書籍『意識と根本的現実』フィリップ・ゴフ 2017年

形而上学、神、ID説、目的論意識・クオリア・自由意志

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Consciousness and Fundamental Reality

心の哲学 シリーズ編集者 デビッド・J・チャルマーズ(ニューヨーク大学

エマのために

目次

  • 謝辞
  • 1. 意識の現実
  • 1.1 大局観
  • 1.1.1 意識のデータ
  • 1.1.2 科学と形而上学
  • 1.1.3 物理学の哲学的基礎
  • 1.2 物理主義とラッセル的単一論
  • 1.2.1 物理主義
  • 1.2.2 ラッセル的単一論
  • 第1部 物理主義に反対して
  • 2. 物理主義とは何か?
  • 2.1 物理性の本質
  • 2.1.1 物理的性質のアプリオリな定義とアポステリオリな定義
  • 2.1.2 ヘンペルのジレンマとそれに対する物理学に基づく反論
  • 2.1.3 純粋な物理主義
  • 2.1.4 自然主義と価値を伴う因果説明
  • 2.1.5 事後的な物理性の定義に反対して
  • 2.1.6 物理性と物質性の定義
  • 2.2 根本性の本質
  • 2.2.1 構成的な根拠付けとフリーランチの制約
  • 2.2.2 分析による根拠付け
  • 2.2.3 物理実在論の根拠
  • 2.2.4 根本性に関する根拠の代替案
  • 2.2.4.1 心の哲学における根本性に関する根拠
  • 2.2.4.2 形而上学における根本性に関する根拠
  • 3. 知識論的証明
  • 3.1 白黒メアリー
  • 3.2 知識論的証明への応答
  • 3.2.1 妥協のない応答
  • 3.2.2命題ではない知識への応答
  • 3.2.3 新しい真理/古い性質への応答
  • 3.3 透明性と不透明性:物語の教訓
  • 4. 想像可能性の証明
  • 4.1 想像可能性の論拠
  • 4.1.1 幽霊とゾンビ
  • 4.1.2 想像可能性の明確化
  • 4.2 タイプAとタイプBの物理実在論
  • 4.3 想像可能性から可能性への移行
  • 4.3.1 二次元の想像可能性の原則
  • 4.3.2 二次元の想像可能性原理に反対して
  • 4.3.3 透明性の想像可能性原理
  • 5. 啓示と透明性の論拠
  • 5.1 啓示と透明性
  • 5.2 啓示の事例
  • 5.3 物理主義は超正当化を説明できるか?
  • 5.4 完全な啓示と部分的な啓示
  • 5.5 想像可能性の議論と透明性の議論
  • 5.6 二元的な彫刻の反論
  • パート II ラッセル的単一論:代替案
  • 6. エレガントな解決策
  • 6.1 不純な物理主義とラッセル的単一論
  • 6.1.1 厳格性の問題
  • 6.1.2 因果構造主義に対する反対意見
  • 6.1.3 不純物理主義の紹介
  • 6.1.4 ラッセル的一元論の紹介
  • 6.1.5 ラッセル的一元論と物理主義の区別
  • 6.1.6 物理主義に対する透明性論証
  • 6.2 さまざまなラッセル的一元論
  • 6.2.1 ラッセル的一元論の構成論的および創発論的形態
  • 6.2.2 因果的排除問題
  • 6.2.3 汎質論
  • 6.2.4 有望な見解
  • 7. 汎心論対汎原心理論と主観総和問題
  • 7.1 現象学主義の脅威
  • 7.2 汎心論の単純性に関する議論
  • 7.3 主観の総和問題
  • 7.3.1 ジェームズの反主観総和論
  • 7.3.2 主観総和の想定可能性に関する反論
  • 7.3.2.1 反主観的総和説の論拠
  • 7.3.2.2 融合説と反主観的総和説の論拠
  • 7.3.2.3 無知の反論
  • 7.3.2.4 意識+の反論
  • 7.3.2.5 空間的関係の反論
  • 7.3.2.6 ギャップは永遠に存在する
  • 7.3.3 コールマンの反主題総和論
  • 8. トップダウン的組み合わせの問題
  • 8.1 パレットの問題
  • 8.1.1 強いパレットの問題
  • 8.1.2 穏やかなパレットの問題
  • 8.2 構造的不一致の問題
  • 8.3 主題の還元不可能性の問題
  • 9. 意識のある宇宙
  • 9.1 包摂による接地
  • 9.1.1 経験の包摂による接地
  • 9.1.2 色相、彩度、明度の包摂による接地
  • 9.1.3 状態の性質の包摂による接地
  • 9.1.4 空間の領域を空間の全体に包摂することによる接地
  • 9.1.5 「側面」とは何か?
  • 9.1.6 分析なしのフリーランチ
  • 9.2 主題の包摂と分解問題
  • 9.3 構成的なコスモサイキズム
  • 9.3.1 コスモサイキズムは粗野な法を必要とするか?
  • 9.3.2 啓示の論拠
  • 9.3.3 宇宙との思考の共有
  • 9.4 創発か構成か?
  • 9.5 疑わしげな視線
  • 10. 分析的現象学:形而上学的宣言
  • 10.1 現代形而上学の現状
  • 10.2 形而上学の進むべき道
  • 10.3 現在主義の現象学的論拠
  • 10.4 分析現象学
  • 参考文献 — 索引

各章の短い要約

第1章:意識の実在性(The Reality of Consciousness)

本書は意識の問題、特に物理的世界と意識的マインドがいかに統合されるかを探求する。著者は、現象的意識の存在は、あらゆる理論が適切に説明すべき確固たる事実であると主張する。科学革命以降、物理学は世界の因果構造を数学的に記述することに成功したが、それは現実の完全な記述ではない。物理主義とラッセル的一元論という二つの見解を提示し、前半で物理主義を批判し、後半でラッセル的一元論を探求する。意識の非還元性を認めながらも世界の統一的な見方を構築することが目標である。

第2章:物理主義とは何か(What Is Physicalism?)

物理主義の定義について探求する章。物理主義とは基本的な現実が完全に物理的であるという見解だが、「物理的」とは何か、また「基本的」とは何かを明確にする必要がある。物理的なものの定義には先験的定義と後験的定義があり、著者は先験的定義を支持する。「純粋物理主義」は基本的現実が物理学の数学的・法則的語彙で完全に把握できるという見解。さらに基本性の概念を「根拠づけ」として理解し、「分析による根拠づけ」を詳しく説明する。これにより物理主義を「すべての実質的事実は、狭い意味で物理的な事実か、または自律的な事実によって構成的に根拠づけられている」と定義する。

第3章:知識論証(The Knowledge Argument)

フランク・ジャクソンの「メアリーの部屋」の思考実験を用いた知識論証を検討する。白黒の部屋で育ち、色視覚に関する物理科学をすべて知っているメアリーが、初めて赤を見たとき新しい知識を得るという事例。この論証は物理的事実と経験的事実の間に認識論的ギャップがあることを示すが、このギャップが形而上学的ギャップを意味するかは別問題である。著者は「新しい真理/古い性質」という応答を検討し、この認識論的ギャップは物理主義を直接反駁するのではなく、現象的概念の透明性の問題に依存していると論じる。現象的概念が透明でなければ、知識論証は物理主義に対する脅威とはならない。

第4章:想像可能性論証(The Conceivability Argument)

デイヴィッド・チャーマーズによる想像可能性論証を検討する。「ゾンビ」(物理的には人間と同一だが意識を欠く存在)が想像可能であるなら、物理的事実は意識を必然化しないため物理主義は偽だという論証。著者はチャーマーズの二次元的意味論の枠組みを批判し、代わりに透明性想像可能性原理(TCP)を提案する。透明な概念で考えられる命題が想像可能であるなら、それは可能であるという原理。この原理は物理主義への反論となりうるが、現象的概念が透明であるという前提に依存している。著者は、物理主義者が現象的概念の不透明性を主張することで反論できる可能性を認めつつ、次章で現象的透明性を擁護する。

第5章:啓示と透明性論証(Revelation and the Transparency Argument)

啓示(Revelation)の概念を提示する。意識状態に注意を向けるとき、その状態の完全な本性が現れ、その状態が確実に存在することが分かるという考え。著者はこれが内省的知識の超正当化(非常に高い確実性)を説明する最善の理論であると論じる。啓示の真理から、現象的概念は透明であるという論証を展開し、これが物理主義への強力な反論となる。もし現象的概念が透明で、かつ意識状態が物理状態ならば、現象的概念は対象が物理状態であることを明らかにするはずだが、そうではない。物理主義者が採用しうる「二重彫り」(同じ性質の本質を捉える概念的に異なる二つの方法)という見解の問題点も指摘する。

第6章:エレガントな解決策(The Elegant Solution)

純粋物理主義の問題点として、物理的説明が因果構造のみを記述し、物質の内在的本性を捉えていないことを指摘する。これを「質素さの問題」と呼ぶ。この問題を回避するために不純物理主義(物質に物理学で捉えられない深い本性があるとする見解)とラッセル的一元論を導入する。ラッセル的一元論は物質の深い本性が意識を説明するという見解で、汎心論的原-現象的なバージョンがある。これらはさらに構成的創発的なバージョンに分けられる。構成的ラッセル的一元論は「因果排除問題」を解決できる点で優れている。しかし全体として七つの主要な形態があり、どれも意識のための場所を見つける可能性を提供する。

第7章:汎心論 対 原-汎心論と主体-総和問題(Panpsychism versus Panprotopsychism and the Subject-Summing Problem)

汎心論と原-汎心論の比較、および「結合問題」の検討。原-汎心論は「物自体主義」(人間が現実の深い本性を理解できないという見解)に陥る恐れがある一方、汎心論は単純性の観点から優れている。しかし汎心論は「主体-総和問題」に直面する:多くの「小さな」意識主体がどのように「大きな」意識主体を形成するのかという問題。著者はこの問題への様々なアプローチを検討し、空間関係の深い本性に関する我々の無知が問題を説明する可能性を示唆する。意識を持つミクロ主体が物理学が説明しない特別な空間関係で結びついて新しい主体を生み出す可能性があり、これは汎心論にとって解決不可能な問題ではないと論じる。

第8章:トップダウン結合問題(Top–Down Combination Problems)

ラッセル的一元論が直面する「トップダウン結合問題」を検討する章。「パレット問題」:比較的少数の基本的性質から意識の豊かな多様性がいかに生じるか。「構造的不一致問題」:脳と意識の構造が異なるように見える問題。「主体不可還元性問題」:意識主体の存在を、その主体を含まない事実に分析できないという問題。特に最後の問題が構成的ラッセル的一元論にとって致命的だと指摘する。意識主体が還元不可能であるなら、それはミクロレベルの事実によって分析的に根拠づけられないため、構成的ラッセル的一元論は不可能に見える。これは新しい形の構成的根拠づけが必要であることを示唆している。

第9章:意識ある宇宙(A Conscious Universe)

「包摂による根拠づけ」という新しい形の構成的根拠づけを提案する。これはX(全体)がYの側面であるという関係によってYを根拠づける方法。この考えを用いて「構成的宇宙心理主義」を発展させる:宇宙は根本的に統一された意識主体であり、人間や動物の意識主体はその側面である。これにより主体不可還元性問題を解決できる可能性がある。さらに「法則的一般性」(すべての因果的に説明可能な出来事は、生物と無生物の両方を支配する一般法則によって説明できる)と「力実在論」(法則は根本的実体の因果的力に根拠づけられている)から、基本的現実は微視的レベルか宇宙レベルのいずれかにあるという論証を展開する。意識主体の還元不可能性を考慮すると、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる。

第10章:分析的現象学:形而上学的宣言(Analytic Phenomenology: A Metaphysical Manifesto)

現代形而上学の状況を評価し、新しい方法論を提案する章。形而上学が進展していないという懸念に対し、科学と哲学の歴史的関係を検討する。デイヴィッド・ルイスの方法(常識から始め理論的美徳に訴える)では合意に達しないことを指摘し、意識という確固たるデータを活用する「分析的現象学」を提案する。この方法は(1)物質世界の因果構造に関する成熟した物理科学の知見と(2)各人が意識の本性に持つ直接的一人称アクセスという二つの異なるデータ源を真剣に受け止める。この方法論の例として現在主義(現在のみが存在する)への現象学的論証を提示する。著者は「ガリレオ後の形而上学」はまだ始まったばかりであり、この方法による合意の可能性に期待を表明している。

ビギナー向け解説(高校生・大学生レベル)

「意識とは何か」という問いは、人類が長い間考えてきた最も深い謎の一つである。私たちは自分自身の意識を一人称視点から直接体験しているが、他者の意識は間接的にしか知ることができない。さらに、科学が進歩した現代においても、なぜ物質から意識が生じるのか、あるいはそもそも物質と意識がどう関係しているのかという問題は未解決のままである。

フィリップ・ゴフの著書「Consciousness and Fundamental Reality(意識と根本的現実)」は、この難問に正面から取り組んでいる。彼の議論を順を追って見ていこう。

まず、私たちの常識的な世界観から始めてみよう。現代社会では多くの人が「物理主義」と呼ばれる考え方を暗黙のうちに受け入れている。物理主義とは、世界のすべてが究極的には物理学で説明できる物質でできているという見方である。この見方によれば、私たちの意識も脳の物理的活動から生じるものであり、脳科学が進歩すれば、いつか完全に説明できるようになるはずだということになる。

しかし、ゴフは「意識」という現象がこの物理主義的な説明に収まりきらないと考えている。なぜだろうか?

