書籍『マイティ・ワーリッツァー:CIAはいかにしてアメリカを演奏したか』Hugh Wilford(ハーバード大学出版局) 2008年
「西欧世界の革命運動の大部分は政府がスポンサーになっている。それらは政府が目を光らせることができるよう、不満分子を組織するために挑発者によって開始される」… pic.twitter.com/yLfn410Dqv
— Alzhacker/ zomiaJ (@Alzhacker) May 29, 2025
本書の要約
本の内容について
本書は冷戦期におけるCIA(中央情報局)の秘密工作、特に「マイティ・ワーリッツァー」と呼ばれた巨大なプロパガンダ・ネットワークの実態を詳細に記録した歴史書である。著者ヒュー・ウィルフォードは、1940年代後半から1960年代後半まで約20年間にわたって展開されたCIAの文化冷戦政策を、膨大な一次資料と証言に基づいて解明している。
本書の主要なテーマは、CIAが如何にしてアメリカの市民団体、知識人、労働組合、学生組織、女性団体、カトリック宣教師、アフリカ系アメリカ人組織、ジャーナリストらを秘密裏に資金援助し、共産主義に対抗する文化的・思想的影響力を世界規模で展開したかということである。著者は、この巨大な秘密ネットワークを「アメリカを楽器のように演奏した」システムとして描写している。
重要な論点として、CIAとフロント組織(偽装団体)の関係は単純な操り人形ではなく、複雑な利害の一致と対立が混在する動的な関係であったことが明らかにされる。多くの参加者は反共産主義という共通目標を持ちながらも、CIAの統制に抵抗し、独自のアジェンダを追求した。
印象的な引用として、フランク・ウィスナー(CIA政策調整室長)が自らの秘密工作網を「マイティ・ワーリッツァー」(巨大なオルガン)に例え、「どんなプロパガンダの曲でも演奏できる」と豪語したことが挙げられる。また、ジョージ・ケナンの1948年の政治戦争計画書が、この巨大な秘密ネットワークの理論的基盤となったことも重要である。
著者の結論は、このシステムが最終的には1967年のラムパーツ誌による暴露で崩壊し、アメリカ市民の政府に対する信頼を大きく損なったというものである。ウィルフォードは、秘密工作の短期的効果と長期的コストを慎重に比較検討し、透明性と民主的価値観の重要性を強調している。
本書の社会的・歴史的背景は冷戦の文脈にあり、特に1947年のトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランから始まるアメリカの世界戦略の一環として、文化・思想面での対ソ連戦略が展開されたことを詳述している。
目次
序論 (Introduction)
第1章 無垢なクラブ:CIAフロントの起源 (Innocents’ Clubs: The Origins of the CIA Front)
第2章 秘密の軍隊:亡命者たち (Secret Army: Émigrés)
第3章 AFL-CIA:労働者 (AFL-CIA: Labor)
第4章 ニューヨークの深い病気:知識人 (A Deep Sickness in New York: Intellectuals)
第5章 文化冷戦:作家、芸術家、音楽家、映画製作者 (The Cultural Cold War: Writers, Artists, Musicians, Filmmakers)
第6章 キャンパスのCIA:学生 (The CIA on Campus: Students)
第7章 真実はあなたを自由にする:女性 (The Truth Shall Make You Free: Women)
第8章 世界を救う:カトリック教徒 (Saving the World: Catholics)
第9章 アフリカへ:アフリカ系アメリカ人 (Into Africa: African Americans)
第10章 崩壊:ジャーナリスト (Things Fall Apart: Journalists)
結論 (Conclusion)
各章の要約
序論
Introduction
1950年、ユージン・グローブスは全米学生協会(NSA)会長選に向けた準備中に、組織がCIAから秘密資金を受けている事実を知らされた。この啓示は彼の人生を一変させ、冷戦期における理想主義と現実政治の矛盾を体現することになった。1967年2月、ラムパーツ誌がNSAとCIAの関係を暴露すると、アメリカ全土で数十の市民団体が秘密資金援助を受けていた事実が次々と明らかになった。労働組合、知識人団体、文化組織、女性団体、学生組織まで、幅広い分野にわたるCIAの「マイティ・ワーリッツァー」が存在していた。この巨大な秘密ネットワークの暴露は、アメリカ社会に深刻な衝撃を与え、政府への信頼を根底から揺るがした。本書はこの20年間にわたる秘密工作の全貌を、参加者の証言と機密文書を基に解明する。(295字)
第1章 無垢なクラブ:CIAフロントの起源
Innocents’ Clubs: The Origins of the CIA Front
ヴィリ・ミュンツェンベルクは1930年代、共産主義国際のためにフロント組織(偽装団体)戦術を開発した。彼は表向きは独立した市民団体を装いながら、実際は共産党が資金提供・統制する組織を「無垢なクラブ」と呼んだ。第二次大戦後、ジョージ・ケナンはこの戦術をアメリカが採用すべきと提唱した。1948年の政治戦争計画書で、ケナンは「アメリカ市民の自発的結社の伝統」を利用した秘密工作を構想した。この計画に基づき政策調整室(OPC)が設立され、フランク・ウィスナーが指揮を執った。ウィスナーは自らの秘密ネットワークを「マイティ・ワーリッツァー」と呼び、どんなプロパガンダ曲でも演奏できると豪語した。かくして共産主義のフロント戦術が、アメリカの反共産主義戦略として転用されることになった。(298字)
