
『The Caliph and the the Imam:The Making of Sunnism and Shiism』Toby Matthiesen 2023
『カリフとイマーム:スンニ派とシーア派の形成』トビー・マティーセン 2023
目次
- 謝辞:/ Acknowledgements
- 図版一覧:/ List of Plates
- 地図一覧:/ List of Maps
- 綴りと翻字について:/ Note on Spelling and Transliterations
- 序論:カルバラーからダマスカスへ / Prologue:From Karbala to Damascus
- 第一部 スンニ派とシーア派の形成、632-1500年 / Part I. The Formation of Sunnism and Shiism, 632–1500
- 第1章 預言者の後 / After the Prophet
- 第2章 スンニ派の再興と十字軍 / Sunni Reassertion and the Crusades
- 第3章 論争と宗派的曖昧さ / Polemics and Confessional Ambiguity
- 第二部 ムスリム帝国の形成、1500-1800年 / Part II. The Shaping of Muslim Empires, 1500–1800
- 第4章 宗派形成の時代 / The Age of Confessionalisation
- 第5章 インド亜大陸のムスリム王朝 / Muslim Dynasties on the Indian Subcontinent
- 第6章 18世紀の改革と再発明 / Reform and Reinvention in the Eighteenth Century
- 第三部 帝国と国家、1800-1979年 / Part III. Empire and the State, 1800–1979
- 第7章 イギリス領インドとオリエンタリズム / British India and Orientalism
- 第8章 オスマン帝国の再編と欧州の介入 / Ottoman Reorganisation and European Intervention
- 第9章 委任統治 / The Mandates
- 第10章 ムスリムの対応 / The Muslim Response
- 第四部 革命と競合、1979年- / Part IV. Revolution and Rivalry, 1979–
- 第11章 殉教の宗教 / The Religion of Martyrdom
- 第12章 革命の輸出と封じ込め / Export and Containment of Revolution
- 第13章 政権交代 / Regime Change
- 第14章 アラブの蜂起 / The Arab Uprisings
- 結論:全ての場所はカルバラー / Conclusion:Every Place is Karbala
- 注:/ Endnotes
- 参考文献:/ Bibliography
- 索引:/ Index
本書の概要
短い解説:
本書は、預言者ムハンマドの死から現代に至るまで、スンニ派とシーア派が政治的・社会的力学の中でどのように形成され、対立し、相互に定義し合ってきたかを、長期的な視座から描き出す歴史書である。
著者について:
著者トビー・マティーセンは、オックスフォード大学中東センターで上級研究員を務め、現在はブリストル大学で教鞭をとる中東・イスラーム研究者である。特に湾岸地域とシーア派ネットワークの研究で知られ、長年にわたる現地調査と多言語資料の渉猟に基づき、宗派間関係を帝国・国家間の競合として捉える独自の視点を提示する。
テーマ解説
スンニ派とシーア派の分裂は、単なる教義上の分岐ではなく、カリフ制やイマーム制をめぐる権力闘争と、それを支える諸帝国の興亡によって絶えず再定義されてきた。
キーワード解説
- 宗派形成(Confessionalisation):16世紀以降、サファヴィー朝とオスマン朝という二大帝国が、国内の統一と周辺国との対抗上、シーア派/スンニ派を国教化した過程を指す。このプロセスにより、それまで流動的だった宗派帰属が固定化された。
- 宗派的曖昧さ(Confessional Ambiguity):厳格な宗派境界が引かれる以前、あるいは国境を越えた交流において、ムスリムが自身の帰属を明確にせず、あるいは状況に応じて使い分けていた状態。スーフィズム(神秘主義)はその典型例である。
