
英語タイトル:『Freedom and Belief』[Galen Strawson] [2010]
日本語タイトル:『自由と信念』[ゲイレン・ストローソン] [2010]
目次
- 第1章 序論 / Introduction
- 第2章 リバタリアニズム、行為、自己決定 / Libertarianism, Action, and Self-Determination
- 第3章 カントとコミットメント / Kant and Commitment
- 第4章 コミットメント、幻想、真理 / Commitment, Illusion, and Truth
- 第5章 非合理的コミットメント:自由の一見解 / Non-rational Commitment: A View of Freedom
- 第6章 現象学、コミットメント、そして起こりうること / Phenomenology, Commitment, and What Might Happen
- 第7章 客観主義:序論 / Objectivism: Preliminaries
- 第8章 選択 / Choice
- 第9章 自己意識 / Self-consciousness
- 第10章 証拠と独立性 / Evidence and Independence
- 第11章 違反と慣習 / Contravention and Convention
- 第12章 観察者主体と統合 / The Spectator Subject and Integration
- 第13章 自然なエピクテトス的信者たち / The Natural Epictetans
- 第14章 選択能力の経験 / The Experience of Ability to Choose
- 第15章 主観主義と自由の経験 / Subjectivism and Experience of Freedom
- 第16章 アンチノミーと真理 / Antinomy and Truth
- 付録A〜G / Appendices A-G
本書の概要
短い解説:
本書は、自由意志の不可能性を論証しつつ、それにもかかわらず人間が自由であるという信念を放棄できないという「認知現象学」を詳細に分析することを目的とする。従来の決定論対自由意志の枠組みを超え、自由の経験そのものを哲学的探究の中心に据える。
著者について:
ゲイレン・ストローソン(1952- )はイギリスの哲学者で、オックスフォード大学で学び、現在はテキサス大学オースティン校の教授。心の哲学、自由意志、自己に関する著作で知られる。オックスフォードの哲学者P.F.ストローソンの息子であり、分析的形而上学の伝統に立ちつつ、現象学的・認知的アプローチを独自に展開する。
テーマ解説:
- 真の責任(真の自由意志)の不可能性:人間は行為の真の創始者たりえない。自己決定は論理的に不可能である。
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自由の経験の不可避性:自由は不可能であるにもかかわらず、人間は自由であるという信念を放棄することができない。
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主観主義と客観主義の緊張:自由が存在するならば、それは自由であるという信念の一部として存在するのか、それとも信念とは独立した客観的性質なのか。
キーワード解説(2〜7):
- 真の責任(ultimate responsibility):行為に対して究極的に責任を持つこと。賞罰が真に正当化されるような自由。本書ではこれが「自由」の中心的意味とされる。
- 自己決定(self-determination):自らの性格や動機を自ら決定すること。ストローソンはこれが無限後退を招き論理的に不可能であると論じる。
- リバタリアニズム:決定論の偽と自由の真を両立させる立場。ストローソンはその不可能性を論じる。
- 両立論(compatibilism):決定論と自由は両立可能とする立場。ストローソンはこれが真の責任を説明できないとする。
- 主体性条件(attitudinal condition):自由な主体であるためには、単に能力を持つだけでなく、自分を自由であると体験・信念することが必要だとする条件。
- 独立性原理(principle of independence):ある信念が真であるための条件は、その信念を持つこと自体を含んではならないという原理。ストローソンは自由の場合にこれが破られる可能性を検討する。
要点要約
