あいさつ補足

アルツハイマーブログ あいさつ補足

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現代医療の隙間

無知を恐れるな、偽りの知識を恐れよ。

ブレーズ・パスカル

誤解されることが多いのですが、自分は医療従事者でもなければ医療研究者でもありません。ただ、一般の方より病歴が長くそれらについて調べる時間が他の人よりあったというだけの人間です。

専門家でもない人間が、医療文献を読み解きアルツハイマー病の改善回復をはかるというのは、現実離れした行動だとみなされると思います。

私の場合、やはり自分の病気体験が大きかったと思います。非常に特殊な免疫の病気であり、原因がほとんど解明されていないということもあるのですが、最新の研究となると専門のお医者さんでさえ知っていない重要な研究成果がごく普通に存在したりします。

読まれていない医療論文

一般にお医者さんが知っていることは医学的コンセンサスが得られた医療情報だけであり、それは研究論文というよりも教科書に載っていることだけです。

研究途上のものは一部の研究者しか知りません。そして、文献で全く情報が見つからなければ、より高度な専門の研究者であっても知らないことになります。

それは、医療論文検索で情報の底をつけば、それは世界最高峰の病院や医者を尋ね歩いてもより解像度の高い答えは見つからないということを意味します。

「暗闇に向かって槍を投げる、それが直感だ。

それから闇の中に軍隊を送り込んで槍を探し出す、それが知力だ。」

映画監督 イングマール・ベルイマン

そういった経験から、自分で医療論文を読んでは証拠、信頼性の高い実行可能な治療方法を実際に自分で試してみるという作業をひたすら繰り返していたため、通常は統計情報としての正しさである医療エビデンスの重要性を、体感的に認識していったようなところがあります。一人二重盲検も何度か行いました(笑)

また、今となっては当たり前な話しですが、この医療エビデンスが存在するということと、実際病院へ行ってその治療法が受けられることがまったくイコールではないということにも気がついてきました。

自分で治療法を探し出して、「すでにオフラベル投与で有効性である可能性の高い治療法がある」「この病気にはサブクラスによって治療方針が大きく変わるためこの検査が必要だ」「自費で構わない」などと、印刷した論文を専門医に渡してお願いしても、まず聞き入れてくれることはありません。

医師であるがゆえの限界

結局、病院やお医者さんをあてにするとかいった以前の問題で、現在の医療システムの元では、たとえ個人が知識をもって治療に望み、かつお医者さんがどれだけ真摯に患者さんを治したいと願い関わってくれたとしても、わたしがこのサイトで提示しているような方法論で一緒に協力して治療に取り組むというということの多くの方法は阻まれます。

おそらく多くの方が勘違いしているのは、一般のお医者さんは世間がイメージしているほど、新しい治療法に関して自由に治療を行える権限も知識もありません。一般人よりも治療に関する権限が公的に保障されているからこそ逆にできないことも多いのです。

これはちょうど、逮捕権や質問権など一般人よりも強い公権力をもつ警察官が、ルールを守ることを強く要求すされるために自由度が高いように見えないのと似たようなところがあります。

自由診療であれば保険診療よりは大くの医療の選択肢をもつことが可能ですが、そうなると今度は現実的ではない医療コストの問題が生まれます。

アルツハイマー病の専門家は存在しない

また、今の医療は巨大なシステム医療となっており、あらゆる医療情報に精通することが原理的に不可能になっています。特にリコード法はアルツハイマー病に直接関連する研究だけではなく、それ以外の異なる分野の研究成果も多く取り入れています。

アルツハイマー病という専門分野に限っても関連文献が14万件以上存在し、アルツハイマー病専門の研究者でさえ、そのたった数%読んでいればまだましなほうです。

そのため、批判するにせよ理解するにせよ、真正面からリコード法に取り組もうとすると、それまでの研究を捨てて人生をすべて捧げても追いつかないくらいの時間が必要になってきます。一般の医療研究者がアルツハイマー病治療を総括する際には、メタアナリシスのようなものを追っていくしかなくなります。

リコード法を一般のお医者さんに相談する方が多いのですが、交番のおまわりさんに国際組織で行われるサイバーテロの解決方法を聞いているようなものなのです。

母が病気であることを知らされた際にも、すでに自分の病気体験からそういった一般医療の限界を身に染みて知っていたため、はなから標準とされる治療法だけではなく(当時はアリセプトしかありませんでしたが)、自ら医学的証拠を武器に、彼らにできない医療のボトルネック部分がどこにあるのかを探そうとしてきました。

無知の強さ

「問題を解決するにはどれだけ学ばなければならないか、はっきりわかっていたとしたら、きっと道の遠さにめまいがしていたことだろう。でも、わかっていなかったおかげで、僕の意思はゆらがなかった」

スティーブ・ジョブス

私がアルツハイマー病の関して、当初無知だったことが、かえって幸いしたようにも思います。おそらく、私がなまじ医者や専門家などで、若年性アルツハイマー病の厳しさを知り尽くしていると、ここまでのことを試みようとはせずに諦めていたかもしれません。

※若年性アルツハイマーの予後は、10年後の生存率だけで考えるとニ~三期の膵臓がんと同程度の余命ですが、(それでも十分厳しいのですが)日常生活に大きな問題が生じない期間がどれだけ残されているのかとして考えるなら、末期の膵臓がんがよほどましなように思えるぐらいです。

根拠のない治るという思い込み

そういうことを考えると、一般の方が、科学武装されたハードな医療常識に立ち向かっていくときには、「標準治療がダメでも何か他に良くする方法があるに違いない」という根拠のない思い込みを、”とりあえず”は持たないと、最初からつまずいてしまい、次へとつながっていかないのかな、と考えたりすることもあります。

どこに行くのか知らないなら、どの道を通っても同じだ。

スー族のことわざ

一方で、アルツハイマーに限っては、無知のまま闇雲に突き進んで解決されることはまずありません!

