『ラウトレッジ経済哲学ハンドブック』2024年

リバタリアニズム・アナーキズム物理・数学・哲学科学主義・啓蒙主義・合理性経済行動経済学・ナッジ

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The Routledge Handbook of Philosophy of Economics

『Routledge Handbook of Philosophy of Economics』

経済学の最も根本的な問題は、しばしば哲学的な性質を持つものであり、西洋哲学の始まり以来、哲学者たちは、現在の観察者が経済学的な問題と認識する多くの疑問を投げかけてきた。『Routledge Handbook of Philosophy of Economics』は、哲学と経済学の交わる分野における主要なテーマ、問題、議論に関する優れた参考書だ。この分野における、無数の刺激的な相互関係、親和性、相互交流の機会を網羅している。

世界中から集まった多様な執筆者による35 章で構成されるこのハンドブックは、8 つのセクションに分かれている。

  1. 合理性
  2. 協力と相互作用
  3. 方法論
  4. 価値観
  5. 因果関係と説明
  6. 実験とシミュレーション
  7. 証拠
  8. 政策

この本は、経済学と哲学の相互関係を探求する学生や研究者にとって必読の書物だ。また、政治学、社会学、人文科学などの関連分野の研究者にとっても貴重な資料となるだろう。

コンラッド・ハイルマンは、エラスムス哲学学校哲学准教授、エラスムス哲学経済研究所(EIPE)共同所長、エラスムス大学ロッテルダムの「包括的繁栄のダイナミクス」イニシアチブの中核教員。合理的な選択理論、公平性、金融、その他の経済哲学のテーマについて研究している。

ジュリアン・ライス氏は、オーストリアのリンツ・ヨハネス・ケプラー大学哲学教授であり、哲学と科学的方法研究所所長を務めている。著書に『Causation, Evidence, and Inference』(Routledge、2015年)、『Philosophy of Economics: A Contemporary Introduction』(Routledge、2013年)、『Error in Economics: Towards a More Evidence-Based Methodology』(Routledge、2008年;エラスムス哲学国際研究賞受賞)があり、哲学と社会科学の主要な学術誌や編集書籍に60件を超える論文を寄稿している。

Routledge Handbooks in Philosophy

Routledge Handbooks in Philosophy は、哲学の創発的、最新、重要な分野に関する最先端の調査研究で、重要な問題、テーマ、思想家、最近の研究動向について、わかりやすく、かつ徹底的な評価を提供している。

各巻の章は、その分野の第一人者によって特別に執筆されている。慎重に編集・構成された『Routledge Handbooks in Philosophy』は、哲学の新しい刺激的なトピックの包括的な概要を求める学生や研究者にとって不可欠な参考書だ。また、教科書、アンソロジー、研究指向の出版物の補足資料としても貴重な教材となっている。

2022 年初版

Routledge

目次 (Table of Contents)

  • 図一覧 (List of Figures)
  • 表一覧 (List of Tables)
  • 寄稿者について (Notes on Contributors)
  • 謝辞 (Acknowledgements)
  • 1 導入 (Introduction)
    コンラッド・ハイルマン [Conrad Heilmann]、ジュリアン・レイス [Julian Reiss]
パート I 合理性 (Part I: Rationality)
  • 2 効用理論の歴史 (History of Utility Theory)
    イヴァン・モスカティ [Ivan Moscati]
  • 3 経済学とリスクの哲学 (The Economics and Philosophy of Risk)
    H・オーリ・ステファンソン [H. Orri Stefánsson]
  • 4 行動福祉経済学と消費者主権 (Behavioral Welfare Economics and Consumer Sovereignty)
    ギレム・ルクトゥー [Guilhem Lecouteux]
  • 5 経済学における選好の概念 (The Economic Concept of a Preference)
    ケイト・ヴレデンバーグ [Kate Vredenburgh]
  • 6 経済学における経済的主体性とサブパーソナル転換 (Economic Agency and the Subpersonal Turn in Economics)
    ジェームズ・D・グレイオット [James D. Grayot]
パート II 協力と相互作用 (Part II: Cooperation and Interaction)
  • 7 ゲーム理論と合理的な推論 (Game Theory and Rational Reasoning)
    ユルギス・カルプス [Jurgis Karpus]、マンタス・ラジヴィラス [Mantas Radzvilas]
  • 8 制度、合理性、調整 (Institutions, Rationality, and Coordination)
    カミラ・コロンボ [Camilla Colombo]、フランチェスコ・グアラ [Francesco Guala]
  • 9 社会的選好モデルの「もしもの話」 (As If Social Preference Models)
    ジャック・ヴローメン [Jack Vromen]
  • 10 搾取と消費 (Exploitation and Consumption)
    ベンジャミン・ファーガソン [Benjamin Ferguson]
パート III 方法論 (Part III: Methodology)
  • 11 経済学の哲学? 30年にわたる書誌学的歴史 (Philosophy of Economics? Three Decades of Bibliometric History)
    フランソワ・クラヴォー [François Claveau]、アレクサンドル・トゥルク [Alexandre Truc]、オリヴィエ・サンterre [Olivier Santerre]、ルイス・ミレレス・フローレス [Luis Mireles-Flores]
  • 12 オーストリア学派経済学の哲学 (Philosophy of Austrian Economics)
    アレクサンダー・リンスビヒラー [Alexander Linsbichler]
  • 13 表現 (Representation)
    シャン・ケ・チャオ [Hsiang-Ke Chao]
  • 14 金融と金融経済学:科学哲学の視点 (Finance and Financial Economics: A Philosophy of Science Perspective)
    メリッサ・ヴェルガラ・フェルナンデス [Melissa Vergara-Fernández]、ボウデヴァイン・デ・ブラン [Boudewijn de Bruin]
パート IV 価値 (Part IV: Values)
  • 15 福祉経済学における価値 (Values in Welfare Economics)
    アントワネット・ボージャール [Antoinette Baujard]
  • 16 測定と価値判断 (Measurement and Value Judgments)
    ジュリアン・レイス [Julian Reiss]
  • 17 経済学と倫理の現状についての考察 (Reflections on the State of Economics and Ethics)
    マーク・D・ホワイト [Mark D. White]
  • 18 幸福 (Well-Being)
    マウロ・ロッシ [Mauro Rossi]
  • 19 公平性と公平な分配 (Fairness and Fair Division)
    ステファン・ウィンテイン [Stefan Wintein]、コンラッド・ハイルマン [Conrad Heilmann]
パート V 因果性と説明 (Part V: Causality and Explanation)
  • 20 因果性と確率 (Causality and Probability)
    トビアス・ヘンシェン [Tobias Henschen]
  • 21 経済学における因果的貢献 (Causal Contributions in Economics)
    クリストファー・クラーク [Christopher Clarke]
  • 22 経済学における説明 (Explanation in Economics)
    フィリップ・ヴェロー・ジュリアン [Philippe Verreault-Julien]
  • 23 可能世界のモデル化から実際のモデル化へ (Modeling the Possible to Modeling the Actual)
    ジェニファー・S・ジュン [Jennifer S. Jhun]
パート VI 実験とシミュレーション (Part VI: Experimentation and Simulation)
  • 24 経済学における実験 (Experimentation in Economics)
    ミチル・ナガツ [Michiru Nagatsu]
  • 25 フィールド実験 (Field Experiments)
    ジュディス・ファヴェロー [Judith Favereau]
  • 26 経済学におけるコンピュータシミュレーション (Computer Simulations in Economics)
    アキ・レーティネン [Aki Lehtinen]、ヤーコ・クオリコスキ [Jaakko Kuorikoski]
  • 27 証拠に基づく政策 (Evidence-Based Policy)
    ドナル・コスロウィ [Donal Khosrowi]
パート VII 証拠 (Part VII: Evidence)
  • 28 経済理論と実証科学 (Economic Theory and Empirical Science)
    ロバート・ノースコット [Robert Northcott]
  • 29 計量経済学の哲学 (Philosophy of Econometrics)
    アリス・スパノス [Aris Spanos]
  • 30 経済学における統計的有意性検定 (Statistical Significance Testing in Economics)
    ウィリアム・ペデン [William Peden]、ヤン・スプレンガー [Jan Sprenger]
  • 31 健康の定量化 (Quantifying Health)
    ダニエル・M・ハウスマン [Daniel M. Hausman]
パート VIII 政策 (Part VIII: Policy)
  • 32 自由、政治経済学、リベラリズム (Freedoms, Political Economy, and Liberalism)
    セバスティアーノ・バヴェッタ [Sebastiano Bavetta]
  • 33 自由と市場 (Freedom and Markets)
    コンスタンツェ・ビンダー [Constanze Binder]
  • 34 重度の不確実性下での政策評価:慎重で平等主義的なアプローチ (Policy Evaluation Under Severe Uncertainty: A Cautious, Egalitarian Approach)
    アレックス・フォールホーフェ [Alex Voorhoeve]
  • 35 行動公共政策:一つの名前、多くの種類。メカニズムの視点 (Behavioral Public Policy: One Name, Many Types. A Mechanistic Perspective)
    ティル・グリューネ・ヤノフ [Till Grüne-Yanoff]
  • 36 税競争規制の必要性 (The Case for Regulating Tax Competition)
    ピーター・ディーチ [Peter Dietsch]
  • 索引 (Index)

図一覧 (List of Figures)

  • 3.1 減少する限界効用 (Diminishing marginal utility)
  • 3.2 増加する限界効用 (Increasing marginal utility)
  • 3.3 減少および増加する限界効用 (Decreasing and increasing marginal utility)
  • 7.1 (a) 囚人のジレンマゲーム (The Prisoner’s Dilemma game) および (b) ハイローゲーム (The Hi-Lo game)
  • 7.2 何でもあり? (Anything goes?)
  • 7.3 4段階のセンチピードゲーム (The four-stage Centipede game)
  • 8.1 運転ゲーム (The driving game)
  • 11.1 2つのコーパスにおける記事数 (Number of articles in the two corpora)
  • 11.2 経済学の哲学専門コーパスで検出されたクラスタ:記事タイトルにおけるクラスタごとの上位10の特徴的フレーズ(TF-IDF) (Clusters detected in the corpus of Specialized Philosophy of Economics: Top 10 most distinctive phrases (tf-idf) per cluster in the title of articles)
  • 11.3 経済学の哲学専門コーパスで検出されたクラスタ:時間経過によるクラスタの記事シェア(ローカル多項式回帰で平滑化) (Clusters detected in the corpus of Specialized Philosophy of Economics: Article share of clusters over time (smoothed using local polynomial regression))
  • 11.4 JELコード経済方法論に基づくコーパスで検出されたクラスタ:記事タイトルにおけるクラスタごとの上位10の特徴的フレーズ(TF-IDF) (Clusters detected in the corpus based on the JEL code Economic Methodology: Top 10 most distinctive phrases (tf-idf) per cluster in the title of articles)
  • 20.1 因果ベイズネットの例 (An example of a causal Bayes net)
  • 21.1 直接的原因 (Direct causes)
  • 25.1 実証的方法のスペクトル (Spectrum of empirical methods)
  • 29.1 Moder-based statistical induction)
  • 35.1 行動政策立案におけるメカニズム (Mechanisms in behavioral policy making)
  • 35.2 意思決定の簡略化されたメカニズムスキーム (A simplified mechanism scheme of decision making)

表一覧 (List of Tables)

  • 表 3.1 アレのパラドクス (Allais’ paradox)
  • 表 3.2 アレのパラドクス再記述 (Allais’ paradox re-described)
  • 表 3.3 エルスバーグの賭け (Ellsberg’s bets)
  • 表 6.1 サブパーソナルの領域の解析 (Parsing the domain of the subpersonal)
  • 表 11.1 経済学の哲学専門コーパスにおけるクラスタごとの最も引用された文献 (Most-cited documents per cluster in the corpus of Specialized Philosophy of Economics)
  • 表 11.2 JEL経済方法論コーパスにおけるクラスタごとの最も引用された文献 (Most-cited documents per cluster in the corpus of JEL Economic Methodology)
  • 表 19.1 ダイアモンドの例 (Diamond’s example)
  • 表 19.2 「借金の分配」における異なる分配ルールでの割り当て (Allocations for “Owing Money” in different division rules)
  • 表 19.3 シャプレー値に基づく「借金の分配」の割り当て (Allocation for “Owing Money” under the Shapley value)
  • 表 24.1 経済学実験の3つの類型 (The three-part typology of experiments in economics)
  • 表 24.2 経済学実験の3つの類型 (A threefold typology of economics experiments)
  • 表 29.1 AR(1)モデル:伝統的仕様 (AR(1) model: traditional specification)
  • 表 29.2 正常、自己回帰(AR(1))モデル (Normal, autoregressive (AR(1)) model)
  • 表 29.3 線形回帰モデル:伝統的仕様 (Linear regression model: traditional specification)
  • 表 29.4 正常、線形回帰モデル (Normal, linear regression model)
  • 表 34.1 すべての選択肢に対する最終的な幸福度 (Final well-being for all alternatives)
  • 表 35.1 ナッジとブーストのコンテキスト条件 (Context conditions of Nudges and Boosts)
  • 表 36.1 非対称税競争下でのペイオフ (Payoffs under asymmetric tax competition)

おすすめの章

  • 第4章 行動厚生経済学と消費者主権(Behavioral Welfare Economics and Consumer Sovereignty)
  • 第7章 ゲーム理論と合理的推論(Game Theory and Rational Reasoning)
  • 第8章 制度、合理性、調整(Institutions, Rationality, and Coordination)
  • 第17章 経済学と倫理学の状態に関する考察(Reflections on the State of Economics and Ethics)
  • 第18章 幸福(Well-Being)
  • 第23章 可能性のモデル化から現実のモデル化へ(Modeling the Possible to Modeling the Actual)
  • 第27章 証拠に基づく政策(Evidence-Based Policy)
  • 第28章 経済理論と実証科学(Economic Theory and Empirical Science)
  • 第30章 経済学における統計的有意性検定(Statistical Significance Testing in Economics)
  • 第31章 健康の定量化(Quantifying Health)
  • 第34章 深刻な不確実性下での政策評価:慎重で平等主義的なアプローチ(Policy Evaluation Under Severe Uncertainty: A Cautious, Egalitarian Approach)
  • 第36章 租税競争規制の論拠(The Case for Regulating Tax Competition)

パート1 各章の短い要約

第1章 序論(Introduction)

本章は、経済学と哲学の相互関係の豊かさについて論じている。経済学の基本的問いは哲学的性質を持ち、哲学者たちも経済的と見なせる問いを歴史的に探求してきた。両分野には価値理論、社会規範、理想などの共通関心がある。また、両分野には「実証的/規範的経済学」と「理論的/実践的哲学」という二分法が存在する。本ハンドブックでは、こうした二分法を超えた8つのテーマ—合理性、協力と相互作用、方法論、価値、因果性と説明、実験とシミュレーション、証拠、政策—に基づいて章を編成している。経済哲学は現在、経済方法論、科学哲学、概念的基礎の研究など様々な研究の流れが集まり、活気ある独自の分野として確立されている。

第2章 効用理論の歴史(History of Utility Theory)

効用の概念は1870年代初頭に経済理論で中心的役割を担い始めた。当時のジェヴォンズ、メンガー、ワルラスは商品の交換価値を説明するために限界効用という概念を導入した。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、効用理論は測定可能性の問題と「経済人」モデルへの批判という課題に直面した。これらの問題の多くは、パレートが始めた序数的革命により解決された。1945年以降、リスク下での意思決定を説明するフォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの期待効用理論が台頭し、1950年代以降は実験的アプローチが普及した。1980年代以降は代替的な意思決定理論が発展し、現在の行動経済学の基礎となった。効用の概念は様々な変遷を経ながらも、経済理論の基礎として重要性を保ち続けている。

第3章 リスクの経済学と哲学(The Economics and Philosophy of Risk)

本章では経済学におけるリスク概念について論じている。経済理論では「リスク」とは確率が既知の状況下での意思決定を指す。期待効用理論によれば、合理的な選好は効用の期待値の最大化として表現される。フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの公理に基づく期待効用理論に対しては、アレのパラドックスなどの実証的批判、ラビンの較正結果による記述的正確性への批判、フェノメノロジー的批判がある。不確実性下の意思決定に関するサヴェッジの主観的期待効用理論とエルズバーグのパラドックスについても論じている。本章は期待効用理論の限界を示しつつも、その規範的・実用的価値を擁護する。

第4章 行動厚生経済学と消費者主権(Behavioral Welfare Economics and Consumer Sovereignty)

厚生経済学の中心原則である消費者主権は、行動経済学の発展によって挑戦を受けている。行動厚生経済学(BWE)は、実験で人々が整合的でない選好を示すことから、非合理的な人々を「内なる合理的行為者」というモデルに基づいて保護すべきだと主張する。本章ではこの立場に異議を唱え、(1)BWEが前提とする心理学的・哲学的に問題のある行為者観、(2)非整合的選好が規範的問題であるという主張の弱さ、(3)新古典派基準による整合性の正当化の不十分さを指摘する。非整合的選好よりも、選好形成のプロセスに焦点を当てるべきであり、社会環境や市場の供給側の影響を考慮した政策が必要である。

第5章 選好の経済的概念(The Economic Concept of a Preference)

経済学における選好概念は規範的にも記述的にも中心的位置を占めているが、その解釈については深い意見の相違がある。本章は選好概念に関する二つの主要な解釈—精神主義(mentalism)と行動主義(behaviorism)—を比較検討する。精神主義的解釈は選好を比較的欲求や総合的比較評価などの心的状態と見なし、行動主義的解釈は選好を行動パターンの要約と見なす。因果関係と説明という二つの大きな問題に焦点を当て、それぞれの解釈の長所と短所を分析する。最後に、行動主義と精神主義の分断を超えようとする二つの最近の貢献—グアラの統一的選好概念とアングナーの理論的用語としての選好概念—を検討している。

第6章 経済的行為者性と経済学における下位人格的転回(Economic Agency and the Subpersonal Turn in Economics)