第2章 秘密の軍隊:亡命者たち
Secret Army: Émigrés
CIAは東欧諸国からの亡命者を「潜在的秘密軍隊」として活用しようとした。1949年、自由ヨーロッパ国民委員会(NCFE)が設立され、表向きは民間団体として亡命者を支援した。実際はCIAの資金で運営され、自由ヨーロッパ放送(RFE)を通じて鉄のカーテンの向こうに反共産主義宣伝を送信した。しかし亡命者組織は内部分裂に悩まされ、CIAの統制も困難だった。1956年のハンガリー動乱では、RFEの扇動的放送が蜂起を煽ったとの批判を受けた。この事件で責任を感じたウィスナーは精神的破綻をきたし、最終的に自殺に追い込まれた。東欧解放という当初の目標は現実的でなく、亡命者を使った秘密工作は期待された成果を上げることなく、冷戦戦略の重点は第三世界へと移行していった。(297字)
第3章 AFL-CIA:労働者
AFL-CIA: Labor
元共産党指導者ジェイ・ラブストーンは、アメリカ労働総同盟(AFL)の国際政策顧問として反共産主義労働運動を展開した。1948年、CIAはラブストーンの自由労働組合委員会(FTUC)に秘密資金を提供し始めた。ヨーロッパではアービング・ブラウンが現地工作員として活動し、反共産主義労組に資金を流した。しかしラブストーンは「フィズ・キッズ」(泡っ子たち)と呼んでCIA職員を軽蔑し、絶えず統制に抵抗した。CIAも労働界に対する理解不足から、しばしば作戦の混乱を招いた。さらにCIAは産業別労働組合会議(CIO)とも秘密関係を築こうとし、これがAFL側の反発を強めた。労働者とスパイの関係は、経営者対労働者の対立構造に似た複雑なものとなり、真の協力関係を築くことは困難だった。(295字)
第4章 ニューヨークの深い病気:知識人
A Deep Sickness in New York: Intellectuals
1949年、ワルドルフ・アストリア・ホテルで開催された世界平和文化科学会議で、シドニー・フックらの知的自由のためのアメリカ人(AIF)が共産主義者の平和攻勢に対抗した。この対抗集会が翌年のベルリン文化自由会議につながり、CIAの主要文化フロント組織である文化自由会議(CCF)が誕生した。ジェームズ・バーナムはOPCの秘密コンサルタントとして政治戦争の理論を提供した。アメリカ文化自由委員会(ACCF)はCCFの米国支部として設立されたが、ニューヨーク知識人たちの過激な反共産主義はしばしばCIAの政策と衝突した。特にマッカーシズムをめぐる内部対立は深刻で、組織の分裂を招いた。知識人たちは文化的自由を標榜しながらも、秘密資金への依存という矛盾を抱えていた。(299字)
第5章 文化冷戦:作家、芸術家、音楽家、映画製作者
The Cultural Cold War: Writers, Artists, Musicians, Filmmakers
CIAは文化冷戦において、アメリカ文化の優位性を示すため作家や芸術家を秘密支援した。パルチザン・レビューなどの文学雑誌は、表向きは独立を保ちながらCIA資金を受けた。抽象表現主義絵画もCIAの支援を受け、ソビエト様式の社会主義リアリズムに対抗する自由な芸術として海外に紹介された。しかし音楽分野では、ニコライ・ナボコフの指導下で伝統的なヨーロッパ作品が重視され、アメリカの前衛音楽は軽視された。CIAは実用主義的な文化政策を採用し、外国での効果を最優先した。ハリウッドとの協力では、ジョージ・オーウェルの『動物農場』のアニメ映画制作を秘密支援した。しかし芸術家たちは必ずしも従順ではなく、しばしば予期しない行動を取り、CIAの統制は限定的だった。(298字)
第6章 キャンパスのCIA:学生
The CIA on Campus: Students
ヘンリー・キッシンジャーは1950年、ハーバード国際夏期学校を設立し、CIAから秘密資金を受けた。この計画は西欧の若い指導者を米国に招き、反共産主義の「理解の核」を作ることを目的とした。全米学生協会(NSA)は1947年設立当初から複雑な経緯でCIAと関係を持った。アラード・ローウェンスタイン会長は1950年ストックホルム会議で国際学生連合(IUS)の分裂を図ったが、本人は秘密関係を知らされていなかった。1950年代を通じて、NSAは青少年学生事務財団(FYSA)を通じてCIA資金を受け、国際学生会議(ISC)の中核となった。グロリア・スタイナムの独立情報サービス(ISI)は1959年ウィーン青年祭でソ連のプロパガンダに対抗した。学生運動は表面的な合意の下で、深刻な世代間対立を内包していた。(299字)
第7章 真実はあなたを自由にする:女性
The Truth Shall Make You Free: Women
1952年、ジャーナリストのドロシー・バウマンは、共産主義者が欧州女性を標的としたプロパガンダ活動に対抗するため、CIAに協力を要請された。コード・マイヤーとの会談の結果、通信委員会(Committee of Correspondence)が設立された。この組織は表向きは独立した女性団体として、世界各国の女性指導者と文通し、民主主義的価値観を広める活動を行った。実際はディアボーン財団などのCIAダミー団体から資金提供を受けていた。委員会内部では「知っている者」と「知らない者」の間に深刻な分裂があった。1967年の暴露後、知らされていなかった女性たちは強い怒りと裏切り感を表明した。この事件は、秘密資金受領が女性の自主的結社活動の原則を根本的に損なうことを示した。アメリカ女性の道徳的権威は透明性に基づいていたからである。(295字)
