書籍紹介『今、歴史とは何なのか?』2021年

科学哲学、医学研究・不正

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What Is History, Now?

子供たちのために

目次

  • 献辞
  • タイトルページ
  • ヘレン・カーによる序文
  • プロローグ:ヘレン・カーとスザンナ・リップスコームの歩み
  • 1. グローバル史が重要な理由ピーター・フランコパン
  • 2. 歴史は映画化されるに値する理由アレックス・フォン・ツンツェルマン
  • 3. 過去をクィア化することは可能であり、またそうすべきか?ジャスティン・ベングリ
  • 4. 俗語史とは何か? サラ・チャーチウェル
  • 5. 帝国史をどう書くか?  マヤ・ジャサノフ
  • 6. 栄光ある記憶 ダン・ヒックス
  • 7. 障害史をどう書くか? ジェイプリート・ヴィルディ
  • 8. 感情に歴史はあるのか? ヘレン・カー
  • 9. 先史時代と古代史は知恵について何を教えてくれるだろうか?  ベタニー・ヒューズ
  • 10. チューダー朝イングランドの多様性が重要な理由 オニエカ・ヌビア
  • 11. 女性の失われた人生をどう回復できるだろうか? スザンナ・リップスコム
  • 12. 宗教の歴史をどう書くか? ミリ・ルービン
  • 13. 家族史がなぜ重要なのかエミリー・ブランド
  • 14. 博物館は過去への扉をどう開くか? ガス・カゼリー=ヘイフォード
  • 15. 先住民のための空間を創出することが歴史を変える理由 レイラ・K・ブラックバードとキャロライン・ドッズ・ペンノック
  • 16. 東アジアの過去が現在と未来を形作る理由(または、中国と日本を無視する危険性) ラナ・ミッター
  • 17. 歴史は常に書き直されるべき理由 シャーロット・リディア・ライリー
  • 18. 文学が歴史を形作る方法 イスラム・イッサ
  • 19. 歴史、自然 シモン・シャマ
  • 謝辞
  • 寄稿者
  • ヘレン・カーの他の著作
  • 著作権

本書の要約

『歴史とは何か?今』は、E.H.カーの1961年の名著『歴史とは何か?』の出版60周年を記念して編まれた論文集である。本書は、カーの歴史に対する洞察を現代的視点から再考し、多様な歴史家の視点を提示している。カーが「歴史は過去と現在の対話である」と主張したように、本書も歴史を単なる事実の集積ではなく、解釈と主観性に満ちた学問として捉え直す。

特に注目すべきは、本書が歴史の周縁化された声—女性、有色人種、LGBTQ+、障害者など—に焦点を当てている点である。また、帝国主義、グローバル史、感情の歴史など、カーの時代には十分に発展していなかった分野における歴史研究の進展も示している。

本書は「歴史は私たち全員のものである」という強い主張を貫き、歴史が単に過去の出来事の記録ではなく、現在の社会的・政治的文脈の中で常に再解釈され、再構築されるものであることを強調している。歴史家ヘレン・カーとスザンナ・リップスコムの編集により、本書は過去の歴史理解の欠落を埋め、より包括的で多様な歴史観の構築を目指している。

歴史の書き方や解釈の仕方を問うことで、本書は現代社会における歴史の意味と目的についての深い考察を促している。特に「誰の歴史が語られるのか」「誰が語るのか」「何が省略されるのか」という問いは、今日の文化的・政治的議論の中心にある歴史認識の問題に直結している。

目次

献辞 タイトルページ ヘレン・カーによる序文 プロローグ:ヘレン・カーとスザンナ・リップスコームの歩み

  1. グローバル史が重要な理由 ピーター・フランコパン
  2. 歴史は映画化されるに値する理由 アレックス・フォン・ツンツェルマン
  3. 過去をクィア化することは可能であり、またそうすべきか? ジャスティン・ベングリ
  4. 俗語史とは何か? サラ・チャーチウェル
  5. 帝国史をどう書くか? マヤ・ジャサノフ
  6. 栄光ある記憶 ダン・ヒックス
  7. 障害史をどう書くか? ジェイプリート・ヴィルディ
  8. 感情に歴史はあるのか? ヘレン・カー
  9. 先史時代と古代史は知恵について何を教えてくれるだろうか? ベタニー・ヒューズ
  10. チューダー朝イングランドの多様性が重要な理由 オニエカ・ヌビア

各章の要約

ヘレン・カーによる序文

序文では、編者ヘレン・カーが曾祖父E.H.カーの遺産について語る。E.H.カーは1961年に『歴史とは何か?』を出版し、歴史学に革命をもたらした。彼は歴史を単なる事実の集積ではなく、解釈のプロセスとして捉えた。ヘレン・カーは本書を、カーの時代を超えた作品へのトリビュートであると同時に、歴史から排除されてきた人々へのオリーブの枝として位置づけている。本書は、歴史は万人のものであり、すべての歴史にスペースを創出することで、より深い過去理解への一歩を踏み出せると主張している。(188字)