経済学の歴史において、個人を複数の下位人格的行為者(各々が独自の利益や目標を持つ)の集合体として捉える考え方が繰り返し登場している。この章では、経済学における下位人格的転回に伴う経済的行為者の概念変化を探求する。下位人格的領域は、神経生理学的プロセス、基本的欲求や無意識的動機、限定的な時間枠という三つの側面で理解できる。経済学における下位人格的分析には、仮想的行為者を想定するアプローチ(ピコ経済学や行動経済学の多重行為者モデル)と神経行為者を想定するアプローチ(スキャナー内行動経済学や神経活動の経済学)がある。これらのアプローチを概観し、特に行動経済学と神経経済学の多くのモデルに見られる存在論的曖昧さの問題を指摘している。

『行動厚生経済学と消費者主権』についてのAI考察

by Claude 3

消費者主権原則への挑戦

まず、この論文のテーマである「行動厚生経済学と消費者主権」について整理していきたい。この論文は、従来の厚生経済学における消費者主権の原則が、行動経済学の発展によって挑戦を受けていることを論じている。

消費者主権とは何か。これは厚生経済学において、個人が自分の選好に基づいて選択する自由を尊重するという原則だ。つまり、個人が何を望むかについて外部から判断を下さず、個人自身の選好を厚生分析の基礎とする考え方である。この原則は個人の自律性を尊重する自由主義的な考え方に基づいている。

しかし、行動経済学の実験結果は、人間の選好が必ずしも一貫していないことを示してきた。行動厚生経済学(BWE)は、こうした実験結果に基づいて、非整合的な選好を持つ個人は「内なる合理的行為者」が「欠陥のある心理的外殻」に閉じ込められた状態にあるとみなしている。そして、そうした「欠陥」から個人を保護するための介入(リバタリアン・パターナリズム、ナッジなど)を正当化している。

この論文は、こうした行動厚生経済学の立場に批判的な視点を提供している。著者の主な批判点は以下のようにまとめられる:

  • 「内なる合理的行為者」という概念には心理学的・哲学的な問題がある
  • 非整合的な選好が規範的な問題であるという主張の弱さ
  • 新古典派的基準による整合性の正当化の不十分さ

これらの批判点を順に考えていきたい。

「内なる合理的行為者」モデルの問題点

行動厚生経済学の前提には、「内なる合理的行為者」というモデルがある。このモデルでは、人間の中には本来的に合理的な行為者が存在するが、さまざまな認知バイアスやエラーによって、その合理性が歪められているという考え方だ。

著者はこのモデルに対して、潜在的な合理的選好の存在を支持する心理学的説明がないと指摘している。つまり、人間の中に「本当の選好」があるという考え方自体が実証的根拠に乏しいということだ。

さらに言えば、文脈依存的な選好を持つ個人の「総合的な選好」が新古典派的なものであるという理論的基盤もない。例えば、時間選好の問題を考えてみよう。行動厚生経済学では、時間的非整合性は「正しい」割引方法(指数関数的割引)からの逸脱とみなされる。しかし、著者が指摘するように、未来の効用を割り引くことが非合理的でないと認めるなら、いくつかの合理的な理由から双曲線的割引の方が適切である可能性がある。

この点は非常に興味深い。なぜ指数関数的割引が「正しい」方法だと考えられているのだろうか?おそらく、それは時間的整合性を保証するからだろう。しかし、時間的整合性それ自体が規範的に望ましいという議論は、著者が指摘するように、それほど自明ではない。

非整合的選好の規範的問題

行動厚生経済学が前提としているのは、非整合的な選好は規範的な問題であるという考え方だ。つまり、選好の非整合性は、個人の福祉を損なう「間違い」や「エラー」だという考えである。

著者はこの考え方に対して、いくつかの反論を提示している:

第一に、選好の時間的変化の可能性を考慮すると、後の自己の後悔が必ずしも以前の自己の「間違い」を示すわけではない。つまり、選好が変化する可能性を考慮すると、後からの後悔に基づいて介入を正当化するのは難しい。

第二に、非整合的な選好が「マネー・ポンプ」(お金を吸い上げられる状況)に個人をさらすという主張について、実証的証拠が不足している。実験室での非整合性が、実生活での損失につながるという証拠はほとんどない。

第三に、実験室での「非合理性」は、通常の生活環境での「非合理性」を示す証拠としては弱い。実験室という統制された環境と、日常生活の根本的に不確実な環境では、合理性の基準自体が異なる可能性がある。

第四に、そもそも整合性がなぜそれほど重要なのかという点も疑問視される。理論家(経済学者や哲学者)は整合性を非常に重視する傾向があるが、それは彼らの訓練や背景に由来する偏見かもしれない。

これらの反論は説得力がある。特に実験室と実生活の違いについての指摘は重要だ。行動経済学の実験は通常、「小さな世界」(確率が既知で、結果が明確に定義されている状況)で行われる。しかし、実生活は「大きな世界」(根本的な不確実性がある状況)であり、そこでの合理性は異なる形を取る可能性がある。

新古典派的整合性の問題

行動厚生経済学は、人々は新古典派的基準に従って整合的であるべきだと前提している。具体的には:

  • 社会的選好については利己的であるべき
  • 時間選好については指数関数的割引と整合的であるべき
  • リスク選好については主観的期待効用理論と整合的であるべき

しかし、著者はこれらの基準自体に疑問を投げかけている。

社会的選好については、状況によって利他的だったり利己的だったりすることが、ある種の整合性の基準では「矛盾」と見なされない可能性がある。

時間選好については、もし時間的非整合性が「間違い」であるという議論を受け入れるなら、人々は時間的中立(すべての時間期間を等しく重み付ける)であるべきだということになる。しかし、未来を割り引く理由がいくつかあるなら、それらの理由は多くの場合、指数関数的ではなく双曲線的割引を正当化する。

リスク選好については、期待効用理論は確率の線形評価を前提としているが、結果の非線形評価を許容している。しかし、なぜ確率は線形に、結果は非線形に扱われるべきなのかという正当化は弱い。実際、両方を非線形に扱うことを認めるモデル(ランク依存効用など)も存在する。

これらの指摘は、新古典派経済学の規範的基準自体が、必ずしも自明ではないことを示している。私たちが「合理的」だと考えるものは、理論的な恣意性や歴史的偶然性によって形作られている可能性がある。

選好形成プロセスの重要性

著者は論文の結論部分で、非整合的な選好そのものよりも、選好が形成されるプロセスに焦点を当てるべきだと提案している。これは非常に重要な指摘だと思う。

行動厚生経済学は、個人の「欠陥のある心理」を非難し、事後的に「間違い」を修正しようとする。しかし、選好は真空の中で形成されるわけではない。それは社会環境や市場の供給側による強い影響を受ける。

例えば、著者はガルブレイスの消費者主権原則への初期の批判を引用している。ガルブレイスによれば、選好は個人の「内なる合理的個人」ではなく、「文化的枠組みと社会的相互作用」の中で形成される。つまり、選好は社会システムの産物であり、それを厚生分析の基本的構成要素として使用することは問題がある。

この視点からすると、問題は個人の「間違い」ではなく、選好形成に影響を与える社会的・経済的構造にある。例えば、依存性について考えると、依存行動をやめることは個人のヒューリスティクスを改善する問題だが、依存そのものは社会的に設計された依存性の高い環境の結果かもしれない。

この考え方は、行動経済学の「ナッジ」よりも野心的な社会政策を正当化する可能性がある。ナッジは行動の「異常」を事後的に修正しようとするが、より根本的なアプローチは、そうした「異常」の原因に取り組むことだろう。

消費者主権と自由主義の再考

この論文は、消費者主権と自由主義的パターナリズムの関係について深く考えるきっかけを与えてくれる。

消費者主権の原則は、個人の選択の自由を尊重することに基づいている。これはミルの「危害原則」と関連しており、他者に危害を与えない限り、個人の行為に干渉すべきではないという考え方だ。

しかし、行動経済学は、私たちが自分自身の最善の利益のために行動しないことがあると示している。こうした知見に基づいて、「リバタリアン・パターナリズム」という考え方が提案された。これは、選択の自由を保持しながらも、より良い選択をしやすくするよう選択アーキテクチャを設計するというものだ。

しかし、著者が指摘するように、この立場には問題がある。特に、「より良い選択」を定義するのは誰かという問題だ。行動厚生経済学は、「本当の選好」が新古典派的なものであると前提しているが、この前提自体が疑わしい。

ここで思い出したいのは、ミルの「危害原則」の但し書きだ。ミルは、「その能力が未熟な人々」は「外部からの危害と同様、自分自身の行為からも保護されなければならない」と述べている。行動厚生経済学は、実験的証拠に基づいて、私たちのほとんどが「未熟」だと主張しているようなものだ。

しかし、著者が論じるように、これは不適切な拡張かもしれない。実験室での「非合理性」は、実生活での「未熟さ」を示すものではない可能性がある。さらに、人々が新古典派的基準に従って整合的であるべきという規範的主張も弱い。

選好の社会的形成と実践的含意

著者の議論の重要な含意は、選好が社会的に形成されるという点だ。この視点は、行動厚生経済学とは異なる政策的アプローチを示唆する。

行動厚生経済学のアプローチでは、個人の「間違った」選択を修正するためにナッジを使用する。この考え方は、選好が個人の内部で形成されるという前提に基づいている。

しかし、選好が社会的に形成されるという視点からは、より構造的なアプローチが必要となる。例えば:

  • 市場における情報の非対称性を減らすための規制
  • 消費者の選好を操作する企業の行為に対する制限
  • 依存性の高い製品やサービスを提供する産業に対する規制
  • 選好形成に影響を与える社会規範や文化的慣行への取り組み

こうしたアプローチは、個人の選択を尊重しながらも、その選択が形成される文脈を改善しようとするものだ。

日本の文脈で考えると、例えば、パチンコや酒、たばこなどの依存性のある製品・サービスに関する政策が挙げられる。これらは単に「個人の選好」の問題として片付けるのではなく、それらの選好がどのように形成され、社会的にどのような影響があるかを考慮した政策が必要だろう。

今後の研究課題

この論文から導かれる今後の研究課題としては、以下のようなものが考えられる:

  • 選好形成のプロセスに関する実証研究
  • 選好の社会的形成を考慮した厚生分析の新しい枠組み
  • 実験室と実生活の間の「合理性」概念の違いに関する研究
  • 異なる整合性基準の規範的妥当性の比較検討

特に選好形成のプロセスに関する研究は重要だろう。人々がどのようにして自分の選好を形成するのか、そしてそれがどのように社会的・経済的文脈によって影響を受けるのかを理解することは、より適切な政策設計につながる可能性がある。

結論

この論文は、行動厚生経済学における消費者主権への挑戦に対して、洞察に富んだ批判を提供している。著者の主な主張は以下のようにまとめられる:

  • 行動厚生経済学の「内なる合理的行為者」モデルには心理学的・哲学的問題がある
  • 非整合的選好が規範的問題であるという主張は弱い
  • 新古典派的基準による整合性の正当化は不十分である
  • 選好形成のプロセス、特に社会環境や市場の供給側の影響に焦点を当てるべきである

これらの批判は、行動経済学の知見を政策に適用する際の慎重さを求めるものであり、同時に個人の選好と社会構造の関係についてより深い理解の必要性を示している。

最終的に、この論文は消費者主権とパターナリズムの間の単純な二項対立を超えた、より複雑な視点を提供している。問題は「人々を自分自身から保護すべきか」ではなく、「選好がどのように形成され、それをどう評価すべきか」という点にある。これは経済学と哲学の境界にまたがる重要な問いであり、今後もさらなる探求が必要な領域だ。

パート2の要約

本書「協力と交流(Cooperation and Interaction)」の第二部に収録された「ゲーム理論と合理的推論」は、ゲーム理論における合理的意思決定の基礎と課題を探求している。合理的意思決定は、標準的なゲーム理論では最適応答推論として理解されるが、これには多くの問題がある。最適応答推論では、ナッシュ均衡にたどり着けない場合や、社会的に最適でない結果になる場合が生じる。これに対して、パレート最適化、チーム推論、仮想交渉などの代替アプローチが提案されている。また、「合理性の共通信念」の前提を緩和する方法として、レベルkモデルや認識ゲーム理論も論じられている。第10章の「搾取と消費」では、搾取の概念と消費者の責任について検討され、搾取が単なる不公正な取引以上のものであることや、消費者が労働者の搾取に間接的に関与している可能性が議論されている。

各章の要約

第7章 ゲーム理論と合理的推論(Game Theory and Rational Reasoning)

ゲーム理論は相互作用する意思決定状況を研究する学問である。標準的なゲーム理論では、合理的な意思決定者は最適応答推論に基づき行動する。この理論では囚人のジレンマのような状況では社会的に最適でない結果になり、またHi-Loゲームのような状況では明確な解答を与えられない。これに対してパレート最適化、チーム推論、仮想交渉などの代替アプローチが提案されている。さらに「合理性の共通信念」を放棄するレベルk推論や認識ゲーム理論も発展してきた。理論の検証には、選択だけでなく信念の測定も含めた行動ゲーム理論の手法が必要である。(213字)

第8章 制度、合理性、調整(Institutions, Rationality, and Coordination)

制度は人間の繁栄に大きな影響を与えるが、その概念的理解はまだ不十分である。制度は単なる規則ではなく、均衡状態にある規則として理解すべきである。標準的なゲーム理論は、調整問題における信念形成の循環性という難題に直面する。レベルk理論では限定合理性を導入してこの問題を解決しようとするが、実証的・理論的問題がある。代替策として「信念なし推論」が提案されており、チーム推論や解決思考がこれに含まれる。これらのアプローチは、標準的な戦略的合理性とは異なる合理性概念を示唆している。(195字)

第9章 あたかも社会的選好モデル(As If Social Preference Models)

行動経済学には二つの相反する研究領域がある。一方は認知バイアスによる合理性からの逸脱を強調し、他方は社会的選好モデル(SPM)を通じて完全に合理的な効用最大化を想定する。SPMは不公平回避モデルと社会的イメージモデルに代表され、標準的な自己利益モデルでは説明できない向社会的行動を説明する。SPM支持者は「良いモデル」と「心理的リアリズム」の両立を目指すが、実際には完全合理性の仮定に固執し、「あたかも」モデルに近い。彼らは標準モデルを規範的基準として利用し、社会厚生の向上という理由で向社会的行動を推進する。(215字)

第10章 搾取と消費(Exploitation and Consumption)

搾取の定義については分配的アプローチと関係的アプローチがある。分配的アプローチは実質的公正性と手続き的公正性に区分され、両者にはモラルハザードと契約曲線の問題がある。関係的アプローチには支配に基づく理論と認識に基づく理論があり、不公正以上の要素を捉えようとする。消費者の責任については、直接的な搾取者ではなくとも加担者となりうる。市場競争の制約があるため個人の不買運動は効果が限定的だが、労働者への直接補償という「補償的選択肢」が最善の解決策となりうる。搾取解消には消費者の認識と行動変容が重要である。(212字)

「ゲーム理論と合理的推論」と「搾取と消費」についてのAI考察

by Claude 3

協力・調整問題と合理性の本質

まず、ゲーム理論の基本的な枠組みから考えてみよう。標準的なゲーム理論では、人間は自分の利益を最大化するために最適応答推論を行うとされている。しかし日常的な観察からも、人々はしばしばこの前提から外れた行動をとることが明らかだ。

囚人のジレンマを例にとると、合理的な行動は「裏切り」のはずだが、実験では約半数の人が協力を選択する。これはなぜだろうか?単に非合理的な行動なのか、それとも別の種類の合理性が働いているのか?

第7章 で紹介されているパレート最適化の考え方は興味深い。ゴーティエは、囚人のジレンマにおける唯一の合理的選択が「裏切り」であるなら、「協力」が合理的になるためにはゲームが何らかの形で変更される必要があると主張する。例えば、裏切りに罰則を設けることで。

しかし、もともと無料で入手できるものに対して費用を支払うのは矛盾ではないか?この指摘は鋭い。つまり、もし「協力」が実際に合理的な選択であり得るなら、標準的なゲーム理論の前提に問題があるということだ。

ビンモアの反論も検討すべきだ。彼の主張では、囚人のジレンマのペイオフ構造が正確に選好を表しているなら、協力は理にかなわない。この視点では、協力を選択する人々は、単にペイオフ構造が彼らの真の選好を反映していないだけということになる。

しかし、これも疑問が残る。選好を行動から推測するなら、説明は循環論法になってしまう。「彼女は協力を選んだから、協力することを選好したのだ」という具合に。

チーム推論と共同行為の理論的基盤

Hi-Loゲームは更に興味深い問題を提起する。標準的なゲーム理論では、どちらも均衡である「高」と「低」のどちらを選ぶべきか明確に示せない。しかし直感的には「高」を選ぶことが明らかに合理的に思える。

チーム推論の考え方は、この困難に対する興味深い解決策を提供している。個人が「私は何をすべきか」ではなく「私たちは何をすべきか」という問いから始めるという考え方だ。この視点から見れば、「高」を選ぶことは明らかに合理的だ。

これは単なる理論上の問題ではなく、日常的な協力に関わる根本的な問題だ。例えば、災害時の協力行動や、環境問題への対応などを考えると、私たちは「個人の合理性」の枠組みだけでは説明できない協力行動をとることがある。

しかし、チーム推論はいつ適用されるのか?バチャラックの説によれば、どのような推論モードを用いるかは心理的構成によるもので、意識的制御の範囲外かもしれない。サグデンは、相互利益が得られる場合に、他者も同様に考えているという十分な保証があれば、意識的にチーム推論を選択できると考える。

また、カープスとラズヴィラスは、最適応答推論が決断問題を解決できない場合に、人々はチーム推論に切り替えるかもしれないと示唆している。この考え方は直感的に納得できる。通常の思考法が行き詰まったとき、別のアプローチを試みるのは自然なことだ。

認知階層と戦略的思考の限界

レベルk推論の理論も、標準的なゲーム理論の限界に対する興味深い対応だ。完全な合理性と「合理性の共通信念」という前提を緩和し、人々が異なる認知レベルで推論するという考え方を導入している。

推測ゲームの実験では、ナッシュ均衡の予測(全員が0を選ぶ)に反して、実際の選択は25や35付近に集中した。これは、人々が完全に合理的ではなく、他者の行動に関する複雑な予測を行うことができないことを示している。