- カルバラー(Karbala):680年にフサインがウマイヤ朝軍と戦い殉教した地。シーア派にとっては最大の悲劇と義のための闘争の原点であり、その追悼儀式(アーシューラー)は、歴史を通じてシーア派の集団的アイデンティティを形成する核心となった。本書のタイトル「全ての場所はカルバラー」は、この出来事が現代の抗議運動にも象徴として用いられることを示す。
- ウラマー(Ulama):イスラーム法学者・神学者の総称。スンニ派、シーア派いずれにおいても、法解釈や教育を通じて共同体を導く役割を担い、国家と社会の関係を媒介する重要なアクターである。19世紀以降、その権威と国家との関係に変化が生じる。
- オリエンタリズム(Orientalism):欧州、特にイギリスがインド統治を通じてイスラーム法や歴史を研究し、スンニ派とシーア派を「法体系」として分類・固定化した学知と支配の様式。これが現代の宗派主義的理解の基盤の一部を形成した。
3分要約
本書『カリフとイマーム』は、イスラーム世界最大の分岐であるスンニ派とシーア派の関係を、7世紀から現代までの「超長期(longue durée)」にわたって描き出す野心作である。著者トビー・マティーセンは、両派の差異は教義上の固定的なものではなく、政治的抗争、帝国の興亡、そして国家間の競合の中で不断に構築・再構築されてきた動的な関係であると主張する。
物語は、預言者ムハンマドの死後、後継者(カリフ)をめぐる最初の政治的分裂に始まる。第1章から第3章では、ウマイヤ朝、アッバース朝期を通じて、権力から排除されたアリーの支持者(シーア・アリー)が、イマーム概念を中心にした独自の宗教的アイデンティティを形成していく過程を追う。しかし、この時期の宗派境界は現代ほど明確ではなく、スーフィー(神秘主義者)などは両派の間を横断する「宗派的曖昧さ」の中で生きていた。十字軍やモンゴル帝国の侵攻といった外圧は、スンニ派の自己主張を強める一方で、シーア派が権力の中枢に関与する契機ともなった。
第二部(第4章~第6章)は、16世紀以降の「宗派形成(confessionalisation)」の時代を扱う。サファヴィー朝がシーア派十二イマーム派を国教と定め、オスマン朝がそれに対抗してスンニ派正統性を強化したことで、両派の境界線は領土と結びつき、より固定的なものへと変貌する。この動きは中東のみならず、ムガル朝インドなど周辺地域のムスリム王朝にも波及し、新たな宗派間の緊張と交流を生み出した。18世紀には、イブン・アブドゥルワッハーブとサウード家による改革運動が登場し、シーア派への敵意を先鋭化させる。
第三部(第7章~第10章)では、19世紀から20世紀半ばの西洋帝国主義の時代に焦点が当てられる。イギリス領インドでは、オリエンタリズムの知と植民地行政が、イスラーム法を「宗派法」として体系化・固定化する役割を果たした。オスマン帝国のタンジマート改革やヨーロッパ諸国の介入は、国内の宗派バランスを揺るがし、シーア派聖地のあるイラクでは、イランとの人的往来が新たな政治意識を育んだ。第一次世界大戦後の委任統治下で創設された国民国家(イラク、レバノン、シリアなど)は、宗派に基づく人口分類や政治制度(レバノンの宗派主義など)を導入し、宗派アイデンティティを国家構造に埋め込むことになった。これに対し、ムスリム同胞団やイスラーム革命の思想は、宗派を超えたウンマ(イスラーム共同体)の統一を掲げて対応を試みる。
最終第四部(第11章~第14章)は、1979年のイラン革命を起点とする現代である。ホメイニー師の指導するイランは、「殉教の宗教」としてのシーア派レトリックを用い、革命の輸出を試みる。これに対し、サウジアラビアを中心とするスンニ派諸国は、イラン封じ込めと自国のイスラーム的正統性強化に乗り出す。2003年の米国によるイラク戦争とフセイン政権崩壊は、イラクのシーア派を権力の座に押し上げ、中東全域でイランとサウジの代理戦争の様相を強めた。2011年のアラブの蜂起は、当初は宗派を超えた民主化要求であったが、シリア内戦の激化などを通じて宗派間対立へと変容していく。著者は、現代の宗派主義的対立の背景には、国民国家の脆弱性、地域覇権争い、そして「カルバラー」の象徴に象徴されるように、歴史的に形成された集合的記憶が深く関わっていると結論づける。
各章の要約
序論:カルバラーからダマスカスへ
