民主主義・自由

民主主義の終焉 | 第2章 支配する少数派
The End of Democracy

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原著は 2014年にフランスで出版された

目次

  • 序文
  • はじめに
  • 「自己統治」する人々
  • 支配する少数派
  • 全体主義的民主主義
  • 福祉国家
  • 欧州連合
  • 左翼と右翼
  • 「脱文明」
  • 将来の展望

第2章 支配する少数派

人民による統治は、まったく現実的でない。一人の人間のように、民衆が意見を出し、票を投じ、決定を下すなどということは不可能である。人民には仲介者や代表者がいなければならず、彼らが常に真の支配者の代わりとなる。民主主義においては、各有権者は、それ自体では使用不可能な、主権という小さな粒子の預け先である。彼の唯一の力は、投票用紙を箱に入れることであり、それによって彼は、彼を代表することになる人々の利益のために、自分の主権の一片を直ちに奪われるのである。

民主主義が存在する限り、「自己統治」する人々が実際にはほとんど何も発言できないように、あらゆる手段が考案されてきた。誤った原則の上に築かれた制度は、必然的に、時にはこれらの原則からかなりかけ離れた歪みをもたらす。民主主義では、現実は原則に反している。多数派が勝つことはほとんどないと言える。民主主義は多数派のシステムではなく、最も強力な少数派のシステムであり、その権力は単にその数のためだけでなく、何よりもその組織のためにあるのだ。

民主主義は、政党に支えられた支配階級を生み出し、彼らの最大の目的は権力の維持である。選挙は、その結果を制限しようとするものであるが、権力の行使を正統化するための手段にすぎない。政党は一旦成立すると、少なくとも共通善に奉仕しようとはしない。むしろ、それがまず自分たちの利益、つまり権力にとどまり享受することに役立つ場合にのみ、そうするのである。

政党は人口の少数派に過ぎない。イデオロギーや社会階級、あるいは国民のどんな層を代表しようとも、ファッションやスタイル、言説のタイプ、あるいは単なる公約を体現しようとも、国民全員を代表するようなふりをすることは決してできない。その上、権力闘争のために、彼らは人々を互いに対立させ、信奉者を探し、人々を対立する派閥に分割することを余儀なくされる。分裂からその存在を得るこれらの政党が、(少なくとも彼らが望む限りにおいて)共通善に貢献できると考えるのは素朴なことだろう。彼らは、自分たちの党派、つまり少数派の共通善の観念を国民に押し付けることによってのみ、そう主張することができるのである。

政党のメンバー、つまり投票用紙に記載される人たち、したがって選挙で選ばれる人たちは、その地位をその人気に負っており、その結果、彼らは必然的に社会のできるだけ大きな層の代表でなければならないという反論もあるかもしれない。この考え方は、おそらく、まだ権力を行使しておらず、権力によって堕落していない非常に活発な政党に当てはまる。一般に、政党は、権力についた瞬間に、代表機関としての機能を停止する。政党は、自分たちの基準に従って権力を行使する準備ができるように、先回りしてこのような変質を党員たちに働きかけてもいる。

個人的な人気は政党に役立つが、戦略家の影に隠れる危険のある活動家を排除することもできる。権力は、多くの男女に、抵抗することができるごく少数の人々を魅了するが、こうした少数の人々は、一般に民主政治に関与しない。このように、権力をめぐる戦いは、党のレベルで始まる。そこでは、誰が候補者リストの適格な位置に置かれるのかが選択される。[しかし、この選考の基準は、有権者が通常想像しているものとは大きくかけ離れている。必ずしも党の綱領に忠実な人物を出すとは限らない。そのような候補者は、しばしば理想主義的である。主義主張が強く、妥協を許さないかもしれない。このような候補者は、民主主義国家を統治するのに適していない。候補者の第一の資質は、理想でも人気でもなく、理想を裏切り、有権者に嘘をつく能力である。これは政党にとって有益であり、政権を維持するための工作を可能にするからである。その結果、党の後ろ盾となる、理念がなく、人気もない人たちが押し寄せることになる。政党の目標は、国家を征服することであり、戦略的な意味で国家を占有することである。単に社会を変革するためだけでなく、何よりも党員のために最大の利益を得るために、国家の機構とその運営に携わる人々をコントロールしなければならない。

