『医学の歴史』ヴァーノン・コールマン 1985年

マルサス主義、人口抑制医療・感染症の歴史医療・製薬会社の不正・腐敗、医原病政策・公衆衛生(感染症)生命倫理・医療倫理

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英語タイトル:『The Story of Medicine』Vernon Coleman 1985

日本語タイトル:『医学の歴史』ヴァーノン・コールマン 1985

目次

  • 第1章 医学を見通す / Medicine in Perspective
  • 第2章 神々の力 / The Power of the Gods
  • 第3章 メソポタミアの医学 / Medicine in Mesopotamia
  • 第4章 東洋への恩恵 / Our Debt to the Orient
  • 第5章 ギリシアの偉人たち / The Great Men of Greece
  • 第6章 ローマの遺産 / The Roman Legacy
  • 第7章 キリスト教会の影響 / The Influence of the Christian Church
  • 第8章 アラビアの継承 / The Arabian Inheritance
  • 第9章 最初の医学校 / The First Medical Schools
  • 第10章 黒死病 / The Black Death
  • 第11章 拡がる地平 / Expanding Horizons
  • 第12章 旅の成果 / The Outcome of Travel
  • 第13章 古い考えの拒絶 / The Rejection of Old Ideas
  • 第14章 新しい考えと古い実践 / New Ideas but Old Practices
  • 第15章 教会の衰退 / The Decline of the Church
  • 第16章 科学の進歩 / Scientific Advances
  • 第17章 新時代の夜明け / The Dawn of a New Era
  • 第18章 感染の本質 / The Nature of Infection
  • 第19章 職業内の対立 / Conflict in the Profession
  • 第20章 医学教育の革命 / A Revolution in Medical Education
  • 第21章 18世紀アメリカの医学 / Medicine in Eighteenth Century America
  • 第22章 薬物と薬業界 / Drugs and the Drug Industry
  • 第23章 権力と病気 / Power and Illness
  • 第24章 産業革命 / The Industrial Revolution
  • 第25章 壊血病の終焉 / An End to Scurvy
  • 第26章 疾病との新たな武器 / A New Weapon Against Disease
  • 第27章 いかさまと天才 / Quackery and Genius
  • 第28章 施設治療の弊害 / The Evils of Institutional Care
  • 第29章 製薬産業の誕生 / The Birth of the Pharmaceutical Industry
  • 第30章 フランスでの外科の地位向上 / Surgery Gains Status in France
  • 第31章 薬剤師が主導権を握る / The Apothecaries Gain Control
  • 第32章 致命的疾患が社会変化を強制する / Killer Diseases Force Social Change
  • 第33章 産業の危険 / The Hazards of Industry
  • 第34章 看護が専門職となる / Nursing Becomes a Profession
  • 第35章 フローレンス・ナイチンゲールの貢献 / Florence Nightingale’s Contribution
  • 第36章 衛生の提唱者たち / Proponents of Hygiene
  • 第37章 医学における女性 / Women in Medicine
  • 第38章 外科の問題解決 / Solving Problems in Surgery
  • 第39章 公衆衛生の改善 / Improvements in Public Health
  • 第40章 微生物の謎を解く / Unravelling the Microbe Mystery
  • 第41章 ジークムント・フロイドの強迫観念 / Sigmund Freud’s Obsession
  • 第42章 外科に限界なし / Surgery Knows No Bounds
  • 第43章 異国病の制御 / The Control of Exotic Disease
  • 第44章 レントゲンの発見 / Röntgen’s Discovery
  • 第45章 縮小する世界 / The Shrinking World
  • 第46章 専門医の台頭 / The Rise of the Specialist
  • 第47章 輸血の実現 / Blood Transfusion Becomes a Reality
  • 第48章 疾病と戦争 / Disease and War
  • 第49章 最初の組織的健康サービス / The First Organised Health Services
  • 第50章 産児制限の主唱者たち / The Birth-control Protagonists
  • 第51章 魔法の弾丸 / Magic Bullets
  • 第52章 疾病の国際的制御 / International Control of Disease
  • 第53章 現代の健康管理 / Modern Health Care
  • 第54章 一時代の終わり? / The End of an Era?

全体の要約

この書物は、人類が病気と闘い続けてきた歴史を包括的に描いた医学史である。著者コールマンは医学の歴史を単なる発見の年表として扱うのではなく、社会、政治、経済、宗教が医療の発展にどのような影響を与えたかを重視する社会史的アプローチを採っている。

物語は古代から始まる。人類は本能的に治療を求める能力を持っていたが、病気の原因を理解できなかったため、超自然的な力に頼らざるを得なかった。メソポタミアとオリエントでは早期から高度な医学技術が発達し、外科手術や薬物治療が行われていた。しかし、これらの知識の多くは後に失われることになった。

ギリシア時代になると、ヒポクラテスが医学を宗教から分離し、科学的観察に基づく医学の基礎を築いた。彼の「自然治癒力」の概念は2500年後の現代まで影響を与え続けている。ローマ帝国は優れた公衆衛生施設を建設したが、帝国の拡大により新たな感染症が流入し、最終的には疫病が帝国衰退の一因となった。

中世キリスト教時代は医学史上の暗黒期とされる。教会は病気を神の意志とみなし、解剖や科学的研究を禁止した。医学的知識の多くが失われ、代わりに祈りと迷信が治療の中心となった。

ルネサンス期には医学の復活が始まった。パラケルスス、ヴェサリウス、パレといった革新的な人物が古い権威に挑戦し、人体解剖学や外科技術を発展させた。コロンブスの新大陸発見は地理的障壁を取り除いたが、同時に感染症の国際的拡散も招いた。梅毒が新世界からヨーロッパに、天然痘が旧世界からアメリカ大陸に広がり、人口構造に劇的な変化をもたらした。