想像してみてほしい。あなたが赤いリンゴを見ているとき、脳内では特定のニューロンが特定のパターンで発火している。科学者はこの発火パターンを詳細に調べることができる。しかし、あなたが実際に体験している「赤さの感覚」、つまり「赤を見るとはどのような感じか」という体験自体は、第三者が客観的に観察できるものではない。これが「現象的意識」と呼ばれるものである。

ゴフは「意識制約」という原則を提案している。これは「現象的意識の存在は疑いようのない事実であり、どんな適切な現実理論もこれを認めなければならない」という考えである。私は自分の頭が痛いという感覚を直接知っている。そして、この感覚の存在は外部世界の存在よりも確実だと言えるだろう。外部世界は私の錯覚かもしれないが、痛みの感覚自体は確かに存在している。

では、物理主義はなぜ意識を説明するのが難しいのだろうか?

第一に「知識論証」と呼ばれる問題がある。これはフランク・ジャクソンが考案した「メアリーの部屋」という思考実験に基づいている。メアリーは生まれてから白黒の部屋で育ち、色に関するすべての物理的・神経科学的知識を学んだ科学者である。彼女は赤色がどのような波長の光で、それが網膜にどう影響し、脳内でどのような反応を引き起こすかをすべて知っている。しかし、ある日彼女が部屋を出て初めて赤いリンゴを見たとき、彼女は新しいことを学ぶ。それは「赤を見るとはどのような感じか」という経験的知識である。

この思考実験は、物理的知識がいくら完全でも、意識的経験の「質感」を捉えきれないことを示唆している。物理学や神経科学が教えてくれるのは、世界の因果的な構造や関係性だけであり、「赤を見る感覚」そのものではないのである。

第二に「想像可能性論証」と呼ばれる問題がある。私たちは「哲学的ゾンビ」を想像することができる。これは物理的には私たちと全く同じだが、意識を持たない存在である。このゾンビは外見上は普通の人間と同じように振る舞い、痛みについて話し、「痛い」と言うが、実際には痛みの感覚を持たない。もし物理主義が正しければ、物理的に同一の存在が意識を持つ場合と持たない場合があることは不可能なはずだ。しかし、このようなゾンビが想像可能であるという事実は、意識が単なる物理的事実以上のものであることを示唆している。

これらの論証は、物理主義が意識を説明するのに不十分であることを示している。では、どのような代替案があるだろうか?

ゴフが提案するのは「ラッセル的一元論」である。これは哲学者バートランド・ラッセルにちなんで名付けられた立場で、次の二つの主要な主張からなる:

  • 1. 物理科学は物質の「関係的な性質」しか教えてくれない
  • 2. 物質の「内的本質」が意識を説明する鍵である

第一の主張を詳しく見てみよう。物理学が教えてくれるのは、物質がどのように振る舞うかという情報だけだ。例えば、電子について物理学が教えてくれるのは「負の電荷を持ち、他の電子を反発し、陽子を引きつける」といった情報だけだ。電子が「内的に」どのようなものかについては何も教えてくれない。

これは17世紀のガリレオ・ガリレイにまで遡る考え方である。ガリレオは科学革命の基礎を築くために、自然界から「感覚的性質」を取り除き、数学で記述できる「一次性質」(形、大きさ、運動など)だけを科学の対象とした。色や音、匂いといった「二次性質」は主観的なものとして科学の領域から除外された。このアプローチは科学の大きな成功をもたらしたが、同時に意識の問題を解決するのが難しくなった。

第二の主張は、物質には物理学が捉えられない「内的な本質」があり、それこそが意識を説明する鍵だというものである。物理学は物質の「外的な関係性」を記述するが、その「内的な本質」については沈黙している。ゴフはこの「内的本質」が意識に関連していると提案する。

ラッセル的一元論にはいくつかのバリエーションがある。その中でゴフが検討する主要な立場は「汎心論」である。汎心論は「すべての物質は何らかの原始的な形の意識を持つ」という考えである。これは一見すると奇妙に聞こえるかもしれない。「電子が意識を持つなんて馬鹿げている」と思うかもしれない。

しかし、ゴフは汎心論が実は最もシンプルで統一的な世界観を提供すると主張する。物理学は物質の関係的構造だけを教えてくれるが、その物質の内的本質については何も言わない。私たちが物質の内的本質について直接知っているのは、自分自身の意識だけだ。もし同様の内的本質がすべての物質に存在するのであれば、最もシンプルな仮説は「すべての物質は何らかの意識を持つ」というものになる。

ここで自然な疑問が生じる。「もし素粒子が意識を持つなら、なぜ私はそれを感じることができないのか?」「もし私の脳内の無数の粒子がそれぞれ意識を持つなら、なぜ私は統一された一つの意識しか感じないのか?」

これが「結合問題」と呼ばれるものである。特に「主体-総和問題」として知られる問題である。多くの小さな意識主体(例えば、脳内の素粒子)がどのようにして一つの大きな意識主体(私の意識)を形成するのか。これは汎心論にとって大きな課題である。

ゴフはこの問題に対して様々なアプローチを検討するが、完全に満足のいく解決策を見つけることはできない。そして、さらに深刻な問題があることに気づく。それが「主体不可還元性問題」である。

「私」という意識主体は、「私」を含まない他の要素に分解・還元できないように思われる。つまり、「私が存在する」ということを「私」を含まない事実の集まりとして説明することはできないと思われる。

これは「構成的汎心論」(小さな意識主体から大きな意識主体が構成されるという立場)にとって致命的な問題である。もし意識主体が還元不可能なら、それはより基本的な要素から「構成」されているという立場と矛盾する。

この難問を解決するために、ゴフは全く新しいアプローチを提案する。「包摂による根拠づけ」という概念である。これは通常の「部分から全体を構成する」という考え方を逆転させる。全体(X)が部分(Y)を「包含」し、部分は全体の一側面にすぎないと考える。

例えば、あなたの全体的な視覚経験は、赤や青の経験といった部分的な経験を「包含」している。赤の経験は全体的な視覚経験の一側面であり、全体的な視覚経験なしには存在できない。

音楽の和音と個々の音の関係では、ピアノでCメジャーの和音(ドミソ)を弾くとき、その和音の経験は個々の音(ド、ミ、ソ)の経験を包含している。ド、ミ、ソという個別の音の経験は、和音全体の経験の側面であり、和音全体なしには存在し得ない。

絵画の全体と細部で考えてみよう。モナリザの絵全体は、微笑み、背景の風景、服の質感などの細部を包含している。微笑みはモナリザ全体の一側面であり、絵画全体なしには存在し得ない。

同様に、ゴフは意識主体の関係もこのように理解できると提案する。

この考え方を使ってゴフは「構成的宇宙心理主義」を提案する。これは「宇宙全体が一つの統一された意識主体であり、人間や動物の意識はその宇宙意識の側面である」という見解である私たちの意識は宇宙意識から構成されるのではなく、宇宙意識の「側面」として存在する。

これは驚くべき主張だが、ゴフは科学的根拠も提示している。まず「法則的一般性」から考えてみよう。これは科学的観察に基づく主張である。私たちの宇宙では、あらゆる物事が同じ基本的な物理法則に従っていることが観察されている。例えば重力の法則は、りんごが木から落ちるという日常的な現象にも、惑星が太陽の周りを回るという天文現象にも同じように適用される。

さらに重要なのは、生物と無生物の間に基本法則の違いがないという点である。かつて科学者や哲学者の中には、生物には特別な「生命力」があり、無生物とは全く異なる法則に従うと考える人もいた。しかし現代科学は、生物の体内で起こる化学反応も、無生物の世界で起こる化学反応も、基本的には同じ物理法則に従うことを示している。

つまり、脳内で起こる複雑な反応も、最終的には素粒子の相互作用として説明できるということである。生物だけに適用される特別な物理法則は発見されていない。これが「法則的一般性」の意味である。

次に「力実在論」について考えよう。これは物理法則の性質についての哲学的立場である。物理法則とは何だろうか?例えば、「すべての物体は互いに引き合う」という重力の法則はなぜ成り立つのだろうか?

「力実在論」の立場では、この法則は宇宙の中のある根本的な実体(物質や場など)が持つ本質的な「力」や「能力」に根ざしていると考える。言い換えれば、物理法則は単なる規則性や偶然の一致ではなく、実体が持つ本質的な性質から生じるというのである。

この二つを組み合わせると、興味深い結論が導かれる。もし宇宙のすべての出来事が同じ基本法則に従っており(法則的一般性)、その法則が何らかの根本的実体の能力に基づいている(力実在論)なら、宇宙の中にそのような根本的な実体があるはずだ。

では、その根本的実体は何だろうか?ゴフによれば、候補は二つしかない:

  • 1. 微視的レベル(素粒子)
  • 2. 宇宙全体(宇宙そのもの)

なぜこの二つだけなのだろうか?それは法則的一般性から来ている。もし基本法則がすべての場所、すべての時間に適用されるなら、その法則を支える根本的実体もまた、宇宙のすべての場所に存在しているはずだ。このような普遍的な存在は、微小だが宇宙のあらゆる場所に存在する素粒子か、あるいは宇宙全体そのものしかありえない。

例えば、人間の脳だけに存在する特別な実体が宇宙の基本法則を支えているとは考えられない。なぜなら、人間の脳は宇宙の一部に過ぎず、宇宙のあらゆる場所・時間に適用される法則を説明できないからだ。

ここまでの議論をまとめると:

  • 1. 宇宙のすべての出来事は同じ基本法則に従う(法則的一般性)
  • 2. 物理法則は根本的実体の本質的能力に基づいている(力実在論)
  • 3. したがって、そのような根本的実体は宇宙のあらゆる場所に存在しているはずだ
  • 4. 宇宙のあらゆる場所に存在し得るのは素粒子か宇宙全体だけである
  • 5. よって、根本的実体は素粒子か宇宙全体のいずれかでなければならない

では最後のパート「意識主体の還元不可能性を認めるなら、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる」についてである。

これまでの章でゴフは「意識主体の還元不可能性」について論じていた。これは「私」という意識主体は、「私」を含まない他の要素に分解・還元できないという考えである。例えば、「私が存在する」という事実は、単に「特定の粒子が特定の配置で存在する」という事実には還元できないという主張である。

もしこれが正しいなら、素粒子が根本的実体であるという選択肢は難しくなる。なぜなら、素粒子から人間の意識主体を構成しようとすると、「主体還元不可能性」の問題にぶつかるからだ。

残るのは宇宙全体が根本的実体であるという選択肢である。この場合、人間の意識主体は宇宙全体の側面や表現として存在することになる。これが「宇宙心理主義」と呼ばれる立場である。

つまり、ゴフの論理は以下のようになる:

  • 1. 根本的実体は素粒子か宇宙全体のいずれかである
  • 2. 意識主体の還元不可能性により、素粒子から意識主体を構成することはできない
  • 3. したがって、宇宙全体が根本的実体であり、意識主体はその側面である(宇宙心理主義)

この考え方は、私たちの直感に反するかもしれない。しかし、もし意識主体が還元不可能であり、かつ物理法則が普遍的で根本的実体に基づいているなら、宇宙心理主義は論理的帰結として導かれるというのがゴフの主張である。

簡単に言えば、「素粒子から意識を作ることはできない」「しかし意識は存在する」「法則は普遍的である」という三つの前提から、「宇宙全体が意識を持ち、私たちの意識はその側面である」という結論が導かれる。