政党候補者の心理については、多くのことが語れるだろう。まず気がつくのは、政党の党員になった人の変身ぶりである。会議に出席し、候補者として登録したならば、彼らはすでに精神的に向こう側、つまり権力の側に渡っている。政治家のような理屈をこね、市民なら誰でもすぐに非難するはずの虐待を正当化し、国民の最大の関心事には(たとえ正反対のふりをしていても)あまり敏感ではなくなってしまう。彼らの言説は滑りやすくなっている。彼らが動き回る非政治化された人々の言説とは、ますますかけ離れたものになっていく。同胞の最大の関心事は優先されなくなる。彼らは、社会が苦しんでいる悪を別個に特定し、その原因を一般に認識されているものとは別のものに帰着させる。ある種の問題(例えば、高い犯罪率)を存在しないことにしたり、誤った原因(例えば、高い犯罪率に経済的な原因があるなど)に帰結させたりするほどである。権力は、それを行使する前でさえ、彼らに道徳的腐敗と精神的退廃をもたらす。そうなったとたん、彼らはもはや彼らを選んだ国民にではなく、政党という権力獲得のための機械に属することになる。

政党は、そのメンバーの中で、最も優れた操作者であることを示す者を前面に押し出す。しかし、その中で、自分自身が操られることを最もよく受け入れる者だけが権力に就くのである。したがって、党の綱領の真理を信じ、その実践に人生を捧げる覚悟のある理想主義的な活動家は、党の最下層から脇に追いやるのが賢明である。そのような人たちは、すべてを妥協する危険を冒しているのである 彼らは、有権者の信頼を得るために基層部では役に立つが、権力を獲得してはならない。

一方、理想的な政治家は、柔軟で、説得力があり、本能的に嘘をつく人である。どのような綱領にも執着せず、イデオロギー的な目的も持たない。彼が真にコミットしているのは権力だけである。その威信と利権を求め、何よりもそれによって個人的に豊かになろうとする。このような側面を示す政治家は、民主主義国家では権力者にふさわしいと認められる。彼は仲間から尊敬され、彼の節度、問題に対する知識、政治的手腕が称賛されるだろうが、それは彼の受動性と悪徳性をカモフラージュする手段に過ぎない。したがって、民主的に選出された議会がほとんどこの種の男女で構成されていることは驚くには当たらない。選挙で選ばれた国家元首はほとんどこのプロファイルに当てはまり、欧州連合などの国際機関では、これが唯一受け入れられるプロファイルだと考えられている。このプロファイルに当てはまらないものは 「過激派 」である。

それゆえ、ジャン=イヴ・ル・ガルーは2012年のフランス大統領選挙をこう捉えている。

有権者は共和国大統領を選ぶために存在するのではない。有権者の役割は、グローバリストの超階級がフランスにおける彼らの利益を代表するために許容できると考える候補者に、民主的な正統性を与えることにすぎないのだ。第一ラウンドには真の選択肢があった。第2回ではもはや何もない。ブリュッセルから発せられる欧州官僚主義的規制、ストラスブールとルクセンブルグの欧州裁判所の判事へのフランス法の服従、NATOへの軍事的統合、WTOが望むグローバル自由貿易ルールの受け入れ、欧州中央銀行への通貨主権の委譲、といった本質についてはニコラ・サルコジとフランソワ・オランドで一致している。これらすべてについて、オランドにしろサルコジにしろ、操縦の余地はどこにあるのだろうか。一方の激しいレトリックと他方の体面を除けば、その違いは何なのだろうか。[12]

政党のメンバーは政治的階級を形成している。彼らは自らの動機に応じ、共通の利益とは異なる利益、すなわち権力への接近やその行使から生じる利益に奉仕する組織された少数派である。公的資金へのアクセスは、彼らの主要な目的の一つである。民主主義には裁定者が存在しないので、この政治階級はより自由に行動する。より正確に言えば、裁定者の役割を果たすべき者、つまり国家元首は、自身も政党、通常は政権党の一員である。立憲君主制の国王のように選挙で選ばれないと、権力を奪われ、裁定者としての役割も効力を失う。

