書籍『終末の時代:エリート、対抗エリート、政治的分裂への道』Peter Turchin
「エリート層の内部対立と大衆の窮乏化が合わさると、爆発的な組み合わせとなる。窮乏化した大衆は生のエネルギーを生み出し、対抗エリートの幹部はそのエネルギーを支配階級に対して向けるための組織を提供する」… pic.twitter.com/rfinKqBwxy
— Alzhacker ᨒ zomia (@Alzhacker) April 27, 2025
本書の要約
『End Times: Elites, Counter-Elites, and the Path of Political Disintegration』(邦題:終末の時代:エリート、カウンターエリート、そして政治的崩壊への道)は、歴史学者ピーター・タルチンによる社会の不安定化と崩壊に関する分析書である。
タルチンは「クリオダイナミクス」という歴史の科学的アプローチを用いて、複雑な社会が繰り返し危機に陥る構造的パターンを分析している。主要な不安定要因として、「大衆の困窮化」と「エリートの過剰生産」の2つを特定している。この2つの要因が組み合わさると、社会的崩壊のリスクが高まる。
著者は米国を主な分析対象とし、1970年代以降の相対賃金の低下がいかに「富のポンプ」を作動させ、労働者階級から経済エリートへの富の移転を引き起こしたかを示している。この過程でエリート層が肥大化し、限られた権力ポジションをめぐる競争が激化している。
歴史的には、ローマ帝国崩壊、中世フランスの危機、イギリスのバラ戦争、アメリカ南北戦争、太平天国の乱など多くの事例がこのパターンに当てはまる。特に米国の現状は1850年代の南北戦争前夜に似た状況にあると指摘している。
タルチンは危機からの脱出方法も探っており、一部の社会はエリートが社会を再均衡化する改革を実施することで、大規模な流血を避けることができたと論じている。著者は今日の米国も同様の改革を通じて危機を緩和できる可能性を示唆している。
目次
序文
第I部 権力のクリオダイナミクス
第1章 エリート、エリートの過剰生産、そして危機への道
第2章 歴史からの教訓
第II部 不安定性の要因
第3章 「農民は反乱を起こしている」
第4章 革命部隊
第5章 支配階級
第6章 なぜアメリカは金権政治なのか
第III部 危機とその後
第7章 国家崩壊
第8章 近未来の歴史
第9章 富のポンプと民主主義の未来
付録
第A1章 歴史の新しい科学
第A2章 歴史的マクロスコープ
第A3章 構造的動態アプローチ
序文(Preface)
タルチンは自身の研究分野「クリオダイナミクス」を紹介し、歴史は単なる出来事の羅列ではなく、科学的に分析可能だと主張する。この分野は歴史的パターンを統計的に分析し、社会の周期的変動を説明する。著者は2010年に2020年代の政治的不安定性を予測しており、その理論がアメリカの現状にどう当てはまるかを本書で説明する。タルチンによれば、賃金停滞、格差拡大、エリート過剰生産、信頼低下、債務拡大など、一見無関係な指標は実は相互に関連しており、政治的不安定の主要指標となる。(248字)
第1章 エリート、エリートの過剰生産、そして危機への道(Elites, Elite Overproduction, and the Road to Crisis)
社会的不安定の主要因として「エリートの過剰生産」と「大衆の困窮化」を提示する。エリートとは社会的権力を持つ「権力保持者」であり、米国ではこれは富と強く相関する。1980年代以降、1000万ドル以上の資産を持つ超富裕層が約10倍に増加し、権力ポジションをめぐる競争が激化した。これを「アスピラント・ゲーム」と表現する。同時に一般労働者の相対賃金は低下し、大衆の生活状況が悪化した。この2つの要因の組み合わせは社会不安定化の典型的パターンであり、トランプ、リンカーン、洪秀全などはこの構造的傾向に乗った指導者であると著者は分析する。(243字)
第2章 歴史からの教訓(Stepping Back: Lessons of History)
複雑な社会は周期的な安定期と不安定期を経験するパターンがある。不安定性の4つの主要因子は、大衆の困窮化、エリート過剰生産、国家の財政危機、そして地政学的要因だが、最も重要なのはエリート間競争である。暴力の周期は約50年(2世代)で繰り返す傾向がある。中世フランスの危機(1350-1450年)、イギリスの薔薇戦争など歴史的事例を分析し、エリート過剰は社会的ピラミッドを不安定にすること、一夫多妻制のイスラム社会では循環が速いことなどを示した。危機の伝染と同調も重要な要素であり、気候変動や「アラブの春」のように不安定性が地域を越えて広がることがある。(271字)
