
『At Work in the Ruins:Finding Our Place in the Time of Science, Climate Change, Pandemics and All the Other Emergencies』 Dougald Hine 2023
目次
- 序章 まず終わりがなければならない / First There Must Be an End
- 第一部 どのように始まったか / How This Started
- 第1章 気候変動について語ること / Talking About Climate Change
- 第2章 私たちが陥っている問題 / The Trouble We’re In
- 第3章 四つの会話 / Four Conversations
- 第二部 科学に求めすぎること / Asking Too Much of Science
- 第4章 私が唯一予測すること / The Only Prediction I Am Going to Make
- 第5章 上流の問い / The Upstream Questions
- 第6章 数字で舵を取ること / Steering by Numbers
- 第7章 虚空にぶら下がって / Hanging Over the Void
- 第8章 科学について真実を教えてくれ / Tell Me the Truth About Science
- 第9章 ポチョムキン村人 / Potemkin Villagers
- 第10章 私が言っていないこと / What I Am Not Saying
- 第三部 すべてが変わったとき / When Everything Changed
- 第11章 科学の背後 / Behind the Science
- 第12章 どのように考えるか / How to Think
- 第13章 何を信じるか / What to Believe
- 第14章 大人たちの登場 / Here Come the Grown-Ups
- 第15章 否認の濃淡 / Shades of Denial
- 第四部 何が起こったのか / What Just Happened
- 第16章 治療法に適合する病気 / An Illness That Fits the Cure
- 第17章 近代的な死に方 / The Modern Way of Dying
- 第18章 砂の上の足跡 / Footsteps in the Sand
- 第19章 社会が病むとき / When a Society Gets Sick
- 第五部 私たちがいる場所 / Where We Find Ourselves
- 第20章 水槽 / The Fish Tank
- 第21章 二つの道が分かれた / Two Roads Diverged
- 第22章 左折禁止 / No Left Turn
- 第23章 諦め方 / How to Give Up
- 第24章 十分に知ること / Knowing Enough
- エピローグ どこから始めるか / Where to Begin
本書の概要
短い解説:
本書は、気候変動、パンデミック、科学の政治的利用といった現代の危機を、近代性の終焉という視座から捉え直すことを目的とする。著者は「科学にすべてを委ねる」という態度がかえって問題を悪化させると論じ、私たちが「大きな道」(技術的管理・監視・成長継続の道)ではなく「小さな道」(コミュニティの回復力・関係性・謙虚さの道)を選ぶべきだと主張する。
著者について:
ダグラス・ハインは英国出身の社会思想家・作家。元BBCジャーナリスト。2009年にポール・キングスノースと共にダークマウンテン・プロジェクトを創設し、気候変動や文明の終焉についての文化的対話を促進してきた。スウェーデンのウプサラ大学環境開発研究センターのアソシエイトでもある。
テーマ解説:
- 科学の限界と誤用:気候変動やパンデミックにおいて「科学に従う」というレトリックが、実際には政治的判断を隠蔽し、民主的対話を閉ざす危険性を指摘する。
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近代性の終焉:「世界の終わり」とは地球の物理的終焉ではなく、近代的な生活様式・世界観・価値観の終焉である。この区別が本書の核心的洞察である。