ここで疑問が生じるかもしれない。「宇宙が意識を持つとは、具体的にどういうことなのか?」「宇宙意識はどのような経験をしているのか?」

これらの問いに明確に答えることは難しいが、ゴフの提案は「宇宙全体には統一された意識があり、私たちの個別の意識はその宇宙意識の側面である」というものである。宇宙意識は私たちの意識よりもはるかに豊かで複雑なものかもしれないが、同時に私たちの意識を「包含」している。

この見解は確かに直感に反するかもしれないが、意識と物質の関係という古くて難しい問題に対する新たなアプローチとして検討に値する。意識が物質から還元的に説明できるのではなく、むしろ物質と意識が同じ根本的現実の異なる側面であるという考えは、心身問題に関する私たちの思考を根本から変える可能性を秘めている。

ゴフの提案する宇宙心理主義は、西洋哲学では異端的かもしれないが、東洋の非二元論的伝統(例えばアドヴァイタ・ヴェーダーンタ)と共鳴する部分がある。しかし、ゴフはあくまで分析哲学の方法論を用いてこの見解を擁護している。

最後に、ゴフはこれらの考察を踏まえて形而上学の新しい方法論「分析的現象学」を提案している。これは意識の直接的経験を重要なデータとして扱い、科学的知見とともに形而上学的探究の基礎とするアプローチである。

物理学や神経科学が教えてくれる世界の因果的構造は重要である。しかし、それだけでは意識という現象を完全に説明することはできない。私たちが意識について一人称視点から知っていることも、同様に重要なデータなのである。この二つのデータ源を組み合わせることで、より完全な世界理解に近づけるというのがゴフの主張である。

ゴフの見解は「純粋物理主義」から「汎心論」を経て「宇宙心理主義」へと進化している。これは意識の問題を真剣に考えれば考えるほど、より抜本的な世界観の転換が必要になることを示唆している。

物理主義では意識の存在を説明できず、汎心論では意識主体の統合を説明できない。そこで最終的に宇宙心理主義にたどり着く。この旅は、意識という謎に真摯に向き合うとき、私たちの世界観がいかに変容しうるかを示している。

意識と物質、心と体の関係は依然として深い謎に包まれているが、ゴフの提案する宇宙心理主義は、この謎に取り組むための新しい視点を提供してくれる。私たちは宇宙の一部であり、私たちの意識も宇宙意識の一部である。この視点は私たちと世界の関係についての根本的な再考を促すものであり、今後の哲学的・科学的探究において重要な役割を果たす可能性がある。

物理学から見た「力実在論」の正当性について

「力実在論」(Power Realism)が物理学的に正当化できるかという問いは非常に重要である。この問いを考えるには、まず「力実在論」が具体的に何を主張しているのかを明確にし、それが現代物理学の知見とどう関係するのかを検討する必要がある。

ゴフの言う「力実在論」とは、「自然法則は単なる規則性の記述ではなく、物質が持つ本質的な力や能力に根ざしている」という立場である。例えば、「すべての質量を持つ物体は互いに引き合う」という重力の法則は、単に観察された規則性を記述しているだけではなく、質量を持つ物体が実際に「引き合う力」を持っているからこそ成り立つという考え方である。

これに対立する見解は「ヒューム主義」(Humeanism)と呼ばれる。デイヴィッド・ヒュームの思想に由来するこの立場では、自然法則は単に観察された規則性の記述に過ぎず、物質に内在する「力」や「必然性」は存在しないと考える。「りんごが木から落ちる」という現象は常に観察されるが、それは単なる「常に伴う継起」であり、必然的な因果関係ではないというのである。

では、現代物理学はこの哲学的対立にどのような光を当てるだろうか?

現代物理学、特に量子力学と相対性理論は、自然界の基本法則についての私たちの理解を大きく変えた。しかし、これらの理論は「力実在論」と「ヒューム主義」のどちらを支持するものだろうか?

量子力学の標準的な解釈では、物理系の状態は波動関数で記述され、その時間発展はシュレーディンガー方程式に従う。この方程式は決定論的であり、系の将来の状態を予測する。しかし、測定の際には波動関数の「崩壊」が生じ、確率的な結果が得られる。

この量子力学の枠組みは、物質に内在する「力」や「能力」の存在を明確に支持するものでも否定するものでもない。むしろ、古典的な「力」の概念そのものを変容させ、場や相互作用という概念に置き換えている。

相対性理論に目を向けると、アインシュタインは重力を「力」としてではなく、時空の歪みとして再解釈した。物体が互いに引き合うのは、物体が時空を歪め、その歪んだ時空に沿って物体が移動するからだと説明する。これは古典的な「力」の概念を変容させるものだが、根本的には「時空の幾何学的性質」という新たな本質的性質を導入したとも言える。

現代物理学は、古典的な意味での「力」の概念を超えて、より抽象的で数学的な「場」「相互作用」「対称性」「時空の幾何学」といった概念を用いて自然界を記述する。これらの概念は「力実在論」と矛盾するわけではなく、むしろ「力」や「能力」がどのような形で存在するかについての理解を深めたと言えるだろう。

しかし、物理学は「法則はなぜそのようなものであるのか」という究極の問いに答えることはできない。例えば、「なぜシュレーディンガー方程式が成り立つのか」「なぜ自然界には特定の対称性が存在するのか」といった問いは、物理学の範囲を超えている。

このため、「力実在論」対「ヒューム主義」という哲学的対立は、最終的には物理学だけでは解決できない形而上学的問題であると言える。物理学は自然界の振る舞いを記述し予測することはできるが、その根底にある「なぜ」という問いには答えられないのである。

ゴフの「力実在論」が持つ強みは、宇宙の規則性に対する説明を提供することである。もし自然法則が単なる偶然の一致であるなら、なぜ宇宙はこれほど規則的なのか?なぜ同じ法則が時間と空間を超えて普遍的に成り立つのか?「力実在論」は、これらの規則性が物質の本質的な性質に根ざしているからだと答える。

一方、ヒューム主義者は、そのような説明を求めること自体が誤りだと反論するかもしれない。最終的には「そういうものだから」という答え以上のものはなく、それ以上の説明を求めることは無限後退に陥るというのである。

物理学者の中にも、この哲学的問題についての見解は分かれている。例えば、リチャード・ファインマンは「なぜ自然はこのような法則を持つのか?それは知らない。知る方法もない」と述べ、一種のヒューム主義的な立場を取っているように見える。一方、アルバート・アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という有名な言葉は、より実在論的な立場を示唆している。

結論として、「力実在論」が物理学的に完全に正当化されるとは言えないものの、それは物理学と矛盾するものでもない。むしろ、物理学が記述する宇宙の規則性に対して、より深い形而上学的説明を提供する試みと言えるだろう。そして、もしこの立場を採用するなら、ゴフが論じるように、その論理的帰結として宇宙心理主義という立場に導かれる可能性がある。

ただし、科学的な立場としては、力実在論もヒューム主義も検証不可能な形而上学的想定であることを認識しておく必要がある。最終的には、どちらの立場を採用するかは、科学的証拠だけでなく、理論的なシンプルさや説明力、そして私たちの直観なども含めた総合的な判断に基づくことになるだろう。

謝辞

まず、私の知的成長において特に重要な役割を果たしてくれた3人の人物に、特に感謝の意を表したい。ガレン・ストローソン、デヴィッド・パピノー、デヴィッド・チャーマーズである。

私は哲学の学部生として最初の年から、物理主義的な意識の説明の不十分さについて完全に確信していた。しかし、私と同じ考えを持つ人を見つけることはできず、学部での3年間の勉強を終える頃には、物理主義に反対する信念を諦めようとしていた。しかし、すべてはレディング大学大学院の学生として最初の週に変わった。ガレン・ストローソン教授は、私がそれまで教えられてきたことがすべて信じられないことだと考えた。意識の還元不可能性、意識における思考の基礎付け、自然的な必然性の現実性などである。ガレンは私に考えられないことを考えるように促し、この15年間の会話は私の知的成長に極めて重要なものとなった。

ガレンが私の知的成長に重要な存在であったのは、私たちの意見が一致したからである。一方、デイヴィッド・パピノーが重要な存在であったのは、意見が一致しなかったからである。デイビッドと出会う前は、私は基本的に物理主義者は狂気じみた意識の否定論者だと考えていた。デイビッドは、彼の見解であるタイプBの物理主義の動機について深い理解を与えてくれ、また数年にわたって、それに対する反論を展開する手助けをしてくれた。これらの反論は、本書の前半の大半を占めている。デイビッドは、私の哲学的な人生において、常に知恵と指針を与えてくれる存在である。

私は博士課程の終わり頃、ツーソンとシドニーでの学会で初めてデイヴィッド・チャーマーズに会った。そこで私たちはすぐに、物理主義に対する反論を最も効果的に展開する方法について議論を始めた。これほど議論を戦わせるのにふさわしい人物には、これまで出会ったことがない。議論を始める前には、まず深呼吸が必要だ。すべてがあっという間に起こるので、長く間を置くと、デイヴィッドは先に進んでしまう。しかし、誰よりも優れた(3か月間かけて論文を書き上げた後に、最初からやり直さざるを得なくなるような)破壊的な反論を思いつく人物である。本書の議論は、デイヴの鋭い批判がなければ、かなり弱くなっていたことだろう。また、本書のタイトルを思いついてくれたデイヴにも感謝したい。

私は2014年の冬学期にリバプール大学で働いていたサバティカル期間中にこの本を書き始めた。前学期に私が担当した3年目の心の哲学コースで、この本の多くのアイデアを提示した後だった(ギャレット・マインド、グレッグ・ミラー、ハット・ミルステッド、そしてそのコースに参加したすべての学生に感謝している)。翌年度(2014-15年)には、私はブダペストの中央ヨーロッパ大学で現在の職に就き、幸運にも最初の学期は、私の著書原稿に関するコースを1つだけ教えることができた。このような機会を与えてくれたハノフ・ベンヤミ氏、そして(同コースを共同で担当した)ハワード・ロビンソン氏、メル・フレイタス氏、そして参加したすべての学生たちに感謝したい。また、第9章の論点のひとつについて、その年の進行中のセッションに貢献してくれたティム・クレイン、デビッド・ピット、そしてCEUの同僚たちにも感謝したい。

2015年7月に、最初の原稿をオックスフォード大学出版局に提出した。 ゲイリー・リーとアダム・ポーツという、これ以上ないほどふさわしい査読者を得ることができた。2人とも、私が主張する型破りな見解に対しては柔軟な姿勢で臨み、論点の厳密な検証も行なってくれた。彼らの広範かつ洞察に満ちたコメントのおかげで、本書は大幅に改善された。また、オックスフォード大学出版局のピーター・オーリン氏とアンドリュー・ウォード氏には、アドバイスと編集上の指導をいただいたことに感謝したい。また、制作プロセスを管理してくれたシャリニ・B氏、索引をまとめてくれたニーノ・カディッチ氏、索引作成で追加のサポートをしてくれたギャレット・マインド氏にも感謝したい。

2016年4月にLeeとPautzからコメントを受け取った後、私は、第9章の終わりと第10章の重要な議論の改訂版を、ジャン・ニコド研究所(Uriah Kriegel運営)の「Monism」会議、バーミンガム大学(Naomi ThompsonとDarragh Byrne運営)の「Consciousness and Grounding」 バーミンガム大学(主催:ナオミ・トンプソンとダラー・バーン)で開催された「意識と根拠付け」会議、およびケンブリッジ大学(主催:ティム・クレーン)で開催されたテンプルトン基金助成の「心の哲学における新たな方向性」プロジェクトにおける講演で発表した。特に有益だったのは、ジョナサン・シャファー、 ジョナサン・シャファー、ウリア・クリーゲル、テリー・ホーガン、カイ・ウェガー、デイビッド・パピノー、ガレン・ストローソン、デイビッド・チャーマーズ、デイビッド・ピット、エマ・ブロック、アンジェラ・メンデロヴィチ、ダラー・バーン、ティム・クレーン、カーティ・ファルカス、デイビッド・ブルジェ、ローラ・ゴウ、キット・ファイン、アレックス・グザンコウスキー、ウマロ・セティ、ジェームズ・タルタリア、ピーター・エプスタイン、ジョン・ヘンリー・テイラーのコメントは特に有益だった。原稿自体についても、Hedda Hassel Mørch、Sam Coleman、Tom McClelland、Torin Alter、Luke Roelofs、Miri Albahari、Itay Shani、Nino Kadić、Forest Schreik、Adrian David Nelson、Greg Miller、John Henry Taylorから非常に有益なコメントをいただいた。長い夏のハードワークを経て、2016年9月に最終原稿を提出した。