本書の核心的主張は単純明快である。すなわち、自由意志(真の責任を伴う意味での自由)は存在せず、その不可能性は証明可能である。しかし人間はその信念を放棄することができず、むしろ日常的にそれを生きている。この矛盾こそが自由意志論争を際限なく続けさせる原動力であり、本書はその「認知現象学」の解明に専念する。
第1章でストローソンは「自由」を「真の責任」と定義する。これは行為の創始者として賞罰に真に値するという意味での自由であり、ほとんどの人が当然視しているものである。決定論は「すべての出来事には原因がある」というテーゼとして定義されるが、ストローソンは決定論の真偽よりも、より根本的な問題があると主張する。
第2章ではリバタリアニズム(決定論を否定することで自由を擁護する立場)を批判的に検討する。ストローソンが提示する「基本的論証」は次の通りである。行為は行為者のその時点での在り方の関数である。もし行為に真に責任を持つなら、自分の在り方に責任を持たねばならない。しかし自分の在り方に真に責任を持つには、自己自身の原因(causa sui)であることが必要であり、それは不可能である。したがって真の自由は不可能である。この論証は決定論の真偽に依存しない。
第3章から第6章では主観主義的アプローチが検討される。カントは「理性的存在者は自由の理念のもとにしか行動できない」とし、この不可避的信念が自由を実質的に成立させるとする立場に解釈可能である。P.F.ストローソンの「反応的態度」論は、私たちが対人関係において前提とする責任概念が、理論的論証を超えた非合理的コミットメントに根ざすとする。しかしストローソン(G.)はこれらの試みが決定論(あるいは非自己決定性)が提起する問題を完全に回避できないと論じる。
第6章では重要な思考実験が提示される。自分自身のすべての行為が決定されていると集中的に考えると、自由に決定し行為する「私」の感覚が消失し、自己の感覚そのものが薄れるという経験が生じる。これは私たちの自己感覚が本質的に自由意志的(リバタリアン的)性格を持つことを示す。同時に私たちは自然な両立論者でもあり、この矛盾した態度が自由意志論争を永遠に続けさせる。
第7章から第9章では客観主義的アプローチが再検討される。ストローソンは「自由な行為」ではなく「自由な主体」に焦点を当てる。自由な主体の必要条件として、(1)欲求を持つこと、(2)信念を持つこと、(3)実践的理性を持つこと、(4)自己変革能力を持つこと、(5)自己意識を持つこと、が挙げられる。特に自己意識が重要であり、犬と人間を区別する核心的要因とされる。しかし自己意識だけでは自由の十分条件とはならない。
第10章から第11章では独立性原理(ある信念の真理性がその信念を持つことに依存してはならないという原理)が検討される。ストローソンは約束や契約、チェスのキャスリングなど、独立性原理が一見破られるように見える事例を多数検討する。しかしこれらの事例は慣習的性質に関わるものであり、自由は自然的性質(非慣習的性質)として理解されているため、単純な類比は成り立たない。
第12章から第14章では、主体性条件(attitudinal conditions)の必要性が論じられる。「観察者主体(Theoria)」は自己意識と統合条件を満たしながらも、自由の経験を欠いている。彼女は自分の欲求や行為から距離を置き、傍観者的に自身の生を眺めている。この事例は、単に構造的条件(能力)を満たすだけでは自由な主体とはならないことを示す。
「自然なエピクテトス的信者たち」は決して迷わず、常に欲することを実行できるが、選択の苦悩を経験しないため、自分自身を自由な主体として経験しない。これらの事例は、自由には特定の経験的・態度的条件が必要であることを示唆する。
第14章では「選択能力の経験」が詳細に検討される。「選択能力の経験」が「自由に選択する能力の経験」と同一視されるべきか否かが問われる。ストローソンは「限られた概念の存在者(Stolidus)」や「真の非自己決定論者(Moira)」を導入し、自己意識的な選択能力の経験だけでは自由の経験には不十分であると論じる。Moiraは決定論(または非自己決定性)の真理を完全に理解し、選択に直面しても自由の感覚をまったく持たない。この可能性は、自由の経験が単なる選択能力の意識的把握からは必然的に生じないことを示す。
第15章では主観主義の採用が提案される。すなわち、自分が自由であると信じる(経験する)ことが自由の構成条件であるという立場。これは独立性原理に反するように見えるが、ストローソンはその反直観性を認めつつ、これが唯一の有望な方途であると論じる。ただしこれは自由の客観的実在を証明するものではなく、むしろ自由の不可能性をより深く理解する枠組みを提供する。
