
英語タイトル:『After Virtue:A Study in Moral Theory』Alasdair MacIntyre 2007
日本語タイトル:『美徳なき時代:道徳理論の研究』アラスデア・マッキンタイア 2007
目次
- プロローグ:四半世紀後の『徳以後』 / Prologue:After Virtue after a Quarter of a Century
- 第1章:不安を誘う示唆 / A Disquieting Suggestion
- 第2章:今日の道徳的不一致の性質とエモティヴィズムの主張 / The Nature of Moral Disagreement Today and the Claims of Emotivism
- 第3章:エモティヴィズム:社会的内容と社会的文脈 / Emotivism:Social Content and Social Context
- 第4章:先行文化と啓蒙主義の道徳正当化プロジェクト / The Predecessor Culture and the Enlightenment Project of Justifying Morality
- 第5章:啓蒙主義の道徳正当化プロジェクトが失敗せねばならなかった理由 / Why the Enlightenment Project of Justifying Morality Had to Fail
- 第6章:啓蒙主義プロジェクト失敗の帰結 / Some Consequences of the Failure of the Enlightenment Project
- 第7章:「事実」、説明、専門家 / ‘Fact’, Explanation and Expertise
- 第8章:社会科学における一般化の性格と予測能力の欠如 / The Character of Generalizations in Social Science and their Lack of Predictive Power
- 第9章:ニーチェかアリストテレスか / Nietzsche or Aristotle?
- 第10章:英雄社会における徳 / The Virtues in Heroic Societies
- 第11章:アテナイにおける徳 / The Virtues at Athens
- 第12章:アリストテレスの徳論 / Aristotle’s Account of the Virtues
- 第13章:中世的展開と機会 / Medieval Aspects and Occasions
- 第14章:徳の本性 / The Nature of the Virtues
- 第15章:徳、人間生命の統一性、伝統の概念 / The Virtues, the Unity of a Human Life and the Concept of a Tradition
- 第16章:複数の徳から単数形の徳へ、そして徳以後へ / From the Virtues to Virtue and after Virtue
- 第17章:徳としての正義:変化する概念 / Justice as a Virtue:Changing Conceptions
- 第18章:徳以後:ニーチェかアリストテレスか、トロツキーと聖ベネディクト / After Virtue:Nietzsche or Aristotle, Trotsky and St. Benedict
- 第19章:第二版への追記 / Postscript to the Second Edition
本書の概要
短い解説:
本書は、現代の道徳論争が解決不能な状態にある理由を歴史的・哲学的に分析し、アリストテレス的伝統の再定式化を通じて脱却の道を示す。倫理学・政治哲学・社会学に関心のある読者を対象とする。
著者について:
著者アラスデア・マッキンタイアはスコットランド生まれの哲学者。初期はマルクス主義の立場から出発したが、後にアリストテレス主義を経てトマス主義へ転換した。『A Short History of Ethics』(1966年)など多数の著作があり、現代における徳倫理学の復権の中心的論客である。
テーマ解説:
現代道徳言説の「断片化」状態は、アリストテレス的目的論が棄却された歴史的過程の結果であり、回復にはプラクティス・物語的自我・伝統としての探究という三層構造に基づく徳の再定式化が必要である。
キーワード解説:
- エモティヴィズム:道徳判断を単なる感情・態度の表現とする立場。本書では特定の歴史的状況における道徳言説の使用法を説明する理論として再解釈される。