このような政治家層は、有権者に対して自律性を志向するようになる。支配的な地位を確保するために、彼らは選挙リスクをできる限り減らそうとする。そのために、メディアを利用したり、規制の仕組みを利用したりする(議会に議席を持つ政党にのみ公的資金を配分する、議会で政党代表権を得るために全国で最低5%の投票を要求する、志望政党に過剰な投票アクセスルールを課す、など)。しかし、このような民主主義の乗っ取りは、寡頭制の側にもある程度の慎重さを要求する。選挙で選ばれた者、つまり権力を得た者に一種の正統性を与える民主主義の儀式を維持することが不可欠である。選挙、テレビ討論、議会討論、そしてある種の反対運動を続けることが必要なのである。しかし、これらは儀式に過ぎない。権力に参加しているような錯覚を与えるためにあるのであって、参加そのものではない。

民主主義が多数派ではなく少数派の政治であることは、選挙の統計分析を通じても容易に観察できる。まず考慮しなければならないのは棄権率であり、これは有権者の30%にも達する。つまり、ある候補者や政党の得票率は、100ではなく、70を基準にしていることになる。さて、有権者といっても全人口ではない。選挙権がない未成年者を中心に、選挙権がないとされる人々を差し引く必要があるからだ。この部分は人口の約15%である。つまり、選挙で得られる得票率は、棄権者の30%と未成年者の15%を差し引くと、実際には全人口の55%しかない。

選挙では、一般に勝利した政党は20%から30%の票を獲得する。仮に30%としよう。実際の投票率である55%を基準にすると、その政党は全人口の16.5%しか票を獲得していないことになる。家族参政権に反対し、棄権率だけを考慮すると、この得点は総人口の21%になる。

2009年の欧州選挙では、欧州の人口の56.59%が投票しなかった。2004年と比較すると、2%の増加である。ベルギーとルクセンブルグで投票が義務化されていなければ、この棄権率はさらにわずかに高かっただろう。フランスでは59%に上った。このような棄権率は、明らかに欧州議会の代表性に疑問を投げかけている。欧州議会の議員は、事実上、全欧州人の半分以下しか代表していない。

2008年の米国大統領選挙では、民主党候補の得票率が53%、共和党候補の得票率が46%であり、8000万人(人口の26.6%)の米国人が投票に行かなかった。2012年の大統領選挙では、民主党候補の得票率が51%、共和党候補の得票率が47%となり 2008年より投票率が低下している。

フランスでは、やはり棄権率がより顕著に表れている。2002年の大統領選挙では、第1回投票でジャック・シラクが19.8%、ジャン=マリー・ルペンが16.8%の得票率を獲得した。棄権率は28.4%だから、シラク候補の実質得票率は14.26%と下がっている。つまり、シラク候補が大統領になることを望んでいたのは、このごく一部のフランス国民に過ぎないということだ。もちろん、シラク候補が第2回投票で82.21%を獲得したことは誤解を招きかねないが、それはシラク候補がこのような素晴らしい結果を得たのは、対戦相手の候補者と、フランスの有権者が浴びせたメディアの誇大広告に負うところが大きい。つまり、エリゼ宮にジャック・シラクを望むフランス人は、わずか15%に過ぎなかったのである。

2007年の大統領選挙では、サルコジが第1回投票で31.18%、第2回投票で53.06%の得票率を獲得した。棄権率は両戦とも16%近くあり、第1回が26.19%、第2回が44.57%となる。エリゼ宮にニコラ・サルコジを望むフランス人は、2人に1人以下であった。2012年には、20%のフランス人が第1回目の投票を行わなかった。2人の候補者はそれぞれ30%以下の得票率しか獲得していない。現実には24%の得票率であった。

最近では 2017年のフランス大統領選挙の第2ラウンドで、棄権率が26%に上昇し、さらに約8%の有権者が白紙または無効な抗議票を投じた。その結果、エマニュエル・マクロンは66%の得票率ではなく、フランス有権者の半分以下である44%の得票率で大統領に就任した。