17-18世紀の科学革命期には、ハーヴィーの血液循環の発見、顕微鏡の発明、ジェンナーの種痘法開発など、医学の基礎となる重要な発見が続いた。産業革命は生活水準を向上させた一方で、都市の過密化により新たな健康問題を生み出した。

19世紀は医学史上最も変化に富んだ時代となった。フローレンス・ナイチンゲールが看護を専門職に変革し、センメルヴァイスやリスターが感染制御の重要性を証明した。麻酔法の導入により外科手術が飛躍的に発展し、レントゲンのX線発見が診断技術を革命化した。

この時期には公衆衛生の改善も進んだ。チャドウィックらの努力により上下水道が整備され、都市の衛生環境が大幅に改善された。ジョン・スノウのコレラ研究は疫学の基礎を築き、感染症対策に新たな道筋を示した。

20世紀初頭には、パスツールとコッホの細菌学的研究により感染症の原因が解明され、エールリッヒの「魔法の弾丸」概念が化学療法の基礎となった。フレミングのペニシリン発見は抗生物質時代の到来を告げ、多くの感染症が治療可能となった。

現代医療の発展により多くの疾患が克服されたが、著者は現在の医療制度に警鐘を鳴らす。官僚制の拡大により患者中心の医療から管理中心の医療に変化し、予防医学よりも治療医学に偏重している現状を批判する。発展途上国では基本的な衛生設備さえ不十分であり、先進国では医原病(治療による害)が深刻な問題となっている。

この歴史を通じて著者が強調するのは、医学の進歩は単独の天才による発見ではなく、社会的、経済的、政治的要因が複雑に絡み合った結果であるということだ。真の健康改善には、高度な医療技術よりも清潔な水、適切な栄養、衛生的な環境といった基本的条件の確保が重要であると訴えている。

各章の要約

第1章 医学を見通す

医学史は医学の専門家ではなく、より広い読者層に向けて書かれるべきである。著者は原因と結果の関係に焦点を当て、神話や偏見を排除して事実に基づく歴史の記述を目指す。医学の進歩は医療従事者だけでなく、多くの場合は医学界の外部から生まれた。疾病パターンは地域や時代により変化し、医学史は他の歴史分野から切り離すことができない包括的なものである。

第2章 神々の力

すべての生き物は生存本能と自己治癒能力を持っている。人類も自然な治療法を使用していたが、病気の原因を理解できなかったため、超自然的な説明を求めるようになった。この結果、医学と宗教の密接な結びつきが生まれ、祭司が治療の仲介者となった。この関係は医学の科学的進歩を何世紀にもわたって遅らせたが、プラセボ効果や実際に効果のある民間療法により、しばしば治療結果をもたらした。

第3章 メソポタミアの医学

現在のイラクにあたる地域で、約6000年前に医学と宗教の分離への最初の歩みが始まった。メソポタミアの人々は事故や怪我の具体的な原因を認識し、医学的解決策を模索した。患者を市場に連れて行き、通行人に助言を求める制度は、医学知識の蓄積と共有の効果的な方法だった。ハンムラビ王の法典は医師の責任と報酬を規定し、真の医療専門職への第一歩となった。

第4章 東洋への恩恵

メソポタミアと同時期に、インド、中国、その他の東洋諸国でも独立して医学理論が発展していた。中国では宗教的制約により外科手術は発達しなかったが、マッサージや鍼灸などの治療法が生まれた。インドでは4000年前に高度な外科技術が発達し、現代の形成外科で使用される鼻の手術法が開発された。手術室は清潔に保たれ、麻酔や消毒薬も使用されていた。これらの知識は後にギリシア・ローマ医学の基礎となった。

第5章 ギリシアの偉人たち

ギリシア人は周辺諸国から知識を収集し、科学的医学の基礎を築いた。ヒポクラテスは医学を宗教と哲学から完全に分離し、自然的な病気の説明を求めた。彼は疾患の自然史を記録し、身体の自己治癒メカニズムを支援することに重点を置いた。ヒポクラテスの誓いは医療専門職の発展に寄与し、医師と外科医の区別も確立された。彼の死後、医学は再び宗教化されたが、彼の業績は2000年以上後に再発見されることになった。

第6章 ローマの遺産

ギリシア帝国の衰退と共にローマ帝国が勢力を拡大した。ローマ人は実用的な民族で、当初は家庭内で治療を行っていた。ギリシアの医師たちがローマに逃れ、やがて医療専門職としての地位を確立した。ガレンは最も影響力のある医師となり、四体液説を復活させた。ローマの真の貢献は公衆衛生工学にあった。優れた水道、下水道、道路により、ローマ市民は現代都市に匹敵する生活水準を享受していた。しかし帝国の拡大により外来の疾病が流入し、最終的には疫病が帝国衰退の一因となった。

第7章 キリスト教会の影響

ローマ帝国崩壊後、キリスト教会が唯一の統治機関となった。教会は来世での生活を約束したが、現世での健康状態の改善にはほとんど貢献しなかった。ローマ時代の公衆衛生の進歩は放棄され、祈りと迷信が技術的改良に取って代わった。教会は解剖学、生理学、病理学の研究を敵視し、医学研究は停止した。一方で、教会は病院や療養所を提供し、ケアの面では貢献した。しかし、その重点は治癒ではなく魂の慰めにあった。

第8章 アラビアの継承

431年、ネストリウス派の追放により、ギリシアの医学テキストがアラビア語に翻訳された。イスラム帝国の拡大と共に、医学知識がアラビア世界で保存・発展された。ラーゼスは臨床教育を導入し、天然痘、麻疹、猩紅熱の正確な記述を残した。アラブ人はギリシアから知識を得ただけでなく、錬金術、占星術、四気質説などの新たな理論も発展させた。十字軍によりこれらの知識がヨーロッパに持ち帰られ、サレルノ医学校の設立につながった。1256年のモンゴル軍によるバグダード破壊により、イスラム医学文化は終焉を迎えた。

