同じ話を繰り返す人への対応 3あるいは、それを完全に受け入れる

アルツハイマー病患者 同じ話の繰り返し

三つの選択肢 その3

今ここにある状況が耐え難く、あなたを不幸にしているなら、選択肢は三つあります。

1 自分をその状況から切り離す

2 その状況を変える

3 あるいは、それを完全に受け入れる

それ以外の選択はみな狂っています。

エックハルト・トール

前回のブログ記事

3 あるいは、それを完全に受け入れる

いかにいい仕事をしたかよりも、

どれだけ心を込めたかです。

マザー・テレサ

正直に告白すると、その2で書いた記事があらかた書き終わって、それで記事を終わりにするつもりだったのだが、何かが欠けているような気がして、そのまま何週間も下書きの状態で間寝かしていた記事でもあった。

そんな中、つい最近のことだが、当記事やアルツハイマー病とは関係なく、たまたま個人的興味からマインドフルネスについての本を図書館で借りて、パラパラと読んでいたりしていた。

スタンフォード大学のスティーヴン・マーフィ重松という日系の心理学者が「マインドフルネス」について書いた本で、その本の中に「聴く力」という章が出てくる。

自己批判にもなるが、その章を読んでいるうちに、自分が書いた小手先の技術論が先行してしまって、人との関係の本質というものを見落としているのではないか?と自問するようにもなってきたのだ。

少し長くなるが、その本に書かれてある「アクティブ・リスニング」の紹介も兼ねて、その章のいくつかの文章を抜粋してみたい。

スタンフォード大学 マインドフルネス教室

スティーヴン・マーフィ重松

「stanford university mindfulness」の画像検索結果

聴くという行為はともすれば簡単だと思われがちだが、実際にやってみると難しい。

他の人たちの話を聴かねばならないことはわかっているが、どうすればよいのだろうか。本当の「聴く」とはどういうことなのだろうか。

一般的にほとんどの人は、注意が思考で占められ、実は聴いていない。

相手の話よりも自分の考えに気持ちがいってしまい、言葉の奥底にある相手の存在というような、本当に重要なことにはまったく注意が向けられていない。

良い聴き方とは、話の内容はもちろん、そこにある感情も含めて意味全体を聴くことである。

言葉を持たぬ苦しみが内側に閉じこめられていることは多い。

「stephen murphy-shigematsu」の画像検索結果

他人を気にかけるのは勇気がいる。

話のなかには痛ましくて聞いていられないないようなもの、退屈で長ったらしくてイライラするもの、忍耐と思いやりが必要なものもある。

聴くというのは受動的な行為かもしれないが、同時にそれは、誰もが成長を促されるダイナミックな試みなのである。

話し手につねに耳を傾けることで、相手にこう伝えることができます。

「ひとりの人間として私はあなたに関心があり、あなたの感じていることは重要だと考えています。」

「あなたの考えを尊重しますし、たとえ私には同意しかねるものでも、あなたには妥当なのだとわかっています。」

「あなたにもきっと貢献すべきものがあると思います。」

「私は、あなたを変えよう、評価しようというのではありません。あなたのことを知りたいだけです。」

「あなたの話は聴く価値があると思っており、そして、私はあなたが話しても良いタイプの人間だということを知ってもらいたいと思っています。」

カール・ロジャーズ

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アクティブ・リスニング

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アクティブ・リスニングとは他者が語る話とつながる方法のひとつである。
私(本の著者)が教えているアクティブ・リスニングの基本原則は以下のようなものだ。

1 物語を理解するために聴く

話されている言葉からその伝えられ方にまで注意を向けて、語られる話を理解しようとする。

2 すべての感覚を使って聴く

相手のボディランゲージが表す非言語コミュニケーションにも注目する

3 心で聴く

相手から伝わってくる感情に注意を払う

4 聴いていることを知らせる

自分は聴いているのだと、言葉やそれ以外の方法で話し手に伝える

5 耳にしたことを相手にそのまま帰す

聴いたことを繰り返すことで、相手が心情を明瞭に話すのを助ける

6 もっと話すよう促す

解説やくわしい説明を求めるような質問を投げかけ、興味を持っていることを相手に知らせる

7 価値判断を差し挟まない

価値判断や批判は保留して、話しても安全だという雰囲気をつくる

8 好奇心を抑える

相手がしたい話から逸れてしまうような好奇心や質問は抑えておく

9 思いを共有する

相手の中にポジティブな姿勢、明るい兆候を探し出して、それを分かち合う

アクティブ・リスニングの練習の後で学生たちは、人の話を聴くのは、びっくりするするほどおもしろい、とよく口にする。

本気で聴けば、たとえ平凡で退屈そうな人であっても、あるいは目新しくおもしろい話、ためになる話は何も聴けないと遠ざけてきた人たちであってもおもしろい話を持っているものだ。

さらに驚くべきことに、話を聴こうとするなら、自分とは接点がなさすぎて絶対に距離を縮められないと思っていた相手とさえ、つながることができると気づくのである。

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アクティブ・リスニングができるようになるためには、訓練に加えて、基本的な考え方を変える必要もあるだろう。