議会制度では、投票率が低いと無効となるような最低投票率は定められていない。そのようなことをすれば、制度はかなり弱体化する。したがって、棄権率が50%、60%、あるいは80%になっても、選挙は有効である。棄権した人は無関心とみなされ、結果的にどんな結果でも受け入れることになる。

もちろん、有権者がなぜ投票しないのか誰も知らないのだから、問題を解決するには好都合な方法である。権力者たちは、有権者がなぜ投票を棄権するのかを調査することもなく、棄権主義という現象にあまり関心がないようである。理由はどうあれ、国民の2割が投票を拒否する民主主義は病んでいるのである。中国やベトナムでは、投票権を要求したために刑務所に入れられる人がいる。ヨーロッパでは、一部の国民が制度の本質を知ったようで、「投票は本当に意味がない 」と主張している。

棄権主義は、そのベールの一角を取り払う。それは重要な指標である。選挙結果に無関心なのではなく、自分の選んだ候補者が勝つ見込みがないから、あるいは、どの候補者が勝っても同じように国が統治されると考えるから、棄権者は投票する意味がないと考えているのである。もしこの直感が検証されれば、棄権者は民主主義システムの寡頭制的性質を暗黙のうちに認識していることになる。彼らは、党派的な対立を超えて、国家権力の集中、民主主義の原則の擁護、選挙で選ばれた役人が本当のボスに「使える」という本質的な合意が政党間に存在することを認識しているのである。

しかし、最近の選挙では、選挙で選ばれた人たちが決して国民の大多数を代表しているわけではないことがわかる。絶対多数を得るためには、例外的な歴史的経緯が必要である。しかし、ある政党が絶対多数を得ると、民主主義体制に終止符を打ちたくなることがある。民主主義は、決して自滅から守られているわけではない。政党が弱すぎるときは少数派の支配となり、政党が強すぎるときは制度を危うくする。どちらの場合も、民主主義は不可能であることを自ら示している。

19世紀のほぼ全期間、ヨーロッパ諸国では富裕層にのみ投票権を与える検閲的参政権が実施された。少数派の有権者が投票し、代表されたのである。普通選挙制度の導入は、この問題を置き去りにしただけだった。議会はより多くの政党に分裂し、絶対多数の獲得は非現実的になっている。これは、別の形で、民主主義が逃れられないと思われる少数派の原理への回帰である。

連立政権は、一見するとこの問題の解決策に見える。より重要な政党でありながら、50%以上の得票を得ることができない政党が、議会での多数派を構成するために同盟を組むのである。この連合は、2つ、3つ、あるいはそれ以上の政党をまとめることができる。

2010年から2015年にかけて、保守党が自由民主党と連立政権を組まなければならなかったとき、一度に一党しか政権を取れないことに慣れていたイギリス人は途方に暮れたようだった。そのような状況では、統治は困難であり、不可能にさえ思えたのである。しかし、オランダ、ベルギー、オーストリアは、通常そのように統治している、あるいは少なくともそうしようとしている。連立政権は、議会でのより大きな基盤に依存するため、より民主的であると主張し、その結果、人口のより大きな部分を代表していると主張する。この部分が多数派になることはほとんどない。連立政権が国会で多数を集めたとしても、棄権率に照らせば、この多数は国民の真の多数を代表しているとは言えない可能性が高い。しかし、問題はそこにあるのではない。連立政権は、そのワインに水を差すことを余儀なくされる。政府間協定に参加する各政党は、自らの政治的綱領の一部を放棄する。議会の多数派は、各政党のプログラムを疎外することと引き換えに得られるのであり、それはまた少数派の原理が勝利するということに帰結する。例えば、3つの政党が連立政権を作り、それぞれが連立を成立させるために、選挙綱領の3分の1を放棄したとしよう。これは、この3分の1が重要だった有権者を代表しなくなるに等しい。この連立政権は、たとえ議会で多数を占めたとしても、それを構成する政党に投票した有権者の全体を代表するものではもはやないのである。

