「自分が納得していないのに人の言う通りにして失敗するときこそ、みじめなことはない。」
川渕三郎
「選択肢」は買えても「選択」を買うことはできない
リコード法の組織的限界
リコード法に限った話ではないのですが、リコード法が万人に通用するように治療内容を公共的な性格にしていかなければならない以上、そのできることに、組織的、建前的な制約、制限があると感じています。
これは、製薬会社と医者との癒着だとか、現代療法は対症療法にすぎないとかいったよくある医療批判でもありません。(その種の批判も当然あるとは感じていますが)
そういうものは、あったとしても、原理的にはシステムの内部で改善が可能な問題です。
アルツハイマー病のトロッコ問題
しかし当ブログで紹介するような改善策もつきつめると、どこまでのリスクを取るのか、そのことを「リスク内容の知識」と、リスク判断としての「個人の倫理観」が大きく関わってきます。
患者や家族がビル・ゲイツや、アメリカの大統領だったとしても、特権的な立場でいくら選択肢があったとしても、本人に理解できないリスクの判断能力には大きな差がありません。
これはシステムの側では決めようがありません。どれだけ人工知能が賢くなったとしても、人工知能が倫理の線引や責任をとることだけはできないという論点と似ています。
実際、ロナルド・レーガン、マーガレット・サッチャー、ロビン・ウィリアムズ、など一般の人よりも相当な資産をもち、はるかに特権的な治療が受けられたはずの権力者や著名人であっても、認知症を克服することはおろか、平均的な患者さんよりも、特に長生きができたようにも見受けられなかったことが、そのことを示してはいないでしょうか。
責任やリスクは外部委託できない
結局、、他者が提示できる解決案といううのは、どこまでも、一定レベルのコンセンサスが得られている範囲内での選択肢でしかありません。
洗剤を買うのに、超高級ショップへ行ったら300種類の洗剤が並んであり、10人の異なる意見を述べる世界レベルの洗剤アドバイザーがいることを想像してみてください(笑)
いくら、著名な医者の知り合いがいるとか、お金持ちであるとかで、幅広い選択肢をもっていたとしても、本人や家族に選ぶ能力がなければ現実的に有効な治療法を選択するということはできません。
むしろ、選択肢の多さゆえに、わけのわからない健康情報に翻弄されてしまって終わると思います。
※選択責任を患者と共有するという意味で家族は例外でしょう。そういった面からも家族のキーパーソンとして役割が重要になってくると思います。
利他主義の限界
気候変動に対する投資はパスカルの賭けと同じだ。
気候変動があると信じて、それに従って行動したほうが、たとえそれが間違っていたとわかっても、ましなのである。
ティム・オライリー
倫理的判断の迫られる選択肢には善意も届きにくい
この理解と倫理的判断の問題は、患者本人や家族だけではなく、人のために活動したい、世の中をよくしたいと考えている第三者についても同様です。
例えば、アメリカでは100万の慈善団体が存在し、年間2000億ドル(21兆円)のお金がこの団体に流れ込みます。世界をよりよい場所にしたいと考えている人たちは、目に見えている以上に多く存在します。
しかし、健康や病気に関しては治療を施した結果、かえって悪化するかもしれないというリスクが伴うため、一般的には、その判断が可能なもの、権威者のお墨付きなど確実性があると考えられるものに集中する傾向にあります。
ビル・ゲイツはなぜリコード法に投資をしないのか
資産を有する慈善家や、頭脳明晰なエンジェル投資家では、どうすればを寄付や投資を人のために最大化させることができるか、科学的証拠(エビデンス)やQALYなどを踏まえて自分たちで精査する能力をもっています。
しかし、そうなってくると結局それはランダム化比較試験が行われているか(行うことができるか)など、現代医療の延長線上の判断となり、自分では判断できない(例えば生化学などの)エリアは、大多数の標準医療の上にたつ専門家に聞いて否定的な見解を得ることになります。
加えて、リコード法のような手間のかかる方法を効率や実現性が低いと判断して支援を見送るという結果にいきつくように思います。(QALYの費用対効果は抗体薬よりも優れていますが…)
フラットに効果的な利他主義を考えた時、費用対効果の100倍高いマラリア対策や、蚊帳を配るといったより効率の良い慈善行為と競合してしまうでしょう。
費用対効果が傍目からははっきりしない
認知症の社会政策は、効果があれば非常に大きいが費用対効果の計算が難しいために躊躇される気候変動への投資事業と似ているかもしれません。
しかし気候変動に関してはランダム化比較試験が不可能ということがはっきりしているため、それを要求する専門家はいませんし、それができないから地球温暖化を防ぐ努力は無意味だという専門家も存在しません。
気候変動への投資政策に関しては、認知症治療と違って市民権を得ている分まだ有利とも言えます。
すでにあるアルツハイマー病治療薬
「アルツハイマー病は全く違った種類の敵だ。倒せる武器がない。アリセプトとナメンダを服用するのは、燃えさかる炎の前で小さな二本の水鉄砲を構えているようなものだ。」
アリスのままで
ドラッグ・リポジショニング
では、個人の患者さんで知識の問題と倫理的な問題をクリアできた場合、実際にどのような選択肢があるのか?