これには時間がかかるし、かなりの困難を伴う場合もある。

しかし、効果的なアクティブ・リスニングのためには、相手の話に偽りのない興味を持たなければならない。

うわべだけ興味のあるふりをしてみても、意識する・しないにかかわらず、相手は見抜いてしまう。

そして、あなたの態度に気づいた瞬間から、自由に自分を語ることをやめてしまうだろう。

ーーー抜粋 終わりーーー

読了後

この本を読んだ後、それまでの精神分析的な対処法ではなく、自分は本当に母の心の奥にまで降りていって「聴く」ということを、一度でもしてきたのだろうか?と自問するようになってしまった。

技術論から入ることが、必ずしも間違っているとは思わない。

また、心の不安や葛藤などを聴いてあげることで、心の不安を解消し、繰り返し症状の緩和につながる、というところまでは誰もが理屈でわかると思う。

それに、「普通の人と記憶障害を受けた人とは一緒にはできない。」「脳の病気なのだからしょうがない。」と片付けることもできるだろう。

掲示板を覗くと、多くの方が自分の親を「妖怪」だとか「人間ではない」と書き込んでいる。そして人としての尊厳、他者という存在の根源性は「きれいごとのスローガン」となってしまっている。

そのことについては、少し時間をかけて考えていきたいテーマのため、また別の記事に譲りたい。

アクティブリスニング

この記事では、ひとまずアクティブ・リスニングについて書いてみる。

実際に行ってみて、どうだったか。

アクティブ・リスニングは個人的なリスクもはらんでいる。「ヴァルネラビリティ」(脆弱性)が聞き手に要求されるからだ。

相手の思いを深く感じ取り、その経験が本人にとってもつ意味を理解し、相手の視点から世の中を眺めるときには、自分自身が変えられている危険性がある。

まず、気がついたのは相手ではなく、相手よりも自分の感覚が大きく変わった、ということだ。

抽象的な言い方になってしまうが、母だけでなく、その他の人や事物に対しても程度の差はあれ、世界の事象が自己の内部に流入してくる、そういう感覚がある。

これには自分でも驚いた!

ほんの一瞬でも自分の信じているものを棄てて、他の人の世界観のなかで思考しはじめるのは恐ろしいことだ。

自分を危険にさらしてまで他人を理解しようとするには、かなりの内面的安定と勇気が要求される。

パーソナルな話になってしまうが、自分にはもともと人一倍、人からの影響を受けやすい気質があるため、無意識に外部の情報を遮断して、自分の感情を守ろうとする癖があったりする。

他人を理解しようとする行為は、たしかに、自分にとって危険な行為なのである!

分析的思考は自分の感情を守るツールでもあるのだ!

(こういった感覚について、どれだけの人が理解しうるのかだろうか?)

もちろん、他者への理解を抑制することと、他者の存在を受け入れないということはイコールではないはずだ。

だが実際には、情報遮断の意図が、つまるところは自分の弱さに根を発しており、他者と深くつながることへの恐怖でもあったのだと思う。

おそらく、このことに気づいたということ自体も、自らの感覚を大きく変容させた理由でもあると思う。

(アウェアネスの力だろう)

話し手に心からの興味を抱く姿勢を育むのはけっして容易ではない。

それは相手の視点から世界を眺めるという危険をいとわない時だけ、磨かれ得るものだからだ。

とはいえ、防御リスニングは、長年行ってきた習慣でもあるため、それを解除して母の話を聞くと、妙に動揺している自分に気づいたりもする。

母のたわいのない話を聞いて、心が動揺するなんて!

自分だけ? みんなは一体どうしているんだろう!??

ひょっとすると特殊例になってしまっているのかもしれない。

自分サイドの話ばかりになってしまったが、アクティブ・リスニングを行って、肝心の母には何か変化があっただろうか

実はアクティブ・リスニングをしたからといって、繰り返しそのものがすぐに止まるわけではない。

むしろ会話はこっちから積極的に聞き出そうとするので、より長く続いたりする(汗)

母の直接的な変化を言うなら、長い話が一定時間は続くのだが、途中で「べらべらと私ばかり喋ってごめんね」「愚痴をこぼしているだけなんで、そんな深く聴かないでいいからね」と母から自分の話題を止めるようになったことだろうか。

しかし、これも本当に面白いのだが、私が母の言葉と同時にその表情、口調、語り方すべてに目を向けるようになり、母が本当に心の奥で抱えていることは何なんだろう?と感じるようになってきた。

それらは、フロイトや精神科医が行うような精神分析とは違う、かといって表面的な言葉への共感でもない。

また、発話される言葉が二次的な符号にすぎないものになってしまうため、そこでは、繰り返しということが本質な問題にならなくなってしまう!

それはちょうど「こんにちは!」と気持ちよく声をかけてくれた人の言葉の字面に、何か本質的な意味があるわけではないのに似ているような気がする。

話題によっては、今まで見たことがないほどに、目を輝かせて話しだしたり、亡き母のことを語りながら、涙目になることも何度かあり、なんだかよくわからないのだが、すべてが報われた気持ちにもなった。

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