第8章 世界を救う:カトリック教徒
Saving the World: Catholics
トム・ドゥーリーは1954年のベトナム難民救援活動「自由への通路」で名声を得た。実際はエドワード・ランズデールのCIA工作の一環で、カトリック難民の南ベトナム移住を演出するプロパガンダ作戦だった。著書『悪からの解放』は大ベストセラーとなり、ベトナム戦争への米国世論の支持を形成した。しかし海軍情報部の同性愛者調査により軍を追われ、国際救援委員会の庇護下でラオスの医療活動を続けた。パトリック・ペイトンはアイルランド出身の聖職者で、「家族のロザリオ十字軍」を展開した。実業家J・ピーター・グレースを通じてCIAから秘密資金を受け、南米諸国で大規模な宗教集会を開催した。1964年のブラジル軍事クーデターでは、ペイトンの宗教活動が世論形成に重要な役割を果たしたとされる。しかし第二バチカン公会議後の教会改革により、両者とも組織内で孤立していった。(299字)
第9章 アフリカへ:アフリカ系アメリカ人
Into Africa: African Americans
1956年パリでの第1回黒人作家芸術家会議で、リチャード・ライトは米国代表団の組織化に協力した。この活動から1957年、アメリカ・アフリカ文化協会(AMSAC)が誕生した。表向きは黒人文化の研究・交流団体だったが、実際は人種・階級世界問題評議会(CORAC)を通じてCIA資金を受けていた。AMSACは1961年ラゴスで「アフリカとアメリカの黒人文化」祭典を開催し、西アフリカ文化センターを設立した。しかしアフリカ側からは「文化的植民地主義」との批判を受けた。1965年、ジェームズ・ファーマーのアフリカ歴訪はマルコムXに対抗するCIA工作だった。ファーマーは各国首脳と会談し米国の人種政策を弁護したが、同時にアフリカ政策への批判も展開した。AMSACの活動は黒人エリートの国際的地位向上に貢献したが、一般のアフリカ系アメリカ人との乖離を深めた。(298字)
第10章 崩壊:ジャーナリスト
Things Fall Apart: Journalists
ジョセフ・アルソップは「それは社交的なことだったんだ」と語り、CIAとの協力を友人関係として正当化した。1950年代、アレン・ダレス長官の下でCIAは報道機関との協力を拡大した。ニューヨーク・タイムズ、CBS、タイム誌などの主要メディアがCIAに協力し、記者の身分証明や情報提供を行った。一方、サンフランシスコの雑誌ラムパーツは1966年ミシガン州立大学のCIA関与を暴露し、秘密ネットワークの解明を開始した。1967年2月、同誌が全米学生協会の秘密資金問題を報じると、連鎖的に数十の団体の関与が明らかになった。トム・ブレイデンの土曜夕刊ポスト記事がさらに詳細を暴露し、工作網は完全に破綻した。ジャーナリズムにおける政府協力の時代は終わり、敵対的調査報道の新時代が始まった。この暴露は冷戦合意の崩壊を象徴する出来事となった。(297字)
結論
Conclusion
CIAのマイティ・ワーリッツァーは完全な統制システムではなく、複雑な相互関係に基づいていた。多くの参加団体は自らの目標を追求し、時にはCIAと対立した。秘密資金提供の理由として挙げられるマッカーシズムの影響は部分的説明に過ぎず、実際は戦術的利点が主要な動機だった。CIAは実用主義的に右派・左派を問わず協力者を選んだ。この巨大な秘密ネットワークは最終的に1967年の暴露で崩壊し、アメリカ社会に深刻な影響を与えた。政府への信頼失墜、市民結社への疑念、真の情報収集任務からの逸脱などがその代償だった。冷戦勝利への貢献度は疑問視されるが、共通価値観を持つ海外エリートとの協力が最も効果的だった。現在もCIAの大学関与は続いており、フロント組織戦術も復活している。秘密工作は民主主義の原則と相容れず、公開外交こそが望ましいとケナンも後に反省した。(299字)
結論
CIAとそのフロント組織の関係は、しばしば音楽の朗読や演劇のイメージで描かれてきた。CIAは、巨大なオルガンの鍵盤を弾くように、マリオネットの糸を引くように、あるいは笛吹きの曲を呼ぶように、さまざまに描かれてきた。たとえが何であれ、その意味するところは同じである。スパイは舞台裏から、その秘密の大盤振る舞いの受け手を完全に支配していたのだ。
ここで行われたグループごとの分析は、より複雑な現実を示唆している。確かに、CIAは後援関係の条件を決定するために最大限の努力を払い、表組織の知識人の輪をできる限り小さく保ち、知恵のある者を秘密保持の誓いで律し、問題を起こしそうな者を徐々に排除していった(それゆえ、教条主義的な反共主義者が、より繊細で戦術に長けた冷戦の戦士たちに影響力を奪われるというよくあるパターンが生まれた)。しかし、これがすべてではなかった。人民戦線時代のヴィリー・ミュンツェンベルクの「仲間の旅行者」という侮蔑的な表現を復活させるなら、CIAの前線基地で「罪のない人々のクラブ」だったものはほとんどなかった。本物の無辜の民はまれな存在だった。罪のないはずの人々の多くは、何が起こっているのかをよく理解しており、冷戦におけるアメリカの大義を当然のように支持していたため、それを容認していた。また、金の出どころが何であれ、自分たちの集団的、あるいは個人的な思惑を推し進めるために、単純に金をありがたがる者もいた。また、自分たちの方が政府高官よりも冷戦を戦う能力があると確信して、実際にこの関係で優位に立とうとした者もいた。どの場合においても、従来の音楽的、演劇的なイメージよりも、関係する特定の集団に特有の比喩の方が適切であるように思われる。例えば、労使関係や教会と国家の対立などである。