プロローグ:ヘレン・カーとスザンナ・リップスコームの歩み

編者二人の個人的な歴史への入り口を描く。ヘレン・カーはメアリー・スコットランド女王の処刑に関する幼少期の記憶から始まり、城や古代遺跡への家族旅行が歴史への興味を育んだと述べる。スザンナ・リップスコムは、17世紀にさかのぼる父方の家系や、家族に伝わる品々を通じて歴史に触れた。二人は、現代のイギリスで展開する歴史と記念碑をめぐる論争を取り上げ、歴史が単なる過去の記録ではなく、現在の理解と将来の展望を形作るものだと論じている。(198字)

第1章 グローバル史が重要な理由(Why Global History Matters)

本章では、「グローバル史」の定義と重要性が論じられている。フランコパンによれば、グローバル史とは単に地理的視野を広げるだけでなく、これまで無視されてきた地域や文化の歴史を包含し、文明間のつながりを探求する学問である。従来の歴史学がヨーロッパ中心的な視点に偏ってきたことを指摘し、この偏向を修正する必要性を説く。グローバル史は、異なる文明間の交流や影響関係を明らかにし、歴史理解の空白を埋める手段となる。また、過去の出来事を単一の文化圏の視点からではなく、複数の視点から検証することの重要性も強調している。(193字)

第2章 歴史は映画化されるに値する理由(Why History Deserves to be Filmed)

歴史映画は創設以来論争を引き起こしてきた。批評家は映画が歴史を歪曲すると非難するが、実証研究は映画の影響が限定的であることを示す。1991年の『JFK』は陰謀論者の割合にほとんど影響を与えなかった。映画は暗い歴史を照らし、博物館訪問や歴史書販売を促進する。また、批判的思考を養う教材として有用だ。表現の自由と歴史保護の衝突は、検閲より教育で解決すべきである。現代のデジタルメディア環境では、正確な事実より批判的思考力を養うことが重要であり、歴史映画はその一助となる。(200字)

第3章 過去をクィア化することは可能であり、またそうすべきか?(Can and Should We Queer the Past?)

過去のクィア化とは、現代のLGBTQ+のレンズを通して歴史を見直すことではなく、過去の多様なセクシュアリティと性自認の複雑さを認識することである。「クィア」という用語は時代により異なる意味を持ち、歴史的文脈で理解する必要がある。中世のモリーハウスの住人や18世紀の女性同士の関係など、現代のカテゴリーに簡単に分類できない複雑な性の歴史がある。過去のクィア化は、歴史から消されてきた声を回復し、人間経験の多様性を認識する手段である。これにより、私たちは自分たちの性に関する概念の歴史的相対性を理解できる。(199字)

第4章 俗語史とは何か?(What is Vernacular History?)

俗語史は言語や文化の民衆的表現を通じて歴史を探求する方法論である。テキストの表面的意味を超え、「行間を読む」ことで隠された文脈や意味を解読する。この方法は公式記録から排除された声や物語を回復し、神話化された歴史に挑戦する。例えば、アメリカ内戦の文化史は文学作品を通じて理解でき、『風と共に去りぬ』から『パラサイト』までの文化的影響を辿ることができる。俗語史は単なる事実の羅列ではなく、社会がどのように自らを理解し表現してきたかを探る。時に神話も含む俗語史は、社会の自己認識を明らかにする重要な手段である。(199字)

第5章 帝国史をどう書くか?(How Should We Write Imperial History?)

帝国史は急速に変化している分野である。カーが批判した古い帝国史観は、西洋の「拡大」を讃え、植民地化された人々の視点を無視していた。現代の帝国史は、このような一方的な見方に挑戦し、帝国が持つ多様な形態や、植民地の人々の主体性、抵抗、協力などの複雑な側面を探求している。特に重要なのは、イギリス帝国崩壊期の「移送されたアーカイブ」に代表される、意図的に隠蔽された歴史文書の発見である。これらの新たな証拠は、帝国の「平和的移行」という神話に挑戦している。帝国史は単なる「興隆と衰退」の物語ではなく、継続的な権力構造と遺産の探求を含むべきである。(196字)

第6章 栄光ある記憶(Glorious Memory)

著者は幼少期の記念碑や像との出会いから始め、これらが歴史理解をどう形成するかを考察する。第一次世界大戦やボーア戦争の記念碑が「栄光ある記憶」を称える一方、E.H.カーは歴史を単なる記念ではなく解釈のプロセスと見なした。近年のコルストン像撤去などの議論は、記念碑が中立的事実ではなく特定の歴史観を固定化する政治的手段であることを示す。歴史家と考古学者は協力して「歴史の行間」を読み、記念碑に表現されない物語を発掘すべきだ。歴史書は記念碑のように機能することがあり、過去の声を聞きつつ現在の課題に対応できる柔軟なアプローチが必要である。(197字)

第7章 障害史をどう書くか?(How Should We Write Disability History?)

障害史は単なる医学的観点や「克服」の物語を超え、障害者の経験と主体性を中心に据える。歴史的に障害は常に人間経験の一部だったが、その理解は時代と文化によって変化してきた。ダニエル・キッシュのエコロケーションの例は、障害に対する現代の期待と可能性を示す。障害の概念自体は比較的新しく、産業革命と資本主義の発展により「生産性」の観点から定義されるようになった。障害史は交差性を認識し、障害者を支援技術の開発者や革新者として捉え直す。障害をどう理解するかは、社会がどのような価値を重視するかを反映している。障害史を書くことは、包括的で多様な歴史理解を構築する重要な一歩である。(194字)

第8章 感情に歴史はあるのか?(Do Emotions Have a History?)