表紙にクリスチャン・マクラウド(http://www.christianmcleod.com/)の作品を推薦してくださったジェシカ・ウィルソン氏、そして「PERHAPS THE TERRACE OF THIS GARDEN OVERLOOKS ONLY THE LAKE OF OUR MINDS.」という作品を快く使用させてくださったクリスチャン氏に、心から感謝している。

本書の論旨を展開するにあたり、成長を続けるパンサイエンティストおよびラッセル的一元論者のコミュニティから、多大な支援と批判的関与をいただいた。ヘッダ・ハッセル・モーク、ルーク・ロエロフス、イタイ・シャニ、ビル・シーガー、パット・ルータス、トム・マクレランド、グレッグ・ミラー、ミリ・アルバハリ、ダーク・ペレブーム、長澤裕治、トリン・アルター、トム・ウィンフィールド、キース・テュラウスキー、カイ・ウェージャー、 グレッグ・ローゼンバーグ、マイケル・ブラウマー、マッテオ・グラッソ、ジュリオ・トノーニ、デビッド・スカービナ、アンジェラ・メンデロヴィチ、デビッド・ブルジェ、ゴデハルト・ブルントゥルプ、ルートヴィヒ・ヤスコラ、アレクサンダー・バック、ルートヴィヒ・ギアストル、そしてミュンヘン哲学学校の「Mind-Dust」グループの皆さん、そして特に私の友人であり戦友であるサム・コールマンに感謝する。また、物理主義の反対者たちとの活発な議論からも多くを学んだ。ジョン・ヘンリー・テイラー、ロバート・ハウエル、ロバート・カーク、フランク・ジャクソン、マイケル・タイ、カタリン・バログ、バリー・ローワー、デビッド・ローゼンタール、ダニエル・デネット、キース・フランキッシュ、アリッサ・ネイ、ブライアン・マクローリン、ニック・ハンフリーなどである。特に、私の宿敵(そして良き友人)であるエサ・ディアス=レオンには、多くを学んだ。そしてもちろん、この本を形作る多くの議論は、どちらのカテゴリーにもきれいに当てはまらない人々とのものであった。マルティナ・ニダ・リューメリン、ポール・コーツ、ジョナサン・シャファー、ヘレン・イェッター・チャペル、キット・ファイン、ハワード・ロビンソン、ジェシカ・ウィルソン、ポール・ノードホフ、ウリア・クリーゲル、ミシェル・モンタギュー、バリー・デイントン、ジョナサン・サイモンズ、ダニエル・ストルジャー、ジョン・ハイル、ベンジ・ヘリー、フランシス・ファロン、 トム・ウィンフィールド、ロブ・ホーヴェマン、ペーテル・ラウシェンベルガー、リンダ・ラザール、シャミク・ダスグプタ、そしてデイビッド・ピット。特に、これらのアイデアを練る手助けをしてくれただけでなく、私の職業人生を通じて、重要な指導者であり友人でもあった、ケイティ・ファルカスとティム・クレインには感謝している。

また、個人的なことではあるが、私の両親、兄弟姉妹のヘレン、クレア、サイモン、そして親しい友人であるジョン・ホートンとフィリップ・マッドからの支援と励ましに感謝している。サイモンとジョンとの心身問題に関する議論は、私の思想の発展に深く重要な意味をもたらした。

何よりも、妻であり同僚であり親友でもあるエマ・ブロックに感謝している。私たちはこの本のあらゆる側面について延々と話し合い、彼女の洞察力と鋭い批判は本全体に反映されている。とりわけ執筆の最終段階の恐ろしい1か月間、彼女の無条件のサポートがなければ、あと10年はかかっていたと思う。

1 意識の現実

心と物質は同じ世界に存在しているようには思えない。これが心身問題の本質である。空間を満たす固体は、目に見えない内面的な経験とは相容れないように思える。脳の神経処理は、第三者の科学的調査によって最もよく知られているが、心の主観的な一人称の視点は、内省によって最もよく知られている。これらの一見不調和なものが、単一の現実の統一された側面であることを、私たちはどのように理解すればよいのだろうか?

一つの選択肢は、心とは独立した物質の存在を否定することで、この衝突を完全に回避することである。これは心身問題に対する観念論的な解決策である。もう一つの選択肢は、心と物質はまったく異なるが、現実の等しく根本的な特徴であることを受け入れることである。これは心身問題に対する二元論的な解決策である。私は、観念論や二元論を可能性として排除すべきではないと考えている。しかし、意識の現実性も外界の観察者から独立した存在も否定しないような、自然に関する統一的な見方を持ちたいと考えるのは一見望ましいことである。

本書の目的は、反観念論一元論を理解することである。私は、現代の心の哲学において最も人気のある見解のひとつである物理主義と、物理主義に対する新しい急進的な代替案であるラッセル的一元論という2つの形態に焦点を当てる。本書の前半では、物理主義に対する反論を展開する。後半では、ラッセル的一元論の探究と擁護を行う。

この最初の章では、これらの見解をそれぞれ簡単に説明し、それらに対する私の主な主張の概要を述べる。しかし、その前に、私たちが扱う問題に対する私の基本的な方法論と「全体像」の視点について概説する。

1.1 大きな視点

1.1.1 意識のデータ

ある対象が意識を持つのは、それがそれであることが似合う何かがある場合、つまり、何らかの「内面的な生活」がある場合である。1 ウサギにとって、寒い、蹴られる、ナイフを突き刺されることは似合う。それとは対照的に、テーブルが冷たいとか、蹴られるとか、ナイフが刺さっているとか、そのようなことは何もない(少なくとも通常はそう考える)。2 テーブルの内側から見ると、テーブルであるようなことは何もない。この違いを、ウサギには意識があるがテーブルにはない、と表現する。

ここで定義された意識は、他の概念と区別するために「現象的意識」と呼ばれることもあるが、認知的に高度なものではないため、ヒツジやハムスターなどの人間以外の動物にそれを帰属させることにためらいを感じるかもしれない。この点において、「意識」の標準的な哲学上の定義は、科学や日常生活における一般的な意味とは異なっている。科学や日常生活では、自己認識や推論能力といった意味で「意識」という言葉が使われることが多い。ある意味では、ウサギは周囲の世界を認識しているが、その世界の一員としての自己について内省的に考えることができるかどうかは疑わしい。自己認識の欠如は、ウサギが豊かな内面的体験を楽しむことを妨げるものではない。したがって、ウサギは現象的な意味で「意識的」である。

「現象的な意識」は専門用語であるが、その特性は我々の世界に対する常識的な見方の一部である。ほとんどの人はハムスターであるような感覚があるが、岩や惑星であるような感覚はないと信じている。常識には曖昧な部分もある。ハエになることは何かしら似ていることがあるのだろうか?ハエが窓に何度もぶつかったとき、それは非常に粗野な形の苦痛やフラストレーションを経験しているのだろうか、それともハエはただのメカニズムであり、内面的な経験など一切ないのだろうか?このような問いに答えるのは容易ではないが、私たちがそれらを簡単に理解できるということは、内面的な生活、すなわち現象的意識を持つことが、私たちの常識的概念体系の不可欠な一部であることを示している。

現象的意識とは、特定の形をとる一般的な性質である。すなわち、痛み、不安、赤く見える、ガソリンの匂いがする、コーヒーの味がするといった経験の形である。現象的意識の特定の形は、意識状態、経験的特性、現象的特性などと呼ばれている。私はこれらの用語を互換的に使用する。そして、意識状態について考える際に用いる概念、つまり、それらがどのような感じであるか、あるいはそれらを持つことがどのようなものかという観点から考える際に用いる概念は、「現象的概念」として知られている。例えば、私が痛みを感じ、その痛みに注意を向け、それがどのような感じであるかという観点から考える場合、私は自分の痛みの現象的概念を形成することになる。

私の方法論上の出発点は、現象的意識は、現実に関する適切な理論がすべて受け入れなければならない厳然たる事実であるというものである。さらに、意識は次の意味で修正を加えることなく受け入れられなければならない。

意識の制約:現実に関する適切な理論は、少なくともいくつかの現象的概念が満たされることを必然的に含んでいなければならない。(概念は、それが真に現実に対応するときに満たされる。例えば、神の概念は、神が存在するときにのみ満たされる。

この原則は、たとえ自分自身の場合であっても、意識について決して間違いを犯さないということを意味するものではない。次の例を考えてみよう。あなたは歯医者の診察中に非常に不安を感じている。歯医者はあなたの口の中に圧力を加える。不安と圧力の組み合わせにより、実際には痛みを感じていないにもかかわらず、痛みを感じているように思う。これは、自分の意識体験を誤って表現しているケースである可能性がある。つまり、実際には不安と圧迫感を感じているのに、痛みを感じていると思い込んでいるのだ。3 意識の制約は、ある種の現象的概念が満たされていることを示しているに過ぎず、特定のケースにおいて誤った現象的概念を適用しているという事実と矛盾しない。

しかし、意識の制約は、私たちの日常的な理論以前の概念のひとつが世界を正確に捉えていることを示しているため、形而上学的探究において非常に重要な制約である。一般的に、私たちは、世界に関する最良の科学的理論に適合するように、日常的な概念を修正することを喜ぶべきである。私たちは、固体はすべて中身で満たされているという常識的な概念を持っている。科学は、その意味で固体など存在しないことを私たちに示した。あなたが座っている椅子も、ほとんどが空虚な空間である。これは、固体が存在しないという意味ではない。固体とは何かという理論以前の概念を修正しなければならないという意味である。アインシュタインは時間の性質について奇妙なことを私たちに教え、私たちはそれを受け入れて時間の概念を修正した。場合によっては、存在論から常識的な実体を排除することさえ喜んで行う。おそらく、科学的世界観は自由意志の存在と相容れないものであり、その結果、哲学者たちはそのようなものは存在しないと結論づけるべきである。

意識に関しては事情が異なる。私は自分がマトリックスの中にいて、外界の経験のすべてが幻想である可能性を完全に否定することはできない。しかし、内面が全くないという可能性は排除できるように思える。邪悪なコンピューターが、実際には意識がないのに、意識があると思わせているということはありえないのだ。4 また、それは単に「固体」という私たちの常識的な概念に似た何かがあることを私が知っているというだけではない。「私であることと似た何かがある」という命題を私が抱くとき、私は、外界が存在するという私の正当性よりもはるかに高い正当性をもって、その命題そのものが真実であることを知っている。意識の制約は、科学的理論化に重大な影響を及ぼし、私たちの概念体系を書き換える可能性に厳格な制限を課す。もし、私たちの科学的世界観が、内面の経験の現実(私たちの内面の経験に関する通常の考え方による)と矛盾することが判明した場合、変化を迫られるのは意識ではなく科学的理論である。

意識の制約は、私の根本的な公理であり、その周りを他のすべてが回るアルキメデスの不動点である。現象的意識の現実性に対する私の譲歩できない信念に同意しない読者も、その信念と両立する世界観に興味を持つかもしれない。私は、意識の制約への訴えは形而上学においてあまり顧みられない手段であると考えている。最終章では、それを基盤とする形而上学の今後の進むべき道筋を概説する。

意識の制約を理解した今、本書の目的を再定義する立場にある。すなわち、意識の制約を尊重する反観念論的単一論的世界観を見出すことである。

1.1.2 科学と形而上学

私を含め、哲学者たちは専門的な議論に多くの時間と労力を費やしている。しかし、ほとんどの哲学者は「全体像」に動機づけられている。つまり、本当に必要でない限り、哲学者は根本的な約束事を放棄しない(そして、その場合でもおそらく放棄しない!)。

以下に、非常に一般的な「全体像」アプローチを1つ紹介する。

方法論的実在論—自然科学の成功から私たちが学ぶべき教訓は、現実がどのようなものかを私たちに伝えるには、三人称の科学的手法(すなわち、公に観察可能なものの厳密な経験的調査)にのみ目を向けるべきであるということである。6

この「全体像」についてもう少し詳しく説明しよう。過去500年ほどの間に、自然科学のプロジェクトは極めて順調に進展した。惑星の動きから生命の進化、物質の基本的構成要素に至るまで、自然科学は説明の止むことのない強力な推進力であるように見える。方法論的実在論者にとって、このことは、ついにうまくいくもの、存在論的に信頼を置けるものを見つけたことを示している。科学革命以前の数千年間、哲学者たちは現実がどのようなものなのかを見つけ出そうと苦闘したが、結局は答えを見つけることはできなかった。科学革命以降、自然科学は次々と成功を収めてきた。

