薪割りを好む人が多いのは理解できる。この仕事では結果がすぐ分かる。
アインシュタイン
本当の進行は検査ではわからない
MRI画像でわかるのは氷山の一角
例えばMRI検査などで撮影された画像だったり、血流低下された部位がカラーで強調表示された画像などを見ると、あたかも病状の進行具合がよく分かるように思われる人もいるかもしれません。
しかし、ああいった診断画像は、病理学的な末期の崩壊状況の段階を見ているようなもので、アミロイドβの増加、オリゴマー集積、リン酸化タウの上昇など、病因の中核となっている因子の進行具合を直接測るものではありません。
アミロイドやタウも絶対的指標ではない
アミロイドβやタウ濃度の測定も、診断として取り入れられるようになってきていますが、代謝障害とシナプス恒常性の破壊がその本質原因であると考えるなら、原因の結節点にあるだけで、どこまでも二次的な指標にすぎません。
MRI画像などによる病理診断は、地球温暖化がすでに到来した後の生態系バランスの崩壊(萎縮、血流低下)を見ているようなものであり、MMSEや長谷川式などの問診にいたっては、永久凍土が溶けて都市が浸水して経済が停滞しているようなもので、いずれにしても病気の実態を知るには手遅れすぎるわけです。
外の空気を吸ってゴホッと咳き込んでから、大気汚染の環境問題に取り組もうとしているようなものです。
認知症の進行は鳩の足音で忍び寄る
なぜ認知症だけ症状で判断する?
なぜこのことをこれほど強調するかというと、体感的にも検査的にも実態に気づくことがむずかしい病気であるということが知られているはずなのに、なぜだか治療の改善効果となると、みなさんは感覚だけを頼りに良し悪しを判断しようとし、医療関係者、創薬研究でさえもMMSEなどの臨床的な指標を絶対視するからです。(検査値などのバイオマーカーを基準に考えていくべきではないかという声は他の研究者からも出てきています)
ガンにしてもエイズにしても予め宣告された人が、わかってて症状が悪化するまで治療を待つことはありません。なぜだか認知症の場合はそれがまかり通るのです。
治療に取り組むさいに感覚をあてにせざるをえない点も多々あるのですが、測定がそもそも困難であるという側面をこの認知症という病気は多く抱えています。
そのため理解や知識に基づいて改善に取り組まなければならないということがいかに重要であるかということにも、できるだけ早い段階で気がついてもらいたいと思っています。
認知症トラップ
嵐を惹き起こすものは、もっとも静かな言葉だ。
鳩の足で歩いてくる真実が、世界を左右する。
ニーチェ
多くの人が、この障害の深刻度と体感的な深刻度の時間的ズレ、認知症トラップにはまってしまっています。
深刻さを隠すテクニック
死に対する恐怖心
このズレが生じてしまう理由には、単に病気の性質だけではない、もっと内面的な、もしくは社会的な要因も絡んでいるように思います。
社会や人が死を取り扱う時、客観的な事象として扱うか、情緒的に扱うかのどちらか極端にふれます。この二極構造によってわれわれは、死に備わる底なしの恐怖そのものの直視を避けることが可能です。
その恐怖心の回避が、そのまま痴呆やボケに目をむけないことにつながっているというふうに見えることもあります。
例えば、患者は医者がなにを言うかだけではなく、言い方や態度などの空気を敏感に読み取るということを医者はよく知っています。
単に職業的に無感情になってしまっている医者もいると思いますが、一般的には患者に不安を与えない伝え方というものを熟知しています。
お互いに隠し合う
手の打ちようのない病気ほど、医者はテクニックとして、さらっとなんでもないことかのように話します。焦らすような話し方をしているときは、むしろ手術を受けさせれば治るなど、なんとかなる可能性があるからです。
宣告された患者の側も、知識が不足しているということがあるとは思いますが、ボケと死への恐怖を潜在的にかかえているため、そのまま医者と無意識的に協力しあってフタをしてしまっているのではないか、という気もしています。
治らないという思い込み
「アルツハイマー病は治らない」という医者や世間の常識が、もうあまりにも強すぎるため、社会全体の風潮が
「別に認知症になったっていいじゃないか」
となってきてもいないでしょうか。
苦しいことには耐え忍ぶ、というお国柄もあるように思います。
「みんないつかは死ぬのだから」
「みんなも苦しんでいるのだから」
これはこれで、アルツハイマー病が本当に改善可能性がない病気なのであれば、心情的にはそういう方向へ向かいたくなる気持ちは理解できます…
しかし、改善事例や抑制事例をいくつも目にしてきた自分としては
「まず治そうと試みるべきじゃないのか?順序として諦めるのはその後だろう」と叫びたくなるわけです。
奇跡の物語ではない
