補足(情報探索・学習方法)

強調オフ

リコード法概要

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暗闇に向かって槍を投げる、それが直感だ。

それから闇の中に軍隊を送り込んで槍を探し出す、それが知力だ。

映画監督 イングマール・ベルイマン

 

情報探索の難しさ

一般の方がエビデンスという言葉を知らないところからスタートし、怪しいネット情報をかき分けていって、独自に本当に効果のある医療情報を探り当てるには、それなりの年月がかかります。

ましてやアルツハイマーの場合ガンとも違って、そもそも発症の仕組みがよくわかっていないため、専門家でさえ本当に有用な情報を選別するのは至難の業です。

「治る」という言葉の氾濫

Amazonサイトなどで「認知症 治る」と検索してみてください。

こことばかりにずらっと、「認知症は治る」などと書かれた本が出てきます。

すべて虚偽です。よく読むと「中には治せる認知症もある」です。

しかし、われわれアルツハイマー病患者は、自分たちの認知症が治るかどうかであって、そんな例外的な(15%)治る認知症(正常圧水頭症、慢性硬膜下血腫など)のケースのことを知りたいわけじゃありません。

 

それ以外にも「治る」という言葉を医者の側で都合よく再定義して症状の緩和や、一時的な症状の改善をもってして「認知症は治る」と書かれてあるものもあります。

治るという言葉は医学的には定義されていないため、そのような使い方が可能になるのですが、患者が「治る」という言葉を聞く時に一般に期待するものとは、明らかにかけ離れています。

重要な情報が隠される

「希望を少しでも与えたい」だとか、「出版業界ではそれが常識だ」とかいったこじつけ、正当化があるのもしれませんが、あまりにも安易に使われており、わらをもすがるつもりで見る人たちの目を曇らせています。

最も害悪なのは、本当に重要な情報がそういった誇大な宣伝の間で埋もれてしまうことです。

※当サイトで紹介している「アルツハイマー病真実と終焉」にも認知機能低下は治せる、防げると書かれてありますが、これは日本の出版社が勝手につけたものです。必ずしも間違いとは言えませんが、ブレデセン博士自身はその言葉(Cure)を使うことをはっきりと否定しており、そのような表現を一度として使ったことはありません。

現代医療の隙間

無知を恐れるな、偽りの知識を恐れよ。

ブレーズ・パスカル

誤解されることが多いのですが、自分は医療従事者でもなければ医療研究者でもありません。ただ、一般の方より病歴が長くそれらについて調べる時間が他の人よりあったというだけの人間です。

専門家でもない人間が、医療文献を読み解きアルツハイマー病の改善回復をはかるというのは、現実離れした行動だとみなされると思います。

私の場合、やはり自分の病気体験が大きかったと思います。非常に特殊な免疫の病気であり、原因がほとんど解明されていないということもあるのですが、最新の研究となると専門のお医者さんでさえ知っていない重要な研究成果がごく普通に存在したりします。

読まれていない医療論文

一般にお医者さんが知っていることは医学的コンセンサスが得られた医療情報だけであり、それは研究論文というよりも教科書に載っていることだけです。

研究途上のものは一部の研究者しか知りません。そして、文献で全く情報が見つからなければ、より高度な専門の研究者であっても知らないことになります。

それは、医療論文検索で情報の底をつけば、それは世界最高峰の病院や医者を尋ね歩いてもより解像度の高い答えは見つからないということを意味します。

 

そういった経験から、自分で医療論文を読んでは証拠、信頼性の高い実行可能な治療方法を実際に自分で試してみるという作業をひたすら繰り返していたため、通常は統計情報としての正しさである医療エビデンスの重要性を、体感的に認識していったようなところがあります。一人二重盲検も何度か行いました(笑)

また、今となっては当たり前な話しですが、この医療エビデンスが存在するということと、実際病院へ行ってその治療法が受けられることがまったくイコールではないということにも気がついてきました。

