〈私〉という残余 ――独在性から粗視化の普遍構造へ

Alzhacker・その他シミュレーション仮説、現実、独我論自己位置付け問題・独我論

サイトのご利用には利用規約への同意が必要です

はじめに あまりに当たり前で見えなくなる事実

世界には、当たり前すぎて普段は意識にのぼらない事実がある。何十億もの人間のうち、その一つが「私」である、という事実だ。

注意してほしいのは、これが「誰でも自分を私と呼ぶ」という平凡な話ではない点である。誰もが自分を指して「私」と言う。これは交換可能な、一般的な言葉づかいにすぎない。哲学者の永井均(ながいひとし、1951年生)が問題にするのは、そこではない。多数の「私と言える者たち」のうち、なぜか「この一つ」だけが、内側から世界が現に開けている当の存在として在る、という剥き出しの事実である。経験が現に与えられている唯一の中心。永井はこれを通常の「私」と区別して、山括弧つきの〈私〉と書く。

本稿は、この〈私〉という出発点から、意識の謎、確率的推論、そして物理学や生物学の深部にまで及ぶ一本の論理の糸をたどる。結論を先取りすれば、〈私〉の不思議さは哲学だけの孤立した奇蹟ではなく、世界のあらゆる階層に現れる、ある普遍的な構造の一事例だと見なせる可能性がある。

〈私〉と「無内包の現実性」

永井の鍵概念は「無内包(むないほう)の現実性」である。耳慣れない言葉だが、骨格は単純だ。

「内包」とは、ものの内容、それが何であるか、どんな性質を持つかの規定を指す。赤さ、痛さ、形、機能――これらはすべて内容であり、語ったり比較したり他人に帰属したりできる。これに対して「無内包」とは、そうした内容を一切持たないということである。

ここで決定的なのは、〈私〉の特異性が質的な内容の差ではない点だ。仮に自分と分子レベルまで完全に同一の複製がいても、その複製は〈私〉ではない。両者を分ける違いは、いかなる記述にも現れない。あるのとないのとで一切を分けるのに、内容としてはまったく区別できない。この奇妙な性質が無内包の現実性である。

永井はさらに、この同じ構造が三つの場所に現れることを指摘した。多数の人間のうち「この一つ」が私であること(人称)。多数の時点のうち「この一つ」が現に到来している現在であること(時制)。多数の可能世界のうち「この一つ」が現実であること(様相)。〈私〉と〈今〉と〈現実〉は、同じ「中心化」の構造を、人称・時制・様相という三つの次元で繰り返したものなのだ。

そしてこの剥き出しの現実性には、二つの逆説がつきまとう。

第一に、それは語れない。言葉にしようとした瞬間、〈私〉は誰もが使える一般的な「私」へと転落する。たとえばこの文に書かれた〈私〉は、書き手ではなく、いま読んでいる者を指してしまう。捕まえようとするたびに当のものは一段退き、さらに上位の括弧が要る。永井はこの終わらない後退を「累進」と呼ぶ。自分の指で自分の指差しを指そうとするようなもので、追えば追うほど逃げる。

第二に、それは「実在しない」。永井の語彙では、何かが実在するとは、世界の客観的・記述可能な構造のなかに、差異として登場できることを意味する。ところが無内包の現実性は、世界の内容に何の違いももたらさない。世界の完全な記述を一冊の本に書き尽くしたとして、「そしてこれら多数の人物のうち、この一人こそが現に生きられている当の私である」という一行を加えても、本にはいかなる情報も足されない。本はすでに完全だったのだから。だから〈私〉のむきだし性は世界に「無関与」であり、その意味で実在しない。永井が「中心性と現実性の分離」と呼ぶのは、世界の開けの中心であることと、それが現に現実であることとが別個の成分に腑分けされ、後者が世界の実在には無関与なものとして取り残される事態である。