第9章 最初の医学校

サレルノは国際的で宗教的にも多様な都市であり、西ヨーロッパにおける医学的伝統復活の舞台となった。9世紀から非公式な医学教育が始まり、やがてヨーロッパ中から学生が集まるようになった。1140年、シチリアのロジャー王は医学実践の資格制度を導入した。しかし教会は聖職者の医学実践を禁止し、これが医学の発展を遅らせた。ロジャー・ベーコンは革新的思考家として化学物質の医学的応用を主張したが、教会の反対に遭った。後にボローニャ、パドヴァ、モンペリエなどの医学校が設立され、正式なカリキュラムと学位制度が確立された。

第10章 黒死病

14世紀初頭、医学校は拡散していたが、実際の医療水準は依然として低く、公衆衛生施設はローマ時代より劣悪だった。黒死病は1345年頃に始まり、ヨーロッパの人口の3分の1から半分を死に至らしめた。恐怖により集団鞭打ちや魔女狩りなどの異常行動が広がった。医学界も教会も疫病に対して無力だったため、両者への信頼が失墜した。黒死病は封建制度を崩壊させ、労働者の地位を向上させた。1374年、ヴェネツィア共和国が最初の有効な隔離規制を導入し、40日間の検疫制度(クアランティン)が生まれた。

第11章 拡がる地平

15世紀後半の印刷術と国際海上旅行の発展により、医学に大きな変化がもたらされた。グーテンベルクの活版印刷により知識の国際的共有が可能となった。コロンブス、バスコ・ダ・ガマ、マゼランらの航海により地理的障壁が取り除かれたが、同時に大陸間で感染症の交換も始まった。これまで隔離されていた人口が異なる疾患に曝露されることになり、免疫を持たない集団に深刻な被害をもたらした。この変化は政治的、社会的、経済的に重大な影響を与えることになった。

第12章 旅の成果

コロンブスの航海により、大陸間で感染症の「貿易」が始まった。梅毒はアメリカからヨーロッパに伝播し、シャルル8世の軍隊を通じてヨーロッパ全土に広がった。一方、天然痘はヨーロッパからアメリカに持ち込まれ、コルテスによるアステカ帝国征服の決定的要因となった。メキシコの人口は接触前の2500-3000万人から50年後には10分の1に、さらに次の50年で半分に減少した。同時に、トウモロコシとジャガイモがヨーロッパの食生活を変革し、キニーネの導入により薬理学が科学として発展する基礎が築かれた。

第13章 古い考えの拒絶

16世紀前半は医学史上最も論争的で創造的な時代だった。パラケルススは従来の医学権威を完全に拒絶し、経験と実習による学習を主張した。彼は職業病を初めて体系的に研究し、水銀による梅毒治療法を開発した。ヴェサリウスは人体解剖学の教科書を著し、ガレンの誤りを指摘した。パレは軍医として経験を積み、外科学を科学的専門分野として確立した。これら3人の革新者は、医学を迷信と伝統から解放し、現代医学の基礎を築いた。

第14章 新しい考えと古い実践

理論的進歩にもかかわらず、実際の医療は依然として原始的だった。多くの医師が占星術、手相術、尿診断に依存していた。コペルニクスやノストラダムスのような著名な学者さえも、医学実践において占星術を重要視していた。ほとんどの人々は依然として地元の助産婦に頼っており、彼女たちが事実上の総合診療医の役割を果たしていた。産科医療の水準は極めて低く、妊産婦死亡率は50%に達していた。高い乳児死亡率が人口増加を抑制していたが、著名人の寿命を見ると、この時代でも長寿は可能だったことが分かる。

第15章 教会の衰退

何世紀にもわたって医療を支配してきた教会の権力が急速に衰退した。イングランドでは、ヘンリー8世がトーマス・リネカーの提案により医師会に勅許を与え、医学実践の規制を開始した。しかし、有資格者の数が不足したため、1542年にヤブ医者憲章が制定され、無資格者にも薬草の販売が許可された。1536年には多くの教会運営病院が解散され、教会の医療における権力がさらに削減された。これらの病院の消失は実際にはほとんど影響がなかった。当時の病院は不潔で過密であり、家庭で治療を受ける方が安全だったからである。

第16章 科学の進歩

医学の進歩は医学界外部の科学者によってもたらされることが多かった。ガリレオは振り子時計の原理を発見し、サンクトリウスは体重計と体温計を発明した。顕微鏡の開発により、フックが細胞を記述し、レーウェンフックが赤血球、精子、細菌を観察した。デカルトの機械論的人体観は新しい生理学を生み出した。ハーヴィーは血液循環を実証し、これが最も重要な発見となった。彼の論理的実験手法は後の医学研究の模範となり、外科手術や薬理学の発展につながった。

第17章 新時代の夜明け

16-17世紀の実際の医療は4つのグループに分かれていた。助産婦が大多数の人々に医療を提供し、しばしば他の医療従事者より効果的だった。薬剤師は正式には薬の販売のみを認められていたが、実際には診察も行っていた。外科医は依然として医師より格下とされていた。医師は最も権威があったが、実際の技能は限られていた。シドナムは常識的なヒポクラテス的アプローチを復活させ、鉄、キニーネ、アヘンを処方した。彼の観察と懐疑主義の伝統は、実験科学者たちの発見を臨床に応用する準備を整えた。