この観点から見ると、脳や物質一般の本質を解明しようとして、三人称の実証科学以外の何かに目を向ける哲学者たちは、「旧態依然」であり、私たちを暗黒時代に引き戻そうとしている。彼らは、魔法を信じたり、気候変動を否定したり、世界は6日間で創造されたと考える民衆と同類である。方法論的懐疑論の最も熱心な擁護者の一人がパトリシア・チャーチランドである。彼女は近著『Touching a Nerve』の中で、意識を完全に経験的な方法で説明できる可能性を疑う人々を「否定論者」と呼び、否定している。

19世紀の半ばまで、科学界では「光は宇宙の根本的な特徴であり、それ以上根本的なもので説明されることはない」というコンセンサスがあった。何が起こったのか?19世紀末までに、マクスウェルは光を電磁放射の一形態として説明していた。…西暦2年に「火の性質は永遠に理解できないだろう」という予言があったと想像してみよう。…あるいは西暦1300年に「科学は受精卵がどうやって動物の赤ちゃんになるのかを永遠に理解できないだろう」という予言があったと想像してみよう。あるいは西暦1800年に「感染を制御するものを誰も作り出すことはできないだろう」という予言があったと想像してみよう。1970年に、科学では頭蓋骨を開けずに正常な人間の脳の活動レベルを記録する方法を見つけることはできないと誰かが予測したとしよう。それは間違いだ。この技術的達成は、機能的共鳴画像法(fMRI)が開発された1990年代に花開いた。否定論が裏付けのない予測に基づいている限り、私たちが前進することを妨げる必要はない。

その図式は明らかである。方法論的ナチュラル主義者は未来を切り開いている。彼らの「否定論者」の反対派は、私たちを過去へと引き戻そうとしているのだ。

チャーチランドが描く反対派の図式には、いくつかの問題がある。第一に、方法論的自然主義の反対派は、意識の説明を諦めているわけではない。彼らは、第三者の経験的手法による調査に限定するアプローチを超えることが妥当だと考えているだけである。人間は本質的に意識を説明できないと主張する哲学者もいる。おそらく最も有名なのはコリン・マクギンである。8 しかし、これは方法論的自然主義の反対派の間では決して正統的な立場ではない。「否定論」という非難は、風刺的である。

チャールズランドは、方法論的自然主義の反対派が、意識が本質的であると主張しているとほのめかしているが、それは彼らの立場を「光が本質的である」という誤った見解と同一視しているからである。繰り返すが、これは誇張である。後の章では、人間の意識を脳内のより単純なシステムに関与するより本質的な意識の形態として説明しようとする構成論的パン心理主義者、および意識を物質のより本質的な性質として説明しようとする構成論的パンプロトプシー主義者の見解を検討する。「否定論」とは程遠い、これらの説明は系統的な試みである。

もちろん、方法論的自然主義の反対者の中には人間の意識を根本的なものとする者もいる。後章では、この見解を支持する議論を検証する。しかし、科学が新たな根本的性質を仮定することは珍しいことではない。実際、マクスウェルは光をそれ自体で基本的な種類とはみなさなかったが、電磁気学を説明するために、電磁気力と電磁気荷という新しい基本的な物理的存在論を導入した。この点において、チャーチランドがマクスウェルを引き合いに出すのは的を射ていない。9 すべてが同じ条件であれば、より簡潔な存在論の方が望ましいが、優れた科学理論が満たさなければならない基準は数多くあり、時には基本的な存在論を拡大することが望ましい場合もある。我々が求めているのは、データに説明を与える最もシンプルでエレガントな統一理論であり、最良の理論が宇宙の基本的な特徴として意識を仮定しないと考える明白な先験的理由はない。

意識を説明するという文脈において、方法論的自然主義はしばしば一種の神経基礎論主義につながる。神経基礎論主義とは、意識の説明を進歩させる唯一の方法は神経科学をさらに進歩させることだという考え方である。当然ながら、チャーチランドは神経基礎主義の熱心な伝道者である。神経基礎主義の最も著名な反対者の一人であるデビッド・チャーマーズの手法を、チャーチランドは次のような辛辣な表現で嘲笑している。

機器を設計したり維持したりする必要もなければ、動物を訓練したり観察したりする必要もなく、熱帯雨林や凍てつくツンドラを冒険する必要もない。否定論の大きな利点は、ゴルフに多くの時間を費やせることだ。10

「否定論」という風刺的な非難はさておき、この引用文は、科学の働きについてチャーチランドの見方が極めて限定的であることを示唆している。あたかも科学とは単に実験を行いデータを記録するだけの問題であるかのように。実際には、科学における多くの重要な進歩は、研究室での実験結果からではなく、安楽椅子に座って考えられた宇宙観の根本的な再概念化から生み出されてきた。例えば、特殊相対性理論のミンコフスキー解釈における、空間と時間を別個のものとして考えることから、それらを単一の統一された実体である「時空」として考えるという考え方の転換、あるいは、一般相対性理論における、重力は力であるという考え方から、時空の湾曲の結果であるという考え方への転換を考えてみてほしい。私の直感では、意識の進歩には、心、脳、そしてそれらの関係性についてのこの種の根本的な再概念化が関わってくるだろう。本書の後半で探求されるラッセル的なアプローチは、それを実現する有望な方法であるように思われる。

神経原理主義者は、先に述べた概念上の革新は最終的には経験的に検証されたものだと反論するかもしれない。例えば、一般相対性理論は最終的に、そのニュートン力学の先駆理論よりもデータに適合することが示された。しかし、科学の発展は常にデータに適合することだけが問題なのではない。時には理論の内部的な価値の向上が関わっていることもある。特殊相対性理論は、その好例である。特殊相対性理論と、その前身であるローレンツの相対性理論は、経験的には同等である。どちらも、例えばマイケルソン・モーリーの光速度はすべての参照系で同じであるという発見を予測している。アインシュタインは、ローレンツが説明できなかったいくつかのデータを説明したわけではない。単に、彼は想像の中で、そのデータを説明するよりエレガントな方法を見つけただけである。

実際、特殊相対性理論を構築するにあたり、アインシュタインは実験を行っていたわけではない。「装置を設計」したり、「ジャングルを冒険」したりしていたわけでもない。チャーチランドが「正しい科学」に必要な活動として挙げるような行為は一切していない。アインシュタインは安楽椅子に座って、光のビームに沿って乗ることが可能かどうかを考え、可能であれば次に何が起こるかを考えていた。アインシュタインが特殊相対性理論を構築した根本的な動機は、相対性原理が力学という古い科学と電磁気学という新しい科学の両方において成り立つことを確実なものとし、物理学にさらなる内的統一をもたらすことだった。経験的手法に熱中するあまり、深い思索が科学において重要な役割を果たすことを忘れてはならない。この点において、科学と哲学の境界は曖昧になり始める。

さらに、前節で概説した意識の制約を受け入れるのであれば、現実に関するあらゆる適切な理論が考慮しなければならない非経験的データがある(少なくとも「経験的データ」を公に観測可能なものと理解するならば)。人間行動や認知処理を含む、第三者による観察と実験のすべてのデータを説明できる理論があったとしよう。しかし、いくつかの現象的概念が満たされているという事実を説明できないとする。そのような理論は、経験データと矛盾する理論と同様に、偽りであるとして拒絶されるべきである。現象的意識が存在することは分かっているので、その現実と矛盾する理論は真であるはずがない。

このため、根本的な現実の本質を明らかにするプロジェクトにおいて、哲学者の役割は不可欠である。現象的概念が満たされるために現実から何が求められるかを教えてくれる実験は存在しない。11 この問題の解決は科学的なものではなく哲学的であるため、意識制約をどう解釈すべきかを教えてくれる最高の哲学者に頼らざるを得ない。これは理想的ではない。なぜなら、現象的概念が満たされるために現実から何が求められるかについて、現在、哲学者の間で深刻な意見の相違があるからだ。しかし、残念ながら、他に選択肢はない。厳密な学術活動のゆっくりとした慎重なプロセスが最終的にコンセンサスに導いてくれることをただ期待するしかない。

ここで私が想定しているのは、意識制約を満たすためには、観察や実験のデータを説明するために仮定される現実に対して、さらに何かを付け加える必要があるということではない。(第三者の)実験データを説明するために仮定されるものが、たまたま意識の現実を説明するためにも十分であるということが判明する可能性はある。しかし、それは最初から想定できるものではない。現象的概念を満たすものは何かを解明する作業の一部は、経験的仮定が十分であるかどうかを解明することである。

意識の現実性は、それ自体が独自のデータであり、三人称による観察や実験のデータとは異なるデータであるということが、一般の人々の心の中にも、多くの哲学者の心の中にも、適切に明確に表現されてこなかった。このことは、本書で真剣に検討されているいくつかの理論に対して、「科学的思考」や「厳格な自然主義」を自認する人々が示した否定的な反応を部分的に説明していると思う。特に、世界の基本構成要素が意識経験を持つという汎心論の見解に対してである。第三者の観察や実験から、電子に意識があるとは考えられない。このことから、多くの人々は、そのような見解を受け入れる理由はないと結論づけている。現象的意識を独自のデータとして説明するという命題を適切に内面化することは、認識論的に変容をもたらす。すなわち、意識の現実性を説明できる可能性を持つ特異な現実論に開かれるのである。これは、経験的データを説明できる可能性を持つ相対性理論や量子力学の特異性に、ほとんどの人が開かれているのと同じである。

私は、ほとんどの人が現象的意識の現実性を否定することを喜んでいると言いたいわけではない。これは極端で非常にまれな立場である。12 私が言いたいのは、ほとんどの人、つまりほとんどの哲学者と哲学の学問分野以外の大多数の人々は、修正されていない現象的意識の現実性を、それ自体のデータとして明確に認識しておらず、それが「どのような現実なのか」を解明しようとするプロジェクトにどのような影響を与えるかについて考え抜いていないということだ。その結果、一般の人々は、現実とはどのようなものかを私たちに伝えるのが科学者の仕事であり、科学が私たちに見切りをつけた世界について、私たちを少し楽にしてくれるのが哲学者の仕事だと考えている。

私は、いつの日かこの時代を乗り越えることができるだろうと、慎重ながらも楽観的に考えている。これは、技術が形而上学的な信念に与える本能的な影響の結果であると思う。現代技術の驚異は、教養のある男女が形而上学的な信頼を、そして唯一の信頼を、科学的手法に置く傾向を生み出している。ウディ・アレンの映画『ハリィと神様のご機嫌とり』の主人公の言葉によれば、「法王とエアコンのどちらかを選べと言われたら、私はエアコンを選ぶ」ということになる。経験科学に対する敬意とは、その科学が主張する権威を認めるだけでなく、経験科学が主張する完全な形而上学的、時には完全な倫理的13真実の権威をも認めることを意味する、と考えられるようになった。

しかし、意識の現実があまりにも明白であるため、意識の否定、あるいは意識の修正さえも、真実を真剣に追求する人々を納得させることはできないと私は思う。そして遅かれ早かれ、意識をそれ自体のデータとして真剣に受け止めることが必要であることが、一般的に理解されるようになるだろう。

物事は正しい方向へと進んでいる。意識は「科学志向」の人々にとってタブーのトピックであったが、今では科学にとっての「難問」として認識されるようになった。しかし、デイヴィッド・チャーマーズがこのフレーズを広めた本の副題にもかかわらず、「意識の難問」は一般的に、神経科学をもう少し進めればいつか解決できる厄介なパズルであると解釈されてきた。 14 次の段階は、人々が意識を、科学によってすでに知っている世界に押し込めるべきものではなく、観察や実験から得られる認識論的な出発点と同等の認識論的な出発点として捉えることである。意識は「謎」ではない。それよりも、もっと身近なものは何もない。謎めいているのは現実であり、意識に関する我々の知識は、その謎めいたものが実際にはどのようなものなのかを解明するための最良の手がかりのひとつである。

1.1.3 物理学の哲学的基礎

私は前節を、未来に対するある種の大胆な希望を込めて締めくくった。しかし、現時点では、科学の成功に関する方法論的ナチュラリストの物語、およびそこから引き出すべき道徳に関する主張は、多くの人々にとって強力な動機付けの要因となっている。私は、科学の歴史に対する代替的な考え方を提案したい。それは、異なる方法で私たちを動機付けるかもしれない。

ガリレオが科学革命の基礎に最も大きく貢献したことのひとつは、自然哲学の言語は数学のみで表現されるべきであるという主張であり、この考えは、よく知られた『アッサイア』の一節で表現されている。