最も確実なはずの〈私〉が、世界の側から見れば何も寄与しない、本当には在らないものへと反転する。この裂け目に、永井の後期思想全体が宿っている。

クオリアの問題はどこに収まるか

ここで意識の問題が関わってくる。物理的な脳の過程に、なぜ「赤の赤さ」や「痛みの痛さ」といった主観的な感じが伴うのか。この「感じ」をクオリアと呼び、その謎はしばしば意識のハードプロブレムと言われる。

永井の立場は際立って独特だ。彼に言わせれば、クオリアの問題は最も深い謎ではなく、むしろ独在性の謎を取り違えて貼り付けたものである。

著書『なぜ意識は実在しないのか』(2007年)の主張は、おおよそこうだ。クオリアを内容として見るかぎり、それは語れるし、比較できるし、他人にも帰属できる。赤さや痛さといった質は、それ自体としては記述可能な内容を持っている。永井の語彙では、これは「第0次内包」という、なお内容を持つ層に属する。したがってこの面の意識は、物理世界の外にある特別な存在者を構成しはしない。本当に還元できず残るのは、質的な内容のほうではなく、その内容を担う多数の中心のうち、この一つだけが現に生きられているという、あの無内包の現実性のほうである。

永井が最も強調するのは、質としての痛み(第0次内包)と、その痛みが現に生きられているという剥き出しの現実性(無内包)を混同してはならない、という点だ。クオリアの問題が底なしに見えるのは、この二つを取り違え、内容を持つ感じのほうに、本来は剥き出しの現実性に属する戦慄を投影してしまうからだ、というのである。

この見方は、定番の思考実験を組み替える。哲学的ゾンビ、すなわち物理的にそっくりなのに感じを欠く存在を考えるとき、本当に捉えがたい差は、クオリアの有無ではない。あらゆる内容(クオリアを含む)において完全に同一でありながら、それが現に生きられているという剥き出しの現実だけを欠く――その差こそが、内容に違いをもたらさないのに一切を分ける無内包の現実性である。

論理を裏返すと、思いがけない帰結が出る。現実性とクオリアが別の層であるなら、現に生きられているのに感じが何も伴わない、という事態もまた可能になる。現実性は無内包であって、それ自身の質を持たない。だから感じられるものが一切なくとも、なお現に生きられているということはありうる。瞑想伝統の言う「澄んだ気づき」も、それが何らかの手触りを持つかぎり、なお質の側に属する。無内包の現実性は、空虚の感じですらない。感じの手前の、剥き出しの「現にそうである」である。

二つの「なぜ」を分ける

ここで議論の分水嶺に来る。〈私〉について問えることには、似て非なる二種類がある。

一つは、「なぜ他ならぬこの一つが当のものか」という問いだ。これには内容による答えがない。いかなる答えも一般的な内容でしかありえないのに、問われているのは内容なき剥き出しのものだからである。これは原理的に語りえない、核の問いである。

もう一つは、「なぜ、現実性や中心化という構造がそもそもこの形をしているのか」という問いだ。こちらは性格がまるで違う。なぜなら構造は語れるからである。現に永井自身が、三領域の同型性や累進の仕組みを論じている。語れるものは内容を持ち、内容を持つものは説明という関係の項になりうる。

この区別が重要なのは、二つを取り違えると、核の語りえなさを構造の問いにまで不当に延長してしまうからだ。剥き出しの核に届かないことと、構造を一切照らせないことは、別である。「完全な答えが得られない」ことは「いかなる答えも得られない」ことを意味しない。物理法則でさえ究極の根拠づけは得られないが、私たちはそれを「ただそうなっているだけ」とは扱わず、部分的な照明を追求する。同じことが、現実性の構造についても言える。核には触れないまま、構造の形については実質的なことが語れるのだ。