一例としては、シロスタゾールやアスピリン、リファンピシン、セルベックス、バラシクロビルなど、多くの既存医薬品が認知機能への改善効果がある可能性が示唆されており、中には現在、臨床試験が進められているものもあります。
※ガランタミン(元はポリオの治療薬)、メマンチン(元はインフルエンザの薬)も、元々はドラッグポジショニングとしてアルツハイマーに転用された薬です。
多くの認知症適応外の治療薬は入手可能
法律上そして立場上、具体的にすすめることはできませんが、そういった既存医薬品のほとんどは、工夫しだいですぐに入手が可能です。
このことも知らない方が多いと思いますが、アルツハイマー病治療薬として研究されている医薬は研究所で合成されたまったく新しい化合物で、個人には入手できないと思っている方が多くいらっしゃいます。
もちろん抗体のようなものだったり、特殊な抗がん剤、または静注投与しなければならないようなものは、個人では入手も使用も不可能です。
しかし臨床も含めた研究論文を全体的に見渡すと、アルツハイマー病で研究されている化合物のほとんどが、食事からの摂取で効果を得られる成分、サプリメントに含まれている栄養素、個人輸入で入手可能な既存の市販薬、医者からの処方が可能な医薬だったりします。
実行責任と未実行責任の非対称性
「なにかあったらどうする」
懐疑的な患者「このプログラムが自分を良くするとは思えない」
ブレデセン博士 「6ヶ月時間をくれ、それでアルツハイマー病がよくならなかったら、好きなところに行けばいい。」
懐疑的な患者 「他にどこにも行き場所はないだろう」
ブレデセン博士 「それなら、一体なにを失うというんだ!」
つまり、ここでも理解と倫理的判断の問題になってきますが、ほとんどのアルツハイマー病治療薬は、個人で入手し治療に用いることが可能なのです。
このように語ることでとうぜん、中には危険性を危惧される方もいらっしゃると思います。そこで、運動はともかく、医薬の摂取だったり大量のサプリメント摂取に対して、
「もしなにかあったらどうするんだ」
というセリフを、事情をよく知らない知人から言われたことがあります。
何もしなくてもなにかは起こる
心配して言ってくれるのはわかるのですが、わたしには正直このセリフにはまったく賛同できません。なぜなら、なにもしなくても、そのなにかは必ず起きるからです。
批判を覚悟ではっきりと言いますが、そのなにかはあらゆる病気の中でもっとも悲惨な出来事です。
自分で行動をとらなければ、それは100%確実にやってきます。
そして、回復できるチャンスのある時間はどんどん過ぎていきます。
「なにもしなくて起こったことについては、どうするつもりなの?」
と、いつも問い返したい気持ちにかられます。
当然、だれも責任をとらないでしょう。だれも責任を取らなくてすむ代わりに、本人が尊厳と人格と生命を失い、家族が8~10年間人生を犠牲にするだけです。
責任を取らなくてすむなら、他の人がどうなろうと知ったことではないのでしょう。
実行しない責任は誰もとらなくて済む
ここで言いたいのは、世間もお医者さんも「実行しない責任」は、我関せずとしながら、「実行する責任」の側だけを非難する責任論です。
世間的に一番安全な方法は、何も言わずに、こっそりブレデセンプロトコル(リコード法)を実行することです。そうすれば責任感を感じずにすみ、誰からの批難を浴びることなく自分たちの家族だけは助かります。
安全性の高いリコード法
ただ、こう書いてしまうと、リコード法がとんでもないリスクをかけて改善に取り組もうすると誤解されがちですが、そうではありません。
リコード法自体は治療全体としての証拠が積み上げられていないだけで、個々の治療レベルでは安全性に配慮して作られていることが、見る人が見ればわかります。
糖質制限一つとっても、今までケトン値を測定することを標準とするケトンダイエットが他にあったでしょうか。
抗コリン剤の認知機能低下リスクは見過ごしておきながら、ハーブの証拠不足や些末な副作用を強調するのは本末転倒もいいところです。
責任を負うくらいなら死んだほうがまし
えてしてはわれわれは、どう考えても非合理的であると思われる選択を、責任を回避するために選んだりします。
ひょっとすると、多くの人にとっては責任を追求される可能性を選択することのほうが、家族と自分の不幸よりも耐え難いことなのかもしれません。