第16章の結論では、私たちは真の自由を持たないが、それを信じずにはいられないという「アンチノミー」が提示される。真の責任を放棄すること(真理の統一性を放棄すること)と、矛盾した信念を持ち続けること(人間としての不完全さを受け入れること)の間で、どちらの代償を選ぶかが問われる。ストローソンは後者の代償を過小評価すべきでないと警告する。付録Gでは、ナゲルとパーソンからの批判に応答しつつ、主著の議論が簡潔かつ拡張された形で再提示される。
各章の要約
第1章 序論
本書は「自由」を「真の責任」すなわち行為に対して究極的に責任を持ち、賞罰に真に値するという意味で定義する。これはほとんどの人が当然視する自由の中心的意味である。決定論は「すべての出来事には原因がある」というテーゼとして定義されるが、ストローソンは決定論の真偽よりも根本的な問題があると予告する。両立論は自由を「欲することを行える」という基礎的意味に矮小化するが、それでは真の責任を説明できない。本書の目的は、自由そのものではなく、自由の経験(認知現象学)を分析することにある。
第2章 リバタリアニズム、行為、自己決定
リバタリアニズム(決定論の否定によって自由を擁護する立場)は失敗に帰す。「基本的論証」は以下の通りである。(1)行為は行為者のその時点での在り方の関数である。(2)行為に真に責任を持つには、自分の在り方に責任を持たねばならない。(3)自分の在り方に真に責任を持つには、自己自身の原因(causa sui)であることが必要である。(4)しかしそれは不可能である。したがって真の自由は不可能である。この論証は決定論の真偽に依存しない。非決定論も自由の根拠になりえない。なぜならランダム性は責任の根拠にならないからである。
第3章 カントとコミットメント
カントの自由理論は主観主義的コミットメント理論として解釈可能である。すなわち、理性的存在者は「自由の理念のもとにしか行動できず」、この不可避的信念が実質的に自由を成立させるという立場。しかしストローソンは、道徳的意識なしでも自由の経験は可能であると論じる。非道徳的な主体でも困難な選択に直面すれば、自分が自由であるという経験を持ちうる。この経験こそが自由へのコミットメントの最も深い源泉であり、カントが想定した道徳法則の意識よりも根源的である。
第4章 コミットメント、幻想、真理
自由の信念が不可避的であるという事実は、その真理を保証しない。しかしストローソンは、通常の真理基準の再検討を提案する。「経験的事実」としての自由は、客観的実在性を欠いていても、無視できない現実性を持つ。フレイザーの螺旋の錯視のように、不可避的な現れはそれ自体として重視されるべきかもしれない。ただし自己決定の不可能性という問題は依然として残る。シジウィックが示唆したように、私たちの真理基準そのものが問い直されるべきかもしれない。
第5章 非合理的コミットメント
P.F.ストローソンの「自由と憤り」で展開された立場が検討される。私たちは対人関係において、他人を真に責任ある主体として扱う「反応的態度」(感謝、憤り、賞賛、非難など)に非合理的にコミットしている。このコミットメントは決定論の真偽によって揺るがない。しかしストローソン(G.)は、この議論が不完全であると論じる。私たちは同時に、決定論(または非自己決定性)が自由の問題を提起すると考えることもやめられない。二つのコミットメントは共存し、その矛盾こそが問題の核心である。
第6章 現象学、コミットメント、そして起こりうること
重要な思考実験が提示される。自分自身のすべての行為が決定されていると集中的に考えると、自由に決定し行為する「私」の感覚が消失し、自己の感覚そのものが薄れる。これは私たちの自己感覚が本質的にリバタリアン的性格を持つことを示す。同時に私たちは自然な両立論者でもあり、欲求を「ただそこにあるもの」として経験する。この二つの態度の矛盾が自由意志論争を際限なく続けさせる。自由へのコミットメントの真の中心は他者ではなく、自己の行為経験にある。ブッダの教えにおける「無我」の実践は、自由の信念を放棄する可能性を示唆する。
第7章 客観主義:序論
客観主義的アプローチが再検討される。「自由な行為」ではなく「自由な主体」に焦点が当てられる。自由な主体とは、制約から自由な状況で自由に行為できるような種類の主体である。その必要条件として、(1)欲求を持つこと、(2)信念を持つこと、(3)実践的理性を持つこと、(4)自己変革能力を持つこと、(5)自己意識を持つこと、が挙げられる。これらの「構造的条件(S条件)」は自由の必要条件ではあるが、十分条件かどうかが問われる。
第8章 選択