感情は歴史研究において長らく「大いなる沈黙」の領域だった。感情という概念自体が19世紀初頭のトーマス・ブラウンによって導入された比較的新しいものであり、それ以前は「情動」や「情熱」という用語が使われていた。ポール・エックマンのような心理学者は感情の普遍性を主張する一方、歴史家は感情表現の文化的・時代的相対性を指摘する。中世の宗教的感情や14世紀の「ダンス・ペスト」、18世紀の「ウォルフ将軍の死」の絵画に見られる集団的感情など、過去の感情表現は現代とは異なる文脈で理解する必要がある。感情の歴史研究は、過去の人々の内面生活への窓を開き、人間存在の普遍性と特殊性の両方を照らし出す。(199字)

第9章 先史時代と古代史は知恵について何を教えてくれるだろうか?(What Can Prehistory and Ancient History Teach Us about Wisdom?)

歴史の語源「historiā」は古代ギリシャ語で「合理的探究」を意味し、過去の研究よりも探究の方法を指していた。著者はホメロスやギルガメシュなど古代の叙事詩を通じて、記憶が知恵の源泉だったことを示す。古代では女性も知恵の守護者だったが、文字の普及と社会の軍事化に伴い、女性の声が歴史から消されていった。歴史理解には没入型アプローチも必要で、ヘロドトスのような「埋め込まれたジャーナリスト」の手法が有効だ。現代の歴史学は専門分野の境界を超え、記憶と想像力を活用した「知恵を選ぶ未来の盟友」となるべきである。(189字)

第10章 チューダー朝イングランドの多様性が重要な理由(Why Tudor England Diversity Matters)

チューダー朝イングランドの歴史は白人中心に描かれ、アフリカ人は「他者」「異邦人」「奴隷」として周縁化されてきた。しかし、新研究はアフリカ人がイングランド社会の重要な一員だったことを示している。人種法が制度化されたのは17-18世紀であり、それ以前の地位は主に社会的立場や家柄で決まっていた。ウォリックシャーのヘンリー・アンソニー・ジェットの例は、アフリカ人が土地所有者として選挙権を持ち、コミュニティで尊敬される存在だったことを示す。エリザベス1世の一部政策はアフリカ人排除を試みたが、成功しなかった。チューダー朝の多様性を認識することは、イギリスのアイデンティティ理解を豊かにする上で不可欠である。(193字)

第11章 失われた女性の命を取り戻すには?(How to Recover Lives of Lost Women?)

歴史記録から長く排除されてきた女性の生活を再構築する方法について論じている。従来の史料では女性は周辺的か不可視化されていたため、「逆らって読む」(against the grain)技法や、日記、手紙、法廷記録など非伝統的資料の活用が必要だと説く。また、断片的証拠から女性の主体性を再構築する際の方法論的・倫理的問題や、女性の声の「回復」と創造的再構成のバランスについても検討。さらに、「共感的想像」の役割や、女性を単に犠牲者としてではなく能動的行為者として描く重要性も強調している。女性の歴史を回復することは、より公正で包括的な歴史叙述への貢献である。(199字)

第12章 宗教の歴史をどのように書くか?(How to Write a History of Religion?)

本章は宗教現象の歴史的研究における変化と方法論を考察している。従来の宗教史が教義や制度に焦点を当てていたのに対し、現代の研究は宗教的実践の社会的・文化的・物質的側面を重視する。宗教を「文化システム」として分析する人類学的アプローチや、日常的な宗教実践、男女の異なる宗教経験、物質文化と宗教の関係などの研究の発展を論じている。また、西洋中心主義を超えた多様な宗教伝統の研究、宗教的「他者」の表象批判、そして研究者自身の立場性の問題も取り上げられる。宗教史は信仰内容の真偽ではなく、その社会的意味と機能を探求する分野である。(200字)

第13章 家族史が重要な理由(Why Family History Matters)

家族史は単なる系図学や趣味的研究ではなく、社会構造、アイデンティティ形成、権力関係などを理解する重要な視点を提供する学問分野である。本章は、家族史研究の歴史的発展と方法論を概観し、家族を通して階級、ジェンダー、人種、移民などの広範なテーマを探求する可能性を示している。また、個人的記憶と集団的記憶の交差点としての家族の役割、家族史と国家アイデンティティの関係、そして家族史を通じて「大きな歴史」と「小さな歴史」を結び付ける方法なども論じている。家族史は過去との個人的つながりを提供するとともに、現代社会の自己理解にも寄与する。(196字)

第14章 博物館はどのようにして過去への扉を開くことができるのか?(How Can Museums Open a Door to the Past?)