ここで紹介した証拠によって、米軍前線での活動に関して広く信じられている他の仮定(そのほとんどは、トム・ブレーデンのようなCIAブースターによって生み出された宣伝に端を発していることに注意する必要がある)にも疑問符がついた。そのひとつは、任意団体への秘密資金提供は、冷戦初期のマッカーシー主義的雰囲気によって政府高官に強制されたというものだ。この主張にはいくらかの福祉があるが、最初のフロントグループが戦後最悪の赤狩りに先行していたという事実や、少なくとも短期的にはCIAが秘密主義から得た大きな戦術的利点を無視している。これには、1967年5月にラスク委員会の専門家証人が指摘したように、支援レベルの決定における「かなりの柔軟性」、「最低限のお役所仕事」、そして最も重要なこととして、「資金源が特定された米国政府機関である場合」、米国の援助に疑念を抱く対象住民の目には、独立性があるように映ることなどがある。 「1
同様に、諜報局の秘密活動部門はイデオロギー的に非共産主義左派のグループを支持する傾向にあったという考え方は、やはり推奨すべき点は多いが、ロベストン派、ニューヨーク知識人、メンシェヴィキといった左派と諜報部員との間に存在した緊張関係を説明することはできない。文化面では、CIAは特にモダニズム芸術家を後援する傾向が強かったという主張は、状況に応じて中流・低俗な文化も振興する用意があったことを示唆する証拠によって否定されている。政治的にも美学的にも、CIAの顧客選びは原則よりもむしろ実利主義に左右されていたようだ。CIAの典型的なリベラル派であるブレーデンが、1967年に吹けば飛ぶようなNCLの戦線離脱を、かつての雇い主に進んで手伝ったことは、確かに物語っている。
我々はマイティ・ウーリッツァーについて何を知っているのか?共産主義者の戦線をモデルにし、アメリカの結社主義の自然なエネルギーによって動かされたCIAの秘密ネットワークは、大きな政府と公的な秘密主義を生来嫌い、共産主義を憎み、自分たちの行動の道徳的正義を疑うことなく信じるエリート集団によって構築された。当初の目的の一つであった、「俘虜国」を解放するための東欧圏からの移民を動員することに失敗したネットワークは、代わりに、まず西ヨーロッパ、次いで東南アジア、南アメリカ、アフリカといった発展途上国の共産化を阻止するためにますます利用されるようになった。このような変化が起こるにつれ、元共産主義者のイデオローグが前線作戦に与えた初期の影響は、開発と近代化を重視するリベラルで国際主義的なものへと変化した。しかしCIAは、冷戦時代の反共主義と国内改革という根本的な矛盾を解決することはできず、またグループ自体も、国内での代表性と国外での国際主義という主張と、国家が資金を提供する政治戦争の武器としての秘密目的との調和に成功することはなかった。やがて、1960年代後半に冷戦のコンセンサスが人種、世代、ジェンダーに沿って分断されると、このありそうもない同盟関係を維持するだけでなく、その存在を秘密にしておくことの困難さは克服不可能となり、ウーリッツァーは崩壊した。自殺したウィスナー、幻滅したマイヤー、不祥事を起こしたダレスなど、この 「遊び 」をしようとしたCIA将校たちの人生が、その運命を最も痛切に象徴している。トム・ブレイデンだけが無傷であったが、彼は早々に逃げ出した。
アメリカ人にとって Wurlitzer の代償は、文字通りの意味でも比喩的な意味でも計り知れないものであった。(あるラスク委員会の証人は、私有のラジオ局を除いた 「民間の自発的組織に対する CIA の支援 」の年間経費の合計を約 1500 万ドルと発表している。 学生、ジャーナリスト、聖職者、援助活動家など、本物の非政府組織や、平和部隊のような秘密浸透に抵抗してきた公的機関のために海外で働いていた米国市民すべてに、疑惑の瘴気が立ち込めたのである3。
国内では、1967年の暴露が政府に対する国民の信頼を傷つけた。ウォーターゲート事件や1970年代半ばの政治スキャンダルの数年前に起きたこの事件は、戦後初めて、アメリカ国民が連邦政府高官によって組織的に騙されていることを知った出来事であった。CIAの秘密関与のニュースはまた、アメリカの制度で最も大切にされてきた市民団体というもののイメージを貶め、多くのオブザーバーが20世紀後半のアメリカ生活の特徴のひとつと指摘してきた団体活動の衰退に、間違いなく貢献した4。最後に、そもそもマイティ・ウーリッツァーを生み出した隠密行動崇拝と、作戦が暴露されたときに続く、敵対的な外部からの監視という無力化させ、士気を低下させるような事態は、CIAの創設時の任務である、国家安全保障に対する脅威に関する情報の収集と分析、つまり、もうひとつのピール・ハーバーの防止からCIAを遠ざけた。大統領の不注意や情報操作といった他の要因も相まって、この失敗は不幸な、時には悲劇的な結果を招き、その矛先は一般のアメリカ人に向けられた。
