How Not to Study a Disease: The Story of Alzheimer’s
書籍『アルツハイマー病の研究方法を間違えた話』Karl Herrup(神経生物学者)2021年
「我々はアミロイド以外を研究していないなら、アルツハイマー病を研究していない」—外部諮問委員会
過去30年間で300億ドル(約4.5兆円)が投じられたアルツハイマー病治療薬開発。30件近い臨床試験がすべて失敗… pic.twitter.com/jUNsaC0FZY
— Alzhacker/ zomiaJ (@Alzhacker) May 28, 2025
本書の要約
「How Not to Study a Disease: The Story of Alzheimer’s」は、アルツハイマー病研究の現状を厳しく検証し、なぜこれまで治療法が見つからないのかを明らかにした書籍である。著者カール・ヘルップ(Karl Herrup)は神経科学者として、アルツハイマー病研究の歴史的経緯と構造的問題を詳細に分析している。
本書の主要テーマは、アルツハイマー病研究が「アミロイド仮説」に過度に依存し、他の有望な研究方向を排除してきたことである。著者は、この単一の仮説への固執が研究の多様性を阻害し、結果として治療法開発を遅らせていると主張する。特に重要な論点として、病気の定義そのものが政治的・戦略的理由で拡大され、科学的根拠よりも資金調達の都合が優先されてきたことを指摘している。
著者の提案は明確だ。アルツハイマー病の定義を臨床症状に基づくものに戻し、アミロイド斑の存在を診断の必須条件から外すべきである。そして研究を多様化し、老化生物学、炎症、脂質代謝、ミエリン機能など複数のアプローチを並行して進めることが必要だとしている。
本書は単なる批判書ではなく、建設的な解決策も提示している。新しい「近隣モデル」(neighborhood model)を提案し、脳内の異なる細胞タイプ間の相互作用に注目した包括的なアプローチを示している。また、NIHの組織改革、製薬業界との関係見直し、研究資金配分の変更など、制度的な改革案も具体的に提言している。
目次
プロローグ(Prologue)
第I部 はじめに(In the Beginning)
第1章 アルツハイマー病の一般人向け歴史(A Layperson’s History of Alzheimer’s Disease)
第2章 アルツハイマー病の医師向け歴史(A Physician’s History of Alzheimer’s Disease)
第3章 アルツハイマー病の科学者向け歴史(A Scientist’s History of Alzheimer’s Disease)
第4章 謎は解けた!4つの発見が分野全体を変えた(Mystery Solved! How Four Discoveries Transformed an Entire Field)
第II部 我々の治療法に何が起こったのか(What Happened to Our Cure?)
第5章 アルツハイマー病のモデル構築(Building a Model of Alzheimer’s Disease)
第III部 両刃の剣(Double-Edged Swords)
第6章 基礎生物医学研究への連邦政府支援(Federal Support of Basic Biomedical Research)
第7章 製薬・バイオテクノロジー業界(The Pharmaceutical and Biotech Industry)
第8章 モデルの検証:悪い方向への展開(Testing Our Models: Breaking Bad)
第9章 アルツハイマー病とは何か(What is Alzheimer’s Disease?)
第IV部 これからどこへ向かうべきか(Where Shall We Go From Here?)