本書の問いは、スンニ派とシーア派の違いがなぜ、そしてどのようにして政治的に重要な意味を持つに至ったのか、である。著者は、現代の中東で見られる宗派対立は古代からの不可避な確執の現れではなく、特定の歴史的・政治的文脈で構築されたものであると指摘する。そして、長期の歴史的展望を通じて、両派の関係が帝国建設、国家形成、そして外部介入のたびごとに再構成されてきた過程を描くことを宣言する。
第一部 スンニ派とシーア派の形成、632-1500年
第1章 預言者の後
預言者ムハンマドの死後、共同体の指導者(カリフ)を選出する過程で最初の分裂が生じる。第三代カリフ・ウスマーン暗殺後、第四代カリフ・アリーの時代に第一次内乱が勃発し、シーアト・アリー(アリーの党派)が形成される。ウマイヤ朝の成立と680年のカルバラーの悲劇(フサイン殉教)は、シーア派にとって決定的な集合的記憶となる。アッバース朝革命はシーア派の支持を得て成功したが、権力掌握後はスンニ派的正統性を打ち出し、シーア派は再び政治的に周縁化される。しかし、イマームたちの活動や教義の形成は続き、スンニ派側でも法体系の整備が進む。
第2章 スンニ派の再興と十字軍
10世紀から11世紀、ブワイフ朝のようなシーア派系王朝が台頭し、アッバース朝カリフは権威を制限される。同時期、ファーティマ朝(イスマーイール派)がカリフ制を宣言し、イスラーム世界は三つのカリフが鼎立する状態となる。これに対抗してスンニ派のウラマーは、マドラサ(学院)建設などを通じて組織化を進め、スンニ派アイデンティティを強化する。十字軍の侵攻は、スンニ派のジハード(聖戦)意識を高め、サラーフッディーン(サラディン)によるアイユーブ朝の成立を促した。しかし、十字軍との戦いの中でシーア派への敵意も先鋭化する。
第3章 論争と宗派的曖昧さ
13世紀のモンゴル帝国の侵攻は、バグダード陥落とアッバース朝の滅亡をもたらす大変動であった。しかし、イルハン朝の君主たちがイスラームに改宗すると、シーア派の聖地や学者が厚遇されるなど、新たな状況が生まれる。この時期は、スーフィズムが広く浸透し、厳格な宗派帰属を問わない「宗派的曖昧さ」が多くの地域で見られた。イブン・タイミーヤのような厳格なスンニ派学者は、シーア派やスーフィー的慣行を激しく非難したが、宗派間の交流や混淆は続いた。
第二部 ムスリム帝国の形成、1500-1800年
第4章 宗派形成の時代
16世紀初頭、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールがシーア派十二イマーム派を国教と定めたことは画期となる。オスマン朝のスルタン・セリムはこれに対抗し、スンニ派の擁護者としての立場を明確にし、1514年のチャルディラーンの戦いで対決する。二大帝国の対立は、国内の宗派的統一を進める「宗派形成」を促進し、境界を明確化した。これにより、それまでの流動的な宗派状況は、領土と結びついた固定的なものへと変貌し始める。
第5章 インド亜大陸のムスリム王朝
ムガル朝インドは、スンニ派王朝でありながら、多数派ヒンドゥー教徒を統治するため、比較的寛容な政策をとった。アクバル帝の頃には、シーア派の影響も見られたが、後継者争いやデカン地方のシーア派王国(アフマドナガル、ゴールコンダなど)との緊張も存在した。インドのシーア派は、イランからの学者移住などによりそのネットワークを広げ、特にアワド地方などで文化的影響力を持った。しかし、ムガル朝の衰退とともに、宗派間の緊張も高まる。
第6章 18世紀の改革と再発明
18世紀は、イスラーム世界全体で改革運動が勃興した時代である。アラビア半島では、ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブとサウード家が連合し、聖者崇拝やシーア派を異教とする厳格な一神教運動(ワッハーブ派)を開始する。彼らはカルバラーの shrine を破壊するなど、シーア派への攻撃を強めた。一方、シーア派側でも、ウスーリー学派が台頭し、ムジュタヒド(法学者)の権威を強化した。イエメンではザイド派のイマーム政権が存続した。
第三部 帝国と国家、1800-1979年
第7章 イギリス領インドとオリエンタリズム
イギリス東インド会社によるインド統治は、イスラーム法を「ムハンマド法」として体系化し、植民地裁判所で適用する過程で、スンニ派とシーア派を明確に区別する法カテゴリーを創出した。オリエンタリストの研究と植民地行政官の実務が結びつき、両派は異なる「法体系」を持つ固定的な共同体として再定義された。この分類は、後にインド・ムスリムの自己認識や、独立後のパキスタンにおける宗派間対立の基盤の一部を形成する。