レベルk理論では、レベル0のプレイヤーはランダムに選択し、レベル1のプレイヤーは他者がレベル0であると信じ、レベル2のプレイヤーは他者がレベル0または1であると信じる、といった形で推論する。これにより、実験で観察された行動パターンをうまく説明できる。

しかし、この理論にも問題がある。様々な実験において、同じ人物が異なるレベルの推論を行うという証拠がある。これは、人々が特定のレベルに固定されているのではなく、状況に応じて異なる思考モードを採用することを示唆している。

メータらの実験は特に興味深い。それによると、非戦略的文脈では最も目立つ選択肢(例:誕生年)が、調整が目的の場合には焦点(例:今年)にならないことがある。これは、レベルk理論の前提と矛盾する。

信念なし推論と調整問題の解決

調整問題に対する「信念なし推論」という代替アプローチが提示されている点も注目に値する。これは、他者の信念について推論するという循環から抜け出す方法を提供する。

チーム推論では、各プレイヤーは「私たち」という集合的視点から推論し、全体にとって最善の結果を特定してから、自分の役割を果たす。解決思考では、個人主義的な枠組みを維持しながらも、調整問題に対する明らかな解決策を見つけ出し、それに基づいて行動する。

どちらのアプローチも、他者の信念について推論する必要がないという点で共通している。これにより、標準的なゲーム理論が直面する循環の問題を回避できる。

これは理論的な問題にとどまらない。実生活の多くの状況では、他者の意図や信念について詳細に推論することなく、協力的な行動パターンに参加している。例えば、交通ルールや列に並ぶといった日常的な調整問題では、通常、他者の心の中を複雑に推論することなく、明らかな解決策に従っている。

社会的選好と合理性の二元論

第9章 で取り上げられている社会的選好モデル(SPM)は、行動経済学内の興味深い矛盾を示している。一方で、行動経済学は人々の合理性からの系統的な逸脱を強調しながら、他方で社会的選好モデルでは完全な合理性を前提としている。

これはなぜだろうか?SPM支持者が「良いモデル」という理想を優先しているからだろう。彼らは、単純さ、一般性、実証的整合性という理論的美徳を持つモデルを構築したいと考えている。そして、標準的な自己利益モデルからの最小限の逸脱で観察された行動を説明しようとしている。

この姿勢は、理論の単純さを「心理的リアリズム」より重視している。しかし、実際の意思決定プロセスにおいて、同じ限られた動機と完全に合理的な意思決定が様々なゲームや文脈における行動の主な駆動力であるという印象は、幻想である可能性が高い。

近年の証拠は、人々が異なるゲームや文脈で異なる動機を持ち、偏った信念に基づいて決定を下す可能性を示唆している。特に「コンセンサス効果」は興味深い。これは、人々が他者の認識や考えが自分と似ていると信じる傾向で、独裁者ゲームにおける選択に大きな影響を与えることが示されている。

SPM支持者が完全合理性の仮定を維持する理由は、「良いモデル」という理想を追求するためであり、彼らの社会的選好モデルは「あたかも」モデルに近いものである可能性が高い。これは彼らが公式に否定しているものだ。

搾取の本質と概念的課題

第10章 で扱われている搾取の概念も深く考察する価値がある。搾取の定義について、分配的アプローチと関係的アプローチがあるが、どちらも完全に満足のいくものではない。

分配的アプローチでは、搾取は単に不公正な取引と同一視される。しかし、最も説得力のある取引の公正性理論は、不公正な取引が普及していることを示唆している。このことは、日常的な搾取の概念と矛盾する。

一方、関係的アプローチは、搾取が単なる不公正以上のものであるという直感を捉えようとしている。例えば、ヴロウサリスの支配に基づくアプローチでは、Aが経済的に脆弱なBを道具化して利益を得る場合に搾取が発生する。

しかし、不公正が搾取の必要条件ではないという主張は説得力に欠ける。実際、不公正の条件を除外すると、支配に基づくアプローチは多くの完全に合理的な取引を搾取として誤って特定してしまう。

認識に基づくハイブリッドアプローチは、搾取を「Aが不公正にBから利益を得て、Aがその利益がBを害すると信じているか、または過失によってそう信じていない場合」と定義する。このアプローチは、分配的要素と関係的要素を組み合わせているが、奴隷制の一部のケースが搾取ではないという反直観的な含意を持つ可能性がある。

このように、搾取の概念は複雑で、単純な定義に収まりきらない。搾取を理解するには、不公正、支配、意図などの複数の要素を考慮する必要があるのかもしれない。

消費者の責任と市場の限界

消費者は工場労働者の搾取に責任があるのだろうか?直接的な取引関係がないため、厳密な意味では消費者は労働者を搾取していないかもしれない。しかし、彼らは搾取の連鎖に加担している可能性がある。

市場競争の制約により、個々の消費者が企業の行動に影響を与えることは難しい。ボイコットが成功する可能性は低く、失敗した場合のリスクも大きい。また、完全競争市場では、賃金の引き上げは労働供給の増加と労働需要の減少をもたらし、結果として雇用が減少する可能性がある。

しかし、消費者には「補償的選択肢」という代替案がある。これは、労働者が実際に受け取る価格と公正な価格との差額を、直接労働者に移転するという選択肢だ。これは、不取引と同程度に公正だが、より大きな福祉をもたらす。

このアプローチは実装上の課題に直面しているが、もしこれらの実践的問題が克服できれば、消費者が搾取に加担することを避け、製品を製造する人々の生活を改善するための最良の方法かもしれない。この選択肢の存在は、市場に基づく反論に反して、消費者が搾取に対して責任を持つ可能性があることを示している。

制度と合理性の再考

最後に、制度と合理性の関係について考えてみたい。第8章で論じられているように、制度は単なる規則ではなく、均衡状態にある規則として理解すべきである。

イギリスで左側通行が機能するのは、すべての運転者が左側を走ると期待し、その期待に基づいて行動するからだ。しかし、この期待はどこから来るのだろうか?

標準的なゲーム理論の枠組みでは、この期待形成の循環性が問題となる。私が左側を走るのは、他の運転者が左側を走ると期待するからだ。しかし、他の運転者はなぜそう期待するのか?私がまだ決断していないのに?

この循環から抜け出す一つの方法は、「顕著さ」の概念を導入することだ。しかし、この概念を形式的に理論に組み込むのは難しい。レベルk理論は、完全合理性の仮定を緩和し、認知の限界を導入することでこの問題を解決しようとしている。

しかし、第8章で論じられているように、これには実証的・理論的問題がある。代わりに、「信念なし推論」が示唆されている。これは、他者の信念について推論する代わりに、調整問題の明らかな解決策を見つけ出し、それに基づいて行動するというアプローチだ。

このアプローチは、標準的な戦略的合理性とは異なる合理性概念を示唆している。もし標準的な戦略的合理性には根本的な論理的欠陥(循環論法と無限後退)があるなら、より効果的な推論モードを使用することが、より合理的なのではないだろうか?

これらの考察は、私たちの合理性概念に対する深い再考を促している。合理性は単に個人的な利益の最大化だけではなく、社会的な調整や協力の問題を解決する能力も含むべきではないだろうか?

現実社会への応用と倫理的含意

これらの理論的考察は、現実社会における多くの問題に応用できる。例えば、気候変動や感染症対策などのグローバルな協力問題では、個人の狭い利己性に基づく合理性の概念では不十分かもしれない。

気候変動対策を例にとると、各国が短期的な自己利益に基づいて行動すれば、「囚人のジレンマ」と同様に、社会的に最適でない結果になる可能性が高い。しかし、チーム推論や解決思考のアプローチを採用すれば、より協力的な解決策が見えてくるかもしれない。

また、搾取の概念に関する考察は、グローバルなサプライチェーンにおける倫理的問題に光を当てる。例えば、ファストファッション産業における労働条件の問題は、単に個々の企業の問題ではなく、消費者を含むシステム全体の問題かもしれない。

労働者への直接補償という「補償的選択肢」は興味深い提案だが、実装上の課題は大きい。しかし、この方向性は、従来の「不買運動」や「無関心」以外の選択肢があることを示している。

最終的に、これらの理論的議論は、私たちの社会制度と個人の意思決定の関係についての深い問いを投げかけている。制度は合理的行動を促進するためのものなのか、それとも合理性の限界を補完するためのものなのか?そして、その答えは、私たちの合理性の概念自体を再考することで変わるかもしれない。

Box.「レベルk理論」について

レベルk理論は、ゲーム理論における戦略的思考のレベルを階層化したモデルである。この理論では、プレイヤーの認知能力に差があり、メタ表象(他者の信念について信念を形成する能力)の深さが異なると想定する。

基本的な階層構造は以下の通り:

  • レベル0プレイヤー:戦略的に考えず、ランダムに選択したり、最も目立つ選択肢を直感的に選んだりする
  • レベル1プレイヤー:他のプレイヤーがレベル0だと想定し、それに対する最適応答を選択する
  • レベル2プレイヤー:他のプレイヤーがレベル1だと想定し、それに対する最適応答を選択する
  • 以下同様に続く

実験結果では、多くの人がレベル1(約50%)かレベル2(30-40%)の推論を行い、レベル3以上は少数(10%未満)である。この理論の重要な特徴は、完全合理性の仮定を緩和し、限定合理性という現実的な前提を導入している点である。

レベルk理論は、標準的なゲーム理論の予測と実際の行動の乖離を説明できるが、同じ人が状況によって異なるレベルの推論を行うという証拠もあり、単純な階層モデルでは捉えきれない複雑さも存在する。

日本の文脈での応用と考察

日本の文脈でレベルk理論を考えると、いくつかの興味深い応用が考えられる。日本社会は集団主義的な価値観が強いとされることが多く、チーム推論や集団的意思決定が自然に行われる場面が多いかもしれない。

例えば、企業の意思決定プロセスにおける「稟議制度」や「根回し」は、個人の戦略的思考というよりも、集団としての合意形成や調整を重視する傾向を反映している可能性がある。

また、災害時の協力行動も興味深い例だ。東日本大震災などの大規模災害時に見られた秩序ある行動や相互扶助は、個人的な利益最大化を超えた、集団としての最適な行動パターンの採用を示している。

これらの現象は、レベルk理論のような個人の戦略的思考の階層モデルよりも、チーム推論や「信念なし推論」のアプローチでより適切に説明できるかもしれない。日本社会における多くの調整問題は、他者の心を複雑に読むことよりも、文化的に共有された顕著な解決策に従うことで解決されている可能性がある。

パート3の要約

この書籍「Philosophy of Economics」は経済学の哲学的側面に焦点を当てた研究書である。本書は経済学の主要な理論や方法論について哲学的視点から分析し、経済学における表象、モデル構築、測定、因果関係などの概念を掘り下げている。

オーストリア学派の経済学、金融経済学、経済哲学の分野における方法論的個人主義や主観主義といった基本概念を検討し、経済学における表象の問題を多角的に考察している。特に、モデルがどのように現実を表象するか、その限界と可能性について詳細に論じている。

経済学の哲学は科学哲学の一分野として、経済理論の本質的な問いに取り組む。本書は経済学モデルの説明力、価値判断の役割、経済学的測定の本質などを考察し、経済学が科学としてどのように機能するかを明らかにしている。

経済理論の妥当性評価や実証の方法、モデルの現実との関係性についての哲学的問いは、現代経済学の根幹に関わる重要な課題として提示されている。

各章の要約

第11章 経済学の哲学?三十年間の計量書誌学的歴史(Philosophy of Economics? Three Decades of Bibliometric History)

経済学の哲学の二つの異なる概念を計量書誌学的方法で分析。専門的経済哲学(JEM・E&Pジャーナル)とJEL経済方法論(JEL分類)という二つの異なる文献群を比較し、その進化を追跡。前者は道徳哲学、行動経済学、大きなM(抽象的方法論)、小さなm(具体的方法論)、決定理論に分類され、後者は制度経済学、批判的実在論、政治経済学、歴史経済学に特徴づけられる。両者の相違点と類似点を示し、経済学の哲学的基盤の多様性を明らかにした。(239字)

第12章 オーストリア経済学の哲学(Philosophy of Austrian Economics)

オーストリア学派の経済学は、カール・メンガーの『経済学原理』(1871)に端を発する学派で、方法論的個人主義、主観主義、市場価格のシグナル機能、社会現象のプロセス的性格などを特徴とする。学派の認識論は行為理論と解釈学的理解、主観的価値論、方法論的個人主義、存在論的個人主義、アプリオリズム、本質主義、形式的方法、経済学的意味論などの哲学的概念によって形作られてきた。オーストリア経済学は実証主義とは異なる認識論に基づき、経済現象の解釈と理解を重視する。(188字)

第13章 表象(Representation)

経済学における表象の問題を異なる形式(モデル、測定、図表)の観点から考察。表象とは、媒体(効用関数やフィリップス曲線など)が対象(選好やインフレ-失業関係など)を表現する関係性であり、「XはYを表象する」という枠組みで捉えられる。科学哲学の観点から見ると、経済学の表象には形式依存性があり、各形式は特有の推論力を持つ。モデルは理論と世界を表象し、測定は表象理論に基づいて対象の構造を数値化し、図表は空間関係を視覚化して推論を可能にする。これらの表象形式は経済学的推論における重要な役割を果たしている。(232字)

第14章 金融と金融経済学:科学哲学的視点(Finance and Financial Economics: A Philosophy of Science Perspective)

金融経済学を科学哲学的視点から考察。効率的市場仮説と資本資産価格モデルの共同仮説問題、イベント研究、パフォーマティビティ(理論が現実を形成する現象)、評価のベンチマーク、イデオロギーと科学の関係などの重要課題を検討。モディリアーニ・ミラーモデルの事例研究では、非現実的仮定を持つモデルの説明力を分析し、モデル構築には認識論的動機と非認識論的動機(理論的整合性の確立や方法論的論争の解決など)が混在することを指摘。金融経済学の実践は、科学哲学の伝統的問題と現代的課題を探求する豊かな領域を提供している。(228字)

「オーストリア経済学の哲学」についてのAI考察

by Claude 3

方法論的個人主義の二面性

オーストリア経済学の哲学について考察するとき、まず興味深いのは「方法論的個人主義」という概念だ。シュンペーターによって命名されたこの方法論は、社会現象を意図的な個人行動の非意図的結果として説明することを求めている。

この方法論が持つ力を考えてみよう。私たちは日常的に、「日本社会は〜だ」とか「市場が反応した」といった表現を何気なく使う。しかし実際には、「社会」や「市場」といった集合体が何かを行うわけではなく、あくまで個人の集合的行動の結果として現象が生じている。この視点は強力だ。

たとえば、「なぜ貨幣が発生したのか?」という問いを考えてみる。政府が意図的に創り出したと考えるのは簡単だが、メンガーの説明によれば、それは交換を望む個人の意図的行動の非意図的結果として自然発生した可能性がある。これはハイエクの言葉を借りれば「人間の行為の結果だが、人間の設計の結果ではない」現象だ。

しかし、ここで疑問も生じる。方法論的個人主義が説明する「個人」とは何か?それは完全に自律的な存在なのか?現実には、個人の選好や行動は社会的影響から完全に独立しているわけではない。むしろ相互に影響し合っているのではないか?

方法論的個人主義とその存在論的含意を区別することが重要だ。方法論としての個人主義は、説明の手法として個人から始めることを求めているが、それは必ずしも個人が社会から完全に独立しているという存在論的主張を含意するわけではない。カウフマン(1929)の指摘どおり、論理的・存在論的、経験的、方法論的、価値論的・政治的個人主義は区別すべきものである。

アプリオリズムと認識論的謙虚さ

次に注目したいのはオーストリア学派の「アプリオリズム」だ。特にミーゼスやロスバードは、経済理論の少なくとも一部は経験による検証を必要としないと主張する。この立場は現代の科学哲学の観点からは極端に見えるかもしれない。

しかし、彼らのアプリオリズムはどの程度極端なのだろうか?シェール(2017)が指摘するように、アプリオリ的知識の「範囲」「正当化の種類」「確実性」の三次元で評価する必要がある。

ミーゼスやロスバードにとってさえ、アプリオリな真理は「人間は行為する」という基本公理から演繹されるものに限られている。つまり、人間の個人が目的を選択し、それを達成するために適切と考える手段を用いるという事実だけがアプリオリだとされる。補助公理や、行為する個人の価値判断、選好、意味付け、主観的信念を記述する文は経験的であり、アプリオリではない。

これは「プラクシオロジー(行為学)は空虚であり、ティモロジー(意欲学)はそれなしでは盲目である」というロングの言葉に集約される。オーストリア学派の認識論的立場は、カントの「概念なき直観は盲目であり、直観なき概念は空虚である」という有名な言葉と共鳴している。

この認識論的謙虚さは、社会制度の操作可能性に対する謙虚さとも結びついている。オーストリア経済学者は「制約された視点」(ソーウェル)の模範例であり、「文明の学生」(デッカー)として社会を理解しようとする。

主観主義と価値理論

オーストリア学派のもう一つの特徴は「主観主義」だ。これは単に「価値は主観的だ」という主張ではなく、より徹底した形で経済学に適用されている。

主観主義は経済学において革命的だった。古典派経済学では「労働価値説」のように、価値は生産に投入された労働量など客観的要素によって決まると考えられていた。しかしオーストリア学派は、価値は完全に主観的であり、個人の評価に依存すると主張した。

ここで興味深いのは、主観主義がオーストリア学派内でも時間とともに深化していったことだ。メンガーは主観的価値理論の創始者だが、彼の価値理論にはまだいくつかの客観的要素が残っていた。例えば、彼は「ニーズ」という概念を使用し、何かが「財」であるためには客観的にニーズを満たす因果的能力が必要だと考えていた。

ミーゼスはさらに主観主義を徹底し、ハイエクはそれをさらに発展させた。ラハマンに至っては、主観主義の頂点を代表する存在となり、ラディカルな不確実性の下では、過去からの学習さえも完全に主観的な解釈を含むと主張した。