博物館が単なる「もの」の保管庫ではなく、過去と現在を結ぶ対話の場となる可能性を探る。本章は、植民地主義的収集の歴史から、より包括的で対話的な現代の実践への移行を論じている。特に、展示を通じて多様な声を表現する方法、物質文化を通して無文字社会の歴史を語る手法、来館者が過去と主体的に関わる仕掛けなどを検討。また、帝国主義的収奪に由来するコレクションの返還問題や、コミュニティと協働して「共有された権威」を構築する新たなアプローチなども扱う。博物館は過去の解釈を固定するのではなく、複数の視点からの批判的対話を促進する場となりうる。(196字)

第15章 先住民のための空間を作ることで歴史が変わる(How Making Space for Indigenous People Changes History)

本章は先住民の歴史を中心に据えることの重要性と、それが歴史学全体に与える影響を論じている。植民地主義的歴史叙述が先住民を「過去の人々」や「消えゆく人種」として描いてきたのに対し、現代の先住民は自らの歴史を「生きた継続性」として捉えている。文字資料と口承伝統、西洋的時間観と先住民の循環的時間観、学術的「客観性」と共同体の知識など、異なる認識論の対話の必要性を説く。また、先住民自身による歴史記述(Indigenous historiography)の発展や、植民地アーカイブを「逆らって読む」方法も検討される。先住民の視点を取り入れることは、より豊かで複雑な歴史理解をもたらす。(199字)

第16章 東アジアの過去が現在と未来を形作っている理由(あるいは、中国と日本を無視することは危険である理由)(Why East Asia’s Past is Shaping Its Present and Future (or Why it is Dangerous to Ignore China and Japan))

西洋が東アジア特に中国と日本の歴史を十分に理解せずにきた危険性を指摘している。本章は第二次世界大戦の異なる記憶が現代の東アジア政治を形作っていること、西洋と東アジアでは「同じ」戦争の認識が大きく異なること、そして日中間で共有された歴史認識が欠如していることを論じる。また、中国の歴史的自己認識が「世界秩序の創設者」としての役割を含むこと、日本の戦後アイデンティティが経済発展と結びついていることなども分析。「グローバル化」時代においても、地域の歴史的文脈を理解せずに国際関係を把握することは不可能である。(198字)

第17章 なぜ歴史は常に書き直されるべきなのか(Why History Should Always Be Rewritten)

歴史の「書き直し」が歴史の否定ではなく、より豊かな理解への不可欠なプロセスであることを論じている。本章は「歴史」と「過去」の違いを明確にし、歴史が常に解釈と選択を伴う構築物であること、そして新たな視点や方法論、資料の発見によって歴史理解が変化することの重要性を説く。また、従来無視されてきた女性、有色人種、労働者階級などの声を取り入れることの意義や、歴史記念碑の撤去・再検討が過去の抹消ではなく再評価であることも論じている。歴史は単なる「事実」の集積ではなく、現在と過去の継続的対話であり、それゆえ常に再解釈される必要がある。(199字)

第18章 文学が歴史を形作る方法(How Literature Shapes History)

文学と歴史の複雑な相互関係を探求している。文学作品は単なる歴史的資料ではなく、過去の認識を形作り、時に歴史そのものを創造する力を持つ。例えば、古代アラビアの詩がその時代の主要な歴史記録となり、シェイクスピアの『リチャード三世』が実在の王についての一般的イメージを形成した例などが挙げられている。また、文学の受容・解釈が時代や文化によって変化し、その変化自体が歴史的研究対象となること、そして文学作品の主観的読解が集団的記憶や国家アイデンティティの構築に影響することも論じられる。文学は歴史を記録するだけでなく、歴史そのものを創造する力を持っている。(197字)

第19章 当然のことながら、歴史(Naturally, History)

環境史の意義と可能性について論じている。従来、歴史は人間中心に語られ、自然は受動的背景として扱われてきたが、環境史は自然を能動的な歴史的行為者と見なす。本章は、気候変動、生態系の変化、自然災害などが人間社会をいかに形作ってきたかを示し、同時に人間の活動が自然環境に与えてきた影響も検討する。また、自然と人間の二項対立を超え、両者の複雑な相互作用を理解する必要性や、環境史が現代の気候危機への洞察を提供しうることも論じている。環境史は「人間だけの歴史」という限定的視点を克服し、より包括的な過去理解への道を開く。(197字)

東アジアの歴史認識と国際秩序についての考察

by Claude 3

この論文は、東アジアの歴史、特に中国と日本の歴史認識が現代の国際関係や世界秩序にどのように影響しているかを論じている。著者のラナ・ミッターは、西洋、特にイギリスにおける東アジアの歴史に対する認識不足を指摘し、その理解の重要性を説いている。

まず、テキストの核心を把握したい。著者は現代世界における最大の力関係の変化として、「政治的・経済的力が西から東へ移り、特に中国が台頭した」ことを挙げている。しかし、この変化は東アジアの歴史に対する西洋の理解が限られた状態で進行してきた。著者はこの理解不足が現代の国際関係における問題点となっていると指摘している。

東アジアにおける第二次世界大戦の位置づけ

著者は第二次世界大戦の記憶が国家のアイデンティティ形成においていかに重要かを指摘している。西欧や北米では、「記憶の回路」として第二次世界大戦を「ファシズムとの戦い」と位置づけ、ナチスを敵とする共通認識が形成されてきた。しかし、東アジアではこのような共有された記憶の回路が冷戦と中国内戦のために形成されなかった。