第10章 老化生物学の一般人向けガイド(A Layperson’s Guide to the Biology of Aging)
第11章 アルツハイマー病の新しいモデル構築(Building a New Model of Alzheimer’s Disease)
第12章 研究ポートフォリオの再調整(Rebalancing Our Research Portfolio)
第13章 制度の再調整(Rebalancing Our Institutions)
第14章 最終的な考察(Final Thoughts)
各章の要約
プロローグ
Prologue
本書は二つの異なる読者層を想定している。一つは現在アルツハイマー病分野で働く専門家たちで、もう一つはアルツハイマー病に何らかの形で関わった一般の人々である。著者は専門的な詳細を最小限に抑えながらも、科学的な正確性を保つよう努めている。本書の重要なメッセージは科学そのものではなく、アルツハイマー病の治療法を見つけようとする人々と、彼らが下した良い決断と悪い決断についてである。(158字)
第1章 アルツハイマー病の一般人向け歴史
A Layperson’s History of Alzheimer’s Disease
96歳で亡くなったドロシーの物語を通じて、アルツハイマー病の典型的な進行過程を描く。最初は軽い物忘れから始まり、徐々に日常生活能力が失われ、最終的には全面的な介護が必要となった。アルツハイマー病は50歳以上の人々にとって最も恐れられる疾患の一つで、米国では第6位の死因である。興味深いことに、専門家の間でもアルツハイマー病の統一された定義は存在しない。病気の経済的負担は年間約2900億ドル(約32兆円)に達し、女性の発症リスクは男性の約2倍である。ライフスタイル要因との関連も研究されているが、確実な予防法は見つかっていない。(219字)
第2章 アルツハイマー病の医師向け歴史
A Physician’s History of Alzheimer’s Disease
1901年、ドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーがアウグステ・D(Auguste D.)という女性患者を診察した。彼女は記憶障害と行動異常を示していた。1906年に彼女が亡くなった後、アルツハイマーは脳組織を顕微鏡で調べ、2つの異常な構造を発見した。一つは「ミリア様病巣」(現在のアミロイド斑)、もう一つは「神経線維変化」(現在の神経原線維変化)である。彼の上司エミール・クレペリンが1910年にこの症例を教科書に「アルツハイマー病」として記載した。これが病名の起源だが、当時は稀な早発性認知症とされていた。現在の視点から見ると、一症例に基づく診断は科学的に不十分である。(221字)
第3章 アルツハイマー病の科学者向け歴史
A Scientist’s History of Alzheimer’s Disease
科学者と医師の役割は根本的に異なる。医師は「時に間違うが、決して迷わない」という原則で即座の判断を求められるが、科学者は曖昧さと不確実性を歓迎し、20年の研究期間を要求する。早発性アルツハイマー病(家族性)は遺伝性で65歳前に発症し、孤発性アルツハイマー病は65歳以降で全体の95%を占める。遺伝学研究により29の危険因子遺伝子が特定され、これらは炎症、脂質管理、小胞管理の3つのネットワークに分類される。炎症、酸化ストレス、ミトコンドリア機能不全、コリン作動性仮説など複数の理論が提案されているが、アミロイド仮説が支配的になった経緯を説明する。(244字)
第4章 謎は解けた!4つの発見が分野全体を変えた
Mystery Solved! How Four Discoveries Transformed an Entire Field
1984年から1999年の15年間で、アルツハイマー病研究を変えた4つの重要な発見があった。1984年、グレナーとウォングがアミロイドβ(Aβ)ペプチドの配列を解明し、ダウン症候群との関連を発見した。続いて、APP(アミロイド前駆体蛋白)遺伝子が同定され、分子生物学の中心教義に基づいてAβの生成メカニズムが解明された。プレセニリン1、2遺伝子の発見により、γ-セクレターゼの正体が判明した。マウスモデルの開発により、人間のAPP遺伝子を導入したマウスが脳にアミロイド斑を形成することが確認された。最後に、エランファーマシューティカルズのワクチン実験でマウスの脳からアミロイドを除去することに成功した。これらの発見により、5年以内の治療法開発への確信が生まれた。(270字)