この主観主義の徹底は、厚生経済学に対する強い制約をもたらす。効用の基数的測定、効用の個人間比較、複数個人の効用の集計を否定することになるからだ。

しかし、主観主義を徹底すると、科学としての経済学はどのような立場に立つことになるのだろうか?全てが主観的解釈に依存するならば、経済現象について客観的な主張をすることは可能なのか?オーストリア学派はこのジレンマを、「実証された選好」のみを受け入れるという形で解決しようとする。しかし、これは厳しい制約であり、多くの経済現象の説明を難しくする。

経済理論の現実性と形式主義

オーストリア経済学における「実在論」と「理想化」の問題も検討に値する。オーストリア経済学者は一般に、理論における理想化(非現実的前提)を拒絶する傾向がある。これは経済学の主流派モデルとは対照的だ。主流派経済学では、「仮定の非現実性は問題ではない、予測が正確であれば良い」というフリードマン流の道具主義が支配的である。

しかし、ここで混乱が生じる可能性がある。抽象化(非精密的抽象化)と理想化(精密的抽象化)は区別すべきものだ。オーストリア経済学者は抽象化を許容するが、理想化は拒絶する。この区別は微妙だが重要だ。

抽象化とは、特定の文脈で無関係と見なされる基準を未指定のままにすることだ。一方、理想化とは、現実には偽であることがわかっている前提を採用することだ。オーストリア経済学者は前者を許容するが、後者を拒絶する。

興味深いことに、オーストリア経済学者は数学や形式的方法の使用に対して懐疑的だとしばしば描かれる。しかし、これは誤解かもしれない。歴史を振り返ると、オーストリア学派の重要人物たちは数学者や数理経済学者と協力していた。オーストリア景気循環研究センター、メンガー(K.)の数学コロキウム、ミーゼスの私的セミナー、ゲーム理論の創造などがその例だ。

ハイエクやマハループも、適切な課題に対する適切な形式的方法の可能性を高く評価している。オーストリア経済学における形式主義への反対は、原理的なものというよりも、主に実用的な考慮(たとえば、主観的解釈、企業家精神、時間構造などの形式化の難しさ)に基づいているようだ。

オーストリア経済学の現代的意義

オーストリア経済学の哲学的基盤を考察すると、現代経済学への貢献の可能性が見えてくる。マハループの「経済的意味論」プロジェクトはその一例だ。これは経済思想の歴史を調査し、同じ用語の異なる定義や意味を収集・分析するものだ。

「均衡」「限界効用」「合理的」「独占」といった用語の曖昧さが経済学者間の相互理解を妨げてきた。この種の概念的明確化は、オーストリア経済学と主流派経済学の間の生産的コミュニケーションを促進する可能性がある。

オーストリア経済学の認識論的アプローチは、複雑な社会現象に対する謙虚な姿勢を促し、社会工学的野心に対する警戒を生み出す。このアプローチは、特に不確実性が高く、予測が困難な状況で価値がある。

また、オーストリア経済学の主観主義は、経済行為者の多様な動機や解釈を理解する上で重要だ。主流派経済学のモデルでは捉えきれない人間行動の側面を照らし出す可能性がある。

さらに、方法論的個人主義は、集合主義的説明の問題を明らかにする。市場が決定した」「社会が選択した」といった表現は、実際には個人の行動とその相互作用によって生じる現象を擬人化している。これらの表現は便宜的には有用かもしれないが、因果的説明としては不十分だ。

オーストリア経済学の哲学は、経済現象の複雑さと不確実性に対する敬意、個人の主観性と創造性の重視、社会制度の操作可能性に対する謙虚さという点で、現代の経済的議論に貢献できる。たとえば、2008年の金融危機のような複雑な経済現象を理解する際に、単純な集計モデルではなく、異質な経済主体の相互作用と、その背後にある主観的期待や解釈の役割に焦点を当てるアプローチが有益かもしれない。

懐疑と批判的視点

しかし、オーストリア経済学の哲学にも批判的に考察すべき点がある。

まず、方法論的個人主義は、社会構造や制度が個人の選好や行動にどのように影響するかを十分に説明できていない可能性がある。個人から社会現象を説明する方向性は重要だが、社会から個人への影響も無視できない。

次に、オーストリア学派のアプリオリズムは、経済理論の経験的検証の重要性を軽視するリスクがある。ミーゼスのような極端なアプリオリストの立場は、科学的実践としての経済学の発展を制限する可能性がある。

また、徹底した主観主義は、経済政策の規範的評価を困難にする。もし効用の個人間比較が不可能であれば、異なる政策の厚生効果を評価することは極めて難しくなる。これは政策議論において課題となりうる。

最後に、オーストリア経済学者の形式的方法に対する懐疑は、実証的研究の可能性を制限する可能性がある。形式化の適切な使用は、曖昧さを減らし、理論の論理的含意を明確にするのに役立つ。

統合的視点の可能性

以上の考察から、オーストリア経済学の哲学的基盤は、その強みと限界を理解した上で、現代経済学に統合されるべき価値があると考える。

方法論的個人主義は、社会制度の発生と進化の説明に有用だが、社会的文脈が個人の選好形成に与える影響も考慮に入れるべきだ。アプリオリズムと経験主義のバランスを取り、理論的推論と経験的検証の両方を重視する必要がある。主観主義は経済行為者の多様な動機と解釈を理解する上で重要だが、集合的な意思決定や政策評価の基礎も必要だ。

オーストリア経済学の哲学は、経済学が直面する根本的な問題—価値の本質、知識の限界、複雑な社会現象の理解可能性—に真摯に取り組んでいる。その視点は、経済学を単なる技術的な学問ではなく、より広い社会科学および人文科学と結びついた学問として理解するのに役立つ。

経済学がより複雑で不確実な世界に対処するためには、オーストリア経済学の哲学的洞察と主流派経済学の形式的厳密さを結合した統合的アプローチが有益だろう。この統合は、経済理論の精密さを犠牲にすることなく、経済現象の複雑さと不確実性をより良く理解するための道を開く可能性がある。

パート4の要約

このパートは経済学における価値判断、倫理、福祉、公正性といった哲学的概念を詳細に分析している。

主要テーマとして、功利主義的枠組みにおける経済学の価値判断、消費者物価指数などの経済指標の測定における価値判断の不可避性、経済学と倫理学の相互関係、幸福や厚生の概念分析、そして公正な分配の理論的枠組みが取り上げられている。

このパートでは、経済学は「価値中立的」であるという主張が批判的に検討され、実際には経済学の理論や測定には不可避的に価値判断が含まれることが示されている。たとえばブローム(Broome)のような哲学者は、公正性の概念を「クレーム(請求権)の強さに比例した満足」と定式化し、経済学的分析に道徳的概念を組み込む方法を提案している。

経済学と倫理学の関係について、本書は両分野の分離よりも統合的アプローチの重要性を強調している。厚生経済学における価値判断の役割、公正な分配の理論的基礎、そして経済的意思決定における倫理的価値の位置づけといった問題が、現代の経済学と哲学の両分野からの視点で論じられている。

各章の要約

第15章 厚生経済学における価値(Values in Welfare Economics)

厚生経済学は社会的厚生を評価する理論的枠組みであり、ミクロ経済学の概念を基盤としている。価値判断の役割をめぐる四つの立場が提示されている:価値中立性の主張、価値限定の理想、透明性の要求、価値の絡み合い主張である。実際には、厚生経済学は完全に価値中立的ではなく、何らかの価値判断なしには勧告を行えないことが論じられている。価値判断の透明性を確保するための公理的アプローチが紹介され、事実と価値の境界線の曖昧さも指摘されている。(230字)

第16章 測定と価値判断(Measurement and Value Judgments)

経済学における測定、特にインフレーション測定は価値判断を伴う。物価指数の構成方法により結果が大きく異なり、測定目的や指数構成に価値判断が含まれる。ケインズとフリードマンは実証経済学と規範経済学を区別したが、実際には事実と価値の二分法は維持できない。測定プロセスには、測定目的の選択、概念の選択、質の変化の扱い、家計の重み付けなど、多くの価値判断が含まれる。経済指標の測定には記述的要素と評価的要素が不可分に絡み合っている。(212字)

第17章 経済学と倫理学の状態に関する考察(Reflections on the State of Economics and Ethics)

経済学と倫理学の関係は、外部トピックとしての倫理学と経済学に内在する倫理的側面という二分法で理解できる。主流派経済学は古典的功利主義に基づいており、自己利益最大化の前提に疑問を投げかける研究が増加している。カント義務論や徳倫理学など、功利主義以外の倫理的視点の経済学への導入が試みられている。厚生経済学では功利主義的枠組みを超えて、平等、正義、ケイパビリティなどの概念が重視されつつある。市場と倫理の関係についての議論も活発化している。(200字)

第18章 幸福(Well-Being)

厚生(幸福)の概念分析と理論が紹介されている。「善さ(goodness for)」の概念に基づく厚生は、道徳的・美的価値とは区別される個人にとっての価値を指す。主な厚生理論として:1)精神状態理論(快楽主義等)、2)選好満足理論、3)客観的リスト理論、4)完成説(人間本性の発展を重視)が分析されている。ノージックの「経験機械」反論や「基底的快楽」批判など、各理論への主要な反論も検討されている。センとヌスバウムのケイパビリティ・アプローチも厚生理論として評価されている。(202字)

第19章 公正性と公正分配(Fairness and Fair Division)

公正性は形式的・実質的、局所的・全体的、客観的・主義的という軸で分析できる。本章は実質的・局所的・客観的な公正性に焦点を当てる。ブロームの公正理論では「公正性はクレームの強さに比例した満足を要求する」と定式化される。経済学では「請求問題」として分析され、比例配分規則等が研究されている。また協力ゲーム理論ではシャプレー値などの解が公正な配分を提供する。両分野の研究はほぼ独立に発展したが相補的であり、クレーム概念の解釈や適用に関する課題が残されている。(211字)

『経済学における価値判断』についてのAI考察

by Claude 3

価値中立性の理想と現実

私は『The Routledge Handbook of Philosophy of Economics』に収録されているアントワネット・ボジャード(Antoinette Baujard)の「Values in Welfare Economics」(第15章)と、ジュリアン・ライス(Julian Reiss)の「Measurement and Value Judgments」(第16章)を手掛かりに、経済学における価値判断の問題を掘り下げていきたい。この問題は単なる方法論上の議論ではなく、経済学の自己理解と社会的役割の本質に関わる根本的な問いだ。

経済学、特に厚生経済学は長らく「価値中立的な科学」を標榜してきた。これはロビンズ(1932年)の「倫理は単なる慣習や主観、形而上学の問題であり、観察や内省によって証明できないため、科学の範囲外である」という影響力のある主張に端を発している。彼は「『べき』を含む命題は『である』を含む命題とは全く異なる次元にある」と断言し、経済学からの価値判断の排除を強く主張した。

しかし、この価値中立性の理想は実際には達成可能なのだろうか?そもそも「価値中立」という立場自体が一つの規範的立場ではないのか?この問いを探求するために、ボジャードが提示する4つの立場を出発点としよう。

ボジャードの4つの立場と厚生経済学の発展

ボジャードによれば、厚生経済学における価値判断に関して以下の4つの立場が区別できる:

  • 価値中立性の主張(value-neutrality claim):倫理的価値は厚生経済学の範囲外であるべき
  • 価値限定の理想(value confinement ideal):倫理的価値は最小限かつ合意可能なものであれば許容される
  • 透明性要件(transparency requirement):明示的かつ形式化されていれば、どのような倫理的価値も許容される
  • 絡み合い主張(entanglement claim):事実と価値の区別自体が不可能

これらの立場は厚生経済学の歴史的発展と密接に関連している。19世紀末から20世紀初頭のピグー流の「旧厚生経済学」は、功利主義的価値観を明示的に取り入れていた。しかし、ヒックス、カルドア、サミュエルソンらによる「新厚生経済学」の台頭により、価値中立性の理想が前面に押し出された。

特に重要なのは、パレート原理の導入だ。パレート効率性という概念は、「誰かの状態を悪化させることなく他の誰かの状態を改善できなければ効率的」という形で定義される。これにより、異なる個人間の効用比較(interpersonal comparison of utility)という厄介な問題を回避できると考えられた。

しかし、パレート原理自体が規範的判断を含んでいることは明らかだ。「効率性」を価値として優先し、分配の公正さなどの他の価値を二次的なものとして扱っている。ミシャン(1960)が指摘するように、「カルドア=ヒックス基準を満たす政策が社会の『効率性』を高めると言うことは、実質的にその政策を推奨することであり、その基準に暗黙の価値判断が含まれていることを認めなければ、多くの人から支持を得ることはできないだろう」。

ウェルフェアリズムの前提と限界

厚生経済学の標準的枠組みである「ウェルフェアリズム」は、社会的厚生が個人の効用のみに基づくという考え方だ。センによれば、ウェルフェアリズムという用語は皮肉にも、この考え方を批判するために導入された。

ウェルフェアリズムの前提を掘り下げてみよう。それは少なくとも2つの強い価値判断を含んでいる:

1. 倫理的個人主義:社会状態の評価は、その状態が個人に与える影響のみに基づくべきであり、社会現象や集合的対象、外部性などは個々の部分を超えて内在的な重要性を持たない

2. 効用一元論:個人の福祉(well-being)は効用(utility)と同一視され、他の価値(権利、自由、平等など)は直接的には考慮されない

このような前提は決して「価値中立的」ではない。ハウスマンとマクファーソン(2009)が指摘するように、「厚生経済学の規範的理論を主観的選好の満足という目標の周りに構築する試みは、議論の余地がある形で、人々の福祉を主観的選好の満足度と同一視することに依存している」。

さらに、「効用」という概念自体も時代と共に変化してきた。19世紀の功利主義者は効用を快楽や苦痛という心理的状態として捉えたが、現代の経済学では主に選好の充足として理解される。モスカティ(2013)の研究が示すように、この概念の変遷自体が価値観の変化と密接に関連している。

測定と価値判断の不可分性

ライスの章では、経済学における測定と価値判断の関係が詳細に考察されている。彼は消費者物価指数(CPI)を例に取り、一見すると客観的に見える経済指標の背後に存在する価値判断の層を解き明かしている。

CPIの測定には少なくとも以下の価値判断が含まれる:

1. 測定目的に関する判断:CPIは社会保障給付の調整、民間契約のインフレ調整、インフレ連動国債の指標、税制調整、GDP実質化、金融政策の判断材料など、多様な目的で使用される。これらの目的間の優先順位付けは価値判断を含む。

2. 生活費指数という概念自体:CPIを「生活費指数(cost-of-living index)」として捉える決定は、新古典派経済理論の価値観を取り入れることを意味する。例えば、消費者が新商品を選択するとき、それは新商品を選好しているという前提に基づく。

3. 品質変化の取り扱い:商品の品質変化を「改善」と見なすかどうかは、消費者にとっての「便益」に関する価値判断を含む。

4. 家計の加重方法CPIは総支出に占める割合に基づいて家計を加重するため、「金持ち寄り(plutocratic)」の指数と呼ばれる。プライス(1959)の計算によれば、支出分布の75パーセンタイルに位置する家計にとって最も代表的な指数となる。これは明らかに分配的価値判断を含んでいる。

ライスはこれらの例を通じて、アマルティア・センが提唱する「説明の善さ」と「真理性」の区別が、経済指標の文脈では維持できないことを示している。経済指標に関する言明の真偽を評価するためには、測定手続きの妥当性を評価する必要があるが、それは測定目的の明確化を前提とし、多くの測定目的は良い生活や良い社会に関する規範的問題と不可分に結びついている。

事実と価値の絡み合い:理論的考察

ヒラリー・パトナム、ルドナー、ダグラスらの研究は、科学における「価値中立性の理想」に対する哲学的批判を提供している。パトナム(2002)は「事実と価値の二分法」を批判し、記述的要素と評価的要素は不可分に絡み合っていると主張する。

バーナード・ウィリアムズの「厚い(thick)」概念と「薄い(thin)」概念の区別も重要だ。「不正」「約束」「勇気」などの厚い概念は、記述的内容と評価的内容を併せ持つ。経済学における「効率性」「最適性」「合理性」などの概念も同様に厚い概念と考えられる。

センの「基本的」言明と「非基本的」言明の区別も参考になる。彼は厚生経済学に関連する判断のほとんどが文脈依存的であり、「どのような状況でも税金を下げるべきだ」「どのような状況でも公共投資を増やすべきだ」といった文脈から独立した「基本的」言明はほとんど成立しないと指摘する。

さらにセン(1980)は「選択としての記述」という考え方を提案している。あらゆる記述は、潜在的に関連する膨大な情報の海から特定の関連情報を選択するという能動的過程を前提としている。その選択自体が特定の価値や目標によって駆動されているのだ。

透明性要件とポパー的価値管理

ボジャードの提示する「透明性要件」は、価値判断の存在を認めたうえで、それを明示的にし、形式化することで対処しようとする。これはアトキンソン(2009)が主張するように、「異なる倫理的立場の結果を検討する」ことを規範的経済学の任務と見なす立場だ。

この立場は、マックス・ウェーバー(1904)に遡る「科学者と政治家の役割分担」という考え方と結びついている。科学者は政治家から与えられた価値前提に基づいて分析を行い、政治家はその分析結果を用いて最終的な政策判断を行う。

実際には、この役割分担は「公理主義的アプローチ」という形で厚生経済学に取り入れられている。フルールバエ(1996)はこのアプローチを「完全に実証的」と見なしている。なぜなら、研究者は自身の個人的価値観にかかわらず、特定の規範的前提の論理的帰結を導出できるからだ。

しかし、この透明性要件にも問題がある。バウジャールが指摘するように、アホロフとソーンタイト(2021)の研究は、厚生経済学における個人情報基盤と集計デバイスの間に依存関係があることを示している。例えば、功利主義的総和を使用するには基数的効用が必要であり、逆に序数的効用はパレート基準とのみ互換性がある。この依存関係は、事実と価値の明確な区別を困難にする。

これはポパー的な「社会的価値管理理想」に近い立場かもしれない。カール・ポパー(1976)やヘレン・ロンジーノ(1990, 2002)が提案するように、科学の客観性は批判を効果的に促進する能力によって構成される。批判のための適切な場があり、科学者が批判に応答し、公に認められた証拠基準があり、科学コミュニティが包括的であれば、価値の影響は許容されうる。