(致死性のガンにはまだその可能性がわずかとはいえ、あるように思います。)

このまま病気を放置していくと、どういうことが身体の内部で起きて実際に障害として現れていくのか、冷徹に判断して、結果が出る行動をとらなければならなかったりもするわけです。

ここはとても矛盾しているのですが、私の場合今振り返ってみると、無知であったことと実践的であろうとしたことのバランスやタイミングが、たまたまとれていたのかなあと思ったりもします。

二極化で見失うもの

善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。だけど、彼ら天才はそれをしない。 両極に同時に存在することが可能だからです。

小説「有限と微小のパン」森博嗣

初心者向けに説明してある認知症向けのサイトをざっと眺めると、

「アルツハイマー病の回復や抑制は難しい」と書かれてある標準的で無難な見解と、

「アルツハイマー病は改善や抑制ができる」と書かれてあるが本当かどうかわからない、本当だとしてもどの程度効くのかがわからない記事のふたつに情報が二極化している印象があります。

また本屋に行けば、認知症は治る的な本がズラッと並んでいますが、その言葉をよくたどると、治るタイプの認知症もあるとか、周辺症状の改善を見せることは可能だ、このAという薬が開発されればアルツハイマー病は治るといった、ことだったりもします。

患者さんの希望を断ってはいけないという配慮なのか、出版社が少しでも売上をあげたくてそのようにタイトルをつけたのかわかりませんが、そのほとんどが本のタイトルと程遠い内容です。

行き場のない二者択一

一般論としては、大学の公的機関だとか、医者、専門家などのオフィシャルな情報ソースに頼るということが考えられると思います。そういったサイトでは、アルツハイマー病は治したり抑制するのが難しい病気と書いてあり、ある意味では良心的に書かれているとも言えます。

判断に困るのはそういった公式見解を採用すれば治らないことを覚悟することになり、「認知症は治る!」とか書かれてある側へ、藁をもすがるつもりで従うと、ほとんどは万馬券を買うようなギャンブルになります。

とはいえ、アルツハイマー病は厳格な客観性のもとでは治らない病気なので、素直に考えればすぐわかることですが、回復や抑制を目指すのであれば、公式的な手法では助かりません。(もちろん、ギャンブルを勧めているわけではありません。)

判断のむずかしさ

何処に行けばいいんですか?

君を信じていいんですか?

愛してくれるんですか?

あたしは誰なんですか?

椎名林檎姫「アイデンティティ」

前提知識なく、ある情報が有用かどうかという判断を「初心者向けにわかりやすく書かれているサイト」を読んだだけで判断するのは、なかなか難しいと思います。

自分の中で1つのフィルターにしているのは、(これを言うとまた、知恵をつけた業者がその裏を書いてくるのであまり書きたくないのですが)、「これさえ飲めば治る」というような形で、1つのものだけを勧めるような治療法は基本的に信用していません。

認知症からは離れますが、金銭的要素が絡まずに、長く人々の間で行われてきた物には、本当に効果があるものが多い印象があります。あくまで一般論ですので、例外も多かったりはしますが。

<参考>健康情報の信頼性が疑われる指標

・健康情報の具体的な細部よりも声明的な見出しが長い。

・健康情報に関する数値が表記されていない。

・情報源のリンク先が明示されていない。

・恐怖を煽るような画像、記述がサイトの構成を占めている。

・健康情報が主に写真や画像を用いて主張されている。

onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/hir.12115

といったことも、あくまで統計的な可能性としてですが、注意を払ってみるのもいいかもしれません。

牛乳を飲む人よりも、牛乳を配達する人のほうが健康である。

ヨーロッパの諺

見過ごされる重要な治療情報

有用な情報がなぜ取り上げられないのか、ちょっと考えてみました。

・お金がかからない、誰もがタダでできるような改善策 

→ お金儲けができないので資本主義経済社会の中では大きくとりあげられない。

・高度に専門的な情報の中に紛れ込んでいる。

→ 一握りの専門家にしか読み取ることができない。

・善意で書く人 

→ マーケティングを考えない。宣伝広告しないので知られにくい。

・日常的にありふれている

→ 空気をありがたがらないように、誰も本気で取りかからない。

・医療エビデンスがすべてだと思っている。

→すでに多くを語っているのでここでは書ききれませんが、多因子説、症候群説にたつとメタアナリシスの信頼性は逆に下がります。(患者の個別的なプロファイルがかき消される)

・アルツハイマー病の薬は入手できないと思っている。

→ 臨床試験で使われた薬の多くが、一部はサプリメントとして、他海外通販や個人輸入などで個人レベルで入手可能。当然法律の問題があるため公式にすすめる人は誰もいない。

・効果がある可能性は高いが、証拠不足の薬 

→ 責任問題、信用問題、法律問題があるので、医者や専門家も効果があるだろう思っていても取り上げない。P値に縛られすぎ。

、といった様々な理由から、ある種必然的に人の目から遠ざかってしまうのかもしれません。

ココナッツオイルやフェルラ酸は医者が取り上げたことで2008年頃から知られるようになりましたが、有名になるまで文献や情報がなかったわけではありません。

単にそれまで知られていなかっただけです。

糞便移植はトンデモか?