第5章 アルツハイマー病のモデル構築
Building a Model of Alzheimer’s Disease
1992年、ハーディとヒギンズが「アミロイドカスケード仮説」を提唱した。これはAβペプチドの蓄積が神経原線維変化、細胞死、血管損傷、認知症を引き起こすという線形モデルだった。著者は1995年に細胞周期制御の観点からアルツハイマー病を研究しようとしたが、「アミロイドを研究していないなら、アルツハイマー病を研究していない」と警告された。2002年のハーディとセルコーの論文では、この仮説への6つの批判に対する反論が展開されたが、批判の多さは仮説の弱さを示していた。炎症、脂質代謝、ミエリン、小胞管理、酸化ダメージ、タウなど他の有望な仮説は全て抑圧された。これらの仮説の多くはアミロイド仮説と矛盾しないにも関わらず、排除された。(264字)
第6章 基礎生物医学研究への連邦政府支援
Federal Support of Basic Biomedical Research
NIH(国立衛生研究所)は年間410億ドル(約4兆5000億円)の予算を持つ巨大組織である。アルツハイマー病研究の大部分はNIA(国立老化研究所)が担当しているが、これは政治的戦略の結果だった。1974年設立のNIAは知名度向上のため、ロバート・バトラーらがアルツハイマー病を「老化の顔」として利用した。ロバート・カッツマンの1976年の論文は、稀な早発性認知症だったアルツハイマー病を一般的な老年期認知症と同一視する「第2の拡大」を行った。現在NIAの予算の約3分の2がアルツハイマー病研究に使われ、老化研究全体のバランスが歪んでいる。「尻尾が犬を振る」状況となり、アミロイド仮説がアルツハイマー病研究を支配し、アルツハイマー病研究がNIAを支配している。(287字)
第7章 製薬・バイオテクノロジー業界
The Pharmaceutical and Biotech Industry
製薬業界は基礎研究への投資を減らし、臨床試験により多くを投資している。バイエルのような企業は化学と営業の組み合わせで成長した。新薬開発は発見から製品化まで10-15年かかり、数十億ドルの費用を要する。10の化合物のうち1つしか承認されない。製薬業界の大部分の発見は自社ではなく大学や買収から来ている。アルツハイマー病では30近いフェーズ3試験が失敗したにもかかわらず、業界は抗アミロイド戦略を続けた。これは頑固さ、貪欲さ、悪いアドバイスの組み合わせによる。2018年のファイザーの神経科学研究撤退や、バイオジェンの株価変動が例として挙げられる。業界の使命は利益であり、患者の健康ではない。(272字)
第8章 モデルの検証:悪い方向への展開
Testing Our Models: Breaking Bad
アミロイドカスケード仮説を検証する3つのテストが行われた。テスト1では、健康な高齢者の約30%が脳にアミロイド斑を持ちながら正常な認知機能を維持していることが判明した。テスト2では、ワクチンによりアミロイドを除去しても認知機能の改善は見られなかった。マウスでは記憶障害が完全に回復したが、これは可逆的な障害であり、人間のアルツハイマー病の不可逆的変化とは異なる。テスト3では、β-セクレターゼ阻害剤やγ-セクレターゼ阻害剤(セマガセスタット)の試験で、認知機能が改善されないか、むしろ悪化した。これら3つのテスト全てでアミロイドカスケード仮説は失敗し、仮説の根本的な見直しが必要であることが示された。(267字)
第9章 アルツハイマー病とは何か
What is Alzheimer’s Disease?
アルツハイマー病の定義は100年以上にわたって政治的・戦略的理由で3回拡大された。最初の拡大はクレペリンによる教科書記載、第2の拡大はNIA設立時のカッツマンらによる老年期認知症との統合だった。2011年のNIA-AA作業部会は臨床診断を重視したが、2018年のガイドラインは「第3の拡大」を行い、アルツハイマー病を「病理学的プロセスによって定義され、臨床症状によってではない」とした。これにより正常な認知機能を持つがアミロイド斑のある人々も「前臨床アルツハイマー病」と診断されることになった。この定義は循環論法的であり、マリオ・ガレットらから厳しく批判された。生物学的根拠ではなく政治的戦略が定義を支配している。(268字)
第10章 老化生物学の一般人向けガイド