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二つの道:「大きな道」(魚槽のように世界を管理・制御するプロジェクト)と「小さな道」(分岐する無数の小さな道)の対比を通じて、どのような未来が望ましいかを問う。
キーワード解説:
- 近代性(Modernity):17世紀以降の西洋を中心とする世界観。未来への信仰、科学の権威、進歩・成長・発展の物語を特徴とする。本書では「終焉を迎えつつある世界」として扱われる。
- 科学(Science):観察・測定・計算による知の生産システム。本書は科学の成果を否定せず、その限界と政治的な利用法を批判的に検討する。
- 上流の問い(Upstream Questions):気候変動について科学が答えられない問い——「私たちはなぜここに至ったのか」「これは単なる大気化学の不運なのか、それとも世界観の問題なのか」——を指す。
- 魚槽(Fish Tank):世界を人工的な管理・制御の対象と見做す近代的プロジェクトの比喩。生態系サービスや地球工学などの言説に現れる。
- ホスピシング(Hospicing):ヴァネッサ・マシャド・デ・オリベイラの概念。近代性を殺すのでも救うのでもなく、その「良い死」を看取る営み。
要点要約
本書は、気候変動について語ることに15年以上携わってきた著者が、なぜ「気候変動について語るのをやめる」という決断に至ったかを描く思想的自伝である。
著者は2005年にBBCジャーナリストとして気候変動の衝撃を受け、2009年にポール・キングスノースと共にダークマウンテン・マニフェストを発表した。そこでは「世界の終わり」を悲観的に受け止めるのではなく、新しい始まりの可能性として捉える視点が提示された。その後、著者は気候科学者・アーティスト・活動家たちと協働し、「気候変動の暗黒物質」——科学だけでは語れない部分——について語り続けた。
2018年、グレタ・トゥーンバーグの学校ストライキとエクスティンクション・レベリオンの登場は、気候変動への意識を大きく変えた。しかし著者は、これらの運動が「科学の背後に団結せよ」というスローガンに象徴されるように、科学を絶対視する傾向を強めていることに懸念を抱く。
新型コロナウイルス禍はこの傾向を決定的に加速させた。政府は「科学に従う」という名目で前例のない規制を導入し、科学的知見への批判的対話は封殺された。著者はこの状況を「思考の国境の閉鎖」と表現し、スウェーデンという特異な立場からパンデミック対応を観察した経験を語る。
第二部では、科学の歴史と限界が検討される。科学は近代社会において「現実とは何か」を決定する独占的権威とされてきたが、気候変動のような複合的問題に対しては、科学だけでは答えられない「上流の問い」が存在する。環境運動は1990年代以降、文化や世界観への問いかけを放棄し、科学的データに政治的な重荷を負わせる道を選んだ。この「科学に求めすぎる」態度は、必然的に失望を生む。
第三部はパンデミックがもたらした認識論的転換を扱う。デイヴィッド・ケイリーやジャスティン・E・H・スミスといった思想家たちは、パンデミック対応における「科学への盲従」と、それに異議を唱える者が即座に「陰謀論者」として排除される現象を批判した。著者はこれが「知識人のSTEM化」——人文・社会系の思想家までもが疫学データの伝達係に成り下がる現象——に起因すると論じる。
第四部では、パンデミック対応の深層にある構造的問題が明かされる。キャパシティ問題——医療システムが通常時でさえ脆弱であり、わずかな患者増加で崩壊する——が、比較的致死率の低いウイルスに対して極端な措置を取らせた。著者はイヴァン・イリイチの「対生産性」概念を援用し、近代医療システムが死を「問題」として扱い、在宅看取りの能力を喪失したことが、パンデミックを社会的危機に拡大させたと論じる。
最終部では、気候変動を出発点とした対話がもはや「大きな道」——魚槽としての世界管理プロジェクト——へと導くだけになったという認識から、別の出発点を模索する。著者はアミタフ・ゴーシュ、ヴァネッサ・マシャド・デ・オリベイラ、クリス・スメイジらの思想を紹介しながら、「小さな道」——地域コミュニティの回復力、農民的フードウェブ、伝統知の再評価——への転換を提案する。科学との関係では、科学をイデオロギーとして否定するのでも絶対視するのでもなく、その限界を認めた上で「友人」として付き合う姿勢が示される。