自分で治療法を探し出して、「すでにオフラベル投与で有効性である可能性の高い治療法がある」「この病気にはサブクラスによって治療方針が大きく変わるためこの検査が必要だ」「自費で構わない」などと、印刷した論文を専門医に渡してお願いしても、まず聞き入れてくれることはありません。

医師であるがゆえの限界

結局、病院やお医者さんをあてにするとかいった以前の問題で、現在の医療システムの元では、たとえ個人が知識をもって治療に望み、かつお医者さんがどれだけ真摯に患者さんを治したいと願い関わってくれたとしても、わたしがこのサイトで提示しているような方法論で一緒に協力して治療に取り組むというということの多くの方法は阻まれます。

おそらく多くの方が勘違いしているのは、一般のお医者さんは世間がイメージしているほど、新しい治療法に関して自由に治療を行える権限も知識もありません。一般人よりも治療に関する権限が公的に保障されているからこそ逆にできないことも多いのです。

これはちょうど、逮捕権や質問権など一般人よりも強い公権力をもつ警察官が、ルールを守ることを強く要求すされるために生活上の自由度が高いように見えないのと似たようなところがあります。

自由診療であれば保険診療よりは大くの医療の選択肢をもつことが可能ですが、そうなると今度は現実的ではない医療コストの問題が生まれます。

アルツハイマー病の専門家は存在しない

また、今の医療は巨大なシステム医療となっており、あらゆる医療情報に精通することが原理的に不可能になっています。特にリコード法はアルツハイマー病に直接関連する研究だけではなく、それ以外の異なる分野の研究成果も多く取り入れています。

アルツハイマー病という専門分野に限っても関連文献が14万件以上存在し、アルツハイマー病専門の研究者でさえ、そのたった数%を読んでいたとしても文献を相当に読み込んでいるレベルと言っていいでしょう。

 

そのため、批判するにせよ理解するにせよ、真正面から基礎研究からスタートしているリコード法に取り組もうとすると、それまでの研究を捨てて人生をすべて捧げても追いつかないくらいの時間が必要になってきます。

一般の医療研究者がアルツハイマー病治療を総括する際には、メタアナリシスのようなものを追っていくしかなくなります。

リコード法を一般のお医者さんに相談する方が多いのですが、交番のおまわりさんに国際組織で行われるサイバーテロの解決方法を聞いているようなものなのです。

 

母が病気であることを知らされた際にも、すでに自分の病気体験からそういった一般医療の限界を身に染みて知っていたため、はなから標準とされる治療法だけではなく(当時はアリセプトしかありませんでしたが)、自ら医学的証拠を武器に、彼らにできない医療のボトルネック部分がどこにあるのかを探そうとしてきました。

無知の強さ

「問題を解決するにはどれだけ学ばなければならないか、はっきりわかっていたとしたら、きっと道の遠さにめまいがしていたことだろう。でも、わかっていなかったおかげで、僕の意思はゆらがなかった」

スティーブ・ジョブス

私がアルツハイマー病の関して、当初無知だったことが、かえって幸いしたようにも思います。おそらく、私がなまじ医者や専門家などで、若年性アルツハイマー病の厳しさを知り尽くしていると、ここまでのことを試みようとはせずに諦めていたかもしれません。

※若年性アルツハイマーの予後は、10年後の生存率だけで考えるとニ~三期の膵臓がんと同程度の余命ですが、(それでも十分厳しいのですが)日常生活に大きな問題が生じない期間がどれだけ残されているのかとして考えるなら、末期の膵臓がんがよほどましなように思えるぐらいです。

根拠のない治るという思い込み

どこに行くのか知らないなら、どの道を通っても同じだ。

スー族のことわざ

そういうことを考えると、一般の方が、科学武装されたハードな医療常識に立ち向かっていくときには、「標準治療がダメでも何か他に良くする方法があるに違いない」という根拠のない思い込みを、”とりあえず”は持たないと、最初からつまずいてしまい、次へとつながっていかないのかな、と考えたりすることもあります。

一方で、アルツハイマーに限っては、無知のまま闇雲に突き進んで解決されることはまずありません!

