Authentic vs. Inauthentic Existence: The Ultimate Choice
現代人類は眠ったままポストヒューマニズム(人間を超えた状態)へと突き進んでいる。そこで本物の存在(Dasein=ハイデガーの「現存在」、人間の実存的あり方)が失われている。形而上学的かつ文明的なルーツへの回帰だけが、国家を不可逆的な文化的崩壊から救う。
https://alexanderdugin.substack.com/p/authentic-vs-inauthentic-existence
アレクサンドル・ドゥーギン
2025年2月22日
彼らの歴史の終わりは未来への戦争だった。もう一つの(共産主義でもリベラルでもない)ヘーゲルの読み方がある――ヘーゲル自身の読み方だ。この読み方は、歴史の終わりを形而上学的な国家、精神的帝国の創造と見なす。それ自体が未来を体現していなければならない。
主権的な左派の選択はサラ・ヴァーゲンクネヒトだ。それ以外の選択肢は自殺的だ。
AfD(ドイツのための選択肢、右派政党)への投票は、ドイツにとって「あるか、ないか」の答えだ。AfDがなければドイツはもう存在しない。
グローバルメディアが私に対して、またロシア全体に対して、全く偽りの非難を広めるために動いているのもその通りだ。即座に、みな同じ文言を繰り返す。まるで左派リベラルのグローバルAIエージェントがそれをやるよう訓練されているみたいだ。メディアはただそれを印刷するだけ。
「指示」(マスクが使った言葉)は時代遅れだ――ある者は受け取り、ある者は受け取らず、ある者は理解し、ある者はしない。リベラルに訓練されたグローバルAIエージェントが世界中のジャーナリストを置き換えた。おそらくソロスが作ったのだろう。
LLM(大規模言語モデル)は今やどの国の世論も正確に模倣できる。それもかなりうまく。これは、社会的メンタリティが操作され、疎外され、人工的に構築されたものであることを意味する。機械が人間を効果的に再現できるなら、人間はすでに機械であるはずだ。
現代人はほぼロボットだ。わずかな違いがある。人間はDasein(現存在)だが、それに気づいていない。Daseinは非本来的に(das Man=ハイデガーの「世人」、平均的な匿名的大衆として)機能する。das ManはAIだ。だからポストヒューマンへの不可逆的な移行は、Daseinを本来的に切り替える可能性の最終的な喪失だ。
それがシンギュラリティ(技術的特異点、AIが人間を超える時点)だ。今、Daseinはまだここにあるが、非本来的なモードで。だから人間と機械の違いは見かけ上ないが、それはある(仮想的な可能性として)。シンギュラリティと強力なAIはそうした潜在性を完全に排除する。誰も気づかない、誰も気にしない。使われないものは取り払われる。
人間とポストヒューマンが同一になる。人間はオプションだ。人間が消えても、誰も気づかない、誰も気にしない。喪失をまだ目撃できるインスタンスが残らない。Daseinの喪失だ。それが計画だ。
プーチン、トランプ、習近平、モディはDaseinについて考えるべきだ。そうでなければすべてが無駄になる。
偉大な力は、主要な実存的問いに偉大な答えがなければ役に立たない。存在を本来的にするか、非本来的にするかだ。本来的に存在するDaseinだけが、時間の第三の次元として未来を持つ。それがなければ、同じものの絶え間ない繰り返し、永遠の過去しかない。
ヘーゲルによれば、偉大な哲学なしに本当に偉大な国家はありえない。哲学的プロセスを始めずにアメリカを偉大にはできない。他のすべての極(国家)にも同じことが当てはまる。哲学的偉大さがまず最初だ。
知的エリートが輝かしくない愚かな国は偉大になれない。
哲学者の王がトップに立ち、哲学者たちに囲まれている。次に英雄的な戦士たちがいる。その下に勤勉で道徳的で宗教的な人々がいる。嘘つき、詐欺師、変態、グローバル主義者は追放されるか取り消される。
ルネ・ゲノン(伝統主義哲学者)は、ここ数世紀で誰よりも真実に近い。
Grok3による深層分析