構造を照らす理論たち

では、核に触れずに構造を照らす理論とは、どんなものか。三つ挙げられる。

第一に、〈私〉・〈今〉・〈現実〉の同型性は、指標詞の理論によって照らされる。指標詞とは「私」「今」「ここ」「現実に」のように、誰が・いつ・どこで使うかによって指す対象が変わる言葉のことだ。カプラン(David Kaplan)の理論は、文脈を発話者・時刻・場所・世界という座標の組として構成する。永井の三つ組は、そのまま発話者・時刻・世界に対応する。三つが同型に振る舞うのは、各々が一つの次元における「占められた中心の値」だからだ。ルイス(David Lewis)の「中心化された世界」――地図の「現在地」の点に相当する、世界に指定された個体と時刻――や、ペリー(John Perry)の「本質的指標詞」の議論は、この中心化が第三者的な記述に還元できないことを示す。永井が直観的に語った同型性が、ここでは形式的な帰結として説明される。

第二に、そもそもなぜ世界が「点から」開けているのか、なぜ視点や時制という形が生じるのかは、物理学と認知科学が照らす。相対性理論は特権的な「今」を物理から追放し、世界を無時制のブロックとして描く。それでも経験は時制化されている。この落差自体が問いを立てる。時間の矢、すなわち過去と未来の非対称は、エントロピー(乱雑さ)が増大するという熱力学的な事実に根ざす。脳が世界を、自分を原点に据えた自己中心的なモデルとして構築するのは、身体を持つ行為者が、ある場所・ある時刻から行為せざるをえないからだ。中心化という形は、行為が要求する表象の様式として説明される。

第三に、剥き出しが言葉になった瞬間に一般へ転落する累進は、言語が反復可能な型の体系であることから説明される。意味するとは反復可能な規則を使うことであり、反復可能な規則は、反復不可能な剥き出しの「これ」を内に含めない。ウィトゲンシュタインの私的言語論――内容が剥き出しの私的な「これ」であるような名は、記号として機能しえない、という議論――が、この機構の最も深い層を与える。

いずれの理論も、構造の形を厳密に照らし、まさにその精度によって、構造が決して含みえない一点、すなわち剥き出しの核を、輪郭の鋭い残余として浮かび上がらせる。照明と残余は対立せず、相補的なのである。

偶発か、選別か

ここから、核には届かないがそこから何かが得られるかもしれない、より大きな問いに進む。現実性が「この一つ」に着地することは、純然たる偶然なのか、それとも何らかの選別が働いた結果なのか。これは「なぜこの一つか」という核の問いとは別の、着地の様相をめぐる問いである。

この問いに正面から取り組むのが、観測選択理論、いわゆる人類原理の議論だ。ボストロム(Nick Bostrom)の整理(『Anthropic Bias』2002年)によれば、私たちは自分を観測者の集合からの無作為な標本とみなして推論する(自己標本仮定、SSA)。その精緻化として、標本の単位を観測者から「観測者の瞬間」へ移す立場(強い自己標本仮定、SSSA)や、自分が存在するという事実を観測者の多い世界の証拠とみなす立場(自己標示仮定、SIA)がある。

最も鋭い手がかりは「ボルツマン脳」と呼ばれる思考実験だ。もし混沌とした永続宇宙が産みうるすべての観測者瞬間からの無選別抽出なら、その大多数は偽の記憶を備えた束の間のゆらぎ(ボルツマン脳)であるはずだ。ところが現に在る瞬間は、法則的で整合的な世界に埋め込まれた持続的なものだ。だから着地は一様な偶然ではなく、無構造を排し構造的なものを優遇する選別が働いている――こう推察できる。

ただし、ここで自分の状況を見れば、偶発と選別が入り混じっているように見える。ボルツマン脳でない観測者である点は選別的だが、特定の個人であることは偶発的に見える。この混合には、はっきりした構造がある。

自己位置づけは、入れ子の条件づけの連鎖だと考えるとよい。観測者であること(無やゆらぎではなく)は強く選別的だ。整合的な世界に在ることも選別的だ。この時代に在ることは部分的に選別的。特定の社会的位置や特定の個人であることは、ほぼ純然たる偶発だ。層を昇れば選別が支配し、層を下れば偶発が支配し、その間に不確定な遷移帯がある。

