
Media, Propaganda and Politics in 20th-Century Japan
SOAS Studies in Modern and Contemporary Japan
日本語タイトル:『昭和20世紀日本におけるメディア、プロパガンダ、政治』朝日新聞社 2015年
英語タイトル:Media, Propaganda and Politics in 20th-Century Japan, The Asahi Shimbun Company, 2015
この本は、20世紀における情報と権力の仲介者としての役割を果たした、日本最大の日刊紙の一つである朝日新聞の役割を調査したものだ。同紙のスタッフを含む、元編集長で日本を代表する信頼される公共知識人の一人である船橋洋一氏らが、同紙の日本史における役割を分析し、ニュース機関が国家の目標、夢、幻想の形成と維持にどのように貢献したかを明らかにしている。この本は、社内の文書、委員会会議の議事録、社員へのインタビューなどを基に、20 世紀の日本の歴史の中で、新聞編集者が何を取り上げ、何を取り上げなかったかを物語っている。戦時中のメディアについて独自の洞察を提供するだけでなく、『20 世紀日本のメディア、プロパガンダ、政治』は、戦後から 21 世紀に至るまでのメディアと社会の関係についても考察している。
目次
- 第1章 一つの時代の終焉 – The Last Days of an Era
- 第2章 昭和の始まり―経済恐慌 – The Beginning of the Showa Era—Economic Depression
- 第3章 統帥権干犯! – Supreme Command Violated!
- 第4章 満州事変 – The Manchurian Incident
- 第5章 テロの時代 – The Age of Terrorism
- 第6章 国家神話発展への道 – On the Road to Developing a National Mythology
- 第7章 日米戦争への道 – The Road to the Japan-US War
- 第8章 戦時大東亜会議 – The Wartime Greater East Asia Conference
- 第9章 終戦へのカウントダウン – Countdown to the War’s End
- 第10章 8月15日版の謎 – The Puzzle of the August 15 Edition
- 第11章 海外660万人の運命 – The Fate of 6.6 Million Abroad
- 第12章 占領下の新聞 – Newspapers Under the Occupation
- 第13章 責任の層 – Layers of Responsibility
- 第14章 朝鮮戦争と平和条約 – The Korean War and Peace Treaties
- 第15章 バンドン会議 – The Bandung Conference
- 第16章 日ソ関係の回復と国連加盟 – Restoring Japanese-Soviet Relations and Joining the United Nations
- 第17章 1960年安保条約 – The 1960 Security Treaty
- 第18章 高度成長と東京オリンピック – High-speed Growth and the Tokyo Olympics
- 第19章 汚染された列島 – The Polluted Archipelago
- 第20章 二つの朝鮮を見つめて – Gazing at the Two Koreas
- 第21章 青年の反乱 – Youth Revolts
- 第22章 軍事基地・沖縄 – Military Bases—Okinawa
- 第23章 文化大革命と日中関係の再開 – The Cultural Revolution and the Re-opening of Sino-Japanese Relations
- 第24章 ロッキード事件 – The Lockheed Incident
- 第25章 石油ショック – The Oil Shock
- 第26章 靖国神社参拝 – Yasukuni Shrine Visits
- 第27章 バブル経済 – The Bubble Economy
要約内容
第1章 一つの時代の終焉
1989年1月7日、昭和天皇の死去により昭和時代が終了した。朝日新聞は天皇の病状を詳細に報道し、最期の日には1800万部の号外が発行された。天皇の死に際して、新聞各社は「崩御」という戦前の用語を使うか「逝去」という一般的な用語を使うかで議論となった。朝日は最終的に「崩御」を採用したが、これは戦後民主主義と天皇制の間の緊張を示していた。また、天皇のがんの事実を報道するかどうかでも議論があり、朝日は初めて「がん」と報道した新聞となった。戦争責任については海外メディアが注目したが、日本の新聞は曖昧な態度を取り続けた。
第2章 昭和の始まり―経済恐慌
1929年のウォール街大暴落を朝日新聞は当初楽観視し、「歓迎すべき」出来事として報道した。しかし1927年から日本では昭和金融恐慌が発生し、銀行への取り付け騒ぎが全国に広がった。政府は金解禁を実施したが、これが経済不況を悪化させた。失業者が街に溢れ、農村では娘の身売りが相次いだ。朝日は当初緊縮政策を支持していたが、不況の深刻化により批判的な論調に転じた。高橋是清蔵相の積極財政政策により経済は回復したが、軍事費の増大という副作用も生んだ。新聞は経済政策の転換を十分に検証せず、政党政治への不信を増大させた。
第3章 統帥権干犯!