A Layperson’s Guide to the Biology of Aging
老化は生物学において最大の未解決問題の一つである。進化論的には、老化は「敵対的多面発現」により説明される。若い時期に有利な遺伝子変異が、後の人生で不利になることで老化が進む。老化の主要な駆動要因にはDNA損傷の蓄積、酸化ストレス、栄養制限がある。カロリー制限は多くの生物で寿命を延ばすが、人間では30%の制限が必要で実用的ではない。細胞老化(senescence)は癌予防機能として進化したが、加齢とともに老化細胞が蓄積し、SASP(老化関連分泌表現型)により周囲に炎症を引き起こす。インスリン抵抗性も老化過程に関与し、ニューロンの老化を促進する。老化は細胞レベルで起こり、個体差が大きい。(269字)
第11章 アルツハイマー病の新しいモデル構築
Building a New Model of Alzheimer’s Disease
アルツハイマー病の新しい定義を臨床症状のみに基づいて提案する。アミロイド斑の存在は診断の必須条件ではなく、リスク因子として扱うべきである。脳は850億のニューロンと850兆のシナプスを持つ極めて複雑な器官で、5つの細胞タイプ(ニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイト、ミクログリア、血管細胞)が相互作用する「近隣」を形成する。これらの近隣が集まって「都市」を、都市が集まって「国家」を形成する。老化により個々の細胞が損傷を受け、LEDディスプレイのように脳の「色」が変化する。アルツハイマー病は特定の使用パターンが「焼き付き」を起こし、不可逆的な機能障害を引き起こす過程として理解できる。このモデルは血管性認知症など他の認知症との重複も説明する。(299字)
第12章 研究ポートフォリオの再調整
Rebalancing Our Research Portfolio
アルツハイマー病研究を再構築するため、老化生物学への大規模投資が最重要である。DNA損傷蓄積の細胞間差異、修復システムの機能低下メカニズムの解明が必要だ。新しい近隣モデルに基づき、ミエリンを例とした治療戦略を提案する。オリゴデンドロサイトの死により、軸索の機能低下とミエリン破片による炎症が起こる。多発性硬化症の治療薬応用や抗炎症戦略が有効な可能性がある。アミロイドも近隣モデルに組み込み可能で、ミクログリアの炎症反応や他の細胞への影響を研究すべきである。バイオマーカーもアミロイド単独ではなく、インスリン値、DNA損傷、酸化ストレスなど包括的な指標が必要だ。脳レベルでの相互作用や全身への影響も考慮すべきである。(291字)
第13章 制度の再調整
Rebalancing Our Institutions
アルツハイマー病研究の制度改革が急務である。まず2018年ガイドラインを改訂し、病理学的所見ではなく臨床症状に基づく診断基準に戻すべきだ。NIHでは全アルツハイマー病研究をNIAからNINDSに移管し、NIAには老化研究のための新規予算を投入する。研究審査では3分の1をアミロイド・タウ研究禁止区域とし、多様性を確保する。製薬業界との関係では、フェーズ3試験の費用は企業が全額負担し、大学教員のコンサルティング料に間接費を課す。科学顧問には分野外の専門家も含め、多様な視点を取り入れる。学術誌は他分野と同様の厳格な基準を適用し、アミロイドやタウの分子メカニズム解明を要求すべきだ。報道機関も批判的視点を持ち、複数の専門家意見を求めるべきである。(299字)
第14章 最終的な考察
Final Thoughts
アルツハイマー病研究の歴史は複雑で、優れた科学的成果と同時に痛ましい失敗も含んでいる。アミロイドペプチドの配列決定、疾患遺伝子の発見、マウスモデルの作成、ワクチンの発見などの4つの重要な発見は素晴らしい業績だった。しかし単一理論への過度の依存により、分野は盲目的な路地に迷い込んだ。なぜアミロイドカスケード仮説が他の有望な理論を圧殺する蒸気ローラーになったのかは謎である。他の理論の多くはアミロイド仮説と両立可能だったにも関わらず、統合の機会は失われた。現在は新しい領域に入る時期で、変化は怖いが必要である。新しいモデルと制度改革により、失敗の連鎖を断ち切れると楽観している。老化は止められないが、健康寿命の延長は可能だ。(297字)
『How Not to Study a Disease: The Story of Alzheimer’s』についての考察
by Claude 4