ここで重要な区別がある。「選別」の名の下に、性質を異にする二つが束ねられている。一つは観測選択、すなわち観測者である事実によって強いられる絞り込みで、これは確率を現に変える。もう一つは、観測に強いられていない単なる特異性だ。「これほど特異な自分であるとは何と稀な」という感じの大半は、後者であり、特異性を選別と取り違える錯覚にすぎない。宝くじの当選者が「なぜ私が」と問うのと同じで、誰かは必ず当たり、いかなる結果も等しく稀なのだから、自分の特定性は何の選別的信号も担わない。どれだけ稀な性質を重ねても、「この型のこのトークンであるのはなぜか」という残余は、誰のそれとも寸分違わず残る。

なぜ勾配はそうなるのか

この勾配――上が選別重、下が偶発重――は、なぜ生じるのか。

それは、観測選択がどう作動するかから導かれる。観測選択とは本来、世界内で起こった「篩い分けの出来事」ではない。「自分は観測者だ」という証拠による確率の更新(条件づけ)である。ある性質が確率を動かす度合いは、その性質が観測者であることとどれだけ相関するかで決まる。

法則性や低エントロピーといった粗い性質は、観測者であるための前提であり、かつ全配置のなかで稀である。だから、これらへの条件づけは確率を巨大に動かす。一方、特定の遺伝子や特定の社会的位置は、宇宙が法則的かどうかに何の証拠ももたらさない。観測者であるという事実は、自分がどの特定の観測者かについてほとんど何も語らない。だから選別は掴む取っ手を持たず、残るのは観測に無関係な頻度の偶発だけになる。

要するに、選別は観測の高くつく前提を掴み、安価な差異を手放す。そして差異すら尽きる極限で、剥き出しの一点に行き着く。中間が不確定なのは、そこが二つの選別原理(SSAとSIA)が逆方向に引き合い、しかも「自分は何の集団の中で典型的なのか」という準拠集団の問いが宙づりになる、臨界の領域だからである。

同じ形が、いたるところにある

ここまで来ると、一つの大きな問いが立ち上がる。この勾配――粗い水準で必然的・共有的、細かい水準で偶発的、間に臨界帯、底に剥き出しの残余――は、いったい何を意味しているのか。

注目すべきは、この同じ形が、まったく異なる分野に何度も現れることだ。それは「粗視化(coarse-graining)」、すなわち多数の細かい状態を一つの粗い記述へ畳み込む操作のあるところに、数学的に必然的に現れる。

物理学のくりこみ群が一例だ。水が沸騰する臨界点と、磁石が磁性を失う臨界点は、ミクロの中身がまるで違うのに、同じ数学に従う(普遍性)。大きなスケールでは、ミクロの詳細は洗い流され、少数の本質的な量だけが効く。統計力学はこれを精密にする。一つの巨視状態(たとえば「シャッフルされたトランプ」)には、天文学的な数のミクロ状態(どの並びか)が両立する。エントロピーは、この隠れた数の対数を測る。現に実現している特定の並びは、いかなる巨視的観測量にも現れない。これは永井の「無関与」の物理的な実体化だ。ミクロ状態の同一性は、巨視物理に対して文字どおり無関与であり、それでも特定の一つではある。

生物学の集団遺伝学は、中間帯の不確定が実在の臨界現象であることを示す。ある遺伝子が選択で固定されるか、偶然(ドリフト)で消えるかは、集団サイズと選択の強さの積で決まる。積が大きければ選択が、小さければ偶然が支配し、ちょうど境目(ドリフト障壁)で両者が拮抗する。木村資生(きむらもとお)の中立説や太田朋子(おおたともこ)のほぼ中立説が描くこの境目は、あなたの「不確定な遷移帯」の進化版だ。生物学者グールド(Stephen Jay Gould)の言う「生命のテープを巻き戻す」偶発と、収斂進化の必然との対立も、その高層版である。