各章の要約
序章 まず終わりがなければならない
著者は「世界の終わり」という感覚が成人期を通じて成長してきたと語る。2010年には若者の将来が親より悪くなると信じる人が多数を占めるようになった。パンデミックはこの感覚を決定的にした。著者はスウェーデンというロックダウンを採用しなかった国に住む特異な視点から、「アポカリプス」が「啓示」を意味する原義を想起する。本書の二つの核心理論——「世界の終わりは世界そのものの終わりではない」「世界の終わりは世界を知る方法の終わりでもある」——が提示される。後者は近代性と科学の終焉を意味する。著者はヴァネッサ・マシャド・デ・オリベイラの「近代性のホスピシング」やフェデリコ・カンパーニャの「良き廃墟を残す」という概念を紹介し、本書が「世界を救う」方法を提供するのではなく、終わりゆく世界の中でどのような営みが価値を持つかを問うものであることを宣言する。第1章へと続く。
第一部 どのように始まったか
第1章 気候変動について語ること
著者は15年以上にわたり気候変動について語ってきたが、ある日「気候変動について語るのをやめる」決断をした経緯を明かす。2005年に自身の「オー・ファック」瞬間を経験し、その後ポール・キングスノースと共にダークマウンテン・マニフェストを執筆。このマニフェストは偽りの楽観主義を捨て、危機の深さと文化的ルーツに正面から向き合うことを呼びかけた。2018年のグレタ・トゥーンバーグとエクスティンクション・レベリオンの登場は、新たな気候運動の波をもたらした。しかし著者は、これらの運動が「科学の背後に団結せよ」というスローガンに象徴されるように、科学的枠組みを強化していることに懸念を抱く。パンデミック後、この傾向は決定的になり、「気候変動について語る」という行為自体が「大きな道」——技術的管理・監視・成長継続——へと導くだけになったと著者は見る。第2章ではこの問題の本質が掘り下げられる。
第2章 私たちが陥っている問題
著者は依然として気候変動は深刻な問題だと考えているが、その語り方に問題があると論じる。気候変動は科学によって枠付けられており、科学が答えられない「上流の問い」——なぜ私たちはここに至ったのか、この問題の本質は何か——が存在する。これまで著者は気候変動について語ることで、より大きな文化的対話への入り口を提供できると考えていた。しかしパンデミック後、「科学」の権威は絶対化され、気候変動の政治学は二つの道に分岐した。大きな道はシリコンバレーやウォール街から左派の一部までを結びつけ、技術革新・経済成長・開発の既存軌道を維持しようとする。小さな道は地面に近いところで回復力を育み、既存の成長軌道が持続不可能であることを前提とする。著者は「気候変動」という言語そのものが、これからは大きな道のエンジニアやマーケターに占有されると警告する。第3章ではこの洞察に至った具体的な会話が描かれる。
第3章 四つの会話
著者が気候変動について語るのをやめる決断に至った2021年9月の一週間の四つの会話が描かれる。第一はデンマークの研究者との会話——彼は7,000の生息地をモデリングして管理計画を立てるプロジェクトに熱中していた。著者はこれにボルヘスの「1対1の地図」の寓話を連想し、冷めた反応を示す。第二はパレスチナ系アメリカ人の起業家からの連絡——彼は「ヘルスケア分野」から「気候変動分野にピボット」しようとしており、著者は気候変動がすでに「こういう人たち」の領域になったと認識する。第三はエストニアのジャーナリストとの会話——石油頁岩産業の衰退に直面するコミュニティについて。著者は気候政治がどのように「自分たちの有権者ではない」人々に壊滅的打撃を与えるかを痛感する。第四は地域政府のプロジェクトでのパネル出演依頼——著者はこれを断り、気候変動について語る役割を終える決断をする。第二部へと続く。
第二部 科学に求めすぎること
第4章 私が唯一予測すること
著者はウプサラ大学での講義を再現し、学生たちに「私たちはみな死ぬ」と告げる。これは終末予言ではなく、死の受容についての考察の入り口である。近代西洋社会は「死恐怖症」の文化であり、環境運動もこの影響から逃れられない。ジョン・マイケル・グリーンの「問題(problem)」と「窮状(predicament)」の区別が導入される——死は「問題」ではなく「窮状」であり、解決ではなく共に生きることを要する。近代産業社会は世界を一連の「問題」として見るが、その「解決」が新たな問題を生む。化石燃料経済は「死によって養われる」経済であり、先住民文化の破壊や奴隷制と構造的に連動している。著者はアラン・ガーナーの回想録を通じて、死が日常的に存在した世界を想起し、現代の「死の先送り」文化が気候変動への対応を歪めていると論じる。第5章では科学が答えられない問いへと話が進む。