アルツハイマー病研究の根本的な問題構造
この書籍を読み進めながら、私はまず一つの強烈な印象を受けた。それは、現代医学における最も重要な疾患の一つが、実は科学的方法論の観点から見て極めて問題のあるアプローチで研究されてきたという事実である。
著者のカール・ヘラップ(Karl Herrup)が提示する議論を整理すると、アルツハイマー病研究の問題は単なる科学的な見解の相違ではなく、もっと根本的な構造的問題に根ざしている。この構造的問題とは何か。それは疾患の定義そのものが政治的・戦略的な理由によって歪められ、科学的事実よりもイデオロギーが優先される状況が作り出されたということだ。
待てよ、と私は立ち止まって考える。これは本当に単なる科学的な議論なのだろうか。もしヘラップの主張が正しいとすれば、我々は単に医学的な見解の相違について議論しているのではない。むしろ、科学における権力構造と利害関係が真実の探求を歪めるメカニズムについて考察する必要があるのではないか。
三度の定義拡張とその政治的背景
ヘラップが詳細に記述する「三度の拡張(inflation)」は興味深い。第一の拡張はクレペリン(Kraepelin)による1910年の拡張、第二の拡張は1970年代のカッツマン(Katzman)らによる拡張、そして第三の拡張は2011年の前臨床アルツハイマー病の概念導入である。
この三段階の拡張を見ていると、私は一つのパターンに気づく。それぞれの拡張が、科学的必要性よりも政治的・経済的な動機によって推進されているということだ。特に第二の拡張については、著者は明確に述べている。新設されたNational Institute on Aging(NIA)が予算獲得のためにアルツハイマー病の定義を意図的に拡張したのだと。
しかし、ここで私は疑問を持つ。本当にこれが「意図的な操作」だったのだろうか。それとも、当時の研究者たちは本当に科学的根拠に基づいてそう判断したのだろうか。ヘラップの記述を注意深く読み返すと、確かに政治的動機が明確に記述されている。バトラー(Butler)、カチャトゥリアン(Khachaturian)、カッツマン、テリー(Terry)らが戦略的にアルツハイマー病を「恐ろしい疾患」として売り込むことで予算獲得を目指したと明記されている。
これは、科学における客観性という理想と、現実の制度的制約との間の深刻な矛盾を示している。研究資金がなければ研究はできない。しかし、資金獲得のために疾患の定義を歪めることは、長期的に見て科学の信頼性を損なう。
アミロイド・カスケード仮説の支配とその問題
本書の中核をなすのは、アミロイド・カスケード仮説が如何にして唯一の「正統派」理論となり、他のすべての研究アプローチを排除するに至ったかという分析である。
ハーディー(Hardy)とヒギンス(Higgins)が1992年に提唱したこの仮説は、確かに当初は合理的な科学的仮説だった。しかし、問題はその後の展開にある。著者が「外部諮問委員会」のメンバーから受けた警告—「アミロイドを研究していないなら、アルツハイマー病を研究していることにならない」—は象徴的である。
この状況を分析すると、複数の要因が重なって一種の「思想統制」状況が生まれたことがわかる:
- 研究資金の集中:NIAの予算の約3分の2がアルツハイマー病研究に、そしてその大部分がアミロイド関連研究に集中
- 査読システムの偏向:アミロイド仮説に懐疑的な研究提案は査読で不利になる
- 製薬企業の利害:アミロイド・ターゲット薬物開発への巨額投資により、他のアプローチへの関心が低下
- 学術的権威の集中:少数の影響力のある研究者が複数の役職を兼任し、意思決定を支配
これらの要因が相互に強化し合い、科学的議論よりもイデオロギー的正統性が重視される状況が生まれた。
製薬産業の役割と構造的問題
著者の製薬産業に対する分析は特に興味深い。ヘラップは製薬企業を単純な「悪役」として描くのではなく、より複雑な構造的問題を指摘している。
製薬企業の行動パターンを見ると、確かに短期的利益が長期的科学的妥当性よりも優先されている。バイオジェン(Biogen)の株価変動のグラフは象徴的だ。アドゥカヌマブ(aducanumab)の臨床試験が「無益」として中止された時に株価は暴落し、後にFDA承認申請を発表した時に回復した。これは科学的妥当性ではなく市場の期待が企業行動を左右していることを明確に示している。