(致死性のガンにはまだその可能性がわずかとはいえ、あるように思います。)

このまま病気を放置していくと、どういうことが身体の内部で起きて実際に障害として現れていくのか、冷徹に判断して、結果が出る行動をとらなければならなかったりもするわけです。

ここはとても矛盾しているのですが、私の場合今振り返ってみると、無知であったことと実践的であろうとしたことのバランスやタイミングが、たまたまとれていたのかなあと思ったりもします。

二極化で見失うもの

善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。だけど、彼ら天才はそれをしない。 両極に同時に存在することが可能だからです。

小説「有限と微小のパン」森博嗣

初心者向けに説明してある認知症向けのサイトをざっと眺めると、

「アルツハイマー病の回復や抑制は難しい」と書かれてある標準的で無難な見解と、

「アルツハイマー病は改善や抑制ができる」と書かれてあるが本当かどうかわからない、本当だとしてもどの程度効くのかがわからない記事のふたつに情報が二極化している印象があります。

また本屋に行けば、認知症は治る的な本がズラッと並んでいますが、その言葉をよくたどると、治るタイプの認知症もあるとか、周辺症状の改善を見せることは可能だ、このAという薬が開発されればアルツハイマー病は治るといった、ことだったりもします。

患者さんの希望を断ってはいけないという配慮なのか、出版社が少しでも売上をあげたくてそのようにタイトルをつけたのかわかりませんが、そのほとんどが本のタイトルと程遠い内容です。

行き場のない二者択一

一般論としては、大学の公的機関だとか、医者、専門家などのオフィシャルな情報ソースに頼るということが考えられると思います。そういったサイトでは、アルツハイマー病は治したり抑制するのが難しい病気と書いてあり、ある意味では良心的に書かれているとも言えます。

判断に困るのはそういった公式見解を採用すれば治らないことを覚悟することになり、「認知症は治る!」とか書かれてある側へ、藁をもすがるつもりで従うと、ほとんどは万馬券を買うようなギャンブルになります。

とはいえ、アルツハイマー病は厳格な客観性のもとでは治らない病気なので、素直に考えればすぐわかることですが、回復や抑制を目指すのであれば、公式的な手法では助かりません。(もちろん、ギャンブルを勧めているわけではありません。)

判断のむずかしさ

何処に行けばいいんですか?
君を信じていいんですか?
愛してくれるんですか?
あたしは誰なんですか?

椎名林檎姫「アイデンティティ」

前提知識なく、ある情報が有用かどうかという判断を「初心者向けにわかりやすく書かれているサイト」を読んだだけで判断するのは、なかなか難しいと思います。

自分の中で1つのフィルターにしているのは、(これを言うとまた、知恵をつけた業者がその裏を書いてくるのであまり書きたくないのですが)、「これさえ飲めば治る」というような形で、1つのものだけを勧めるような治療法は基本的に信用していません。

認知症からは離れますが、金銭的要素が絡まずに、長く人々の間で行われてきた物には、本当に効果があるものが多い印象があります。あくまで一般論ですので、例外も多かったりはしますが。

<参考>健康情報の信頼性が疑われる指標

  • 健康情報の具体的な細部よりも声明的な見出しが長い。
  • 健康情報に関する数値が表記されていない。
  • 情報源のリンク先が明示されていない。
  • 恐怖を煽るような画像、記述がサイトの構成を占めている。
  • 健康情報が主に写真や画像を用いて主張されている。

onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/hir.12115

といったことも、あくまで統計的な可能性としてですが、注意を払ってみるのもいいかもしれません。

牛乳を飲む人よりも、牛乳を配達する人のほうが健康である。

ヨーロッパの諺

見過ごされる重要な治療情報

有用な情報がなぜ取り上げられないのか、ちょっと考えてみました。

・お金がかからない、誰もがタダでできるような改善策 

→ お金儲けができないので資本主義経済社会の中では大きくとりあげられない。

・高度に専門的な情報の中に紛れ込んでいる。

→ 一握りの専門家にしか読み取ることができない。

・善意で書く人 

→ マーケティングを考えない。宣伝広告しないので知られにくい。

・日常的にありふれている

→ 空気をありがたがらないように、誰も本気で取りかからない。

・医療エビデンスがすべてだと思っている。

→すでに多くを語っているのでここでは書ききれませんが、多因子説、症候群説にたつとメタアナリシスの信頼性は逆に下がります。(患者の個別的なプロファイルがかき消される)

・アルツハイマー病の薬は入手できないと思っている。

→ 臨床試験で使われた薬の多くが、一部はサプリメントとして、他海外通販や個人輸入などで個人レベルで入手可能。当然法律の問題があるため公式にすすめる人は誰もいない。

・効果がある可能性は高いが、証拠不足の薬 

→ 責任問題、信用問題、法律問題があるので、医者や専門家も効果があるだろう思っていても取り上げない。P値に縛られすぎ。

 

、といった様々な理由から、ある種必然的に人の目から遠ざかってしまうのかもしれません。

ココナッツオイルやフェルラ酸は医者が取り上げたことで2008年頃から知られるようになりましたが、有名になるまで文献や情報がなかったわけではありません。

単にそれまで知られていなかっただけです。

糞便移植はトンデモか?

他にも例えば、アルツハイマー病治療薬ではありませんが、炎症性腸疾患に健康な人の便を患者の腸内へ移植する、糞便移植という治療法があります。

ja.wikipedia.org/wiki/糞便移植

保険診療としてはまだ認められていませんが、特定の感染性腸炎に対しては非常に高い治療効果を発揮します。なんと中国で4世紀に行われたという記録が存在し、西洋医学においても1958年には症例報告がなされています。

自分の炎症性疾患を治すために糞便移植の文献や証拠を見つけ出し家庭内で実行しているグループはすでに昔からありました。(米国では毎年一万人の人が行っているそうです!)

www.webmd.com/digestive-disorders/news/20151209/diy-fecal-transplant#1

それを例えば10か20年前に一般の人が知ったとすれば、ほとんどの人が「そんな単純なことで治るなら医者はいらないよ」と一笑に付し、多くの人は実行した人間を変人扱いをしたのではないでしょうか?

治療効果と無関係の理由で埋もれる治療方法

文献を自分で当たっていると、表向きには取り上げられていないだけで「既存薬にせまる効果があるのではないか」と思えるものがいくらでも見つかります。

例えば、なぜ治療効果の高いメラトニンよりもロゼレムが睡眠補助剤として出回っているのか? (メラトニンは体内ホルモンのため特許が取れません)

メトホルミン、アスピリンのような費用対効果の高い予防薬が広告で広がらないのはなぜなのか?(特許切れで高い薬価で売ることができない)

メダリスト級と言ってもいいような多くの疾患と関連研究のあるEGCGやクルクミンがなぜ医療の現場で用いられないのか?(上記の理由に加え、予防医学の欠落、有意水準の問題も加わる)

薬効と直接関係がない理由で、多くの潜在的な認知症治療薬が埋もれてしまっています。

日本のサプリメント市場の未成熟さ

また、高価なものだと一般的には認知されているものであっても、実際には安く入手ができ、一般市場に出回るビジネス的なプロセスを得て一般価格が高騰してしまっているものがほとんどという気もします。

オリジナルの成分に、たいして意味のない特殊成分などと銘打ったものを加えて価値をあげたり商標をとって利益をあげようとしています。

特に日本のサプリメント市場は本当に痛々しい、、資本主義もお金儲けそのものも否定はしていません。しかしそのほとんどにおいて、生活者への眼差しが微塵も感じられない。。