誤解されがちなので一言付け加えておきますが、これは多くの人に回復が見込める医学的理由と事例を元に訴えており、「奇跡の事例を取り上げて希望を持つんだ」という精神論、希望論ではまったくないのです。
取り組みが桁違いに難しくなる
もちろんすべてのアルツハイマー病患者が助かるというわけではありません。
従来の回復不可能な不可逆とされていたラインが大幅に延長されたとはいえ、進行が進めば進むほど、回復の可能性は遠ざかっていきます。
感覚値ですが、未病 → MCI → アルツハイマー病初期 → 中期へと一つ右へ移行するたびに、同じ改善度に達するには、その前段階の3~5倍の労力が必要になる印象があります。
目に見えない借金
借金の複利を放っておくと恐ろしいことになる、というのと似ているかもしれません。
銀行の借金と違うのは、認知症の場合、その利息が雪だるま式に増えていっていることが、目に見えないことです!(体感的にも、病院の診断であっても)
進行とともにやってくる5つの逆風
誰しも、自分の想像力の限界が、世界の限界だと誤解する。
ショーペンハウアー
病気が進行すると、病気そのものの治りにくさが増加するだけではありません。
本人の記憶力、学習能力はもちろんのこと、治療に取り組もうとするやる気も、脳の損傷により奪われていきます。
あまり知られていない事実ですが、認知症患者さんの無気力症状は、記憶力、学習能力の低下以外にも、線条体、淡蒼球など意欲に深く関与する脳部位が損傷を受けることで生じています。
まとめると
1. 認知症 脳の神経学的な回復のむずかしさ
回復までに必要な治療努力が、進行とともに指数関数的に増加
2. 認知症 脳の海馬損傷による記憶力・学習能力の低下
進行によってリコード法を理解できない、手順を覚えられない。
3. 認知症 脳の報酬系の障害によるモチベーション、意志力の低下
認知症ではやる気を司る脳部位が進行とともに損傷を受ける。
4. 介護者が周辺症状への対応に時間を奪われる
家族、ヘルパーも通常の介護に追われ、リコード法の実行サポートができなくなる。
5. 介護者自身の疲労感、健康の悪化
患者の重症度と介護者の健康感、疲労感は相関することが示されており、介護者側のモチベーション維持が難しくなる。(CBIスコアとうつ、ストレス r=0.4)
つまり病院での投薬や手術のような治療であれば、1. だけが主要な問題となってきますが、それに加えてリコード法においては2~5までのプログラム治療に必要な、学習能力、やる気、家族ヘルパーの協力といった不可欠な要素も、認知症の進行とともに削り取られていきます!
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天気のいい日に嵐のことなど考えてもみないのは、人間共通の弱点である。
マキャベリ
焦るのは最初だけ
特に、初期の段階では症状が軽いためか、診断直後というのはあせってあれやこれや調べたりしますが、、数ヶ月もするとそういう状況にも慣れてしまって、そのまま受け身で日々を過ごしてしまいがちです。
これは自分も病気で致死性の病気の宣告を受けたことがあるので、そのうち慣れてしまう感覚がよくわかるのです。
人は過酷な状況も慣れてしまう
どれほど深刻な病気であっても、その深刻性、緊張感を抱えたまま何ヶ月も過ごすことはできません。これは精神的な慣れというよりも病気への不安や緊張状態は、身体的な負荷が高いため、自分を守るための生理学的な仕組みとして起こることだと思っています。(まさに自分にそれが起こりました)
変化しないことの居心地の良さ
そして、この慣れてしまった偽りの平和が、まさしく認知症トラップにどっぷりハマっている状態です。
認知症トラップは自分が慣れ親しんだ世界の継続でもあるので、とても居心地がいいのです。もしくはその馴染んだ日常を変えたくないという心理でもあると思います。
高齢者ではよりむずかしい
特に高齢者ともなると、これまで築いてきた生活スタイル、ひいては自分の世界観や価値観を変えるということがとても困難だということもよくわかります。
しかし、そうなってくると、後はせいぜいテレビや雑誌で宣伝されていた(限りなく無意味に等しい)◯◯を飲んで終わり、といった感じで、進行後は為す術なく穴の底へ落ちていくのを見つめるしかありません。
困ってからの後手は致命的(99%の人は後手)
そして、認知症が進行してしまって、日常生活に深刻な症状が出始めてから何とかしようと思った頃に、なにか方法はないかと調べても、付け焼き刃の知識では打つ手がほとんどない、という状況に置かれてしまいます。
早期発見はとうぜん大事なのですが、アルツハイマー病と診断されてしまった後では、数年後の病状をイメージし、
”取り組む余裕があり緊張感が解けないうちに” とにかく先手必勝で実行していくことが、核心的に重要です。!
