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The People, No: A Brief History of Anti-Populism
『人民など、クソくらえ:反ポピュリズム小史』トーマス・フランク 2020年
本書の要約
本書は、アメリカ政治におけるポピュリズムと反ポピュリズムの歴史と発展を分析した作品である。著者は「ポピュリスト」という言葉の起源から始め、その変遷を追いながら、この用語が現代では本来の意味を失い、エリートたちによって民主主義への脅威を表す蔑称として使われるようになった過程を明らかにする。
目次
- ポピュリズムとは何だったのか
- 「権利は権利、神は神だから」
- プロレタリア時代のポピュリズム最盛期
- 「不適格者の蜂起」
- コンセンサスの固定化
- すべての声を上げよう
- 金貸したちが神殿を焼く
- 無作法な人間を叱責しよう
フランクによると、19世紀末に誕生した人民党(ポピュリスト党)は、経済的不平等と権力の集中に対抗する草の根運動だった。この運動は、人種や民族の壁を越えて労働者を団結させ、民主的な経済改革を目指すものだった。しかし、この真のポピュリズムは、エリート層からの激しい反発に遭い、悪意ある特徴付けで攻撃された。
時代が進むにつれ、「ポピュリスト」という言葉は、本来の意味を失い、「反知性主義」「権威主義」「不寛容」の同義語として扱われるようになった。1950年代には、学術界もこの歪曲に加担し、ポピュリズムを偏見と未熟さの産物として描写した。
フランクは、民主党がかつては労働者階級の党だったが、1970年代以降、テクノクラートと高学歴専門家の党へと変貌し、経済的平等という伝統的な関心事を放棄したと指摘する。一方で共和党は、ポピュリスト的レトリックを採用し、「エリート」批判を通じて労働者階級の支持を獲得した。この「偽ポピュリズム」は、実際には富裕層と大企業の利益を促進するものだった。
著者は結論として、真のポピュリズムは「人民」を単に叱責の対象ではなく、社会変革の担い手として尊重し、経済的民主主義のための大衆運動を構築すること—言い換えれば、「アメリカは誰のために存在するのか」という根本的な問いに向き合うことだと主張する。
第1章 ポピュリズムとは何だったのか
目次
- ポピュリスト運動の起源と背景
- 人民党(ポピュリスト党)の形成と目標
- 1890年代の経済危機とポピュリスト運動の高まり
- ポピュリズムの主要な要求と実績
- 現代のポピュリズム理解との乖離
ポピュリズムは、19世紀末のアメリカで起こった下層階級による最初の大規模な経済的蜂起であった。1891年、カンザス州で誕生した「人民党」(ポピュリスト党)は、「平等な権利をすべての人に、特権は誰にも与えない」というジェファーソン主義的スローガンを掲げ、独占企業や銀行家、投機家に対抗して農民と労働者の利益を守ろうとした。
当時のアメリカは、規制のない企業独占、露骨な汚職、通貨デフレの時代だった。農民たちは「農民同盟」に参加し、なぜ彼らが破産の危機に直面しているのかを学び、協力して対処法を見つけようとした。この運動は南部と西部を中心に広がり、やがて人民党という政党に発展した。
人民党の主な政策要求には、鉄道の規制、農民への連邦融資、通貨改革などがあった。特に「金本位制」からの脱却は中心的課題だった。金の希少性によるデフレは、債務を抱える農民にとって致命的だったからである。「自由銀貨」または「法定通貨」への移行を主張した。
1896年の大統領選挙で、民主党候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンがポピュリスト的政策を採用し、人民党は彼を支持した。しかし敗北後、人民党は衰退した。それでも、彼らの要求の多くは後に実現した—上院議員の直接選挙、鉄道と独占の規制、女性参政権、累進所得税、農業支援プログラムなど。
現代の「反ポピュリスト」学者たちは、元々のポピュリスト運動の実態をほとんど無視し、「ポピュリズム」を不寛容や権威主義の同義語として使っている。これは歴史の歪曲であり、真のポピュリズムは多人種的な連帯と経済的民主主義を目指す運動だった。