したがって、連立政権が国民の過半数を代表していると主張することは不可能である。連立政権を構成する政党が綱領のあれこれをあきらめるたびに、有権者の一部を裏切ることになる。ベルギーのように連立制をとっている国では、選挙前に各政党が連絡を取り合い、有権者の知らないところで協定を結んでいる。そのため、選挙戦は先手を打たれているようで、ジョークになってしまう。もし、有権者が影で紡がれている同盟関係を知れば、投票先を変える可能性は高い。だから、この会議は秘密裏に行われるのである。このように行動することで、政党は選挙の前にも後にも有権者を裏切っていることを認識しているのである。選挙の目的は国民の意見を知ることではなく、政党に正統性を与えることであり、そのことに懐疑的な目が向けられるようになった。

どのケースでも、民主主義は少数派の寡頭政治体制に引き寄せられるように動いているのが見て取れる。このような傾向は、民主主義の偶然の産物であり、構造的な修正によって回避できるものではないことを理解することが重要である。これは、民主主義が普遍的に認められた原則にもかかわらず、悪用されることがあると信じる、非常に一般的な誤解である。この誤りは、大義の必要性を満たすために、国民の心の中に生き続けている。人々の不満の感覚は高まっているが、民主主義に希望を失い、背を向けるようなことは特に許されない。したがって、民主主義において権力を行使する者は、民主主義が最高の健康状態にあるわけではないことを認めることが肝要であり、それはどこを見ても顕著に明らかである。しかし、それは偶然に過ぎず、民主主義の原則は人間が自己統治のために発見した最高のものであることを明らかにしなければならない。

この理屈は、現在のエスタブリッシュメントの寡頭制志向を心から非難する多くの人々を誘惑し、民主主義自体が悪い政治制度であることを認めさせるものではない。しかし、これは、自分たちの権力を維持したい人たちが仕組んだ欺瞞に過ぎない。「私たちを信じてほしい!私たちが物事を正してあげる!」と。

民主主義は、偶然に病気なのではない。原理的にそうなのだ。民主主義の原理は誤りであり、実行不可能である。その適用は、重大な異常と人災を生み出すだけである。

それでも、民主主義はその実践においてのみ異常であることが判明したと考える人がいるかもしれない。しかし、これもまた都合のよい虚偽である。現実には、民主主義は、寡頭政治を実現し、それを維持するために発明されたのである。イギリスにおける議会制君主制の確立の歴史や、フランス革命やロシア革命の歴史は、イデオロギーや特定の利益を代表する社会階級や集団が、公平な裁定者-君主-の手から可能な限り権力を奪い、自分たちに有利になるようにしようと決意したことを裏付けるものである。このような現象はどこででも起こる。人民の利益のために奉仕し、人民の自由をもたらすという口実のもと、強力な少数派、多くは金持ちが、自分たちの利益のために権力の手綱を握ろうとするのである。

しかし、議会制民主主義を特徴づけるものは、こうした利益集団が直接的に行動しないことである。共産主義やファシスト政権では、少なくとも誰が権力を握っているのか、どんなイデオロギーが支配しているのか、どんな利益が優先されるのかがわかる。後者の政権は、その残忍さにもかかわらず、自分たちのゲームを隠すことはない。しかし、議会制民主主義では、その原動力は政治の表舞台には現れず、最終的な受益者もメディアのスポットライトを浴びることはない。

政党は権力闘争の中で、お金の力によって支えられている。民主主義国家においては、政党が支配権を行使する前も、間も、後も、常に政治権力より強力な存在である。民主主義において、なぜ経済が政治に勝るのかと考えるなら、その答えは、政治権力の刹那的な性格に対して、金融権力の永続性に容易に見いだすことができる。後者は常に限られた任期に分割され、常に再獲得が必要であり、決して長期間にわたって獲得することはできない。これは、民主主義の主要な弱点の一つである。これに直面したとき、政治権力は、選挙や任期に左右されず、大きな挫折もなく、個人からさえも独立して、永久に力を持ち続ける経済、金融、商業の主体を見出すことができる。経済学は、ここで決定的な優位性を享受している。政党は常に選挙資金を必要とし、自立しているわけではないので、必然的に経済的に支援してくれる人に頼ることになる。さらに、民主主義の政治家は、自分を売り込むことにかけては卓越した人物である。彼は公平ではなく、人気取りの二重のゲームに翻弄され、その権力は常に短期間しか続かない。それゆえ、彼は、権力の座にある短い時間から最大の利益を得ようとする誘惑に駆られる。