1930年のロンドン海軍軍縮会議で、日本は米英との軍艦保有比率で妥協案を受け入れた。しかし野党の政友会は、軍部の意見を無視した政府の決定を「統帥権干犯」として激しく攻撃した。朝日新聞は政府の立憲主義的立場を支持し、軍部の政治介入を批判した。しかし軍部と右翼勢力は「統帥権干犯」という言葉を武器に世論を煽り、浜口雄幸首相は右翼青年に銃撃され重傷を負った。この事件は後の軍部独走とテロリズムの温床となり、政党政治の終焉へと繋がった。新聞による合理的な議論は、天皇の権威を利用した感情的な攻撃に圧倒されていった。
第4章 満州事変
1928年、関東軍の河本大作大佐が張作霖爆殺事件を起こしたが、朝日新聞は当初中国国民党軍の犯行として報道した。真相を知りながらも検閲と自己規制により事実を追及せず、「満州某重大事件」として曖昧に扱った。1931年の満州事変でも、朝日は当初「不拡大方針」を支持したが、関東軍の独走が既成事実化されると追認する方向に転じた。満州国建国を支持し、国際連盟脱退時にも政府の立場に同調した。新聞は軍部の謀略を看破する能力があったにもかかわらず、国際関係への配慮と検閲により真実の報道を怠り、日本の国際的孤立を招く一因となった。
第5章 テロの時代
昭和初期から政治テロが頻発し、1928年の和歌山事件では政府批判の弁護士らが右翼に惨殺された。1929年には労農党の山本宣治代議士が右翼に刺殺された。朝日新聞はテロを批判したが、1932年の五・一五事件では犯人への同情論が国民の間に広がった。新聞は犯人の「純粋な動機」を詳しく報道し、結果的に減刑嘆願運動を後押しした。裁判官さえも感情的になり、テロリストに対する寛大な判決が相次いだ。1936年の二・二六事件では朝日本社も襲撃されたが、新聞は軍部批判を控えるようになった。暴力に対する寛容な社会風潮が、軍国主義への道を開いていった。
第6章 国家神話発展への道
1935年、美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、政府は「国体明徴声明」を発表した。朝日新聞は美濃部を支持せず、憲法学者への攻撃を傍観した。1937年の日中戦争開始後、国民精神総動員運動が始まり、朝日の緒方竹虎編集長も運動の理事に就任した。新聞は戦争協力体制に組み込まれていった。1940年の紀元二千六百年奉祝では、朝日大阪本社が橿原神宮の建設事業を主導し、国家神話の宣伝に積極的に参加した。新聞は報道機関から国家の宣伝機関へと変質し、理性的判断力を失っていった。検閲と自己規制により、批判的思考は完全に封じ込められた。
第7章 日米戦争への道
1936年の日独防共協定締結時、朝日新聞は政府方針を支持した。1939年に独ソ不可侵条約が締結されると日本は困惑したが、1940年の日独伊三国同盟では朝日は「真に喜ばしい」と歓迎した。緒方竹虎編集長は内心では同盟に反対だったが、新聞に反対論を掲載することはなかった。1941年の日米交渉は検閲により詳細が報道されず、新聞は盲目的に社説を書いた。真珠湾攻撃の前日、朝日記者は現地で作戦命令を目撃したが、報道されることはなかった。開戦時、朝日は毎日新聞に完全に出し抜かれ、軍部から情報を得られていないことが露呈した。新聞は戦争への道筋を検証する役割を果たせなかった。
第8章 戦時大東亜会議
