書籍要約『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』永井均 2016

哲学自己位置付け問題・独我論

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English Title:Kaiteiban: Naze Ishiki wa Jitsu-Fumei ka: Hitoshi Nagai 2016

Japanese Title:『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』永井均 2016

目次

  • 第1日 なぜ意識は哲学の問題なのか / Day 1:Why is Consciousness a Philosophical Problem?
  • 第2日 なぜわれわれはゾンビなのか / Day 2:Why Are We Zombies?
  • 第3日 なぜ意識は志向的なのか / Day 3:Why is Consciousness Intentional?
  • 各章に質疑応答セクションを含む:/ Each chapter includes a Q&A section

本書の概要

短い解説

本書は、意識が通常考えられているような意味で「実在」しないことを、独自の哲学的枠組みを用いて論証する。著者は、意識をめぐる現代哲学(チャーマーズら)の議論を批判的に検討し、意識とは言語と人称・時制の構造によって産出される「累進的な虚構」であると主張する。対象は哲学に関心のある一般読者から専門家までを想定している。

著者について

永井均(ながい・ひとし)は、日本を代表する分析哲学者であり、特に心の哲学、形而上学、ウィトゲンシュタイン研究で知られる。専門は意識の問題、独我論、時間論、可能世界論など多岐にわたり、鋭い論理的思考と独自の概念装置で知られる。著書に『私・今・そして神——開闢の哲学』などがある。

テーマ解説

意識とは、世界内に実在する「何か」ではなく、「私」と「今」という人称・時制構造の累進的相対化によって生み出される、言語的・社会的構成物である。

キーワード解説

  • ゾンビ:物理的には人間と完全に同一だが、意識体験を欠くと想定される存在。意識の付随性を論じるための思考実験上の概念。
  • 第〇次内包/第一次内包/第二次内包

    :著者の独自概念。第〇次内包は言語化以前の直接体験、第一次内包は公共的に共有可能な意味、第二次内包は科学的探求により発見される本質を指す。

  • 累進構造:人称・時制・様相が、最上段の現実を下段へと相対化しながら無限に反復する構造。意識の成立条件をなす。
  • 私秘性/独在性:私秘性は他者からアクセス不能な内面性。独在性は「私だけが私である」という非対称的で非記述的な現実性。
  • 志向性:意識が何かを「向かう」あるいは「表象する」性質。本書では、言語的な公共世界の成立とともに初めて生じるとされる。

3分要約

本書は、意識が実在するか否かを問う現代哲学の議論を根本から覆そうとする。著者はまず、意識とは「一般的な心」ではなく、各人にしかアクセスできない私秘的な体験であるとされるが、そもそもそのような「私秘的なもの」が公共言語によって語られる時点で、すでに変質を被っていると指摘する。

第一日では、脳と意識の関係が他のいかなる関係とも類比的でないことが論じられる。意識は脳を観察しても見えず、むしろ世界そのものが意識の「仕事」として現れる。著者は「プトム」という思考実験を用いて、感覚の私秘性と公共性の緊張を描き出す。さらに、感覚は第一次内包(公共的意味)と第〇次内包(非言語的体験)の二重構造を持ち、両者は相互に補完し合うが、決して一致しない。

第二日では、チャーマーズのゾンビ論が批判的に検討される。ゾンビとは物理的に同一でありながら意識を欠く存在だが、著者はゾンビが「可能」であるという主張自体が、意識をあたかも客観的存在のように誤って実体化した結果にすぎないと論じる。むしろ、われわれは言語によって意識を語る限り、すでに「ゾンビ」として振る舞っている。つまり、意識のない存在としてのゾンビは不可能だが、「意識がある」と語る自分自身もまた、伝達可能な限りにおいて意識を失っている。