他にも例えば、アルツハイマー病治療薬ではありませんが、炎症性腸疾患に健康な人の便を患者の腸内へ移植する、糞便移植という治療法があります。

ja.wikipedia.org/wiki/糞便移植

保険診療としてはまだ認められていませんが、特定の感染性腸炎に対しては非常に高い治療効果を発揮します。

なんと中国で4世紀に行われたという記録が存在し、西洋医学においても1958年には症例報告がなされています。

これを例えば、10年前に自分の炎症性疾患を治すために糞便移植の文献や証拠を見つけ出し家庭内で実行しているグループはありました。(米国では毎年一万人の人が行っているそうです!)

www.webmd.com/digestive-disorders/news/20151209/diy-fecal-transplant#1

それを当時一般の人が知ったとすれば、ほとんどの人が「そんな単純なことで治るなら医者はいらないよ」と一笑に付し、多くの人は実行した人間を変人扱いをしたのではないでしょうか?

治療効果と無関係の理由で埋もれる治療方法

文献を自分で当たっていると、表向きには取り上げられていないだけで「既存薬にせまる効果があるのではないか」と思えるものがいくらでも見つかります。

例えば、なぜ治療効果の高いメラトニンよりもロゼレムが睡眠補助剤として出回っているのか? (メラトニンは体内ホルモンのため特許が取れません)

メトホルミン、アスピリンのような費用対効果の高い予防薬が広告で広がらないのはなぜなのか?(特許切れで高い薬価で売ることができない)

メダリスト級と言ってもいいような関連研究のあるEGCGやクルクミンがなぜ医療の現場で用いられないのか?(上記の理由に加え、予防医学の欠落、有意水準の問題も加わる)

薬効と直接関係がない理由で、多くの潜在的な認知症治療薬が埋もれてしまっています。

日本のサプリメント市場の未成熟さ

また、高価なものだと一般的には認知されているものであっても、実際には安く入手ができ、一般市場に出回るビジネス的なプロセスを得て一般価格が高騰してしまっているものがほとんどという気もします。

オリジナルの成分に、たいして意味のない特殊成分などと銘打ったものを加えて価値をあげたり商標をとって利益をあげようとしています。

特に日本のサプリメント市場は本当に痛々しい、お金儲けそのものは否定していません。しかしそのほとんどにおいて、生活者への眼差しが微塵も感じられない。。

日本のサプリメント市場(そして消費者)があまりにも成熟していないがゆえに、標準療法、標準治療がコントラストでまともに見えてしまうんじゃないか?と思うくらいです。

構造的問題

ひとつには、公式な太鼓判がない手法の場合、優れた判断基準があったとしてもそれが広がると、業者がそれを利用して裏をかいてくるという構造的な問題があるので、結局パッと目に映った物の多くは、必然的に怪しいものが多くなってしまうということになるのかなと思います。

こういった構造的な必然性がある場合、そこから抜けるには正しい少数派に属するしか抜け道がないように思います。

誰もが詳しくは学ぼうとしないため、専門的に勉強していくということは、ひとつの合理的な少数派に転じる方法と考えることもできるのではないでしょうか。

※いたちごっこであるがゆえに、多くの人が知識を身につけるようになれば、悪徳業者もその知識水準を利用してビジネスを始めるでしょうが。。

病院での治療の制約

僕はもう医者としてあなたに何もできない…

だったら僕は人間としてあなたに関わる…!!

斉藤英二郎「ブラックジャックによろしく(漫画)」

医者と患者では異なる治療成功のゴール

また別の観点として、医者と患者では治療に伴うリスクへの重みづけが違うことがありえます。

例えば、副作用で10%の人に致命的な副作用があるが、その他の人には認知症を改善する薬があったとした場合、その薬はまず認可されることはありません。

しかし何もしなければ死ぬしかない病気を抱えている一患者から見れば、その選択肢は十分にありじゃないでしょうか?

しかし、興味深いことに少なくとも私個人は、社会的全体としての利益よりも、一個人から見た時により大きなリスクをかけることが合理的な選択だと思いますが、イレッサ事件の反応(投与された患者のうち2%の人が亡くなり、大きな社会問題として扱われた。)などを見ていると、人の心理は非合理的にリスクを避けようとするものなのかなとも思ったりします。、

イレッサは確かに問題がある薬だったようにも思えます。しかしイレッサの投与で助かった人が亡くなった人よりも圧倒的多数だったはずなのに、被害者の声だけが大きくなりました。

こういったことも、われわれはもう少し真面目に考えていかなければならないのではないか?と思うこともあります。

医療リソース

また、リコード法のような生活改善を含めた多標的治療を、きちんとシステム化や効率化ができていない段階で医療機関へ流通させると、医療サービスの提供できるリソースを食いつぶしてしまう可能性もあるため、最終的に有効であっても採用できないといった組織経営的な判断が標準医療の側でなされることは十分に考えられます。