その代償は大きかったのだろうか?アメリカは最終的に、冷戦下の人心争奪戦に勝利したが、この勝利が、消費資本主義の自然発生的な魅力や共産圏内部の要因とは対照的に、政府資金による心理戦対策とどれほど関係があったかは、大いに疑問が残る。プロパガンダが対象住民に与えた影響を測定するのは難しいことで知られており、CIAの前線作戦の場合、研究者はUSIAのような表立った情報機関によって実施された世論調査の結果にさえアクセスできない。研究者がこれまでに実施した数少ない国別調査によれば、その影響にはばらつきがあり、熱狂的な歓迎を受けるフロント組織もあれば、抵抗や日和見的な横領行為にあう組織もあり、CIAがほとんど、あるいはまったくコントロールできなかった現地の状況の気まぐれに左右されがちであった。とはいえ、一つの一般化は可能であると思われる。フロント活動は、世界におけるアメリカのパワーについて肯定的なビジョンを共有する各国のエリートの支持を集めることに成功したときに、最も効果的であった。例えば、ロイター派CIOの国際主義的、近代化的、社会民主主義的な政治は、AFLのロベストン派対外政策機構の叱責的な反共主義や企業別組合主義よりも、海外の労働運動とはるかに相性が良かった。現在、海外における米国のイメージ改善に関心を寄せる人々が、ここで学ぶべき教訓がおそらくあるだろう。
実際、マイティ・ウーリッツァーの歴史が提起した多くの問題は、CIAが依然としてアメリカの市民社会の分野に大きな影響力を持っている今日、非常に生きている。たとえば、アメリカの大学である。1976年、チャーチ委員会は、「諜報目的のための手がかりの提供や紹介、調査・分析における協力、海外での情報収集、書籍やその他のプロパガンダ資料の作成」など、CIAが個々の学者を「作戦上利用している」ことに「攪乱されている」と報告した5。その直後の数年間、ハーバード大学のデレク・ボック学長を筆頭とするアメリカの学術界の指導者たちは、学内でのCIAの活動をある程度統制しようと試み、個々の学者と諜報部員との取引を規定する職務上の行動規範を作成した。1986年には、中東研究センター長のナダヴ・サフラン教授が、CIAの資金を使って出席者に知らせずに国際会議を開いたとして咎めを受けた。学者の探究心と秘密諜報活動の価値観が根本的に対立していると主張する難治性の人物もまだ少数いるが、『ウォールストリート・ジャーナル』紙によれば、CIAは「キャンパスで勢力を拡大している」存在であり、機密情報を取得する意思と能力のある大学院生には特別奨学金まで提供している8。
フロントグループも近年、ある種の復活を遂げている。新保守主義的知識人たちは、一世代前のニューヨークの知識人たちの思想的、生物学的な子孫であり、1930年代に旧左翼がアメリカ国内で初めて使用した戦術や技術を採用し、1950年代にはCIAのフロント組織であるアメリカ文化自由委員会によって復活させられた。新アメリカの世紀のためのプロジェクト(ACCFの役員であり、ネオコンの知識人の「ゴッドファーザー」であるアーヴィング・クリストルの息子、ウィリアム・クリストルの発明)のようなベンチャー企業は、中東における「世界的な民主主義革命」というネオコンの概念を推進している9:
著者がイラン人女性たちに禁断の西洋文学作品を紹介した経験を綴った大人気作であるアザール・ナフィジの『テヘランでロリータを読む:本の中の回想録』を、アメリカのイラン侵攻のためにアメリカ世論を準備するという新保守主義者のプロジェクトと関連付ける報告さえある。10 一方、皮肉でおぞましい対称として、地域福祉団体を装ったイスラム過激派グループは、西側諸国を標的にしたさらなるテロ攻撃のために若いイギリス人イスラム教徒をリクルートしようと、隠れ蓑戦術を使っている。(このやり方がどの程度まで米国に広がっているかは、現段階では明らかでない)11 冷戦終結後、消滅するどころか、フロントグループは健在で、英国のブラッドフォードに住んでいる。
西側の諜報機関は、テロとの戦いでこの戦術を使うべきなのだろうか?冷戦初期に作られた米国のフロントグループの例は、このような作戦が必ずしも冷笑的な操作や受動的な服従を伴うものではないことを示唆している。実際、CIAの官民ネットワークは価値観の共有の上に成り立っており、そこに所属する民間人の側にも驚くほどの自己主張があった。とはいえ、この関係の合意的で自発的な側面にいくらこだわっても、表の戦術が秘密と欺瞞に基づくものであることに変わりはなく、自由と公開の原則を公言する国家で実施された場合、問題はさらに大きくなる。「このような性質の作戦は、この国にはふさわしくない」と、1985年、冷戦の初期に共産主義的なプロパガンダ手法の最も有力な提唱者であったジョージ・ケナンは結論づけた。「私は今日、この間の経験に照らして、この決定が下されたことを後悔している」12。
冷戦下におけるCIAの前線作戦は、個人のキャリアと人生を傷つけ、最終的に暴露されたことで、国家そのものの評判を汚した。人々の心をつかむパブリック・ディプロマシーは、表立った政府機関や本物の非政府組織に任せるべきだ。これが、マイティ・ウーリッツァーの歴史から導き出される最も貴重な教訓である。
『The Mighty Wurlitzer』についての徹底的考察
by Claude 3
思考の出発点:何が隠されているのか
この本を手に取った時、最初に感じたのは違和感だった。なぜこれほど詳細で体系的な秘密工作の記録が存在するのか?通常、真に重要な秘密工作は記録を残さないはずだ。では、ウィルフォードが描き出すこの「マイティ・ウーリッツァー」は、より深い権力構造を隠すための一種のスクリーンなのではないか?