第三日では、意識が「志向的」であるというテーゼが検討される。志向性とは意識が対象に向かう性質だが、著者はそれが人称化と時制化という言語的構造に依存していると論じる。すなわち、「私」や「今」が一般的な指標詞として成立するとき、本来非対称的で唯一無二である現実性は、対称的で相対的な関係へと変換される。この変換こそが客観的世界と志向性を成立させるが、同時に「本当の私」や「本当の現在」を不可視化する。

最終的に本書は、意識とは何か「ある」ものではなく、言語と人称・時制・様相の累進構造が産出する効果であり、その構造自体が「私」と「他者」、「現在」と「過去・未来」、「現実」と「可能」の境界を絶えず再編成することを示す。著者は、意識の「実在」を問うこと自体が、この累進構造に絡め取られた言語ゲームの一部にすぎないと結論づける。


各章の要約

第1日 なぜ意識は哲学の問題なのか

意識は通常、「脳が作り出す私秘的な体験」と考えられる。しかし著者は、そもそも「心」なる一般的なものは存在しないと断じる。各人が持つのはただ一つの「これ」だけであり、それが他者と共有されることは原理的に不可能である。にもかかわらず、言語によって「痛み」や「酸っぱさ」が語られるのは、第一次内包(公共的識別機能)と第〇次内包(非言語的直接体験)の補完関係による。しかしこの補完は決して完全ではなく、常にずれを内包する。著者は時間との類比を用いて、このずれが「現在」と「過去・未来」の非対称性と同じ構造を持つことを示す。つまり、「今」は唯一現実的だが、言語で語られる限り相対化され、どの時点も「今」となりうる。意識も同様に、私にとっては唯一絶対的だが、語られる限り一般的な「意識」へと変質する。この変質こそが意識を哲学的問題にする根源だと著者は論じる。

著者はこう述べる。「意識とは、言語が初発に裏切るこのもの」であり、「にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のもの」である。

第2日 なぜわれわれはゾンビなのか

チャーマーズのゾンビ論——物理的に同一でありながら意識を欠く存在が「論理的に可能」であるという主張——を著者は批判的に検討する。ゾンビが可能とされる根拠は、意識が物理的性質に論理的に付随しないという点にある。しかし著者は、この議論が「現象的」と「心理的」の対比を無批判に一般化していると指摘する。現象的体験は本来、語られる瞬間に心理的カテゴリーへと格下げされ、累進構造を形成する。つまり、意識の有無をめぐる問題は、常にすでに言語的・公共的平面でしか成立しない。ゾンビが「意識がない」とされるとき、それはむしろ「意識がある」と語る私たち自身もまた、言語によって意識のリアリティを喪失していることを示唆する。したがって、われわれはすでに「ゾンビ」であり、それゆえに特別なゾンビは存在しえない。逆説的に、ゾンビ概念は意識概念の累進的構造を反映した鏡像にすぎない。著者は、チャーマーズの議論を「哲学的に幼い」と断じつつ、その単純さゆえにこそ問題の本質を浮き彫りにすると評価する。

第3日 なぜ意識は志向的なのか

志向性——意識が何かを「向かう」あるいは「表象する」性質——は、通常、意識の本質的構造とみなされる。しかし著者は、志向性が人称化と時制化という言語的装置に依存して初めて成立すると論じる。「私」という語が一般的指標詞として機能するとき、本来唯一無二である「この私」は、他者と並列可能な「一人の私」へと変換される。同様に「今」も、過去や未来の時点と対等な「一つの現在」となる。この変換によって客観的世界と志向性が生まれるが、その代償として「本当の私」と「本当の現在」の現実性は不可視化される。この構造を著者は「宇宙の缶詰」の比喩で描く——裏返された缶が宇宙全体を含み、他の缶と並べられることで初めて「一つの缶」として認識されるように、人称と時制の累進構造が世界を構成する。志向性はこの構造の産物であり、したがって意識の「本質」ではなく、言語的公共性の条件にすぎない。

著者はこう結論づける。「われわれはみなゾンビである。人々と交流し、自分の意識について語るとき、われわれの神はもうみんな死んでいる。」


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