Chaos : Charles Manson, the CIA, and the Secret History of the Sixties
目次
プロローグ
第1章 世紀の犯罪(The Crime of the Century)
第2章 危険なオーラ(An Aura of Danger)
第3章 ゴールデン・ペネトレーターズ(The Golden Penetrators)
第4章 ヘルター・スケルターの穴(The Holes in Helter Skelter)
第5章 ロサンゼルス郡保安官事務所の健忘症(Amnesia at the L.A. County Sheriff’s Office)
第6章 リーブ・ウィットソンとは何者か(Who Was Reeve Whitson?)
第7章 左翼の無力化(Neutralizing the Left)
第8章 弁護士の交代(The Lawyer Swap)
第9章 マンソンの免罪符(Manson’s Get-Out-of-Jail-Free Card)
第10章 ヘイト・アシュベリー無料医療クリニック(The Haight-Ashbury Free Medical Clinic)
第11章 マインドコントロール(Mind Control)
第12章 どこに向かうのか(Where Does It All Go?)
エピローグ(Epilogue)
各章の要約
プロローグ
著者は1999年にプレミア誌の依頼でマンソン殺人事件の30周年記事を執筆する予定だったが、調査を進めるうち事件の公式見解に大きな疑問を抱くようになった。検事ヴィンセント・バグリオシとの6時間にわたる対峙では、バグリオシが著者を恫喝し「1億ドルの名誉毀損訴訟」を警告した。著者は7年間で1000人以上にインタビューし、破産と鬱状態に陥りながらも調査を続けた。事件には警察、裁判所、そしてCIAまでが関与する隠蔽と欺瞒の痕跡があることを発見。この調査は単なる雑誌記事から、アメリカ史上最も有名な殺人事件の真相究明へと発展していく。(199字)
第1章 世紀の犯罪(The Crime of the Century)
1969年8月8日夜、シャロン・テート、ジェイ・セブリング、アビゲイル・フォルジャー、ヴォイテク・フリコウスキー、スティーブン・ペアレントが10050チエロ・ドライブで残忍に殺害された。翌夜にはレノとロズマリー・ラビアンカ夫妻も殺された。犯人は4ヶ月間逮捕されず、恐怖が街を支配した。チャールズ・マンソンが率いるファミリーは、ドラッグとLSDによる洗脳で平和な若者たちを冷酷な殺人者に変えた。バグリオシ検事は「ヘルター・スケルター」という人種戦争動機を主張したが、この動機の信憑性に疑問が残る。事件の公式ナラティブには多くの矛盾と省略が存在する。(200字)
第2章 危険なオーラ(An Aura of Danger)
著者はハリウッドの関係者への取材で、テート邸における事件前の放縦なパーティーと薬物使用の実態を調査した。36人以上の著名人が取材を拒否する中、シャロンの友人たちはポランスキーの虐待的行動と、フリコウスキーの危険な薬物取引への関与を証言した。ピック・ドーソン、ビリー・ドイル、チャールズ・タコットらの薬物密売人グループとフリコウスキーとの間で起きた暴行事件が、復讐殺人の動機となった可能性が浮上。チャーリー・タコットは政府情報機関との関係を示唆し、ジェイ・セブリング理髪師リトル・ジョーはマフィアとの関連を証言した。公式のヘルター・スケルター動機よりも現実的な犯行動機が存在していた。(199字)
第3章 ゴールデン・ペネトレーターズ(The Golden Penetrators)
テリー・メルチャー、デニス・ウィルソン、グレッグ・ジェイコブソンの3人組「ゴールデン・ペネトレーターズ」とマンソンとの関係を調査。1968年夏、ウィルソンの邸宅にマンソン・ファミリーが居住し、メルチャーはマンソンのレコード契約を検討したが拒絶した。著者はメルチャーが公判で偽証したことを示す証拠を発見。ディーン・ムーアハウスがメルチャーと同居していた時期についてバグリオシが虚偽の記述をしていることも判明。メルチャーは殺人後もマンソンと接触を続けていたが、これを隠蔽していた。ヘルター・スケルター動機の中核部分に重大な虚偽があることが明らかになった。(200字)
