そのものをコントロールし、選択肢をキュレートし、情報の流れを操作する。人々は「自由に選んでいる」と思っているが、選択肢はすでに狭められている。

さらに、「行動ナッジ」という概念が政策に組み込まれている。リチャード・セイラーのような行動経済学者は、「選択アーキテクチャ」を通じて人々の行動を「より良い」方向に導くことを提案する。これは「リバタリアン・パターナリズム」と呼ばれるが、実際には「見えない政府」の洗練された形態だ。

日本における「空気の支配」

バーネイズの理論を日本の文脈で考えると、興味深い類似点と相違点が見えてくる。日本には「空気を読む」という独特の社会的圧力がある。これは明示的なプロパガンダではないが、非常に強力な統制メカニズムだ。

山本七平が「空気の研究」で指摘したように、日本社会では論理的な議論よりも「空気」が決定を左右する。パンデミック時、多くの人がマスクを着用したのは科学的根拠に基づいてではなく、「みんながしているから」だった。

この「空気」は、バーネイズが言う「集団心理」の極端な形態だ。しかし、日本の場合、それを意図的に操作する必要さえない。人々は自発的に同調し、異論を自己検閲する。これは「忖度」という言葉に象徴される。

パンデミック時の日本の対応は、この構造を如実に示した。政府の政策は科学的根拠が薄弱だったが、大多数が従った。異論を唱える専門家は「空気を乱す」者として排除された。メディアは政府の方針を増幅し、批判的報道は最小限だった。

重要なのは、これが強権的な弾圧ではなく、自発的な同調だったことだ。バーネイズが夢見た「見えない政府」は、日本では文化的メカニズムとして既に存在していた。

しかし、この構造にも変化の兆しがある。インターネットは「空気」の外に出る空間を提供した。匿名性は忖度の必要性を減らした。若い世代は伝統的な権威に懐疑的になっている。この変化がどこに向かうのかは不確かだが、一つ確かなのは、日本社会も「プロパガンダの民主化」という新しい段階に入っているということだ。

最終的考察:プロパガンダの両義性

バーネイズの『プロパガンダ』を読み終えて、複雑な感情が残る。一方で、彼の率直さは評価に値する。多くのPR専門家が自分の仕事を「コミュニケーション」や「教育」と呼ぶ中、彼は正直に「プロパガンダ」と言う。彼は技術を隠さず、むしろ自慢する。

他方で、彼の世界観は根本的に反民主的だ。「知的少数派」が「無精者たち」を導くという前提は、啓蒙主義的な傲慢さだ。しかし、彼が描く構造は現実に存在する。それを否定するのは現実逃避だ。

重要な問いは、プロパガンダを完全に拒否できるのかということだ。バーネイズは言う。「プロパガンダは決して廃れることはない。知性ある人々は、プロパガンダが、生産的な目的のために戦い、混沌から秩序をもたらすのを助けることのできる現代的な道具であることを理解しなければならない」。

この主張には一理ある。複雑な社会では、何らかの調整メカニズムが必要だ。しかし、そのメカニズムが少数の手に集中し、大多数から隠されているとき、それは民主主義ではなく寡頭制だ。

解決策は何か?完全な透明性は不可能だし、望ましくもない。しかし、プロパガンダの技術を広く理解することは、対抗力を生み出す。バーネイズ自身が認めるように、「大衆がより知的になれば、商業企業は新しい基準を満たすようになる」。

今日、私たちは情報の氾濫の中にいる。しかし、情報の量は理解を保証しない。むしろ、プロパガンダはより洗練され、より見えにくくなっている。「ファクトチェック」「科学的コンセンサス」「エビデンスに基づく政策」といった言葉自体が、新しい形態のプロパガンダになっている。

最も重要なのは、メタ認知だ。自分の意見がどのように形成されたか、誰の利益に奉仕しているか、どんな情報が見えていないか、これらを常に問い続けることだ。バーネイズが教えてくれたのは、「見えない政府」の存在だ。その存在を認識することが、少なくとも抵抗の第一歩になる。

プロパガンダは確かに「決して廃れることはない」。しかし、その技術を独占する少数の手から、より多くの人々の手に広げることはできる。これは新しい形態の民主化かもしれない。完璧ではないが、現在の寡頭的構造よりはましだ。

バーネイズは「知的少数派」が社会を導くべきだと信じた。しかし、誰が「知的」かを誰が決めるのか?むしろ、私たちは「知的多数派」を目指すべきだ。プロパガンダの技術を隠すのではなく、教えるべきだ。そうすれば、人々は自分を操作しようとする試みに対してより抵抗力を持つようになる。

これは楽観的すぎるかもしれない。しかし、バーネイズの悲観的なリアリズムに全面的に降伏することも間違いだ。彼が描いた「見えない政府」は現実だが、それが永遠に続くという保証はない。テクノロジーは権力を集中させることもできるが、分散させることもできる。どちらの方向に向かうかは、私たちの選択次第だ。

 

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