待てよ、この思考自体が陰謀論的発想に陥っているかもしれない。しかし、陰謀論的かどうかという判断基準そのものが、真実の探求を阻害する可能性がある。重要なのは、構造的分析と意図的計画の両方を検討することであり、これらは排他的ではない。
ウィルフォードの研究手法を見ると、彼は主として公開された文書館資料と関係者の証言に依拠している。これは学術的手法としては妥当だが、同時に「公開可能な範囲」という制約の中での研究でもある。本当に重要な工作は、おそらく文書化されていないか、まだ機密扱いのままなのではないだろうか。
「冷戦」という概念への根本的疑問
そもそも「冷戦」という枠組み自体を疑ってみる必要がある。この概念は、1947年のウォルター・リップマン(Walter Lippmann)によって普及したとされるが、実際には19世紀末から続くアングロサクソン系エリートとユーラシア大陸勢力との地政学的対立の継続なのではないか?
ハルフォード・マッキンダー(Halford Mackinder)の「ハートランド理論」やズビグニュー・ブレジンスキー(Zbigniew Brzezinski)の「グランドチェスボード」を考えると、冷戦はより大きな地政学的戦略の一部分に過ぎない可能性が高い。そうすると、CIAの文化工作も、単なる反共産主義ではなく、アメリカ的価値観の世界的普及、つまり文化帝国主義の一環として理解すべきではないか。
しかし、ここで立ち止まって考えてみよう。「文化帝国主義」という言葉自体も、一種のイデオロギー的概念かもしれない。重要なのは、誰が、何のために、どのような方法で文化的影響力を行使したのかを具体的に分析することだ。
エリート・ネットワークの実態
ウィルフォードが描くCIA工作員たちの背景を見ると興味深いパターンが浮かび上がる。アレン・ダレス(Allen Dulles)、フランク・ワイスナー(Frank Wisner)、コード・メイヤー(Cord Meyer)、トム・ブレイデン(Tom Braden)—彼らの多くがアイビーリーグ出身で、法人弁護士や投資銀行家の背景を持つ。
これは偶然ではないだろう。CIAの文化工作は、既存のエリート・ネットワークの延長として機能していたのではないか。つまり、政府機関としてのCIAが民間を操ったというよりも、同じエリート階層が政府機関と民間組織の両方に浸透していたと考える方が実態に近いかもしれない。
この視点から見ると、ウィルフォードが強調する「複雑で双方向的な関係」の意味が変わってくる。それは単なる政府と民間の交渉ではなく、同一のエリート集団内での役割分担だった可能性がある。
例えば、ネルソン・ロックフェラー(Nelson Rockefeller)の例を考えてみよう。彼は戦時中に米州間事務調整官として政府で働き、戦後は現代美術館(MoMA)の理事長として「自由企業絵画」を推進した。これは政府と民間の協力というよりも、一人の人物が異なる立場から同じ目標を追求していたと見るべきではないか。
知識人の「自主性」という幻想
『パルチザン・レビュー』やニューヨーク知識人たちのケースを深く考えてみると、さらに複雑な問題が見えてくる。彼らは確かに反スターリン主義者だったが、なぜ反スターリン主義になったのか?
シドニー・フック(Sidney Hook)やジェームズ・バーナム(James Burnham)の思想的遍歴を追うと、興味深い事実が浮かび上がる。彼らの多くは1930年代にトロツキー派だった。つまり、スターリン派への反対は、より「純粋な」共産主義への信念から生まれていた。それが戦後になって反共産主義に転換した理由は何か?
一つの可能性は、これらの知識人たちがアメリカの資本主義体制の中でより良いポジションを得ることができたからではないか。大学のポジション、出版の機会、講演料—これらはすべて、アメリカ的価値観を受け入れることで得られたものだった。
しかし、ここで重要なのは、彼らが単純に「買収された」わけではないということだ。むしろ、アメリカ的価値観と自分たちの知的欲求が一致する領域を見つけたのかもしれない。これは、より巧妙で効果的な文化的ヘゲモニーの形態ではないだろうか。
労働運動への浸透の構造的意味
AFL(アメリカ労働総同盟)のジェイ・ラブストーンとCIAの関係は、特に示唆に富んでいる。ラブストーンは元アメリカ共産党指導者だったが、スターリンによって追放された。その後、彼は反共産主義者として第二の人生を歩んだ。
これは単なる個人的な恨みの問題だろうか?それとも、より深い構造的要因があったのか?考えてみると、ラブストーンのような人物は、共産主義の内部事情を知り尽くしているという点で、CIAにとって極めて価値の高い協力者だった。
しかし、逆に考えると、ラブストーンにとってもCIAとの協力は有益だった。それは彼に、かつての同志たちに対する復讐の機会を提供したからだ。この復讐願望が、どの程度まで冷戦期の労働政策に影響を与えたのだろうか?