民主的な支配者は、その権力の所有者ではなく、一時的な保有者に過ぎない。したがって、世襲君主のように、統治する国の資産の価値を維持しようとする自然な傾向はない。後者は、単に短期的な私利私欲の動機を貸したのではなく、自分とその子孫が長期的に利益を得ることになるので、公私の良好な状態に関心を持つ所有者としてふるまう。国家が享受する繁栄と自由、そして満足の程度は、君主にとって取るに足らないことではなく、彼はそれを喜び、そこから利益を得るのである。民主的な支配者には、このような心配はない。彼は、短期間だけ財を享受し、その長期的価値には無関心な賃借人のような振る舞いをする。[13] このような態度は、国民の間に浸透している民主的個人主義によって容易になる。民主主義における個人は「支配者と同様に完全な匿名性、秘密性、法的無責任性の中で行動する」 [14]。

結局のところ、民主主義の支配者はその説明責任のなさによって保護されている。彼は任期が終了すれば、合法的に行った決定について説明する必要がない。彼は議会の多数決によって守られており、共通善を追求するための最善の方法を真に検討することを免除されている。そのため、任期終了後に影響が出るような軽はずみな決断をしがちである。国の借金は、将来の世代を巻き込む、この民主的説明責任の欠如の最も典型的な例である。

民主的な政治家は、その短期的な利益説明責任のなさから、天職として堕落しやすいのである。それどころか、権力の座から最大限の利益を引き出そうとするのだ。それゆえ、党のレベルでは、党の後ろ盾にとって障害となるような道徳的硬直性やイデオロギーを持つ男女を政治的重要なポストに就けないように警戒することになる。

マネー・パワーとは、大規模な産業・商業グループ、エネルギー・軍需市場、銀行を意味する。彼らは人口の大多数を形成しておらず、隠れた少数派として活動しているが、代理人を介して政治権力を利用し、自分たちの利益を図ろうとする。民主主義国家の真の主人は、金権勢力である。長期的な決定を下し、自分たちの見解を示し、政府の主要な行動方針を決定するのは、最終的には彼らなのだ。

政治権力は、時には金権勢力と妥協することもあるが、最終的には独立を保つと考える人がいる。それは間違いである。最後の決定権を握っているのは金権者であり、政治家の妥協は絶えない。その理由は、まず構造的なものである。政治力が弱いのは、その任期が短く、常に更新され、常に不確実だからである。政治権力は国境の内側にしか行使されない。政治家階級は、たとえ権力を獲得することが確実であっても、その権力が構成政党にどのような割合で配分されるかはわからない。政治家は、自分の任期が更新されるとは限らない。しかも、政治家は自分のイメージに非常に敏感であり、一歩間違えば、汚職や不正が発覚して命取りになりかねない。この弱点とは対照的に、金の権力者は時間の連続性を享受し、政治的な国境に縛られないという大きな利点を持つ。だから、国際的な大グループは強力なのである。ある国で障害に遭遇したら、別の国に目を向ける。そして、その国の住民に仕事を与えるか、失業させるかを交渉するのである。金権勢力はメディアを所有することが多く、メディアを通じて世論に決定的な役割を果たすことができ、政治家はそれに依存する。彼らのビジネスの売上高は、時には民主主義国家のGDPよりも大きいので、後者を脆弱な立場に置くことは難しいことではない。

金の権化は金を持っている。言い換えれば、この世界で最も強力で普遍的な人民操作の手段である。彼らは政治家を腐敗させ、選挙キャンペーンに資金を提供することができる。民主主義のレバーを握っているのは彼らである。