日本の文脈における考察:経済政策と評価

日本の厚生経済学や政策評価においても、価値判断の問題は顕著だ。特に「失われた30年」と呼ばれる長期停滞期における政策評価には、価値判断が深く関わっている。

例えば、日本の「幸福度指標」開発の取り組みは、何を「幸福」と見なすかという価値判断を避けて通れない。内閣府の「幸福度に関する研究会」(2011年)は「経済社会状況」「心身の健康」「関係性」という3つの柱を設定したが、これらの選択と重み付けには明確な価値判断が含まれている。

また、「アベノミクス」の評価においても、価値判断は避けられない。GDPや株価の上昇を主な成功指標とする見方は、経済成長や資産価値を重視する価値観を反映している。一方で、所得格差や地域間格差、非正規雇用の問題などに焦点を当てる評価は、平等や安定性を重視する異なる価値観に基づいている。

同様に、「働き方改革」の評価においても、「効率性」「ワークライフバランス」「多様性」「経済成長」など、異なる価値基準による評価が可能だ。これらの価値基準は往々にして暗黙のまま前提とされ、透明性が欠如している

日本の経済学者の間でも、先進国の中では比較的、価値中立性の理想が強く維持されている傾向がある。これは戦後の実証主義的な学問観の影響と、分配問題や公正性に関する規範的議論を避ける傾向につながっている可能性がある。佐々木(2016)が指摘するように、日本の経済学は「効率性」を中心に据える一方で、「公正さ」の概念については十分に理論化されていない面がある。

応用と実践:価値判断を明示的に扱う方法

経済学から価値判断を排除することは不可能だという認識に立つと、むしろ価値判断を明示的に扱う方法を模索すべきだろう。以下にいくつかの具体的アプローチを提案する:

1. 多元的厚生関数アプローチ:異なる価値観(功利主義、ロールズ的正義、センの潜在能力アプローチなど)に基づく複数の社会厚生関数を並行して計算し、政策の多面的評価を提示する。アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチは、効用以外の要素(自由、権利、機会など)を考慮に入れた評価枠組みを提供している。

2. 分配的影響分析の標準化:政策評価において、効率性の分析だけでなく、異なる社会集団への分配的影響を体系的に分析する。これは「誰が得をし、誰が損をするか」という価値判断に関わる問題を透明化する。アトキンソン(2015)の不平等研究は、この方向性の重要な貢献だ。

3. 市民参加型の評価基準設定:経済指標や政策評価の基準設定に、専門家だけでなく市民の参加を促し、多様な価値観を反映させる。エリオット(2017)が提案するように、科学者は価値判断について可能な限り透明性を確保し、主要な社会的・倫理的優先事項を代表する価値を取り入れるべきだ。

4. 反実仮想分析(counterfactual analysis)の拡張:異なる価値前提に基づく複数の反実仮想分析を提示し、「もし異なる価値観を採用したら、どのような結論になるか」を明らかにする。これは透明性要件を実践的に適用する方法だ。

5. 経済学教育における価値判断の明示化:経済学の教育において、暗黙の価値判断を明示的に議論する。ドルフスマとネグル(2019)が指摘するように、経済学者は価値判断の倫理的含意を教えられることなく、数学的手法を使用するよう訓練されている。

結論:価値判断と経済学の未来

この考察を通じて、経済学、特に厚生経済学において価値判断は不可避であるという結論に達した。価値中立性の幻想を追求するよりも、価値判断の存在を認め、それを透明化し、多元化することが重要だ。

ボジャードの提示する4つの立場のうち、「透明性要件」と「絡み合い主張」を統合した理解が現実的だと考える。価値判断から完全に自由な経済学はあり得ないが、だからといって「何でもあり」というわけではない。価値判断を明示的にし、その限界を自覚することで、経済学はより誠実で生産的な社会的対話に貢献できる。

最終的に、経済学が社会に貢献するためには、価値判断の存在を隠すのではなく、それを明らかにした上で、多様な価値観に基づく複数の分析を提示し、社会的対話の基盤を提供することが求められている。アトキンソンが述べるように、「人々が異なる結論に達するのは、経済がどのように機能するかについての見解の相違ではなく、判断を下す際に適用される基準についての相違によるものだ」。

パトナム(2002)の言葉を借りれば、「事実と価値の絡み合いを認めること」が、経済学をよりオープンで誠実な議論へと導く第一歩なのだ。これは経済学の科学としての地位を損なうものではなく、むしろ社会科学としての責任を果たし、その社会的有用性を高めることになるだろう。

パート5の要約

「因果性と説明:哲学的探究」は、経済学における因果性と説明の課題を多角的に検討した専門書である。本書は確率論的因果性、貢献因果性、モデルベースの説明、理想化の役割など、経済学の方法論的課題を深く掘り下げている。

主要テーマとして、経済モデルが現実世界をどのように表現し説明するかという問題が中心に据えられている。特に、高度に理想化されたモデルが実際の経済現象をどう説明できるのかという「説明のパラドックス」が重要な論点となっている。

著者たちは、経済学における説明のあり方として、因果的説明が支配的ながらも、合理的選択理論や統一的説明なども検討されている点を指摘する。また、ミクロ基礎付けの問題や行動経済学の台頭など、経済学の説明レベルに関する議論も展開されている。

本書は、経済学の哲学的基礎に関心のある研究者や、経済モデルの認識論的価値について考察したい読者にとって貴重な資料となるだろう。

各章の要約

第20章 因果性と確率(Causality and Probability)

確率論的因果性の理論を経済学の観点から考察。サッぺスとグレンジャーの確率的因果性理論を検討し、ゼルナーの因果法則のアイデアやベイジアンネットワーク理論を紹介。政策分析には第二の伝統(操作変数に基づく効率的因果)が必要で、グレンジャー因果性は予測に有用だが政策分析には不十分である点を指摘。また、共通原因と共通結果からの因果推論の問題点も論じている。 (284字)

第21章 経済学における因果的貢献(Causal Contributions in Economics)

経済学における変数間の因果的貢献とwhat-if質問について検討。モジュラー理論と他の条件が等しい場合の理論という2つの対照的アプローチを分析。モジュラー理論は直接因果関係の情報を入力として要求するが、カートライトが指摘する複雑な社会システムへの適用問題を抱える。一方、他の条件が等しい場合の理論では、因果的貢献が「他の変数」の選択に依存することを示している。 (200字)

第22章 経済学における説明(Explanation in Economics)

経済学における説明の課題を検討。因果的説明が主流だが、合理的選択理論や統一的説明など他の説明形式も存在する。高度に理想化されたモデルと説明の事実性要件の間の「説明のパラドックス」を解決する試みとして、モデルの誤表現を否定する立場、事実性要件の緩和、モデルの説明力の限定などがある。また、ミクロ基礎付けの問題と行動経済学の台頭により、説明のレベル(説明項と被説明項)についての議論が活発化している。 (196字)

第23章 可能性のモデル化から現実のモデル化へ(Modeling the Possible to Modeling the Actual)

経済モデルが提供する可能性の説明(how-possibly explanations)から現実の説明(how-actually explanations)への移行過程を考察。単純な「脱理想化」と「類似性関係の特定」だけでは不十分である。米国連邦準備制度理事会の政策分析事例を通じて、現実世界への架け橋として「信頼できる物語」の構築が重要であることを示す。物語構築は専門家の判断を取り入れつつ、モデルと現実世界の複雑な関係を反映するためのアプローチとして機能する。 (192字)

「経済学と説明モデル」についてのAI考察

by Claude 3

科学的説明と経済モデルの関係性

この文書は経済学における説明の本質と経済モデルの役割について考察している論文集のようだ。まず、経済学における説明とは何かというテーマから始めてみよう。

ヴェロー=ジュリアン(Verreault-Julien)の章では、経済学における説明の位置づけについて議論している。彼によれば、経済学の目標は単に予測することだけでなく、経済現象を説明することでもある。マンキューが「経済学の多くはポジティブなものであり、経済がどのように機能するかを説明しようとするものである」と述べていることを引用しているのが印象的だ。

これは経済学の歴史においては必ずしも自明ではなかったようだ。フリードマンの有名な方法論的議論では、経済理論の「最終目標」は予測にあるとされていた。現実的でない仮定であっても、正しい予測を生み出せれば良いという立場だ。これは一種の道具主義(instrumentalism)と解釈されることが多く、真理よりも実用性を重視する立場だ。

しかし、現代の経済学者たちは説明という言葉を頻繁に使っている。バナジーとデュフロは「非集計的成長モデルが貧しい国々が貧しいままである理由を説明する可能性がある」と述べ、チェティらは「男女間格差の説明の一部は居住の分離、所得格差、単親家庭で育つ子どもの割合の増加にある可能性がある」と述べている。

では、経済学における説明とは何だろうか。ヘンプル=オッペンハイムモデル(演繹的-法則的モデル)では、科学的説明はすべて科学法則の下での被説明項の包摂という形をとるとされていた。このモデルによれば、法則のない科学は説明することができない。

ここで疑問が生じる。経済学には法則があるのだろうか?経済学には「需要の法則」「エンゲルの法則」「オークンの法則」などと呼ばれるものがあるが、これらは真の法則なのだろうか?多くの場合、経済法則は普遍的な一般化ではなく、例外を含んでいる。例えば需要の法則でさえ、贅沢品などの場合には例外がある。

このような状況に対処するために、経済学者たちは「不完全な法則」や「傾向」、「他の条件が等しければ(ceteris paribus)」という条件付きの法則という概念を提案している。傾向とは、攪乱要因がない場合に特徴的な効果を生み出す原因だと理解できる。他の条件が等しければ(ceteris paribus)という法則は、特定の条件下でのみ成立する法則だ。

しかし、法則に基づく説明には別の問題もある。それは説明の方向性の問題だ。旗竿の影の長さを旗竿の長さから説明することはできるが、逆に旗竿の長さを影の長さから説明することはできない。説明には非対称性があるのだ。この非対称性を持つのが「原因」であり、そこから因果的説明という考え方が発展した。

経済学方法論では、法則への関心は次第に因果関係へと移行している。現在の主流の見解は、経済学が(広い意味での)因果的説明を提供することを目指しているというものだ。しかし、ここには2つの重要な問題がある:

1. 特定の因果関係の概念を優先すべきか?
2. 説明には原因が必要なのか、それとも十分なだけなのか?

実際、因果的説明はさまざまな形をとることができる。メカニズムに訴えるもの、因果法則に訴えるものなどがある。また、「メカニズム」という概念自体も曖昧で、単純な因果関係を指すこともあれば、媒介変数や基礎的構造を指すこともある。

そして、経済学における説明は必ず因果的である必要があるのだろうか?最近では非因果的説明への関心が高まっており、経済学における数学的説明の可能性も検討されている。例えばアローとデブルーの一般均衡モデルは「可能性の説明」を提供したとの議論もある。

経済学における合理的選択理論も興味深い。経済学では人々の選択を説明するために選好を引き合いに出すが、これは民間の心理学的説明と似ている。しかし、選好による説明が因果的説明の一種なのか、それとも全く別種の説明なのかは不明確だ。デイヴィッドソンは行為の理由を原因と見なしているが、顕示選好理論の一部の解釈は因果的説明とは相容れないようだ。ビンモアによれば、顕示選好理論の使用は「人々の行動の因果的説明を提供するという主張を放棄する」ことを意味する。

また、統一による説明というアプローチもある。この考え方では、科学は少数の説明原理の下で現象を包摂することによって説明する。経済学における統一主義の最近の擁護者としては、ヴレデンバーグやフマガリがいる。

モデルと理想化の問題

経済学における説明に関するもう一つの重要な問題は、高度に理想化されたモデルの地位に関するものだ。フリードマン以降、経済学における「非現実的な仮定」は論争の的となってきた。現代の議論では、この問題はモデリングと理想化という観点から議論されることが多い。

経済学では理論的モデルが非常に一般的であり、「経済学のトレーニングは本質的に一連のモデルを学ぶことから成り立っている」(ロドリク)。そして、これらのモデルは体系的に抽象化、単純化、歪曲(理想化)されている。つまり、モデルは説明しようとしているまさにその対象を誤って表現しているのだ。

これは説明が事実的(factive)であるという一般的な見解と矛盾する。成功した説明は(おおよそ)真実の実際の説明項と被説明項を特定する必要がある。例えば、2020年にカナダで失業率が上昇した理由を説明しようとして、成長がプラスだったことを原因として挙げるとしたら、それは正しい説明ではない。なぜなら、実際には成長はマイナスだったからだ。同様に、理想化を含むモデルは現実を誤って表現しており、事実的な説明の要求に反しているように見える。

ライスの「説明のパラドックス」はこの問題を明確に示している:
1. モデルは高度に理想化されており、現実を誤って表現している
2. 説明は事実的である
3. モデルは現象を説明する

これら3つの命題は個々には真であるように思えるが、一緒にすると矛盾している。もしモデルが事実性の要件を満たさないなら、どうして説明することができるのだろうか?

この問題に対するアプローチはいくつかある:
– 理想化にもかかわらず、モデルは誤表現しているわけではないと主張する立場(カートライト、ハウスマン、マキ)
– 事実性の要件を否定し、忠実な表現は必要なく、類似性の主観的判断で十分だとする立場(サグデン)
– モデルは実際には説明していないと主張する立場(アレクサンドロワ、ノースコット)

第三の立場の中でも、より楽観的な見解では、モデルは「可能性の説明」(how-possibly explanations)を提供しているという。これらの説明は認識論的目的を果たし、理解を促進するかもしれないが、実際に現象を説明するには至らない。

「可能性の説明」の考え方には利点がある。それはモデルが説明を提供しているように見える理由を説明し、その実践が認識論的に無意味ではないことを示すことで、経済学者がその実践に従事する理由も説明する。しかし、「可能性の説明」が成功し、認識論的に価値があるのはどのような条件下かをさらに特定する必要がある。また、この見解は多くのモデルが実際には説明していないことを否定しているが、これは一部の実践経済学者の信念と矛盾している。

説明のレベルと機序

最後に、経済学が何の科学であるかという問題がある。経済学はどのような現象を説明しようとしているのだろうか?古典派経済学では、国富の生産、消費、分配の研究だった。限界主義の発展に伴い、より個人主義的になった。ロビンズの定義では、経済学は個人の最適化行動の研究となった。

マンキューによれば、経済学は様々なレベルで研究されている:
– 個々の家計や企業の決定
– 特定の財やサービスの市場における家計と企業の相互作用
– 経済全体の動き

伝統的に経済学はミクロ経済学とマクロ経済学の2つの分野に分かれている。ミクロ経済学は個人、家計、企業がどのように経済的決定を下し、市場で相互作用するかを調べる。マクロ経済学は経済全体と、景気循環、成長、インフレなどの集計現象を研究する。

一見すると、ミクロとマクロは比較的独立した分野のように見える。それらは異なる対象を研究し、その方法も異なるはずだ。しかし、ホーバーが指摘するように、経済学者の間では広くマクロ経済学にはミクロ的基礎づけが必要だという見解が持たれている。この見解では、マクロ経済学、ひいてはマクロ経済現象はミクロ経済学に還元できるし、そうすべきだとされている。ミクロ的基礎づけプログラムは、すべての現象が最終的には個々の経済主体の(最適化)行動によって説明される必要があることを意味している。

つまり、ミクロ的基礎づけプログラムは、説明の異なるレベルがあることを否定している。雇用、成長、インフレなどの集計量についてわれわれが語ることはすべて、個人の行動に還元できるし、そうすべきだというのだ。この立場には存在論的側面と方法論的側面がある。存在論的には、例えば雇用は個人の存在に「依存している」のは確かだ。方法論的には、マクロ経済現象が意図的行為に依存しているなら、適切な説明のレベルはその行為のレベルだという主張だ。

これは方法論的個人主義の一形態であり、社会現象の説明は個人の観点からなされるべきだという一般的な見解だ。しかし、この立場にはいくつかの問題がある。ホーバーは、ミクロ的基礎づけの標準的な実装である代表的主体モデルには深刻な欠陥があると主張している。経済学者は経済内のすべての個々の主体の選好を知ることができないため、代わりに経済全体の制約と決定に直面する単一の「代表的」主体を想定している。しかし、原理的にもミクロ的基礎づけプログラムを実装することができないのであれば、なぜそれにこだわるのだろうか?