第5章 上流の問い
サーミ人のアーティストとの対話を通じて、気候変動がすでに先住民の生活に現実の影響を与えていることが示される。近代社会の恩恵を受ける人々は、季節の変化から切り離され、科学者のデータに依存して初めて危機を認識する。著者は「上流の問い」を定式化する——気候変動は単に大気化学の不運な結果なのか、それとも世界へのアプローチそのものに原因があるのか?科学はこの問いに答えられないが、いかなる対応も暗黙のうちにこの問いに答える。もし単なる不運なら、テクノフィックスで既存の道を継続できる。しかし原因が世界観そのものにあるなら、別の道を探さねばならない。この問いを明確にせず「科学」の枠内に留まれば、デフォルトの答え——不運説——が採用され、テクノロジーによる管理へと導かれる。第6章ではこのパターンの歴史が追溯される。
第6章 数字で舵を取ること
環境運動の歴史が振り返られる。1960年代のレイチェル・カーソンから始まった運動は、当初は文化や世界観への問いかけを含んでいた。しかし1990年代以降、運動は科学と新たな関係を築き、科学的証拠自体が政治の重荷を負うようになった。これは「判断」の煩わしさから逃れようとする近代の反復パターンの一例である。17世紀の科学革命は神を廃位するのではなく、神の業を説明する完全な記述を提供するものとして始まった——これが理神論(デイズム)を生み、宗教戦争の終結を約束した。同様に、新自由主義は「経済計算」によって政治の非神話化を目指した。しかしこれらの試みはすべて、判断の代わりに計算を置くことができないことを示している。気候変動は特に数値化に適しているため、このパターンの典型例となった。第7章ではこの歴史的背景のもとで2018年の気候運動が考察される。
第7章 虚空にぶら下がって
2018年の異常な夏——スウェーデンでは記録的な干ばつと山火事——を背景に、グレタ・トゥーンバーグの学校ストライキとエクスティンクション・レベリオンが登場する。これらの運動は従来の環境運動とは異なり、恐怖や絶望を率直に語り、オプティミズムを強要しなかった。しかし著者は二つの懸念を抱く。第一に、「非常事態」の宣言が民主主義プロセスの停止を意味する可能性——カール・シュミットの「例外状態」論を想起させる。第二に、これらの運動が科学への訴えを強め、それによって「科学」の枠組み自体を強化していること。多くの参加者にとって、これは「イニシエーション」に近い体験だったが、それが科学への訴えから生じた点に逆説がある。第8章ではこの逆説が具体的に検討される。
第8章 科学について真実を教えてくれ
ジェム・ベンデルの「ディープ・アダプテーション」論文が分析される。この論文は「近未来の社会崩壊」を予測し、広範な反響を呼んだ。しかし著者は、ベンデルが非専門家として気候科学を「分析」し、IPCCのコンセンサスを超えた主張を行ったことに問題を感じる。三人の若手気候科学者による批判は、ベンデルのチェリーピッキングや誤った因果関係の主張を暴いた。しかし著者は、この批判が気候運動の根底にある問題——科学では捉えきれない何かが欠けているという直感——を見落としていると指摘する。問題は「代替的事実」を探すことではなく、「真実が事実を超える」ことを認めることにある。気候科学者はパブで本音を語るが、査読論文では語れない——これは科学の限界であり、勇気の問題ではない。第9章では科学者自身がこの限界にどう直面しているかが描かれる。
第9章 ポチョムキン村人
気候科学者との協働プロジェクトを通じて、科学者たちがどのように気候変動の現実に直面しているかが描かれる。科学者たちは当初は純粋な知的関心から研究を始めるが、次第にその研究の含意が存在的に恐ろしいものであることに気づく。しかし科学の訓練や文化には、この認識に対処するための枠組みがない。カリ・ノルガードの「ビグダビー」研究は、人々が気候変動の事実を知っていても「知り方を知らない」ために否認に陥ることを示す。著者は「知識(knowledge)」と「知ること(knowing)」を区別する——知識は腕を伸ばしたところにある事実だが、知ることはそれが内面化され、変容をもたらす体験である。気候科学者はIPCCプロセスを通じて、科学的証拠が政治的决定にほとんど影響を与えないことを発見し、幻滅する。著者はこれを「ポチョムキン村人」の比喩で表現する——科学の権威は表向きの façade に過ぎず、現実の権力構造は科学を無視する。第10章でこの批判の意図が明確化される。