日本と中国は第二次世界大戦の主要な交戦国でありながら、1949年以降の政治的分離により、戦争の記憶に関する異なる解釈を発展させてきた。日本では戦後処理の主要テーマが「近代化」となり、戦前の日本軍国主義の時代を「暗い谷間」として位置づけた経済成長中心の物語が形成された。

この物語は、1945年8月に突然終結した日本帝国のトラウマと不可分だった。日本の歴史家たちは戦争責任をめぐって論争を続けてきたが、「日本は戦争の罪を認めようとしない」という単純な主張は真実ではない。例えば、南京大虐殺は1970年代に日本のジャーナリストによって公の議論の場に持ち出されたが、中国では1980年代までこの問題が公然と議論されることはなかった。

戦争の遺産は現在でも日本の政治、教育、文化に大きな影響を与えている。しかし、日本の戦争に関するポピュラーカルチャーの多くは、日本が侵略した戦争よりも国内の戦時体験に焦点を当てている傾向がある。

中国における戦争の記憶と現代の政治

中国では毛沢東時代、歴史研究は厳しく制限されていた。改革開放後の1980年代以降、「日本侵略戦争」の研究が進展したが、これには中国共産党内部の複雑な政治的背景があった。国民党の戦争貢献を認めることは、台湾との関係改善や文化大革命後の国民統合に役立つと判断されたのである。

過去40年間で第二次世界大戦は中国史を形作る重要な出来事として位置づけられるようになった。2020年のパンデミック対応で「人民戦争」という表現が使われたことや、中国指導者が1945年の国連憲章における中国の署名国としての地位を強調することは、この歴史認識が現代の政治言説にも影響していることを示している。

中国の戦時体験が現代中国の自己認識にどのような位置を占めているかを理解することは、中国の国際的地位への主張を理解する上で重要である。中国の国連安保理常任理事国としての地位は、第二次世界大戦における中国の貢献や、ルーズベルト大統領が戦後秩序に中国を組み込むことに置いた意義に由来している。

グローバル史における東アジアの位置づけ

著者は、明朝の鄭和の遠征といった中国のより遠い歴史も、現代中国のグローバルな存在感を強化する言説に利用されていると指摘する。中国共産党公認のこの物語では、中国の遠征は西欧諸国の植民地主義と異なり、征服ではなく純粋に貿易を目的としたものだったと描かれる。これは現代の世界秩序における中国の平和的性格を示唆する比喩として機能している。

著者はこの歴史解釈に歪曲がある点を認めつつも、「大航海時代」が純粋に西欧の事業だったという考えを修正する意義があると評価している。また、西洋の植民地主義の東アジアへの影響も重要だと指摘する。例えば、上海におけるイギリスの租界や香港の植民地統治の歴史は、現代の都市形成や政治制度に大きな影響を与えたにもかかわらず、西洋の歴史的考察からはほぼ欠落している。

2020年以降の香港における「自由の侵食」を理解するには、イギリス普通法の伝統と中国共産党の独裁主義が混在する香港の複雑な歴史的背景を理解する必要がある。しかし、西欧での香港に関する議論は歴史的複雑さへの理解が浅く、中国が押し付ける「愛国的な」歴史教育は香港史を中国共産党中心に再解釈している。どちらの叙述も、帝国主義的権力と主権国家の関係に関する重要な物語を欠いているのである。

東アジア史理解の現代的意義

著者は最後に、東アジアの歴史理解がなぜ重要なのかを強調している。経済的・地政学的影響力と内在する危険な緊張関係のため、東アジアは2020年代に「おそらく過去200年間で最も世界にとって重要な地域」となるだろうと予測する。

現在の世界で最も危険な潜在的衝突は、北朝鮮の核脅威、南シナ海と東シナ海での領有権争い、台湾統一をめぐる戦争の可能性、中印国境紛争、ミャンマーの軍事クーデターなど、アジア太平洋地域に集中している。これらの現代の緊張関係はすべて東アジアの近現代史にその起源を持っている。

したがって、西洋、特にイギリスにおける東アジアの歴史への関心の欠如は、現代世界の理解における重大な歪みを招いている。この地域の歴史を西欧との相互作用の側面とそうでない側面の両方から理解することは、著者が「緊急の課題」と呼ぶものである。

結論:歴史認識の政治的意義

この論文を通じて浮かび上がるのは、歴史認識が単なる過去の理解を超えて、現在の国際政治や国家間の力関係を形成する重要な要素になっているという認識である。特に中国と日本の事例は、戦争の記憶が国家のアイデンティティ形成や国際秩序における自己の位置づけにいかに重要な役割を果たすかを示している。

また、西洋中心の歴史観を超えて、東アジアの視点から世界史を捉え直す必要性も強調されている。大航海時代や植民地主義の歴史、冷戦期のアジアの動向など、従来の西洋中心の物語では周辺化されていた歴史的経験が、現代の国際秩序における中国の台頭とともに新たな重要性を帯びている。

東アジアの過去が現在の国際関係に影響を与えているという著者の主張は、単に歴史的知識の普及を訴えるものではなく、現代世界の力関係の変化を理解し、潜在的な紛争を回避するための実践的な政治的意義を持っている。歴史認識の問題は、単なる学術的関心事ではなく、国際秩序の安定に関わる重要な政治的課題なのである。