日本のサプリメント市場(そして消費者)があまりにも成熟していないがゆえに、標準療法、標準治療が対比的にまともに見えてしまうんじゃないか?と思うくらいです。標準療法を完全擁護する人は明らかに盲点を抱えていますが、その気持はよくわかります。

構造的問題

ひとつには、公式な太鼓判がない手法の場合、優れた判断基準があったとしてもそれが広がると、業者がそれを利用して裏をかいてくるという構造的な問題があるので、結局パッと目に映った物の多くは、必然的に怪しいものが多くなってしまうということになるのかなと思います。

例えば、複数の標的に対して複数の栄養素というのは、昔はそこまでなかったように思いますが、リコード法が少し知れ渡るようになったせいか、最近はそういった手法を使いだしているメーカーが散見されます。

こういった構造的な必然性がある場合、そこから抜けるには正しい少数派に属するしか抜け道がないように思います。誰もが詳しくは学ぼうとしないため、専門的に勉強していくということは、ひとつの合理的な少数派に転じる方法と考えることもできるのではないでしょうか。

※いたちごっこであるがゆえに、多くの人が知識を身につけるようになれば、悪徳業者もその知識水準を利用してビジネスを始めるでしょうが。。

病院での治療の制約

僕はもう医者としてあなたに何もできない…
だったら僕は人間としてあなたに関わる…!!

斉藤英二郎「ブラックジャックによろしく(漫画)」

医者と患者では異なる治療成功のゴール

個人レベルではOKでも?

また別の観点として、医者と患者では治療に伴うリスクへの重みづけが違うことがありえます。

例えば、副作用で10%の人に致命的な副作用があるが、その他の人には認知症を改善する薬があったとした場合、その薬はまず認可されることはありません。

しかし何もしなければ死ぬしかない病気を抱えている一患者から見れば、その選択肢は十分にありじゃないでしょうか?

一般市民の非合理的なリスク判断

しかし、興味深いことに少なくとも私個人は、社会的全体としての利益よりも、一個人から見た時により大きなリスクをかけることが合理的な選択だと思いますが、イレッサ事件の反応(投与された患者のうち2%の人が亡くなり、大きな社会問題として扱われた。)などを見ていると、人の心理は非合理的にリスクを避けようとするものなのかなとも思ったりします。、

イレッサは問題がある薬だったのかもしれません。(詳しくは知りません)しかしイレッサの投与で助かった人が亡くなった人よりも圧倒的多数だったはずなのに、被害者の声だけが大きくなりました。

市民にもリスク判断が必要

メディアの影響もあるとは言え、こういった非合理な反応を繰り返していては、そりゃルールを敷く側は規制に走るよなと思ったりもします。こういったことも、われわれはもう少し真面目に考えていかなければならないのではないか?と思うこともあります。

医療リソース

「治りさえすればいい」はストレートには通用しない

また、リコード法のような生活改善を含めた多標的治療を、きちんとシステム化や効率化ができていない段階で医療機関へ流通させると、医療サービスの提供できるリソースを食いつぶしてしまう可能性もあるため、最終的に有効であっても採用できないといった組織経営的な判断が標準医療の側でなされることは十分に考えられます。

そういった社会全体の利益から見れば採用できないという正当な判断が、個人の「治りさえすればいい」というニーズと、折り合いがつかないことも少なくない印象をもっています。(うつ病治療で、認知行動療法よりも抗うつ剤が多用されているといったことも、そういった医療リソースの事情があると思います。)

医療制度の解決可能な問題と不可能な問題

つまり、医者と患者では病気を治すという目的では一致するとしても、一個人の患者の立場から見たときのニーズと、医者が患者全体の利益をみた時の判断は異なることが多くあり、一患者の立場からすると、彼らの意見が正しくても間違っている(又はその逆)というパラドキシカルなこともありえるわけです。

