最後に

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「とにかくまずは生きろ、病気は後で治す。」

中村哲

いつあきらめるのか

見極める

というわけで、仮に読者の方がリコード法、またはそれに類することを実行してみようと思ったとしても、馬鹿高いサプリメントを買って飲めば済むという話ではないため、納得するかどうかだけではなく、その後どこまで実行できるのかの見極めも大事になるかと思います。(とはいえ実際のところは、やってみないとわからないですよね…)

体感的な効果を感じられるまでの期間は個人差があります。

比較的純粋な炎症性のタイプで若年性ですと、数日で改善を感じられたというケースもあるようです。(改善効果を感じることと、それが代謝レベルで必要十分に改善されることはイコールではないことに注意してください)

期限は6ヶ月?

ブレデセン博士は、リコード法参加者の、「どこまでやって、あきらめるべきか」という問いかけに対して、6ヶ月という期間を目安にすると良いと答えています。

これは、もちろんあくまでリコード法の検査をして、書籍通りに実行をすることが前提です。

 

日本国内ですと、そもそもリコード法の検査も実行が難しく、わたしの知っているリコード法実践者に限っても検査を含めてリコード法を実行できていると言えるレベルの人はほんの一握りです。

そのためどれだけやればの前に、そもそも実行ができていないというケースがほとんであるため、6ヶ月とか1年という期間設定にはあまり意味がないように感じています。

やっぱり検査

おそらく不十分なリコード法だと改善の兆候、または進行が抑制されていることに気がつくのに、1年2年単位といった話になってくると思います。うちの母もそうでした。

しかし、多くの人では1~2ヶ月経過して何も感じられない場合、まずもってやり方が間違っている、不十分と考え、検査を行う、優先順位を見直す、書籍を今一度よく読む、他のリコード法を実践している人に相談する、ひとつひとつの改善策を本当に効果があるものに落とし込むといっことをやっていくことが、現在だせるもっとも現実的な答えではないかと思います。

長期的な指標ではリスクが大きい

ひとつだけはっきり言えるのは、検査を行わず行うリコード法はリコード法とは呼べません。

その上でですが、検査も含め本格的な始動までに数ヶ月から半年を要すると考えるなら、1年試みて、そして何も効果を感じれないようであればあきらめる、という選択はあっていいように思います。

ただし、これは老齢期の認知症患者さん(65歳を超える)の場合です。64歳以下の若年性では若ければ若いほど一般的に進行が早く、1年で結果を見ていくというのは手遅れになるリスクが高いため、注意してください。

症状ではなく検査値!

くどいようですが、検査値を良くしていくことを最初は意識してください。実行が伴わない人ほど検査が必要です。

なぜなら検査を行わずに1年我慢すれば結果が得られると信じて、そうではなかった場合精神面だけではなく、正しくリコード法を行っていなかった時間的な犠牲が大きいからです。

同じMMSEの1点でも重みが違う

リコード法は代謝障害を改善させた結果、MMSEスコアや体感に改善が及ぶため、対症療法的なアリセプトなどと違って、スコアが同じポイント上がった場合、脳機能だけでなく身体全体が生理学的に深いレベルで改善していることを意味します。

つまり、同じ3ポイントの上昇でも、アリセプトによるのか、リコード法によるのかではその重みがまったく違います。

車を乗り捨てるのでない限り、燃焼促進剤で調子が良くなったクルマと、フル整備を行ったクルマが同じ加速性能の改善を示したからといって、両者を同じ価値だとは見なさないはずです。

特定のエンドポイント(臨床試験の指標)ばかりで判断していると、こういう考えに及ばなくなりがちですが、その重みはアリセプトによって抑制できる期間をすぎてから実感できます。

また周辺症状(BPSD)や睡眠リズムにより介護者もゆっくり眠れるなど、試験の数値ではわからない効果としてあらわれます。

 

僕は平和が怖い。何よりも怖い。

……地獄を隠しているような気がしてね。  

映画「甘い生活」

介護とリコード法 どちらの努力を選ぶのか?

ひとつ言えることは、アルツハイマーと診断された後も、多くの方はそのまま仕事だとか育児等で日々の忙しさに追われると思いますが、いずれ認知機能が悪化すれば、そのままもっと介護に忙殺され、もっと多くの苦しい努力が必要になります。

これは当ブログ、リコード法の真偽とは関係なく、確実に起こります。

私と家族のことを顧みると、現在は、長年やってきてお互いに要領を覚え、効率よくすすめる仕組みができているため、作業だけを見ればそれほど大変というわけでもありません。まあ何事もそうですが、繰り返していけば要領は覚えるようになります。

後悔する時期は過ぎてしまった

とにもかくにも、母の人格が保たれているということは、作業の大変さとは比較できるようなものではありません。

これから母の身にどのようなことが起こったとしても、本来すでに想定された余命を超えているだけではなく、(生活上の問題はもちろんありますが)母としても家族とともに幸せな日々を過ごしているため、少なくともやってきたことを悔いる可能性のあった時期は完全に過ぎています。

今は母にとっても家族にとっても人生のボーナス期間です。

※興味深いもので、母の進行抑制が長く続いて当たり前になっているため、家族からは「贅沢な不満」がたまに出ており、私は家族のそういった「慣れに警戒」しているところです。