民主主義国家では、政治権力は弱体化し、金権勢力は強大化する傾向が常にある。しかし、後者は、政治権力を自分たちの進出に近づけなくする民衆運動が起きないように、それが見えないようにモニタリングし、それによって自分たちの利益を損なわないようにする。腐敗させる側と腐敗させられる側、この二つのパートナーにとって、合意を秘密にしておくことは極めて重要な利益となる。今日、より明白なのは、メディアが政治権力と金権勢力にどれだけ服従しているかということである。そのため、一般市民はほとんど何も知らず、たまたま明るみに出たとしても、政治権力はそれを根拠のない中傷として簡単に糾弾することができる。

しかし、それでも情報は漏れてくる。メディアの世界は、ポリティカル・コレクトネスの圧制によってますます麻痺し、そのために完全に偏った世界観を示すようになり、インターネットは自由な情報の主要な供給源となった。

民主主義における腐敗を2種類に分けることが必要である。第一の種類は外部腐敗で、これは政治権力に対して金の力(多国籍組織、銀行、利益団体、ロビー団体)が行使するものである。この種の腐敗は、それが違法に発展した場合には秘密にされ、許容範囲にとどまっている場合には目立たないようにされる。将来の法律の内容を修正するために封筒を受け取ることは違法である。一方、トルコのリビエラでの休暇を提供されることは、必ずしもそうではない。

外部からの汚職の前段階は、ロビー活動グループによって行われる。これらの団体は非常に多く、特に法律が投票される場所に多く存在する。彼らの使命は、適切だが偏った情報を通じて議員に影響を与え、自分たちの利益の方向に決定を揺さぶることである。ある問題について最初に提示された説明は、たとえそれが後に形を変えたとしても、その後、議員の心の中で一定の権威を保つことができることを理解し、議会の委員会が発足した瞬間から自分たちに有利な立場に立つようモニタリングを続けているのである。ここで注意しなければならないのは、議員たちは議論している問題の専門家ではないということだ。一般に、彼らは自分たちが扱っている事柄について全く無知であるとさえ言える。彼らは男女の政治家であり、特別な訓練を受けたわけでもなく、その指導のレベルも平凡である場合がある。この人たちは、自分の意見を持ち、委員会に参加し、場合によっては記者に対応する必要がある。ロビインググループは、最も一般的な反対意見を予測し、いくつかの数字を示す基本的な情報を提供することで、彼らにその準備をさせている。

民主主義の透明性が低ければ低いほど、ロビイングは活発に行われる。法律が制定されるまでの間、ロビイストたちは影響力を求めて現実的な競争を行っている。法律の起草と通過における彼らの役割を過小評価するのは間違いである。欧州連合では、ロビイストは避けて通れない行為である。もちろん、最も裕福で最もよく組織されたグループだけがトップに立つことができる。最新の推定によれば、さまざまな団体、企業、特別利益団体、イデオロギー団体のために約15,000から30,000人のロビイストが欧州議会の周りにハエのように群がっている[15]。[15] 数千のロビー事務所がブリュッセルに常設されている。その大部分が欧州議会の公認を受け、さらには欧州連合から補助金を受けており、その影響力の大きさを物語っている。

このような集中は、ロビー活動が結果をもたらすことを証明し、議員たちが擁護する真の利益を明らかにする。ブリュッセルやストラスブールに座る代表者たちは、有権者から遠く離れ、メディアのスポットライトも十分に浴びることができない。議会で彼らの票を左右するのはロビー活動である。代表者のうち、75%が産業界関係者である。例えば、ヨーロッパ人の大多数が遺伝子組み換え作物に反対しているのに、EUが遺伝子組み換え作物に対して有利な立場をとっているのは、このためである。

国会議員へのロビー活動が十分でない場合、あるいは決定が行政当局に渡った場合、圧力団体と金権勢力は積極的な汚職に手を染める。レストランでの昼食、天文学的な費用のかかる休暇、豪華ヨットでのクルーズ、微妙な状況での「助け舟」、あるいはもっと単純に、封筒などである。政治家階級全体がこのように動いている。このような慣習は標準的なものである。