第10章 私が言っていないこと
著者は「科学の限界」を語ることがしばしば科学への攻撃と誤解されることを認める。彼の主張は科学を貶めることではなく、むしろ科学の友人であり続けることの意味を問うものである。気候変動のような問題について「真実」は「事実」を超える——この認識が欠けているため、気候運動は代替的事実の収集に走るか、科学の枠内に閉じ込められるかの二者択一を強いられる。著者は「友人の役割」の比喩を用いる——薬物で錯乱し飛び降りようとしている友人に「Go for it!」と言うのではなく、「ここに座って話そう」と言うのが真の友人である。同様に、科学に対してもその限界や盲点について語る場を作ることが友情である。科学に気候変動のような問題の「すべて」を担わせることは求めすぎであり、科学は判断の補助にはなれても、判断そのものを代替できない。第三部ではパンデミックがこの問題をどう変えたかが語られる。
第三部 すべてが変わったとき
第11章 科学の背後
2020年10月のエーレスンド橋での国境越えの経験が描かれる——デンマークではマスク着用義務があり、スウェーデンにはなかった。著者は「科学に従う」というレトリックが、実際には政治的判断を隠蔽する手段であることを指摘する。科学は何をすべきかを教えず、判断のための情報を提供するだけである。判断を行うことは結果に対して責任を取ることであり、この責任は「科学に従う」という言葉の背後に隠される。スウェーデンの対応は特異だったが、それも「科学に従う」と主張していた。著者はスウェーデンに住む外国人として、英国や米国の友人たちが共有する恐怖とスウェーデンの現実のギャップに苦しんだ経験を語る。科学の「腕を伸ばした」視点——観察者を対象から切り離す——は、脆弱性からの幻想を生み出し、パンデミックのような状況で人々を「科学」にすがりつかせる。第12章ではこの認識論的変化の影響がさらに深掘りされる。
第12章 どのように考えるか
ペル・ヨハンソンとデイヴィッド・ケイリー——両者とも科学の歴史と哲学を深く研究してきた公的知識人——が、パンデミック対応に疑問を呈したために非難された事例が紹介される。ケイリーは「ロックダウン」という概念が短期間で当然視されるようになった経緯、ハンナ・アーレントの言う「分裂した心」——思考と判断の条件——を維持することの困難さを論じた。ジャスティン・E・H・スミスは、知識人が「科学の代弁者」として情報伝達係に成り下がり、本来問うべき役割を放棄したと批判する。これはアーティストが気候変動の「メッセージ伝達」に利用されるパターンと同一である。著者はアートの役割は「物事を複雑にすること」であり、メッセージ伝達ではないと主張する。パンデミックは「科学についてどう考えるか」という問いに「考えるな!」という答えを強制する新たなレジームを確立した。第13章ではこのレジームの思想的含意が探られる。
第13章 何を信じるか
気候変動を扱う優れた小説が稀である理由が考察される——アミタフ・ゴーシュの『大いなる乱れ』は、近代小説が「確率」と「人間中心のリアリズム」に縛られ、気候変動のような非人間的スケールの出来事を扱うのに不適切だと論じる。著者はリディア・ミレットの『子供たちの聖書』を例に、「科学を信じなければならない」という言説の奇妙さを指摘する——科学は信条の対象ではない。2017年のストックホルムでの討論会で、ある教授が世界を「科学・理性・技術・進歩を信じる人々」と「恐怖・脅威を見る人々」に二分した。著者はこれがT.S.エリオットの「感性の分離」——思考と感情の断絶——を反映していると見る。「科学への信仰」が政治的な信仰体系と化し、民主主義の規範を停止させる根拠となる危険性が警告される。第14章ではこの「科学信仰」が気候変動政治にどう現れているかが示される。
第14章 大人たちの登場