そういった社会全体の利益から見れば採用できないという正当な判断が、個人の「治りさえすればいい」というニーズと、折り合いがつかないことも少なくない印象をもっています。(うつ病治療で、認知行動療法よりも抗うつ剤が多用されているといったことも、そういった医療リソースの事情があると思います。)

つまり、医者と患者では病気を治すという目的では一致するとしても、一個人の患者の立場から見たときのニーズと、医者が患者全体の利益をみた時の判断は異なることが多くあり、一患者の立場からすると、彼らの意見が正しくても間違っている(又はその逆)というパラドキシカルなこともありえるわけです。

これは、ちまたにある、例えば医局の特権化だとか、製薬会社は金儲けをしようとしてばかりいるんだ、とかいった種類のよくある批判とは違うのです。(その問題も深刻なのでしょうが)

隠れている現実的治療選択

個人の自己責任に応じて自己選択できる幅がもっと段階的に存在すればいいのですが、少なくとも日本社会においてはせいぜい医者の選択ぐらいで、医者に完全に委ねるかカオスめいた健康情報に飛び込むかの二択となっているため、ほとんどの人にとってより現実的な選択ができない社会(国民性?)に問題があると感じています。

これはいわば構造的に生じるギャップでもあるため、そこを埋めるには、自力で補正していく以外に方法がありません。

少し余談めいたことを言わしてもらえれば、こういうギャップは医療にかぎらず社会の至る所にあり、そういったことに最初から気づいているかどうかというのは、当ブログの理解にも大きく関わってくるように思います。

戦略的リスク

「医学は不確実性の科学であり、確率の技である」

医師 ウィリアム・オスラー

治療マネジメント

こういった新しいやり方で病気を治していこうとする時に、誤解を恐れずに言うと投資的な考え方(ギャンブルではない)も必要だと思っています。

極端な例で言うと、20%の可能性しかない治療法があったとしても、それを10個行えばそのうちの1つに治療効果がある確率は90%になります。

20%確率の改善策を14個積み重ねれば、その中の1つは有意水準に達します!

確率だけではないのですが、治療の有効性を個別的に判断するのではなく、トータルで改善してくれればいいという考え方です。

※病院で用いられる治療法は、一般的に95%以上の確率で効果があるとされる治療法だけが出回っています。逆に言えばある治療方法が94%の確率で効果があると臨床試験で判定された場合、その薬は有効ではない(有意水準に達していない)という烙印を押されてしまうわけです。

この95%のカットオフ値も柔軟に変えてもいいのでは?と思っています。

<参考サイト> p<0.05時代はついに終焉か?米国統計学学会による声明

もちろん20%は極端な例ですが、50%以上あれば、自分の中では採用するかどうかのレンジに入り、緑茶のように実行の手間やコスト、副作用リスクなどが低ければ50%以下でも私的には十分選択肢に入ります。

(ここでは改善率は計算に入れていません。)

数字はあくまで感覚値ですが、「可能性が低くても繰り返せばいつか当たる、」という意味ではありません。(宝くじを1万枚買おうと一等はまず当たりません)

これが医薬であれば、摂取する薬の数が増えていくほど、多剤併用のリスク(ポリファーマシー)も増加するため注意しなければなりませんが、リコード法に限っては日常生活的な改善策やサプリメント(医薬は使うとしても最低必要源)によって基本構成されているため、そのリスクを最小限に抑えてくれるという自然療法的なメリットがあるように思えます。

認知症を学ぶ

最終的には、やはり技術がある者が勝つ。

精神力で勝つといっても技術の裏付けがないとどうにもならない

川淵三郎

ベースは研究論文

わからないうちは一次情報よりも、ナラティブレビュー、システマティックレビューをひたすら読んでいく、できれば異なる対立点から読んでいくこと、そして専門家同士で実践的に探求されている方の解説や、その批判意見、対立意見、対話などを複数読み解くことが、自分の場合もっとも効率よく要点を抑えて学んでいけたように思います。

もちろん人間のすることなので、研究者にも勘違い、捏造、商業的なバイアスが入り込まないわけでもありません。査読論文といっても出版社によってピンきりです。

ですが、再現性、普遍性、定量化、統計手法、段階的な臨床試験など、客観性を担保するための多くのシステムや理念が築き上げてきたため、やはり今のネットに出回っている乱雑すぎる健康情報とは比較にならない客観性が存在します。

「子供には基本を教えるべきだ、という声も聞く。僕は、子供には最先端のものをまず与えるべきだと感じる。人間の学び方は、その順の方が自然だから。」

森博嗣

一歩ずつ、興味のあるところから

専門的なことに入っていくには、ちんぷんかんぷんな医学論文も読まざるを得ないのですが、いきなり医学的なことすべてを基礎から学ぼうとすると、挫折しがちなため、現に問題に面していることのひとつひとつを、少しだけ専門的に掘り下げて理解していき、知識を広げる習慣を身につけるのが一番身につきやすいのかと思っています。

例えばエビデンスという言葉が出てきてわからなかったら、調べてみて「医学的に調べた証拠のことなんだな」と大雑把に把握する。

そこで有意差だとかコホート研究だとか、また別のわからない単語が出てくれば再び調べてみる、という感じで、枝から幹へたどるように、知りたいこと、わからないこと、興味をもったことを、その都度潰して肉付けしていく方法です。

患者が読む論文の読み方・勉強方法というものがある

これだと、知識が穴ぼこになってしまう危険性があるのですが、幹と枝を往復することを意識していると、おぼろげながら全体像も見えてきますし、一般人の限られた時間や能力の中では、それが現実的な策ではないかと思っています。

医者でもない人間が専門分野に手を出してはいけない、口を出してはいけないという見えないバリアを感じることもありますが、大事なことは、一患者の立場で認知症に効果のある改善策を、合理的に効率よく見つけ出すことであって、医師の国家資格をとることでもなければ、専門家のように研究成果を発表して経歴を高めることでもありません!