第18章 感染の本質

16世紀のフラカストロは感染症が小さな粒子により伝播するという理論を提唱したが、証拠不足のため無視された。17世紀にはレーウェンフックが細菌を初めて観察した。しかし疫病は17世紀を通じてヨーロッパを荒廃させ続けた。ロンドンだけでも1664年に約7万人が死亡した。疫病への対策は様々だったが、多くは迷信に基づいていた。コルベールはフランス全土に規制を発布し、感染家屋を焼却した。疫病は18世紀初頭に自然に消滅したが、その理由は今でも不明である。天然痘、赤痢、チフスなどの他の感染症は引き続き多くの死者を出していた。

第19章 職業内の対立

17世紀を通じて、ロンドンの薬剤師と医師の間で職業的嫉妬と対立が続いた。医師会の会員数が極めて限られていたため、薬剤師が医療サービスの大部分を担うようになった。1703年のローズ事件により、薬剤師は医師との協議なしに患者を診察し、処方することが法的に認められた。同時に助産術でも男女間の権力争いが起こった。フランスのモリソーやオランダのデフェンターなどの男性が産科学に参入し、チェンバレン一家が産科鉗子を発明した。伝統的に女性の領域だった助産術に男性が進出し、徐々に女性の権威が失われていった。

第20章 医学教育の革命

17世紀末までに、パラケルススらが始めた科学革命がヨーロッパ全土に拡散していた。王立協会やフランス科学アカデミーが設立され、科学雑誌が発行されるようになった。医学教育への最大の影響はライデン大学にあった。シルヴィウスが12床の病棟で学生を実際の患者と接触させる臨床教育を開始した。ブールハーフェは学生に基礎科学の学習を義務付け、病棟実習と剖検所見の相関を重視した。彼の影響は弟子たちを通じてウィーンやエディンバラ医学校に広がり、さらに大西洋両岸の医学教育に波及した。ブールハーフェは現代医学教育の父と呼ばれる。

第21章 18世紀アメリカの医学

18世紀初頭まで、アメリカ大陸は主要ヨーロッパ諸国の政治的・経済的支配下にあった。ベンジャミン・フランクリンが印刷業、出版業、政治、外交、科学、発明の分野で活躍し、アメリカ医学史の発展に重要な役割を果たした。彼は1743年にアメリカ哲学協会を設立し、1751年にはペンシルベニア病院の設立を支援した。1765年にアメリカ初の医学校がペンシルベニアに設立され、エディンバラ出身の教授陣により運営された。ベンジャミン・ラッシュは炎症理論を提唱し、精神病を神の意志ではなく疾患として捉えた。18世紀末までにアメリカは医学的にヨーロッパに追いついた。

第22章 薬物と薬業界

17世紀の薬理学は依然として迷信と伝統の混合物だった。1618年のロンドン薬局方には、ミミズ、乾燥毒蛇、狐の肺、貴石の粉末などが含まれていた。パラミディーニがキニーネの有効性を確認し、これが初めて科学的に認められた特効薬となった。シドナムがアヘンからラウダナムを抽出し、ヘバデンが何百もの成分を含む万能薬テリアカの使用に反対した。1763年にエドマンド・ストーンが柳の樹皮の効果を報告し、これが現代のアスピリンの前身となった。1776年にウィザリングが狐の手袋(ジギタリス)の心疾患への効果を記述し、薬理学の科学的評価の先駆けとなった。

第23章 権力と病気

個々の指導者の健康状態が歴史に大きな影響を与えてきた可能性がある。ヘンリー8世は梅毒を患っていたとされ、これが後継者問題の原因だったかもしれない。ナポレオンの痔疾がワーテルローの敗北につながったという説もある。ヴィクトリア女王が血友病の保因者だったことで、この疾患がヨーロッパ王室に広がり、特にロシア皇室のアレクセイ皇太子の病気がラスプーチンへの依存を生み、最終的にロシア革命の一因となった可能性がある。ジョージ3世のポルフィリア症が60年間の治世に影響を与え、アメリカ独立戦争や政治的決定に関わったかもしれない。

第24章 産業革命

18世紀の産業革命は人類史上最も劇的で広範囲な変革をもたらした。イギリスが最初の機械時代の発祥地となったのは、島国という地理的利点、石炭・鉄・水などの天然資源、そして広範な中産階級の存在による。蒸気機関の発明により製造業が革命化され、経済的繁栄がもたらされた。しかし労働者は危険で退屈な機械作業を強いられ、農村から都市への大規模な人口移動が起こった。過密な住宅、汚染された空気、不十分な上下水道により健康状態は悪化した。職業病も増加し、アルコール依存症と結核が蔓延した。

第25章 壊血病の終焉

1535年、カルティエの探検隊110人のうち100人が壊血病に罹患したが、現地人から果汁による治療法を学んだ。1636年、ウッドールが予防法としてオレンジやレモン汁を推奨したが、その後忘れ去られた。1747年、リンドが史上初の臨床試験を実施し、柑橘類の効果を科学的に証明した。しかし海軍本部は無視し続け、1779年の海峡艦隊では10週間の航海で2400人が壊血病に罹患した。1795年、リンドの死後ようやくレモン汁が船員の必須品となり、ネルソンの時代に間に合った。

第26章 疾病との新たな武器

天然痘は何百万人もの死者を出し続けてきた最も広範囲な感染症だった。中国とインドでは2500年前から種痘法が用いられていた。18世紀初頭、ティモニとピラリーニがトルコの種痘法をロンドン王立協会に報告した。レディ・メアリー・モンタギューが娘に公開種痘を受けさせ、ヨーロッパで流行が始まった。1774年、農夫ジェスティが家族に牛痘を接種して天然痘から保護した。1796年、ジェンナーがこの方法を科学的に検証し、1798年に自費で小冊子を出版した。牛痘接種は急速に世界中に広まり、天然痘による死者が劇的に減少した。