選択能力の定義が提示される。主体がXとYの間で選択できるとは、(1)XとYのいずれも実行可能だと(明示的に)信じており、(2)心理的に制約されていないことである。この定義によれば、犬のフィドーも選択できる。しかしフィドーは自由に選択できない。その違いをもたらすものが何かが問われる。自己意識がその鍵である可能性が示唆されるが、それだけでは不十分であることが後の章で論じられる。
第9章 自己意識
自己意識の分析が行われる。真の自己意識は、(1)自身の心的状態を認識できること、(2)それらを「自分のもの」として認識できること、(3)心的なものとして単一であるという感覚を持つこと、を必要とする。自己意識は自由の必要条件である。なぜなら自由な主体には「心的な誰か」、すなわち行為の計画者として単一の心的存在者がいなければならないからである。自己意識が選択の経験を変容させ、自由の経験の可能性を開く。しかしこれだけでは十分ではない。
第10章 証拠と独立性
「自由な主体は自分が自由だと信じている」という主張が検討される。これは独立性原理(ある信念の真理性がその信念を持つことに依存してはならないという原理)に反するように見える。ストローソンは「原因的に明証的」な性質と「構成条件的に明証的」な性質を区別する。自由の場合は後者に属する可能性がある。つまり自由であることの一部として、自分が自由だと信じることが含まれるという主張。これは反直観的だが、後の章で擁護される。
第11章 違反と慣習
独立性原理が一見破られる様々な事例が検討される。約束、契約、チェスのキャスリングなどは、自分がそれを行っていると信じることが条件である。これらは慣習的性質であり、独立性原理の違反は問題を生じない。しかし自由は慣習的性質ではない(自然的性質である)ため、単純な類比は成り立たない。苦痛の事例も検討されるが、苦痛は経験そのものと同一であり、自由とは異なる。したがって自由の場合の独立性原理違反は、より深刻な問題として残る。
第12章 観察者主体と統合
「観察者主体(Theoria)」の事例が導入される。彼女は全ての構造的条件を満たし、自己意識を持ちながら、自分の欲求や行為から距離を置き、傍観者的に自身の生を眺めている。彼女は自由な主体とは見なせない。これは「統合条件」という新たな主体性条件の必要性を示す。自由な主体は、自分自身を単なる観察者ではなく、行為に関与した主体として経験しなければならない。この条件は構造的条件からは導出されない。
第13章 自然なエピクテトス的信者たち
「自然なエピクテトス的信者たち」は決して迷わず、常に欲することを実行できるが、選択の苦悩を経験しない。彼らは全ての構造的条件と統合条件を満たすが、自分自身を自由な主体として経験しない。これは選択の困難さの経験(優柔不断の経験)が自由の経験にとって決定的に重要であることを示唆する。しかし後の章で、優柔不断の経験自体も自由の経験には不十分であることが論じられる。
第14章 選択能力の経験
「選択能力の経験」が「自由に選択する能力の経験」と同一視されるべきかが問われる。「限られた概念の存在者(Stolidus)」は自己意識的に選択能力を認識しながらも、自由の感覚を持たない。「真の非自己決定論者(Moira)」は決定論の真理を完全に理解し、選択に直面しても自由の感覚をまったく持たない。これらの事例は、選択能力の意識的把握だけでは自由の経験が生じないことを示す。したがって「自由であるという経験」は、自由の独立した構成条件として追加されねばならない。
第15章 主観主義と自由の経験
主観主義的立場が正式に採用される。すなわち、自分が自由であると信じる(経験する)ことが自由の構成条件であるという立場。これは独立性原理に反するが、ストローソンはそれが問題ではないと論じる。自由が不可能であるなら(自己決定の不可能性により)、この条件が問題を生じることはない。むしろこの主観主義的アプローチが、自由の不可能性を理解しつつ、私たちの自由の経験を説明する唯一の方法である。ただしこれは自由の客観的実在を証明するものではなく、むしろ自由の不可能性をより深く理解する枠組みを提供する。
第16章 アンチノミーと真理
結論として、ストローソンは私たちが真の自由を持たないが、それを信じずにはいられないという「アンチノミー」を提示する。真の責任を放棄すること(真理の統一性を放棄すること)と、矛盾した信念を持ち続けること(人間としての不完全さを受け入れること)の間で、どちらの代償を選ぶかが問われる。ストローソンは後者の代償を過小評価すべきでないと論じる。哲学の課題は、このアンチノミーを解決することではなく、その構造を明らかにすることにある。ヒュームの懐疑主義的アプローチが示唆されるが、自由の場合には単なる不可知論ではなく、明らかな虚偽の信念が問題となる点が異なる。