1943年11月、東京で大東亜会議が開催され、日本、中国、タイ、満州国、フィリピン、ビルマの代表が参加した。朝日新聞は会議を「世界史の新時代」として大きく報道した。外相重光葵は大東亜宣言を対米英外交の武器として位置づけ、人種差別撤廃などの理想を掲げた。しかし実際には日本の指導権確立が目的で、参加国代表は日本への忠誠を競い合った。新聞報道は内閣情報局の指導により画一的になり、複数層の検閲システムが機能していた。会議後の新聞大会では各地域代表が日本賛美を繰り返し、プロパガンダ色が濃厚だった。国際的な反響は限定的で、中国重慶政府は「傀儡会議」として批判した。
第9章 終戦へのカウントダウン
1945年7月のポツダム宣言に対し、政府は「黙殺」と発表したが、海外では「拒否」と報道された。朝日新聞は「政府黙殺」と見出しを打った。8月6日の広島原爆投下後、軍部は「新型爆弾」との表現を強要し、「原子爆弾」という用語の使用を禁じた。8月8日のソ連参戦も報道が遅れ、現地記者の第一報は握り潰された。8月11日に初めて外国報道として「原子爆弾」の用語が使われた。終戦直前、政府と軍部で意見が対立し、新聞は両方の声明を同時掲載して読者を混乱させた。戦争の実態と終戦の経緯について、新聞は最後まで正確な情報を国民に伝えることができなかった。
第10章 8月15日版の謎
1945年8月15日の朝日新聞朝刊に掲載された「皇居前広場での涙の参拝」記事は、戦後の研究者により事前執筆されたものと指摘された。記事を書いた末恒多久郎記者は、玉音放送と同時に皇居に向かい、12時30分に原稿を提出したとされるが、時間的に不可能との疑問が提起された。戦時中の新聞は実際の出来事ではなく「あるべき姿」を報道する傾向があり、この記事も国民が取るべき「正しい態度」を描いたものと考えられる。当日皇居前に行ったカメラマンは涙で写真が撮れず、翌日の他紙に掲載された写真の出所も不明確である。敗戦の日の新聞報道は、現実よりも理想化された国民像を描き出していた。
第11章 海外660万人の運命
敗戦時、海外には軍人・民間人合わせて660万人以上の日本人がいた。政府は当初「できる限り現地に留まること」を指示したが、やがて引き揚げが開始された。シベリアに抑留された日本人は約56万人で、多くが強制労働に従事し約5万3千人が死亡した。朝日記者の坂東宗光も11年間抑留され、戦犯として処罰された。中国では国共内戦に巻き込まれ、長春包囲戦では多くの日本人が餓死した。満蒙開拓団の悲劇も深刻で、約7万2千人が死亡した。1974年、朝日新聞は「離別の記録」を連載し、中国残留孤児問題を初めて大きく報道した。戦後処理として1959年に多くの未帰還者が戦時死亡者とされ、問題は長く放置された。
第12章 占領下の新聞
敗戦直後、朝日新聞社内では戦争責任を問う「10月革命」が起き、経営陣が総辞職した。GHQ(連合国軍総司令部)は検閲を実施し、占領軍批判や「真相はこうだ」などの番組で日本人の「再教育」を図った。1950年には朝鮮戦争勃発を受けて「レッドパージ」が断行され、朝日では104人が解雇された。元戦争報道記者の大原正雄は8年間の闘争の末に復職を果たした。占領下で新聞は自由と統制の間で揺れ動いた。
第13章 責任の層
東條英機の自殺未遂から戦争責任追及が始まった。昭和天皇は退位を検討したが、最終的に全国巡幸で国民と「黙の謝罪と赦し」の儀式を行った。東京裁判では東條が一時天皇の戦争責任に言及したが、後に撤回した。1975年の記者会見で天皇が戦争責任について「そのような言葉のあやについては、私はそういう文学方面はあまり研究していない」と発言し、問題となった。戦争責任の「しこり」は残り続けた。
第14章 朝鮮戦争と平和条約
1950年6月、朝鮮戦争勃発で日本の立場が変化した。朝日は当初、全面講和を支持していたが、GHQの圧力で単独講和支持に転換した。論説主幹の笠信太郎は更迭の危機に直面した。1951年のサンフランシスコ平和条約調印で日本は独立を回復したが、同時に日米安保条約も締結された。朝鮮戦争を機に警察予備隊が設置され、日本の再軍備への道筋がつけられた。冷戦の中で日本は西側陣営に組み込まれていった。
