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英語タイトル
Nishida Kitarō: What is “Absolute Nothingness”?Hitoshi Nagai 2006
日本語タイトル
『西田幾多郎:〈絶対無〉とは何か』永井均 2006
目次
- はじめに:/ Introduction
- 第一章 純粹経験——思う、ゆえに、思いあり / Chapter 1:Pure Experience — I Think, Therefore There is Thought
- 第二章 場所——〈絶対無〉はどこにあるのか / Chapter 2:Place — Where is “Absolute Nothingness”?
- 第三章 私と汝——私は殺されることによって生まれる / Chapter 3:I and Thou — I Am Born by Being Killed
- 西田幾多郎小伝:/ Brief Biography of Nishida Kitarō
- 読書案内:/ Further Reading
- あとがき:/ Afterword
本書の概要
短い解説:
本書は、西田幾多郎の哲学の核心概念である「絶対無」「場所」「純粋経験」を、初学者にも理解可能な形で解説することを目的とする。著者は自らの哲学的立場から西田を読み解き、独立した哲学的議論として提示する。
著者について:
永井均は1951年生まれ、千葉大学文学部教授。専攻は哲学・倫理学。ウィトゲンシュタイン、ニーチェ、デカルトなど西洋哲学の知見を踏まえつつ、「私」「自己意識」「他者」の問題を独自の視点から探究する。本書では西田哲学を「自分の哲学を勝手に進めるための素材」として活用する立場を明示している。
テーマ解説:
本書の中心的テーマは、「私」とは主語的な主体ではなく、事物や出来事が「於いてある」場所(述語的統一)であり、その場所の根本が「絶対無」であるという西田の洞察を、言語哲学・意識哲学の観点から再構築することである。
キーワード解説
- 純粋経験:主観と客観が分かれる以前の直接経験の状態。雷鳴が聞こえるとき、「私が聞く」のではなく、聞こえていること自体が「私」である。
- 場所:判断論における述語的統一。事物や出来事が「於いてある」ところ。主語的主体ではなく、与格的な場。
- 絶対無:それ以上に述語づけられない、対象化不可能な場所。有(存在者)を包摂しながら自らは無である。
- 自覚:「私が私に於いて私を知ること」。世界が自己を自覚する際に「私」が成立する。
- 私と汝:絶対に他なる二者が、相互に認め合うことで個として成立する関係。言語の成立基盤。
3分要約
本書は、西田幾多郎の難解な哲学を、著者永井均自身の哲学的関心から再解釈する試みである。永井は「わかりやすい解説書はつまらない」と断った上で、西田のテキストを素材に自らの哲学を展開するという方法をとる。冒頭の「雪国」の一文を例に、日本語が無人称的に事象を描く性質を西田の「純粋経験」と結びつける。そこでは主体と客体の分裂以前の直接経験こそが根本であり、「私」はその経験そのものを指す。
第一章ではデカルトの「我思う、ゆえに我あり」と西田を対比させる。デカルトの「私」は論理的推論と生の事実が混在する二義性を持つが、西田はその展開を拒否し、疑いえないものとして「直覚的経験の事実」のみを据える。知即行、知識・倫理・宗教の統一という西田の立場は、主客合一の経験として理解される。
第二章は「場所」の論理が主題となる。永井は西田を「言語哲学者」として読むことを提案し、ウィトゲンシュタインとの対決を描く。ウィトゲンシュタインが私的言語の不可能性を論証したのに対し、西田は言語以前の純粋経験それ自体が言語を可能にする構造を持つと考える。永井は「私は存在しないことによって存在する」という逆説を提示する。すなわち、「私」は主格ではなく、事物が「於いてある」場所(述語的統一)であり、その場所の根本は絶対無である。
判断論として展開すると、「SはPである」という判断において、主語は特殊、述語は一般的なものを指す。西田は「である」を「がある」に同化させて理解する。超越的主語面(真の個物)と超越的述語面(具体的普遍)は無限の過程の果てに一致する。自覚において有は無化され、言語において無は有化されるという弁証法がここに現れる。
第三章では「私と汝」の問題を扱う。田辺元の批判(西田の哲学は宗教的自覚の体系化にすぎない)に対し、永井は田辺が西田の真意を理解していないと反論する。西田によれば、「私」が成立するためには「汝」——絶対に他なるもの——が必要である。私は汝によって「殺される」ことではじめて一個の個物として「生まれる」。この過程を通じて、無の場所としての私と、個人(自我)としての私が同時に成立する。言語はこの私-汝関係の上に可能となる。永井は西田を「超弩級の哲学的な化け物」と評しつつ、その悪魔的な力と影響力(戦中の学徒出陣、全共闘運動など)にも触れて本書を閉じる。