しかし、より深刻な問題は、製薬企業が基礎研究への投資を削減し、大学や政府機関の研究成果に「ただ乗り」している構造である。ファイザーとジョンソン・エンド・ジョンソンの収益性の高い薬剤の81%が社外で発見されたという分析は衝撃的だ。
これは資本主義システムにおける本質的な問題を露呈している。基礎研究は長期的価値を持つが短期的利益を生まない。株主資本主義の下では、企業は必然的に短期的利益を優先せざるを得ない。その結果、社会全体にとって重要な基礎研究が過少投資されるという市場の失敗が生じる。
科学的方法論の歪曲
本書で最も衝撃的だったのは、科学的検証プロセスそのものが歪められたという指摘である。著者は三つの重要なテストでアミロイド・カスケード仮説が失敗したと論じている:
- アミロイドを加えてもアルツハイマー病は発症しない(健常高齢者の30%にアミロイド蓄積があるが認知機能は正常)
- アミロイドを除去しても病気は止まらない(免疫療法試験の失敗)
- アミロイド産生を阻害すると状態が悪化する(セクレターゼ阻害薬の有害事象)
これらの結果は、通常の科学であれば仮説の根本的見直しを促すはずである。しかし、アルツハイマー病研究分野では、これらの否定的結果を説明するために仮説をさらに複雑化させ、定義を変更することで対応した。
これは科学哲学者カール・ポパー(Karl Popper)が批判した「反証不可能性」の典型例である。真の科学理論は反証可能でなければならない。しかし、アミロイド・カスケード仮説の支持者たちは、否定的結果が出るたびに新たな修正を加え、理論を反証不可能なものに変えてしまった。
マウスモデルの限界と誤解
著者のマウスモデルに対する批判も重要である。アルツハイマー病のマウスモデルは実際にはアルツハイマー病のモデルではなく、「アミロイド蓄積のあるマウス脳」のモデルに過ぎないという指摘は的確だ。
ジョージ・ボックス(George Box)の格言「すべてのモデルは間違っている。有用なモデルもある」を引用しながら、著者はマウスモデルが「間違っているだけでなく有用でもない」状態になったと論じる。これは重要な区別だ。
マウスモデルから得られた「治療成功」の結果を詳しく見ると、確かに問題がある。ワクチン接種によってマウスの記憶障害は完全に正常化するが、これは人間のアルツハイマー病では起こり得ない現象だ。人間の場合、失われた神経機能は回復しない。マウスでの「治療」が数日で効果を示すのに対し、アミロイド除去には数週間から数ヶ月かかる。これらの観察は、マウスの記憶障害とヒトのアルツハイマー病は根本的に異なるメカニズムによるものであることを示唆している。
新しい疾患モデルの可能性
著者が提唱する「近隣モデル(neighborhood model)」は興味深いアプローチである。このモデルは脳を異なる細胞種の相互作用からなる「近隣」の集合体として捉え、疾患を単一の線形カスケードではなくネットワーク全体の機能不全として理解する。
このモデルの利点は、既存のすべての観察結果を統合できることだ。アミロイド、タウ、炎症、血管性変化、ミエリン損失—これらすべてを排除することなく、より大きな枠組みの中に位置づけることができる。
特に重要なのは、このモデルが加齢を疾患の必要条件として正面から取り入れていることだ。アルツハイマー病は加齢なしには存在しない。しかし、従来の研究では加齢の生物学的メカニズムが十分に検討されてこなかった。
日本の文脈での考察
この問題を日本の文脈で考えると、興味深い類似点と相違点が見えてくる。日本の医学研究も欧米の動向に大きく影響される。特にアルツハイマー病研究では、米国NIAのガイドラインや製薬企業の戦略が日本の研究方向性を決定している面が大きい。
しかし、日本には独自の強みもある。例えば、日本の医療制度は比較的統一されており、大規模な疫学研究が実施しやすい環境にある。また、急速な高齢化を経験している日本は、加齢研究において世界をリードできる潜在的優位性を持っている。
ところが、日本の研究資金配分を見ると、やはり欧米と同様にアミロイド研究に偏重している傾向が見られる。文部科学省や厚生労働省の研究費配分でも、「標準的な」アミロイド研究の方が採択されやすい状況がある。
権威主義と科学の堕落
この書籍を読んで最も考えさせられるのは、科学における権威主義の問題である。科学は本来、権威ではなく証拠によって判断されるべきものだ。しかし、アルツハイマー病研究では明らかに権威が証拠を圧倒している。
2018年のNIA-AAガイドラインは特に問題が大きい。このガイドラインは「アルツハイマー病は基礎的な病理学的プロセスによって定義される。診断は疾患の臨床的帰結に基づかない」と明記している。これは医学の基本原則を完全に転倒させている。