哲学(「自然哲学」を意味し、後に物理学となる)は、この壮大な書物、すなわち、絶えず我々の視線に開かれている宇宙に記されている。しかし、その言語を理解し、その言語で書かれた文字を読めるようにならなければ、理解することはできない。それは数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学的な図形である。それらなしには、その内容を理解することは人間的に不可能である。それらなしでは、人は暗い迷路をさまようことになる。

あまり注目されないことだが、ガリレイの研究プログラムを裏付けた現実の形而上学的側面もある。ガリレイ以前の哲学者たちは、世界は感覚的特性に満ちていると考えていた。色、匂い、味、音などである。トマトの赤さ、パプリカの辛さ、花の甘い匂いなどを、数学の厳格で抽象的な言語で直観的に表現することはできない。ガリレオは、この問題を回避するために、そうした性質を世界から取り除き、それを魂の中に位置づけた。

ガリレオにとって、パプリカの辛さはパプリカの中にあるのではなく、パプリカを味わう人の魂の中にある。花の甘い香りは花の中にあるのではなく、花の香りを嗅ぐ人の魂の中にある。ガリレオにとっての色は、物体の表面ではなく、人間の魂の中に存在していた。ガリレオは、物体の形以外のあらゆる性質を取り除き、数学幾何学によって完全に記述できる形而上学的物質世界の絵画を創り出した。

私は今、物質や物体を想像する時にはいつでも、すぐにそれを限定されたものとして考え、これこれの形をしている、他の物と比較して大きかったり小さかったりする、ある特定の場所にある、動いているか静止している、他の物体に触れているか触れていない、数としては1つであるか、少数であるか多数である、と感じる必要があると言う。これらの条件から、私の想像力を駆使しても、そのような物質を切り離すことはできない。

しかし、白または赤、苦いまたは甘い、うるさいまたは静か、そして甘いまたは不快な匂いであることは、私の心は必然的な付随物として取り入れる必要を感じない。感覚をガイドとせずに、理性や想像力のみで、おそらくこのような性質に到達することはできないだろう。

したがって、味覚、嗅覚、色彩などは、それらを置く対象に関して言えば、単なる名称にすぎず、意識の中にのみ存在するものだと私は考える。したがって、生き物が取り除かれた場合、これらの性質はすべて消え去り、消滅するだろう。17

したがって、数学物理学を可能にしたのは、世界に対する我々の哲学的な概念の変化であり、その変化とは、意識的な経験の中で遭遇する感覚的な性質を、物理学が研究する物質の領域の外に置くことだった。

これが数学物理学の始まりであり、その後、大きな成功を収めることになる。自然を数学で捉えることができるようになると、自然の法則を数学の言語で表現できるようになる。しばらくして、ニュートンの運動法則と万有引力の法則が生まれた。そして、物質の挙動に関する数学モデルを5世紀にわたってますます正確に発展させてきたことで、物質世界をさまざまな驚くべき方法で操作できるようになり、レーザーや電子レンジ、月への飛行などが可能になった。

この成功を方法論的唯物論の証拠、あるいは物理学の根本主義の一種と見なすのは魅力的である。物理学の大きな成功は、物理学が根本的な現実の完全な説明を与える途上にあることを示しているという考え方である。しかし、これは誤った結論である。数学物理学の成功は、調査範囲を限定した結果である。意識的な経験で遭遇する感覚的特性、すなわち色、匂い、味、音を物理科学の領域外に置くことで、残ったものについて純粋に数学的な説明ができるようになった。しかし、ガリレオが物質世界から取り除いたそれらの性質は、今でもどこかに存在しており、何らかの形で説明されなければならない。パプリカの辛味がパプリカに本当は存在しないのだとしたら、辛味はどこにあるのだろうか?ガリレオはそれを魂の中にあると考えたが、魂を信じたくないのなら、感覚的な性質を自然界のどこかに見つけなければならない。

しかし、科学の起源に関するこうした考察は、その潜在的可能性について本当に多くを語っているのだろうか?ガリレイ物理学の大きな成功は、物理学が基本的に正しい方向性を持ち、ガリレイが物理学の及ばないものと考えた感覚的特性さえもいつか説明できることを示す証拠ではないだろうか? この推論は混乱している。次の例え話を見れば、そのことが分かるだろう。私が助教授として勤務した最初の年、学部長が親切にも私を事務作業から解放してくれたため、私は教育と研究に専念することができた。管理業務を担当しなくてもうまくやれていたという事実から、管理業務を担当するのに向いていると考える理由にはならない。18 同様に、感覚的特性が物理科学の研究対象から除外されて以来、物理科学がうまくやってきたという事実から、感覚的特性そのものを適切に扱う潜在的可能性があると考える根拠にはならない。

したがって、私が本書で擁護する反物理主義が科学の前進を妨げるものだとは考えられない。反物理主義者は、物理学がその領域において主権的であることを十分に理解している。すなわち、基本的な物質の行動傾向を数学モデルでマッピングすることである。一方で、物理学の厳格な数学的語彙では捉えきれない現実が存在すると主張している。

ガリレオは、数学物理学を可能にするために、物質世界から感覚的性質を取り除いた。しかし、これらの感覚的性質が存在することはほぼ確実である。その現実性は、我々の経験から明らかである。もしトマトの表面に「外側」に「赤さ」が存在しないとしても、少なくともそれは私の意識体験の形として私の心の中に存在する。いずれにしても、こうした性質は、私たちの形而上学的な世界観に再び取り込まれる必要がある。それがまさに本書の目的である。20

ここまでで、私が何を言わんとしているのかがお分かりいただけたと思うので、次に、これから探求する見解について述べることにする。

1.2 物理主義とラッセルの一元論

1.2.1 物理主義

物理主義とは、根本的な現実が完全に物理的なものであるという見解である。この見解は広く受け入れられているが、それが正確に何を意味するのかを明確に説明するのは、実際にはかなり厄介である。次章で詳しく検討するが、問題をいくらか単純化するために、本書の前半で私が焦点を当てる見解は、純粋な物理主義的立場であり、これを私は「純粋物理主義」と呼ぶ。純粋な物理主義は、根本的な現実の完全な本質は、原理的には物理科学の用語で捉えることができるという命題を含む。私はさらに、その議論がより希薄な形の物理主義にどのように適用できるかを示している(第6章)。

私が物理主義に対して主張していることは、よく知られていることである。すなわち、物理主義は現象的な意識の現実を説明できないということである。言い換えれば、物理主義は意識の制約を尊重できないということである。よく知られた議論ではあるが、私の主張はこれまでに提示されたものとは詳細において大きく異なる。

おそらく、近年の物理主義に対する議論で最もよく取り上げられているのは、フランク・ジャクソンの知識論的アプローチと、デビッド・チャーマーズの想像可能性論的アプローチであろう。21 ジャクソンの知識論的アプローチでは、モノクロームの部屋で育った優秀な神経科学者メアリーが、色に関する経験について知り得る限りのことを学ぶという話が出てくる。ある日、メアリーは初めて赤色を目にし、新しいことを学ぶ。それは、赤色を見るとはどういうことか、ということだ。この話の教訓は、色の意識的な経験には、物理科学が伝えることのできる以上の何かがあるということだ。チャルマーズの想像可能性の議論では、「ゾンビ」という、人間の物理的な複製であり、いかなる種類の意識経験も欠いている存在が想像可能であることを証明しようとしている。つまり、そのような存在の概念に矛盾や不整合性を見出すことができないという意味で、想像可能であるということだ。チャルマーズはさらに、ゾンビが想像可能であるなら、それはあり得るということになり、もしあり得るのであれば、物理的事実では意識を説明できないと主張している。

私は、この両方の議論に懸念を抱いている。知識に関する議論は、物理的事実と経験に関する事実の間の認識論的なギャップを説得力を持って示しているが、それを形而上学的ギャップに変えるには、さらに多くの作業が必要である。チャーマーズの想像可能性に関する議論に対する私の懸念は、その議論が非常に論争の多い意味論的前提、すなわち、その議論が提起されている「二次元」の意味論的枠組みによって想定されている前提に依拠していることである。

これらの議論について論じるにあたり、私は、この種の議論をうまく進めるために本当に必要なのは、「現象的透明性」への献身であることを示そうとしている。現象的概念は透明であるという命題である。この命題を理解するには、本書の中心となる区別、すなわち透明な概念と不透明な概念の区別を理解する必要がある。

概念は、それが指し示す実体の本質を明らかにする場合にのみ透明である。つまり、その実体が現実の一部であることについて、その概念を所有する誰かにとって、その概念を所有しているという事実によって、先験的に明らかになるという意味である。23 妥当な例としては、「球形」という概念がある。球形であるという性質が具現化されるとは、表面上のすべての点が中心から等距離にある何かが存在することである。もしあなたが球形であるという概念を所有しており、かつ賢明であれば、それをアームチェアに座ったまま理解できるだろう。

概念が不透明であるとは、それが指し示す実体の性質についてほとんど、あるいはまったく何も明らかにしない場合を指す。つまり、その実体が現実の一部であることについて、ア・プリオリにアクセスできることはほとんどない(その概念を所有する者にとって、その概念を所有しているという事実によって)。水という概念は、不透明な概念の妥当な例である。水があるということは、H2O分子で構成された物質があるということだが、これは安楽椅子に座ったままでは見つけられない。24 球形とは対照的に、水の本質的な性質を見つけ出すには実際に科学実験を行わなければならない。

したがって、「驚異的な透明性」とは、驚異的な概念が、それらが指し示す意識状態の本質を明らかにするという命題である。例えば、ある特定の痛みを「どのようなものか」という観点から考えることで、その痛みが具体化されるとはどういうことかがわかる。この点において、<痛み>という概念は、<水>という概念よりも、<球状>という概念に近い。

現象的透明性が真であると仮定しよう。物理主義によれば、痛みのような物理的状態は完全に物理的な性質を持つ。おそらく、ありふれていて経験的にありそうもない例を挙げ続けるなら、哲学者たちが好むように、何かが痛みを感じるのはC線維が興奮するためである。もしこれが事実であるならば、現象的概念は透明であると仮定すると、痛みを経験したことのある人(そしてそれによって痛みの現象的概念を持つ人)であれば、痛みの物理的性質を理解できるはずである。痛みを経験するだけで、痛みを経験するとはC線維が発火することである(あるいは、その具体的な物理的性質が何であれ)と知ることができるはずである。しかし、痛みを感じたことがある人なら誰でもその物理的性質を知っているというわけではないことは明らかである。神経科学はそれほど簡単ではないのだ!したがって、物理主義は誤りであるに違いない。もし「現象的透明性」を確保できれば、物理主義に対する強力な反論となる。

現象的概念が不透明であると仮定しよう。つまり、それらが参照する状態の性質について何も明らかにしないとする。すると、つまり私が主張しようとしているのは、現象的概念の参照対象が神経生理学的状態であることを否定する哲学的根拠はありえないということだ。現象的概念が意識状態が何であるかについて何の理解も与えないのであれば、それらが脳の状態であるとどうして安楽椅子から排除できるだろうか?現象的透明性がなければ、物理的なものと経験的なものとの間の認識論的なギャップには形而上学的な意義はない。

したがって、物理主義では意識を説明できないという非難は、現象的透明性に起因するものであることを示そうとする。本書の前半の最終章では、現象的透明性に関する議論を提示し、それを基に物理主義を否定する。

1.2.2 ラッセル主義一元論

1927年、バートランド・ラッセルは著書『物質の分析』において、心身問題に対する新たなアプローチに相当するいくつかの命題を擁護した。同様の主張は、アーサー・エディントンが同年に行ったギフォード講義でも擁護されていた。25 このアプローチは、おそらく当時の物理主義的な時代精神に合わなかったためか、20世紀後半には忘れ去られていた。しかし、最近になって再発見され、「ラッセル主義的一元論」として知られる見解、あるいは見解の学派を生み出すに至った。

ラッセル主義的一元論の定義にはいくつかの微妙な違いがあるが、本質的には、否定的な要素と肯定的な要素の両方を含んでいる。

否定的な要素:ラッセル主義的一元論の否定的な要素は、自然科学は物理世界の性質について限定的な説明しか提供しないという主張である。これは、物質の関係的、性質的、外的、あるいは構造的特性のみを捉えているという主張として、さまざまな形で表現されている。ラッセル主義一元論者は、これらの特性の根底には、物理学者が沈黙を保っている、関係性のない、カテゴリー化された、本質的、あるいは構造的ではない性質が存在するはずだと主張する。私はこれを物質の「深層性質」と呼ぶ。

