書籍要約『領域の灯りを消して』:[ロンドンの秘史への9つの遊歩] イアン・シンクレア 2003年

散歩・ウォーキング

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英語タイトル:『Lights Out for the Territory』:[9 Excursions in the Secret History of London] Iain Sinclair 2003

日本語タイトル:『領域の灯りを消して』:[ロンドンの秘史への9つの遊歩] イアン・シンクレア 2003年

目次

  • 第1章 薄い目でスケートをして:最初の遊歩 / Skating on Thin Eyes: The First Walk
  • 第2章 犬と皿 / The Dog & the Dish
  • 第3章 雄牛と熊とミトラ教のずれ:都市の天気 / Bulls & Bears & Mithraic Misalignments: Weather in the City
  • 第4章 Xがその場所を印す / X Marks the Spot
  • 第5章 アーチャー卿の展望 / Lord Archer’s Prospects
  • 第6章 公園の中の家 / House in the Park
  • 第7章 意図のシャーマニズム / The Shamanism of Intent
  • 第8章 煉獄シネマ / Cinema Purgatorio
  • 第9章 死体クラブ / The Cadaver Club
  • 謝辞と参考文献 / Acknowledgements and Select Bibliography
  • 索引 / Index

本書の概要

短い解説:

本書は、ロンドンの東部から南部、テムズ川沿いを歩きながら、都市の壁に刻まれた落書き、歴史的遺跡、文学的痕跡を追跡する、心理地理学的(psychogeographic)探訪記である。著者は歩行を通じて都市の隠されたエネルギーと物語を「発見」し、読み解くことを試みる。

著者について:

イアン・シンクレアは、ハックニー在住の小説家、詩人、エッセイスト。『ダウンリヴァー』(ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞)や『ラドン・ドーターズ』など、ロンドンを舞台にした作品で知られる。彼の手法は、都市空間を物理的に歩行し、そこに重層的に刻まれた歴史・神話・政治的力学を掘り起こすことに特徴づけられる。

テーマ解説:

  1. 心理地理学と歩行:都市の「公式」な地図とは異なる、歩く者の身体と直感によって浮かび上がるもう一つのロンドンを描出する。

  2. 都市テクストとしての落書きと痕跡:壁の落書き、墓石の刻印、広告、廃墟を都市が発する言語として読み取り、その「声」を蒐集する。

  3. 時間の重層性と記憶の政治:現在の都市景観の下に埋もれた過去(犯罪、葬儀、芸術運動、政治的抗争)を掘り起こし、それが現在の空間にどのように「侵食」しているかを描く。

キーワード解説:

  • 心理地理学(psychogeography):都市空間を感情や心理的影響の観点から探求する手法。シンクレアはこれを歩行実践として展開する。
  • 遊歩(excursion):目的のない彷徨ではなく、都市の「秘史」を読み解くための方法論としての組織的散歩。
  • 落書き(graffiti):都市の壁に刻まれた無名の声。シンクレアはそれを「都市の皮膚」に刻まれたサインとして収集・解釈する。
  • 犬(dog):本書を貫くモチーフ。暴力、記憶、死、そして都市の暗部を象徴する。
  • レイ・ライン(ley line):古代の遺跡や聖地を結ぶとされる直線。シンクレアはこれを都市の「エネルギーの流れ」を読むための隠喩として用いる。

要点要約

本書は、ロンドンの心理地理学的な探訪記である。著者は写真家マーク・アトキンスとともに、ハックニーからグリニッジ、そしてチンフォード・マウントへ至る「V」字型の経路を歩きながら、都市の壁に刻まれた落書きや標識、そして過去の歴史的・文学的痕跡を収集・解釈する。

各章は独立した遊歩とテーマを扱うが、全体として「歩行による都市の再発見」という一貫した方法論で貫かれている。シンクレアは、公式な地図や歴史記述の裏側に存在する「もう一つのロンドン」を、身体的な移動と直感的な連想によって浮かび上がらせる。

彼の関心は、落書きや墓碑銘といった「都市のテクスト」、犯罪や葬儀といった「都市の儀式」、そして建築や彫刻に込められた「隠された象徴」へと広がる。特に、ケイ夫妻の葬儀、レイチェル・ホワイトリードの《ハウス》、アーチャー卿のペントハウスなど、具体的な事件や場所を軸に、ロンドンの「秘史」を掘り起こす。

シンクレアの文体は、詩的で断片的、時に偏執的なまでに詳細であり、彼自身の私的な連想や文学的参照が縦横に織り込まれる。本書は単なる都市案内ではなく、都市をテクストとして読み解く批評的実践であり、記憶と場所の政治学を問い直す作品である。