付録G 自由な主体
主著の議論が簡潔かつ拡張された形で再提示される。真の自由(U-free)の条件が体系的に列挙される:原因自己(causa sui)、主体性、信念形成能力、欲求能力、自己変革能力、実践的理性、自己意識、基本的選択能力、豊かな選択能力、最大限の選択能力、自由であるという信念、関与、自由の概念の保持。ナゲルとパーソンからの批判(原因自己でありながら自由の信念を持たない主体は自由か)に対して、ストローソンは「No」と答える。真の自由の信念が自由の構成条件であるという立場を堅持する。
想定読者・前提知識・読みどころ
- 想定読者:分析哲学、特に心の哲学・自由意志論に精通した大学院生・専門研究者。ただし初学者でも第2章の核心的論証と第6章以降の現象学的分析は理解可能。
- 前提知識:決定論・両立論・リバタリアニズムの基礎的区別、デイヴィドソンの行為理由論、カントの自由論の概要。分析的形而上学の基本的語彙(必要条件・十分条件、因果関係と構成関係の区別など)への理解があると有益。
- 分量・難易度:本文約300ページ、付録含む。非常に密度が高く、特に第10章以降の論理的分析と第14章の微妙な区別は繰り返しの読解を要する。第2章の基本的論証と第6章の思考実験は比較的読みやすい。
- 読みどころ:第2章が本書の最も重要な否定的論証(自由の不可能性)を提供する。第6章の思考実験は本書の現象学的方法の核心を示す。第14章の「Stolidus」「Moira」の議論は主観主義的結論への決定的ステップである。付録Gは主著の議論を約30ページに凝縮した優れた要約であり、全体像を把握してから本論に臨むと理解が深まる。第10〜11章の独立性原理の議論はやや専門的で、全体の流れに影響を与えずに読み飛ばすことも可能。
自由の亡霊と生きる——ストローソンのアンチノミーを解剖する
by DeepSeek
究極責任という怪物と、それでもやめられない信念の正体
この本を読んで最初に感じたのは苛立ちだった。著者は冒頭から「自由意志は存在しない。これは証明可能である」と宣言する。しかしその後300ページ以上にわたって議論を続ける。証明可能ならそこで終わりではないか、と。
読み進めてわかったのは、彼にとって「自由意志はない」というのは出発点に過ぎないということだ。本当の問いは別にある。なぜ私たちは存在しないものを信じ続けられるのか。なぜその信念を手放せないのか。この問いを掘り下げるために、ストローソンは伝統的な自由意志論の枠組みをことごとく解体していく。
リバタリアン(決定論を否定して自由を擁護する立場)は、非決定論を導入することで自由を成立させようとする。しかしストローソンはこれを一刀両断にする。「ランダム性がどうして責任の根拠になりうるのか」。決定論か非決定論かという対立軸は、そもそも問題を誤って立てている。どちらを選んでも自由の根拠にはならない。
ここで彼の「基本的論証」が登場する。簡潔に言えばこうだ。
私は今、私が今の私であるからこそ、今の行為をする。もし私がこの行為に「真に責任を持つ」なら、私は今の私であることに責任を持たねばならない。しかし今の私であることに責任を持つには、私が自分の在り方を自ら決定した(自己原因=causa sui)ことが必要だ。それは無限後退を招き、論理的に不可能だ。
この論証は決定論の真偽に依存しない。決定論が真でも偽でも、同じ結論に至る。ストローソンが「決定論は本質的ではない」と言うのはこの意味だ。自由の問題は物理学の問題ではなく、論理の問題なのだ。
この論証に対して、私は二つの方向から疑問を抱いた。
第一に、「真の責任」の定義が強すぎるのではないか。ストローソンは自由を「賞罰が真に正当化されるような究極的責任」と定義する。確かにこれは多くの人が漠然と抱く自由観念の一側面かもしれない。しかし、日常的に私たちが「自由だ」と感じるとき、そこまで強い意味を込めているだろうか。「自分で選んだ」という感覚には、もっと穏健な内容(自分が望むことを選べる、自分なりの理由で行動できる)が含まれているだけかもしれない。
ストローソンはこれにこう応答するだろう。「重要なのは私たちが何を欲するかではなく、何を信じるかだ。実際、私たちは究極責任を信じて行動している。感謝し、憤り、賞賛し、非難する。これらの態度は、相手が真に責任ある存在であるという前提なしには成り立たない。」
確かにその通りだ。しかしここで問い直したい。感謝や憤りが本当に「究極責任」を前提としているのか。決定論の世界でも、私は誰かに感謝することができる。感謝の気持ちは、相手が「自分とは別の原因で動く存在」であること、その行為が私に利益をもたらしたという事実に向けられる。そこに「究極的創始者」であることは必須ではないのではないか。
