
English Title:I, Now, and God: Philosophy of Creation / Hitoshi Nagai 2004
Japanese Title:『私・今・そして神:開闢の哲学』 / 永井均 2004
目次
- 第1章 開闢の神をめぐってたゆたう序章 / Wandering Around the God of Creation: A Prologue
- 第2章 ライプニッツ原理とカント原理 / Leibniz’s Principle and Kant’s Principle
- 第3章 私的言語の必然性と不可能性 / The Necessity and Impossibility of Private Language
本書の概要
短い解説:
本書は、哲学の核心的問題――「なぜ私は私なのか」「なぜ今が今なのか」「なぜこの世界が現実なのか」――を、伝統的な哲学史の枠組みを超えて根源的に問い直すことを目的とする。読者には専門的な予備知識よりも、世界の謎に対する素朴な驚きが求められる。
著者について:
著者の永井均(1951年生まれ)は千葉大学教授で、専門は哲学・倫理学。本書を「マンガは哲学する」「転校生とブラック・ジャック」と三作をなすものと位置づけ、自らの形而上学的主張を明確に打ち出している。徹底的に不真面目な真剣さこそが哲学の本質だと語る異色の哲学者である。
テーマ解説
本書は、「開闢」――世界が世界として開かれるその一回限りの奇跡――と、その後に成立する客観的世界との間に横たわる決定的な断絶を、ライプニッツとカントの対立軸を通じて明らかにする。
キーワード解説
- 開闢:世界が世界として始まるその瞬間。この奇跡それ自体は、一度世界が開かれた後には内部から捉えることができない。
- ライプニッツ原理:内容の連続性や最もふさわしいことによって現実や私の同一性が決まるという原理。
- カント原理:どんな内容であろうと、現に起こっていることが現実であり、現に経験している私が私であるという原理。
- 私的言語:自分だけが理解し、自分だけが使える言語。ウィトゲンシュタインはその不可能性を論じたが、本書ではその不可能性と同時に必然性が主張される。
- 独我論:「私だけが実在する」という立場。言語で語ろうとすると別の意味に取られてしまうというパラドックスを持つ。
3分要約
本書はまず、中学生時代のエピソードから始まる。理科室の備品消失事件で「物は突然無くなることもありうる」と発言した著者は、科学の先生には叱られ、生徒たちには誤解された。哲学はつねに無力であり、理解されない――この経験が本書の出発点である。
第1章「開闢の神をめぐってたゆたう序章」では、ラッセルの「五分前世界創造説」を手がかりに、「過去そのもの」と「記憶」の関係が問われる。全能の神でさえ、だれも覚えていない過去を作ることはできない。記憶と過去を同時に可能ならしめる条件が、神の全能性すら制約する壁となる。この議論は「五十センチ先世界創造説」へと展開し、「私」と「今」の特殊な地位が浮かび上がる。ロボットに心を与えるという思考実験は、この変化が他人には識別できなくても理解できるという点で「神の概念」そのものを明らかにする。「昨夜私創造説」は、自分自身の誕生でさえも、その内側からは識別できない開闢の一形態であることを示す。
第2章「ライプニッツ原理とカント原理」は本書の核心である。ライプニッツによれば、個体(例えば三島由紀夫)の概念は神の意志によって現実化される。この発想を著者は「私」と「今」に適用する。内容とは独立に、なぜこの人間が私であり、この時点が今なのか――この問いが、ライプニッツ原理(内容の連続性が同一性を決める)とカント原理(現に経験していることがすべて)の対立として定式化される。私が分裂する思考実験では、内容的に同じ二人のうちどちらか一方が「なぜか」私である。この「なぜか」こそが、カントの統覚の理論を超える問題である。時間論では、マクタガートのA系列(過去・現在・未来の推移)とB系列(前後関係)の対立も、端的な現在と一般化された現在の断絶として再解釈される。
第3章「私的言語の必然性と不可能性」は、この問題を言語のレベルに移す。「しくい」という独自身の気分を記録する私的言語は、誤りの可能性がなく、したがって言語として成立しない――これがウィトゲンシュタインの有名な論証である。しかし著者は逆転の発想をする。誤りうるという基準自体を可能にする、誤りえない確実性の地点がどこかに必要ではないか。その地点こそ、私が「今」理解しているこの言語そのものであり、それはまさに私的言語である。しかしこの言語の正しさを、その言語の内部から語ることはできない。絵日記はこのパラドックスを鮮やかに示す。過去の自分が赤い空を「青い」と書き記した絵日記は、「私の言語は変わっていない」という確信と「変わったかもしれない」という疑いの両方を可能にする。結局、私的言語は不可能であると同時に必然であり、その開闢的な現存在は言語の内部からは跡形もなく消え去る。
各章の要約
第1章 開闢の神をめぐってたゆたう序章
世界が五分前に創造されたというラッセルの想定は、それが「記憶だけが過去を作る」という弱い解釈なら可能だが、「過去そのものまで作る」という強い解釈では不可能である。全能の神でさえ、記憶と過去を同時に可能ならしめる条件を超えることはできない。ロボットに心を与えるという思考実験は、この変化が他人には識別できなくても理解できるという点で「神」の概念の本質を明らかにする。「昨夜私創造説」は、自分が心を得た瞬間でさえその内側からは識別できないことを示し、開闢それ自体の構造を浮かび上がらせる。著者は「開闢の奇跡」と呼ばれる、それ以上遡行できない根源的事実が、開かれた世界の内部では一つの存在者として誤って位置づけられると論じる。
第2章 ライプニッツ原理とカント原理
ライプニッツによれば、個体の概念は神の知性にあり、それが現実化されるには神の意志が必要である。著者はこの構造を「私」と「今」に適用する。「何が見えていようと見ているのはつねに私だ」という独我論の核心は、端的な私と可能な私の断絶にある。私が分裂する思考実験では、内容的に同じ二人のうちなぜか一方が私であり、他方は他人である。カントは統覚の統一作用によって客観的世界を説明したが、複数の候補から一つが現実の私であることの理由は説明できない。ここにライプニッツ原理(内容の連続性が同一性を決める)とカント原理(現に経験していることがすべて)の対立が生じる。時間についても同様に、端的な現在と一般化された現在の断絶が、マクタガートのパラドクスを超える視点を提供する。
第3章 私的言語の必然性と不可能性
「しくい」という独自の気分を記録する私的言語を考える。この言語には誤りの基準がなく、したがってウィトゲンシュタインに従えば言語として成立しない。しかし著者は反論する。誤りうるという基準そのものを可能にする、誤りえない確実性の地点が必要ではないか。その地点こそ、私が今理解しているこの言語そのものである。この言語は私的言語であると同時に、公共言語の可能性条件でもある。絵日記はこのパラドックスを露わにする。過去の自分が赤い空を「青い」と書いた記録は、言語の連続性への確信と非連続性への疑いを同時に可能にする。結局、私的言語は不可能であると同時に必然であり、その開闢的な現存在は言語の内部から消え去る。人称・時制・様相といった客観的世界の要件は、開闢それ自体を隠蔽することによってのみ可能になる。
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