各章の要約
はじめに
著者は、本書が「わかりやすい解説書」であることを認めつつ、それは西田の原文が極度に読みづらいからに過ぎないと述べる。真に意味のある解説書は、それが独立に哲学をする場合だけである。著者は西田の哲学を「借りて」自分の哲学を進める。ウィトゲンシュタインやニーチェについても同様の方法をとった経験があり、西田の「場所の哲学」はそれらに劣らぬ素晴らしいものだと評価する。本書を読めば西田の核心へ導かれると確信しつつも、それは「西田の核心ではなく永井の核心」かもしれないと自己言及的に断っている。
第一章 純粹経験——思う、ゆえに、思いあり
川端康成『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文には主語がない。これは主体と客体が分かれる以前の「純粋経験」の描写である。日本語では「雷鳴が聞こえる」「海が見える」と無人称的に表現するが、これらは知覚主体を前提しない。西田によれば、知覚している「私」は経験とは独立に存在せず、経験それ自体が「私」である。
西田は「知即行」を説く。最も強力な統一が真理であり、その統一の極致が行為である。倫理的善も美も宗教も、この主客合一の統一作用と別ではない。神は実在を超越した彼方ではなく、実在の根底にある力である。西田はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を批判的に継承しつつ、「思う、ゆえに、思いあり」こそが直接的真実だと主張する。デカルトの「私」は論理的推論と生の事実の二義性を持つが、西田は初発からこの展開を拒否した。
第二章 場所——〈絶対無〉はどこにあるのか
西田を言語哲学者として読む視点が提示される。ウィトゲンシュタインが私的言語の不可能性を論証したのに対し、西田は言語以前の純粋経験それ自体に言語を可能にする構造を認める。J・ロイスの「英国にいて英国の完全な地図を描く」という比喩を引き、「私」は世界の自己表象活動(自覚)において成立するとされる。
「私」は主格ではなく、事物や出来事が「於いてある」場所(述語的統一)である。「私は存在しないことによって存在する」という逆説がここに生まれる。判断論に適用すれば、「SはPである」において主語は特殊、述語は一般的であり、述語面としての場所が判断を可能にする。真の個物とは無限の一般概念によっても規定し尽くされないものであり、超越的主語面と超越的述語面は一致する。
意識は「無の場所」であり、対象化しようとすれば無である。自覚において有は無化され、言語において無は有化される。絶対無とは、それ以上に述語づけられない場所であり、類ではないので種差が働く基盤もない。
第三章 私と汝——私は殺されることによって生まれる
田辺元は西田批判「西田先生の教を仰ぐ」において、西田の哲学は「宗教的自覚」の体系化にすぎないと論じた。これに対し著者は、西田が語るのは「誰でも知っている卑近な事実」であり、田辺は西田の真意を理解していないと反論する。
西田は「私と汝」において、私と汝を包摂する一般者は存在せず、両者は「絶対に他なるもの」だと論じる。私が汝によって殺されること(自己の底で絶対的に否定されること)によって、はじめて一個の個人として生まれる。この過程を通じて、無の場所としての私と、主格的な自我としての私が同時に成立する。
言語はこの私-汝関係の上に可能となる。汝が可能なら言語が可能であり、言語が可能なら汝が可能である。こうして「私」は主格となり、一個の自我となる。これは「私の死」であると同時に「私の誕生」である。永井は西田を「超弩級の哲学的な化け物」と評し、その哲学が戦中の学徒出陣から全共闘運動に至るまで隠然たる影響力を持った可能性を示唆して本書を締めくくる。
西田幾多郎小伝・読書案内・あとがき
西田は自伝的に「黒板に向かって一回転した」と述べる。1870年生まれ、1945年没。第四高等学校教授、京都帝国大学教授を経て、「善の研究」「働くものから見るものへ」「無の自覚的限定」などで場所の哲学を確立した。読書案内では西田全集、岩波文庫版論集、主要な入門書・研究書・批判書が紹介されている。あとがきで著者は西田の哲学に「悪魔的な力」を感じたと述べ、その影響力が戦中・戦後の日本の思想状況に及んだ可能性を示唆する。同時に、これは西田哲学の重要性の証拠であって否定ではないと強調している。
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