精度や確実さ、再現性、定量的な判断は大切ですし、科学の根幹ですが、患者が同じようなレベルでそれらを求めることは当然できません。

一人の患者の持つリソースで学ぶことの厳格性をあまりに求めようとすると、かえって改善策を実行する全体の効率が低下することがあります。

患者の目的は実利を得ること

学問の世界では厳格性と実証性が旗印となっていますが、われわれ(一般人)のすべきことは、行動基準の境界線がひけない世界の中で、どれだけ実利を(限られた時間の中で)取り出せれるかにつきるのではないかと思います。

特にアルツハイマーは病気を引き起こす要因がありすぎるので、注意しておかないと、ある分野での理解は深まったが、その知識が直接的には治療効果につながらず、時間を無駄にしたかもと感じることも自分の場合よくあります…(やっかないのは、そういった知識もまったく無駄だというわけではないことです。)

医療のコモディティ化

あまり「時代がこうだから~だ」みたいな言い方は好きではないのですが、専門家に叩かれながらも一般人が専門領域にも突っ込んでいって、自分で治療を行っていく、そういう時代がやってきつつあるという気配を感じています。

専門家や研究者ではないからこそ逆に、曖昧さを抱えて実行できる強みでもあるように思います。

西洋型の標準治療でもなければ、伝統的な代替医療でもなく、またそれらを単純に組み合わせた統合医療とも言えない、

「実践自己医療」という第三の道が日本でも誕生するだろうと信じています。

アメリカではすでにそれが起きており黎明期を迎えていますが、国内ではまだ早すぎてイノベーターが誕生しているのかどうかといった状況です。

英語の情報探索を習慣づける

人生には、テキストもノートも助っ人も、何でも持ち込めます。

森博嗣「臨機応答・変問自在」

あと、これは多少ハードルが高くなってしまうのですが、英語の文献を読むようになってから一気に情報の量、質ともに広がりました。

意外に思われるかもしれませんが、ちょっとした情報収集目的であれば英語の読解力はそれほど必要ないように思います。

もちろん文献にもよるのですが、医学論文のようなものであっても、あらゆる病気を探索しようとしているのではなく、決まった分野で絞って調べていくため、出て来る単語も大体似たようなものになってきます。

やっているうちに前提知識も身についていくため、単語の拾い読みでも、一般人が知りたいと思う内容のレベルの情報であれば、ある程度把握できるようになってくると思います。

はっきりいって私の英語の読解力もたいしたことありませんし、難しい文献の読み込みも精読もできません。要約や結論を中心に読んでいますし、専門家、研究者の解釈、二次情報を中心に理解しています。

「pubmed」の画像検索結果

グーグル翻訳のススメ

また、数年前から論文のグーグル翻訳精度はかなり高まっています。

最初の頃は原文を必死になって読んでいましたが、アルツハイマー病、リコード法に関してはとにかく数をこなして読んでいくことが重要なので、翻訳精度が飛躍的に高まった2年ぐらい前からグーグル翻訳を使って大量の論文を速読しています。

ここまで翻訳性精度が上昇したのであれば(そして間違いなくさらに精度は上昇していく)訳語でわからなければ原文に戻ればいいだけで、例え英語がそこそもできたとしても一般の方が原文を読む必要性はまったくありません。

日本語は漢字の情報量が多いため、速読するなら日本語がより適しています。言語学でも日本語がより速読可能であることがバイリンガルの実験で実証されています。

訳文を読む能力を鍛える方がはるかに効率的です。余った時間で専門用語の一つでも調べて理解したほうがよほど賢明です。

当サイトでも英語の文献が大量に紹介されているように、それなりにアルツハイマー病の探索しようと思えば、医学論文の読み込みまではいかなくても、英語サイトへのアクセスは避けて通れないと思います。

※日本では学術的なガチガチの情報と、素人の主観的過ぎる情報との二極化が激しく、それらの中間的な実利性と実証性のバランスがとれた情報というものがほとんど存在しません。

翻訳の壁突破は21世紀の黒船第二弾

余談ですが、インターネットが普及した時、グローバル化が一気に進むと予測されていましたが、実際には期待されていたほどでもありませんでした。グローバル化と同時にタコツボ化も強まったからと考えられていますが、そこには言語の障壁もあったと思います。

日本人がもし、英語文献に自由にアクセスして情報を入手する習慣が身につけば、日本全体のリテラシーの弱い部分も底上げでき、社会がより大きく変わりうるチャンスがありうると思っています。

まあ、ここまで言っておいてなんですが(汗)学習に関しては、自分の場合学習時間があったことや、自分の性格などが大きく関係しているかとは思います。

また、わからないながらも、最初にどやっとエビデンスレベルのある改善策を実行し、そのことによる母の進行抑制により、「学習する時間稼ぎ」ができたことも大きかったと思います。