第2章 「権利は権利、神は神だから」
目次
- 1896年の大統領選挙と反ポピュリズムの台頭
- エリートによるポピュリズムへの反発
- メディアキャンペーンとポピュリズムの悪魔化
- 野蛮対文明という反ポピュリストの図式
- 人種とポピュリズムの複雑な関係
1896年の大統領選挙は、アメリカにおける最初の大規模な「民主主義恐怖症」の表れだった。民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンが「金本位制」反対を掲げ、人民党(ポピュリスト党)の支持を受けた時、国のエリート層は集団的な恐怖に襲われた。
新聞、雑誌、著名な聖職者、学者たちは、ブライアンとポピュリストを「無政府主義者」「デマゴーグ」として非難した。『ジャッジ』誌の挿絵は「ポピュリズム」を巨大な恐ろしい怪物として描き、「無政府状態」の帽子をかぶり「破壊」の松明を振りかざす姿で表現した。ニューヨーク・サンは民主党が「社会主義者、共産主義者、今でいうポピュリスト」に乗っ取られたと宣言した。
共和党候補ウィリアム・マッキンリーの指揮の下、ビジネス界は前例のない資金を投入した反ポピュリスト宣伝キャンペーンを展開した。クリーブランドの実業家マーク・ハナが主導し、1億2000万部のパンフレットを配布し、ブライアンの演説のたびに共和党の弁士団を派遣した。
反ポピュリストのレトリックの核心は、社会的階層の自然な秩序が危機に瀕しているという恐怖だった。ジョン・ヘイのパンフレット『無政府状態の綱領』は、ポピュリストを「文明のあらゆる特徴に対する狂信的な挑戦」と描写した。セオドア・ルーズベルトは彼らを「入浴する傾向」を疑う粗野な人々と揶揄した。
こうした悪魔化のパターンは、ポピュリズムを愚かさ、偏見、デマゴギーの代名詞として固定させた。さらに、南部では民主党エリートがポピュリストと黒人有権者の連携を打ち破るために「白人至上主義」キャンペーンを展開し、暴力的な対応も辞さなかった。1898年のノースカロライナ州ウィルミントンでの人種暴動は、この最悪の例だった。
興味深いことに、現在のポピュリズム批判が「ポピュリズム=レイシズム」という図式を強調する一方、1890年代の反ポピュリスト言説はそのような主張をほとんどしなかった。むしろ、南部の反ポピュリスト勢力こそが人種差別を政治的武器として活用していた。
第3章 プロレタリア時代のポピュリズム最盛期
目次
- 大恐慌とニューディール時代のポピュリズム
- フランクリン・ルーズベルトのポピュリスト的要素
- 労働運動と公民権運動の結びつき
- 1930年代のポピュリスト文化
- デマゴギーと真のポピュリズムの区別
1930年代の大恐慌は、アメリカ全土に未曾有の経済的苦難をもたらし、資本主義システムに対する根本的な疑問を提起した。この時代、ポピュリズムは再び勢いを増し、ニューディール政策を通じて国家政策に影響を与えた。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、ポピュリスト的手法と言葉遣いを採用した。彼は「ウォール街の銀行家たち」を非難し、これらの「無慈悲な金貸し」が「文明の神殿の高い席から逃げた」と宣言した。1936年の一般教書演説では、「民衆の意見が権力を求める少数派と戦っている」と語り、「金ぴか時代の専制君主」である金融・産業勢力に対抗する「人民政府」の必要性を強調した。
この時代には労働運動も飛躍的に拡大した。CIO(産業別労働組織会議)は、人種の壁を越えた労働者の団結を促進し、工場におけるストライキ運動を展開した。「参加民主主義」は労働組合運動の到達点であり、アメリカ中産階級社会の基盤となった。
文化面でも、ポピュリズムは影響力を持った。芸術や文学では「社会的リアリズム」が主流となり、英雄的な労働者や農民を描いた。政府のFSA(農業安全局)は、「アメリカ人にアメリカを紹介する」をモットーに、貧困にあえぐ農民の写真記録事業を展開した。カール・サンドバーグの詩『人民、然り』(1936年)は、時代のポピュリスト感覚を最も雄弁に表現していた。