第27章 いかさまと天才

18世紀の正統医学には確実で安全な治療法がほとんどなかったため、多くの庸医が繁盛した。ウィリアム・リードは仕立屋から眼科専門医となり、アン女王の患者となった。ジョシュア・ウォードは政治家から医師に転身し、ジョージ2世の脱臼した親指を治療して成功した。尿診断を専門とする「小便預言者」や、フランクリンの電気実験を利用したジェームズ・グラハムの「天体ベッド」などもあった。しかし、最も重要な「庸医」はフランツ・メスマーだった。彼は動物磁気説を提唱し、催眠術の先駆けとなった。メスマーの方法は後にフロイトに影響を与え、精神医学の発展に寄与した。

第28章 施設治療の弊害

18世紀の病院の水準は極めて低く、死亡率も高かった。ダブリンの孤児院では1775-1796年に10,272人の乳児が収容されたが、生存者はわずか45人だった。1788年、テノンがパリの病院について報告書を発表し、ホテル・デューでは1,220床に4-6人の患者が詰め込まれ、感染症患者と非感染症患者が混在していた状況を描いた。精神病院の状況はさらに悲惨で、フィラデルフィアのブロックリー病院では精神病患者が見世物として公開されていた。フランスのピネルが精神病患者を鎖から解放し、精神病を疾患として扱う最初の精神医学教科書を1801年に出版した。

第29章 製薬産業の誕生

19世紀初頭まで、薬の調製は手作業で行われていた。錠剤は手で丸められ、品質にばらつきがあった。1844年、ウィリアム・ブロックデンが圧縮錠剤製造機の特許を取得した。彼は最初、鉛筆の芯に含まれる砂利に苛立ち、純粋な黒鉛粉末を圧縮する方法を開発したが、これが錠剤製造にも応用できることに気づいた。この発明により、薬剤師は工場製の錠剤を購入する方が安く簡単になった。機械製造により錠剤の品質が均一化され、大量生産が可能となり、現代製薬産業の基礎が築かれた。

第30章 フランスでの外科の地位向上

フランスでは外科が他のヨーロッパ諸国より進歩していた。1686年、シャルル・フェリックスがルイ14世の痔瘻を成功裏に治療し、外科医の地位が向上した。医師たちは抗議したが、ルイ15世は1731年に外科アカデミーを設立し、1743年には理髪師と床屋の外科実践を禁止した。フランス革命とその後の戦争により、外科医は豊富な経験を積むことができた。ナポレオンの軍医ラーレイは「飛行救急車」や前線病院システムを開発し、兵士の階級や国籍に関係なく治療の必要性に基づいて患者を処置した。彼の人道的アプローチにより、一般兵士からも愛された。

第31章 薬剤師が主導権を握る

フランス革命後、医療の質と利用可能性が劇的に改善した。軍医だったビシャは解剖学と臨床外科学の重要な教科書を著した。ラエネクは聴診器を発明し、診断専用の最初の臨床器具となった。オーエンブルッガーの打診法とモルガーニの病理学が実用化された。イギリスでは1815年に薬剤師法が成立し、薬剤師に5年間の徒弟制度、解剖学・生理学の学習、病院実習、試験合格を義務付けた。薬剤師は医師の独占を破り、診察料と調剤料の両方を徴収する権利を獲得した。1840年代までに薬剤師はイギリス医療の主導権を握り、数百人の免許を発行していた。

第32章 致命的疾患が社会変化を強制する

19世紀初頭、天然痘、結核、コレラが依然として猛威を振るっていた。ジェンナーの種痘にもかかわらず反対意見があったが、1840年の種痘法により天然痘が減少した。結核は産業革命により理想的な繁殖環境を得て、19世紀イギリスでは他のすべての感染症を合わせたより多くの死者を出した。1831年にコレラがイギリスに到達し、汚染された水源と劣悪な衛生状態が理想的な環境を提供した。チャドウィックが公衆衛生報告書を作成し、1848年の公衆衛生法につながった。ジョン・スノウがブロード街ポンプとコレラの関連を証明し、疫学の基礎を築いた。1845年のアイルランド じゃがいも疫病は飢饉を引き起こし、穀物法廃止や大量移住の原因となった。

第33章 産業の危険

産業革命により労働条件が劇化し、女性や幼児が重労働に従事するようになった。5-12歳の子供が村から連れ出され、都市の悪条件下で働かされた。コベットは「イングランドは3万人の少女の背中の上に産業支配を築いている」と述べた。1831年、リーズで働くサッカラーが最初の産業医学書を出版し、子供たちの労働条件の実態を暴露した。彼は作業場での防護マスクや適切な換気を提案した。1833年の工場法により、夜間労働の禁止、労働時間の制限、最低年齢の設定が行われ、政府による工場監査制度が導入された。

第34章 看護が専門職となる

ルネサンスから18世紀末まで、看護は主に修道女が担っていた。フランス革命により教会運営病院が国有化され、世俗的な看護師の需要が生まれた。しかし病院は依然として不潔で過密であり、看護師は家政婦として扱われ、低賃金で長時間労働を強いられていた。ディケンズのサラ・ガンプのような看護師が酒浸りで評判が悪かった。1833年、ドイツのフリードナー牧師夫妻が元女囚を看護師として訓練する学校を開設した。1840年にエリザベス・フライがこれを視察し、イギリス初の看護学校を開設した。しかし真の変革は、フィレンツェで生まれたナイチンゲール嬢によってもたらされることになった。

第35章 フローレンス・ナイチンゲールの貢献

フローレンス・ナイチンゲールは1844年に病人の世話に生涯を捧げることを決意した。上流階級の女性には異例の決断だった。彼女はヨーロッパ中の病院を視察し、1850年にフリードナーを訪問した。1853年に「困窮した上流階級女性のための療養所」の監督となり、呼び鈴システムの導入、清潔なベッドと寝具の提供、契約管理を行った。クリミア戦争で陸軍大臣ハーバートから派遣要請を受け、38人の看護師と共にスクタリに向かった。到着前の死亡率42%が、彼女の組織改革により2%に低下した。帰国後、国民から寄付された5万ポンドでセント・トーマス病院に看護学校を設立し、世界的な看護制度改革を指導した。