さらに興味深いのは、ラブストーンがCIA職員を「フィズ・キッズ」と呼んで軽蔑していたことだ。これは何を意味するのか?元共産党指導者の方が、エリート大学出身のCIA職員よりも、実際の政治闘争では経験豊富だったということではないか。
つまり、CIAの労働工作は、単なる政府による労働運動の操作ではなく、異なる背景を持つ反共産主義者たちの利害が一致した結果だったのかもしれない。
学生運動への介入の現代的含意
全米学生協会(NSA)への浸透は、特に現代的な含意が大きい。なぜなら、学生運動は社会変革の主要な推進力だからだ。CIAが学生組織に浸透したということは、将来の社会指導者の育成過程に介入したということを意味する。
グロリア・スタイネムのケースを再考してみよう。彼女は後にフェミニズム運動の指導者となったが、若い頃にCIAの工作に関わっていた。これは偶然だろうか?それとも、CIAは将来有望な活動家を早期に発見し、適切な方向に導く能力を持っていたのだろうか?
スタイネムの証言によると、彼女はCIAを「リベラルで名誉ある組織」として認識していた。これは重要な証言だ。CIAの文化工作の成功は、工作対象がそれを工作として認識しなかったことにあったのかもしれない。
現代の文脈で考えると、この問題はより複雑になる。ソーシャルメディア時代において、影響力行使はより巧妙で見えにくくなっている。政府機関が直接関与しなくても、アルゴリズムやデータ分析によって、特定の方向に世論を誘導することが可能になっている。
文化的ヘゲモニーの深層構造
アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)のヘゲモニー論の観点から見ると、CIAの文化工作はより大きな文化的支配体制の一部だったと理解できる。重要なのは、直接的な強制ではなく、被支配者が支配体制を自発的に受け入れるように仕向けることだった。
この観点から、抽象表現主義への支援を考えてみよう。CIAが抽象表現主義を支援したのは、それが「自由な」芸術表現として、ソビエトの社会主義リアリズムと対比させることができたからだ。しかし、なぜ抽象表現主義が「自由」で、社会主義リアリズムが「不自由」なのか?
この判断基準自体が、すでに特定のイデオロギーに基づいているのではないか。抽象表現主義は確かに政治的メッセージを直接的には含まないが、それゆえに政治的現実から逃避する傾向を促進する可能性がある。これは、既存の権力構造にとって都合の良い芸術形態なのかもしれない。
メディアとの共生関係
ジョセフ・アルソップ(Joseph Alsop)とCIAの関係は、政府とメディアの癒着の典型例として語られることが多い。しかし、本当にそれほど単純なのだろうか?
アルソップの証言を見ると、彼は金銭的報酬を受け取っていないし、正式な契約も結んでいない。彼の動機は「国民としての義務」だったと述べている。これを額面通りに受け取るべきだろうか?
一つの可能性は、アルソップのような上流階級出身のジャーナリストにとって、CIAとの協力は社会的地位の証明だったということだ。つまり、金銭的報酬よりも、国家の秘密を知る内部者としてのステータスの方が価値があったのかもしれない。
これは現代のメディアにも通じる問題だ。政府からの「特別な情報」や「独占インタビュー」は、ジャーナリストにとって大きな価値がある。しかし、それと引き換えに、政府に都合の悪い情報は報道しないという暗黙の了解が生まれる可能性がある。
宗教的価値観の政治的利用
パトリック・ペイトン(Patrick Peyton)神父とCIAの関係は、宗教と政治の境界線について重要な問題を提起する。ペイトンの「家族ロザリオ十字軍」は、南米での反共産主義活動に利用された。
しかし、ペイトン自身は純粋に宗教的動機で行動していたと思われる。彼にとって、共産主義は神への冒瀆だった。問題は、この宗教的信念がいかに政治的目的に利用されたかである。
J・ピーター・グレース(J. Peter Grace)という仲介者の存在が興味深い。彼は企業家でありながら、マルタ騎士団のメンバーでもあった。宗教的権威と経済的権力、そして諜報機関が一体となった構造がここに見えてくる。
これは現代でも続いている問題だ。宗教的価値観と政治的目標が一致する時、信者は自分が政治的に利用されていることに気づかない。むしろ、政治的行動を宗教的義務として認識するようになる。
アフリカ系アメリカ人コミュニティへの複雑な浸透
アフリカ文化アメリカ協会(AMSAC)の事例は、人種問題と冷戦の交錯を示している。興味深いのは、CIAが公民権運動を支援する一方で、それをアフリカ政策に利用したことだ。
ジェームズ・ファーマー(James Farmer)のアフリカ歴訪は、マルコムX(Malcolm X)の影響に対抗するためのものだった。しかし、ファーマー自身は公民権運動の真の指導者であり、アフリカ歴訪でもアメリカの外交政策を批判した。
これは重要な示唆を与える。CIAは完全にコントロールできない人物も利用せざるを得なかったということだ。ファーマーのような人物は、CIAの目的に部分的に貢献しながらも、同時にそれを批判する立場を保った。