第3章 「農民は反乱を起こしている」(”The Peasants Are Revolting”)
労働者階級の状況悪化を「スティーブ」という架空のキャラクターと、エリートの「キャスリン」の対比で描く。1970年代以降、米国の実質賃金は停滞・減少し、大学卒業者と非卒業者の間で大きな経済格差が生じた。統計によれば、大学非卒の実質賃金は1976年から2016年にかけて下落し、カレッジ卒業者の給与が40%以上上昇する一方、高校卒業者は減少した。生物学的健康指標(平均身長や平均余命)も悪化し、2013年以降は「絶望死」(自殺、アルコール中毒、薬物乱用による死亡)が増加している。「富のポンプ」が労働者から経済エリートへの富の移転を加速させ、社会不安の根本原因となっている。(285字)
第4章 革命部隊(The Revolutionary Troops)
「ジェーン」という左翼ラディカルの架空人物を紹介し、エリートになるための高等教育とその問題点を探る。米国では1950年代には18-24歳の約15%しか大学に通わなかったが、現在は約3分の2が進学。この「エリート願望ゲーム」で競争が激化し、法科大学院卒業者の給与は二極化($45K-$75Kと$190K)している。格差と競争激化で不正行為も増加。イデオロギー的風景も分裂し、1950年代の合意から今日の極端な分極化へと変化した。左右両翼のラディカル化が進み、暴力的な対立も増えている。エリートの過剰生産はラディカル化の温床となり、「革命はその子を喰らう」という歴史的パターンが繰り返されている。「絶望的な教育を受けたプレカリアート」が本当に危険な階級なのだ。(287字)
第5章 支配階級(The Ruling Class)
架空の億万長者夫婦「アンディとクララ」を通じて米国の支配階級を描写する。米国は「金権政治」(富の支配)社会であり、大企業コミュニティが政治に強い影響力を持つ。権力の集中は「階級支配理論」で説明され、ロビー活動、選挙資金、回転ドア人事などを通じて経済エリートが政治を支配している。政治学者マーティン・ギレンスの研究では、政策変更において一般市民の選好は統計的影響力がなく、富裕層の選好が決定的だった。これは「科学的理論」であり「陰謀論」ではない。支配階級は政策・計画ネットワークの形成によって団結し、彼らの視点から見れば移民の流入は賃金抑制に有効だが、労働者階級には不利益をもたらす。(271字)
第6章 なぜアメリカは金権政治なのか(Why Is America a Plutocracy?)
アメリカが他の西側民主主義国と比べて極端な金権政治になった理由を歴史と地理から説明する。一つ目の要因は地政学的環境で、大西洋と太平洋に守られた北米では軍事的エリートが発達せず、南北戦争後に経済エリートが台頭した。二つ目は人種・民族問題で、支配階級は労働者階級を人種で分断して支配できた。FDRのニューディール政策は白人労働者のための契約であり、黒人は除外された。1930年代には恐慌とエリート内の改革派によって「大圧縮」期間が始まり、1970年代までは不平等が減少した。しかし過去40年間で富のポンプが再び作動し、複雑な社会の脆弱性が高まっている。(245字)
第7章 国家崩壊(State Breakdown)
ネロ、バティスタ、ガニなど歴史上の権力者が突然見捨てられた「ネロの瞬間」を描き、国家崩壊のメカニズムを分析する。政治不安定タスクフォース(PITF)の研究によれば、内戦発生の主な予測因子は「政体タイプ」(完全な専制政治でも完全な民主主義でもない中間状態)と「派閥主義」(妥協しない極端な政治競争)である。しかし著者はより深層の構造的動態分析が必要だと主張する。旧ソ連諸国の比較では、ウクライナは金権政治として不安定化し二度の革命を経験した一方、ベラルーシではルカシェンコ体制が軍部の支持を維持し安定している。ロシアは行政/軍事エリートがオリガルヒを従属させた。社会崩壊には支配層の性質と凝集性が決定的に重要である。(269字)
第8章 近未来の歴史(Histories of the Near Future)