各章の要約

第1章 薄い目でスケートをして:最初の遊歩

シンクレアは、ハックニーからグリニッジ、さらにリー川沿いにチンフォード・マウントへ至る「V」字型の遊歩を計画する。その目的は、都市の壁に刻まれた落書きを「言語」として収集・解釈することだ。彼はこの歩行を、都市の「生検」や「幻影の生検」と表現し、歩くことが都市の隠されたテクストを明らかにする方法だと主張する。アブニー・パーク墓地では、廃墟化した礼拝堂に「DOG」という落書きと三角形の中の「目」というシンボルを発見し、これが以降の探訪の鍵となると感じる。最終的に彼はグリニッジ大学のリチャード・メイキンのインスタレーションを訪れ、その詩的テクストが自身の遊歩と共鳴することを確認する。第1章は、本書全体の方法論とテーマを提示する導入部であり、歩行が都市の「秘史」を読み解くための基本的な実践であることを示す。

第2章 犬と皿

「犬」は、本書を貫く中心的なモチーフである。シンクレアは、ピット・ブルやロットワイラーといった攻撃的な犬種が、都市の不安や暴力、階級の象徴として機能していると論じる。犬は、所有者のステータスや「怒り」の拡張装置であり、その存在は都市の荒廃と結びついている。一方で、犬は文学や神話においても死や闇の使者として登場する。第2章後半では、ロニー・クレイの葬儀が詳細に描写される。この葬儀は、東ロンドンのギャング文化と「犬」のモチーフが交差する場として機能し、地域の記憶と「犬の時代」の終焉を象徴する。シンクレアは、葬儀の行列を追いながら、クレイ兄弟の神話化と、彼らの世界が「犬」のイメージとともに終焉を迎える様子を描く。前章で提示された歩行の方法論が、具体的な都市現象(犬と葬儀)の分析へと展開される。

第3章 雄牛と熊とミトラ教のずれ:都市の天気

シンクレアは、ロンドン金融街(シティ)を歩きながら、その空間が天候や自然的リズムから切り離された「閉じた」領域であると批判する。シティは、監視カメラやバリケードによって外部から遮断され、独自の人工的な気候を形成している。彼は、シティに残された雄牛や熊の彫刻、ミトラ教の神殿跡などを手がかりに、この地域が本来持っていた神話的・儀礼的機能が現代の資本主義によって歪められたと論じる。特に、ミトラ教の神殿が発掘され、その後もとの位置から移動・再配置されたことは、シティがその「聖なる幾何学」を意図的に破壊した証拠だと主張する。この章では、前章の「犬」が象徴する暴力と闇のテーマが、シティの建築や象徴体系という形でさらに展開され、都市の「エネルギー」がどのように管理・歪曲されているかが問われる。

第4章 Xがその場所を印す

シンクレアは、詩人エイダン・アンドリュー・ダンとその叙事詩『ヴェイル・ロイヤル』、そしてその出版者マイク・ゴールドマークに焦点を当てる。ダンの詩は、キングスクロス地区をロンドンの精神的な中心として位置づけ、ウィリアム・ブレイクの予言を現代的に再解釈する試みである。シンクレアは、ダンの「狂気」とも言えるビジョンと、それを支援するゴールドマークの活動を肯定的に描きつつ、現代詩が都市の「再魔法化(re-enchantment)」に果たす役割を考察する。この章は、前章までの都市批判(金融資本主義による歪み)に対する一つの対抗手段として、「詩的ヴィジョン」による都市の再解釈を提示する。シンクレア自身も、かつて同じ地域で詩『レッド・アイ』を構想していたことを明かし、ダンのプロジェクトとの共鳴を確認する。

第5章 アーチャー卿の展望

シンクレアは、小説家で政治家のジェフリー・アーチャー卿のテムズ川沿いのペントハウスを訪問する。アーチャーの豪華なコレクションと見晴らしは、資本主義と権力の象徴として描かれる。しかし、シンクレアは同時に、この建物の周辺(ランベス宮殿、トレードスカント家の庭園、MI6ビル)に、17世紀の博物学者や錬金術師たちの「秘教的」な痕跡を見出す。彼は、アーチャーのペントハウスが、歴史上の「ソロモンの館(Salomon’s House)」——知識と権力の理想的な集積所——の末裔であると論じる。この章では、前章の「詩的ヴィジョン」とは対照的に、権力と資本がどのように都市の象徴を「収集」し、自らの正当性のために利用するかが示される。しかし同時に、その表面の下には別の歴史(トレードスカント、アシュモール)が脈打っていることも明らかにされる。

第6章 公園の中の家

シンクレアは、レイチェル・ホワイトリードの作品《ハウス》を中心に、公共芸術と地域社会の対立を描く。ホワイトリードが東ロンドンの廃屋をコンクリートで鋳型を取り、彫刻として再現したこの作品は、地元住民や政治家の激しい反発を招き、最終的に解体された。シンクレアは、この出来事を、記憶、場所、芸術の政治学を問う象徴的な事件として扱う。彼は、作品が立っていた場所が「犬の島(Isle of Dogs)」や歴史的な墓地(ミース・ガーデンズ)と地形的に結びついていることを指摘し、《ハウス》が都市の「エネルギー線」の上に意図的に配置されていた可能性を示唆する。この章は、前章の「権力の象徴」から「記憶と場所の政治」へと議論を移行させ、芸術がどのように都市の記憶と闘い、またそれに抵抗されるかを考察する。