- プラクティス:内部的善を持つ協働的活動(チェス、建築、農業など)。徳はプラクティス内部の善を達成するために必要な性質として定義される。
- 物語的自我:自己の統一性は生誕から死までの物語として理解されるという概念。個人のアイデンティティは共同体の物語に埋め込まれる。
- プレオネクシア:獲得欲そのものを指すギリシア語。アリストテレスでは悪徳とされたが、資本主義の駆動力となる。
- 伝統としての探究:伝統は固定された教義ではなく、内部での論争と継承を通じて発展する歴史的に拡張された社会的論争体。
3分要約
本書は、現代の道徳論争が「概念的通約不可能性」によって特徴づけられ、合理的に決着不能な状態にあると診断する。正義の人権論者と功利主義者の対立、中絶論争、資源配分問題など、いずれも異なる歴史的起源を持つ前提が衝突しており、それらを比較衡量する基準が欠如している。
この状態を説明するためにマッキンタイアはエモティヴィズム(道徳判断は単なる感情表現)を検討するが、これを意味論ではなく「使用の理論」として再定式化する。エモティヴィズムは、それ自体は普遍的真理ではなく、特別な歴史的条件下で道徳言語が機能する方法を説明する理論である。その条件とは、かつて道徳に統一性を与えていたアリストテレス的目的論が喪失した状況である。
啓蒙主義の哲学者たち(ヒューム、カント、ディドロ、キルケゴール)は、人間本性についての事実から道徳的結論を導出するプロジェクトを試みた。しかし彼らは「現状の人間」「道徳的規範」「実現された人間(テロス)」という三要素からなる古代・中世のスキーマを継承しながら、「テロス」の要素を棄却したため、両端を接続する方法を失っていた。このプロジェクトの必然的な失敗が、現代の道徳的混乱の直接の起源である。
社会科学における「専門知」の主張も同様に擬似的である。社会科学が法則的な一般化を発見できず、予測力も極めて弱いという事実にもかかわらず、マネジャーやセラピストは操作的効果性を主張する。これは実際には「演劇的な模倣」にすぎず、誰も本当には社会を制御できない。現代社会の中心的なキャラクター(富裕な美的享受者、マネジャー、セラピスト)はエモティヴィズム的自我の社会的体現であり、彼らの権威は擬似概念(権利、効用、専門知)に依存している。
真の対抗軸はニーチェかアリストテレスかの二者択一である。ニーチェは啓蒙主義プロジェクトの失敗を正確に診断したが、その解決(意志による価値創造)もまたリベラル個人主義の内部にとどまる。マッキンタイアはアリストテレス的伝統の再定式化を主張する。それは三層構造からなる。第一に、徳は「プラクティス」(チェスや建築や農業など、内部的善を持つ協働的活動)において達成される性質として定義される。第二に、人間生命は生誕から死までの物語として統一され、個人の善はその物語の全体として問われる。第三に、徳の探究は歴史的な伝統の中で行われ、伝統は固定した教義ではなく内部論争を通じて発展する「伝統としての探究」である。
この再定式化はアリストテレスの形而上学的前提に依存せず、対立と衝突を否定しない点でアリストテレス自身を乗り越えている。現代政治はもはや道徳的合意を前提できず、「異なる手段による内戦」である。したがって、本書は中央集権的な国家や官僚機構から距離を取り、徳の伝統が持続可能なローカルな共同体の構築を提唱する。「野蛮人はもはや境界線の外に待機しているのではなく、かなり長い間私たちを統治してきた。私たちはゴドーを待つのではなく、別の聖ベネディクトを待っている。」
各章の要約
プロローグ:四半世紀後の『徳以後』
本書の中心的テーゼは依然として有効だと主張する。現代の道徳文化は、共有された非人格的基準を前提しながら実際にはそれを欠くという矛盾を抱えている。アリストテレス的視点からのみこの状況を理解できるが、アリストテレス主義が現代の論壇で「勝利」するとは主張しない。後年のトマス主義への転換に伴い、形而上学的基础付けの必要性を認識したことを認める。相対主義批判に対しては、異なる伝統間での合理的優越性の判断は可能だと応答する。「別の聖ベネディクトを待つ」という結論は変わっていない。
第1章:不安を誘う示唆
自然科学が大災害で断片化した世界を想像実験として提示する。人々は科学言語を使うが理論的文脈を喪失している。道徳言語は現実にこの状態にあると主張する。この仮説が当初説得力を持たないのは必然であり、もし当初から説得力があれば誤りだからである。分析哲学も現象学もこの混乱を検出できない。必要なのはヘーゲルやコリングウッド型の「哲学史」である。