著者は「多経路予測」(MPF)モデルを開発し、米国の将来軌道をシミュレーションした。このモデルは「富のポンプ」を中心に、相対賃金の低下がいかに大衆の困窮化とエリート過剰生産を引き起こすかを示す。また急進化の伝染過程も組み込んでいる。モデルによれば2020年代のアメリカには深刻な政治的暴力の発生が予測され、この危機の後にシステムは一時的に安定するが、富のポンプが継続すれば約50年後に再び危機が訪れる。タッカー・カールソンのようなカウンターエリートの台頭や、共和党内の国家保守主義者の増加が見られる。危機を回避するには相対賃金を引き上げ、エリート過剰生産を止める改革が必要だが、既に進行中の危機を完全に回避するのは難しい。(270字)
第9章 富のポンプと民主主義の未来(The Wealth Pump and the Future of Democracy)
著者の「CrisisDB」分析によれば、100の歴史的危機事例中、75%が革命や内戦で終わり、60%が国家崩壊をもたらした。しかし少数の「成功例」では、緊急の改革によって大規模な暴力を回避している。イギリスのチャーティスト運動期(1819-1867年)とロシアの改革期(1855-1881年)は、緊急の社会改革によって革命的状況から脱出した好例である。しかし一時的解決後、ロシアは半世紀後に革命に直面し、イギリス帝国も徐々に衰退した。民主主義も「寡頭政の鉄則」に脆弱で、ニューディール後の米国も1970年代に再び富のポンプが作動した。しかし各国で異なる軌道があり、一部の欧州諸国は不平等拡大を抑制している。クリオダイナミクスは社会崩壊のパターン理解と防止に役立つ可能性がある。(285字)
第A1章 歴史の新しい科学(A New Science of History)
タルチンはクリオダイナミクスという「歴史の科学」を紹介し、アシモフの「心理歴史学」や小説「盲人の国」のクリオロジーとの違いを説明する。実際の科学として、クリオダイナミクスは歴史データを統計的に分析し、数学モデルで社会システムの相互作用を追跡する。例として南北戦争をオシポフ-ランチェスター方程式で分析し、北軍の人口優位が「二乗の法則」によって16倍の戦争優位に変換されたことを示す。士気など測定困難な要素も統計的に推定可能であり、科学的手法で歴史を理解できる。著者はジャック・ゴールドストーンの「人口構造的革命理論」開発の苦闘を例に挙げ、2000年頃からデータ増加によりクリオダイナミクスが可能になったと論じている。(272字)
第A2章 歴史的マクロスコープ(A Historical Macroscope)
架空の「セントウリアン社会学者」の寓話を通じて、歴史データベース構築の重要性を説明している。著者のプロジェクト「セシャット:グローバル歴史データバンク」は、歴史家や考古学者の知識を体系的に収集し分析可能なデータに変換する試みである。これには人口動態、政治構造などの「代理指標」が含まれる。例えば人骨から身長や暴力死の痕跡を測定したり、教区記録から人口推移を再構成したりする。データ収集はリサーチアシスタントと専門家の共同作業で行われ、コーディングスキームに従って数値化される。セシャットはホロシーン期の社会変革の研究に使われ、最近は「CrisisDB」として社会危機の事例約300件を収集している。こうした「歴史的マクロスコープ」が2000年以降のクリオダイナミクスを可能にした。(276字)
第A3章 構造的動態アプローチ(The Structural Dynamic Approach)
クリオダイナミクスが「チェリーピッキング」や「プロクルステスのベッド」という歴史理論の弱点を克服する方法を説明する。歴史学者は個別事例に詳しいが一般原則を導きにくく、素人理論家は自説に合う例だけ選び「循環史観」を無理に当てはめる。クリオダイナミクスは専門家の知識を集め、明示的モデルで理論検証する。個人を集計する手法は人口統計学や保険数理と同様に機能し、複雑系科学の構造的動態アプローチを適用する。社会構造(利益集団の構成)と動態(利益集団の相互作用による時間的変化)を分析する。物質的利益を出発点としつつ、集団の向社会的行動も考慮する。このアプローチで社会崩壊の根本原因と防止策を理解できる。(271字)
歴史的周期と社会崩壊の構造的分析についての考察 by Claude 3
ピーター・ターチン(Peter Turchin)の「End Times: Elites, Counter-Elites, and the Path of Political Disintegration」は、歴史の科学化という野心的試みを体現した著作である。ターチンが提唱するクリオダイナミクスという新興学問分野(クリオはギリシャ神話の歴史の女神、ダイナミクスは変化の科学を指す)は、歴史的データに数学的モデルと複雑系科学の手法を適用することで、社会崩壊と再生の周期的パターンを科学的に解明しようとする試みだ。