これは、ちまたにある、例えば医局の特権化だとか、製薬会社は金儲けをしようとしてばかりいるんだ、とかいった種類のよくある批判とは違うのです。(その問題も深刻なのでしょうが)

個人の自己責任に応じて自己選択できる幅がもっと段階的に存在すればいいのですが、少なくとも日本社会においてはせいぜい医者の選択ぐらいで、医者に完全に委ねるかカオスめいた健康情報に飛び込むかの二択となっているため、ほとんどの人にとってより現実的な選択ができない社会(国民性?)に問題があると感じています。

自力補正するしかない

これはいわば構造的に生じるギャップでもあるため、そこを埋めるには、自力で補正していく以外に方法がありません。

少し余談めいたことを言わしてもらえれば、こういうギャップは医療にかぎらず社会の至る所にあり、そういったことに最初から気づいているかどうかというのは、当ブログの理解にも大きく関わってくるように思います。

戦略的リスク

「医学は不確実性の科学であり、確率の技である」

医師 ウィリアム・オスラー

治療マネジメント

こういった新しいやり方で病気を治していこうとする時に、誤解を恐れずに言うと投資的な考え方(ギャンブルではない)も必要だと思っています。

極端な例で言うと、20%の可能性しかない治療法があったとしても、それを10個行えばそのうちの1つに治療効果がある確率は90%になります。

20%確率の改善策を14個積み重ねれば、その中の1つは有意水準に達します!

魔法の弾丸ではなく散弾銃

確率だけではないのですが、治療の有効性を個別的に判断するのではなく、トータルで改善してくれればいいという考え方です。

※病院で用いられる治療法は、一般的に95%以上の確率で効果があるとされる治療法だけが出回っています。逆に言えばある治療方法が94%の確率で効果があると臨床試験で判定された場合、その薬は有効ではない(有意水準に達していない)という烙印を押されてしまうわけです。

この95%のカットオフ値も柔軟に変えてもいいのでは?と思っています。

<参考サイト> p<0.05時代はついに終焉か?米国統計学学会による声明

3つのうちの一つが有意水準でもOK

もちろん20%は極端な例ですが、50%以上あれば、自分の中では採用するかどうかのレンジに入り、緑茶のように実行の手間やコスト、副作用リスクなどが低ければ50%以下でも私的には十分選択肢に入ります。(考え方の提示なので改善率は計算に入れていません。)

数字はあくまで感覚値ですが、「可能性が低くても繰り返せばいつか当たる、」という意味ではありません。(宝くじを1万枚買おうと一等はまず当たりません)

これが医薬であれば、摂取する薬の数が増えていくほど、多剤併用のリスク(ポリファーマシー)も増加するため注意しなければなりませんが、リコード法に限っては日常生活的な改善策やサプリメント(医薬は使うとしても最低必要源)によって基本構成されているため、そのリスクを最小限に抑えてくれるという自然療法的なメリットがあるように思えます。

認知症を学ぶ

最終的には、やはり技術がある者が勝つ。
精神力で勝つといっても技術の裏付けがないとどうにもならない

川淵三郎

ベースは研究論文

わからないうちは一次情報よりも、ナラティブレビュー、システマティックレビューをひたすら読んでいく、できれば異なる対立点から読んでいくこと、そして専門家同士で実践的に探求されている方の解説や、その批判意見、対立意見、対話などを複数読み解くことが、自分の場合もっとも効率よく要点を抑えて学んでいけたように思います。

もちろん人間のすることなので、研究者にも勘違い、捏造、商業的なバイアスが入り込まないわけでもありません。査読論文といっても出版社によってピンきりです。

ですが、再現性、普遍性、定量化、統計手法、段階的な臨床試験など、客観性を担保するための多くのシステムや理念が築き上げてきたため、やはり今のネットに出回っている乱雑すぎる健康情報とは比較にならない客観性が存在します。