肯定的な要素:ラッセル的一元論の肯定的な要素は、物質の本質が意識を透明に説明するという主張から成り立っている。つまり、物質の本質に関する事実から意識に関する事実への先験的な帰結があるという意味である。もしあなたが私の脳の本質にアクセスすることができれば、原理的には私の意識の本質を推論することができるだろう。つまり、意識の謎は、物質の本質に関する科学的無知から生じているのである。

ラッセルの単一説は、物理主義と二元論の双方の極端な見解に伴う多くの問題を回避し、その中間にある魅力的な中道としてますます見られるようになってきている。 前節で概説した、心と脳の同一性と現象的概念の透明性との調和の難しさを考えてみよう。 痛みの概念が痛みの本質を明らかにし、痛みとはc-繊維の興奮に他ならないとすると、なぜ痛みはc-繊維の興奮であると先験的に言えないのだろうか?多くの現代の物理主義者は、現象的透明性を単純に否定することでこの懸念を回避しようとしている。現象的概念が不透明であるため、つまり痛みの物理的性質を明らかにしないため、<痛い=C線維の興奮>という同一性は先験的に知り得ないのである。

ラッセル的一元論者はこれを逆転させる。不透明なのは現象的概念ではなく物理的概念である。ラッセル的単一論によれば、私たちが c-fiber の発火を「c-fiber の発火」として考えるとき、私たちはそれを主として脳における機能的役割という観点から外延的に特徴づけている。c-fiber の発火を「痛みの感覚」として考えるときのみ、私たちはその本質的な性質を理解していることになる。物理主義者にとっては、痛みとは本質的に c-fiber の発火であるが、ラッセル的単一論者にとっては、c-fiber の発火とは本質的に痛みである。

ラッセル的一元論者は、現象的概念は透明であると喜んで受け入れる。26 私が正しく、知識と想像可能性の議論で表現された物理主義に対する古典的な挑戦が、最終的には物理主義と現象的透明性の調和の難しさに帰着するならば、ラッセル的一元論者がこれらの難点を回避できると考えるには十分な理由がある。

一方、二元論には、心的因果関係を説明することに深刻な問題がある。多くの哲学者が信じているように、物理的現実が因果的に閉じたシステムを形成しているとすれば、非物理的な心が物理的世界に因果的に影響を与えることはあり得ない。しかし、ラッセル主義一元論者(少なくとも典型的な形において)にとって、心は物理的本質に深く根ざしているという理由で、因果的に閉じた物理的世界の一部である。

ラッセル主義一元論にはさまざまな形態がある。大まかに言って、次の3つの相違点がある。

汎心論者対汎原心理論者:汎心論者のラッセル的一元論者は、物理世界の深層の本質は経験的であると考える。典型的な見解は、基本的な物質的存在は非常に単純な経験的性質を持ち、そこから人間や動物の複雑な経験が何らかの形で派生するというものである。これに対し、汎原心理論者のラッセル的一元論者は、物理世界の深層の本質はそれ自体経験的ではなく、何らかの形で本質的に経験を実現したり、経験をもたらしたりするのに適していると考える。

構成論的 vs. 創発論的—構成論的ラッセル主義一元論者は、人間と動物の経験は物理的な深層の本質に根ざしている、またはそれによって構成されていると考える。これに対し、創発論的ラッセル主義一元論者は、人間と動物の経験は物理的な深層の本質によって因果的にもたらされ、維持されていると考える。

スモリスト対優先的一元論者—スモリストは、すべての基本的事実はミクロレベルの存在や性質に関する事実であると考える。すべてのものは存在し、ミクロレベルの存在がどのようなものであるかによって、そのあり方が決まる。これに対し、優先的一元論者は、宇宙こそが唯一の基本的事実であり、他のすべてのものは存在し、宇宙がどのようなものであるかによって、そのあり方が決まると考える。ラッセル的一元論は、これらのいずれの考え方とも組み合わせることができる。

第6章、および第9章でより詳しく述べるが、私はラッセル主義一元論の創発論的形態に対する経験的な懸念を提起する。非常に大まかに言えば、その考えとは、人間や動物の意識主体が根本的な存在であるとすれば、それらはおそらく、基本的な物質的存在の因果力とは異なる独特な因果力を持っているだろうということだ。それは、生物と無生物の両方の領域において、自然界でより一般的に作用する因果原理では説明できないような出来事が、脳や身体の中で起こっていることを示唆しているように思われる。脳の中でそのような出来事が起こっていないという事実は、創発説に対する帰納的論拠となる。

一方、ラッセル的一元論の構成形は、重大な先験的困難に直面している。私は第7章と第8章で、ラッセル主義的一元論における「結合問題」のさまざまな形態について論じている。典型的な形での結合問題は、小唯心論に対する次のような挑戦である。電子やクォークのような小さな意識主体が結合して、人間の脳のような大きな意識主体になるという考えを、一体全体どう理解すればよいのか?人間という意識を持つ主体を複合的な物体として理解しようとすると、多くの関連する懸念が生じる。そして、これらの懸念の多くは、ラッセルの一元論における汎心論と汎初心論の両方に当てはまる。

第8章の終わりに、私が最も難しい組み合わせの問題であると考えるものを提示する。私はそれを「主題還元不可能性問題」と呼ぶ。問題は、意識を持つ主題はある意味で還元不可能であるように見えるということだ。つまり、意識を持つ主題が存在するために必要なものを、より根本的な用語で特定することはできないように見えるのだ。私は最終的に、ラッセル的一元論の最小主義モデルを扱っている限り、主題還元不可能性問題には解決策がないと主張する。しかし、第9章では、プライオリティ・モノリズムと汎心論を組み合わせたモデルを提案する。このモデルは、矛盾しているように聞こえるかもしれないが、意識主体が不可還元かつ非根本的であることを説明できると期待している。

* *
  • 1 ほとんどの人は、意識の定義のこの方法をネーゲル(1974年)にまで遡るが、スプリッグとモンテフィオーレ(1971年)にもそれ以前に登場している。
  • 2 後の章で明らかになるように、私は実際、テーブルが意識を持っている可能性を否定しない。しかし、現時点での私の目的は、意識の概念を明確に説明することであり、意識を持つものと持たないものについての常識的な見解を参照しながら、それを実行している。
  • 3 私たちの経験に関するある種の判断には、確実性に近いものが含まれると第5章で論じるが、これはすべてに当てはまるわけではない。
  • 4 トム・ウィンフィールドが私に指摘したように、マトリックスのようなシナリオでは、コンピュータが悪意を持つのではなく、むしろ慈悲深い存在である。しかし、私はコンピュータに対して居心地の悪さを感じるという認識上の権利を主張する。
  • 5 意識の制約を受け入れることは、現象的意識に関する哲学的な直観や二次的判断の誤りを認めることと矛盾しない。また、現象的概念が満たされるために必要なことも認める。
  • 6 Ladyman et al. (2007) は、方法論的ナチュラル主義の一形態を擁護している。
  • 7 Churchland 2013b: 57–8.
  • 8 McGinn 1989.
  • 9 チャルマーズ(1995)はこの点を指摘している。
  • 10 チャーチランド 2013b: 60.
  • 11 少なくとも、どの実験や観察データがこの問題の解明に役立つのかを明らかにするための哲学的考察が必要である。
  • 12 現象的意識に関する排除論の非常に興味深い擁護については、Frankish (2016)を参照のこと。
  • 13 例えば、Harris (2010)を参照のこと。
  • 14 Chalmers 1996。実際、「意識のハード・プロブレム」という表現は、1995年の彼の論文で初めて用いられた。
  • 15 Galileo 1623: 237–8。
  • 16 デカルトとは対照的に、ガリレオは魂をアリストテレス的な言葉で、つまり身体(コーポ・センシティーヴォ)の活性化の原理として捉えていた。この点については、ベン=ヤミ(2015年)の第3章を参照のこと。
  • 17 ガリレオ 1623: 274–7.
  • 18 残念ながら私はそうではなかった。
  • 19 次章で議論するように、物理学の語彙には、自然法則の概念のような、法則的な概念も含まれる。
  • 20 もしガリレオが現代にタイムトラベルし、「意識のハード問題」について知らされたとしたら、彼はこう答えるだろう。「もちろん、物理科学は経験に見られる性質を説明できない。私はそれらを物質から取り出して物理科学を作り出したのだ!」
  • 21 Jackson 1982, 1986; Chalmers 1996, 2009.
  • 22 この区別については、Goff (2011)をはじめとする多くの論文で展開してきた。Martine Nida-Rümelin (2007)は、内省によって現象的特性の本質を把握できるという命題に根ざした、物理主義に対する非常に類似した批判を行っている。
  • 23 現実の形は実体の種類によって決まる。個人が現実の一部であることは、それが存在することである。性質が現実の一部であることは、それが具現化されることである(プラトン主義者は、性質の存在と具体的な現実の存在を区別したいかもしれない)。出来事が現実の一部であることは、それが起こることである。
  • 24 その理由は第6章で述べるが、私は実際、この概念も曖昧であると考えている。しかし、ここではこの複雑な問題は無視する。
  • 25 これらは翌年に出版された(Eddington 1928)。
  • 26 あるいは少なくとも半透明である。透明な概念と半透明な概念の微妙な違いについては、ここでは無視する。この問題については第4章で取り上げる。

 

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# AI:「意識と根本的現実」についての考察

フィリップ・ゴフ(Philip Goff)の著書「Consciousness and Fundamental Reality(意識と根本的現実)」を読み解いていくにあたり、まず全体の構造を確認しておこう。この本は大きく前半と後半に分かれており、前半では物理主義への批判を展開し、後半ではラッセル的一元論という代替案を探求している。特に意識の問題、すなわち心身問題が中心テーマとなっている。

最初に著者の立場を確認しておきたい。著者は「意識制約(Consciousness Constraint)」という原則を提唱している。これは「あらゆる適切な現実理論は、少なくともいくつかの現象的概念が満たされていることを含意しなければならない」というものだ。簡単に言えば、「意識の存在は疑いようのない事実であり、どんな世界観もこれを認めなければならない」という立場である。これは著者にとって基本的な公理であり、すべての議論の出発点となっている。

著者はガリレオ以降の科学革命についても独自の見解を持っている。多くの人が考えるように、物理学が世界の本質を完全に明らかにしつつあるという見方ではなく、むしろ物理学は世界の「因果構造」のみを数学的モデルによって記述しており、その基盤となる「具体的な本質」については何も語っていないという見解だ。これは著者の議論の基礎となる重要な歴史観である。

それでは各章の主要な主張を掘り下げていこう。

第2章 では、物理主義の定義について詳細な分析がなされている。物理主義とは「基本的現実が全面的に物理的である」という見解だが、「物理的」とは何か、「基本的」とは何かという問いがある。著者は「物理的」なものの定義として、物理学の現在の対象によって定義する後験的定義ではなく、数学的・法則的語彙で捉えられるという先験的定義を支持している。そして「基本性」の概念を「根拠づけ」(grounding)として理解し、特に「分析による根拠づけ」(grounding by analysis)という概念を導入している。

第3章 と第4章では、物理主義に対する二つの古典的な反論―知識論証と想像可能性論証―を検討している。知識論証はジャクソン(Frank Jackson)の「メアリーの部屋」の思考実験に基づくもので、物理的事実と経験的事実の間に認識論的ギャップがあることを示している。想像可能性論証はチャーマーズ(David Chalmers)の「ゾンビ」の想像可能性に基づくもので、物理的事実が意識的事実を必然化しないことを示唆している。

著者はこれらの論証が最終的には「現象的透明性(Phenomenal Transparency)」、すなわち「現象的概念は指示対象の本質を明らかにする」という主張に依存していると論じている。もし現象的概念が透明でないなら、知識論証も想像可能性論証も物理主義に対する脅威とはならない。

第5章 では著者は「啓示(Revelation)」という考えを提示している。これは「意識状態に直接的に注意を向けるとき、その状態のタイプの完全な本性が明らかになる」という考えだ。著者はこれが「超正当化(super-justification)」、つまり内省的判断の持つ特別な確実性を説明する最善の理論だと論じている。そしてこの啓示の概念から現象的透明性を導き、これが物理主義に対する致命的な問題をもたらすと論じる。