本書の核心的主張は、複雑な人間社会が予測可能な政治的不安定性の波を経験するというものだ。ターチンは5000年にわたる人類の文明史を分析し、統合期(平和と協力の時代)と解体期(紛争と不和の時代)が約100年周期で交互に訪れると論じている。この主張は単なる歴史の周期論ではなく、厳密なデータ分析に基づいた実証的理論である点で画期的だ。
まず、ターチンが同定した不安定性の構造的要因について詳しく見てみよう。彼は4つの主要因子を挙げている:
1. 大衆の窮乏化(民衆の生活水準の低下)
2. エリートの過剰生産(限られた権力ポジションに対する志願者の過剰)
3. 国家の財政健全性と正当性の低下
4. 地政学的要因
このうち特に重要なのが、エリートの過剰生産である。ターチンは、歴史的に見て、エリート層が肥大化し、限られた権力ポジションをめぐる競争が激化すると、社会不安が高まる傾向が顕著だと指摘する。例えば第3章で詳述されているように、1970年代以降のアメリカでは、相対賃金(GDP対比の賃金)が低下し、経済成長の恩恵がエリート層に集中するようになった。この「富のポンプ」によって、1983年から2019年の間に、1000万ドル以上の資産を持つ世帯数は66,000から693,000へと10倍以上に増加した(p.23)。
このエリート過剰生産は「志願者ゲーム」として説明される。ターチンは椅子取りゲームの変形として、参加者(エリート志願者)の数が増え続ける一方、椅子(権力ポジション)の数は一定のままというシナリオを描く。志願者が増えるにつれて、挫折したエリート志願者の数は指数関数的に増加する。やがて彼らは「対抗エリート」に転じ、既存システムへの敵対者となる(p.24-25)。これは、政治キャンペーンの自己資金額が1990年以降急増していることなどの客観的データによって裏付けられている。
第2章では、この基本モデルを中世フランス、イングランド、そして多様な文明に適用し、不安定性の波が普遍的現象であることを示している。特に興味深いのは、社会構造と周期の長さの関係だ。一夫多妻制のイスラム社会では、エリート層が急速に増殖するため、周期は約100年と短い(イブン・ハルドゥーンの観察による)。一方、一夫一婦制の西欧社会では、周期は200〜300年と長い(p.54-55)。
ターチンのアプローチの革新性は、CrisisDB(危機データベース)という史料体系の構築にある。彼のチームは、これまでに100以上の歴史的危機事例を詳細に分析し、一貫したパターンを見出した。これは単なる歴史哲学ではなく、データ駆動型の科学的分析なのだ。
第3章と第4章では、現代アメリカの状況へのモデル適用が行われる。特に注目すべきは、1970年代以降の労働者階級の二極化だ。高等教育を受けた層の実質賃金は増加しているが、学歴の低い層の賃金は実質的に減少している。これは単なる経済的不平等にとどまらず、「死亡率格差」という生物学的次元にまで及ぶ。アン・ケース(Anne Case)とアンガス・ディートン(Angus Deaton)の研究を引用し、ターチンは学歴の低い白人アメリカ人の間で「絶望の死」(自殺、アルコール中毒、薬物乱用による死亡)が4倍に増加した一方、学歴の高い層ではほとんど変化がなかったことを指摘する(p.76-77)。
第4章では、教育を受けた階級内部の分裂と過剰生産にも焦点が当てられる。1980年代には法科大学院の卒業生の給与分布は単峰性だったが、2000年代には二峰性となり、高給($190K)を得る上位20%と低〜中給($45K-75K)の50%に分裂した。後者は学生ローン負債(平均$160K)に押しつぶされ、「教育を受けたプレカリアート」となる(p.95-96)。このような状況が、左右両派の過激化を促進するという分析は説得力がある。
第5章と第6章では、アメリカの支配階級構造が詳細に分析される。ギレンス(Martin Gilens)の研究を引用し、ターチンはアメリカの政策変更が富裕層の選好を反映し、中間層や貧困層の選好はほとんど影響を与えないことを示す(p.133-134)。この「階級支配理論」は、アメリカが実質的なプルトクラシー(富による支配)であることを示唆している。
さらに、第6章では、アメリカのプルトクラシーの歴史的起源が分析される。南北戦争後、北部の実業家エリートが南部の奴隷主エリートに取って代わり、1870年から1900年の間に百万長者の数が41人から545人へと爆発的に増加した(p.141)。同時に、エリート層は自らの階級意識を高め、社会登録簿(Social Register)やエリート学校などを通じて結束を強めていった。