「子供には基本を教えるべきだ、という声も聞く。僕は、子供には最先端のものをまず与えるべきだと感じる。人間の学び方は、その順の方が自然だから。」

森博嗣

一歩ずつ、興味のあるところから

専門的なことに入っていくには、ちんぷんかんぷんな医学論文も読まざるを得ないのですが、いきなり医学的なことすべてを基礎から学ぼうとすると、挫折しがちなため、現に問題に面していることのひとつひとつを、少しだけ専門的に掘り下げて理解していき、知識を広げる習慣を身につけるのが一番身につきやすいのかと思っています。

例えばエビデンスという言葉が出てきてわからなかったら、調べてみて「医学的に調べた証拠のことなんだな」と大雑把に把握する。

そこで有意差だとかコホート研究だとか、また別のわからない単語が出てくれば再び調べてみる、という感じで、枝から幹へたどるように、知りたいこと、わからないこと、興味をもったことを、その都度潰して肉付けしていく方法です。

患者が読む論文の読み方・勉強方法というものがある

これだと、知識が穴ぼこになってしまう危険性があるのですが、幹と枝を往復することを意識していると、おぼろげながら全体像も見えてきますし、一般人の限られた時間や能力の中では、それが現実的な策ではないかと思っています。

医者でもない人間が専門分野に手を出してはいけない、口を出してはいけないという見えないバリアを感じることもありますが、大事なことは、一患者の立場で認知症に効果のある改善策を、合理的に効率よく見つけ出すことであって、医師の国家資格をとることでもなければ、専門家のように研究成果を発表して経歴を高めることでもありません!

患者が必要とする知識レベルは、医学、生化学の問題が解けるというよりも、問題の意味をグーグル検索を利用してなんとか理解できる程度の知識レベルにとどめておいて、そこで節約できたリソースを疾患の周辺情報の取得に割り振っていくことが総合的には有益であるように思います。

バイアスは後から修正する

精度や確実さ、再現性、定量的な判断は大切ですし、科学の根幹ですが、患者が同じようなレベルでそれらを求めることは当然できません。

一人の患者の持つリソースで学ぶことの厳格性をあまりに求めようとすると、かえって改善策を実行する全体の効率が低下することがあります。

バイアスを1mmでも除去しようとするでのはなく、バイアスを含んでいることを意識しながら1mmでも歩を進めることが患者の学び方ではないでしょうか。(ただし修正できる仕組みは内在化しておく必要があると思います。)

患者の目的は実利を得ること

学問の世界では厳格性と実証性が旗印となっていますが、われわれ(一般人)のすべきことは、行動基準の境界線がひけない世界の中で、どれだけ実利を(限られた時間の中で)取り出せれるかにつきるのではないかと思います。

特にアルツハイマーは病気を引き起こす要因がありすぎるので、注意しておかないと、ある分野での理解は深まったが、その知識が直接的には治療効果につながらず、時間を無駄にしたかもと感じることも自分の場合よくあります…(やっかないのは、そういった知識も後で役に立つことがあったりと、学んだ後でないなかなかわからないことです。)

医療のコモディティ化

あまり「時代がこうだから~だ」みたいな言い方は好きではないのですが、専門家に叩かれながらも一般人が専門領域にも突っ込んでいって、自分で治療を行っていく、そういう時代がやってきつつあるという気配を感じています。

専門家や研究者ではないからこそ逆に、曖昧さやバイアス、治療の恥はかき捨て、で実行できる強みもあるように思います。医者になったらいいのに(なってほしい)と時々言われたりしますが、自分が医療関係者だったら逆にこんなことはやっていないだろうという自信はあります^^;

DIY医療の普及を願って

西洋型の標準治療でもなければ、伝統的な代替医療でもなく、またそれらを単純に組み合わせた統合医療とも言えない、より洗練された「実践自己医療」という第三の道が日本でも誕生するだろうと信じています。