ここでいつも疑念に思うのは、将来やってくる認知症の不幸がどういうものかということを多くの人が理解していません。
それは責任回避によって犠牲となる将来を軽く見積もっていることであり、責任回避自体はその人の正当な意志だとしても、それはそもそも正しい比較判断と言えるのか?と疑問に思います。。
未来にやってくる責任リスク
だとすればそれはそれで、その方にとっては合理的な選択なのかもしれませんが、われわれの倫理観がどこか狂っているのでは?と感じざるを得ません。
倫理観が大多数によって規定されるのであれば、定義上おかしいのは私なのかもしれません。しかし認知症治療の是非には進行の改善または悪化という事実が伴います。
時が経てば、お医者さんや一般世間が正しかったのか、それとも私やブレデセン博士、そしてリコード法を擁護する関係者が最善の策を提示していたのか、自ずと答えは示されでしょう。
今リスクを取ろうとしない人たちは、未来の新しい価値の元で責任を追及されるリスクに気がついていないようにも思います。
おそらく時代が変われば、責任を回避するために「あのときは、ああするしか仕方なかった」とみな口を揃えていうのでしょうが、その代償はあまりにも大きい。。
犠牲者数(NNT:number needed to treat)が大きすぎて、「ほら言っただろう」という気にもなれません。。
頼る力の必要性
六次の隔たり
「もし君と僕がりんごを交換したら、持っているりんごはやはり、ひとつずつだ。でも、もし君と僕がアイデアを交換したら、持っているアイデアは2つずつになる。」
バーナード・ショー
そして、もうひとつ、実はわたし個人にとってはこっちが大きな意味をもつのですが、仕組みが情報として伝わることで、それを学んだ人たちがそのメカニズムを再び他者に伝えることができる、ということにあります。
個人対個人の努力では、すでに500万人は超えている認知症患者さんの1%(5万人)でさえ不可能です。これを解決するには、お互いに助け合う患者グループを作るしか方法がありません。
「頼る力」の必要性
誰かが道端でこけて、周りの人が駆けつけた時に相手から出る一声は「大丈夫です」だったりします。日本文化の「できる限り人に迷惑をかけてはいけない」という美徳は美しくもある反面、認知症患者同士の支え合いにおいては、大きなネックになっているのではないかとも思っています。(特に男性)
なぜなら何度も繰り返してきたように、認知症はまだ大きく困ってない段階で、とにかく早い段階で対処していかなければ回復が難しくなってしまう病気だからです。
人に迷惑をかけまいと歯を食いしばって一人で頑張って、本当に困ったときには支援する側も手をなんとかしたいと思ってもどうにもならない…
「迷惑をかけてはいけない」が迷惑になるかも
あまりこういう物言いは好きではありませんが、少なくとも認知症に関しては「迷惑をかけてはいけない」という感情が最終的にはもっとも多くの人に迷惑をかけます。
介護殺人に至った多くの方が、実は親孝行で真面目な方で見捨てられず殺害、心中におよんでいるという事実もあります。
エゴからスタートする
認知症回復に成功するパターンはまだ深刻な症状は出ていないという間に、大げさではないかというぐらいにジタバタし、そこであらゆるソースに頼りつつ学んでいき、その後自立していくパターンではなかろうかと思っています。
道徳っぽく聞こえるので言うのがちょっと嫌なのですが、「迷惑をかけたくない」と思う方は、少し発想を変えて「迷惑をかけているから頑張ろう」、「迷惑をかけているから、進行抑制や改善ができたときにそれを他の人に伝えて返そう」と考えてみてはどうでしょうか。
今、協力体制のようなものをどう作っていったらいいのか、結構苦手分野で毎晩悩んでいます。。なにか良い知恵がありましたらお助けください。
自己改革的な医療
そういうわけで、普及を目指すには、さくっと実践できるようなブログを作ることですが、そういうブログではないよなあと、私の性格が最大の理由ですが、自分のプロモーション能力、伝達能力の低さを自覚したりもします…
ただ、フローチャートとか作って誰でもできるような形のプログラムを提示したとしても、必ずアナログな理解と行動が必要となってきます。
次の記事
次は、リコード法の現時点での内在的な技術的課題、何がまだ解決できないのかといったことについて取り上げていきます。