第36章 衛生の提唱者たち

16世紀にフラカストロが微生物による感染理論を提唱し、17世紀にレーウェンフックが顕微鏡で微生物を観察したが、不衛生と微生物感染の関連は19世紀まで理解されなかった。産褥熱は病院と密接に関連していた。18世紀末、マンチェスターの外科医チャールズ・ホワイトが清潔さの重要性を認識したが注目されなかった。1843年、オリバー・ウェンデル・ホームズが産褥熱の伝染性について講演し、医師による病原体の運搬を指摘した。1846年、ウィーンのゼンメルワイスが医学生の病棟と助産婦の病棟の死亡率の違いに注目し、塩化カルシウムでの手洗いを導入して死亡率を10分の1に減少させた。しかし医学界の反対により精神的に追い詰められ、精神病院で死亡した。

第37章 医学における女性

19世紀にダーウィンの進化論が確立される一方で、医学教育制度の整備が進められていた。イギリスでは薬剤師、医師、外科医が資格統合を模索し、1858年の医師法により全国統一の医師登録制度が確立された。この時代、女性は公式の医学界から排除されていたが、伝統的な女性開業医も新法により締め出されようとしていた。アメリカでエリザベス・ブラックウェルがジュネーブ医科大学で医学を修了し、ヨーロッパで研修後ニューヨークで開業した。イギリスではエリザベス・ギャレットが1861-1865年に各医科大学に入学を申請し続け、最終的に薬剤師協会の試験に合格して女性初の医師となった。

第38章 外科の問題解決

19世紀中頃まで外科は原始的な科学だった。解剖学と止血法は改善されていたが、疼痛と感染という2つの重大な問題が残っていた。感染により切断術の半数が死亡し、ベルリンの外科医は90%の患者を失って手術を断念した。外科医は可能な限り高速で手術を行い、ロバート・リストンは大腿部切断を33秒で行った記録を持つ。

1799年にハンフリー・デイビーが亜酸化窒素の麻酔効果を発見したが医学界に無視された。1846年、アメリカでモートンが公開手術でエーテル麻酔を使用し、ヨーロッパに技術が伝播した。1853年にヴィクトリア女王がクロロホルム麻酔下で出産し、宗教的反対が終息した。

感染対策では、リスターがパスツールの研究を基に石炭酸による防腐法を開発した。1867年にランセット誌で発表したが、医学界の受け入れは遅かった。リスターは石炭酸スプレーを開発し、手術室全体を石炭酸霧で満たした。後に器具の清拭と清潔な手術着の着用で同様の効果が得られることが判明した。麻酔と防腐法により、外科は現代的な医学専門分野となった。

第39章 公衆衛生の改善

1848年の公衆衛生法以降、感染症による死亡者数は継続的に減少した。これは衛生状態の改善だけでなく、産業革命による生活水準の全般的向上による。鉄道網の発達により食料供給が改善され、農業技術の進歩により食料生産が増加した。工場の換気と照明が改善され、労働時間が法的に制限された。賃金上昇により一般的な生活条件が向上した。

1860年、政府は枢密院に公衆衛生審査を指示した。乳児死亡率は地域により1000人中250人に達し、全国平均でも150人だった。1866年の衛生法から1875年の大公衆衛生法まで一連の立法により、病院建設、食品検査、下水設備、生活規制が実施された。その結果、1869年にイングランドで4,281人だったチフス死者が1885年には318人まで減少した。

第40章 微生物の謎を解く

リスターが防腐技術を開発している間、パスツールはフランスで化学研究を続けていた。ワイン産業、蚕業、ビール産業の問題を解決した後、人間の疾患研究に転向した。炭疽病研究でロバート・コッホと協力し、コッホは炭疽菌の完全な生活環を記述した。1882年にコッホは結核菌を、1883年にはコレラ菌を発見した。パスツールは炭疽ワクチンの開発に成功し、さらに狂犬病ワクチンを開発した。1886年に設立されたパスツール研究所が彼らの研究拠点となった。彼らの業績により細菌学が確立され、感染症の原因と伝播メカニズムが科学的に証明された。これにより公衆衛生改善運動に科学的根拠が与えられ、世界規模での感染症制御が可能となった。

第41章 ジークムント・フロイドの強迫観念

フロイドは1856年に生まれ、1881年に医師免許を取得した。神経学専門医としてパリのシャルコーのもとで催眠術を学んだ後、ウィーンで神経症治療を専門とする開業医となった。患者をリラックスさせて無意識の記憶にアクセスする方法を開発し、性的影響が無意識に与える重要性を理論化した。すべての行動と思考が性的欲求によって説明できると主張し、夢も性的欲望の手がかりを提供すると考えた。論争と宣伝により診察料を上げることができた。精神分析は時間と費用がかかるため限られた患者しか治療できず、実際の医療への影響は限定的だった。しかし医学教育と社会一般に広く影響を与え、性的問題への議論を促進し、避妊相談の普及にも寄与した可能性がある。

第42章 外科に限界なし

麻酔法と防腐法の導入後、外科は飛躍的に進歩した。1880年代に腹部外科の標準術式が確立され、イタリアのロレタが1882年に幽門形成術を、オーストリアのビルロートが1881年に胃切除術を実施した。1888年にドイツのマイドルが人工肛門造設術を、1882年にランゲンブフが胆嚢摘出術を行った。1896年、フランクフルトのレーン教授が心室刺創を成功裏に縫合し、心臓外科の扉を開いた。脳外科も同時期に発展した。麻酔と防腐法により、死亡率50%の時代では不可能だった選択的手術が可能となった。しかし外科手術の劇的な成功は一般と医学界の過度の関心を集め、予防医学の重要性が軽視される結果を招いた。外科は多数の熟練医師と看護師、多額の費用を要するが、予防技術の費用対効果は軽視された。