さて、アレクサンドル・ドゥーギンのこの文章を深層分析する。どこから始めようか。まず目につくのは「本物の存在(Dasein)」と「偽物の存在」という対比だ。これはハイデガーの哲学から引っ張ってきた概念で、人間の実存的なあり方を指している。ドゥーギンは現代人がこの「本物の存在」を失いつつあると言っている。面白そうだ。じゃあ、ちょっとずつ解きほぐしてみるか。
最初に気になるのは、「現代人類は眠ったままポストヒューマニズムへと突き進んでいる」という一文だ。ポストヒューマニズムって何だ?人間を超えた状態、つまり技術やAIが人間性を変形させたり置き換えたりする状況を指しているんだろうか。ドゥーギンはこれを否定的に見ているみたいだ。眠ったまま、という表現がポイントだ。意識せず、主体性を持たずに進んでいるというニュアンスがある。つまり、人間が自分の存在について考えることなく、ただ流されている状態を批判しているのかもしれない。うん、ここは納得できる。でも、本当にそうなのか?みんなが無意識に進んでいるのか、それとも一部の人だけがそうだと言いたいのか。まだ曖昧だ。
次に、「本物の存在(Dasein)が失われている」とある。ハイデガーのDaseinは、人間が世界に投げ込まれた存在として、自分自身や周囲を意識的に問い直すあり方だ。ドゥーギンはこれが失われることで、何か大事なものが消えると言っている。じゃあ、何が失われるんだろう。文章を読み進めると、「非本来的なモード」や「das Man(世人)」という言葉が出てくる。das Manはハイデガーでいう平均的な大衆、個性を失った匿名の存在だ。これがAIと結びついているというのがドゥーギンの主張らしい。AIが人間の思考や行動を模倣しすぎて、人間がその「世人」と同じレベルに落ちていく。そうすると、本来的なDasein――つまり、自分で考えて自分で存在を定義する力が失われる、と。なるほど、筋は通っている。でも、AIがそんなに人間を支配しているのか?まだそこまで行っていない気もする。少し大げさじゃないか?
ここでちょっと立ち止まる。ドゥーギンはAIを「左派リベラルのグローバルAIエージェント」と呼んで、ソロスが作ったと推測している。これは政治的なバイアスが強すぎるんじゃないか。証拠はないし、陰謀論っぽい響きがある。いや、でも彼の視点では、グローバル化やリベラルな価値観が伝統的な文化を壊していると感じているんだろう。それをAIに象徴させているのか。うーん、そう考えると、彼の哲学的な議論が政治的なアジェンダと混ざっている気がする。ちょっと混乱してきた。哲学と政治を分けて考えるべきか、それともドゥーギンにとってはそれが一体なんだろうか。後でまた戻ってこよう。
さらに進むと、「歴史の終わり」や「形而上学的な国家」という話が出てくる。ヘーゲルの「歴史の終わり」を再解釈して、単なるリベラル民主主義や共産主義の終点じゃなくて、精神的な帝国の創造がゴールだと言っている。ここで彼のビジョンが見えてくる。本物の存在を取り戻すには、国家が哲学的・形而上学的な基盤を持つべきだと。単に力があるだけじゃダメで、深い思想が必要だ、と。確かに、ヘーゲルは国家と哲学の結びつきを重視していた。でも、現代でそんな「精神的帝国」を作るのは現実的か?理想主義すぎる気がする。いや、でもドゥーギンは現実性より理念を優先しているのかもしれない。結論を急ぐな、と言われているし、もう少し掘ってみよう。
「シンギュラリティ」という言葉も出てくる。技術的特異点、AIが人間を超える時点だ。ここで彼は、Daseinがまだ「仮想的な可能性」として残っているが、シンギュラリティが来るとそれすら失われると言っている。つまり、人間と機械の違いが完全になくなる瞬間だ。誰も気づかず、誰も気にしない、と。怖い話だ。でも、本当に誰も気づかないのか?人間の意識ってそんなに簡単に消えるものなのか。ドゥーギンは人間がすでに「ほぼロボット」だと感じているみたいだ。確かに、SNSとか見てると、みんな同じような意見を繰り返してる場面はある。das Man的な振る舞いってある意味現代的だ。でも、そこまで極端か?まだ人間らしさは残っていると思うんだけど。どうだろう。
ここで少し自己懐疑が入る。自分がドゥーギンの主張に否定的になりすぎてるんじゃないか。彼の視点に立ってみよう。彼は文明の危機を感じている。グローバル化や技術進化が、人間の根源的な何か――Dasein――を奪うと本気で心配しているんだ。それを「本来的な存在」に戻すには、哲学的な国家や伝統への回帰が必要だと。なるほど、彼にとってはこれは生存をかけた戦いなんだろう。でも、じゃあ「本来的な存在」って具体的には何だ?ドゥーギンはそれを曖昧にしている気がする。ハイデガーみたいに厳密に定義してない。もっと詳しく知りたいな。