この時代のリベラルたちは、ヒューイ・ロングやチャールズ・コーリンといったデマゴーグを真のポピュリストと区別した。彼らが反エリート的レトリックを使用したとしても、彼らを「ポピュリスト」ではなく「ファシスト」または「プレ・ファシスト」と呼んだ。この区別は重要だった—真のポピュリズムは民主主義を脅かすものではなく、むしろ経済システムをより民主的にするために民主的手段を用いることを目指したからである。
ニューディール時代のポピュリズムは、ノンエリートによる政治参加を通じて、ビジネスエリート主導の資本主義からより民主的な経済システムへの大規模な転換を可能にした。これは真のポピュリズムの最大の成功例の一つである。
第4章 「不適格者の蜂起」
目次
- ニューディールに対するビジネス界の反発
- アメリカン・リバティ・リーグの結成と反ポピュリスト運動
- エリートの「反民主主義恐怖症」の再来
- 1936年の大統領選挙とエリートの敗北
- エリート合意に対するルーズベルトの勝利
1930年代、大恐慌のさなか、ルーズベルト政権のニューディール政策はビジネスエリート層からの激しい反発を招いた。全米製造業者協会(NAM)を中心とするビジネス界は、ニューディールを「独裁」と非難し、「アメリカのシステム」を守るための闘争に動員された。
この反発は、デュポン家などの富裕層が資金提供する「アメリカン・リバティ・リーグ」の結成につながった。このグループは、ニューディールを「全体主義国家」「ファシズム、社会主義、共産主義の邪悪な組み合わせ」と非難した。メディアもこの攻撃に加わり、有力紙の75%がルーズベルトに反対したとされる。
リバティ・リーグのレトリックには、1896年の反ポピュリズムとの明確な類似性があった。シカゴ・トリビューン紙は「独裁が現れる」「共産主義プログラム」などの見出しを掲げ、ルーズベルトがアメリカを「独裁」に導くと警告した。
リバティ・リーグの幹部で弁護士のフレデリック・スティンチフィールドは、「民主主義的平等」を「道徳的無知」と呼ぶノーベル賞受賞者アレクシス・カレルを引用し、「天才の男と精神薄弱者は法の前に平等であるべきではない」と主張した。
専門家たちも攻撃に加わり、ニューディールの経済政策を「笑いものになっている」と批判し、ルーズベルトのブレーントラスト(学者顧問団)は「確立された学問の合意」に反していると非難した。
しかし1936年11月、ルーズベルトは過去最大級の地滑り的勝利を収め、48州中46州を獲得した。著名なアナリストたちの予測や新聞社の警告にもかかわらず、アメリカ国民はエリートの「民主主義恐怖症」を退けた。
この敗北の後、共和党は穏健化し、ニューディールの多くの成果を受け入れた。アーサー・シュレシンジャー・ジュニアが後に書いたように、「富裕層が使用人の賃金に不満だからアメリカが革命に捕らわれていると宣言する光景は、多くの同胞市民を深く感動させるものではなかった」。
この章は、エリートコンセンサスへの盲目的服従より、人々の福祉を優先することの重要性を示している。ルーズベルトは確立された専門家たちを無視し、新しいアイデアを試すことで成功した。
第5章 コンセンサスの固定化
目次
- 1950年代の「コンセンサス理論」の登場
- リチャード・ホフスタッターと「ポピュリズム」概念の再構築
- 反ポピュリズムの学術的正当化
- マッカーシズムとポピュリズムの同一視
- エドワード・シルズとセイモア・マーティン・リプセットの影響
第二次世界大戦後の1950年代、「コンセンサス」を重視する知的潮流がアメリカで台頭した。この時代の自信に満ちたリベラル知識人たちは、イデオロギー対立の終焉と穏健な多元主義時代の到来を宣言した。しかし同時に、彼らは「ポピュリズム」を民主主義への新たな脅威として再定義した。
この変化の中心にいたのが歴史家リチャード・ホフスタッターだった。彼の影響力のある著書『改革の時代』(1955年)は、1890年代の人民党運動をナショナリズム、反知性主義、反セミティズムで特徴づけられる危険な運動として描写した。彼は「ステータス不安」という心理学的概念を使い、ポピュリストを近代化の中で地位を失った敗者の反動として説明した。