第4章 ヘルター・スケルターの穴(The Holes in Helter Skelter)
著者はバグリオシの手書きメモから、重要証人ダニー・デカルロが殺人後にメルチャーがスパーン牧場を3回訪問したと証言していたことを発見。しかしメルチャーは法廷で「5月以降マンソンに会っていない」と偽証していた。バグリオシはこの証言を隠蔽し、デカルロにも法廷で言及させなかった。さらにポール・ワトキンスも同様の目撃証言をしていたが、これも隠された。メルチャーとの屋上での対決で、彼は脅迫的になり法的措置を警告した。検事が主要証人に偽証をさせ、事件の中核的証拠を隠蔽していたことが判明。ヘルター・スケルター動機の信憑性が根本的に揺らいだ。(199字)
第5章 ロサンゼルス郡保安官事務所の健忘症(Amnesia at the L.A. County Sheriff’s Office)
ゲイリー・ヒンマン殺害事件を担当したLASO刑事チャーリー・ガンサーは、ボビー・ボーソレイルが獄中からスパーン牧場に電話し「印を残せ」と指示したという録音テープの存在を証言。これが翌日のテート殺害の引き金となったとする模倣犯説を主張した。8月16日の史上最大規模のスパーン牧場捜索では、マンソンら34人を逮捕したが全員が72時間後に釈放された。プレストン・ギロリー元LASO刑事は、マンソンに対する「逮捕禁止」指令があったと証言。マンソンが何らかの情報提供者だった可能性と、ブラックパンサー党への攻撃を期待した当局の思惑が浮上した。(200字)
第6章 リーブ・ウィットソンとは何者か(Who Was Reeve Whitson?)
シャロン・テートの写真家シャーロック・ハタミを検察側証人にするために脅迫したリーブ・ウィットソンという謎の人物を調査。十数人の関係者がウィットソンをCIA工作員と証言した。彼は複数の偽装身分を持ち、元妻は彼の反共産主義工作を証言。「Five Down on Cielo Drive」未刊行原稿では「ウォルター・カーン」の偽名で登場し、LAPD捜査の中心にいたことが判明。友人たちは彼が殺人を事前に知っており阻止できたはずだと証言。娘は父が非公式CIA部門の存在しない工作員だったと語った。ウィットソンはマンソン事件における情報機関の関与を示唆する最重要人物だが、1994年に死去し真相は闇の中に残った。(200字)
第7章 左翼の無力化(Neutralizing the Left)
カリフォルニア州は1960年代に反戦運動の震源地となった。1960年5月13日のサンフランシスコ市庁舎での抗議活動を皮切りに、学生運動が活発化した。FBI長官エドガー・フーバーとCIA長官ジョン・マッコーンは、1965年1月にバークレーでの「是正措置」を計画した。ロナルド・レーガンは州知事選で「いわゆる新左翼」への対策を掲げ、マッコーンを調査委員会のトップに任命すると公約した。1967年8月、ジョンソン大統領の承認を得て、CIAは国内監視プログラム「CHAOS」を、FBIは「COINTELPRO」を開始した。両プログラムの目的は左翼運動の信用失墜であり、これはマンソン殺人事件の結果と奇妙に一致していた。(295字)
第8章 弁護士の交代(The Lawyer Swap)
ロサンゼルス地検は、マンソン・ファミリーの起訴において何も偶然に任せなかった。最初の兆候はボビー・ボーソレイルの裁判で現れた。検察官ロナルド・ロスは、マンソンやファミリーについて言及することを上司から禁じられた。証言終了直前、上司のデイビッド・フィッツは判事と密室で会談し、新証人ダニー・デカルロの追加を決定した。これは前例のない行為だった。一方、スーザン・アトキンスの弁護士交代では、地検とLAPDが「顧客管理能力の高い」弁護士リチャード・カバレロへの変更を事前に決定していた。カバレロは元検察官で、アトキンスの証言内容を操作し、メディアに詳細を漏洩した。この操作により起訴が可能となった。(298字)
第9章 マンソンの免罪符(Manson’s Get-Out-of-Jail-Free Card)