その人の性格や環境に応じて、学び方についてもその人なりのやり方を見つけ出すことも大事かもしれません。

実行しないリスク

「リスクをとることこそリスクから逃れる最高のすべです。だから、いまリスクテイクすることは未来のリスクを最小限にすると、私は自分に言い聞かせています。」

羽生善治

責任をとらなくてい未実行リスク

一般論として、医療にかぎらず人の心も、社会の仕組みも「実行するリスク」ばかりに焦点を当てており、「実行しないリスク」というものは、その性質上見えにくい、わかりにくいということもあり、それらを含めた判断や話し合いがされることはあまりありません。(責任の所在が発生しにくいという面も大きいと思います。)

わかりにくい未実行リスク

「これをして、もし何かあったらどうするんだ!」とはよく言われますが、「これをしなくて、もし何かあったらどうするんだ!」とは人はあまり言いません。

例えば足腰が弱い老人を、「散歩させて、もし事故でもしたらどうするんだ」と言うのは誰でも思いつきますが、「散歩させないで、もし代謝能力が低下してうつになり、寝たきりになるリスクを高めたらどうするんだ」と言うには一定の知識が必要です。

またそのリスクも差し迫ったものでもないので、個々の判断だけで見てしまうと前者が正しいようにも思えてきます。

責任追求社会の最大の問題は、人がそれを責任をとるべきと追求する時、それが見えやすい一部の責任しか考えられておらず、見えにくい「実行しない責任」は見逃される傾向にある点です。

蓄積して破綻する未実行リスク

しかし、こういったことを繰り返していると最終的には「全体としての実行しないリスクや損失」が「実行するリスク」を上回ってきます。

普通に受け身で考えずにすごしていると、そもそも何が「実行しないリスク」なのか、わからないため、自分たちが非常に多くの目に見えないリスクに対面しているということに気づかずに過ごしてしまいがちです。

※一部の遺伝性などによる先天性の病因を除けば、病気になったことが、私や私の母もそのリスクに気がついていなかったことを意味しているかもしれません。

責任回避が実行リスクと未実行リスクの不均衡を作り出す

医療エビデンスは厳格性を持たせすぎても弱めすぎても、この「実行しないリスク」(機会損失)が増大してしまいます。

現在のエビデンスの厳格さは社会全体から見た時のコンセンサスに基づいて設定されており、個人の機会損失を最小限にするように考えては作られていません。

これが命に関わらないような病気であれば、まだ、それでも許されるのかもしれませんが、アルツハイマーなどの命に関わる病気は「実行しないリスク」に多面的に囲まれており、そのことに気が付かないと、そのまま世の中の常識という枠組みの中で命を落としかねません

みんなでタイタニック号に乗って溺れよう

「みんながそうしているのだから」というセオリーが使えるのは、

それで”みんなが上手くいっているときだけ”です。

タイタニック号に乗っていて一番危険な行為は、何をしたかではなく何もしないことです。

人生の中におけるそういった実行しないリスク、つまり様々なタイタニック号にわれわれは乗り込んでおり、当然、認知症だけではなく、病気、交通事故、自然災害あらゆることにひそんでいるため、そのリスクの1つにすぎない認知症に、発症前から注意深く気を配るのはなかなか難しいと思います。

リスクが高まるほど選択は容易になる

驚かれるかもしれませんが、患者の病状が深刻であればあるほど、改善策の判断としては簡単であり、逆に健康な人にどんな健康法が良いかという判断は一番難しかったりします。

というのも、どんなに良いと思われる治療策や健康法にもほぼすべてにトレードオフの関係(メリット・デメリット)が必ずあるからです。

すでに健康な人はその二つが均衡しており、例えば身体に良いと言われるサプリメントを摂取することが、長期的にみてどこでどう代謝のバランス崩すか誰にもわかりません。

一方で、病気で死が目前に迫っている方や、認知症を発症している方は、現在の病気を克服することに比べれば、多くのことが犠牲にしていい、またはそれらがはっきりするため、判断自体は行いやすい面もあるのです。

例えば血管新生を誘導する薬というものは認知機能を改善する可能性をもっていますが、一方で腫瘍の補給経路ともなりうるため、癌になるリスクを高めたりします。

また、あまり知られていませんが抗がん効果のあるサプリメントや薬の中には、幹細胞の消費によって治療効果を発揮するものも多く、そのことによって絶対寿命を縮めたりもします。

しかし、それらは、目前の解決すべき問題があり、何を犠牲としていいかがはっきりしているため、判断基準の優先順位をつけることに関してはむしろ容易だったりします。

人間、誰しも失敗はするもんだから、失敗したときはスピードでカバーすればいいんだよ。 盛田昭夫

そういった、今ある選択のあるチャンスを活かすには、どれだけ改善策にスピードをもって実行できるか、問題の深刻さと、何が自分にできるのかを理解し、覚悟を決めて切り替えができる人が、最終的に改善・抑制できるかどうかの袂を分かつのだろうと思います。

いつあきらめるのか

「とにかくまずは生きろ、病気は後で治す。」

中村哲

見極める

というわけで、仮に読者の方がリコード法、またはそれに類することを実行してみようと思ったとしても、馬鹿高いサプリメントを買って飲めば済むという話ではないため、納得するかどうかだけではなく、その後どこまで実行できるのかの見極めも大事になるかと思います。(とはいえ実際のところは、やってみないとわからないですよね…)

体感的な効果を感じられるまでの期間は個人差があります。

炎症性のタイプで若年性ですと、数日で改善を感じられたというケースもあるようです。(改善効果を感じることと実際に改善されることはイコールではないことに注意してください)

期限は6ヶ月?