情報理論はさらに踏み込む。コルモゴロフ(Andrey Kolmogorov)の理論では、あらゆる対象の記述が、規則性を捉える短いモデル(圧縮できる意味ある部分)と、それ以上いかなる構造も担わない非圧縮の残余ビットとに分かれる。残余は、それより短い記述を持たない。すなわち内包を持たない。永井の無内包とは、このアルゴリズム的なランダムネスのことかもしれない。

そして偶発か選別かという問いに、物理が前例を与える。自発的対称性の破れだ。先端で立てた鉛筆は、必ずどこかの方向へ倒れる。だがその方向は物理法則のうちにない。法則は対称なまま、結果だけが非対称になる。これは選別者なき選別であり、確率分布を持つ偶然でもなく、法則的決定でもない、理由なき現実化である。独在性は、自己の自発的対称性の破れと見ることができる。現実の〈私〉とは、等しく可能な中心たちの対称な広がりのなかで、理由なく一方向へ破れて落ちた一点であり、その向きは対称な法則に対して無関与のまま残る。「完全に偶発でも完全に選別でもない」という直観は、こうして物理的前例によって裏づけられる。

最後に、最も鋭い断層を一つ。量子論では、二つの電子について「どちらがどちらか」という事実が存在しない。これは無知ではなく、そもそも「どちらか」が物理的事実から消去されている。つまり物理は、「この一つ性」が事実として存在しないという立場に前例を与えている。それでもなお、生きられた現実性は、このひとつが現に当のものだと言い張る。独在性の本当の所在は、おそらくここだ。根源的な物理がこの一つ性の事実性を否認する地点と、剥き出しの現実性がそれを肯定する地点とが、正面から衝突する断層の上である。

明らかになったこと

一連の論理をたどって見えてきたのは、次のことである。

第一に、永井の〈私〉論の核心は、感じ(クオリア)の謎ではなく、内容を持たない剥き出しの現実性にある。意識の謎の重心は、質から、現に生きられていることへと移される。そしてその現実性は、最も確実でありながら、世界の構造には無関与で、本当には実在しない、という逆説を抱える。

第二に、「なぜこの一つか」という核の問いと、「なぜこの構造か」という問いは別である。前者は語りえないが、後者は語りうる。指標詞の理論、観測者の物理学、表象の理論は、核に触れないまま構造の形を照らし、その精度がかえって剥き出しの核を際立たせる。

第三に、現実性の着地は一様な偶然ではない。観測選択は、選別が観測の高くつく前提を掴み、安価な差異を手放すという、層状の勾配を生む。中間の不確定は、知識の欠如ではなく、競合する原理と未定義の準拠集団が交錯する実在の臨界域である。

そして第四に、最も射程の長い見立てとして――この選別と偶発の勾配、そして底に残る剥き出しの一点は、人類原理に固有のものではなく、粗視化のあるところに必ず現れる、共有可能な記述とそれが抽象するトークン的実在との関係の、普遍的な形態かもしれない。くりこみ群の普遍性、統計力学のエントロピー、集団遺伝学のドリフト障壁、アルゴリズム的なランダムネス、自発的対称性の破れ、量子的な不可弁別性。これらはいずれも、同じ指紋を残す。

そうだとすれば、永井の独在性は孤立した形而上学的奇蹟ではなく、世界がみずからを粗く語り直すたびに必ず穿たれる、一つの穴の、自己における現れということになる。語りうる構造をどれだけ尽くしても核に届かないという、その届かなさそのものが、創発のあるところに普遍的に空く穴の形なのである。剥き出しの核とは、自己の隠れたミクロ状態であり、自発的に破れた真空であり、非圧縮の残余であり、不可弁別な一つだ。いずれの姿においても、それは粗い記述に映らず、それでも現にある。