第43章 異国病の制御

マラリアと黄熱病は依然として世界各地で流行していた。マラリアはかつてヨーロッパでも蔓延し、ローマ帝国衰退の一因となった。紀元前500年にインドの医師スシュルタが蚊との関連を疑い、ローマ人も沼地との関係を認識していた。ペルーの樹皮(キニーネ)による治療法は17世紀から知られていた。1880年、アルジェリアのラヴランがマラリア患者の血液中に寄生虫を発見した。インド医療隊のロナルド・ロスが蚊との関連を調査し、1890年代末にハマダラカによる伝播メカニズムを証明した。黄熱病については、1881年にハバナのフィンレイが蚊媒介説を提唱していた。1900年、ウォルター・リード少佐率いる委員会がキューバで調査を開始し、ラゼアが蚊に刺されて死亡したが、黄熱病の蚊媒介が証明された。これらの発見によりパナマ運河建設が可能となり、ゴルガス大佐の防蚊対策により労働者の死亡率が大幅に減少した。

第44章 レントゲンの発見

医学史上の重要な発見の多くは幸運と観察力の組み合わせによって生まれた。また医学以外の分野の人々による貢献も多い。1895年、ヴュルツブルク大学の50歳の物理学教授ヴィルヘルム・レントゲンが陰極線を研究中、偶然X線を発見した。彼は黒いボール紙で覆った管から未知の光線が発せられ、シアン化白金バリウムを塗った紙を光らせることに気づいた。自分の手をかざすと骨が影として現れた。写真乾板への応用も確認し、1895年12月28日に論文を発表した。1ヶ月後にはロンドンのランセット誌がX線写真を掲載し、2月末には外科医がX線を使用して手術前に空気銃の弾を位置確認していた。世界中で放射線専門医が現れ、診断と治療に革命をもたらした。

第45章 縮小する世界

19世紀を通じて道路交通機関の実験が続けられた。蒸気自動車から始まり、19世紀末にガソリンエンジンが開発された。ベンツとダイムラーが実用的な自動車を製造し、ヨーロッパとアメリカで工場生産が始まった。1900年にツェッペリンが硬式飛行船を、1903年にライト兄弟が動力飛行機を開発した。これらの技術により国際旅行が劇的に短縮され、数週間から数時間へと変化した。社会的、経済的、文化的、医学的影響は甚大だった。生活水準は向上したが、食生活の変化により心疾患や癌のリスクが高まった。自動車事故や大気汚染という新たな健康問題も生まれた。最も重要な影響は感染症の国際的拡散の加速で、航空旅行により潜伏期間中の患者が世界中に疾患を運ぶ可能性が生じた。検疫制度の実施が困難となり、公衆衛生担当者の業務が複雑化した。

第46章 専門医の台頭

19世紀の医学科学の急速な発展により、一人の医師がすべての理論と実技に精通することが不可能となった。皮肉にも、医師、外科医、助産婦、薬剤師が初めて統一された直後に専門分化が始まった。情報爆発により医師は臓器や身体系統別の専門化を余儀なくされた。初めて医師間の協議が受け入れられ、紹介システムが発達した。ロンドンのハーリー街が専門医の中心地となり、1873年に36人だった医師が世紀末には157人に増加した。アメリカでは専門化が極端に進み、大都市では総合診療医がほとんどいなくなった。患者は自分でどの専門医を受診するか決めなければならず、夜間の診療も困難となった。麻酔科が最初の専門分野となり、その後皮膚科、耳鼻咽喉科、泌尿器科、神経科など多数の専門分野が確立された。フロイトの影響により精神医学も独立した専門分野として発展した。

第47章 輸血の実現

何世紀にもわたって医師は瀕死の患者に新鮮な血液を輸血しようと試みていた。1667年、フランスのドニが羊の血液を少年に輸血することに成功したが、翌年の患者死亡により法的に禁止された。1818年、ロンドンのブランデルとクラインが注射器を使用して人から人への輸血を実施した。しかし血液凝固が大きな問題だった。重要な突破口は生物学者ランドシュタイナーによる血液型の発見だった。彼は人間の血液に異なる型があり、適合性のあるもの同士でなければ安全に混合できないことを示した。後にクエン酸ナトリウムが血液凝固防止に使用できることが発見され、安全な輸血が可能となった。これにより外科医はより長時間で複雑な手術を実施でき、事故や外傷による大量出血患者の救命も可能となった。皮肉にも、自動車や航空機などの機械の普及により事故件数も増加していた。

第48章 疾病と戦争

1904-1906年の日露戦争は、戦闘による死傷者数が感染症による死者数を上回った最初の大規模軍事紛争だった。それまでの戦争では常に感染症が主要な死因だった。1812年のナポレオンはチフスに敗北し、クリミア戦争では敵の10倍の兵士が疾病で死亡した。ボーア戦争末期でも5倍多くの兵士が疾病で死亡していた。抗チフス接種は利用可能だったが使用されなかった。日露戦争で初めて軍事当局が感染症を深刻な脅威として認識し、生活条件の改善と大規模ワクチン接種を実施した。日本軍は約6万人を敵に失ったが、疾病による死者はその3分の1だった。ロシア軍も100人に1人しか感染症で死亡しなかったと報告している。この成功例に続いて世界中の軍事当局が類似の兵士保護策を導入した。