マンソンの保護観察官ロジャー・スミスとの関係を調査する中で、著者はスーザン・アトキンスの過去の法的扱いの異常さを発見した。1969年6月4日、マンソンと共に薬物使用で逮捕されたアトキンスは、保護観察違反の令状があったにも関わらず、メンドシーノ郡の判事ウェイン・バークによって「保護観察に違反していない」と判断され、予定より2年早く釈放された。同様の恩赦は1968年にオレゴン州でも発生していた。スミスは1967年3月にマンソンの保護観察官となり、サンフランシスコ・プロジェクトの一環として監督していた。マンソンは頻繁に違反行為を行ったが、スミスは一度も保護観察を取り消さなかった。(299字)
第10章 ヘイト・アシュベリー無料医療クリニック(The Haight-Ashbury Free Medical Clinic)
デイビッド・スミス医師が1967年6月に設立したヘイト・アシュベリー無料医療クリニック(HAFMC)は、マンソンとファミリーが頻繁に利用した施設だった。デイビッド・スミスの研究は、密閉されたマウスにアンフェタミンを投与し暴力的行動を誘発する実験で、その結果をヒッピーの行動パターンと比較していた。ロジャー・スミスはアンフェタミン研究プロジェクト(ARP)を主導し、両スミスの研究ファイルは盗難に遭った。アラン・ローズはファミリーと4ヶ月間生活し、「集団結婚コミューン」研究を共同執筆した。しかし検察官ブグリオーシは、マンソンの洗脳手法を熟知していた両スミスとローズを証人として呼ぶことはなかった。(299字)
第11章 マインドコントロール(Mind Control)
著者はUCLAでルイス・ジョリー・ウェスト博士の文書を発見し、彼がCIAのMKULTRAプログラムに関与していたことを証明した。ウェストは1966年にサンフランシスコでヒッピー研究のための「実験所」を設立し、「ヒッピー・クラッシュパッド」に偽装した研究施設を運営していた。彼はCIAのシドニー・ゴットリーブと1953年から correspondence(書簡交換)し、LSDと催眠術を組み合わせた記憶操作実験を行っていた。1964年、ウェストはジャック・ルビーを精神鑑定し、「急性精神病」と診断した。ルビーはケネディ暗殺犯オズワルドを射殺した人物で、ウェストの診断後、ルビーは一貫して妄想状態を呈した。MKULTRAは1973年に文書が破棄されたが、ウェストの書簡が残存していた。(300字)
第12章 どこに向かうのか(Where Does It All Go?)
著者は2006年にブグリオーシと6時間の対峙インタビューを行った。テリー・メルチャーが殺人後もマンソンと接触していた証拠を提示したが、ブグリオーシは「見落とし」だったと主張した。その後ブグリオーシは著者への中傷キャンペーンを開始し、出版社ペンギンに34ページの告発文書を送付した。著者は2008年にフィリッポ・テネレリの死に関する調査を開始した。1969年にビショップで「自殺」とされたテネレリの死には多くの疑問があり、マンソン・ファミリーの関与が疑われた。警察は証拠隠滅を図り、再調査も妨害された。2012年、著者は出版期限に間に合わず、ペンギンから契約解除と返金要求の訴訟を起こされた。(299字)
エピローグ(Epilogue)
著者は20年間の調査を通じて「何が本当に起こったのか」という質問を最も嫌うようになった。明確な答えは持っていないが、公式な物語が間違っていることは証明できると主張する。現在でもLAPDと地検は情報公開を拒否し続けている。テックス・ワトソンの自白テープは2011年に地検が入手したが、一般には公開されていない。著者は2000年にマンソン本人と電話で会話したが、彼は謎めいた発言ばかりで具体的な情報は得られなかった。マンソンは2017年に死去したが、著者にとって彼の存在はさほど重要ではなかった。真の悪は我々が知らないことの中にあり、それが著者を20年間突き動かした原動力だった。(299字)
著者について
トム・オニールは、数々の賞を受賞した調査報道記者であり、その記事は『Premiere』、『New York』、『Village Voice』、『Details』などに掲載されている。
ダン・ピーペンブリングは、『The Paris Review』の顧問編集者であり、『The New Yorker』のウェブサイトにも寄稿している。