より原理的なミクロ的基礎づけの必要性を否定する方法は、全体論的説明、つまり社会構造や集計量による説明が時には適切であり、場合によっては好ましいと言うことだ。例えば、ホーバーはマクロ経済レベルでの因果的自律性があると主張している。実際、マクロレベルで見つかる因果関係は、ミクロレベルのものよりも不変かもしれない。人々の選択は文脈的要因に大きく依存するため、不変の関係は個人レベルを超えたところでしか見つからないかもしれない。安定したマクロの関係は個人の特定の構成に依存しないのだ。

経済モデルとナラティブ構築の役割

ジュン(Jhun)の章では、経済モデルがどのように実際の世界と関連づけられるかという問題を考察している。モデルは単独では「可能性の説明」を提供するに過ぎず、「実際の説明」を提供するためには脱理想化と類似性関係の特定が必要だとされている。しかし、実際にはそれほど単純ではない。

著者はカートライトの「隔離主義的」見解を紹介している。これによれば、私たちの知識の多くは普遍的に成立するわけではなく、特定の状況でのみ成立する「他の条件が等しければ」の法則から成り立っている。説明的役割を果たすのは法則ではなく「能力」だという。そして、「思考実験における法則的機械」としての経済モデルを考えることで、これらの因果的特徴(「能力」)を描き出すことができるという。

また、サグデンの「信頼できる世界」という見解も紹介されている。これはモデルを私たちの世界と類似しているが並行した世界として扱う。モデルからの推論は、「関連するモデルを世界がどのようであり得るかの記述として理解できる程度が大きいほど」より信頼できるという。

ジュンは、連邦準備制度(Fed)がどのように予測と政策分析を行っているかについても詳しく述べている。Fedは多くの中央銀行と同様に、予測実践における専門家の判断の使用を明示している。そして、この判断の実施により、モデルと対象の関係を明確に述べることが困難になる。

Fedの主要な国内政策モデルは現在、FRB/USと呼ばれる大規模な、ニューケインジアン、一般均衡、計量経済モデルだ。このモデルは完全に構造的なDSGEモデルとは異なり、半構造的である。FRB/USは他のいくつかのモデルと併用されている。

興味深いのは、Fedの予測プロセスが小さなグループが予測の「トップライン」を設定することから始まり、その後、部門専門家による変数の予測が行われるという点だ。専門家の予測はFRBUSモデルを通して処理され、残差が生成され、この演習の結果がその後の会議で検討される。このプロセスは反復的で、部門専門家と監督者(予測コーディネーター)の間で収束が達成されるまでかなりの行き来が必要だ。

モーガンは、理論的モデルは現実世界について何かを述べるためにはナラティブを伴う必要があると主張している。「モデルを使って特定のケースを議論するとき、私たちはナラティブの補完的な説明力にも頼っている」。このナラティブの構築は、時に非常に異なるさまざまな情報を統合する認識論的プロセスを指している。

「ナラティブな秩序付け」とは、科学者が類似の要素と対立する要素をどのように接触させるか、相互関係がどのように明らかにされ確立されるか、織り込みの方法、そして調査のすべての部分が位置づけられる全体像を作成するプロセスを指す。

実際、モデルの構築自体もナラティブによって支えられていることがある。ブーマンス(Boumans)が丹念に記録しているように、経済学のモデルは多くの異なる要素(経験的なもの、理論的なもの、イデオロギー的なものなど)を一緒に引き出す傾向がある。ブーマンスによれば、モデル構築は特定のレシピなしにケーキを焼くようなものだ。

政策決定における「可能性」から「現実」への架け橋

ジュンの章の最後では、モデルによる「可能性の説明」から「実際の説明」への移行について考察している。著者は、この移行のためのアルゴリズム的な道筋はないと主張している。それは主にナラティブ構築のプロセスを通じて実現される。

モデルは仮説的および反事実的推論を容易にする、関連する因果関係を特定するためのツールである。FRB/USは予測だけでなく、代替シナリオの分析にも使用されている。「可能性の説明」を提供するモデルから「実際の説明」を提供するモデルへの移行にはアルゴリズム的な道筋はない。これは大部分、単に追加情報を組み込むだけで対象システムとの一致を実現できるような、当初は貧弱なものとして「可能性のモデル」を考えていないからだ。

むしろ、そのモデルは、関連する因果構造の一貫した説明を構築することを目的とする、より大きなナラティブ実践において不可欠な部分である。モデルは修正される可能性があるが、手元にある関連する因果構造の一貫した説明を構築するためのより大きなナラティブ実践の不可欠な部分だ。

経済学における因果的説明とその哲学的含意

これらの論文を通して見えてくるのは、経済学において説明とは何かという問いに対する答えが一様ではないということだ。現在の主流の見解は因果的説明だが、それだけでなく、選好による説明や統一による説明など、さまざまなアプローチが存在する。

特に興味深いのは、高度に理想化されたモデルが現実世界の現象をどのように説明できるのかという問題だ。「説明のパラドックス」として知られるこの問題は、モデルが現実を誤って表現しているにもかかわらず説明が事実的であるというジレンマを浮き彫りにしている。

実際の経済政策の分野では、「可能性の説明」から「実際の説明」への移行は、単なる脱理想化と類似性関係の特定よりも複雑だ。連邦準備制度の例が示すように、専門家の判断とナラティブ構築が重要な役割を果たしている。

また、ミクロとマクロの関係に関する議論は、説明のレベルに関する重要な問題を提起している。経済現象はすべて個人の行動に還元できるのか、それとも全体論的説明が有効な場合もあるのか?

これらの問題は、経済学が科学として何を目指し、その成果にどのような価値があるのかという根本的な問いに関わっている。経済学は説明すべきなのか、そうでないのか? 実際の世界を説明することができなくても、経済学は認識論的に価値があるのか? 経済学は市場レベルの現象の科学なのか、それとも個人の意思決定にも踏み込むべきなのか?

これらの問いに対する答えは単純ではないが、説明という視点から経済学の方法論的問題を検討することで、それらの解決への道が開けるかもしれない。経済学者たちは予測だけでなく、経済現象の説明も目指している。しかし、理想化されたモデルを使った説明の本質と限界については、まだ多くの議論が残されている。

実践的な政策決定の場面では、モデルは単独で機能するわけではなく、専門家の判断とナラティブ構築によって補完されている。このプロセスは、単なる数理モデルの適用以上のものであり、経済の複雑な因果構造を理解しようとする「意味づけの営み」と見なすことができる。

この視点からは、経済学の説明は、単に現象の原因を特定することだけでなく、それらを一貫したナラティブの中に位置づけることも含んでいる。このような説明のあり方は、経済学が現実世界の複雑性に対処するための一つの方法かもしれない。

パート6の要約

各章の要約

第24章 経済学における実験(Experimentation in Economics)

経済学実験の方法論は哲学的に2つの観点から興味深い。まず帰納的推論の論理の実践例として、次に経済学と心理学の間の学際的関係が顕著になる分野として。実験の標準的分類(決定理論的、ゲーム理論的、市場実験)と、実験場所による分類(実験室から現場へ)を紹介。高水準では、実験経済学から厳格なテスト(severe testing)などの帰納的推論の規範的原理を抽出できる。一方で、実験者の意見が異なる場合に、特にカーネマンの市場参入ゲーム実験と心理学の貢献に関する見解について検討している。(291字)

第25章 フィールド実験(Field Experiments)

経済学におけるフィールド実験の歴史と種類を概観した上で、開発経済学でのランダム化フィールド実験(RFE)の方法論的課題に焦点を当てる。これらの実験は、社会的フィールド実験と証拠ベースの運動の副産物である。著者は、RFEが「フィールド」(複雑な環境)を「実験室」(制御された環境)に変換することで内部妥当性を高める一方、外部妥当性を弱めていると論じる。解決策として、定性的研究とRFEの組み合わせにより、消えた「フィールド」を復活させることを提案している。(239字)

第26章 経済学におけるコンピュータシミュレーション(Computer Simulations in Economics)

経済学でのコンピュータシミュレーションには、離散化、ミクロシミュレーション、モンテカルロ、エージェントベースモデルの4種類がある。最初の3つは広く使用されているが、エージェントベースモデルは方法論的抵抗に直面している。シミュレーションの哲学的問題として、実験との比較、認識論的不透明性、理解の問題が検討されている。モンテカルロ手法、動的確率的一般均衡(DSGE)モデル、エージェントベース計算経済学の解説を通じて、経済学でのシミュレーションの理論的役割と、人間の経済学者による理論構築の重要性が強調されている。(244字)

第27章 証拠に基づく政策(Evidence-Based Policy)

証拠に基づく政策(EBP)は「効果のある政策」の証拠を求める運動である。特に厳格なEBPはランダム化比較試験(RCT)などの高品質な効果研究を重視する。しかし、EBPは方法論的・実践的課題に直面している。特に重要な問題として、研究対象から政策標的への外挿(どこで機能するかから別の場所でも機能するという推論)の困難と、EBPの方法論的原則が道徳的・政治的価値と絡み合っている点がある。これらの問題を解決するためには、様々な学問分野や利害関係者が参加する議論、現実的な外挿レシピの開発、政策ドメイン別のアプローチが必要である。(255字)

『経済学実験と政策における証拠の哲学』についてのAI考察

by Claude 3

実験と証拠の方法論的分析

まず資料を読み進めると、経済学における実験的手法と証拠に基づく政策(Evidence-Based Policy:EBP)について論じていることがわかる。これは経済学の哲学における重要なテーマであり、特に「どのような証拠が信頼できるのか」「どのように実験を行うべきか」という方法論的な問題を扱っている。

提供された資料は実験経済学と証拠に基づく政策に関する3つの章から成り立っている。第24章は実験経済学について、第25章はフィールド実験について、第27章は証拠に基づく政策について論じている。これらの章を総合的に理解することで、経済学における実験的手法の意義と限界を探ることができそうだ。

第24章では、実験経済学の方法論が議論されている。ここで私が感じる重要なポイントは、実験経済学には「テスター」と「ビルダー」という二つの伝統があるという点だ。テスターの伝統は個人の意思決定や選好などの特性を測定することに関心があり、ビルダーの伝統はマーケットのような経済システムのプロパティを構築することに関心がある。この区別は実験経済学の多様な目的を理解する上で重要だ。

第25章では、フィールド実験、特にランダム化フィールド実験(RFE)について詳しく論じられている。フィールド実験は実験室実験と自然実験の間に位置し、実世界の状況で介入の効果を測定する。ランダム化フィールド実験は特に開発経済学で重要な役割を果たしているが、その方法論には賛否両論がある。

第27章は証拠に基づく政策(EBP)に焦点を当てており、政策決定者が「何が効果的か」という問いに答えるために高品質の証拠を用いることを主張している。この章では、ランダム化比較試験(RCT)を中心とした証拠の階層構造と、その方法論的・価値的課題が検討されている。

これらの章を通して見えてくるのは、経済学における実験と証拠の複雑な関係性だ。実験は単なる理論検証の道具ではなく、新たな知識を生み出し、政策に影響を与える重要な方法論的装置である。しかし、その方法論には多くの課題があり、これらの課題に対処することが経済学の哲学における重要な課題となっている。

実験経済学の二つの伝統

第24章を詳しく見ていくと、実験経済学には「テスターの伝統」と「ビルダーの伝統」という二つのアプローチがあることが強調されている。これは非常に興味深い区別だ。

テスターの伝統は、個人の特性(例えば、リスク選好、時間選好、利他的選好など)を測定することに関心がある。この伝統では、個人が経済理論の予測通りに行動するかどうかを検証することが主な目的だ。例えば、最後通牒ゲームや独裁者ゲームなどを通じて、人々が純粋に自己利益を追求するのではなく、公平性や互恵性などの社会的選好を持っていることが示されている。

一方、ビルダーの伝統は、効率的な経済システムを構築することに関心がある。この伝統では、市場のようなシステムレベルのプロパティが重視される。例えば、ヴァーノン・スミスのダブルオークション実験は、理論的予測通りに競争的均衡価格に収束することを示した。ビルダーの伝統では、個人の複雑な動機づけを排除または制御し、システムの効率性を最大化することが目指される。

この二つの伝統は必ずしも排他的ではなく、公共財ゲームのような実験パラダイムでは両方の側面が見られる。公共財ゲームでは、個人の協力や互恵性といった特性と、効率的な公共財供給という集合的な結果の両方が研究される。

ここで私が考えるのは、この区別が実験経済学の目的についての根本的な問いを投げかけているということだ。経済学の実験は、個人の行動について学ぶための道具なのか、それとも効率的な経済システムを設計するための道具なのか?両方の側面があるとすれば、それらはどのように関連しているのか?これらの問いは経済学の哲学において重要な位置を占めている。

また、テスターとビルダーの伝統は、経済学と心理学の関係についても示唆を与えている。テスターの伝統は心理学的アプローチに近く、個人の認知や動機づけに関心がある。一方、ビルダーの伝統はより経済学的であり、システムレベルの効率性に焦点を当てている。この緊張関係は、経済学と心理学の学際的関係の複雑さを反映している。

フィールド実験の変遷と課題

第25章に移ると、フィールド実験、特に開発経済学におけるランダム化フィールド実験(RFE)に焦点が当てられている。フィールド実験は、実験室実験と自然実験の間に位置し、実世界の状況で介入の効果を測定する方法だ。

ハリソンとリスト(2004)の分類によれば、フィールド実験には様々なタイプがある。人為的フィールド実験(実験室と同様だが、標準的な被験者を使用しない)、フレーム付きフィールド実験(被験者はランダム化を認識している)、自然フィールド実験(被験者は実験に参加していることを認識していない)、自然実験(外生的な変化が実験的設定を模倣する)などだ。

特に注目すべきは、21世紀初頭に開発経済学でのフィールド実験に大きな方法論的変化があったという指摘だ。証拠に基づく医学の影響を受け、ランダム化フィールド実験が「エビデンスに基づく政策」の優先的なツールとなった。J-PAL(Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab)の設立により、貧困との闘いをエビデンスに基づいたものにするという目標が掲げられた。

この変化には二つの重要な側面がある。まず、理論のテストから離れ、政策の影響評価に重点が置かれるようになった。バナジーとデュフロ(2011)は、研究者も開発援助機関も貧困撲滅に何が効果的かを知らないと主張し、RFEを体系的に促進した。次に、実験の規模が変わった。かつての社会フィールド実験が大規模な政策を評価したのに対し、開発経済学のRFEは小規模で行われるようになった。

しかし、このようなランダム化フィールド実験の普及には批判もある。デートン(2010)などの研究者は、RFEの結果は「ブラックボックステスト」であり、プログラムが機能しているかどうかはわかるが、なぜ機能しているのかはわからないと指摘している。これは内的妥当性と外的妥当性のトレードオフを表している。ランダム化によって選択バイアスが軽減され内的妥当性が保証される一方で、個人や社会の特性が隠されることでブラックボックスが生じ、外的妥当性が脅かされる。

無作為化比較試験の考察
Reflections on Randomized Control Trialsアンガス・ディートン、ナンシー・カートライトプリンストン大学、NBER、南カリフォルニア大学ダーラム大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校プリンストン大学, Princeton, NJ 08544,

著者は、ランダム化フィールド実験が「フィールドを消失させる」と主張している。ランダムな割り当てによって隠される社会的・個人的特性こそが、フィールドの中心的側面であり、実験が行われる複雑で厄介な環境なのだ。RFEは「フィールドの中の実験室」を作り出し、人工的にクリーンで制御された環境を押し付けている。これは結果を理解するための手がかりを提供せず、フィールドを取り除いている。

この問題に対処するため、著者は質的研究とRFEを組み合わせることを提案している。質的研究は研究者がフィールドに介入せず、クリーンにしたり制御したりしないため、RFEで失われたフィールドを回復するのに役立つ可能性がある。

証拠に基づく政策とその課題

第27章は証拠に基づく政策(EBP)に焦点を当てており、これは経済学の実験に関する議論を政策決定の文脈に置いている。EBPは「何が効果的か」についてのエビデンスに基づいて政策を決定すべきだという運動であり、その知的先駆者は証拠に基づく医学(EBM)である。

著者はまず、EBPの広義と狭義の理解を区別している。広義のEBPは単に政策が証拠によって情報を得るべきだと強調するが、狭義のEBPは「何が効果的か」を学ぶことに集中し、この目的のために十分に良い証拠に関する具体的な制約を適用する。特に、ランダム化比較試験(RCT)が政策介入の有効性を判断するための最良の方法とされる。

狭義のEBPは、キャンベル・コラボレーション、コクラン・コラボレーション、GRADEやCONSORTワーキンググループなど、様々な機関や研究ネットワークによって提唱、管理、実施されている。これらの機関は証拠の生産・合成のためのガイドラインを提供し、既存の証拠を要約し、異なる介入の(費用)効果に関する情報を普及させる。

EBPの特徴的な側面は、証拠の質を順位付けする「証拠の階層」への依存だ。これらの階層では、RCT(およびそのメタ分析)が最高位に置かれる。実験的制御を伴うRCTは、政策の効果を判断するのに最も信頼できると考えられているからだ。階層を下るにつれて、準実験的・観察的アプローチ(マッチング法や単純な多変量回帰分析など)が続く。これらの研究タイプは実験的制御が欠けているため、バイアスのリスクに関するより深刻な懸念に直面する。

RCTが証拠の階層のトップに位置する理由は、因果効果を測定するための方法論的優位性にある。潜在的結果フレームワーク(Potential Outcomes Framework)において、因果効果は原因、介入、または処置に関してのみ異なる2つの世界の状態を比較することによって定義される。しかし、「因果推論の基本的問題」は、同じユニットの両方の状態を同時に観察できないことだ。

RCTは、ランダムに割り当てられた処置群と対照群の比較によって、この問題に対する解決策を提供する。ランダム化は交絡因子(結果に影響を与える可能性のある他の要因)の影響を両群間でバランスさせることを保証し、バイアスを軽減する。これにより、処置の平均処置効果(ATE)の不偏推定量が得られる。

しかし、EBPは多くの方法論的・価値関連的課題に直面している。方法論的課題は、RCTの優位性を宣言する証拠階層という中心的な方法論的信条に異議を唱える。より詳細な検討により、RCTは実際には常に満たされるとは限らず、検証が困難な一連の実質的な背景仮定を必要とすることがわかる。

特に重要な課題は、外挿(extrapolation)の問題だ。これは、研究集団からの証拠を使用して、新しい標的集団に対する政策の効果について推論を行うことに関する問題である。研究集団と政策立案者が関心を持つ最終的な標的集団は、重要な方法で異なることが多い。そのため、研究集団Aで機能することが標的集団Bでも機能するという結論は単純に信じがたいことが多い。

外挿問題と証拠の利用

外挿問題は特に重要なので、もう少し詳しく考えてみたい。外挿とは、ある集団で得られた証拠を別の集団に適用する際の推論プロセスのことだ。例えば、あるコミュニティでのフィールド実験でゲートされた路地が侵入窃盗を減らす効果があることがわかったとしても、その結果を別のコミュニティに適用できるかどうかは明らかではない。

カートライトの「証拠の論証理論」(Argument Theory of Evidence)は、新しい環境における政策の効果に関する推論は、妥当で健全な有効性の議論の観点から行われるべきだと主張している。「ここで機能するから、そこでも機能する」は妥当な議論ではない。証拠を生み出す際に行われる方法論的厳密さは、それを使用する際に悪い議論に依存すると損なわれる。

熱帯での無作為化の再考 1つのテーマと11のバリエーション
RANDOMIZATION IN THE TROPICS REVISITED:A THEME AND ELEVEN VARIATIONSアンガス・ディートン概要無作為化比較試験は、経済学では50年前から、経済開発では20年以上前から集中的に用いられていた。多くの有用な研究がなされ

カートライトによれば、より良い議論を構築する有用な方法は、因果的原則とサポート要因の観点から考えることだ。因果的原則は、介入を結果変数に接続する因果的配置を表す。サポート要因は介入と相互作用し、介入が意図した効果をもたらすために適切に実現される必要がある要因だ。