ジョー・バイデンの当選とビル・ゲイツの『気候危機の本当の解決策』が象徴する転換——「大人たち」が気候変動問題を引き継いだ——が分析される。ゲイツの本はエコモダニズムのマニフェストであり、現代生活の継続を前提に、未発明の技術に依存する「解決策」を列挙する。クリス・スメイジはこれを批判し、エコモダニズムが「取り残された人々」に近代性の贈り物を拡張するという物語が、実際には植民地主義的暴力の継続であると論じる。ヤニス・バルファキスの『大人たちの部屋』は、IMFやドイツ財務省の「大人たち」が無知と絶望に満ちていることを暴露する——彼らは状況を制御しているように見えて、実際には有効な手がかりを持たない。気候変動は今やダボス会議の中心テーマとなり、その対応は「大人たち」の世界観——魚槽としての世界管理——に枠付けられる。第15章ではこの「大人たち」の対応の限界が問われる。
第15章 否認の濃淡
気候変動を「真剣に受け止める」と言いながら排出量を減らせない政治体制の矛盾が露わになる。グレタ・トゥーンバーグはマクロン大統領との会談で「フランスは経済成長のために排出量を減らせない」と言われた。ジェイソン・ヒッケルとギオルゴス・カリスは「グリーン成長」の可能性を実証的に検証し、それが統計的幻想であることを示す——脱成長が政治的タブーであるため、グリーン成長は真実でなければならないという逆説が生じている。著者はブリュッセルでの講演で「持続可能性は終わった——課題は成長経済の降伏を交渉することだ」と述べた。パンデミックはGDPの急落をもたらしたが、これは脱成長活動家の主張する「意図的で民主的な」移行とは異なる。それでも著者は、パンデミックがコミュニティベースの供給の可能性を示したと見る。しかし「大人たち」は依然として「できる、なぜならやらねばならない」という空虚なレトリックに逃げる。第四部ではパンデミックそのものの分析へと移行する。
第四部 何が起こったのか
第16章 治療法に適合する病気
ヒュー・ブロディのダンネザ族の老人トーマス・ハンターの話が導入される——彼は病院を離れ、家族のキャンプで静かに死を迎えた。著者はこれとパンデミック中の独死を対比し、現代社会の「死恐怖症」がパンデミック対応を歪めたと論じる。調査によれば、人々はCovid-19の若年層リスクを著しく過大評価していた——実際の若年層死亡者数は全死亡の0.1%だが、平均的なアメリカ人は8%と信じていた。これは「治療法に適合する病気」を想像した結果である——極端な措置を正当化するために、ウイルスを実際より危険に認識する。一方で、この認知的不協和を解決する別の方法として「パンデミック全体が嘘」という陰謀論が生まれた。著者は両方の立場に同情を示しつつ、見過ごされている要素——社会の構造的脆弱性——に注目するよう促す。第17章ではこの構造的問題の歴史が掘り下げられる。
第17章 近代的な死に方
バーニー・グレイザーとアンセルム・シュトラウスの1960年代の研究——アメリカの病院での死をめぐる会話——が紹介される。移民コミュニティは病院から家に連れ帰って死なせようとし、近代化された人々は病院を死の場所としていた。フィリップ・アリエスは、近代以前は死が「生活の一部」として認識され、医者は「死の徴候」を見れば引き下がるよう訓練されていたと指摘する。しかし近代化は在宅ケアの能力を破壊した。イヴァン・イリイチは1970年代に、病院が健康への脅威となる「対生産性」を論じた——医療への依存が高まるほど、システムは脆弱になる。この構造的脆弱性がパンデミックを危機に拡大した。少しの患者増加でシステムが崩壊する——だから比較的軽いウイルスに対して極端な措置が取られた。第18章では死亡統計そのものの認識論的問題が検討される。
第18章 砂の上の足跡
死者の計数と統計の歴史が考察される——17世紀のロンドンの「死亡表」から始まる「政治算術」は、近代経済学の前身であり、同時に世界を規則正しいものとして見る「漸進主義」の世界観を強化した。アミタフ・ゴーシュは「確率」が小説の形式そのものを形成し、異常な出来事を扱う能力を奪ったと論じる。パンデミックでは死亡統計が公共意識に前例なく押し付けられた。著者は、統計が現実の「より深い真実」を明らかにするという前提を批判する——統計は砂浜の足跡であり、足跡はその日のほとんどのことを語らない。統計的リスク情報が妊婦に意味をなさないというシルヤ・サマースキの研究を引用し、「私たちの人生は統計的に有意ではない」と主張する。統計は腕を伸ばした視点であり、個別具体的な人生の経験を捉えられない。第19章ではこの認識がパンデミックの社会的意味へと導く。