ここで立ち止まって、この「透明性」と「啓示」の概念について深く考えてみよう。著者が言いたいのは、私たちが自分の痛みや赤の経験などに注意を向けるとき、その経験の本質が直接的に明らかになるということだ。これは水や金などの自然種概念とは異なる。水の本質はH2Oだが、そのことは化学の発見によって後から知られた。つまり「水」という概念は「不透明(opaque)」だ。しかし意識の場合、その本質は直接経験によって直ちに与えられる。だからこそ「痛み」が脳状態と同一であるなら、痛みを感じるだけでその脳状態の本質も知るはずだが、そうではない。これが物理主義に対する強力な反論になる。

物理主義はここで「現象的概念が徹底的に不透明だ」と主張することで応答できるが、著者はそれが意識についての私たちの経験と合致しないと考えている。また「二重彫り(Dual Carving)」、つまり同じ性質の本質を捉える概念的に異なる二つの方法があるという主張も検討しているが、これも不十分だとしている。

第6章 からは本書の後半部分が始まり、ラッセル的一元論が導入される。ラッセル的一元論は次の二つの主張からなる:

1. 物理科学は物質世界の性質について限定的な説明しか提供していない(関係的、傾向的、外在的、または構造的性質のみ)2. 物質の深い本性は透明に意識を説明する(つまり、物質の深い本性に関する事実から意識に関する事実への先験的含意がある)

ラッセル的一元論には様々な形態がある。汎心論的なものと原-現象的なもの、構成的なものと創発的なもの、小物主義的なものと優先的一元論的なものがある。著者は特に構成的な形態の利点を強調している。構成的ラッセル的一元論は「因果排除問題」を解決できる点で優れている。

しかし、ラッセル的一元論、特に汎心論的なものは「結合問題」に直面する。第7章ではこれを「主体-総和問題」として検討している。多くの「小さな」主体がどのように「大きな」主体を形成するのかという問題だ。著者はこの問題への様々なアプローチを検討し、空間関係の深い本性に関する私たちの無知が問題を説明する可能性を示唆している。

第8章 では「トップダウン結合問題」を検討している。「パレット問題」(少数の基本的性質から意識の豊かな多様性がいかに生じるか)、「構造的不一致問題」(脳と意識の構造が異なるように見える問題)、そして最も重要な「主体不可還元性問題」(意識主体の存在を、その主体を含まない事実に分析できないという問題)を扱っている。

この「主体不可還元性問題」は構成的ラッセル的一元論にとって深刻な問題となる。意識主体が還元不可能であるなら、それはミクロレベルの事実によって分析的に根拠づけられないからだ。これは新しい形の構成的根拠づけが必要だという結論に著者を導く。

第9章 では著者は「包摂による根拠づけ(grounding by subsumption)」という新しい概念を提案している。これはX(全体)がY(部分)の側面である場合に、XがYを根拠づけるという関係だ。これを用いて著者は「構成的宇宙心理主義(constitutive cosmopsychism)」を発展させる。これは宇宙が根本的に統一された意識主体であり、人間や動物の意識主体はその側面であるという見解だ。

この見解は一見奇妙に思えるかもしれないが、著者は経験的な論拠も提供している。「法則的一般性(Nomic Generality)」(すべての因果的に説明可能な出来事は、生物と無生物の両方を支配する一般法則によって説明できる)と「力実在論(Power Realism)」(法則は根本的実体の因果的力に根拠づけられている)から、基本的現実は微視的レベルか宇宙レベルのいずれかにあると論じる。そして意識主体の還元不可能性を考慮すると、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる。

最後の第10章では著者は形而上学の方法論について省察し、「分析的現象学(analytic phenomenology)」という新しいアプローチを提案している。これは意識という確固たるデータを活用する方法論で、(1)物質世界の因果構造に関する成熟した物理科学の知見と(2)各人が意識の本性に持つ直接的一人称アクセスという二つの異なるデータ源を真剣に受け止める。

ここで著者の主張を総合的に評価してみよう。著者の最も基本的な主張は、意識の実在は疑いようがなく、どんな形而上学的理論もこれを説明できなければならないということだ。そして物理主義は意識を適切に説明できない。なぜなら、もし現象的概念が透明なら(著者はそう信じている)、意識状態が物理状態であるなら私たちはそのことを知るはずだからだ。

著者はラッセル的一元論、特に構成的宇宙心理主義が最も有望な代替案だと考えている。これは宇宙全体が意識を持ち、私たちの意識はその側面だという見解だ。この見解は直感に反するように思えるかもしれないが、主体不可還元性問題を解決しつつ、科学的知見とも整合性を保つことができる。

この宇宙心理主義の見解は、西洋哲学においては異端的かもしれないが、東洋哲学や宗教的伝統の多くと共鳴する部分がある。すべてのものが根本的な意識の現れであるという考えは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなどの非二元的伝統にも見られる。しかし著者はそうした伝統に訴えることなく、西洋分析哲学の手法を用いてこの見解を擁護している点が注目に値する。

著者の議論で最も説得力があるのは、物理主義に対する批判部分だと思う。特に「啓示」の概念に基づく透明性論証は強力だ。しかし宇宙心理主義という解決策にはさらなる検討が必要だろう。例えば、宇宙が意識を持つとして、それがどのように私たちの個別の意識経験を生み出すのかについての詳細なメカニズムはまだ不明確な部分が多い。

また著者の主張は形而上学の方法論にも重要な示唆を与えている。意識の直接的なデータを真剣に受け止めることで、形而上学的探究がより実りあるものになる可能性がある。これは科学的知見を否定するものではなく、むしろ科学と意識の直接的経験の両方を統合する試みだ。

最後に、著者の見解は「純粋物理主義」から「汎心論」を経て「宇宙心理主義」へと進化しているようにも見える。これは意識の問題を真剣に考えれば考えるほど、より抜本的な形而上学的転換が必要になることを示唆している。

本書は意識と物質的世界の関係についての深遠な問いに取り組んでおり、その議論は非常に明晰で説得力がある。物理主義の限界を認識しつつも、一元論的な世界観を維持しようとする著者の試みは、心身問題に取り組む哲学者にとって重要な貢献となっている。

最終的に、ゴフの主張は「意識は根本的現実の本質的な一部である」ということに集約される。意識は物理的なものに還元されるのではなく、むしろ物理的現実の深層にある本質的な構成要素なのだ。この視点は、科学的世界観を否定するのではなく、その限界を認識した上で拡張するものであり、意識と物質を統合的に理解するための新たな道を開くものだと言えるだろう。

6章以降についてのもう少しわかりやすい考察

フィリップ・ゴフの「Consciousness and Fundamental Reality」の後半部分で展開される理論は確かに難解だが、基礎的な哲学知識を持つ読者向けに整理し直してみよう。まず、著者が取り組んでいる中心的問題から確認していきたい。

心と体、意識と物質はどのような関係にあるのか。これは哲学における古典的問題だが、著者はこれに新しいアプローチを提案している。前半部分で著者は、現在主流の「物理主義」(すべては物理的なものに還元できるという立場)が意識を説明できないと論じた。では、代替案は何か。それが「ラッセル的一元論」である。

ラッセル的一元論とは何か。これは哲学者バートランド・ラッセルにちなんで名付けられた立場で、二つの主要な主張からなる。

第一に、物理科学は物質の「関係的」な側面しか教えてくれないという主張がある。例えば、電子について物理学が教えてくれるのは「他の粒子とどう相互作用するか」という情報だけで、「電子それ自体が内的にどのようなものか」については何も教えてくれない。物理学は世界の「因果的構造」を数式で記述するだけで、その構造の基盤となる「内的本質」については沈黙している。

第二に、物質の「内的本質」こそが意識を説明する鍵だという主張がある。物質の内的本質がどのようなものかを完全に理解できれば、なぜ意識が存在するかも理解できるはずだという考えだ。

ラッセル的一元論にはいくつかのバリエーションがある。大きく分けると:

1. 汎心論的なものvs. 原-現象的なもの

– 汎心論:基本的物質粒子も最も原始的な形の意識を持つという立場

– 原-現象的:基本的物質粒子は意識そのものではないが、意識を生み出す特殊な性質を持つという立場

2. 構成的なものvs. 創発的なもの

– 構成的:人間の意識は微小な意識(または原-意識)の適切な組み合わせから構成されるという立場

– 創発的:人間の意識は微小な意識(または原-意識)から因果的に生じるが、それらに還元されないという立場

ここで重要な問題が生じる。「結合問題」と呼ばれるものだ。特に汎心論では「主体-総和問題」として知られる。これは「多くの小さな意識がどのようにして一つの統一された人間の意識を形成するのか」という難問だ。例えば、脳内の何兆もの粒子がそれぞれ微小な意識を持っているとして、それらがどうやって「私」という一つの統一された意識経験を生み出すのか。これは謎だ。

第8章 では、さらに別の「トップダウン結合問題」が検討される。これは人間の意識の特性から見て、それが微小な意識から構成されると考えるのは難しいという問題群だ。

1. パレット問題:人間の意識経験は非常に豊かで多様だが、基本粒子が持つ意識は非常に限られたものでしかないはず。少数の基本的な意識要素からどうやってこの豊かさが生じるのか。

2. 構造的不一致問題:脳の物理的構造と私たちの意識経験の構造が一致していないように見える問題。

3. 主体不可還元性問題:これが最も重要。意識主体、つまり「私」という存在は、「私」を含まない他の要素に分解・還元できないように思われる。つまり、「私が存在する」ということを「私」を含まない事実の集まりとして説明することはできないように思われる。

この主体不可還元性問題は、構成的ラッセル的一元論にとって致命的だ。なぜなら、もし意識主体が本当に還元不可能なら、それはより基本的な要素から「構成」されているという立場と矛盾するからだ。

この難問を解決するために、著者は第9章で全く新しいアプローチを提案する。「包摂による根拠づけ」という概念だ。これは通常の「部分から全体を構成する」という考え方を逆転させる。つまり、全体(X)が部分(Y)を「包含」し、部分は全体の一側面にすぎないと考えるのだ。

この考え方を使って著者は「構成的宇宙心理主義」を提案する。これは「宇宙全体が一つの統一された意識主体であり、人間や動物の意識はその宇宙意識の側面である」という驚くべき見解だ。私たちの意識は宇宙意識から構成されるのではなく、宇宙意識の「側面」として存在する。

この宇宙心理主義の考えは一見すると奇妙に思えるかもしれないが、著者は科学的根拠も提示している。科学的観察によれば、自然界のあらゆる出来事は同じ基本法則に従っている。生物の行動も無生物の振る舞いも、同じ物理法則で説明できる。この「法則的一般性」と、法則は何らかの根本的実体の能力に基づいているという「力実在論」を組み合わせると、基本的実体は微視的レベル(素粒子)か宇宙レベルのいずれかにあるという結論に至る。

そして、意識主体の還元不可能性を認めるなら、宇宙心理主義が最も有望な選択肢となる。宇宙全体が意識を持ち、私たちの意識はその側面である。この見解は「宇宙の中の小さな意識がどのように統合されるか」という問題を回避し、代わりに「宇宙意識がどのように側面として個別意識を持つか」という問題に置き換える。

最後に著者は、これらの考察を踏まえて形而上学の新しい方法論「分析的現象学」を提案している。これは意識の直接的経験を重要なデータとして扱い、科学的知見とともに形而上学的探究の基礎とするアプローチだ。

この理論の要点をまとめると:

  • 1. 物理学は世界の「関係的構造」だけを教えるが、その内的本質については沈黙している
  • 2. 意識主体は還元不可能で分析できない
  • 3. 伝統的な「部分が全体を構成する」という考えでは意識を説明できない
  • 4. 代わりに「全体が部分を包含する」という考えを採用する
  • 5. 宇宙全体が一つの意識主体であり、私たちの意識はその側面である

この宇宙心理主義の見解は、西洋哲学では異端的かもしれないが、東洋の非二元論的伝統と共鳴する部分がある。しかし著者はあくまで分析哲学の枠内でこの見解を擁護している。

著者の見解は「純粋物理主義」から「汎心論」を経て「宇宙心理主義」へと発展している。これは意識の問題を真剣に考えるほど、より根本的な世界観の転換が必要になることを示唆している。意識と物質を統合的に理解するためには、物理主義の枠を超え、しかし二元論に陥ることなく、世界の根本的な一元性を保ちながら意識の実在を認める道を模索する必要がある。それが著者の提案する宇宙心理主義なのだ。

この理論は確かに大胆で直感に反するかもしれないが、意識と物質の関係という古くて難しい問題に対する新たなアプローチとして検討に値する。意識が物質から還元的に説明できるのではなく、むしろ物質と意識が同じ根本的現実の異なる側面であるという考えは、心身問題に関する私たちの思考を根本から変える可能性を秘めている。

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