もはや幸福は真の問題ではない

どのみち死なねばならぬなら、 私は、なっとくして死にたいのだ

梅崎 春生

埋もれてしまう個人の生

お金や社会的な損害の話しばかりしてしまいましたが、「何万人が!」とか言われても、ある意味そういう大きな話というものは、かえってピンとこない、自分たち個人の実存的な生というものが見えにくくなったりもします。

また、認知症は、えてして悲惨さばかりがクローズアップがされ、またその反動でか「家族はともかく、本人はそれほど不幸でもないよ、」といった意見も時々目にしたりします。

幸福の過度な強調

わたしはというと、実はどちらの意見にも組みしておらず、今の世の中、幸せという観点ばかりが強調されすぎているのではないか、とも感じています。

当然、幸福の定義を広げれば、すべての問題は幸福かどうかだけになってしまいますが、幸福というのはみなさんが思われているほど、人生の価値を決める万能な物差しではありません(きっぱり)

幸福主義者は、二度と戻ってこられない仮想現実の世界を、今よりほんの少しでも幸せに生きられるのなら選択するはずですが、もしその選択を躊躇するとすればそれはなぜでしょうか?

もしあと、3日しか生きられないとしたら「幸福な生」があなたの”最大の”関心事になるでしょうか?

その時、幸福は追求する至高のものというよりも、水や安全のように、その土台にあると良いであろうものに過ぎないと考える人たちは少なくないはずです。

たまたま現代が、絶対的な価値観を失った相対主義的な時代であるため、人々が幸福を究極目標として考えてしまいがちだ、というだけのことだと考えています。

実存の生

わたしが言いたいのは、認知症の本質的な問題はその悲惨さもさることながら、「人が人生をどう終えるのか」つまり世界の終焉という究極的な実存問題であり、通俗的な幸福の問題を超えているのではないかと思うのです。

こういった人生の最期をどう考えるかは、とうぜん、その人の人生観にもよるでしょう。映画のようなハッピーエンディングを望む人も多いと思います。

わたし自身、病気の経験があるため特別にそう考えるのかもしれませんが、認知症になるということは

「人生最期の時期に、自分自身に対して生きることへの問いかけができる最も重要な瞬間を逃してしまっている」と感じており、ある光のもとでは、それが全てだとも感じています。

長いあいさつが、ますます収拾つかなくなりそうなので、また別の機会に譲らしてもらえればと思います(汗)

最後に

死ぬだけよ、あんた死ぬだけよ、
―なんとかしようとしなければ、あんたは死ぬだけよ

小説「大麦入りのチキンスープ」

1%のあなたへ

長ーい、そして小難しい文章(汗)を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

「やはり自分には難しいな」と思った方が、多くいらっしゃるのではないかという気がしています。その中でこれだけ非常識に長い挨拶文を読んでいただけたということは、それだけ切実な問題に面しておられるのだろうと想像したりもします…

当ブログは、明らかにすべての人を対象とした書き方をしておらず、おそらく、当ブログに何か価値や意義があったとしても、それは、一部の方にしか伝わらないだろうと思って書いています。

最大の理由は、私の伝達能力、力量不足ですが、ブレデセンプロトコル(リコード法)の複雑さや、実行の難しさを考えれば、すべての人を対象としようとすることで実行できない人に不要なプレッシャーを与えてしまったり、建設的な議論ができないクレーマーを誕生させたり、整備が追いつかず社会騒動を起こしてしまったりと、結果的に助かる人の数が低下するのではないか、とも危惧しているからです。

複雑さは障害ではなくチャンスかもしれない

ただ幸か不幸か、リコード法がテレビ番組などで報道され知れ渡りつつあるにも関わらず、その複雑さゆえに、コロナウイルスのトイレットペーパーのような騒動を引き起こすことを防いでいるとも言えます。

リコード法が唯一の残された道であることが本当に認識されれば、社会整備が間に合わす大混乱を起こす可能性もあるでしょう。トイレットペーパーのように国内ですぐに増産できない産物も存在するからです。一見この今の時期が黎明期のもっとも難しい時期のようでいて、実はバブル騒動前の前夜祭にすぎないのかもしれません。

二項対立の常識に巻き込まれない

いずれにしても多くの人にとってリコード法は、たしかに簡単とは言えません。その広範囲さえゆえに、必ず苦手分野が存在し、それらの克服も必要となってきます。

すべき事柄の多さもですが、その前に、二極化しているトンデモ健康情報と、現代医療の非実践性、どちらの不合理性、隙間にも気が付いて常識感を変えていく必要もあります。

実際にはじめて見て「するんじゃなかった」と後悔することもあるかもしれませんし、逆に認知症治療への奮闘が他の方への救いになるかもしれません。

やってみようという決心は自分の意志で行うより他ありませんが、残りを闘病者として一緒に歩みたいと思います。

アルハカ

 

断片的な情報はツイッターで発信していく予定です。

補足記事

認知症情報をどうやって探索すればよいか、学習すればよいか、個人的な方法論についてまとめてみました。長文ですので、興味のある人だけ読んで見て下さい。

補足(情報探索・学習方法)