ブレデセン博士は、リコード法参加者の、「どこまでやって、あきらめるべきか」という問いかけに対して、6ヶ月という期間を目安にすると良いと答えています。

これは、もちろんあくまでリコード法の検査を行い、書籍通りに実行をすることが前提です。

日本国内ですと、そもそもリコード法の検査も実行が難しく、わたしの知っているリコード法実践者に限っても検査を含めてリコード法を実行できていると言えるレベルの人はほんの一握りです。

そのためどれだけやればの前に、そもそも実行ができていないというケースがほとんであるため、6ヶ月とか1年という期間設定にはあまり意味がないように感じています。

やっぱり検査

おそらく不十分なリコード法だと改善の兆し、または進行が抑制されていることに気がつくのに、1年2年単位といった話になってくると思います。うちの母もそうでした。

しかし、多くの人では一ヶ月経過して何も感じられない場合、まずもってやり方が間違っている、不十分と考え、検査を行う、優先順位を見直す、書籍を今一度よく読む、他のリコード法を実践している人に相談する、ひとつひとつの改善策を本当に効果があるものに落とし込むといっことをやっていくことが、今のもっとも現実的な答えではないかと思います。

ひとつだけはっきり言えるのは、検査を行わず行うリコード法はリコード法ではありません。

その上でですが、検査も含め本格的な始動までに数ヶ月から半年を要すると考えるなら、1年試みて、そして何も効果を感じれないようであればあきらめる、という選択はあっていいように思います。

くどいようですが、検査値を良くしていくことを最初は意識してください。実行が伴わない人ほど検査が必要です。

なぜなら検査を行わずに1年我慢すれば結果が得られると信じて、そうではなかった場合精神面だけではなく、正しくリコード法を行っていなかった時間的な犠牲が大きいからです。

追加情報

リコード法のアップデート

発症後10年経過した患者さんでも、改善していく例があることがわかってきました。

ただしそういった患者さんでは回復する期間は3~6ヶ月程度では期待できないとのことです。控えめな改善は、継続的な改善の可能性を示す兆候であるそうです。

また、75歳を超える高齢者の方も、反応が現れるまでに時間がかかるようです。

75歳を超えたら改善しないという基準値(カットオフ値)ではありません。文字通りにとってください。93歳の方で改善された方も存在します。

後期での改善例

以前のプログラムでは認知症後期の方は回復が難しいとされていましたが、新しいバージョンのプログラムでは、一般例として取り上げることはできないものの改善を見せる方もいらっしゃいます。(MoCA0点 → MoCA5点)

また、リコード法では毒素タイプは改善の難しさがあると言われていますが、逆に毒素が大きな要因となっていてそれが取り除かれた時に大きく改善を見せるパターンもあります。(MoCA4点 → MoCA20点)

そのため、中期、後期では特に検査によるすべての障害因子の特定が必須となります。

同じ1点でも重みが違う

リコード法は代謝障害を改善させた結果、MMSEスコアや体感に改善が及ぶため、対症療法的なアリセプトなどと違って、スコアが同じポイント上がった場合、脳機能だけでなく身体全体が生理学的に深いレベルで改善していることを意味します。

つまり、同じ3ポイントの上昇でも、アリセプトによるのか、リコード法によるのかではその重みがまったく違います。

車を乗り捨てるのでない限り、燃焼促進剤で調子が良くなったクルマと、フル整備によって調子が良くなったクルマを同じ加速性能だからとってはいけません。

特定のエンドポイント(臨床試験の指標)ばかりで判断していると、こういう考えに及ばなくなりがちですが、その重みはアリセプトの抑制できる期間をすぎてから、実感できる差となってあらわれます。

<ブログ記事> 効きやすい病理・病状 成功要因 よくある患者の心配

僕は平和が怖い。何よりも怖い。

……地獄を隠しているような気がしてね。  

映画「甘い生活」

介護とリコード法 どちらの努力を選ぶのか?

ひとつ言えることは、アルツハイマーと診断された後も、多くの方はそのまま仕事だとか育児等で日々の忙しさに追われると思いますが、いずれ認知機能が悪化すれば、そのままもっと介護に忙殺され、もっと多くの苦しい努力が必要になります。

これは当ブログ、リコード法の真偽とは関係なく、確実に起こります。

私と家族のことを鑑みると、現在は、長年やってきてお互いに要領を覚え、効率よくすすめる仕組みができているため、作業だけを見ればそれほど大変というわけでもありません。まあ何事もそうですが、繰り返していけば要領は覚えるようになります。

後悔する時期は過ぎてしまった

とにもかくにも、母の人格が保たれているということは、作業の大変さとは比較できるようなものではありません。

これから母の身にどのようなことが起こったとしても、本来すでに想定された余命を超えているだけではなく、(生活上の問題はもちろんありますが)母としても家族とともに幸せな日々を過ごしているため、少なくともやってきたことを悔いる可能性のあった時期は完全に過ぎています。