第2章:今日の道徳的不一致の性質とエモティヴィズムの主張
現代道徳論争の三特徴を挙げる。第一に概念的通約不可能性(異なる前提の間で合理的に決定できない)、第二に非人格的基準への擬制(客観性を装う)、第三に多様な歴史的起源である。エモティヴィズムは道徳判断を感情表現とするが、意味論としては失敗し、使用と意味の乖離に関する理論として再定式化すべきである。G.E.ムーアの『Principia Ethica』(1903年)の影響下で、ブルームズベリー・グループは個人的嗜好を客観性の仮面で隠した。
第3章:エモティヴィズム:社会的内容と社会的文脈
すべての道徳哲学は社会学を前提する。エモティヴィズムが真なら操作的関係と非操作的関係の区別は消滅する。エモティヴィズムの社会的体現として三つの「キャラクター」を特定する。富裕な美的享受者(ディドロのラモーの甥、キルケゴールの「A」)、マネジャー(手段から目的への効率的達成を専門とし価値中立的態度を装う)、セラピスト(人格領域で同様の操作的関係を体現)である。
第4章:先行文化と啓蒙主義の道徳正当化プロジェクト
現代の道徳問題の根源は18世紀のプロジェクトの失敗にある。「moral」という語の歴史を辿ると、現代的な意味での「道徳」は17-18世紀に成立した。キルケゴールの『Enten-Eller』(1842年)は啓蒙主義プロジェクトの墓碑であり、審美的生き方と倫理的生き方の間の選択には合理的根拠が与えられないと論じる。しかしキルケゴールには内在的矛盾がある。倫理に権威を認めるなら、なぜその倫理が選択に先立って権威を持ちえないのか。
第5章:啓蒙主義の道徳正当化プロジェクトが失敗せねばならなかった理由
啓蒙主義プロジェクト失敗の原因は、三要素スキーマ(「現状の人間」「道徳的規範」「実現された人間(テロス)」)を継承しながら「テロス」の要素を棄却したことにある。道徳判断はかつて機能的概念(「良い時計」と同じ構造)であったが、この機能性喪失後、「事実から当為は導かれない」という原則が登場する。プライアの反例(「彼は船長である」から「船長がすべきことは何でも彼はすべきである」が導ける)はこの原則の誤りを示す。
第6章:啓蒙主義プロジェクト失敗の帰結
功利主義は快楽と苦痛の計算不可能性により失敗する。権利概念も擬似的であり、中世末まで「権利」を表現する語は存在しない。自然権や人権はユニコーンや魔女と同様のフィクションである。プロテスト(抗議)は勝ちも負けもしない構造を持ち、自己正義的な口調を生む。フロイトは超自我の非合理的内面化を暴露したが、これを道徳一般の特徴と誤解した。マネジャーの専門知も擬似的であり、効果性は実体なき仮面である。
第7章:「事実」、説明、専門家
「事実」は近代のフォーク概念であり、経験論的概念(センス・デイタム)は17-18世紀の文化的発明である。アリストテレス的目的論から機械論的説明への移行が「事実」を価値中立的に変質させた。マルクス(フォイエルバッハに関するテーゼ第3)は、操作者が自らの合理性を操作される側には適用しない点で、自らの行為を法則から免除していると見なすことを洞察した。
第8章:社会科学における一般化の性格と予測能力の欠如
社会科学には法則のような一般化が欠如し、予測力も極めて弱い。経済学者はスタグフレーションを予測できず、OECDの予測も素朴な方法に劣る。社会科学の一般化は(1)反例と共存する、(2)普遍量化子も範囲修飾語も持たない、(3)反事実的条件文を導かない。マキャヴェッリの『Fortuna』概念に基づき、四つの系統的予測不可能性の源泉(ラディカルな概念革新、未決定の決定、ゲーム理論的相互反射性、純粋偶然)を論じる。
第9章:ニーチェかアリストテレスか
現代のヴェーバー的世界観はエモティヴィズム的であり、ニーチェとアリストテレスが二つの真正な理論的選択肢である。ニーチェは啓蒙主義プロジェクトの失敗を正確に認識していたが、その解決(Übermensch)もリベラル個人主義の内部にとどまる。ポリネシアの「タブー」概念の事例から示されるように、現代分析哲学の議論は文脈喪失の症状として理解できる。真の問いは「アリストテレスを棄却するのは正しかったのか」である。
第10章:英雄社会における徳
英雄的社会(ホメロス、サガ、アルスター伝説)の特徴は、役割と身分が与件であり、アイデンティティ=行為であり、道徳と社会構造が同一であり、死亡が道徳的な地平線であることだ。英雄的自我は役割から距離を取ることができず、「彼自身が誰であるかを知るとは役割を知ること」を意味する。ニーチェは英雄的過去を神話化し、19世紀的個人主義を過去に投影したと批判する。