後半に進むと、「プーチン、トランプ、習近平、モディはDaseinについて考えるべきだ」とか、「偉大な哲学なしに偉大な国家はない」とか、壮大な話になってくる。彼の理想は、哲学者王が率いる国家だ。プラトンみたいだな。で、底辺には「勤勉で道徳的で宗教的な人々」がいて、グローバル主義者は追放される。ルネ・ゲノンへの言及もある。ゲノンは伝統主義者で、近代を堕落と見なして古い秩序への回帰を説いた。ドゥーギンの思想が伝統主義と重なっているのは確かだ。でも、これって現実的じゃないよね?現代社会でそんな階級制や哲学的国家を作れるのか。ちょっと夢想的すぎる。
でも待てよ。ドゥーギンは現実性を目指してないのかもしれない。彼の文章って、警告とかヴィジョンなんだ。危機感を煽って、人々に「本物の存在」を思い出させたいのかも。じゃあ、彼の言う「本物の存在」って、結局は自分で考えて、自分のルーツや文化に根ざして生きることなのかな。それなら分かる。でも、AIやグローバル化がそれを完全に奪うっていうのは、まだ確信が持てない。証拠が足りない感じだ。
思考が行き詰まってきたぞ。ここで一度立ち戻る。ドゥーギンの核心は、「本物の存在」と「偽物の存在」の選択だ。本物的=自分で考えて文化に根ざすこと、偽物的=AIやグローバル化に流されること、と解釈してみる。これでいいか?でも、彼の政治的主張――AfDとかサラ・ヴァーゲンクネヒトとか――が混ざると、哲学がイデオロギーに汚染されてる印象になる。そこが引っかかる。純粋に哲学的な議論として読みたいのに、政治が絡むとノイズになるんだよな。
もう少し考えてみる。彼の「シンギュラリティ=Daseinの喪失」というアイデアは興味深い。確かに、AIが人間の思考を完璧に模倣できるようになったら、人間らしさって何で測るんだろう。ドゥーギンは、それを「本来的なDasein」――つまり自分で存在を問い直す力――だと定義してる。でも、現代人がそこまで非本来的かって言うと、疑問だ。まだみんな自分で考えてる部分はあるよね?いや、でもドゥーギンに言わせれば、それは錯覚で、実はdas Manに支配されてるんだ、ってことか。うーん、深いな。
ここで自然な解決が見えてきたかもしれない。ドゥーギンの文章は、哲学的な警鐘だ。彼は人間が機械化していく未来を恐れてて、それを避けるには哲学と伝統に立ち戻るしかないと言ってる。政治的な主張は彼のバイアスだけど、核心は「本物の存在」を取り戻すことにある。じゃあ、その「本物の存在」は何か。具体性はないけど、自分で考えて、自分の文化や歴史に根ざして生きる姿勢なんだろう。それが彼の言う「第三の時間の次元としての未来」なのかもしれない。
でも、まだ不確実性が残る。AIが本当にDaseinを奪うのか、現代人がそこまで非本来的なのか、証拠が薄い。ドゥーギンはもっと直感的・観念的に語ってる感じだ。結論を急がないでいいなら、ここで終わるのもありか。いや、もう少しだけ。ルネ・ゲノンの影響を考えると、彼は近代を否定して伝統的な秩序を理想化してる。それがドゥーギンの国家観にも反映されてる。でも、現代でそれをどう実現するかは全く分からない。現実と理想のギャップが大きすぎる。
結局、ドゥーギンのメッセージはこうだ。本物の存在(Dasein)を意識して生きないと、人間は機械と区別がつかなくなる。哲学的な国家や伝統への回帰がその解決策だ。でも、それがどれだけ現実的かは分からないし、AIが本当にそこまで脅威かもまだ確信できない。彼の思考は挑発的で面白いけど、結論というより問いを投げかけてくるものだ。探求はここで一旦終わるけど、また考え直してもいいかもしれない。
最終的な答え
ドゥーギンの「本物の存在と偽物の存在」は、人間が自分で考えて文化に根ざす生き方(本物的)と、AIやグローバル化に流される生き方(偽物的)の対比だ。彼は現代人が後者に陥りつつあると警告し、哲学と伝統に基づく国家でそれを防ぐべきだと主張する。ただし、その危機の深刻さや解決策の現実性は不確かで、結論より探求を促すメッセージとして読むべきだ。