この論文は、西洋と東アジアの間の相互理解の必要性を説くとともに、歴史認識の違いが国際関係に及ぼす影響について深い洞察を提供している。

歴史認識と記憶の政治についての考察 by Claude 3

『歴史とは何か?今』という論文集を読み進めながら、まず最初に浮かんだのは、E.H.カーの原著『歴史とは何か?』から60年経った今でも、歴史の本質をめぐる問いが決して古びていないという事実だ。むしろ現代社会において、歴史の解釈と記述をめぐる議論はより先鋭化しているとさえ言える。

カーが1961年に提示した「歴史は過去と現在の対話である」という洞察は、今日の歴史認識論争において非常に重要な意味を持つ。なぜなら、歴史は単なる過去の事実の客観的記録ではなく、現在の視点から常に再解釈され、再構築されるものだからだ。本書は、この再解釈のプロセスを多様な視点から考察している。

特に注目すべきは、従来の歴史叙述から排除されてきた声—女性、有色人種、LGBTQ+、障害者など—に焦点を当てた各章の存在だ。これらの章は、歴史が長らく特定の権力構造によって形作られてきたことを明らかにしている。第3章のクィア史、第7章の障害史、第10章のチューダー朝イングランドの多様性に関する分析などは、従来の歴史叙述の限界と盲点を浮き彫りにしている。

歴史と記憶の政治性は本書全体を貫くテーマだ。第6章「栄光ある記憶」が特に示唆的で、記念碑や像が単なる過去の記録ではなく、特定の歴史観を固定化し永続させる政治的道具となることを論じている。近年のコルストン像撤去をめぐる論争も、この文脈で理解できる。記念碑は、何を記憶し、何を忘却するかという選択を具現化するものであり、その選択自体が政治的なプロセスなのだ。

第4章の「俗語史」の概念も興味深い。サラ・チャーチウェルは、公式の歴史叙述から排除された声や物語を回復する手段として、民衆の言語や文化的表現を通じた歴史理解を提唱している。これは「行間を読む」という比喩で表現され、表面的な意味を超えて隠された文脈や意味を解読する試みだ。

また、本書がグローバルな視点を強調している点も重要だ。第1章でピーター・フランコパンが指摘するように、従来の歴史学はヨーロッパ中心的な視点に偏り、世界の大部分の歴史を周縁化してきた。この偏向を修正するためには、異なる文明間の交流や影響関係を明らかにし、複数の視点から歴史を再検証する必要がある。

第5章の帝国史に関する考察も、この文脈で重要な意味を持つ。マヤ・ジャサノフはイギリス帝国崩壊期の「移送されたアーカイブ」の発見を取り上げ、帝国の「平和的移行」という神話に挑戦している。ここで明らかになるのは、歴史資料自体が権力の産物であり、隠蔽や改竄の対象となってきたという事実だ。

さらに第8章の「感情の歴史」も新しい視点を提供している。感情という個人的で主観的な領域が、実は歴史研究の重要な対象となりうることを示している。感情の表現や理解の仕方が時代や文化によって異なり、それが社会や政治のあり方にも影響を与えてきたという視点は、歴史理解を豊かにする。

第9章では、歴史の語源自体が「合理的探究」を意味し、必ずしも過去の研究に限定されないことが指摘されている。歴史は本来、知恵を探求するプロセスであり、過去と現在、そして未来を結ぶ橋渡しの役割を担うものだという視点だ。

これらの多様な考察を通じて浮かび上がるのは、歴史は誰のものかという根本的な問いだ。本書のタイトル『歴史とは何か?今』が示すように、歴史理解はある特定の「今」に立脚している。ゆえに、歴史解釈は固定的ではなく、常に変化し続けるものだ。

この視点から見ると、近年の「歴史戦争」や「文化戦争」と呼ばれる論争は、単なる学術的議論を超えた社会的・政治的意味を持つ。コロニアル像の撤去や、教科書の記述をめぐる論争は、現在の権力構造や社会的不平等と密接に関連している。

しかし、こうした歴史認識をめぐる対立を、単純な二項対立で理解すべきではないだろう。本書が示唆するのは、歴史は多層的で複雑なものであり、単一の正しい解釈や物語は存在しないということだ。重要なのは、多様な視点からの対話と、批判的検証を通じた理解の深化である。

また、本書の各章を読み進める中で感じたのは、歴史研究の方法論自体が変化していることだ。従来の文書資料中心のアプローチから、物質文化、口承伝承、感情表現など多様な証拠に目を向ける学際的なアプローチへの移行が見られる。これは歴史学そのものが変容し、より包括的な知の領域へと拡大していることを示している。

特に第6章でダン・ヒックスが指摘するように、歴史家と考古学者の協働によって「歴史の行間」を読み解く試みは、新たな歴史理解の可能性を開く。文書記録に残らない声や経験を回復することで、より豊かで多面的な過去の像を構築できる。