社会学者エドワード・シルズは、これをさらに発展させ、ポピュリズムをナチズムやボルシェヴィズム、マッカーシズムと結びつけた。彼の著書『秘密の苦悩』(1956年)では、ポピュリズムを「高度に教育を受けた人々」への敵意と定義し、「大衆の意志」を崇拝する危険思想と位置づけた。
セイモア・マーティン・リプセットも同様の理論を『政治的人間』(1959年)で展開し、「労働者階級の権威主義」という概念を導入した。彼によれば、労働者階級はその社会的地位のために本質的に権威主義的であり、デマゴーグに弱いとされた。この理論は、エリートの権力を強化することが権威主義に対抗する唯一の方法だという逆説的な主張につながった。
ホフスタッターのポピュリズム解釈は、後の歴史家たちによって徹底的に論破された。彼の主要な主張—ポピュリストの後ろ向きの思考、移民への敵意、反セミティズム—はすべて誇張か誤りだと証明された。しかし、この反証にもかかわらず、ポピュリズムを偏狭さと不合理性の代名詞とする見方は学術界と言論界に深く根付いた。
この章は、反ポピュリズムが常に支配者の利益を正当化する機能を果たしてきたことを示している。エリートの合意を重視するリベラル知識人たちは、保守的ビジネスエリートと同じ反民主主義的偏見を共有するようになったのである。
第6章 すべての声を上げよう
目次
- 1960年代の公民権運動とポピュリスト的要素
- マーティン・ルーサー・キングの経済民主主義ビジョン
- ベイヤード・ラスティンと「自由予算」構想
- 学生運動と参加民主主義
- 反労働者階級ステレオタイプの台頭
1965年、セルマからモンゴメリーへの行進の終点で、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは演説の中で、人種隔離制度がポピュリスト運動を打ち砕くための「戦略」として始まったことを指摘した。南部の支配層は、黒人と白人の貧困層が1890年代に団結して「偉大な社会」を建設しようとする脅威に対抗するため、人種的分断を利用したのだった。
キングの公民権運動は、単なる法的平等の獲得を超え、経済的平等の実現を目指していた。「セルマと投票権法によって、私たちの闘争の一つの時代が終わり、新しい時代が始まった」とキングは述べた。「今や私たちの闘争は真の平等、つまり経済的平等のためのものだ」。
キングの同僚であるベイヤード・ラスティンも、公民権運動が「抗議運動から本格的な社会運動へ」移行する必要性を強調した。彼が提案した「自由予算」は、大規模な連邦雇用・住宅プログラムによって貧困を撲滅し、「政治経済の再構築」を目指すものだった。ラスティンは、このような変革には「黒人、労働組合員、リベラル、宗教団体」の「進歩的勢力の連合」が必要だと考えた。
同時期、学生非暴力調整委員会(SNCC)や民主社会学生同盟(SDS)などの若者組織も「参加民主主義」の理念を掲げた。これらのグループは、オーソドックスなエリートよりも、普通の市民の知恵と力を信頼した。SDSの「ポート・ヒューロン宣言」(1962年)は、「基本的な社会的結果をもたらす意思決定が公的集団によって行われる」べきだと主張した。
しかし1968年までに、これらの希望は挫折し始めていた。キングは暗殺され、「貧者の行進」は指導力を失った。ベトナム戦争が経済的平等の取り組みに必要な資源を吸い取り、リベラルな連合は瓦解した。新左翼の多くは反体制的過激派に転向し、労働者階級は「敵」と見なされるようになった。
「労働者階級の白人」を「進歩に対する強硬な反対者」とみなす有害なステレオタイプが定着し始めた。1970年の著書『アメリカの緑化』は、「青い襟の労働者」を「新しい意識の大敵」と描写した。1969年の映画『イージー・ライダー』の最終シーンでは、貧しい白人労働者が若い反体制的バイカーを殺すという象徴的な描写がなされた。
この「反労働者階級ステレオタイプ」は、マーティン・ルーサー・キングが死の直前まで追求していた経済的平等と階級横断的連帯というビジョンとは正反対のものだった。