第7章 意図のシャーマニズム

シンクレアは、ブライアン・キャトリングやギャヴィン・ジョーンズといった現代美術家たちの活動を「都市のシャーマニズム」と位置づける。彼らは、廃墟となった防空壕や灯台など、都市の周縁部で孤独に制作を行い、その場所に秘められたエネルギーの「再活性化」を試みる。シンクレアは、彼らの作品(特にジョーンズの地下壕での「電鋳」や、キャトリングのパフォーマンス)を詳細に描写し、彼らが「部族」を持たない現代のシャーマンとして、都市の精神的な健康を担っていると論じる。また、写真家マーク・アトキンスの仕事にも触れ、アトキンスがキャトリングやジョーンズと同様に、都市の「不可視の」側面を可視化する役割を果たしていると指摘する。この章は、前章の《ハウス》をめぐる政治闘争の後、芸術が持つより根源的な、都市の「癒し」や「変容」の可能性を探求する。

第8章 煉獄シネマ

シンクレアは、自身の映画制作の経験を振り返り、ロンドンを舞台にした映画の系譜を辿る。彼は、マイケル・リーヴス(『魔術師』、『妖婆の館』)やクリストファー・プティ(『レディオ・オン』)、パトリック・カイラー(『ロンドン』)といった映画監督たちを取り上げ、彼らがどのようにロンドンの「もう一つの顔」を捉えてきたかを分析する。特に、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』が、ロンドンの特定の場所(メアリオン・パーク)を「映画的」な空間として再定義したことを強調する。シンクレアは、映画が都市を記録するだけでなく、都市そのものを「発明」し、私たちの知覚を変える力を持つと論じる。この章は、これまでの「歩行」による都市探検の方法論を、映画というメディアによる都市の「再構築」と比較し、拡張する。

第9章 死体クラブ

シンクレアは、P.D.ジェイムズの推理小説『原罪』と、デレク・レイモンド(ロビン・クック)のハードボイルド小説を対比させながら、ロンドンを舞台にした犯罪小説がどのように都市を描いてきたかを論じる。ジェイムズの小説は、ワッピング地区を舞台に、上品で秩序立った「英国ミステリ」の伝統に則りつつ、現代の都市問題(ドックランズ再開発)を描く。一方、レイモンドの小説は、都市の地下世界の暴力と狂気を生々しく描き出す。シンクレアは、ジェイムズの探偵アダム・ダルグリッシュを「詩人」として皮肉りつつ、両者の作品が都市の「死体」——すなわち隠された記憶や暴力——をどのように扱うかを分析する。この章は、本書全体を通じて探求されてきた「都市の秘史」というテーマを、文学ジャンル(推理小説)というフィルターを通して再考し、都市を「読む」ことの多様な方法を示す。

エピローグ/結論

シンクレアは、最後の遊歩でチャールトン・ハウスを訪れる。この建物は、プリオレ・ド・シオン(シオン修道会)やテンプル騎士団といった秘密結社と結びつけられることがある。彼は、地元の歴史家のパンフレットを入手し、チャールトン・ハウスが「角のある神」セルヌンノスの崇拝地であった可能性を示唆する記述に触れる。しかし、この探求は明確な結論に至らず、シンクレアはむしろ、こうした「陰謀論」的な物語自体が都市の魅力の一部であることを認める。最終的に、彼はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』から引用し、「領域(テリトリー)へ向けて灯りを消して(light out)」出発する決意を表明する。これは、本書が一つの完結した答えを提示するのではなく、絶え間ない探求と移動のプロセスそのものを重視することを示している。

想定読者・前提知識・読みどころ

  • 想定読者:ロンドンに深い関心を持つ読者、都市研究や文化地理学に関心のある読者、実験的なノンフィクションやエッセイを好む読者。
  • 前提知識:ロンドンの地理や歴史についての基礎的な知識があると理解が深まるが、必須ではない。本書は散文的な探訪記であり、特定の専門知識がなくとも楽しめる。
  • 分量・難易度:約400ページ(ペーパーバック版)。文章は詩的で断片的、時に難解な引用や連想が含まれるため、集中して読むことが求められる。難易度はやや高め。
  • 読みどころ:本書は各章が独立した遊歩となっているため、特定の場所(ハックニー、ドックランズ、シティなど)やテーマ(犬、映画、犯罪小説など)に関心があれば、その章から読み始めることができる。しかし、シンクレアの方法論と世界観を理解するには、第1章と第2章を通読することを勧める。特に第2章のクレイ葬儀の描写と、第6章の《ハウス》をめぐる議論は、本書の核心的なテーマ(記憶、暴力、場所の政治)が最も明確に現れている箇所である。


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