この観点から見ると、E.H.カーが60年前に提示した歴史観は、今日さらに拡張されるべきだろう。カーは歴史を「歴史家と事実の継続的な相互作用のプロセス」と定義したが、今日の歴史は歴史家だけでなく、より広い社会的アクターたちとの相互作用の中で形成されている。博物館キュレーター、映画製作者、活動家、そして一般市民も、歴史の解釈と再構築に参加している。

本書が示す歴史観の重要な転換点は、歴史を専門家だけの特権的な領域から、より民主的で包括的な知の領域へと開くことだ。「歴史は私たち全員のものである」という本書の主張は、単なるスローガンではなく、歴史理解の本質的な変革を促すものだ。

しかし、この変革には課題も伴う。歴史の民主化が、単なる相対主義や「代替的事実」の氾濫に陥る危険性もある。デジタル時代において、歴史的事実の検証と批判的思考の重要性はむしろ高まっている。第2章で論じられている映画と歴史の関係は、この点で示唆的だ。歴史映画は時に事実を歪曲するが、それによって批判的思考を養う機会を提供するとも言える。

最終的に、本書から学べるのは、歴史とは常に再構築され続ける知の領域であり、その再構築のプロセスこそが重要だということだ。過去について「真実」を知ることは不可能かもしれないが、多様な視点からの対話と批判的検証を通じて、より豊かで包括的な歴史理解に近づくことはできる。

その意味で、本書のタイトル『歴史とは何か?今』は、歴史理解が常に「今」という時点に立脚していることを鋭く指摘している。そして、この「今」は固定的ではなく、常に変化し続けるものだ。歴史は過去の記録であると同時に、現在の自己理解と未来への展望を形作るものでもある。

この観点から、歴史教育や歴史研究のあり方も再考される必要があるだろう。単なる事実の暗記ではなく、歴史的思考力や批判的リテラシーを養うことが重要になる。それは、第9章で論じられているように、歴史を通じた「知恵」の探求という古代からの伝統に立ち返ることでもある。

本書が示すように、歴史は終わりのない対話のプロセスだ。そしてその対話に参加することで、私たちは過去を理解するだけでなく、現在を生き、未来を構想する力を得る。その意味で、『歴史とは何か?今』は、単なる学術書を超えた、社会的・政治的意義を持つ作品と言えるだろう。

歴史学の再構築と多元的視点についての考察 11章~19章 by Claude 3

本書「歴史を書き換えるためのアプローチ」を読み解きながら、現代の歴史学が直面する挑戦と可能性について考察してみたい。この著作は、歴史学がいかに変容し、多様な視点を取り入れることで豊かになっていくかを示す重要な議論を展開している。

まず、本書の出発点となっているE.H.カーの「歴史とは何か」が発表されてから60年を経た現在、歴史学はどのように変化したのだろうか。カーの主張する「歴史は現在と過去の対話である」という視点は、今日でも有効であるが、対話の参加者がより多様になっていることが現代の特徴である。かつては「偉大な白人男性」の視点から書かれた歴史が主流であったが、今日では女性、マイノリティ、先住民、そして自然環境までもが歴史の主体として認識されるようになっている。

このパラダイムシフトの背景には、20世紀後半からの社会運動やポストコロニアル理論、フェミニズム理論などの影響がある。歴史学は単に「過去に何が起きたか」を記録するだけでなく、誰の視点から過去を見るか、誰の声を聴くか、そして誰が歴史を語る権利を持つかという問いと不可分に結びついている。

第11章「失われた女性の命を取り戻すには?」では、この問題が明確に示されている。女性たちの声は公的な記録にほとんど残されていないため、「逆らって読む」(against the grain)という方法論が必要となる。これは資料が作成された本来の目的とは異なる角度から読み解く手法で、例えば法廷記録や宗教裁判の記録などから、周辺化された女性たちの存在を浮かび上がらせる試みである。

ここで興味深いのは、歴史資料の限界と創造的解釈の必要性についての議論だ。完璧な歴史的「真実」の再構築は不可能であるという認識は、歴史家に謙虚さを求めると同時に、想像力を働かせることの重要性も示している。サイディア・ハートマン(Saidiya Hartman)のような学者は「批判的虚構」という手法を用いて、記録に残されていない黒人女性たちの経験を再構築しようと試みている。これは単なる想像の産物ではなく、既存の資料を徹底的に分析したうえでの「可能性の探求」である。

第15章「先住民のための空間を作ることで歴史が変わる」では、著者のレイラ・K・ブラックバード(Leila K. Blackbird)とキャロライン・ドッズ・ペンノック(Caroline Dodds Pennock)が、先住民の歴史観と西洋的歴史観の根本的な違いを指摘している。多くの先住民文化において、過去と現在には明確な分離がない。むしろ、すべての時間と歴史は相互につながり、共存している。これは直線的で「進歩」を前提とする西洋的時間観とは根本的に異なる。

このような認識論的な違いは、単に「異なる文化の見方」として尊重されるべきものではなく、歴史学自体を変革する可能性を持っている。先住民の視点からの歴史を学ぶことで、西洋中心主義的な歴史観が自明のものではなく、特定の文化的文脈から生まれたものであることに気づかされる。