完全にニセモノの伝染病に対するワクチンの大量購入 [16] や、国民に圧倒的に拒絶されたトルコの欧州連合加盟への立候補など、ヨーロッパの政治的決定者による不合理で正当化できない、まさにスキャンダラスな決定をうまく説明するのが、この腐敗なのである。

腐敗の第二の形態は、内部腐敗、あるいは自己腐敗と呼ぶべきものである。これは、国家が自らの政治家を腐敗させるもので、彼らからより大きな従順さを獲得し、通常形成される良心にショックを与えるようなことには目をつぶるように仕向けるのである。このような行為には、民主主義の制度が特に適している。なぜなら、民主主義には裁定者が存在しないからである。もしアービターの役割を議会が果たすとしたら、国会議員を堕落させることになるが、それは極めて容易なことのように思われる。これまで、給与の引き上げの議決自体を拒否した議会はない。

民主的な政治家の給与と複数の手当は一般に非常によく知られておらず、その数字を入手するのは容易でない。政府は、当然のことながら、非常に不人気であるという理由から、それらを隠す傾向にある。しかし、給与と手当は、職業上の義務に比例していないため、制度の安定性を保証する最良のものである。政治家と公務員の共謀が容易に得られるだけでなく、社会の他の部分とは不釣り合いな生活水準を享受しているという事実によって、世間から切り離された特権的エリートであるカーストに属しているという感覚が生まれる。この感覚を生み出すのに、お金ほど効果的なものはないし、お金ほど早く良心を堕落させるものもない。人間は罪悪感を持ちながら長期的に生きていくことはできないので、このシステムの優遇者たちは、自分たちの高額な給料とそれに伴う複数の利益について、あらゆる正当化理由を考える。そのため、自分たちが利益を得ている不正を常に目の前にしないように、互いに、あるいは非常に裕福な人たちと付き合おうとするのである。

政治家にとって、制度の恩恵を享受することほど、社会的・政治的現実から切り離されるものはない。そして、こうした人材の道徳的・知的「利用可能性」には、残りの人々が生きている現実から切り離されることが不可欠なのである。

民主主義の内部で展開される階級感情は、その内部腐敗によって、君臨する寡頭政治の強化に寄与し、それは民主主義の自然な方向性である。この寡頭政治は、真に自由で代表的な議会からの起訴に直面した場合、決して長続きすることはない。したがって、たとえ長いプロセスの結果であっても、政治家と公務員の良心を買い取ることによって服従させれば十分なのである。政党内での選別は、特に気性の荒い政治家を抱えることを容易にする。

国家は、国の形態であれ、超国家的な組織であれ、世界の主要な金融、産業、商業の利益を操作する機械に過ぎないということだ。人民の運命や社会の将来に影響を与える重要な決定がなされるのは、もはや議会や政府ではない。これらの決定は、時には公的(G7、G8、G20など)、時には秘密(ビルダーバーグ・グループなど)の協議会を開き、国連、国際通貨基金、世界保健機関、世界貿易機関、世界銀行、欧州評議会、欧州連合などの代理組織を利用する主要金権者のトップで行われる。

有権者の意見には重みがなく、干渉してはならない。必要なのは、メディアという導管を通じて世論を有利に準備すること、つまり、条件付けされなければ本能的に拒否するようなものを、良いもの、あるいは正常なものとして受け入れるように配慮することだけである。

民主主義は、組織化された少数派が最も強固に、最も永続的に権力を保持できる政治システムであり、彼らが富裕であればなおさらである。したがって、普通選挙は、検閲選挙と比較すると、進歩とはいえない。なぜなら、代表者が人々からさらに離れてしまうからである。普通選挙制度では、法律を制定する権限はその国の金融エリートの手に集中する。しかし、このエリートの利益は、まだ部分的に共通善と結びついている。それゆえ、この制度には一種の安定性がある。もちろん、普通選挙制度では、誰でも投票し、国会に座ることができる。しかし、金の権力がその意図であれば、選ばれた人々を腐敗させ、彼らの活動を共通善のための活動から遠ざけることに力を注ぐだろう。このように、議会制民主主義は、独立した公正な裁定者を欠いているため、必然的にプルトクラシーに向かい、そこから逃れる術を持たないように思われるのである。

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