第19章 社会が病むとき
友人の言葉「病気は個人が病むこと、パンデミックは社会が病むこと」が導入される。1950年代のインフルエンザ・パンデミックとCovid-19の対応の違いは、社会の構造的変化による。アンソニー・バーネットは「経済的・社会的・政治的革命」が起きたと論じるが、著者はそれを「死ぬための手段の希少性」と捉える。在宅看取りの能力が失われ、死は病院という「ボトルネック」を通過せねばならなくなった。どんな患者数の変動もシステムを過負荷にする——これがロックダウンを駆動した恐怖である。左派は医療への投資増を主張するが、これは窮状の本質を捉えていない——専門家に依存するシステムは、異常な増加に対応する能力を決して持てない。マーティン・リースは「14世紀の村は人口半減でも機能したが、現代社会は死亡率1%未満で崩壊する」と指摘する。著者はイヌイットの詩人タクラリク・パートリッジの問いを引用する——「パンデミックはより大きく長い危機の警告なのか?」最終部へと続く。
第五部 私たちがいる場所
第20章 水槽
ストックホルム会議50周年に向けた新宣言が「地球システムのガバナンス」を訴えることに、著者は「魚槽」のイメージを連想する。ポール・キングスノースの金魚の話——小さな魚を生かすために必要な複雑なメンテナンス——は、自然の川や湖が無償で行うことを模倣しようとする試みの滑稽さを示す。ムニール・ファシェは「イスラエルの鶏」と「パレスチナの在来鶏」の対比を語る——近代的な鶏は特別な餌・温度・注射なしでは生きられず、在来鶏は何世紀もの適応で環境に適合している。ガストボ・エステヴァとマドゥ・スリ・プラカシュの「草の根ポストモダニズム」は、近代化プロジェクトの受け手側からの批判を提供する。アミタフ・ゴーシュは、貧しい国の人々の「回復力」が危機時に富国より有利に働く可能性を指摘する。著者は「地球は魚槽ではない」と断言し、世界を魚槽にするプロジェクトが現代性のデフォルトの未来であると警告する。第21章ではこの認識がもたらす分断が考察される。
第21章 二つの道が分かれた
パーマカルチャー運動内部の分裂——Covid対応を気候非常事態のメタファーと見る派と、技術産業システムへの依存を深めるものと見る派——が紹介される。レベッカ・ベルントはICU看護師としての経験から、危機への三つの反応を描く——過覚醒(hypervigilance)、否認・回避、そして「関与した降伏(engaged surrender)」。著者はワクチン接種の決定を後悔していないが、ワクチン接種していない友人への憎悪と「ワクチンで全てが終わる」という約束の繰り返しに幻滅する。彼はここに「二つの道」——大きな道(魚槽の世界)と小さな道(分岐する道)——の分岐を見る。大きな道は「持続可能性」「正義」「コモンズ」といった古い言葉を吸収し、それらを新しい方向へ導く。小さな道を選ぶことは、馴染みの会話から離れ、コミットメントを手放すことを意味する。第22章ではこの選択が従来の政治の左右軸とどう関係するかが問われる。
第22章 左折禁止
ウプサラでの講演で若いオーストラリア人が「左派がずっと言ってきたことじゃないか?」と問いかける。著者は「システムチェンジ、気候変動じゃない」というスローガンが、近代性の枠組みを超えていないと応答する——近代性は左右の軸そのものの枠組みである。アーロン・バスターニの『完全自動化されたラグジュアリー・コミュニズム』は左派による技術ユートピアだが、未発明技術に依存し、16プシュケー小惑星の採掘を提案するなど、現実離れしている。ジョン・バーガー、ジェレミー・シーブルック、トレヴァー・ブラックウェルは、左派が近代産業社会の枠組み内に留まり、真の代替案を追究しなかったと論じる。ブルーノ・ラトゥールは「グローバル」も「ローカル」も着陸不能になりつつあり、「地球に着地する」ことだけが残された方向だと示す。著者はカール・ポランニーの「二重運動」——上からの計画された市場創造と、下からの自発的な対抗運動——を想起し、二つの道が同時並行して進む可能性を示唆する。第23章では具体的に「諦める」ことの意味が問われる。
第23章 諦め方