第15章 バンドン会議
1955年、インドネシアで開催されたアジア・アフリカ会議に日本が参加した。「アジアの孤児」と呼ばれた日本の戦後アジア外交の出発点となった。日本代表の高碕達之助は中国首相の周恩来と秘密会談を行い、戦後初の日中対話を実現した。しかし日本は会議で目立たない存在で、経済面での貢献に留まった。フランス人記者は日本の態度を「謙遜」と「慎重さ」と評した。この会議は日本のアジア復帰への第一歩となった。
第16章 日ソ関係の回復と国連加盟
鳩山一郎首相は日ソ国交正常化を公約に掲げ、1955年から交渉を開始した。北方領土問題では4島返還論と2島先行論が対立した。1956年10月、鳩山首相がモスクワを訪問し、日ソ共同宣言に調印。平和条約締結後の歯舞・色丹返還で合意したが、国後・択捉は棚上げとなった。この合意により日本の国連加盟が実現した。外相重光葵は国連で「東西の架け橋」役を表明したが、冷戦激化で「国連中心外交」は次第に影を潜めた。
第17章 1960年安保条約
1959年、神奈川でU2偵察機が墜落し、冷戦の現実が浮き彫りになった。1960年5月19日深夜、岸信介首相は警官隊を国会に導入して新安保条約を強行採決した。これに対し連日大規模なデモが発生。6月15日、東大生樺美智子がデモで死亡した。新聞7社は「暴力を排し議会主義を守れ」との共同宣言を発表。アイゼンハワー大統領の訪日は中止となり、6月23日に新安保条約が自然成立。岸首相は退陣した。戦後最大の政治危機だった。
第18章 高度成長と東京オリンピック
1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、高度成長時代が始まった。「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)が普及し、生活様式が激変した。1964年の東京オリンピックは「平和の祭典」として開催され、同時に東海道新幹線も開通した。首都高速道路などインフラ整備が進み、日本は世界に向けて復興を印象づけた。しかし一方で、かつて戦争で使われた同じ会場で平和の象徴である聖火が燃えるという複雑な感情もあった。
第19章 汚染された列島
1956年に公式確認された水俣病は、当初原因不明の奇病とされた。新聞報道は混乱し、チッソ工場排水が原因と判明するまで3年を要した。「猫400号」の実験で因果関係は証明されていたが、企業と行政の隠蔽により「8年間の沈黙」が続いた。1973年の「第三水俣病」報道は水銀パニックを引き起こした。認定基準は次第に厳格化され、多くの患者が切り捨てられた。公害問題は日本の環境破壊の縮図であり、報道の「沈黙」が被害拡大を招いた。
第20章 二つの朝鮮を見つめて
1959年から在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業が始まり、9万3千人が渡った。当初は「地上の楽園」と宣伝されたが、実態は困窮生活だった。日本人妻の柴田浩三は北朝鮮で死亡したとされる。1965年の日韓国交正常化では、高杉晋一代表の妄言が問題となった。竹島問題は「解決しないことで解決」する密約で棚上げされた。1977年に拉致問題の端緒となる事件が発生したが、当時は「亡命」と見られていた。分断された朝鮮半島の現実を日本は十分理解していなかった。
第21章 青年の反乱