第8章 オスマン帝国の再編と欧州の介入
19世紀のオスマン帝国は、タンジマート改革により中央集権化と法の整備を進めたが、これは非ムスリムや非スンニ派の扱いにも影響を与えた。イラクのシーア派聖地ナジャフやカルバラーは、イランやインドからの巡礼者・学者が集まる国際的な中心地として発展し、新たな政治的思想が醸成された。イランのガージャール朝とオスマン帝国の間で、シーア派聖地の帰属や巡礼者の地位をめぐる外交問題が発生する。ヨーロッパ列強の介入は、こうした宗派間の緊張をさらに複雑にした。
第9章 委任統治
第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊し、イギリスとフランスの委任統治下でイラク、シリア、レバノン、ヨルダンなどが成立する。イギリスはイラクで、スンニ派少数派を優遇する統治構造を敷き、これが後の政治的亀裂の種となる。フランスはシリアやレバノンで、宗派に基づく人口分類(レバノンの宗派主義制度など)を導入し、コミュナリズム(共同体主義)を強化した。こうして国民国家の枠組みが宗派アイデンティティを固定化・政治化する基盤が作られる。
第10章 ムスリムの対応
西洋の植民地支配と国民国家形成に対し、ムスリムの知識人や運動家は様々な対応を試みた。エジプトで創設されたムスリム同胞団は、スンニ派を基盤としながらも、汎イスラーム的なウンマの結束を訴えた。イランでは、モサデク政権下での石油国有化運動とそれに続く1953年のクーデターが、宗教勢力と政治の関係を複雑化させる。イラクでは、シーア派のウラマーが委任統治や王政に対し反発を見せる一方、共産党など世俗的イデオロギーも浸透していく。
第四部 革命と競合、1979年-
第11章 殉教の宗教
1979年のイラン革命は、シーア派ウラマーが国家を掌握した史上初の出来事であり、現代の中東秩序を根底から揺るがす。革命を主導したルーホッラー・ホメイニーは、カルバラーの悲劇に象徴されるシーア派の殉教思想を、君主制に対する大衆動員と革命のレトリックとして活用した。「全ての日はアーシューラーであり、全ての場所はカルバラーである」というスローガンは、この思想を象徴する。
第12章 革命の輸出と封じ込め
イラン革命後、ホメイニー師は革命の輸出を唱え、湾岸諸国やレバノン、イラクなどのシーア派コミュニティに影響を及ぼす。これに対し、サウジアラビアを中心とするスンニ派諸国は、自国の正統性をワッハーブ派イスラームに求めるとともに、イラン封じ込め政策をとる。1980年から始まったイラン・イラク戦争では、サウジなどがイラクのサッダーム・フセインを支援し、宗派的代理戦争の様相を帯びる。
第13章 政権交代
2001年の米国同時多発テロ後、ブッシュ政権は「悪の枢軸」の一角としてイラクを標的とする。2003年のイラク戦争とサッダーム・フセイン政権崩壊は、イラクのシーア派多数派を権力の座に押し上げ、新たな政治秩序を生み出した。しかし、これによりイランは中東での影響力を大幅に拡大し、サウジアラビアや湾岸諸国との緊張が激化する。イラク国内では宗派間暴力が泥沼化し、アルカーイダなどのスンニ派過激派が台頭する温床となった。
第14章 アラブの蜂起
2011年に始まったアラブの蜂起は、当初は民主化と社会正義を求める汎アラブ的な運動であった。しかし、政権側と反体制派の双方が宗派的レトリックを用いる中で、シリア内戦は国際化し、イランとサウジの代理戦争の様相を強める。イエメンでは、フーシ派(ザイド派)の勢力拡大に対し、サウジ主導の軍事介入が行われた。バーレーンでは、スンニ派王権に対するシーア派主導の抗議運動が、湾岸協力会議(GCC)の介入によって鎮圧された。
結論:全ての場所はカルバラー
結論部で著者は、歴史を貫くスンニ派とシーア派の関係の本質を総括する。両派の境界は、初期の権力闘争から現代の国民国家と地域覇権争いに至るまで、常に政治と結びついて形成されてきた。特にカルバラーの悲劇は、シーア派にとって政治的抑圧に対する抵抗と殉教の象徴として、現代の抗議運動(イラン革命、イラクの反政府運動など)において繰り返し喚起される強力な集合的記憶であることを示す。著者は、宗派対立を古代からの「部族戦争」と見なす本質主義的理解を退け、常に歴史的・政治的文脈の中で理解すべきだと訴える。
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