第7章 金貸したちが神殿を焼く
目次
- 1970年代の政治的不満と偽ポピュリズム
- 共和党による「ポピュリスト」レトリックの盗用
- ロナルド・レーガンの「偽ポピュリズム」革命
- フレッド・ハリスと本物のポピュリスト的改革案
- パット・ブキャナンからドナルド・トランプへ
1970年代初頭、アメリカは深い不満の時代に突入した。ベトナム戦争とウォーターゲート事件は政府への信頼を損ない、国中が不平不満の雰囲気に包まれた。この状況下で、「ポピュリスト」という言葉は誰もが使いたがる便利なラベルとなり、ニクソンからマクガバン、カーターまで、ほぼすべての主要政治家がこの言葉で形容された。
真のポピュリスト復活の兆しもあった。オクラホマ州選出の民主党上院議員フレッド・ハリスは、1976年の大統領選に「問題は特権だ」というスローガンを掲げて出馬した。ハリスは「ゼネラル・モーターズの解体」「石油大手の解体」などの大胆な経済改革を提案し、富裕層と大企業権力への挑戦を通じて多人種的連合を構築しようとした。
しかし、民主党は労働組合から離れ、テクノクラートと専門家の党へと変貌していった。ジミー・カーターは「ポピュリスト」を自称したが、大統領としての彼の政策はインフレとの闘いと予算均衡に焦点を当て、ニューディール的プログラムや完全雇用計画には消極的だった。
一方、共和党と右派は「ポピュリスト的」レトリックを採用し、エリート批判を通じて労働者階級の支持を獲得した。1980年、ロナルド・レーガンは「再びアメリカを偉大にする」という大衆迎合的スローガンを掲げ、「官僚制」と「エリート」を批判した。共和党の支持者たちは「反抗者」を演じるようになった。
しかし、このレーガンの「ポピュリズム」は詐欺だった。彼の政策—減税、規制緩和、労働組合潰し—は実際には富と権力の上方再分配をもたらした。1980年代以降、「反エリート」を装いながら富裕層の利益を促進するという右派の手法は定着した。
近年では、パット・ブキャナンがポピュリストレトリックと貿易批判を組み合わせ、真のポピュリスト的要素と反移民感情を混合させた。ドナルド・トランプはこの型に従い、「グローバルな権力構造」を非難し、労働者階級の有権者に訴えた。スティーブ・バノンの「労働者の党」としての共和党再編ビジョンも同様の路線だった。
しかし、ホワイトハウスでのトランプは富裕層減税、ウォール街規制緩和、企業寄りの政策を推進した。偽のポピュリズムは、再び本当の経済的リフォームを裏切った。
この章は、偽のポピュリストレトリックが経済的不平等の拡大と労働者階級の権力低下をもたらした皮肉な過程を明らかにしている。
第8章 無作法な人間を叱責しよう
中にはトランプ支持者との友人関係や家族関係を冷却するよう勧める声も上がった。こうした叱責の姿勢は、2016年のヒラリー・クリントンによる「嘆かわしい人々」発言に始まり、その後のリベラルな文化の特徴となった。
この新しいリベラリズムでは、労働運動や階級的視点が著しく欠落している。著者は、反トランプのヤードサインや抗議の歴史を振り返る映像特集において、組織労働者の闘争が体系的に無視されていることを指摘する。「黒人の命は大切」「女性の権利は人権」といったスローガンは掲げられるが、「組織する権利」や「生活賃金を得る権利」への言及は見られない。
また、この種のリベラリズムは階級的自己利益にも基づいている。高学歴専門家層は、自分たちの社会的地位を正当化するイデオロギーとして反ポピュリズムを採用している。テクノクラティックな専門家支配こそが正しい統治形態だという信念は、民主的多数派の判断への不信と結びついている。
著者によれば、叱責の政治は有効な改革戦略ではない。多くのトランプ支持者は、上からの絶え間ない批判によってむしろ自分たちの選択に固執するようになった。真の大衆運動は、ローレンス・グッドウィンの言葉を借りれば「イデオロギー的忍耐」を必要とする—つまり、普通の人々を「不十分な意識」の持ち主として叱りつけるのではなく、「社会にあるがままの人々」として受け入れることだ。