第7章では、国家崩壊のメカニズムが検討される。ターチンは、国家崩壊は多くの場合、外部からの攻撃ではなく、支配ネットワークの内部崩壊によって引き起こされると主張する。ネロ皇帝、キューバ革命、2021年のアフガニスタン崩壊などの事例が分析され、支配エリートの結束力の重要性が強調されている。また、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの比較から、プルトクラシー(ウクライナ)が軍事官僚制(ベラルーシ、ロシア)よりも不安定であることが示唆される(p.173-187)。
第8章では、ターチンの開発したMPF(マルチパス予測)モデルが紹介される。このモデルは、アメリカの現在の危機的状況が2020年代に最高潮に達し、その後一時的に沈静化するが、その後再び50年周期で繰り返される可能性を示唆している。ただし、相対賃金を引き上げ「富のポンプ」を停止することで、次の危機サイクルを回避できるとも論じている(p.191-194)。
第9章では、危機からの「出口」に焦点が当てられる。CrisisDBの100事例の分析から、75%の危機が革命や内戦に発展し、60%が国家崩壊に至ったことが示される。しかし、チャーティスト時代のイギリス(1819-1867)やアレクサンドル2世の改革期ロシア(1855-1881)のように、エリート層が適切な改革を実施することで大規模な暴力を回避した成功例も存在する(p.204-215)。
付録部分は方法論的に重要で、ターチンはクリオダイナミクスの科学的基盤を詳細に説明している。特に注目すべきは、ランチェスター方程式を用いた南北戦争のモデル化(付録A1)と、セシャット(Seshat)データベースの構築による「歴史的マクロスコープ」の開発(付録A2)だ。これらは単なる歴史哲学ではなく、真の意味での科学的アプローチを示している。
ターチンの理論に対する批判も検討する必要がある。最も明白な批判は、還元主義への懸念だ。人間社会を数学的モデルで記述することは、その複雑さや個人の行為主体性を過度に単純化する恐れがある。これに対し、ターチンは付録A3で「構造的-動的アプローチ」を提唱し、社会構造と個人行動の相互作用を考慮したモデル構築を試みている。
また、データの質と量に関する問題もある。遠い過去の社会についての定量的データは限られており、解釈も難しい。ターチンはこの問題に対し、「プロキシ」(間接指標)の活用や複数の情報源からの三角測量など、創意工夫を凝らしているが、データの限界は認めざるを得ない。
さらに、予測可能性の問題がある。複雑系科学の知見によれば、非線形相互作用を持つ複雑なシステムでは、長期予測は本質的に不可能である。ターチンはこの限界を認識し、精密な予測よりも可能性のある軌道を探る「マルチパス予測」を提唱している。これは謙虚さの表れであり、彼の科学的誠実さを示すものだ。
歴史学界からの批判も考慮すべきだ。伝統的歴史学は個別具体的文脈を重視し、普遍的パターンの探求には懐疑的である。これに対しターチンは、事例の特異性を認めつつも、大規模データセットの分析によって一般パターンを見出すことが可能だと主張する。これは科学と人文学の架け橋を試みる野心的な挑戦と言える。
現代への応用を考える上で重要なのは、ターチンの予測が既に一部実現している点だ。2010年に彼は2020年頃にアメリカで政治的不安定が高まると予測し、実際に2020年はコロナ禍、人種的抗議運動、そして連邦議会議事堂襲撃事件という激動の年となった。この的中は偶然ではなく、モデルの説明力を示すものだろう。
最後に、本書の最も価値ある点は実践的含意にある。ターチンは単に危機を予測するだけでなく、その回避策も提示している。特に、相対賃金の回復(「富のポンプ」の停止)と社会的協力の強化が鍵である。歴史的には、一部の社会はエリート層の賢明な改革によって最悪の結果を回避してきた。現代社会もまた、歴史の教訓に学ぶことで、より平和的な未来を選択できる可能性がある。
総合すると、ターチンの著作は歴史の科学化という野心的試みの最前線を示すものだ。その方法論的革新性と予測力は、社会科学に新たな道を開く可能性を秘めている。もちろん批判や限界も存在するが、複雑な社会現象をデータと理論に基づいて分析するこのアプローチは、今後ますます重要性を増すだろう。私たちはこうした分析を通じて、社会の崩壊と再生のサイクルをより深く理解し、最悪の結果を回避するための知恵を得ることができるのではないだろうか。