第49章 最初の組織的健康サービス

19世紀に多くの変化があったにもかかわらず、多くの問題が残っていた。1910年、アメリカでフレクスナーが医学教育の包括的研究を実施し、驚くべき数の独立医学校と様々な教育水準を発見した。150校を訪問した結果、80校が全く入学要件がなく、多くは学費支払い能力のみを重視していた。病院も不適切に運営されているところが多く、フローレンス・ナイチンゲールの基準を満たすものは少なかった。また医療の一般的利用可能性も問題だった。法的には無資格者の医学実践が困難になったが、多くの人々が伝統的にこれらの人々に依存していた。解決策として最初の組織的健康サービスが導入された。1880年にドイツが健康保険制度を、1911年にイギリスがロイド・ジョージの国民健康保険法を導入した。1914年までにヨーロッパ諸国で健康管理制度が実施され、医学教育の改善と医療サービスの拡大への第一歩が踏み出された。

第50章 産児制限の主唱者たち

19世紀に世界人口の増加が加速し、1000万人から2000万人まで100年、さらに3000万人まで30年で到達した。医療施設の改善、良好な食料供給、公衆衛生設備により死亡率が低下し、特に乳児死亡率の劇的な減少が個々の家族に大きな影響を与えた。避妊法は古代から存在し、エジプト人は蜂蜜とワニの糞を混ぜた避妊具を使用していた。16世紀にイタリアのファロピオがリンネン製のコンドームを推奨した。19世紀後半にゴム製避妊具やハッセの子宮隔膜、オランダのヤコブスのダッチキャップが開発された。しかし社会的、政治的、宗教的障壁が大きかった。マーガレット・サンガーがアメリカで、マリー・ストープスがヨーロッパで産児制限運動を指導し、クリニックを開設した。主な反対は教会、特にローマ・カトリック教会からのものだった。

第51章 魔法の弾丸

20世紀初頭の一般医には限られた薬物しか使用できなかった。キニーネ、アヘン(モルヒネ)、ジギタリス、アスピリンの4つが主要な薬剤だった。ドイツのパウル・エーリッヒが特定疾患に対する特異的作用を持つ「魔法の弾丸」の探索を開始した。606回の失敗の後、1910年に梅毒に対するサルヴァルサンを開発した。これは特定疾患への特異的薬剤としては、キニーネに続く2番目のものだった。1928年、フレミングがセント・メアリー病院で偶然ペニシリンを発見したが、製造が困難で10年間放置された。1932年、ドイツのドーマクがプロントジル・レッドを発見し、合成抗菌薬の開発が始まった。第二次世界大戦中、オックスフォードのフローリーとチェインがペニシリンの大量生産法を確立した。抗生物質により肺炎の死亡率が50%から5%に低下した。この他にも精神科薬、コルチゾン、合成性ホルモンによる経口避妊薬、各種ワクチン、ビタミンなどが開発された。

第52章 疾病の国際的制御

感染症制御の進歩は政治指導者の実行意志に依存していた。19世紀に先進国では多くの革新が実用化されたが、発展途上国では熱意も資金も不足していた。疾患を引き起こす微生物は国境を認識しないため、国際協力の必要性が認識された。1851年にパリで最初の国際衛生会議が開催されたが、疾患の原因が不明だったため失敗した。1892年のヴェネツィア会議でコレラに関する合意が成立し、1907年にパリに国際公衆衛生事務局が設立された。第二次世界大戦後の1946年に世界保健機関(WHO)が設立され、疫病統計の記録、流行病の撲滅、国際保健サービスの改善を目標とした。WHOのマラリア撲滅計画は部分的成功にとどまったが、天然痘撲滅計画は1966年の開始から15年で世界からの完全撲滅を達成した。WHOは教育プログラム、研究計画、政府助言など多方面で貢献したが、最も重要な役割は感染症対策の国際協調だった。

第53章 現代の健康管理

1948年に世界保健機関が設立された同年、各国で健康管理制度の議論が活発化した。イギリスでは労働党のアニューリン・ベヴァンが病院コンサルタントと一般医を分離して交渉し、「彼らの口を金で詰めた」と後に告白した。国民保健サービスにより、既存の医師、病院、保健官がそのまま無料サービスを提供するようになった。戦争により緊急医療サービスの利点が認識されたことが、平時での同様サービス要求につながった。他の多くの国も類似制度を導入した。しかし国家統制により官僚制が拡大し、患者ケアより管理に重点が置かれるようになった。病院の患者ケア直接従事者の割合が減少し、管理者向けの建物設計が優先されるようになった。12世紀の修道院病院では患者病棟が最重要だったが、現代の医療センターでは患者病棟は全体の5分の1程度しか占めていない。

第54章 一時代の終わり?

医学は19世紀の推進力を失っている。一部の先進国では平均寿命が数十年前より短くなり、発展途上国では疾病との闘いが進展していない。先進国では医学界が医療サービスをほぼ完全に支配しているが、治療優先の「介入主義」哲学に固執している。現在では多くの主要疾患が予防可能であることが判明しているが、医師の需要と野心を満たす治療に重点が置かれ続けている。患者が2つの疾患を患っている場合、2番目の疾患は最初の治療によって引き起こされた医原病である可能性が高い。発展途上国では、清潔な水供給、衛生設備、良好な食料、基本的公共サービスよりも高技術病院の建設が優先されている。世界人口の約半分が清潔な水と衛生設備を欠いており、年間500万人の乳児が汚染水による下痢性疾患で死亡している。癌の原因の80%が特定されているにもかかわらず、原因除去よりも治療研究が優先されている。何世紀前に形成された医学パラダイムが現在の条件に不適合であり、20世紀後半から21世紀初頭は、医療の質と利用可能性が急速に改善した時代の終焉として将来の歴史家に記憶される可能性がある。


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