ホッツらの再重み付け戦略(reweighting strategies)やバレインボイムとパールの因果グラフに基づくアプローチなど、外挿を可能にする様々なアプローチが提案されている。しかし、これらのアプローチはすべて、それらが可能にする推論を許可するために広範な仮定を含んでいる。例えば、ホッツらのアプローチでは、重要な調整変数が何であるかについての広範な理解が必要だ。

これらのアプローチは外挿のための有望な推論テンプレートを提供するが、これらの推論を支持するための具体的なレシピの持続的な欠如がある。これらの戦略は、どの仮定が必要かを教えてくれるが、外挿者の円環(extrapolator’s circle)に陥ることなく、これらの仮定がどのように実践で保証されるかについての説得力のある物語を提供していない。

価値の問題と証拠の中立性

EBPが直面するもう一つの重要な課題は、価値関連的課題だ。EBPの中心的な方法論的信条は、何が政策問題として考慮されるべきか、どのような政策オプションが実施されるべきかに関する偏りを導入(むしろ軽減)する可能性がある。

RCTという道具の選択は、政策に関する特定の質問を優先し、他の質問を排除することになる。例えば、大規模な介入(税制改革、インフラプロジェクト、貿易政策など)にはRCTを適用することはできないので、RCTを支持することで、巨視的な政策問題より小規模な政策問題が優先されることになる。

また、RCTは平均処置効果(ATE)しか測定できず、それを構成する個人レベルの効果やその分布について推論することはできない。これは、分配問題(人口の中で最悪の状況にある個人を優先するなど)に関心のある政策立案者を不利な立場に置く。政策が望ましい分配効果を持っているかどうかを明らかにするためには、既存の質基準に適合する証拠だけでは十分に情報がない。

これらの問題により、証拠は政策決定における中立的な仲裁者としての役割を果たすことができるのかという疑問が生じる。理想的には、生産された証拠は広範な価値と目的の追求に等しく役立つべきだ。しかし、EBPの既存の方法論的信条はこれを不可能にしている可能性がある。

実験と証拠の哲学的意義

これらの章を読み進めると、経済学における実験と証拠の哲学的意義について考えさせられる。実験経済学は単に経済理論をテストするための道具ではなく、新たな現象を発見し、経済システムについての理解を深める手段でもある。また、フィールド実験は実験室と現実世界の間の橋渡しを提供し、政策の効果を評価するための重要なツールとなっている。

しかし、これらの方法論にはそれぞれ課題がある。実験経済学ではテスターとビルダーの伝統の間の緊張関係があり、フィールド実験では内的妥当性と外的妥当性のトレードオフがある。EBPでは、証拠の階層がもたらす方法論的・価値的な問題がある。

これらの課題は、経済学の哲学における重要な問いを投げかける。どのような種類の証拠が経済学的知識を構成するのか?理論と実験の関係は何か?経済学における因果関係とは何か?これらの問いに答えることは、経済学の方法論と実践の理解を深めるために重要だ。

実験経済学の歴史を振り返ると、初期の実験は主に理論のテストを目的としていた。しかし、時間の経過とともに、実験は新たな現象の発見と理解へと焦点を移してきた。フィールド実験の発展は、この傾向をさらに強め、実験室の外での経済的メカニズムの理解を可能にした。EBPの出現は、証拠に基づく医学の成功に触発されたものであり、政策決定における証拠の役割の重要性を強調している。

しかし、これらの発展には哲学的な緊張関係がある。実験経済学では、テスターの伝統は個人の選好や合理性に焦点を当て、ビルダーの伝統はシステムレベルの効率性に焦点を当てている。フィールド実験では、実験的制御と外的妥当性の間のトレードオフがある。EBPでは、証拠の質と政策目標の追求の間の緊張関係がある。

日本における実験経済学と証拠に基づく政策

これらの議論を日本の文脈に置いて考えてみると、いくつかの興味深い視点が浮かび上がる。日本では実験経済学の研究は行われているが、欧米と比較すると少ない印象がある。また、証拠に基づく政策についても、近年注目が高まっているものの、まだ十分に根付いているとは言えない状況だ。

日本の経済政策は伝統的にボトムアップよりもトップダウンのアプローチが強く、官僚や専門家の判断に基づいて決定されることが多かった。近年は証拠に基づく政策立案(EBPM:Evidence-Based Policy Making)の重要性が認識され始め、2017年には「統計改革推進会議」が設置され、EBPMの推進が掲げられた。

しかし、日本におけるEBPMには独自の課題がある。まず、政策評価のためのデータ収集と分析のインフラが十分に整備されていない。次に、政策決定過程における証拠の役割が限定的である。政策は政治的考慮や既存の制度的枠組みに基づいて決定されることが多く、証拠は事後的な正当化のために使用されることがある。

また、日本では大規模なランダム化比較試験(RCT)の実施が倫理的・文化的理由から難しいことが多い。平等主義的な価値観が強く、一部の人々だけが政策の恩恵を受けるRCTのデザインは抵抗を受けることがある。このため、自然実験や準実験的方法がより適している場合が多い。

これらの制約にもかかわらず、日本ではいくつかの分野でEBPMの取り組みが進んでいる。例えば、医療政策では費用対効果分析が導入され、教育政策では学力調査の結果に基づく政策介入が行われている。また、労働市場政策や社会保障政策においても、証拠に基づくアプローチが徐々に取り入れられている。

日本でEBPMをさらに推進するためには、データ収集と分析のインフラを強化し、政策評価の文化を育成する必要がある。また、RCTに代わる準実験的方法や質的研究との組み合わせなど、日本の文脈に適したアプローチを開発することも重要だ。

結論:実験と証拠の未来

これらの章を通じて、経済学における実験と証拠の複雑な関係を探ってきた。実験経済学、フィールド実験、証拠に基づく政策はそれぞれ独自の課題を抱えているが、経済学的知識の発展と政策決定の改善に重要な貢献をしている。

特に重要なのは、これらの方法論がどのように相互に関連し、補完し合うかということだ。実験経済学は基礎的な経済的メカニズムの理解を提供し、フィールド実験はこれらのメカニズムが実世界でどのように機能するかを調査する。EBPはこれらの知見を政策決定に統合するためのフレームワークを提供する。

しかし、各アプローチの限界を認識し、それらを克服するための方法を開発する必要がある。実験経済学では、テスターとビルダーの伝統を橋渡しし、個人レベルとシステムレベルの特性の関連を探ることが重要だ。フィールド実験では、内的妥当性と外的妥当性のバランスをとり、質的研究との統合を通じて「フィールド」を回復することが必要だ。EBPでは、証拠の階層を柔軟化し、多様な証拠源を認め、外挿のためのより洗練されたアプローチを開発することが求められる。

これらの課題に対処することで、経済学はより堅牢で有用な知識を生み出し、より効果的な政策決定に貢献することができるだろう。実験と証拠の哲学は、この進展において重要な役割を果たし続けるだろう。

人間性、社会性、倫理的考慮、文化的文脈、価値観—これらはすべて経済学的実験と証拠の解釈に関わる要素であり、数字だけでは捉えきれないものだ。最終的には、経済学における実験と証拠の最大の貢献は、単に「何が効果的か」を教えてくれることではなく、私たちが経済現象と人間行動についてより深く考え、より良い質問を投げかけることを可能にすることかもしれない

パート7の要約

第28章 経済理論と実証科学(Economic Theory and Empirical Science)

経済学は「実証的転換」を遂げつつあるが、依然として正統派理論への過剰投資が見られる。経済学の経験的成功を詳細に分析すると、理論は世界の因果構造を直接解明するというよりも、発見的(ヒューリスティック)な役割を果たすに過ぎない。これにより二つの教訓が導かれる:第一に、理論は経験的フィードバックと密接に連携して発展すべきであり、第二に、理論が正統である特別な理由はない。経済学における「理論」の役割は批判的に再評価される必要がある。(187字)

第29章 計量経済学の哲学(Philosophy of Econometrics)

計量経済学は経済現象を観測データから体系的に研究する分野だが、その方法論的評価は芳しくない。現代統計学のモデルベースアプローチと異なり、計量経済学は理論主導の曲線適合に留まっている。統計的妥当性の検証不足や確率的前提の無視が信頼性の低い推論を生む。統計モデルと実質モデルを区別し、データの偶然性規則性を適切に説明する統計的妥当性を確保することが、信頼できる経済的証拠を得るための前提条件である。(194字)

第30章 経済学における統計的有意性検定(Statistical Significance Testing in Economics)

統計的有意性検定は経済学における共通ツールだが論争も多い。ティンバーゲンとケインズの論争に始まり、エドワード・リーマーの「計量経済学からのCon(詐欺)を排除する」等の批判を経てきた。マクロスキーとジライクは統計的有意性と経済的有意性(効果の大きさ)の混同を批判。心理学同様、出版バイアスやp値ハッキングの懸念が高まるなか、改革は遅々として進まない。批判は続くが実際の変化は限定的である。(196字)

第31章 健康の定量化(Quantifying Health)

健康状態の評価と比較は医療リソース配分の根本問題である。健康状態を質と生存期間の積(質調整生存年:QALY)として定量化する現行手法では、EQ-5DやHUI(3)などの分類体系で健康状態を定義し、選好調査から「質の重み」を算出する。しかし、この手法には①選好が生活の質だけに依存しない、②状況によって健康状態の価値が異なる、③調査の有効性が疑わしいなど多くの問題がある。健康の定量化は極めて不安定な営みである。(196字)

「哲学と経済学」についてのAI考察

by Claude 3

経済学における哲学的考察の重要性

まず、この文書は「The Routledge Handbook of Philosophy of Economics」という経済哲学のハンドブックについての情報を含んでいる。表題から、これは経済学と哲学の交差点に関する重要な参考資料であることがわかる。第28章「経済理論と経験科学」、第29章「計量経済学の哲学」、第30章「経済学における統計的有意性検定」、第31章「健康の定量化」という章が収録されているようだ。

これらの章は、経済学の方法論的・哲学的側面に焦点を当てている。特に興味深いのは、経済学における理論モデルの役割、実証的検証の方法、統計的手法の適用、そして健康という非常に複雑な概念の定量化という問題だ。こうした問題は純粋に技術的な問題ではなく、深い哲学的問いを含んでいる。

第28章を見ると、ロバート・ノースコット(Robert Northcott)が経済理論と実証科学の関係について論じている。彼の主要な主張は、経済学が理論に過剰投資していて、その理論はしばしば実証的成功をもたらさないというものだ。これは重要な指摘だ。私たち一般の市民が経済学者や経済評論家の発言を聞くとき、彼らの主張が実証的な証拠に基づいているのか、それとも理論的な前提に基づいているのかを区別することは難しい。

ノースコットは、経済理論が世界の因果構造を直接照らし出すことはなく、ヒューリスティック(発見的)な価値があるだけだと主張している。これは驚くべき指摘だ。なぜなら、多くの場合、経済理論は自然法則のように扱われ、政策決定の基礎として使用されているからだ。

経済理論の実証的成功と限界

ノースコットは経済理論の実証的記録について述べており、例えば18ヶ月先のGDP予測について「ナイーブなベンチマーク(現在のGDP成長率をそのまま外挿する方法)」に勝てないと指摘している。60回の景気後退のうち、事前に予測できたのはわずか3回だけで、50年間改善が見られないという。

これは驚くべき事実だ。経済予測の不正確さは一般的に知られているが、その程度がこれほど極端であるとは思わなかった。日本でも、政府や日銀の経済見通しが外れることは頻繁にあるが、それが統計的に無意味なレベルであるとすれば、なぜ私たちはそうした予測を重視するのだろうか?

ただし、ノースコットも経済理論にはある種の成功があることを認めている。短期的なGDP予測(6~9ヶ月先)はナイーブなベンチマークより優れており、企業は日常的に経済モデルを使用して需要予測を行っている。また、スポーツの決勝戦でチケットの闇市場価格が上昇するといった初歩的な教科書の例も日常的に観察される。

ノースコットは米国の電波オークション(1994-1996年)を詳細な事例として取り上げている。このオークションは大成功を収め、数千のライセンスを割り当て、政府と業界の予想を上回る200億ドルを調達した。しかし、ゲーム理論から直接導かれた設計ではなく、理論は初期のアイデアや概念を提供しただけだった。最終的な成功は、実験や現場固有の知識、政治的・経済的状況への敏感な対応によるものだった。

経済理論の役割再考

ノースコットの議論から浮かび上がるのは、経済理論の役割に関する根本的な再考の必要性だ。彼によれば、理論は直接因果関係を明らかにするのではなく、ヒューリスティックな価値があるだけだ。これは私たち一般市民が経済学者の言説を解釈する際に重要な視点を提供する。

例えば、「自由市場が最適な資源配分をもたらす」という主張は、理論的には説得力があるかもしれないが、実際の市場の複雑さを考慮すると、そのまま政策に適用できるわけではない。理論はあくまで現実を理解するための手段であり、それ自体が目的ではないことを認識すべきだ。

ノースコットはまた、経済理論が実証結果と密接に連携して開発されるべきであり、正統派の理論に固執する特別な理由はないと主張している。これは経済学の教育や研究のあり方に大きな影響を与える主張だ。

計量経済学の哲学的基盤

第29章では、アリス・スパノス(Aris Spanos)が計量経済学の哲学について論じている。彼はアインシュタインの言葉を引用して、方法論、歴史、科学の哲学的背景の重要性を強調している。彼によれば、こうした視点がなければ「木を見て森を見ず」になってしまう。

計量経済学の目的は、データを用いて経済現象を体系的に研究することだ。その成功は、暫定的な実質的推測を経済現象に関する信頼できる知識に変換する能力によって評価されるべきだ。

しかし、スパノスは現在の計量経済学の方法論は「不吉な失敗」だと厳しく評価している。これはかなり強い主張だ。なぜなら、計量経済学は現代経済学の中心的な方法論の一つであり、政策決定の基礎として広く使用されているからだ。

スパノスの批判の核心は、計量経済学者が統計モデルの確率的仮定の有効性をテストすることをほとんど重視せず、モデルの適合度に基づいて評価する傾向があるという点だ。これは科学的方法論として深刻な欠陥があるという指摘だ。

統計的帰納と確率モデル

スパノスはフィッシャー(R.A. Fisher)の統計学の再構築に触れ、データを確率過程の典型的な実現として見る視点の重要性を強調している。彼はピアース(Charles Sanders Peirce)のアブダクション(仮説形成)の概念と関連付け、データの偶然の規則性パターンを検出し、それを説明する確率的仮定を提案することの重要性を指摘している。

これは統計的推論の本質に関わる重要な指摘だ。多くの場合、統計分析は単なる数値計算のように扱われるが、実際には深い科学哲学の問題を含んでいる。データから何を学ぶことができるのか、どのようにして仮説を形成し検証するのか、という問いは純粋に技術的な問題ではない。

スパノスは、統計モデルの仮定が有効かどうかを検証することが重要だと強調している。この点は、私たち一般市民が統計的主張を評価する際にも重要だ。例えば、「政策Xが経済成長率を上昇させた」という主張を聞いたとき、その背後にある統計モデルの仮定が現実に即しているかどうかを考慮する必要がある。

経済学における有意性検定の論争

第30章では、ウィリアム・ペデン(William Peden)とヤン・スプレンガー(Jan Sprenger)が経済学における統計的有意性検定について論じている。有意性検定は、特にティンバーゲン論争(1930年代)以来、経済学において議論の的となってきた。

ケインズ(John Maynard Keynes)はティンバーゲンの計量経済学的な研究に対して厳しく批判し、その結果は「おそらく価値がない」と述べた。ケインズの主な批判は、ティンバーゲンの研究が(1)因果的に関連する要因の完全な知識、(2)これらの要因が測定可能で相互に独立していること、(3)関係が線形であること、(4)関連する時間的遅れとトレンドを知っていることという要件を満たしていないというものだった。

これらの条件は経済学ではほとんど満たされないとケインズは考え、計量経済学者による有意性検定の役割をほとんど認めなかった。これは経済学における統計的方法の限界に関する根本的な問いを提起している。

ティンバーゲンとケインズの間には、統計的検定の潜在的機能についての認識論的な不一致があった。ケインズにとって、その唯一の可能な役割は、理論的分析によってすでに発展した因果的枠組みの中で要因の強さを特定することだった。一方、ティンバーゲンにとって、統計的検定は理論的分析にも情報を提供し得るものだった。

この対立は、経済学における理論と実証の関係に関する根本的な問いを提起している。理論が先か、データが先か?この問いは現代の経済学でも依然として重要だ。

経済学における統計的有意性と効果量

ディアドラ・マクロスキー(Deirdre McCloskey)とスティーブン・ジリアック(Stephen Ziliak)(ZMC)による統計的有意性検定の批判は特に注目に値する。彼らは、効果量(effect size)と統計的有意性の混同を批判している。

彼らの有名な例は、ダイエット薬AとBの比較だ。薬Aは平均10ポンドの減量効果があり、平均変動は5ポンド。薬Bは平均3ポンドの減量効果で、平均変動は1ポンド。どちらがより顕著な減量をもたらすか?直感的には薬Aだが、統計的有意性の観点では、薬Bの方が「より有意」な結果となる。

ここには重要な矛盾がある。統計的有意性は「背景ノイズに対する信号の強さの尺度」だが、経済学者や政策立案者が主に関心を持つのは効果量だ。ZMCはこれを「政策的インパクト」と呼び、統計的有意性よりも実質的に意味のある効果量に焦点を当てるべきだと主張している。

この批判は、経済学の実証研究の解釈に根本的な疑問を投げかける。統計的に有意であっても、実質的に小さく興味のない効果かもしれないし、統計的に有意でなくても、大きく注目に値する効果かもしれない。この区別は、経済政策の評価において特に重要だ。

ZMCは「American Economic Review」という一流経済学誌の研究論文を精査し、経済的有意性と統計的有意性を明示的に区別していない論文が70%、効果量を科学的文脈に関連付けていない論文が72%、係数の大きさではなく符号だけに言及する「符号計量経済学」に従事している論文が53%あることを発見した。しかも、時間の経過とともに改善は見られないという。

科学としての経済学の信頼性

近年、科学的知見に対する不信感が高まっている。出版バイアスや再現性の欠如が大きな問題だ。経済学でも、実験経済学の系統的な再現プロジェクトにより、再現率が期待外れに低いことが明らかになっている。

問題は、統計的有意性検定が有意でない知見(方法論的に健全であっても)の価値を低下させるだけでなく、研究者が疑わしい研究方法(結果の選択的報告、共変量の追加、外れ値の排除など)を使用して有意な(そして出版可能な)知見を得ようとすることだ。

特に経済学では、ブロデュア(Brodeur)らが、p値の分布に二つのピークがあることを発見した。これは、微妙に有意なp値を統計的有意性に向けて、あるいは明らかな非有意性に向けて「操作」しようとする研究者の存在を示唆している。

これは科学としての経済学の信頼性に深刻な疑問を投げかける。経済政策が科学的証拠に基づいているという主張は、こうした慣行が広がっていれば疑わしいものになる。

健康の定量化と価値判断

第31章では、ダニエル・M・ハウスマン(Daniel M. Hausman)が健康の定量化について論じている。彼は、政府の保健省が限られた予算で人口健康を最大化するという目標を持つと仮定している。

この課題の複雑さは、健康状態の異質性にある。健康は寿命や移動性など一つの価値だけに影響するわけではない。身体障害、痛み、認知的制限、感情など、様々な次元で健康状態は異なる。一つの数値(スカラー)をどのように各健康状態に割り当て、それが個人間で比較可能で、全体的な人口健康に関する主張を可能にするようにできるだろうか?

