同じ話を繰り返す人への対応 1自分をその状況から切り離す

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常同行動認知症症状・BPSD

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アルツハイマー病患者 同じ話の繰り返し

三つの選択肢 その1

 

今ここにある状況が耐え難く、あなたを不幸にしているなら、選択肢は三つあります。

1 自分をその状況から切り離す

2 その状況を変える

3 あるいは、それを完全に受け入れる

それ以外の選択はみな狂っています。

エックハルト・トール

 

 

<前回 ブログ記事>

同じ話を繰り返す人への対処法を調べてみた(認知症・アルツハイマー)

の続きになる。

 

エックハルト・トールの選択肢にならって、

「自分をその状況から切り離す」という方法に、結びつけて考えてみたい。

1 自分をその状況から切り離す

なぜ繰り返しを苦痛に感じるのか

人はみな、わかることだけ聞いている

ゲーテ

苦痛に感じる理由

そもそも論を最初に語りたいのだが、なぜ認知症患者の繰り返される話を、苦痛だとわれわれは感じるのだろうか。

一方で、電車に乗って「本日はJR◯◯をご利用頂きまして、ありがとうございます。(以下続く)」と流れるアナウンスを、毎日通勤している人なら何万回と聞いているだろう。

あれが「毎回繰り返されて苦痛でしょうがない」というクレームは不思議と聞こえない。

「車内放送」の画像検索結果

 

また、好きな俳優のセリフだったり、お経のようなものであれば、むしろ好んで繰り返し聞きたいと思う人もいるだろう。

その差は何なんだろうか。後者に関しては単純に選好の問題と片付けることができるかもしれない。

 

だが、車内放送と認知症患者の繰り返しの違いは、さほど明確でもないように思う。

「返事の受け答えをしなければならないから」というのならコンビニの店員はみな苦痛のもとにやっていることになるだろうし、

「語る内容に意味があるから」だとすれば、毎回似たようなことが流れる町内一声放送もクレームだらけになるはずだ。

冷静に見渡せば、われわれの世界はすべて繰り返しの掛け合わせでできている。繰り返さないものは何ひとつない!

認知症患者の繰り返しは、本当にこの繰り返しの世界において特異的な事象なのだろうか?

 

「不気味の谷現象」

ここで、突然だが、ひとつロボット工学の話をしたい。

「不気味の谷現象」という言葉をご存知だろうか。

ロボット工学者が提唱した概念で、ロボットの外観や動作が、人間らしく作られるようになるにつれ、人々はロボットに対して好感をもつようになるが、ある時点から突然強い嫌悪感に変わる、

そして、ロボットが人間と見分けがつかないほどになってくると再び強い好感を感じだすようになるという現象である。

uncanny1

blog.livedoor.jp/k_yon/archives/52533743.html

 

「認知症の谷」

アルハカは、この不気味の谷の曲線が、認知症患者において逆向きに進んでいるのではないかと思うのだ。

つまり上のグラフで言うと、時系列としては右から左へ進んでいるということになる。

 

とりあえず、ここでは勝手に「認知症の谷」と呼ばせてもらうが、この谷がいきなり現れるというよりも、

不快感 → 違和感 → 奇妙さ と変遷していくのかもしれない。 そしてすべての脳機能が衰えだす末期には、(感情的な辛さではなく)「奇妙さ」という感覚は収まっていくのではないかと思っている。

※もちろん認知症患者によって進行過程は様々であるため、すべての患者さんがそのような経過をとると言う気はない。

 

特に認知症患者の場合、脳の全体の機能が衰えていくのではなく、特異的に神経細胞が喪失し、特定の機能が衰えていく。

そのため、非人間的な特徴が目立ち、介護する側の不快だったり、異質的な感情が生じやすいのではないかと想像している。

すべての脳機能が均等に衰えるのであればそこまで「奇妙さ」が際立つこともないだろう。

特に、家族は慣れ親しんだ、パートナーや親としての面影を引きずるためにこの「認知症の谷」が強烈に生じやすいのではなかろうか。

「uncanny valley alzheimer」の画像検索結果

 

「不気味の谷現象」の起源

さて、「認知症の谷」があると勝手に前提した上でだが、どうやってこの「認知症の谷」を乗り越えるべきだろうか。

波が逆向きのため、言葉通り乗り越えようとするのは、認知症症状の進行をうながしてしまうこと意味するため、それは採用できない(汗)

 

ロボット工学における「不気味の谷現象」から、何か学べるものはないだろうか。

英語版Wikipedia「不気味の谷」によると、われわれが「人間とはこういうものだ」という潜在意識の期待値があり、その期待が満たされない時の「予測誤差」が生み出しているとされている。

 

「uncanny valley monkey」の画像検索結果

この不気味の谷現象は、サルにも存在するという研究もある。

www.pnas.org/content/106/43/18362.full.pdf

上記サイトでは、不気味の谷は仲間の認知システムでもあり、病気の人かどうかの判断だったり、パートナーが困窮しているかどうかを見分けるために進化適応した可能性を示唆している。

そうだとすれば、我々が認知症患者に対して感じる違和感だったり、奇妙さというものを、恣意的に変えるというのは難しいのかもしれない。

 

一方で、この期待値は、世代によって違うという批判だったり、

io9.gizmodo.com/is-the-uncanny-valley-a-myth-1239355550

奇妙さにも多くの多様性があり、文化的に共有された心理学的構築物だといった立場からの批判もある。

en.wikipedia.org/wiki/Uncanny_valley#cite_ref-Saygin2011_53-1

 

「認知症の谷」に不快さだったり、奇妙さというものがあるとすれば、それはどちらの側に属するのだろうか。

われわれの仲間認知システムに深く根を下ろした生物学的なものなのか、それとも文化が作り出した心理的構築物にすぎないのか?