病気とは何か。それは患者が苦しむものである。検査値の異常ではない。症状のない人にアミロイド蓄積があっても、その人は病気ではない。しかし、現在の定義では、そのような人も「前臨床アルツハイマー病」とされてしまう。
これは医学の根本的な人間性を否定するものだ。著者が引用するマリオ・ギャレット(Mario Garrett)の批判は的確である:「アルツハイマー病が重要なのは、それが臨床的疾患だからである。病気が体験されたり観察されたりしない場合、生物学がどうであろうと重要ではない」。
構造的利益相反の問題
本書が明らかにする最も深刻な問題の一つは、システム全体に組み込まれた利益相反である。同じ研究者が複数の立場を兼任している:
- 大学での研究者として政府資金を受ける
- 製薬企業のコンサルタントとして報酬を受ける
- 学術雑誌の編集者として論文審査に関与する
- ガイドライン策定委員として疾患定義を決定する
このような多重利益相反状況では、客観的な科学的判断は困難になる。特に問題なのは、これらの利益相反が個人レベルの腐敗ではなく、システム全体の構造的問題であることだ。
報道メディアの責任
著者は報道メディアの役割についても言及している。科学記者の多くが複数分野をカバーしており、専門的な詳細まで把握することが困難な状況にある。その結果、「権威ある専門家」の見解をそのまま報道する傾向が強くなる。
しかし、その「権威ある専門家」が利益相反を抱えていたり、特定のイデオロギーに偏向していたりする場合、報道も歪められる。特にアルツハイマー病のような複雑で政治化された問題では、記者は単なる伝達者ではなく、批判的な検証者としての役割を果たす必要がある。
日本のメディアでも同様の問題がある。医学記者の多くが「医学界の常識」を疑うことなく報道している。特に製薬企業がスポンサーとなっているメディアでは、企業に不利な情報が報道されにくい構造的問題がある。
解決策への道筋
著者が提示する解決策は包括的である。制度的改革、研究資金配分の見直し、利益相反の管理、疾患定義の科学的基準への回帰など、多面的なアプローチが必要だ。
特に重要なのは、疾患定義を病理学的マーカーから臨床症状に戻すことである。これは単なる定義の問題ではない。疾患をどう定義するかが、研究の方向性、資金配分、治療開発のすべてを決定するからだ。
また、製薬企業の役割についても現実的な提案がなされている。企業を「悪者」として排除するのではなく、適切な役割分担と責任配分によって建設的な協力関係を築く必要がある。基礎研究は主に公的資金で、後期臨床試験は企業資金で、という分担は合理的だ。
科学の自己修正機能の回復
最終的に、この問題は科学の自己修正機能をいかに回復するかという問題に帰着する。科学は本来、間違いを認め、修正し、より良い理解に到達するプロセスである。しかし、現在のアルツハイマー病研究では、この機能が著しく阻害されている。
科学の自己修正機能を回復するためには、以下が必要だ:
- 権威よりも証拠を重視する文化の再建
- 利益相反の透明化と管理
- 多様な仮説への公平な資金配分
- 査読システムの偏向の是正
- メディアによる批判的検証の強化
より広い含意
この書籍が提起する問題は、アルツハイマー病研究に留まらない。現代科学全般に関わる重要な問題を含んでいる。
「専門家」への過度の信頼は危険である。特に、その専門家が複雑な利益相反構造の中にいる場合はなおさらだ。一般市民は、専門家の権威を無批判に受け入れるのではなく、その主張の根拠と利害関係を慎重に検討する必要がある。
また、科学政策における民主的統制の重要性も浮き彫りになる。税金を使った研究が特定の利益集団によって歪められることは許されない。納税者は、研究資金がどのように使われ、どのような結果を生んでいるかを監視する権利と責任を持っている。
さらに、医学における人間性の重要性も再確認される。病気は数値や画像ではなく、人間の苦痛である。医学が技術的な精密さを追求することは重要だが、それが人間を見失う原因となってはならない。
この書籍を読み終えて、私は一つの確信を持った。真の科学的進歩は、権威や利益ではなく、証拠と理性に基づく開かれた議論からのみ生まれるということだ。アルツハイマー病の患者と家族は、科学的権威主義の犠牲者ではなく、真実の探求から利益を得るべき人々である。彼らのために、我々は科学の本来の姿を取り戻さなければならない。