ハウスマンは、健康は文字通り測定できないと主張している。「健康状態Aは健康状態Bより健康である」という関係は大規模に不完全であり、適切に定義されていない。健康の単位を数えることはできないし、健康の重さを量ることもできない。

経済学者が健康状態に割り当てた数値は、健康自体の量や大きさを測定するものではなく、健康の価値を測定するものだ。「健康尺度」と呼ばれるものは実際には健康の価値の尺度であり、健康自体の量や大きさの尺度ではない。

この点は極めて重要だ。健康政策を評価する際、私たちは健康状態の「客観的」な測定に基づいていると思いがちだが、実際にはすでに価値判断が組み込まれている。例えば、QALYs(質調整生存年)は健康状態の「質の重み」に時間を掛けたものだが、この「質の重み」は価値判断に基づいている。

ハウスマンは、健康経済学者が健康状態に価値を割り当てる方法として、人々の健康状態に関する選好を引き出すことを批判している。彼は8つの問題点を指摘し、特に調査回答者が健康状態に関する十分な情報を持たないこと、質問が難しすぎること、質問が明確に定義されていないことなどを挙げている。

健康経済学者は、健康状態に価値を割り当てるという極めて困難な問いに答えるために、同じ質問を知識の少ない一般の人々に尋ね、その回答はほとんど真剣な熟考を反映していない。健康が全面的に世論や個人の感情の問題であれば、何が良いか悪いかという質問は、映画スターの人気を尋ねるのと同じように、投票によって答えることができる。しかし、情報の乏しい回答者の意見を平均化して指標を割り当てることは正当化するのが難しい。

この批判は健康経済学の基礎を揺るがすものだ。健康政策がQALYsのような指標に基づいているなら、その指標自体の信頼性が疑問視されるべきだ。

経済学の方法論的改革の必要性

これらの章から浮かび上がるのは、経済学における深い方法論的問題だ。ノースコットは経済理論の実証的成功の欠如を批判し、スパノスは計量経済学の方法論的欠陥を指摘し、ペデンとスプレンガーは統計的有意性検定の誤用を論じ、ハウスマンは健康の定量化における価値判断の問題を取り上げている。

これらの批判に共通するのは、経済学が使用している方法が、その目的である経済現象の理解と政策への情報提供に適していないという懸念だ。方法論的改革が必要だという認識は共有されているが、どのような方向に改革すべきかについては意見が分かれている。

考えられる改革の方向性としては、(1)統計的改革(信頼区間やベイズモデルの使用など)、(2)方法論的改革(実験やデータ分析計画の事前登録など)、(3)社会的改革(確認的研究や有意でない知見を生み出す科学者に報いる制度の変革など)がある。

これらの議論は、私たち一般市民が経済学や健康政策の議論をどう解釈すべきかに重要な示唆を与える。経済学者や政策立案者の主張を評価する際、その背後にある方法論の限界を認識する必要がある。特に、統計的有意性だけでなく効果量や実質的意義を考慮すること、モデルの仮定の妥当性を問うこと、価値判断の役割を認識することが重要だ。

経済学が科学として発展するためには、理論と実証のより密接な連携、仮定の妥当性の徹底的なテスト、効果量の重視、価値判断の明示化などが必要だ。これは経済学者だけでなく、経済学を利用する政策立案者や一般市民にも関わる課題だ。

最終的には、経済学の目的は何かという根本的な問いに立ち戻る必要がある。それは単に理論的に洗練された模型を構築することではなく、複雑な経済現象を理解し、より良い政策決定に貢献することだ。その目的に照らして、現在の方法論が適切かどうかを常に問い直す姿勢が重要である。

パート8 要約

第32章 自由、政治経済学、そして自由主義(Freedoms, Political Economy, and Liberalism)

政治経済学は自由主義に対して単純な解釈に基づいているが、今日の自由主義が直面する課題に対して、この最小限の解釈では不十分である。本章では、個人の動機と自律性の自由に焦点を当てることで分析を深める必要性を論じる。経済的繁栄による価値観の変化は、制度から個人の価値観へと重点を移したが、反多元主義や不平等感の高まりが自由主義を脅かしている。自由主義を守るためには、自律性の自由と不平等の認識を含む分析が必要だ。(199字)

第33章 自由と市場(Freedom and Markets)

市場に関する議論では、自由の概念が支持にも批判にも用いられるが、異なる概念に基づいているため評価が難しい。本章ではマッカラムの一般的自由概念を用い、「誰が(X)」「何から自由か(Y)」「何をするため(Z)」という3つのパラメータで分析する。これにより、市場が自由を促進したり制限したりする状況を評価できる。再分配政策が自由に与える影響も検討し、所得格差が民主的自由や取引の自発性を損なう場合には、再分配が自由の名のもとに正当化されうると論じる。(200字)

第34章 深刻な不確実性下での政策評価:慎重で平等主義的なアプローチ(Policy Evaluation Under Severe Uncertainty: A Cautious, Egalitarian Approach)

気候変動や新型パンデミックなど、正確な確率を割り当てられない「不確実性」下での政策決定について検討する。著者は、期待値の範囲に対して「慎重」なアプローチを取ることが許容されると主張し、平等主義的価値観と組み合わせた「慎重な平等主義」を提案する。このアプローチは、不確実性がもたらす負担の不平等に対処し、潜在的に最悪の結果を避ける政策を支持する。また、集団的不運に対する安全網政策の重要性を強調し、不確実性が最も不運な人々への配慮を強める理由となると結論づける。(200字)

第35章 行動公共政策:一つの名前、多くのタイプ。メカニズム的視点(Behavioral Public Policy: One Name, Many Types. A Mechanistic Perspective)

行動公共政策(BPP)は単一の種類として扱われがちだが、実際には多様である。本章は、BPPをメカニズムに基づいて「ナッジ」と「ブースト」に区別することを提案する。ナッジは選択環境を変更して認知的・動機的欠陥を利用するのに対し、ブーストは能力開発を通じて行動変容を促す。両者は効果や倫理的評価において異なる状況依存性を示すため、区別が重要である。この分類により、BPPの効果と倫理的許容性を体系的に評価し、新たな文脈への外挿問題に対処できる。(197字)

第36章 租税競争規制の論拠(The Case for Regulating Tax Competition)

租税競争は、国家が資本を引き寄せるために税制を戦略的に設定する現象である。本章は、民主的自己決定、分配的正義、経済的効率の観点から租税競争規制の必要性を論じる。第一に、租税競争は税率低下圧力により政治共同体の財政自律性を損なう。第二に、資本課税の低下と逆進的税制により不平等を悪化させる。第三に、税源の弾力性を高め、最適課税政策を阻害する。ポーチング(資本流出)とルアリング(投資誘致)の区別に基づく多国間規制が求められる。(200字)

『税競争の規制化』についてのAI考察

by Claude 3

税競争の実態と規制の必要性

この論文は税競争という現象について詳しく考察し、その規制の必要性を訴えるものだ。まず、税競争とは何か、それがどのように機能しているのかを理解する必要がある。

著者によれば、税競争は「独立した政府が非協力的、戦略的な方法で対話的に税制を設定すること」とされている。要するに、各国が互いに競い合って税率を下げることで、他国から資本を引き寄せようとする現象だ。保守的な見積もりによると、世界の富の約8%、約5.9兆ドルがタックスヘイブンに保有されているという。この現象がもたらす影響は深刻だ。

税競争は基本的に3つのタイプに分けられる:
1. 個人のポートフォリオ資本に対する競争(税逃れを可能にする)
2. 多国籍企業のペーパー利益に対する競争(税回避を可能にする)
3. 外国直接投資(FDI)に対する競争

最初の2つは「密猟(poaching)」と呼ばれ、実際の経済活動や居住地の変更なしに、税収を他国から奪うものだ。3つ目は「誘致(luring)」と呼ばれ、実際の経済活動の場所を変更させるものだ。

これを読んで、私はすぐに日本の状況を考えた。確かに日本企業の海外移転は、単に人件費の問題だけでなく、法人税率の違いも関係しているかもしれない。そして、富裕層が資産を海外のタックスヘイブンに移すことも聞いたことがある。しかし、税競争がこれほど組織的な問題だとは認識していなかった。

民主主義的自己決定の侵害

著者の第一の論点は、税競争が民主的な自己決定を損なうというものだ。これは非常に重要な指摘だと思う。

政治的自己決定は、人々が自分たちに影響を与える決定について発言権を持つことができるという理想だ。財政的自己決定には、公共予算の規模(GDP比の収入と支出のレベル)と相対的な便益と負担(再分配のレベル)に関する2つの基本的な選択が含まれる。

税競争は、資本に対する税率を下げるよう圧力をかけることで、国々をより累進的でない税構造へと押しやる。先進国は、資本への税率低下による収入減を、労働や消費などのより移動性の低い要素への税負担シフトによって補うことができた。しかし、これはより累進的でない税制度への移行を意味し、財政的自己決定の第二の要素(再分配のレベル)を犠牲にして最初の要素(公共予算の規模)を守ることになった。発展途上国は、このような適応能力が不足しているため、より累進的でないシステムに加えて収入の損失も経験している。

この議論は強力だ。実際に、各国の政府は自国民の民主的に表明された選好に基づいて税制を設計するべきだという考えは説得力がある。しかし、グローバル化と資本の移動性により、そのような自律性は侵食されている。日本でも同様の傾向が見られるのではないだろうか。消費税の増税が繰り返し行われる一方で、法人税率は引き下げられているという事実は、この論点を裏付けているように思える。

日本の法人税実効税率は1980年代には50%以上だったが、現在は約30%に下がっている。一方、消費税は導入時の3%から10%へと上昇した。これは明らかに累進性の低下を示している。

所得と富の不平等の悪化

著者の第二の論点は、税競争が所得と富の不平等を悪化させるというものだ。

税競争による累進性の低い税制への転換は、国内の所得と富の不平等を増加させる。発展途上国は、労働や消費を効果的に課税することがより困難であるため、歳入が少なくなり、教育、健康、または最貧困層への直接的な移転に費やすことができる資金が少なくなる。

さらに、税競争による不平等への影響は、所得と富への直接的な影響に限定されない。税競争によって歳入が減少する場合、国民間の機会均等を促進する国家の能力が低下する。また、歳入や支出への影響とは無関係に、税競争は雇用の分配に影響を与える。

私は著者のこの部分の分析に特に説得力を感じる。確かに、累進的な税制が弱まれば、所得と富の再分配機能も弱まる。その結果、富裕層はより多くの富を蓄え、低所得層は相対的により貧しくなる。

ただ、日本の場合を考えると、不平等の原因は税競争だけではなく、技術変化やグローバル化など他の要因もあるだろう。しかし、税競争がこの問題を悪化させていることは否定できない。

また、著者は3つの異なる正義の基準から税競争を評価している。最も要求度の低い基準でさえ、税競争が不正義をもたらすと結論づけている。これは非常に強力な主張だ。

経済的効率性の阻害

著者の第三の論点は、税競争が経済的効率性を阻害するというものだ。これは最も興味深い論点の一つだ。

通常、「効率性」という言葉を聞くと、私は「税率を下げることが効率的」という主張を想像する。しかし、著者は異なる見解を提示している。

著者は最適課税理論(OTT)に焦点を当て、税競争がこの理論の推奨事項に与える影響を分析している。OTTは、経済成長と公平性の間の効率的なバランスを見つけることを提案している。

税競争、特に最初の2種類(密猟)は、課税所得の弾力性を高める。個人が捕まる可能性がほとんどなく税務当局から富を隠すことができる場合、多国籍企業が法的に低税率の地域に利益を移すことができる場合、再分配政策の追求がもたらす行動反応の観点からより「コストが高い」ことは明らかだ。したがって、効率的な課税レベルは低くなる。

しかし、課税所得の弾力性は、原則として政府の管理下にある。したがって、OTT分析のパラメータとして扱うのではなく、政策変数として考えるべきだ。脱税や回避による課税所得の高い弾力性に対する最適な対応は、少なくともある程度まで、税率を下げるのではなく、税政策のより良い執行だ。

要するに、税競争が財政政策設計に与える影響は、現在の執行レベルを考えると局所的に最適な課税レベルと、執行が内生変数として扱われる場合のグローバルに最適な、より高い課税レベルとの間にくさびを打ち込むことだ。このクサビが「効率性」を損ねている。

この議論は私の当初の考えを覆した。確かに、より良い執行があれば、税率を下げずに済む可能性がある。しかし、個々の国にとって、税競争の文脈では税率を下げる方が「合理的」に見える。これが、税競争が「効率的」でない理由だ。

国際的な規制の必要性と課題

著者はこれらの点を総合し、税競争を規制することが「ノーブレーナー」、つまり自明の政策選択だと主張している。税競争は民主的でなく、不公正で、非効率的だからだ。

特に最初の2種類の税競争(密猟)に対しては、「メンバーシップ原則」の施行によって規制すべきだと提案している。このメンバーシップ原則とは、自然人と法人が居住する場所または経済活動を行う場所で税金を支払うことを求めるものだ。

3つ目の種類(誘致)については、より複雑な判断が必要だが、それが戦略的で成功する限り、これも規制すべきだという立場を著者は取っている。

しかし、実際にこのような規制を実現するには国際的な協力が必要だ。著者は国際税組織(ITO)がそのような規制を設計し執行するための有効なツールになると提案している。

私はこの提案に基本的に賛成だ。しかし、実現可能性には大きな疑問がある。特に小国は税競争から構造的に利益を得ているため、協力するインセンティブが少ない。また、大国も自国の多国籍企業が利益を得ている場合、積極的な改革を推進するかどうか疑わしい。

反論と慎重な考察

ここで少し立ち止まって、著者の議論に対する潜在的な反論を考えてみよう。

まず、税競争は「足による投票」の一形態と見なすことができるという主張がある。つまり、国家間の税競争は、彼らの税政策の効率性に関するフィードバックを提供するという考えだ。しかし、著者が示すように、このようなフィードバックは「効率性」を促進しない可能性がある。むしろ、各国が「最適」な税構造よりも累進性の低い政策を追求するという「悪循環」を生み出す可能性がある。

次に、発展途上国が先進国に「追いつく」手段として税競争を利用すべきだという主張がある。著者もこの点について言及しており、特定の状況下では、いくつかの形態の税競争が許容される可能性があることを認めている。しかし、これらは例外的なケースであり、一般的なルールではない。

また、税競争の規制が「大国の利益」を守るだけだという批判も考えられる。しかし、著者の分析によれば、現在の無規制の税競争が最も損なうのは発展途上国の利益だ。彼らは税収を確保するための代替手段が少ないからだ。

現実の政治的文脈を考えると、規制の実現には大きな障壁が存在するが、この問題が民主主義、公正さ、効率性といった複数の社会的価値に与える負の影響を理解することが、変革の第一歩となる。

日本への示唆

最後に、この分析の日本への示唆を考えてみよう。

日本は法人税率を徐々に引き下げてきた。これは他国との税競争に対応するためだと説明されている。同時に、消費税率は上昇してきた。この論文の分析に従えば、これはまさに税競争がもたらす累進性の低下の典型例と言える。

また、日本企業の海外流出や、富裕層による海外資産隠しなどの問題も、この論文の文脈で理解することができる。

日本は大国であり、小国と比較して税競争の構造的な不利益を被りやすい立場にある。したがって、理論的には日本は税競争の規制に積極的になるはずだ。実際、日本は国際的な税制改革の取り組みに参加している。しかし、同時に日本企業の国際競争力への懸念から、過度に厳しい規制には慎重な姿勢も見られる。

結論:複合的アプローチの必要性

この論文を通じて、税競争が複雑な現象であり、それを規制するためには多面的なアプローチが必要だということが明らかになった。

著者は、特に密猟形態の税競争に対して強い規制を主張しており、誘致形態についてもある程度の規制を提案している。また、規制の形式としては国際的な税の協力が不可欠だとしている。

私はこの分析に説得力を感じる。税競争は確かに民主的な自己決定、分配的正義、経済的効率性という複数の社会的価値を損なっている。特に、それが各国の税構造を累進性の低いものに押しやり、不平等を悪化させている点は懸念すべきだ。

一方で、規制の実現には大きな政治的障壁がある。特に、税競争から利益を得ている国々を説得するのは難しい。しかし、著者が指摘するように、税競争の有害な影響への理解が広まれば、変革の可能性も高まるだろう。

最終的に、この問題は単なる技術的な税制の問題ではなく、民主主義の質、社会的公正、そして経済の健全性に関わる根本的な問題だと言える。国際社会が協力して取り組むべき重要な課題である。

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