ガストボ・エステヴァの人生の三つの転回——IBMを去り、ゲリラ組織を去り、政府のポストを辞退した——が紹介される。各転回で彼は「次に何をすべきか」を知らなくても、耐え難い構造を手放すことを選んだ。著者は「諦めること」が必ずしも失敗ではなく、世界を別の見方で見るための前提条件になりうると論じる。ジョン・バーガーは「暗黒時代には幹線道路はなく、発見され歩かれるべき小道だけがある」と言う。ヴァネッサ・マシャド・デ・オリベイラは「近代性のホスピシング」——殺すのでも救うのでもなく、良い死を看取る営み——を提唱する。「投資解除(disinvestment)」と「投資撤退(divestment)」の区別——前者は近代性の約束に投資せず、その問題に留まり責任を負うこと。ETCグループの報告によれば、世界の食料の70%は「農民的フードウェブ」から来ており、産業チェーンは30%しか供給していないが、農業資源の75%以上を使用している。クリス・スメイジの『小さな農場の未来』は、英国のような国でも小規模農業が自給可能であることを示す。著者はベントレー都市農場のような草の根プロジェクトに希望を見出す。第24章では科学との関係が最終的に問われる。
第24章 十分に知ること
デイヴィッド・エイブラムとの対話から「世界の終わりは世界を知る方法の終わりでもある」という洞察が再確認される。ポール・キングスノースは科学を「方法を装ったイデオロギー」と断じるが、著者はこれに同意しつつも、科学の「贈り物」を完全に放棄することはできないと考える。より謙虚な科学との関係——魚槽プロジェクトに貢献せず、限界を認め、他の知の様式と対等に協働する科学——が模索される。三つのストーリーが提示される——キャロライン・ロスの「石油を使わないアート」実験(科学と工芸の境界を越える営み)、サーミ族が古くから知っていた「聞こえるオーロラ」が2012年に科学で「確認」されるまでの過程(先住民知に対する科学の傲慢)、そしてサジャイ・サミュエルの「常識(common sense)」と「十分に知ること」の概念——科学は測定できる問いには答えられるが、「多すぎる」「少なすぎる」という合理的な問いには答えられない。これらのストーリーは、科学の友であり続けることの意味を問い直す。
エピローグ どこから始めるか
著者は「存在論的脅威」の曖昧さ——人類の存続への脅威と、特定の生き方への脅威——を指摘する。気候変動が「問題」から「窮状」へと移行したとき、人々は「暗い確信」——どうせ人類は滅びる——に陥るが、これもまた手放すべき最後の拠り所である。著者は代わりに「神秘への降伏」を提案する。ヴァネッサは「人類が新しい現実を創造する」という規範的欲望が、不能感と諦めを生むと指摘する——この欲望は「私たちのような人々」が主人公であるという前提に基づく。著者は四つの営みを提案する——①救える善を救出する、②救えない善を悼む、③手放すべきものを見極める、④落ちた糸(絶滅・陳腐化したと言われながら生き残っている技能・実践)を探す。最後に、タイソン・ユンカポルタから伝わった「千年前の物語」——私たちは古い森が戻るまでの千年の過程の始まりに立っている——が紹介される。この物語は、私たち自身の生涯を超えた物語の中に位置づけ、暗い確信から解放する。
想定読者・前提知識・読みどころ
- 想定読者:気候変動やパンデミックに対する主流の言説に違和感を覚えている読者。科学と政治の関係に関心を持つ知識人・活動家。環境問題の「解決策」に懐疑的で、より深い文化的・認識論的変革を模索する人々。
- 前提知識:気候変動の基礎的な科学知識は前提とされていないが、IPCCやCOPのような国際的枠組みについての基本的理解があると読みやすい。環境運動の歴史(特に1970年代以降)についての予備知識があるとなお良い。
- 分量・難易度:約300ページ。学術的な用語も登場するが、著者は個人の体験と物語を軸に論を展開するため、専門知識がなくても読み通せる。ただし、近代性・科学哲学・認識論といったテーマを扱うため、抽象的な議論についていく集中力は求められる。
- 読みどころ:本書の核心は第二部〜第四部にあり、特に第4章(死と問題/窮状の区別)、第5章(上流の問い)、第12章(思考の封殺)、第16〜19章(パンデミックの構造的分析)が議論の柱となる。最終部は実践的な方向性を示すが、具体的な「解決策」ではなく「心構え」に焦点がある。関心に応じて、第二部から読むと著者の問題意識が明確に把握できる。
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