1968年、世界各地で学生運動が同時発生した。日本では東大・日大紛争が激化し、「全共闘」が結成された。朝日は当初「闘争」を「紛争」と表現し、客観報道に苦慮した。1969年1月、機動隊が安田講堂を封鎖解除した。その後、新左翼は内ゲバと暴力の道に走り、1972年の連合赤軍あさま山荘事件で学生運動は終焉した。ジーンズとベ平連に象徴される反戦文化も生まれたが、日本の68年世代は欧州と異なり政治の表舞台に立つことは少なかった。
第22章 軍事基地・沖縄
1955年、朝日の岩下忠男記者が沖縄の土地強制接収問題を報道し、米軍が激しく反発した。1965年、佐藤栄作首相が「沖縄が返らなければ戦後は終わらない」と宣言。1969年の佐藤・ニクソン会談で「核抜き返還」が合意されたが、緊急時の核持ち込みを認める密約があった。1972年5月15日、沖縄は本土復帰したが、広大な米軍基地は残存した。復帰後、沖縄問題は新聞報道から消え、1995年の少女暴行事件まで23年間、基地問題への関心は低下した。
第23章 文化大革命と日中関係の再開
1966年8月、文化大革命が始まり、野上忠記者が紅衛兵の街頭行動を報道した。日本人記者は漢字が読めるため、大字報(壁新聞)から情報収集できた。しかし中国当局の「政治三原則」により報道が制約され、朝日は「歴史の証人論」で自制した。林彪事件では報道が大幅に遅れた。1972年の日中国交正常化で田中角栄首相が訪中し、共同声明に調印した。田中の「ご迷惑」発言が中国側の不興を買った。台湾との断交により複雑な問題も生じた。
第24章 ロッキード事件
1975年、米上院でロッキード社の海外贈賄が発覚した。翌年7月、田中角栄元首相が5億円収受容疑で逮捕された。朝日は領収書の筆跡鑑定や片山滋「シグ」片山の独占取材など調査報道を展開した。検事総長との密会で捜査開始を促したとされる。コーチャン元副会長の独占インタビューで事件の全貌が明らかになった。榎本敏夫秘書の証言が鍵となったが、5億円の行方は謎のまま。日本の調査報道の出発点とされる事件だった。
第25章 石油ショック
1973年10月、第4次中東戦争で石油危機が発生した。朝日は4月から「燃える地球」という連載で危機を予測していた。トイレットペーパー不足のパニックが西日本から全国に波及した。しかし実際の原油輸入量は大幅減少しておらず、「石油危機の虚構」説も浮上した。政府と石油業界の「影のカルテル」が問題となり、石油連盟幹部らが起訴された。危機を契機に日本は省エネ技術を発達させ、産業構造の転換を図った。情報不足と過剰反応が混乱を拡大させた。
第26章 靖国神社参拝
1975年8月15日、三木武夫首相が戦後初めて終戦記念日に靖国神社を参拝した。「私人として」と強調したが、朝日は「政治的意味を持つ」と批判した。1979年4月、A級戦犯14人の合祀が発覚。昭和天皇は合祀に不快感を示し、1975年を最後に参拝を中止した。1985年、中曽根康弘首相が「公式参拝」を強行したが、中国で激しい抗議デモが発生。翌年は中国の反発を理由に参拝を中止した。靖国問題は憲法問題からアジア諸国との関係問題へと性格を変えた。
第27章 バブル経済
1980年代後半、低金利と土地投機でバブル経済が発生した。東京湾岸の「ウォーターフロント」が開発され、1987年のNTT株上場で株式投資ブームが起きた。1989年末に日経平均は38,915円の史上最高値を記録した。新聞各紙は資産運用特集を競って掲載し、投機を煽った。リクルート事件では未公開株譲渡が政界を揺るがした。1990年から株価は急落し、バブル崩壊が始まった。「バブル経済」は同年の流行語大賞2位となった。歴史の教訓を学ぶ難しさが浮き彫りになった。