反ポピュリズムの最も極端な表現は、気候変動に対する絶望に伴って現れる人類絶滅への願望である。プリンストン大学の哲学者トッド・メイは、ニューヨーク・タイムズの論説で人類の絶滅が「悲劇」でありながら「良いこと」かもしれないと示唆した。
著者は、カール・サンドバーグの詩「シカゴ」を引用して章を締めくくる。この詩は都市の罪と悪を認めながらも、人々の生命力を祝福する。真のポピュリズムは、人間の欠点を認めつつも、人々の可能性と尊厳を信じる姿勢だと著者は示唆している。
結論 問い
目次
- ポピュリズムと反ポピュリズムの弁証法
- 右派の偽ポピュリズムと中道リベラリズムの失敗
- 真のポピュリズム復活の可能性
- リトル・ブルー・ブックスの民主的遺産
- 「アメリカは誰のために存在するのか」という根本的問い
本書の最終章で著者は、ポピュリズムと反ポピュリズムの歴史を「希望と皮肉の弁証法」と総括する。かつて民主的包摂の党だった民主党はエリートコンセンサスの党に変貌し、かつて富の集中を擁護していた共和党は庶民の友人を装うようになった。この歴史的逆転は、富裕層のための楽園としてのアメリカを生み出した。
しかし、エリートリベラリズムと右翼の偽ポピュリズムは両方とも信頼を失っている。右派の「沼地を干上げる」という約束は、政府の腐敗と無能を増大させただけだった。一方、オバマ政権の経験は、民主党のテクノクラート派がプルートクラシー(金権政治)に立ち向かう勇気を持たないことを示した。
この状況を打開する方法は、真のポピュリズムの復活にある。それは平均的な人々を信頼し、彼らのニーズに応え、怨恨を進歩に変える伝統である。真のポピュリズムは独占企業、企業権力、億万長者の特権、不平等と戦う。
著者は、エマニュエル・ホールデマン=ジュリアスが1919年に始めた「リトル・ブルー・ブックス」の物語を紹介する。カンザス州から発行されたこの小型で安価な本シリーズは、高級文化を一般大衆に開放することを目指し、「文学の民主主義」を実現した。この事業は権威や専門性に依存せず、普通の人々の知性と学ぶ能力を信頼するものだった。
著者は、ポピュリズムが勝利すると主張する。なぜならポピュリズムは民主的人格の深部に刻み込まれているからだ。アメリカ人は生まれながらの平等主義者であり、あらゆる種類の尊大さを拒絶する。歴史的に見れば、経済エリートに対するポピュリスト的抗議は、民主党を長年にわたって多数派政党にした要因だった。
著者は、文化評論家ギルバート・セルデスが1930年代に提起した「アメリカは誰のために存在するのか?」という問いで締めくくる。億万長者のため?有名人のため?テクノロジー企業のため?それとも私たち人民のためなのか?今こそ、この問いに明確に答える時だと著者は主張する。
著者について
トーマス・フランクは、『リベラルよ、聞け』、『億万長者に憐れみを』、『レッキング・クルー』、『カンザス州はどうなっているのか』の著者である。ウォール・ストリート・ジャーナル』や『ハーパーズ』の元コラムニストで、『バフラー』の創刊編集者でもある。ワシントンD.C.郊外に在住。
AI:「反ポピュリズムの政治学」についての考察
トーマス・フランクの『人民など、クソくらえ』という衝撃的なタイトルの本は、アメリカ政治におけるポピュリズムと反ポピュリズムの歴史的変遷を描いている。まず、この本のタイトルから考えてみよう。原題は”The People, No”であり、これは直訳すると「人民、否」となる。このタイトル自体が、エリート層による一般市民への否定的態度を表している。日本語版のタイトル「人民など、クソくらえ」はより過激だが、著者の意図する反ポピュリズムの本質をより直接的に伝えているように思える。
著者の主張を整理すると、「ポピュリズム」という言葉は当初、1890年代のアメリカで農民と労働者が結成した「人民党」(ポピュリスト党)の運動を指していた。これは企業独占や金融エリートに対抗し、経済的民主主義を目指す多人種的な運動だった。しかし時代を経るにつれ、この言葉は本来の意味を失い、今日では「ポピュリズム」はエリート層によって「反知性主義」「不寛容」「権威主義」の代名詞として使われるようになった。