今は母にとっても家族にとっても人生のボーナス期間です。

※興味深いもので、母の進行抑制が長く続いて当たり前になっているため、家族からは「贅沢な不満」がたまに出ており、私は家族のそういった「慣れに警戒」しているところです。

生き残りをかけて

花を開かせるのは怖い。けれど、固いつぼみの中でじっとしたままでいるのは、もっとつらい。そう思う日がついに来たのだった。

アナイス・ニン (作家)

繰り返しになりますがブレデセン博士の仮説が正しいと考える合理的理由は多くあり、

「今はまだ誰にでも簡単にできるとは言えないが、改善や抑制の可能性は十分にある

という言葉をお伝えすることがこのサイトの最大の目的です。

「神は誰も救わない、お前が死んでも何も変わらない、だがお前が生きて変わるものがある」 

三蔵法師

リアルな希望

そしてもう一点だけ、付け加えさせてもらえるなら、

全員が認知症が治らないと思いこんで苦しんでいる中、もし認知症を生き抜く人が現れれば、それは一人の命が救われたことだけを意味しません。

その単純な事実によって、多くの人が「希望をもつ」ことができます。

さらにそれが「具体的な方法」によって克服されたのであれば、希望を与えるのみならず、その方法を人に伝えていくことで現実的に人を救いうるかもしれません。

一度でもそれを経験するものなら、それを見なかったことにすることはもはやできません。多くの方もそうだと確信しています。今はブレデセン博士の言葉が痛いほどわかります。

謝意

君、弱い事を言ってはいけない。

僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである。

「森田草平宛書簡」  夏目漱石

再び長ーい、そして小難しい文章(汗)を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

「やはり自分には難しいな」と思った方が、多くいらっしゃるのではないかという気がしています。その中でこれだけ非常識に長い挨拶文を読んでいただけたということは、それだけ切実な問題に面しておられるのだろうと想像したりもします…

当ブログは、明らかにすべての人を対象とした書き方をしておらず、おそらく、当ブログに何か価値や意義があったとしても、それは、一部の方にしか伝わらないだろうと思って書いています。

最大の理由は、私の伝達能力、力量不足ですが、ブレデセンプロトコル(リコード法)の複雑さや、実行の難しさを考えれば、すべての人を対象としようとすることで、かえって全体の実行率と改善率が低下するのではないか、とも思っているからです。

一つの理念よりも100の生きる知恵

物事にはわかりやすく説明していいものと、そうでないものがあると思っています。

興味本位で人から「無人島で生きていくにはどうしたらいい?」と訊かれれば「とにかく希望を捨てないことだ」などと答えてもいいでしょう。

しかしその人が実際に無人島での生き残りを考えているのなら、伝えるべきはそういった精神論や抽象的事柄ではなく、具体的な火の起こした方だったり、獲物を捕まえるワナの作り方だったりといった100の知恵ではないかと思っています。

実践することで改善の兆しが見えてくれば、治療の基本理念のようなものは後からついてきます。

しかしその逆はありません、アルツハイマー病はそもそも「アルツハイマー病を治すための3つのステップ」といった単純な考え方や理念で治るような病気ではないからです。

天下り式の改善策であっても?

とは言え、私の知る多くの認知症患者、関係者の方も、「複雑すぎる」「難しすぎて実行できない」とあきらめてしまうため、ところどころで、わかりやすく書いて間口を広げようとしています。

自分に迷いを生じさせている最大の理由は、患者さんの時期やタイプによっては、たしかに天下り式の改善策ではあっても、何もしないよりもはるかに症状の改善を見せているからです!

そのため、文章自体の稚拙さもありますが、わかりやすい話とむずかしい話が一緒くたになってしまっているところがあり、読まれる方によってはどうすればいいんだと混乱されているのではないかとも想像しています、ここは平謝りするしかありません。。

書く過程で自らの人生が変わるのでなければ、

そんなブログは書く必要がない。

私自身もリコード法のように軌道修正を繰り返しながら、(できればみなさんのご協力もいただきながら)より良い方向(最適解)へ向かっていきたいと思っています。

ご質問、ご相談があれば、遠慮なく連絡してください。

あいさつ 目次

1. 母が若年性アルツハイマー病と診断されて

・はじめまして

・介護殺人

・新薬を待つという偽の希望

・認知症という病気の異質さ

・医学的根拠の問題

・進行抑制の本当の理由

・進行が穏やかに進む要因

・開発者ブレデセン博士の記事・経歴

・アミロイドβとは何のか

・アルツハイマー病 3つのタイプ

・書籍の紹介

・ブレデセンプロトコル(リコード法)の特徴

・アルツハイマー病 36の要因

・ブレデセンプロトコル(リコード法)への批判

・ブレデセンプロトコル(リコード法)の課題

・個人で行う治療の内在的な課題

・組み合わせ治療の原理的な実証不可能性

・アルハカ改善策

・日常の改善策

・すでにあるアルツハイマー病治療薬

・伝統療法について

・検査では本当の進行はわからない

・認知症トラップ

・回復を遠のかせる4つの障壁

・キーパーソンが鍵をにぎる

・注意事項とお願い

・理解は信頼を超越する

・認知症に対抗できる唯一の手札

・社会全体の現実逃避

・認知症先進国ジャパン

・実存的問題