リチャード・ライト(Richard Wright)の最後の講演での発言は象徴的だ。彼は「西欧世界の革命運動の大部分は政府がスポンサーになっている」と述べた。これは、CIAの工作を内部から観察した者の証言として極めて重要だ。
構造的権力の継続性
1967年の暴露によってCIAの公然とした文化工作は終了したが、権力構造そのものは変わったのだろうか?ウィルフォードは最終章で、前線組織の戦術が現代でも使われていることを指摘している。
しかし、より重要なのは、同じエリート・ネットワークが異なる形態で影響力を行使し続けているということではないか。現在では、政府機関ではなく、巨大IT企業や投資ファンドが文化的影響力の中心となっている。
グーグルやフェイスブックのアルゴリズムは、1950年代のCIA以上に強力な文化的影響力を持っている。しかも、それは「中立的な技術」として提示されるため、政治的意図を隠蔽しやすい。
ジョージ・ソロス(George Soros)の「オープン・ソサエティ財団」や、ビル・ゲイツ(Bill Gates)の「ゲイツ財団」などは、表面的には慈善事業だが、実際には特定の政治的・経済的目標を推進しているのではないか。
日本への含意と現代的課題
日本の文脈で考えると、戦後の「民主化」過程でも同様の工作が行われていた可能性が高い。GHQによる占領政策だけでなく、その後の日米関係の中でも文化的影響力行使は続いていたはずだ。
例えば、日本の学生運動が1960年代末に急速に反米化したのは、偶然だろうか?それとも、それまでアメリカ寄りだった学生指導者たちが、CIAの工作を知って反発した結果だろうか?
現代の日本でも、シンクタンクや研究機関、NPOなどを通じた影響力行使は続いている。特に、対中政策や安全保障政策の分野では、アメリカの政策と一致する方向への誘導が行われている可能性がある。
メディアについても同様だ。記者クラブ制度や、政府広報費の配分システムは、直接的な買収ではないが、報道内容を一定の方向に導く効果を持っている。
認識論的な根本問題
最終的に、この問題は認識論的な次元に行き着く。我々はどのようにして「真実」を知ることができるのか?CIAの文化工作が明らかにしたのは、我々の世界認識そのものが、特定の権力によって形成されている可能性があるということだ。
「自由」「民主主義」「人権」といった概念も、それが普及する過程で特定の政治的目的に利用されたとすれば、これらの概念の「中立性」を疑う必要があるのではないか。
しかし、ここで相対主義に陥ってはならない。重要なのは、どの価値観がより多くの人々の福祉に貢献するかを具体的に検討することだ。
システミック・リスクとしての情報操作
ウィルフォードの研究が示すのは、情報操作がシステミック・リスクとなり得るということだ。短期的には目標を達成できるかもしれないが、長期的には社会全体の信頼関係を破壊する。
1967年の暴露は、アメリカ社会に深刻な不信を植え付けた。それは、後のウォーターゲート事件や、現在の「フェイクニュース」問題の土壌を準備したのかもしれない。
現代の情報環境はさらに複雑だ。国家だけでなく、企業や個人も情報操作の主体となり得る。そして、AI技術の発達により、操作の規模と精度は飛躍的に向上している。
民主主義の根本的ジレンマ
最終的に、この問題は民主主義の根本的ジレンマに行き着く。民主主義を守るために、民主主義的価値を犠牲にすることは正当化されるのか?
CIAの文化工作の担当者たちは、共産主義の脅威に対抗するために必要だと信じて行動していた。しかし、その過程で、彼らが守ろうとしていた「自由」そのものを損なっていた。
ジョージ・ケナン(George Kennan)の晩年の後悔は、この矛盾を最もよく表している。封じ込め政策の理論的父が、自らの政策を否定したのは、手段が目的を腐敗させることを理解したからだった。
未来への教訓
それでは、この歴史から我々は何を学ぶべきなのか?
第一に、透明性の価値である。秘密に基づく政策は、短期的には効果があるかもしれないが、長期的には必ず露見し、より大きな損害をもたらす。
第二に、多様性の重要性である。CIAの文化工作が成功したのは、画一的な価値観を押し付けたからではなく、多様な動機を持つ人々を統合したからだった。しかし、その多様性は結局、より大きな統一性によって利用された。
第三に、批判的思考の必要性である。権威や多数派の意見に盲従するのではなく、常に根本的な疑問を持ち続けることが重要だ。
そして最後に、歴史の連続性を理解することである。冷戦は終わったが、権力構造は形を変えて継続している。現在の情報戦争は、1950年代の文化工作の延長線上にある。
ウィルフォードの『マイティ・ウーリッツァー』は、単なる歴史書ではない。それは、権力と情報、真実と操作の関係について、現在も続く重要な問いを提起している。我々一人一人が、この問いに向き合う責任を負っているのである。
真の民主主義は、完全な透明性の上にのみ構築され得る。しかし、完全な透明性は現実的に可能なのか?この矛盾を解決する道筋を見つけることが、21世紀の最重要課題の一つなのかもしれない。