この転換はどのように起こったのだろうか。フランクによれば、まず1896年の大統領選挙で、エリート層はポピュリスト的要素を持つウィリアム・ジェニングス・ブライアンを「デマゴーグ」「無法者」として攻撃した。これは彼らの経済的利益を守るための戦略だった。次に1930年代のニューディール時代に再び同様の反応が起こり、ビジネスエリートはフランクリン・ルーズベルトを「独裁者」呼ばわりした。しかし決定的だったのは1950年代、リチャード・ホフスタッターら学者たちが「ポピュリズム」を学術的に再定義したことだった。彼らはポピュリズムを「権威主義的」「偏狭」な大衆運動として描き、マッカーシズムと結びつけた。
ここで注目すべきは、反ポピュリズムのレトリックが常に同じパターンを繰り返していることだ。ポピュリズムを「無知な大衆による理性と秩序への脅威」として描き、「専門家と教養ある人々による指導の必要性」を主張する。この論理は時代を越えて驚くほど一貫している。
さらに興味深いのは、民主党がかつては労働者階級の党だったが、1970年代以降テクノクラートと高学歴専門家の党へと変貌したという点だ。一方、共和党は「反エリート」レトリックを採用し、労働者階級の支持を得るようになった。この「歴史的逆転」は政治的風景を根本的に変えた。
この展開の中で、真のポピュリズム(経済民主主義のための多人種的運動)は、レーガン以降の「偽ポピュリズム」(反エリートレトリックを使いながら富裕層の利益を促進する政治)に取って代わられた。ドナルド・トランプはこの「偽ポピュリズム」の集大成と言える。
フランクの分析で特に重要なのは、現代リベラリズムが「叱責のリベラリズム」となり、一般市民、特にトランプ支持者を「無知」「偏狭」として見下す態度を取っていることだ。この態度は民主的変革の構築に役立つどころか、むしろ保守派に追い風を与えている。
また、リベラルな言説から労働問題や階級的視点が消失していることも注目に値する。これは民主党がかつての経済的基盤を放棄したことの表れであり、多くの労働者階級の有権者が右派へと流れた理由の一つと考えられる。
反ポピュリズムが持つイデオロギー的機能にも目を向ける必要がある。反ポピュリズムは常に「民主主義の危機」を叫ぶが、実際には既存の権力関係を維持するためのレトリックとして機能している。エリートたちが「ポピュリズムの危険」を警告するとき、彼らは本当は自分たちの特権的地位への脅威を恐れているのだ。
また、ポピュリズムと人種の関係も複雑だ。フランクは、原初のポピュリズムが多人種的連帯を目指していたことを強調している。しかし現実はもっと複雑で、ポピュリストの中にも人種主義者はいた。それでも、南部の白人至上主義エリートこそがポピュリズムを打ち砕くために人種差別を武器として使ったという指摘は重要だ。
現代の文脈では、「ポピュリズム=人種差別」という等式が広く受け入れられている。しかしこれは「偽ポピュリズム」の一側面を全体と誤認する危険がある。真のポピュリズムは経済的民主主義と多人種的連帯を組み合わせるものであり、マーティン・ルーサー・キングやベイヤード・ラスティンの構想はその典型だった。
フランクの議論の弱点は、彼自身のポピュリスト的ロマンティシズムが時に過度になることだ。歴史的なポピュリスト運動の複雑さと矛盾を単純化して美化する傾向がある。しかし彼の中心的洞察—反ポピュリズムが常にエリートの利益を守るイデオロギーとして機能してきたこと—は説得力がある。
結論として、フランクの分析は現代政治の根本的な分断を理解する上で貴重な視点を提供している。「アメリカは誰のために存在するのか?」というフランクの問いは、私たちの民主主義の本質に触れるものだ。
ただし、現実的には真のポピュリズムの復活は容易ではないだろう。経済と政治の構造的な力関係、メディア環境、社会的分断は強固であり、これらを乗り越えるための道筋は不明確だ。
フランクの著書が示すのは、単に政治的レトリックの歴史ではなく、アメリカ民主主義の根本的なジレンマである。特権的少数派の利益と多数派の福祉のバランスをどう取るか、専門知識と大衆参加をどう調和させるか、これらの問いは今後も民主主義社会の中心的課題であり続けるだろう。