第二の疑問は、ストローソンの主観主義的結論に関わる。彼は最終的に「自分が自由だと信じることが自由の構成条件である」という立場(主観主義)を採用する。これは独立性原理(信念が真であるための条件は、その信念を持つこと自体を含んではならない)に反する。彼はそれを承知で進む。
この立場には一貫性がある。しかし「信念が自由を構成する」と言うなら、その信念の真理値はどうなるのか。私が自由だと信じれば自由であり、信じなければ自由でない。自由は観測可能な客観的性質ではなくなる。ストローソンはこれを認めた上で、それが「自由の経験」を説明する唯一の方法だと言う。
ここで「反転テスト」を適用してみる。仮に真の自由が存在するとしよう。しかしそれはストローソンの定義するような「無条件的・究極的」なものではなく、「条件的」なもの(ある程度の自由、多くの場合の自由)だとする。この仮説でも、彼が挙げる事例(観察者主体、自然なエピクテトス的信者)のほとんどは説明できる。つまり彼の証拠は、より穏健な自由概念と両立するのだ。
ストローソンの真の独創性は、むしろ「自由の経験の現象学」にある。彼は「観察者主体(Theoria)」や「自然なエピクテトス的信者」といった思考実験を導入し、自由の経験がいかに多様でありうるかを示す。特に重要なのは、選択能力の意識的把握だけでは自由の経験が生じないという点だ。完全に自己意識的でありながら自由の感覚を持たない存在(Stolidus, Moira)を提示することで、彼は「自由の経験」が選択能力とは別の独立した要素であることを論証する。
この議論の含意は大きい。もし自由の経験が選択能力から自動的に生じないなら、私たちが日常的に持つ「自分は自由だ」という感覚は、単なる認知能力の帰結ではない。それはある種の解釈、ある種の態度、ある種の自己関係の様式である。ストローソンはこれを「主体性条件」と呼ぶ。
ここで彼の議論に欠けているもの——「沈黙の分析」——を考える。ストローソンはなぜ自由の経験が生じるのかについて、進化的・発達的説明をほとんど与えていない。自由の信念が人間の認知構造に深く組み込まれているなら、その起源を問うべきではないか。
進化的に考えれば、自由の信念は社会協調や道徳的判断に有益だったから発達したと説明できる。他者の行動を予測し、自らの行動を計画し、社会的な賞罰のシステムを機能させるには、自分と他者が「選択できる存在」という見方が有用だった。しかしそれは真理性を保証しない。むしろ、その説明は自由が「有用な幻想」である可能性を強化する。
最終的に私はこう着地する。
ストローソンの論証は、彼が定義した「究極責任としての自由」が不可能であることを示している。しかしその定義自体が過度に強く、私たちが日常的に大切にしている自由の感覚とは距離がある。より穏健な自由概念(自分の選択を自分のものとして引き受ける能力)を採れば、彼の否定的結論はその力を失う。
ただし、彼の「自由の経験の不可避性」という洞察は重要だ。決定論を理論的に受け入れても、実際の選択場面で「本当に自分次第だ」と感じる。この現象は、自由が単なる理論的命題ではなく、生きられた現実として私たちに作用していることを示す。ストローソンが提示したアンチノミー——自由はないが、私たちは自由を信じずにはいられない——は、人間の認知構造の深い特徴を映し出している。
この読解によって加わった判断の道具
- 自由の定義の選別眼:「自由」という言葉がどの水準(基礎的自由・説明責任的自由・究極責任的自由)で使われているかを区別できるようになった。多くの議論はこの水準の混同で成り立っている。
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自己決定論証の構造把握:自己原因(causa sui)の無限後退論証を、他者に説明できる形で再構成できるようになった。この論証の強みと限界(前提とする自由定義への依存)を同時に見通せる。
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主体性条件という視座:自由を能力の問題ではなく態度の問題として捉える視点を獲得した。自由の経験がいかに多様でありうるか、その多様性を検討する枠組みを持てるようになった。
開いたまま残した問い
自由の信念が単なる幻想であるなら、なぜそれは「有用な幻想」として進化的に定着したのか。ストローソンの現象学的分析は自由の経験の構造を描き出すが、その経験がなぜ人間に固有なのか、なぜ手放せないのかという発生論的問いに答えるには、認知科学・進化心理学・発達心理学の知見との接合が必要ではないか。この問いを次に検証すべき形として残す。