「想像力が働かないところには、恐怖もおこらないものだ。」
コナン・ドイル
偽りの静けさ
大事なことなので、なん度も繰り返しますが、初期の軽い物忘れの状態、さほど深刻な問題がないようにみえる状態は、本当の悪化状態を表したものではありません。
それは文字通り台風の前の静けさです!
ここでほとんどの人がアリセプト+αで過ごしてしまって、その後、抜け道のない真っ暗なトンネルに入り込んでいるように思います…
スピードでカバーする
…これにはアルハカ家の反省も含まれています。
アルハカ家でもこれまで先手で対処してきたことは間違いありません。しかし症状が安定して、「これだけやってるんだから大丈夫だろう」と油断して改善や工夫を怠って、その水面下でじわりと進行が進んでいたということを何度も経験してきたからです。(非常に微妙な進行のため、わかるのは早くても半年後)
しかし、基本はやはり先手です。
そして後手に回った!と気がついた時の「察しの早さ」とその「対応スピード」でカバーしてきた感があります。(汗)
10年経過した今でも、この先手と後手の感覚をひやひやと感じながら、かろうじて低空飛行を続けております。
上からものを言っているようですが、実際は過去の自分に向けて、そして今の自分の自戒として語っています。。
治療効果の判定は短期と長期を分ける
「短期的に希望を持つな、長期的に絶望するな。」
日野啓三
認知症の治療を実行する上で
「比較的すぐに改善の兆しが見えるもの」と
「数年以上続けて改善が感じられるもの」
の区分けができていることも重要です。
どちらも重要ですが、理解に基づいた想像力と実行力が必要になってくるのは後者のほうです。
これらはなかなか人の声になって耳には届きません。
本人たちも気づいていないからです。
本当に身体に良いものとは、言ってみれば10年経過して振り返った時に
「そういえばここ10年大病をしていないな」といったようなものです。
すべて情報源を利用する
これは「真に頼れるひとつの測定方法というものは存在しない」ということを意味します。
直感 、個人の試行錯誤 、体験談、民間療法、伝統療法、専門家の意見、基礎研究、臨床研究、 疫学研究、メタ解析、システマティックレビュー、精密医療、機能性医学
一般の人であれば、左側に重心を置き、医療の専門家であれば右側に重心を置く傾向にあると思います。いずれにしても、多くの方がこの中の1~3つばかりを偏重して判断しているようにも見えます。素朴にこれらすべての情報源を参照しそれらをつなげて利用するという方法は模索できないものでしょうか?
いずれにしても、アルハカ家では効果を最大化させるために、個々の方法について理屈と経験で詰めていくと同時に、相乗効果と取りこぼしを防ぐ意味もこめて非常に多くの治療方法を試みています。
病院でもらったアリセプトを飲むだけのような簡易さと比べるまでもなく、非常に複雑で手間がかかる方法です。
介護で失う人生の時間や幸福と冷静に比べてみる
生命をつなぐという、自己の人格を保つということは本来投資コストで考える問題ではないことは明白です。しかし、費用対効果という点だけを取り出して考えたとしても、それがもたらしてくれる利益を真に理解するなら、中期の介護のほうがよっぽど労苦を伴うことも非常にはっきりとしています。
あれこれ調べたり理解することには、たしかに一朝一夕でできることではありません。家庭にはそれぞれの事情があるため十把一絡げには言えませんが、しかし自分がやってみて、実際のプログラムへ取り組みは、けして一般の方ができないようなほどの手間や努力ではありません。
個人で適正化
やはり大きな課題としては、これが正式なリコード法に参加するのであればある程度にはシステム化されているため、個人の努力が最小限に抑えられています。
しかし、現時点では、リコード法はアメリカでさえ始まったばかりなので、それらのプログラムが普及されるまでは、個人でそういった調整や適正化を補っていかなければなりません。
次の記事
次の記事は説教臭くて申し訳ないのですが、まともなサポート体制がない中で、リコード法を実行するには理解が重要な鍵になります。
「信頼」というファクターはリコード法を実行する上でさほど重要ではありません。むしろ都合の良い信頼は「責任転嫁」や「他人任せ」など実行の妨げになることもあります。