第11章:アテナイにおける徳
ソポクレスの『フィロクテテス』では、オデュッセウス(狡猾さ=美徳、ホメロス的世界)とネオプトレモス(異なる名誉概念)の衝突が描かれる。ソフィストの相対主義(「それぞれの都市で、徳はそれが何と見なされているかである」)に対し、プラトンは魂の三区分(知恵・勇気・節制)に基づく徳論を対置する。アリストテレスとの対比では、アリストテレスが対立と衝突を否認する点が批判される。
第12章:アリストテレスの徳論
アリストテレスの徳論は形而上学に基づく生物学的機能概念を前提する。徳の定義は「エウダイモニアを可能にする獲得された性質」であり、規則は周辺的である。実践的理性(プロネーシス)なしには性格の徳は不完全で、「良い人と頭の良い人は分離できない」。しかしアリストテレスには三つの問題がある。(1)形而上学的前提、(2)ポリス消失後の有効性、(3)対立と衝突の否認である。
第13章:中世的展開と機会
中世はアリストテレスの受容が遅く断片的であり、カトリックの一文化的イメージは誤りである。ストア主義は徳を単数形と見なし、善人と悪人を二者択一する。アベラールは徳・悪徳と罪を区別し、真の道徳的領域は内的意志にあるとする。アクィナスは四枢要徳+三神学徳の分類体系を提供するが、「真実の道徳的葛藤は常に以前の誤った行動に由来する」というテーゼはアンティゴネを説明できない。
第14章:徳の本性
徳の核となる概念を三層構造で定義する。第一に「プラクティス」(チェス、建築、農業など内部的善を持つ協働的活動)。内部的善は競争的でなく参加者コミュニティ全体の善であり、外部の善(名声・富・権力)は競争的である。第二に人間生命の物語的統一。第三に伝統としての探究。徳の暫定的定義は「内部善の達成に向けて私たちを動かす獲得された人間の品質」である。「De gustibus est disputandum」—趣味についても論争がある。
第15章:徳、人間生命の統一性、伝統の概念
現代の自己は分析的原子論とゴッフマン的断片化から誤って理解されている。行動の理解には物語的文脈が必要であり、「人が何をしているか」は行為を設定の歴史のなかに位置づけることで解明される。個人のアイデンティティは「私の家族、私の都市、私の部族」の物語から派生する。キルケゴールの「純粋な心は一つのことを意志することである」という言葉が示すように、人生の統一性はクエストの統一性である。
第16章:複数の徳から単数形の徳へ、そして徳以後へ
生産が家計から外へ移動したことで、プレオネクシア(獲得欲)が資本主義の駆動力となった。ヒュームは自然的美徳と人工的美徳(正義)を区別したが、「なぜ正義を守るのか」への応答に失敗した。ジェイン・オースティンは最後の大きな古典的徳の声であり、マンスフィールド・パークや説得における「誠実さ(constancy)」の強調が特徴的である。オースティンは偽物(counterfeit)への強い関心を持ち、誠実さの核心を追究した。
第17章:徳としての正義:変化する概念
現代の正義論争では、「稼いだものは自分に権利がある」(A)と「不平等は貧しい人々の苦しみを緩和する場合にのみ正当化される」(B)が対立する。ロールズとノージックはこの対立を哲学的定式化したが、両者は通約不可能であり、両方とも「デザート(応報)」を排除している点で共通する。合理的合意は不可能であり、政治は「異なる手段による内戦」である。現代国家は伝統的徳の共同体ではない。
第18章:徳以後:ニーチェかアリストテレスか、トロツキーと聖ベネディクト
ニーチェ的「偉大な人物」は孤立しており、コミュニティに参加しないため自分以外に権威を持たない。対照的にアリストテレス的視点は共有された活動への参加を要求する。政治的帰結として、ローカルな共同体を構築し、賢明さと仁愛を維持すべきである。野蛮人はもはや境界線の外に待機しているのではなく、かなり長い間私たちを統治してきた。「私たちはゴドーを待つのではなく、別の聖ベネディクトを待っている。」
第19章:第二版への追記
哲学対歴史の論争に対して、分析哲学のみでは不十分であり歴史的アプローチが必要だと応答する。相対主義問題では、異なる伝統が出会うとき相互に基準を理解し合い、一方の伝統が相手から自らの欠点を学ぶことが可能であると論じる。合理的優越性の判断基準は、一方の伝統が自らの基準で進歩できない問題を解決できない場合、他方の視点からのみその困難が説明できることにある。倫理学と神学の関係について中世の問題を無視した点を認める。
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