第16章「東アジアの過去が現在と未来を形作っている理由」においても同様の問題が提起されている。ラナ・ミッター(Rana Mitter)は、西洋が東アジア特に中国と日本の歴史を十分に理解せずにきたことが、現代の国際関係において危険な結果をもたらす可能性を指摘している。例えば、第二次世界大戦の記憶が東アジアと西洋では大きく異なること、そして日中間でさえ共有された歴史認識が欠如していることが、現代の政治的緊張の背景となっている。

ここで重要なのは、歴史認識の違いが単に「客観的事実」の問題ではなく、集団的記憶や国家アイデンティティの形成と密接に関わっているという点だ。このことは第18章「文学が歴史を形作る方法」でさらに掘り下げられている。イスラム・イッサ(Islam Issa)は、文学作品が単なる歴史的資料ではなく、歴史認識そのものを形作るという側面を強調している。例えば、シェイクスピアの『リチャード三世』は実在の王についての一般的イメージを形成し、その影響は現代にまで及んでいる。

これらの議論を総合すると、第17章「なぜ歴史は常に書き直されるべきなのか」で主張されているように、歴史の「書き直し」は歴史の否定ではなく、より包括的な理解への不可欠なプロセスであることが理解できる。シャーロット・リディア・ライリー(Charlotte Lydia Riley)は「歴史」と「過去」を明確に区別し、歴史が常に解釈と選択を伴う構築物であること、そして新たな視点や方法論、資料の発見によって歴史理解が変化することは、学問の健全な発展の証であると論じている。

特に興味深いのは、彼女が「読者の力」について論じている部分だ。歴史的テキストは書かれた時点で作者の手を離れ、読者によって様々に解釈される。これは文学作品と同様に、歴史書もまた「生きたテキスト」として、時代や文化的文脈によって異なる読まれ方をするということを意味する。

第19章「当然のことながら、歴史」では、サイモン・シャマ(Simon Schama)が環境史の重要性について論じている。従来の歴史学が人間活動を中心に据えてきたのに対し、環境史は自然を能動的な歴史的行為者として捉え直す。これは人間中心主義的な歴史観からの大きな転換であり、気候変動が人類の未来を左右する現代において、特に重要な視点である。

シャマは19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシェル(Jules Michelet)の仕事を取り上げ、彼が自然と人間の歴史を不可分のものとして捉えていたことを指摘している。これは現代の環境史の先駆けとも言える視点で、人間と自然の複雑な相互作用を理解することの重要性を示している。

本書全体を通じて見えてくるのは、歴史学が単一の「グランドナラティブ」(大きな物語)ではなく、多様な視点からの複数の物語として理解されるべきだという主張である。これは相対主義への全面的な降伏ではなく、むしろ歴史的理解の複雑性と豊かさを認めることである。

また、本書のもう一つの重要なテーマは、歴史と現在の関係性である。歴史は単なる過去の記録ではなく、現在の問題意識から問われ、解釈される。第2章「不気味な回帰」で論じられているように、過去は「亡霊」のように現在に立ち現れ、過去の抑圧されたものが回帰する。例えば、植民地主義や奴隷制度の遺産は、現代社会の不平等や差別の構造に影響を与え続けている。

歴史の「書き直し」をめぐる議論は、しばしば政治的な論争と結びつく。第17章で指摘されているように、2020年の黒人の命は大切だ(Black Lives Matter)運動の中でのエドワード・コルストン像の撤去は、「歴史を消去しようとしている」との批判を受けた。しかし、ライリーは像を撤去することは歴史記録から人物を抹消することとは異なると論じる。

実際、このような「記念碑の政治」は、どの歴史的人物や出来事を公共空間で称えるかという現在の価値観の反映であり、その意味で常に現在の問題でもある。歴史の再解釈は、過去を否定するのではなく、むしろ過去とより誠実に向き合うための試みと捉えることができる。

本書の各章は、それぞれ異なる角度から歴史学の再構築を試みているが、共通して見られるのは、従来の歴史学が見落としてきた視点や声を取り入れることの重要性である。これは単に「多様性」のためではなく、より完全で複雑な歴史理解を得るための本質的な要求である。

特に印象的なのは、本書が理論的な議論だけでなく、具体的な方法論や実践例も提示している点だ。「逆らって読む」技法、口承歴史の活用、物質文化の分析、感情史の方法論など、新たな歴史研究のアプローチが詳細に論じられている。これらは歴史学を実践する研究者にとって貴重な指針となるだろう。

最後に、本書が提起する最も根本的な問いの一つは、歴史を書く「権利」と「責任」に関するものだ。誰が歴史を書く権利を持つのか?そして、その責任はどのように果たされるべきか?これらの問いは単に学術的な関心事ではなく、社会的正義や民主主義の問題とも深く関わっている。

多様な視点からの歴史記述は、特定の集団によって独占されてきた「歴史を語る権利」の民主化を意味する。しかし同時に、それは歴史家の専門的訓練や方法論的厳密さの重要性を否定するものではない。むしろ、多様な視点と厳密な学問的基準の両立こそが、21世紀の歴史学の挑戦であり可能性なのである。

本書の最も価値ある貢献は、歴史学を固定化された「正典」ではなく、常に問い直され、書き換えられるべき生きた対話として捉え直したことにある。この視点は、現代の複雑な問題に向き合う際の重要な知的リソースとなるだろう。

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