アメリカではすでにそれが起きており黎明期を迎えていますが、国内ではまだ早すぎてイノベーターが誕生しているのかどうかといった状況です。

英語の情報探索を習慣づける

人生には、テキストもノートも助っ人も、何でも持ち込めます。

森博嗣「臨機応答・変問自在」

一度知ってしまうと日本語検索には戻れない

あと、これは多少ハードルが高くなってしまうのですが、英語の文献を読むようになってから一気に情報の量、質ともに広がりました。意外に思われるかもしれませんが、ちょっとした情報収集目的であれば英語の読解力はそれほど必要ないように思います。

イメージほど難しくはない英語文献の探索

もちろん文献にもよるのですが、医学論文のようなものであっても、あらゆる病気を探索しようとしているのではなく、決まった分野で絞って調べていくため、出て来る単語も大体似たようなものになってきます。

やっているうちに前提知識も身についていくため、単語の拾い読みでも、一般人が知りたいと思う内容のレベルの情報であれば、ある程度把握できるようになってくると思います。

通常は要約や考察でOK

はっきりいって私の英語の読解力もたいしたことありませんし、難しい文献の読み込みも精読もできません。探索内容にもよりますが、ほとんどは要約や考察を中心に読んでいますし、専門家、研究者の解釈、二次情報を中心に理解しています。

グーグル翻訳のススメ

グーグル翻訳で速読

また、数年前から論文のグーグル翻訳精度はかなり高まっています。

最初の頃は原文を必死になって読んで、翻訳は単語だけに使っていましたが、アルツハイマー病、リコード法に関してはとにかく数をこなして読んでいくことが重要なので、翻訳精度が飛躍的に高まった2年ぐらい前からグーグル翻訳を使って大量の論文を速読しています。

ここまで翻訳性精度が上昇したのであれば(そして間違いなくさらに精度は上昇していく)訳語でつかめなければ原文に戻ればいいだけで、例え英語がそこそこできたとしても一般の方が情報を得るのに原文を読む必要性はほぼありません。

速読に適している日本語テキスト

日本語は漢字一文字の情報量が多いため、速読するなら日本語がより適しています。言語学でも日本語がより速読可能であることが、バイリンガルの実験で実証されています。

いずれ英語翻訳のすべてをAIが担う時代が来るとがわかっている中で、英語を読む能力を鍛えようとするメリットはたいしてありません。英語の原文を読んでドヤ顔しているほうが恥ずかしいぐらいで、訳文を読む能力を鍛える方がはるかに効率的です。少なくとも患者からすれば、余った時間で専門用語の一つでも調べて理解したほうが良いことは確かです。

本気で情報を探すなら英語文献は避けられない

当サイトでも英語の文献が大量に紹介されているように、それなりにアルツハイマー病の探索しようと思えば、医学論文の読み込みまではいかなくても、英語サイトへのアクセスは避けて通れないと思います。

※日本では学術的なガチガチの情報と、素人の主観的過ぎる情報との二極化が激しく、それらの中間的な実利性と実証性のバランスがとれた情報というものがほとんど存在しません。

翻訳の壁突破は21世紀の黒船第二弾

余談ですが、インターネットが普及した時、グローバル化が一気に進むと予測されていましたが、実際には期待されていたほどでもありませんでした。グローバル化と同時にタコツボ化も強まったからと考えられていますが、そこには言語の障壁もあったと思います。

日本人がもし、英語文献に自由にアクセスして情報を入手する習慣が身につけば、日本全体のリテラシーの弱い部分も底上げでき、社会がより大きく変わりうるチャンスがありうると思っています。

 

まあ、ここまで言っておいてなんですが(汗)学習に関しては、自分の場合学習時間があったことや、自分の性格などが大きく関係しているかとは思います。

また、わからないながらも、最初にどやっとエビデンスレベルのある改善策を実行し、そのことによる母の進行抑制により、「学習する時間稼ぎ」ができたことも大きかったと思います。

その人の性格や環境に応じて、学び方についてもその人なりのやり方を見つけ出すことも大事かもしれません。

 

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