 

おそらく、「不気味さの谷」について言うなら、それは生理的なレベルで存在するが、それが何であるかは、文化だとか世代によって大きく左右されるというのが、研究から考えられる穏当な答えではなかろうか。

そしてその答えからの類比が「認知症の谷」にも許されるなら、われわれが「奇妙と感じる感情そのもの」を無くすことはできないにしても、認知症患者へ感じる「異質性」については、感情レベルで変えていくことは可能だとは言えないだろうか。

 

隠される「認知症の谷」

テレビや、小説や書籍にしてもそうだが、認知症患者を取り上げるときは、「認知症の谷」の底に位置するような不快事象、「奇妙さ」「違和感」は取り上げてはいない。

ただ、末期患者が奇声をあげたりする場面を取りあげるわけでもないので、特に「認知症の谷」だけを取り上げていないとは言えないかもしれない。

※これはひょっとすると、「認知症の谷」が介護者と、世間一般で大きく違うということが考えられるかもしれない。

「uncanny valley attenuate」の画像検索結果

 

テレビ局は世間の空気を察して自主規制しているようなところもあるので、メディアが悪いとか言うつもりもないのだが、多種多様な価値観の受容を叫ばれながら、「違和感」を「当たり前さ」に変えていこうとする気概は、ないんだなあと思ったりすることもある。

個人的には、メデイア側に責任があるというよりは、自分たちの漠然と持っている正常とみなされる期待値に余幅を持たせていくことが重要なことだと思っている。

異質なものへの眼差し

言い換えれば、われわれが普段、認知症患者へ向ける「眼差し」から、異質性の構築はすでに始まっており、つまるところ、社会の偏見とはその「眼差し」の蓄積だ、とも言えはしないだろうか。

 

わかりやすく言うと、認知症患者のおかしな挙動を見た時の、あの「うわっ」という感覚、しかし表向きは何でもないかのように振る舞う。 そして、それを何度もひたすらずっと繰り返してきている。

観察者の、「うわっ」と思う心の動きと、「いや、それはいけないことだ」というモラル的な感情の、「二重性」によって、堅固な心理的構築物になってしまっていることに気づいていない!

 

われわれは感情を隠そうとすると、それが潜在意識の中ではかえって本当のことのように感じだす、ということにもっと敏感になるべきだと思っている。

※今から見ると滑稽に見えるフロイトの性欲理論は、あの時代、性欲求が抑圧されて隠そうとしたことの裏返しだったとも言われている。

 

話は広がるけど、あらゆる差別や偏見も、ここを直視しないと、表面的にいくら差別は間違っていると言ったところで、根本的な解決はつかない。

それどころか、むしろ表面的な反差別を唱えようとすればするほど、差別や偏見の真実性が高まってしまうのである!

※これは本人の潜在意識にとってもだが、表面的な言葉だと見なし、それらを偽善のように感じてしまう差別主義者にとってもだ!

対立軸が固定化してしまった時点で、反差別運動は負けてしまっている!

 

大事なのは、繰り返しだけではなく、妙な会話の間だったり、空気のズレだったり、わけのわからないことを言うとか、そういうものを「認めよう」とか「守っていこう」と主張するのではなく心から愛していくものなのだ。

これが本当の意味で差別に立ち向かうことのできる、唯一の方法だと思っている。

 

多分難しいのは、それらにも限界があって、暴力を振るうとか、物盗られ妄想だったり、われわれの期待値を大きく超えてしまったケースが存在し、そこへシームレスにつながっている人たちもいるということだろう。

そのため、それらが一緒くたにされてしまいがちだが、よく考えてみると、このまとめてしまう思考形態にもおかしな点もある。

例えば、ほどよく筋肉のついた逆三角形の体がカッコイイと思うからといって、筋肉ムキムキの体はもっとカッコイイと思うべきだろうか、そうはならないだろう。(ボディビルダーの方ごめんなさい)

違和感を愛する気持ちがあるからといって、その違和感が際限なく(例えば暴力レベルの問題行動など)どこまでも愛さなければならないというのは論理の飛躍である。

 

「uncanny valley change」の画像検索結果

みんなで越えよう「認知症の谷」!

さて、繰り返し症状について、アルハカの結論をまとめると、

(繰り返し症状を大きく超えた話になってしまったが(汗))

われわれの中にある潜在意識としての「不気味の谷」を変えていくべきだと思っているし、これをポジティブものとして見なすこともできると思っている!

 

われわれは、もっと自分の信念や感情の可塑性を信じるべきである!

変えるべき事柄は、自分の「眼差し」であり、自分の「表面的な言葉」である! 外部は二の次!

 

谷がなくなってしまえば、繰り返し症状はもはや特異的な問題ではなくなる。

そうすれば車内放送のアナウンスを我々は現実に切り離しているように、繰り返し症状も切り離して、認知症患者さんと接していくことができやしないだろうか、

と思ったりしてみた。

 

 

 

<続 ブログ記事>

同じ話を繰り返す人への対応 2 その状況を変える

同じ話を繰り返す人への対応 3あるいはそれを完全に受け入れる

 

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